本尊観について(Leo)
今回、中山英子氏の「御本尊に認められた広布誓願の儀式」(『大白蓮華』第624号、
2002年5月、p. 85)についてLibraさんにコメント頂いたので紹介する。
(以下、 黄色部分は原資料、水色部分は
Libraさんのコメント)
5月号の中山英子氏の解説を読みましたが、なかなかいいですね。しかし、気になる点
はありました。
○引用A
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「事の一念三千の当体」とは、南無妙法蓮華経のことです。「仏の生命そのもの」
ということです。
(中山英子「御本尊に認められた広布誓願の儀式」、『大白蓮華』第624号、
2002年5月、p. 85a)
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○引用B
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日蓮大聖人は、その仏の生命を御本尊として顕されました。(中略)ですから御本尊
を「事の一念三千」といい、御本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められて
いるのです。
(同上、p. 85b)
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○引用C
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上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き、つまり釈尊・多宝如来と向かい合っ
ているのです。
(同上、p. 87b)
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○引用D
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勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の
菩薩の一員として合掌しているのです。
(同上、p. 87c)
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Aで言われている「仏の生命そのもの」という表現は、個人的にはまぁいいと思います。
しかし、それは『法華経』という形で具体的に表現されている「ゴータマ・ブッダの根本
思想」という意味でなければならないだろうと思います。
呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html
そういう意味では、Bにおいて「仏の生命そのもの」が直接「南無妙法蓮華経 日蓮」
に結びつけられているのはちょっとどうかと思います。宗祖はたしかに「法華経の精神」
(=「ゴータマ・ブッダの根本思想」)を体現されたわけですが、だからと言って上のよ
うに結びつけてしまうのはあまりにも「日蓮本仏論」的だろうと思います。
法華経の生命を体現しつつある者が、すなわち法華経(姉崎正治)
http://fallibilism.web.fc2.com/105.html
そもそも、すべての曼荼羅において「南無妙法蓮華経 日蓮」となっているわけではあ
りません。
万年救護御本尊の画像
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html
「南無妙法蓮華経 日蓮」となっている場合でも、その「日蓮」は東を向いているので
はないでしょうか(引用C、Dを参照)。
なお、中山氏は「「虚空会の儀式」という立体的な情景」について解説されていますが、
少し分かりにくいようにも思いましたので、拙文「本尊論メモ」に「02.04.25付記」と
して以下の拙文を引用しておきました。
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曼荼羅を三次元的に見れば、宝塔は(我々から見て)東の方位に、西向きに開い
て′嘯チているのではないでしょうか。曼荼羅では、(我々から見て)左が北で、右
が南となっていますから、そのように考えるのが自然だと思います。寛師も宝塔は
「西向き」だと言われていますね。
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故に報恩抄上終に云く「教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北
の上座につかせ給う」等云云。当に知るべし、宝塔既にこれ西向きなり。
(日寛「観心本尊抄文段」、創価学会教学部編『日寛上人文段集』、聖教新聞社、
1980年、p. 478)
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(独歩さんへのメール、[メール送信日時: 02 02 05 (火) 14:33])
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方位を意識して書かれた曼荼羅においては、右下隅に「南方増長天王」が来ていま
すね。例えば、「御本尊集第十三」(『山中喜八著作選集T 日蓮聖人真蹟の世界
上』、雄山閣出版、1992年、p. 133)など。この配置だと、三次元的にスッキリとイ
メージ出来ます。
(同上、[送信日時:02 02 05 (火) 16:54])
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従来、本尊観に関して密教的な説明がなされていた(宇宙生命論的説明)。
(以下はLibraさんの資料の紹介)
大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
http://fallibilism.web.fc2.com/064.html
勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
http://fallibilism.web.fc2.com/063.html
これが密教の本尊観そのものであることについての資料も一つだけ挙げておきます。
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密教の本尊は、大日如来ですが、その大日如来というのは、大宇宙の生命そのもの
なのです。そして、その大日如来という大宇宙の生命が、実はこの私の生命となって
いるというのです。ですから、これは完全にインドの宗教体系としての梵我一如と同
じ考えです。インドの宗教でいえば、梵つまりブラフマンのことを、密教では大日如
来と言い換えただけのことであるといえます。我つまりアートマンというのは、私た
ち一人一人に存在するものです。インドの伝統的な宗教においては、大宇宙の生命で
あるブラフマンが実は私のアートマンとなっているのであって、それは本来いっしょ
のものなのだというのが梵我一如です。この思想が仏教の中へ取り入れられて、密教
の大日如来の教えとなった、簡単に言ってしまえばそういうことなのです。大日如来
という仏教の表現を取りながら、梵我一如というインド古来からの伝統的な宗教観を
内実としている、そういうのがインドの密教なのです。
(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、p. 414)
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ですから、真言密教における実践論というのは、手に印契を結び、口に真言を唱え、
こころを三摩地に住する、これが密教の行なのです。それを三業といわずに三密とい
ったのは、その三つの行いをすることによって、大日如来のはたらきと人間のはたら
きとが、見えないところで、目に見えない力で交流を始める。だから「密」なのです。
仏の側からのはたらきと、その身口意の実践を行っている密教行者とが見えない糸で
次第に結ばれていく。そして仏のはたらきと人間のはたらきとの間には、目に見えな
い力の交流があり、人間が自分一人で行動をし、ものを言い、考えているようでも、
実はそのいずれもが、仏との間を、冥々裏に、暗々裏に往来し、交通している。そう
いうひそかな仏と人間との交流が行われているから密というわけです。
そういたしますと、この実践を行っている密教の行者が身口意による三密を実践し、
大宇宙と一体化してはたらかせることにより、逆に宇宙の本体を動かしていくことが
できるということにもなります。そこまで実践していくわけです。
(同上、p. 420 )
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