意志と業(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より) |
ある時、釈尊は次のように言った。
「弟子たちよ、さまざまな思想家、またバラモンたちの中でこのような説を採(と)るものがいる。
『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は前世に作ったものであり、どうすることもできない』これらの間違った考えに対して、私は違う意見を持っているのです。
『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は神の創造によるもので、どうすることもできない』
『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、それは単なる偶然であり、どうすることもできない』
一番目の人々が言うように、殺生(せっしょう)や盗みなどの悪業(あくごう)を行う因を、人が前世にすでに作って、それが固定しているならば、今、殺生や盗みをする人は、その生まれついての業のまま、何の意志も決断もなく殺生などを行ったに過ぎないということになる。前世に行った業は固定していると考える人は、今、『これをしなければならない』、『これはやってはならない』と考える意志の存在を否定することになるのです。また、善をなそうという努力も否定することになるのです。
また、すべてが神によって定められているという説に関しても、すべてが偶然であるという説に関しても、どちらも人の意志や努力を否定することになる。
私が説く『業』とは、今この時の意志であり、努力なのです」
上では
日本で「業」といえば「前世の悪業の報い」などといった意味で使われますが、この『アングッタラ・ニカーヤ』で述べられているところでは、そのようなニュアンスは極めて少ないといえます。と言われているが、『アングッタラ・ニカーヤ』では「私が説く『業』とは、今この時の意志であり、努力なのです」と言い切られているのであるから、「そのようなニュアンスは極めて少ない」というよりは、「そのようなニュアンスは完全に否定されている」と言うべきであろう。