意志と業(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)


 ある時、釈尊は次のように言った。

弟子たちよ、さまざまな思想家、またバラモンたちの中でこのような説を採(と)るものがいる。
『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は前世に作ったものであり、どうすることもできない』
『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は神の創造によるもので、どうすることもできない』
『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、それは単なる偶然であり、どうすることもできない』
 これらの間違った考えに対して、私は違う意見を持っているのです。
 一番目の人々が言うように、殺生(せっしょう)や盗みなどの悪業(あくごう)を行う因を、人が前世にすでに作って、それが固定しているならば、今、殺生や盗みをする人は、その生まれついての業のまま、何の意志も決断もなく殺生などを行ったに過ぎないということになる。前世に行った業は固定していると考える人は、今、『これをしなければならない』、『これはやってはならない』と考える意志の存在を否定することになるのです。また、善をなそうという努力も否定することになるのです。
 また、すべてが神によって定められているという説に関しても、すべてが偶然であるという説に関しても、どちらも人の意志や努力を否定することになる。
 私が説く『』とは、今この時の意志であり、努力なのです

(アングッタラ・ニカーヤ)

◇◆◇

 「業」というのは、インドの古典語のサンスクリットでは「カルマ」、同じくパーリ語では、「カンマ」といいます。現代的に訳せば、「行い」という意味です。
 日本で「業」といえば「前世の悪業の報い」などといった意味で使われますが、この『アングッタラ・ニカーヤ』で述べられているところでは、そのようなニュアンスは極めて少ないといえます。
 前世の業によって、現世のすべてが前もって決定していて変えることができないという説を宿命論とか、決定論とかいいます。
 この釈尊の説に示されているように、もしもすべてがすでに決定して、変えることができないのなら、今生きている人生の中で、「これは悪いことだから、しないでおこう」「これは善(よ)いことだから、やり抜こう」という意志も、それを実行する努力も成り立たなくなります。
 仮に、前世の業をいうにしても、善悪の判断力と、善を行い、悪を行うまいとする意志の力、そして、知恵を持つことができる人間に生まれたこと自体、偉大な善業のたまものであると感謝し、それを発揮させることに釈尊の目指したものがあるのです。

(「智慧の泉─仏典散策─」、『聖教新聞』[2000年7月19日]


〔2000.11.10 引用者註〕

 上では

日本で「業」といえば「前世の悪業の報い」などといった意味で使われますが、この『アングッタラ・ニカーヤ』で述べられているところでは、そのようなニュアンスは極めて少ないといえます。
と言われているが、『アングッタラ・ニカーヤ』では「私が説く『』とは、今この時の意志であり、努力なのです」と言い切られているのであるから、「そのようなニュアンスは極めて少ない」というよりは、「そのようなニュアンスは完全に否定されている」と言うべきであろう。


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