大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作) |
名誉会長 だからこそ、大聖人は御本尊を顕されたのです。これ以上の現実はない。具体はないのです。大聖人は、私たち末法の凡夫が、御本尊に妙法を唱えることで、「常住此説法の仏」と一体になれるようにしてくださったのです。
人法一箇の御本尊です。“人”の側面は、久遠元初の自受用報身如来。“法”の側面は、事の一念三千です。だから、戸田先生は、久遠元初の仏のことを「一念三千様」とも言われていた。御本尊を受持し、広宣流布に戦うことによって、私どもの生命に「常住此説法の永遠の仏」が涌現してくるのです。
戸田先生は寿量品の「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」(法華経四九八n)の経文について、「大宇宙即御本尊ということであり、南無妙法蓮華経の生命は、久遠以来、大宇宙とともにあるということです」と言われていた。
そして「御本尊を拝みまいらせて、御本尊の生命をこちらへいただくと、われわれのこの生命それ自体が、南無妙法蓮華経というものなのですから、御本尊のカがわれわれの方にグーッと出るのであります。すると、世の中のことを見ても、大きなあやまりがなくなるのです」と。
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名誉会長 そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。
時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実──無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。
大聖人は「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(御書七五九n)と仰せだ。「はたらかさず」とは、途中からできたのではない、本有ということです。「つくろわず」とは、三十二相八十種好を具足していない、凡夫のありのままということです。
本有常住であり、「もとの儘」です。これを「久遠」という。「久遠」とは「南無妙法蓮華経」のことです。御本尊のことです。だから、御本尊を拝する、その瞬間瞬間が「久遠元初」です。
私どもは、毎日が久遠元初なのです。毎日、久遠元初の清らかな大生命を全身に漲らせていけるのです。毎日が久遠元初という「生命の原点」から新たな出発をしているのです。
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〔01.10.06 引用者付記〕
このような本尊観は完全に「密教」の本尊観である。吉水千鶴子「Pancakrama における三智・三空と prabha(_)svara ─タントラ仏教における空性理解の問題点─」『成田山仏教研究所紀要第11号 仏教思想史論集U』、1988年、小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 411-426、宮坂宥勝『密教思想論』、筑摩書房、1984年、p. 174、水上文義「日本撰述偽託書に見る法華経曼荼羅の構成─蓮華三昧経を中心に─」『印度学仏教学研究』第49巻第1号(2000年12月)、pp. 169-173を参照されたい。
私自身の本尊観については、拙文「本尊論メモ」(http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html)を参照されたい。