創価学会応援隊・会議室2での発言[ 1 ]
No. 19152 に註を加筆したものを、先日、アップしましたのでお知らせします。
対話主義と可謬主義
http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html
はじめまして、惣流さん。
.
> また、折に触れては貴主張を広めております。
.
ありがとうございます。
.
> 何より学会総体の誤りを謝罪、又、御自身の誤りを反省されている指導も御
> 座います。
.
それはすばらしいことですね。具体例を挙げてご教示頂ければ幸いです。
.
> 押し付けに等しい主義主張を繰り返し、互いに認否し合う事が真の対話では
> ないかとも思うのですが、如何でしょうか?
.
「可謬主義」の立場に立ってなされる「相互批判」であれば、「真の対話」
と言ってもいいと思います。
.
> 『「無我」と「非我」は違うか?』、『輪廻説は仏教ではない』等への感想
> も書かせて頂きたいと思っています。
.
いろんなお立場がありうると思います。結論が出るような問題ではないとも
思いますが、惣流さんのご意見も拝聴させて頂ければ幸いです。もっとも、私
の研究は、最近、仏教から批判的合理主義の方にシフトしつつありますので
(いずれまた仏教の方に戻るわけですが)、期待はずれの返答しかできないか
もしれません。その時はご容赦下さい。
こんばんは、惣流さん。ご返事ありがとうございました。
.
> 始めに、ご返答頂いていない項目には賛同されているものと解釈させて頂い
> てよろしいでしょうか?
.
具体的にはどの項目のことでしょうか。
.
> ・現在も学会に所属されているのでしょうか?
.
所属しています。
.
> ・また、大聖人門下との御自覚はお持ちでしょうか?
.
持っています。しかし、宗祖は神ではありませんので、宗祖のお考えの中に
も、<今日の知的水準からすれば、非合理と言わざるをえないような部分>が
ありえるとは思っています。例えば、以下を参照されて下さい。
.
釈尊が「西紀前949年に入滅した」などということはありえない
http://fallibilism.web.fc2.com/z017.html
.
> 凡そ仏教とは、人々を幸福へと導く為の教えであると思います。
> 一切衆生の成仏を目的とする教え、人々の期根に応じて成仏させる教え、現実
> に様々な人々を救済出来る教えこそが、仏教であると思います。
> これ等に欠けるものは、仏教ではないとの認識なのですが、如何でしょうか?
.
「幸福」とは何か、「成仏」とは何か、ということがまさに大問題だろうと
思います。
.
> 反省文とは、、、
.
例えば、『折伏教典』には以下のような記述がありましたが、こういったこ
とは反省されていますでしょうか(あるいは、そもそも、反省する必要はない
ということなのでしょうか)。
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俗にいう日蓮宗を代々やつていると家族に不具者ができたり、頭脳のたり
ない子供が生れたり、はては発狂する者ができたりして、四代法華、五代
法華と誇つている家ほど悲惨な生活をしているのである。
.
(戸田城聖監修・創価学会教学部編纂『折伏教典』、創価学会、1961年
〔校訂三版〕、p. 332)
─────────────────────────────────
.
あと、「自分自身の過去の誤りを一つでも認めたことがある」というだけで
は、可謬主義の立場に立っているということには必ずしもなりません。端的に
言えば、可謬主義というのは、<どのような言明にも誤りである可能性がある>
ということを認める立場です(どのような言明も究極的に正当化されることは
ありえないのです)。
.
ほらふき男爵のトリレンマ─論証は正当化をなしえない─(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/109.html
.
> 以下、『「無我」と「非我」は違うか?』に対する私見です。
.
「無記」については、私は、小川一乗先生の解釈を妥当だと考えています。
.
輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)、引用者註1
http://fallibilism.web.fc2.com/078.html#l_1
.
> 当時『我〔アートマン〕』と認識されていたもの
.
これは、以下のようなもののことを仰られているのでしょうか。
.
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(ア)死後も生残る永遠不変の存在である。
(イ)見えないけれど、それこそが真の自己である。
(ウ)それは宗教的救いの根拠である。
.
(佐倉哲「無我の思想」、
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_1.html)
─────────────────────────────────
.
無我説に対する私の考えについては、例えば、以下を参照して頂ければ幸い
です(関連する資料も引用してあります)。
.
曽我逸郎さんとの対話
http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html
.
Libraさんより 梶山先生のお考えについて(岩井均臣様のご意見に)
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha097.html
少しだけ補足させて頂きます。>惣流さん
.
> 『Everything is ‘ana(_)tman’.(どのようなものも我〔アートマン〕に非ず)』
> と解釈する事は無意味であり、妥当性を欠くものであると思いますが如何でしょうか?
.
すでに、『「無我」と「非我」は違うか?』の〔01.06.27付記〕でも述べ
ておいたように、私は、
.
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すべては「我でない」。すべてが我でないとすれば、それ以外に別な我の
存在を認めようはないから、五蘊〔六処等〕のそれぞれについて繰り返し
繰り返し非我が説かれていることは、そのまま、実は無我が説かれている
ことになる
─────────────────────────────────
.
という桜部健先生の解釈を支持します。桜部先生のこのご主張の典拠について
は以下の資料を参照されて下さい。
.
無我説と非我説(羽矢辰夫)
http://fallibilism.web.fc2.com/089.html
.
この資料の〔01.06.27 引用者註〕でも一部を引用しておきましたが、ここ
でも、『ダンマパダ』第二七九詩を引用しておきます。
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二七九 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな
知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ
人が清らかになる道である。
.
(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』、岩波文庫、
1978年、p. 49)
─────────────────────────────────
こんばんは、惣流さん。
.
> ポパーの言が仏法と相容れないものである
.
私はそのようには思いません。ポパーの思想の核心にあるのは、「不正との闘い」であ
り、「悪の排除」ですから、「仏法と相容れない」ようなものではないと思います。惣流
さんが問題にされているところの「ポパーの言」というのは、彼が「地獄への道は人びと
の善意によって舗装されている」ということをも強く認識しているということのあらわれ
だとは思いますが、「仏法と相容れない」ようなものではないと思います。ポパーの思想
については、例えば、小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(講談社、1997年)を参照さ
れて下さい。ただし、この本には誤った記述がありますので、以下の「訂正」もあわせて
参照されて下さい。
.
小河原誠先生のHP、「訂正」のコーナー
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kogawara/mistake1.htm
.
> 学会員の折伏活動に於ける対話の定義等です。
.
『君は間違っている、学会に入会しなさい』という言い方は実際にはなされないのかも
しれませんが、本音の部分ではそう思って(つまり、「可謬主義」を放棄して)行動して
しまっているのではないか、というのが私の正直な印象です。もしも、それが単なる私の
思い過ごしで、実際にはそんなことはないのであれば、その方が喜ばしいことだと思いま
す。
.
> 因みにLibraさんは、成仏とは如何なる事であるとお考えでしょうか?
.
私は「智慧による自己解放」という感じで捉えています。前回の投稿で引用しておいた
『ダンマパダ』第二七九詩でも、そういう感じがよく表現されていると思います。以下も
参照して頂ければ幸いです。
.
「如来蔵思想批判」の批判的検討(Libra)、2章
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html#chapter2
.
呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html
.
『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/016.html
.
> >例えば、『折伏教典』には以下のような記述がありましたが…
> .
> 私自身、統計を取った訳ではありませんので、何とも言えません。
.
あのような記述は、友岡雅弥さんが批判されているところの「悪しき業報因果論」その
ものだと私は思います。
.
ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/080.html
.
> 可謬主義の方向性とは、正解(或いは正解に至る必要)は無いとの認識に立つという事
> なのでしょうか?
.
可謬主義については、以下を参照して頂ければ幸いです(これは「対話主義と可謬主義」
でもすでに引用しておきました)。
.
ポパーの倫理思想(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/083.html
.
正解に少しでも近づくためにこそ、可謬主義の立場に立っての批判的討論が必要だと私
は考えます。
.
> 私は、私なりの理解にて知恵を絞らせて頂きたいと思います。(後略)
.
残念ですが、私には、惣流さんがこの部分で何を言われたいのかが理解できません。
.
> 『空』論の行き着く所は、如何なるものだと御考えでしょうか?
.
私は「空」も「縁起」も「無我」もほとんど同じことだと捉えています。以下を参照し
て頂ければ幸いです。
.
縁起と空
http://fallibilism.web.fc2.com/z012.html
【惣流さんへ(1/6)】
.
こんばんは、惣流さん。
.
> 『他人を幸福にしようとすることはわれわれの義務ではありえない。』
> 上記ポパーの言は、下記寿量品の思想に反します。
.
そんなことはないと思います。ポパーだって、万人が幸福になることをもち
ろん望んでいるのです。しかしながら、ある人が幸福だと思っていることが、
別の人にとっても同じように幸福だと思われるとは限りません。<他人を幸福
にしようとすることは、実際には、必ずしも他人に幸福をもたらさない>とい
う認識をポパーは持っているということです。惣流さんも「地獄への道は人び
との善意によって舗装されている」という有名な言葉はご存知でしょう。補足
として以下を引用しておきます。
.
─────────────────────────────────
しかし、ポパーの倫理思想をつぶさに見ていくならば、見事なまでの首
尾一貫性が浮かびあがってくる。彼の思想の核心にあるのは、不正との闘
いであり、悪の排除である。彼は、高邁な倫理的価値をかかげて人びとの
結集をはかり、熱狂的運動を引き起こし、善を実現しようなどとは露ほど
も考えていない。むしろ彼は、地獄への道は人びとの善意によって舗装さ
れているという歴史の現実をかたときも忘れない。善を為そうとして悪を
為してしまう現実に対して彼は、善の追求ではなく悪の排除のみをおこな
えという、ある種の人びとには消極的とも思える倫理を説く。そしてこの
立場が、誤りの排除をつうじて真理への接近を目指すポパーの科学哲学と
平行関係にあることを見抜けない人は少ないことであろう。
.
(小河原誠『ポパー─批判的合理主義』、講談社、1997年、p. 323)
─────────────────────────────────
.
─────────────────────────────────
ポパーの念頭にある倫理は、基本的には、より高い価値を鼓吹するもの
ではなく、もろもろの悪に対して直接的な手段で緊急に闘うべきことを教
えるものである。道に病で倒れた人がいるならば、ただちに治療にあたる
よきサマリア人の行動こそが彼の胸中にある倫理であろう。
.
(同上、p. 329)
─────────────────────────────────
.
─────────────────────────────────
さて幸福の追求が私事の領域に属するのだとすれば、公的課題となるの
は避けることのできる苦しみ(suffering)の最小化である。ポパーはこれ
を語るとき、人びとは何が善であるかについては容易に意見の一致をみる
ことはないが、何が悪であるかについては比較的容易に意見の一致をみる
という状況を念頭においている。たしかに、大災害のもとで苦しんでいる
人たちをみれば、まず被害者の苦痛を取りのぞかねばならないという点で
人びとは容易に一致するであろう。
.
(同上、p. 332)
──────────────────────────────────
【惣流さんへ(2/6)】
.
> また、信・行は不要、智慧のみで自己解放が可能とお考えでしょうか?
.
信は慧の因だと思います。ただし、仏教で言われる「信」というのは、まさ
に可謬主義の立場に立って(我見を捨てて)、他者(仏)の言葉に真摯に耳を
傾ける態度のことであって、「考えるのをやめて盲信する」ということではな
いでしょう。ましてや、「自己の理解し得ないものを信ずる」というようなも
のではないと思います。
.
空無我の思想と本性心の思想とが両立し得るとは考え難い(藤田正浩)
http://fallibilism.web.fc2.com/023.html
.
それに、私は、釈尊自身も可謬主義の立場に立っていたと思っています。
.
ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/048.html
.
『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/016.html
.
> 尚、自己とは、仏性と解釈させて頂いてもよろしいでしょうか?
.
すでに挙げておいた資料を参照して頂ければ、私の立場は理解して頂けるは
ずです。私は、正因仏性=空性と捉えています。
.
> 各時代により相応しい表現、且つ正しければ、問題は無いと思います。
.
過去はきちんと総括されるべきだと私は思います。
あと、「学会総体の誤り」については、もう一つ述べておきたいことがあり
ます。それは、<(大乗経典の)『法華経』の評価>ということについてです。
.
ご承知の通り、現在の創価学会においては、<『法華経』の現代的価値>を
否定していません。否定していないどころか、積極的にその価値を認めて、会
員にもその研鑚を勧めています(正しく理解されているかどうかはまた別の問
題ですが)。これは、宗祖のお立場からしても、全く当然のことであると私も
思います。
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法華経に於ては釈迦多宝十方諸仏一処に集りて撰定して云く法をして久住
せしむ如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ、此
の外に今仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す知んぬ
此の仏は涅槃経に出す所の滅後の魔仏なり之を信用す可からず
.
(「守護国家論」、全集、p. 76)
─────────────────────────────────
.
寿量品は末法のために説かれた(池田大作)
http://fallibilism.web.fc2.com/097.html
.
法華経を師匠と御憑み候へ(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html
【惣流さんへ(3/6)】
.
しかし、創価学会は、過去において、以下のように主張していました。
.
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釈尊は法華経において一切の大衆に皆仏道を成就せしめたが、釈尊入滅後
二千年以後の末法の時代になると、「白法隠没」して釈迦仏教はすべて効
力を失つてしまうと説いた。
.
(戸田城聖監修・創価学会教学部編纂『折伏教典』、創価学会、1961年
〔校訂三版〕、p. 159)
─────────────────────────────────
.
─────────────────────────────────
釈迦仏法などを立てるのは去年の暦と同様で役に立たない代物である。こ
れを使用するから生活に破綻を来すのは当然である。
.
(同上、p. 308)
─────────────────────────────────
.
『折伏教典』には「釈尊出世の本懐である法華経でさえも、末法の今日には
まつたく力がな」いというような主張さえ見られます(p. 136)。このような
『折伏教典』の主張は、現在の創価学会の立場とは全く相容れないものでしょ
う。しかしながら、このように主張していた『折伏教典』に対しての<きちん
とした総括>は、いまだになされていないように思います。そのせいもあるの
でしょう、現在でも、「『法華経』は末法無益」などと主張する創価学会員が
少なくありません。これは大問題だと私は思います。
.
創価学会は「生命の変形の被害者」と「釈迦仏の御敵」の集りか?(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z018.html
.
先に指摘した「悪しき業報因果論」の問題も含めて、『折伏教典』において
主張されていた内容については、きちんと総括をして、反省点を明確に押さえ
た上で、反省(必要ならば謝罪も)されるべきであると私は思います。
.
> 友岡氏が批判されているのは、誤った業報因果論の用途であり、業報因果
> 論自体を否定されているのではないと思います。
.
確かに、友岡さんの表現には曖昧なところがあると思います。友岡さんの別
のご発言に対する私のコメントについては以下の資料の〔2000.11.10 引用者
註〕を参照されて下さい。
.
意志と業(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)〔友岡雅弥〕
http://fallibilism.web.fc2.com/015.html
.
> 業報因果論の否定は、釈迦哲学は兎も角も、法華経と大聖人仏法を否定する
> 事です。
.
私には、『法華経』や「大聖人仏法」を<全否定>するつもりなどはありま
せんが、少なくとも、輪廻転生の部分は否定します。大聖人仏法は一生成仏を
説きますから、輪廻転生が否定されたとしても、<全否定>されることはない
でしょう。輪廻転生の否定ということについては、すでに挙げた資料(リンク
を含めて)を参照されて下さい(同じ議論をここで繰り返すだけの時間的な余
裕は今の私にはありません)。おそらく、惣流さんは、私の考えには賛同され
ないでしょうが、後は、読者の方々に判断をお任せしたいと思います。
【惣流さんへ(4/6)】
.
> 学会員であり名誉会長を尊敬する、否、名誉会長の為に身命を捨てる覚悟で
> 入会したと語る友岡氏が、大聖人仏法を、戸田先生の言を否定する事は考え
> られない事です。
.
そのような考えは、ただの権威主義でしかないと思います。
.
─────────────────────────────────
師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道
理によるべきなり
.
(「曾谷殿御返事」、全集、pp. 1055-1056)
─────────────────────────────────
.
> もしLibraさんのご指摘が正しければ、友岡氏は分裂症と言われる事でしょう。
.
しかし、友岡さんは「宇宙生命論は仏教ではない」とお考えだそうです(私
の友人が、友岡さんから直接そのように聞かれました)。
.
> 『釈迦は梵我一如を否定していないのでは』
.
私はそうは思いません。「梵我一如」は釈尊が否定した「アートマン思想」
の典型的な一形態だと思います。この件については、以下に資料を挙げるに留
め、後は読者の方々に判断をお任せしたいと思います。
.
佐倉哲「無我の思想」
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_1.html
.
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
.
仏教の消滅(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/060.html
.
密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/061.html
.
中国仏教の底流─万物一体の思想(伊藤隆寿)
http://fallibilism.web.fc2.com/081.html#bonga
.
仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/082.html
.
> 私は空思想の行き着く先は、絶対的無価値論であると思っています。
.
私はそうは思いません。
.
> 空思想の意義・必要性とは、人があらゆる執着を離れる事であると思います。
.
執着を「離れる」ことではなく、「明かに見る」ということだと私は理解し
ています。
【惣流さんへ(5/6)】
.
> 因みに大聖人は一貫して『空思想』を批判しています。
> 大聖人が『空』を用いる時は、必ず『空・仮・中の三諦』を用いられます。
> 即ち『空仮不二にして中道=妙法』との意であります。
> 決して、空=妙法との意はありません。
.
もちろん、私が言う「空」というのも、「第一義空」=「中道」のことです
(「但空」のことではありません)。すでに挙げた資料を参照して頂ければ、
私がいう「空」の意味は理解して頂けると思いましたが、一応、以下も引用し
ておきます。
.
─────────────────────────────────
およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と
説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすな
わち、中道そのものである。
.
(『根本中論偈』第二十四章第十八偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグ
ルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)
─────────────────────────────────
.
─────────────────────────────────
三諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有
していない(空)けれども、それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名
字を有しており(仮)、しかも空であることと仮であることとが一なる存
在において統一されている(中)がゆえに、即空即仮即中として表示され
うることを明かす教説である。
.
(新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』
〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、p. 268)
─────────────────────────────────
【惣流さんへ(6/6)】
.
> 言論・理論とは、恐らくは戦わせる事により深淵に至ると思うのです。
.
それはポパーも否定していません。そのことは、先の資料をよく読んで頂け
ればお分かり頂けることと思います。
.
> 無知の機軸とは、消極性等の無気力を煽るものではないかと思うのです。
.
そんなことはないと思います。実際、私は自分のことを無知だと思っていま
すが、全く無気力ではありません。ソクラテスもそうでしょう。そもそも、当
のポパーが全く無気力ではありませんでした。
.
> つまり、机上の空論であり価値的根拠に欠けるものであると思いますが如何
> でしょうか?
.
私はポパーの思想が「机上の空論」であるとは思いません。ポパーの思想
(私が紹介したのはそのごく一部でしかありません)をきちんと学ばれた上で、
惣流さん(及び読者の方々)が、そのように判断されるのであれば、残念なが
ら、それは仕方がないことなのでしょう。
.
> 過ぎたる可謬主義とは、人間にとって害になるのではないかと思われるので
> す。
.
前回も申し上げましたが、そもそも、いかなる言明も正当化されえないので
す。それと、「適度な可謬主義」などはありえないと思います。
【惣流さんへ(1/6)】
.
こんばんは、惣流さん。
.
申し訳ありませんが、話がだんだんと堂々めぐりになって来たようなので(
これはおそらく、私の力不足のせいでしょう)、今回のレスを最後にさせて頂
きます。お忙しいところ、お付き合い下さいまして、ありがとうございました。
.
> 法華経とは、相手の価値観、聞く聞かないに関わらず、先ず語る法なのですか
> ら。
.
ポパーも「先ず語る」ことまでを禁止しているわけではないでしょう。
.
> また何より、法華経・大聖人仏法に於ける『謗法論』自体が、可謬主義とは相
> 反する思想ではないでしょうか?
.
少なくとも、釈尊は可謬主義の立場に立っていたと思います。また、宗祖は
経典に権威を認めるという意味では権威主義的でしょう。しかし、理証・現証
ということも言われますので、完全に権威主義的であるというわけでもないと
は思います。
.
─────────────────────────────────
理にまけてありとも其の心ひるがへらずば天寿をもめしとれかし
.
(「妙一女御返事」、全集、p. 1259)
─────────────────────────────────
.
再度申し上げておきますが、可謬主義を放棄したところには「対話」は成立
しないと私は考えます。
.
対話主義と可謬主義(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html
.
> その上で、自己とは『明かに見る自己』との意でしょうか?
.
自己は自己です。
.
> 信→慧によって『明かに見る自己』を解放する事が成仏とのご認識でしょうか?
.
<何かに覆われている「真実の自己」というようなものを自分の中に想定し
て、それを解放しようとする思想>はまさに「アートマン思想」そのものであ
る(従って、成仏とはそのようなものではない)と私は思います。
.
─────────────────────────────────
“スッタ・ニパータ”の“アッタカ・ヴァッガ”に伝えられる限りの釈尊
の「悟り」とは、本来、「悟りなどはない」という形のものであったので
ある。
「悟りなどはない」というと、語弊があるかもしれないが、解脱すべき、
悟るべき「自己」という考えこそ、我執の最たる者ではないだろうか。
「『実在』視された『自己』こそ『我執』の核に他ならない時、どのよ
うな経過で『自己』の『解脱』があったにしても、『解脱』という名の
『我執』の完成になる」という山口博士の指摘は、まことに正鵠を射たも
のといえよう。
.
(友岡雅弥「『法華経』の宗教性」『東洋学術研究』第34巻第2号、
1995年11月、p. 107、
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html)
─────────────────────────────────
.
松本史朗「解脱と涅槃──この非仏教的なるもの──」『縁起と空─如来蔵思
想批判─』(大蔵出版、1989年)も参照されて下さい。
【惣流さんへ(2/6)】
.
> 前回も述べましたように誤りではないので
.
私は誤りだと思います。
.
> 大聖人仏法無くして法華経単体では末法無益との見解です。
.
私は以下のように捉えています。
.
題目論メモ(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html
.
> 各御書に出てくる法華経とは、上記『事の一念三千の三大秘法』であり、法華
> 経文底の妙法に帰命するとの意であり、その妙法を知る人は大聖人以外に居な
> いでしょう。
.
少なくとも、宗祖のお立場からすれば、「三大秘法」は宗祖の発明などでは
なくて、釈尊が残されたものだということになるはずです。従って、「三大秘
法」も「釈迦仏法」ということになります。「種脱相対」「文上/文底」につ
いては、以下を読んで判断されて下さい。
.
Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言、メッセージ: 11884
http://fallibilism.web.fc2.com/Yahoo_03.html#0111060524
.
同上、メッセージ: 11942
http://fallibilism.web.fc2.com/Yahoo_03.html#0111080740
.
> 更には、法華経を知らずとも題目を唱える功徳のみにて成仏出来ると仰せです。
.
それでは<呪文>になってしまうと思います。そもそも、題目というのは、
羅什訳『法華経』が生み出される以前には、この世には無かったものですし、
当然、歴史上の釈尊がそれを知っていたはずもありません。もしも、<題目に
「釈尊の因行果徳」が具足している>と言えるとすれば、それは<題目の意味
が釈尊の精神をよく表現している>ということ以外にはありえないと私は思い
ます。
.
> 『釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・
> 末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと(国府尼御前
> 御書1324)』
.
これは宗祖に限定して言われているのではありません。上の文の直前に引用
されている法師品の文をよく読まれて下さい。この部分で表現されているのは、
以下のような法華経の基本思想でしょう。
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仏の入滅した後の衆生にとっては、仏はすでにこの世にないのであるから、
現実に存在するものは、経典とそれを説く法師である。この二つのものが
仏に代るはたらきをなすのであり、そこにおいてこそ仏の姿を認めねばな
らぬというのが法華経の説かんとするところであろう。法華経の最後の章
の普賢品に、「法華経を受持するものは、釈迦牟尼仏を見、供養するのと
同じである。そしてこのように経を受持する人もまた仏と同じように敬わ
れるのである」(取意)と述べているのは、法華経の結論に当るものであ
ろう。
.
(勝呂信静「法華経の仏陀論」、
渡辺宝陽編『法華仏教の仏陀論と衆生論』(法華経研究X)、
平楽寺書店、1985年、p. 108)
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【惣流さんへ(3/6)】
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つまり、『法華経』は<永遠に生き続ける釈尊>であり、<歴史上の釈尊>
滅後に『法華経』を体現する者は「釈尊と斉等」ということです。
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法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅
を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり
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(「守護国家論」、全集、p. 66)
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釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字
を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし
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(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1122)
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経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申
す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是
を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師
子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾
子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かる
べからず
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(「日妙聖人御書」、全集、p. 1216)
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法華経の生命を体現しつつある者が、すなわち法華経(姉崎正治)
http://fallibilism.web.fc2.com/105.html
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もしかしたら、惣流さんは、「日蓮本仏論」を主張されたいのかもしれませ
んが、そのようなものは後世に創作された邪義です。
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初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html
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本仏と真仏(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z022.html
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> 大聖人仏法は、一生成仏よりも来世成仏重視であると思います。
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私はそうは思いません。
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> 生死の苦を克服した後、初めて一生成仏の意味があると思います。
.
輪廻転生など信じなくても「生死の苦」を克服することは可能でしょう。実
際、釈尊は克服されたと思います。先に提示した資料をよく読んでご判断下さ
い。
【惣流さんへ(4/6)】
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> 法華経から、三世成仏因果を除けば、何が残るのでしょうか?
.
「二乗作仏」と「久遠実成」が残るでしょう。以下を参照されて下さい。
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Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言、メッセージ: 11619
http://fallibilism.web.fc2.com/Yahoo_02.html#0110231331
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同上、メッセージ: 11620
http://fallibilism.web.fc2.com/Yahoo_02.html#0110231332
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> 出生時の差別等は、他宗教と同じく縁(神)に拠るとの御考察でしょうか?
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「縁」を「神」とされる惣流さんのオリジナリティーあふれるご見解には、
どうやら、私のような凡人にはとてもついていけそうにないようです。
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> 催眠学者が称える、実験による実在の前世説を如何に説明されるのでしょう
> か?(後略)
.
その手の話については、すでにいろんな本が出ていると思いますので、是非、
ご自分でお調べになって判断されて下さい(たしか、ポール・エドワーズの
『輪廻体験─神話の検証─』でも触れられていたと記憶しています)。
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> >>『釈迦は梵我一如を否定していないのでは』
> >私はそうは思いません。…この件については、読者の方々に判断を…
> .
> Libraさんとの議論では、楽しみにしていた議題の一つなのですが、、、
.
私はきちんと資料を提供しましたよ。
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日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先
の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち
消えになってゆく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に
同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、
すべてはそのたびごとにイロハから始まる。
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(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
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【惣流さんへ(5/6)】
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> では、空思想から如何なる価値を創造出来るのでしょうか?
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「智慧による自己解放」です(どうやら堂々めぐりのようですね)。そもそ
も、私からすれば、『法華経』を信じていると言われながら、空思想を「仏法
中のブラックホール・癌」などと言われること自体が全く理解できません。
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若し人、この経を説かんには 応に如来の室に入り
如来の衣を著 しかも如来の座に坐して
衆に処して畏るる所なく 広くために分別して説くべし。
大慈悲を室となし 柔和忍辱を衣とし
諸法の空を座となし これに処して、ために法を説け。
若しこの経を説かん時 人ありて悪口をもって罵り
刀・杖・瓦・石を加うとも 仏を念ずるが故に応に忍ぶべし。
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(坂本幸男他訳注『法華経(中)』、岩波文庫、1964年、p. 162)
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[名誉会長] 「如来の室(部屋)」「如来の衣」「如来の座」──香り
高い表現です。
衣座室の三軌は、「如来の心」を象徴的に説いたものです。
「仏は、このような心で法華経を説いているのですよ」「このような心
に立てば、仏のように、難があっても弛まず民衆を救っていけるのですよ」
とアドバイスし、弘教を勧めているのです。
.
(池田大作他『法華経の智慧』第ニ巻、聖教新聞社、1996年、p. 240)
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[遠藤] 第三に「一切法空が如来の座である」とは、どういうことでし
ょうか。
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[名誉会長] 自在の智慧ということです。
すべてはつねに変化している。無常の存在である。空である。そういう
世界の諸法実相を、ありのままに見て、何物にもとらわれない境涯を指し
ているといえるでしょう。
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(同上、p. 249)
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【惣流さんへ(6/6)】
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名誉会長も、「釈尊の悟り」=「縁起」=「空」=「妙法」とされています。
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本来、仏教は、生きとし生けるものを、ひとつの黄金の大生命の個々の現
れと観る。それが釈尊の悟りです。それを「縁起」とも言い、「空」とも
言い、「妙法」とも言うのです。
(池田大作他『法華経の智慧』第三巻、聖教新聞社、1997年、p. 129)
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もっとも、名誉会長は「縁起」を誤解されていると私は思いますが(以下の
資料を参照されたい)。
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原始仏教における生命観(高橋審也)
http://fallibilism.web.fc2.com/059.html
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> 上記概念は既に空思想に矛盾しているのではないでしょうか?(後略)
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先に提示した資料をよく読んでご判断下さい。
【小野さん&読者の方々へ(1/3)】
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本日、小野さんの書き込み(No. 19225)のことを知ることがで
きました(ある友人が教えてくれました)。応答が遅れてしまった
ことを、申し訳なく思います。
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今、Libraはとても忙しく、残念ながら、この場での議論に参加
する余裕がありません。一応のコメントだけは残しておきますが、
あとは読者の方々に主体的に判断して頂ければと思います。
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> 宗教と芸術には、共感を呼び起こすという共通点があるのではな
> いでしょうか?
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Libraは、偉大な宗教の歴史を「本質的に真理探求史の一部である
と見て」いるのかもしれません(ポパーが「偉大な哲学の歴史」を
そのように見ていたように)。もちろん、「美しさ」が、宗教「に
おいても重大な意味をもつことは認め」ます。
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偉大な哲学者たちは、純粋に審美的な目標を追求していたの
ではなかった。彼らは、才気に富んだ体系の構築者になろうと
したのでもなかった。彼らはむしろ、偉大な科学者のように、
なんといっても真理の探求者であった。彼らは、真正な問題を
現実に解こうとしたのである。わたくしは、偉大な哲学の歴史
を、本質的に真理探求史の一部であると見ており、また美しさ
は科学においてと同じく、哲学においても重大な意味をもつこ
とは認めるが、哲学の歴史を純粋に審美的に判断することは拒
否する。
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(カール・R・ポパー『よりよき世界を求めて』〔小河原誠・
蔭山泰之訳〕、未來社、1995年、p. 280)
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【小野さん&読者の方々へ(2/3)】
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> ところで、惣流氏との対話は終わっちゃったの? 俺、来たばか
> りなんだけどさ〜。もうちょっとやってくださいな。
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Libraとしましては、現在のLibraに論じることができることにつ
いては、ほとんど論じたと思っています。あとは読者の方々に主体
的に判断して頂ければと思います。
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今回の「惣流氏との対話」は、以下にまとめてあります。
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創価学会応援隊・会議室2での発言[ 1 ]
http://fallibilism.web.fc2.com/kaigishitu2.html
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補足資料として以下を挙げておきます。
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1.題目は呪文ではない(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html
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2.フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/111.html
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議論の中でLibraが言っていた「自己解放」については、後者の
資料で論じられている「牢獄からの脱出」ということをイメージし
て頂ければと思います。
【小野さん&読者の方々へ(3/3)】
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ポパー哲学に関しましては、以下の資料を参考にして頂ければ
と思います。
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3.ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
http://fallibilism.web.fc2.com/114.html
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4.あらゆる人々は哲学者である(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/113.html
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5.精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/112.html
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6.問題を理解するとは、どのようなことか(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/116.html
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7.人間の知識は動物の知識の特殊例である(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/115.html
【仏教とポパー哲学の親縁性について(1/2)】
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時間をつくって、以下を書きました(Libraの議論についての補足
説明です)。参考にして頂ければ幸いです。
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仏教とは「智慧による自他の解放」の運動である[註1]。一方、ポ
パー哲学の理念は「知による自己解放」である[註2]。両者にいちじ
るしい親縁性が見られることは論を待たない。
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(註1) 以下の資料を参照されたい。
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ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとし
たのです。「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」
です。「今の自分に固執して生きること」という儚(はかな)き
夢から「常に目覚める者」がブッダなのです。
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(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、
2001年、pp.166-167)
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何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永
遠に突破することにあります。一つの立場に固執することから、
常に飛躍するところにあります。
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(同上、p.174)
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永遠の脱出者ブッダは、心地よき悟りから脱出しようとするの
です。「心地よさ」はくせ者です。「心地よさ」は立場を構築
(こうちく)してしまったことの表れです。安らかな繭(まゆ)の
中で、快適な惰眠(だみん)を貪るのです。
.
(同上、p.175)
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ブッダは絶対的な立場(サンカーラ)を虚構し、執着するとい
うことがなかったのです。常に自らを相対化し、自らの立場を
突破しつづけることができたのです。
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(同上、p.188)
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呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html
【仏教とポパー哲学の親縁性について(2/2)】
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(註2) 以下の資料を参照されたい。
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フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/111.html
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原則として、より広い監獄へ、さらには、まえもって定められ
た限界のないより広い別の監獄へ逃れ出ることによって自分自
身を解放できるのであれば、知的監獄へ閉じ込めるという終身
刑の宣告を受けていたところで、この宣告は、耐えられるばか
りでなく、自由のためにたたかうというスリルに満ちた展望、
つまり、われわれの知的生活にとって価値ある課題を切り開く
べしという宣告ともなる。
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(カール・R・ポパー『実在論と科学の目的(上)』〔小河原
誠・蔭山泰之・篠崎研二訳〕、岩波書店、2002年、p. 22)
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