「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 3 ]

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スレッド「ご本尊って紙でしょ?」より
  http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1020259019


780 名前: Libra 投稿日: 2002/08/27(火) 12:39
 本尊について論じるさいには、本尊の《形式》と《思想》とを区別して論じる必要があ
ると思います。

  本尊の形式と思想を区別せよ(勝呂信静)
  http://fallibilism.web.fc2.com/107.html

 また、基本的に「同一理に支えられた同一相貌の御本尊は同質同体」だと私は考えます。

  同一理に支えられた同一相貌の御本尊は同質同体(浅井円道)
  http://fallibilism.web.fc2.com/099.html

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   僕の「曼陀羅」についての考えは以下のようなものです。
  
    >  だいたい、「曼荼羅」っていうのはその物自体に
    > 霊力がやどっているようなモノではないでしょう。
    > 宗祖が、命をかけて表現された「法華経の肝要(エ
    > スプリ、エッセンス)」でしょう。もちろんエッセ
    > ンス中のエッセンスは「題目」なわけですが。
    >
    >  そう考えれば、「曼荼羅」に優劣があるなどとい
    > う発想自体がナンセンスです。いかなる「曼荼羅」
    > であっても、そこに表現されている「法体」は同じ
    > ものです。
    >  また、「真筆」か「書写」かという違いも決定的
    > ではないでしょう。例えば、写本の『妙法蓮華経』
    > と、羅什(の門下)の直筆の『妙法蓮華経』とで
    > 「法体」が異なるでしょうか?宗祖直筆の諸御書
    > と現在本の形で発行されている御書とで「法体」が
    > 異なるでしょうか?
    (ゆきぞさんの掲示板、02月15日(火)22時58分46秒)

  (掲示板「Beat Me !」での発言、「みなさまへのレス」、
    投稿者:Libra 00/05/11 Thu 10:46:10、
    http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_001_100.html#87
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 本尊についての私の考えは、以下に提示してあります。

  本尊論メモ(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html

  本尊観について(Leo)
  http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
  
  犀角独歩さんとの対話(Libra・犀角独歩)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html


783 名前: Libra 投稿日: 2002/08/28(水) 20:33
>>782 ゆみさん

 はじめまして。

> 「同一理に支えられた」というのは具体的にどういうことなのでしょうか。

 「同一理」というのは、「観心本尊抄の宗教哲理」ということです。もっと
も、その中身について、わかりやすくかみくだいて説明できるほどの力は私に
はありませんが(涙)。

 本尊についての私の考えについては、>>780の最後に提示してある資料を参
照されて下さい。


785 名前: Libra 投稿日: 2002/08/29(木) 12:49
>>784 ゆみさんへ

 私はとんちんかんなレスをしてしまったようですね(汗)。申し訳ありませ
んでした。

> Libraさんは、真筆でも書写でも印刷でも、本尊として同じものだとおっしゃ
> るのだと思います。

 たとえ、真筆、書写、印刷本尊というように《形式》が違ったとしても、そ
れらによって表現されている内容(《思想》)は同じだと私は思います。
 ただ、浅井先生がおっしゃっておられるように、《形式》について、「信者
の宗教的感情からいえば、宗祖御真筆のものと我等が書写したものとでは、理
窟ではどうすることもできぬ尊卑の差を認めざるを得ない」というようなこと
が、場合によってはありえるだろうと思います。しかし、それは、曼荼羅本尊
に向かう受け手の側の《感情の問題》(これはこれで大事な問題だと思います
が)であって、曼荼羅本尊の《内容》に差があるわけではないと思います。

> 印刷について、印刷するときに印刷する人の信心が反映するというような私
> にはちょっと理解不可能なことは Libra さんはおっしゃらないと思います

 もちろんそのようなことはいいません(笑)。そのようなことは誰にとって
も「理解不可能」だと思います。

> 書写についても 誰が書写したものでも同じということなのか、ある程度の
> 宗教哲理を持った人の書写したものでないと、「同一理に支えられた」もの
> にはならないということだろうか、という疑問です。

 書写についても、《誰が書写したものか》というところに、受け手の側の
《感情の問題》が発生しうるだろうと思います。しかし、書写する人によって
曼荼羅本尊の《内容》が変化するということはないでしょう(《内容》が変化
してしまうのであれば、それは書写とはいえないと思います)。

 曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚空会
の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。私が曼荼羅本尊に向
かって唱題するのは、宗祖とご一緒に《虚空会の儀式》に参加して(法華経の
中に入り込んで)、釈尊から五字(ご承知のとおり、五字というのは法華経の
エッセンスを表わしたもので、そこには釈尊の因行果徳の二法が具足している
とされます)を授かるためです。それさえできるのであれば、曼荼羅本尊の
《形式》は全く問題にならないと私は思います。逆に、それを妨げるような
《感情の問題》を受け手の側に発生させるような《形式》がある場合に、それ
を別の《形式》に変えたとしても全く問題はないと私は思います。


803 名前: Libra 投稿日: 2002/08/31(土) 16:08
>>796 一会員さん

 はじめまして。

> 浅井先生と言われましたが、顕正会関係の方ですか?

 浅井円道先生は日蓮宗の先生です。私は創価学会員(3世)です。しかし、
そんなことは、討論においては全く何の関係もありません。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  真摯な学問的成果なら、大いに受け入れるべきでしょう。

  (池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、p. 91)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 もちろん、《真摯かそうでないか》は、《自分が信じたいことにとって都合
がよいか悪いか》とは全く無関係です。

> ひとつお聞きしたいのですが、念仏宗の住職さんや神社の神主さんが、日蓮
> 正宗の法主の本尊を正確に書写した場合、その本尊は効力があると思います
> か?

 >>780>>785を読んで頂ければ私の考えは理解して頂けると思います。特に、
以下の部分を参照されて下さい。

   曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚
  空会の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。私が曼荼羅
  本尊に向かって唱題するのは、宗祖とご一緒に《虚空会の儀式》に参加し
  て(法華経の中に入り込んで)、釈尊から五字(ご承知のとおり、五字と
  いうのは法華経のエッセンスを表わしたもので、そこには釈尊の因行果徳
  の二法が具足しているとされます)を授かるためです。それさえできるの
  であれば、曼荼羅本尊の《形式》は全く問題にならないと私は思います。
  逆に、それを妨げるような《感情の問題》を受け手の側に発生させるよう
  な《形式》がある場合に、それを別の《形式》に変えたとしても全く問題
  はないと私は思います。(>>785

 あと、一会員さんは、別のスレッドで、

> 他の学会員はどうか知りませんが、「クソ ボケ」とか「ボケ 氏ね」など
> という言葉には、私は異常に反応し、同レベルで応戦します。
> 釈迦がなんと言おうが、キリストがなんと言おうが、売られた喧嘩は買いま
> す。

とおっしゃっておられましたが、私はこのような考えには反対です。このよう
な公の場で、汚い言葉を使って他人を罵ること自体をとても恥ずかしい行為だ
と私は思いますが、それに対して、「同レベルで応戦」することも、全く同じ
く、とても恥ずかしい行為だと思います。

  折伏は慈悲が根本
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html


809 名前: Libra 投稿日: 2002/08/31(土) 16:47
>>805 一会員さん

> 学会のイメージをおとしめるレスに対し、何も言わないでいたら、それが正
> 論となって広がってしまう。

 そんなことはないと私は思います。ここにおられる多くの方々は、聖教新聞
の自由座談会や寸鉄などに見られる「汚い言葉を使って他人を罵る」という行
為に対して批判的だと私は認識しています。「公の場で、汚い言葉を使って他
人を罵る」という行為については、放っておいても、「恥ずかしい行為」だと
認識されるだろうと思います。以下の拙文を読んで下さることを切望いたしま
す。

  折伏は慈悲が根本
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html


814 名前: Libra 投稿日: 2002/08/31(土) 17:22
>>811 一会員さん

 私の考えをご理解頂けなくて、とても残念です。私の力不足ですね。

> 汚い言葉は決して恥ずかしい言葉ではありません。

 「公の場で、汚い言葉を使って他人を罵る」という行為は「浅ましき事」だ
と私は思います。ましてや、ネット上で、匿名でされる場合については、最低
の行為だと私は思います。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自賛気なる体・人目に
  見すべからず浅ましき事なるべき、弥身口意を整え謹んで主人に向うべし
  主人に向うべし

  (「教行証御書」、全集、p. 1283)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


821 名前: Libra 投稿日: 2002/08/31(土) 18:48
>>817 一会員さん

> あなたが最低の行為とご指摘のものは、私にとっては最初に攻撃する人に限って、
> という条件がつきます。そういう場合はそれなりの汚い言葉で応酬します。

 そのようなことをしても、《汚い言葉の無限の連鎖》が生じるだけだと私は
思います。「汚い言葉」など使わなくても、《最低の行為である》ということ
を指摘することは可能だと思いますし、そうすべきだと私は思います。

 私の意見はだいたい述べさせて頂きましたし、すでにこのスレッドの趣旨か
らズレてしまっていますので、この話題についてのレスはこれくらいにさせて
頂きます。


826 名前: Libra 投稿日: 2002/08/31(土) 21:32
>>824>>825 ゆみさんへ

> 確認したいのですが、そうすると、日蓮さんの書写の本尊をそのまま写したと
> すると、誰が写したものでも 本尊として同じものであるのでしょうか。

 表現されている内容(《思想》)は同じだと思います。

> Libraさんの考えは学会の考えと同じだと考えてらっしゃいますか?

 「学会の考え」といっても、会員によっていろいろな考えがあるだろうと思
います。いろいろな考えがあっていいと思いますし、自由に討論すればいいと
私は思います。

> 学会で私の質問のようなことを確認されたことはおありでしょうか?

 とくにありません。しかし、自分の考えは自分のHP等で発表してきました。
あと、「大石寺の板曼荼羅と創価学会の関係」については、以下のような手紙
を秋谷会長に出したことがあります。

  秋谷会長への手紙
  http://fallibilism.web.fc2.com/z007.html


845 名前: Libra 投稿日: 2002/09/01(日) 08:31
>>827>>828 ゆみさん

> 一会員さんは、学会が自分と違う考え方であれば、自分の考えを訂正すると
> お答えになりました。
> Libraさんはどのような視点からの発言をなさっているのかの確認のつもりで
> す。

 《学会本部の考え》が《自分の考え》と違う場合には、当然、私は《学会本
部の考え》を批判します。私は《上から下への正当化》を合理的だと思ってい
ません。《下から上へ向かう批判の運動》を合理的だと考えています。

  正当化主義と非正当化主義―汎批判的合理主義(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/018.html

> Libraさんは、学会の本尊取替えが、Libraさんのおっしゃるような理屈から
> なされたとお考えでしょうか?

 「本尊取替え」を決めた人たちの間でもいろんな議論があったのだろうと推
測しますが、詳しいことは私は知りません。

> 本尊は自分で作成できるものということでしょうか。

 仮に、自分で書写したものをベストな《形式》として選択する人がいたとし
ても、全く問題はないと私は思っています(もう一度以下をよく読まれて下さ
い)。

   曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚
  空会の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。私が曼荼羅
  本尊に向かって唱題するのは、宗祖とご一緒に《虚空会の儀式》に参加し
  て(法華経の中に入り込んで)、釈尊から五字(ご承知のとおり、五字と
  いうのは法華経のエッセンスを表わしたもので、そこには釈尊の因行果徳
  の二法が具足しているとされます)を授かるためです。それさえできるの
  であれば、曼荼羅本尊の《形式》は全く問題にならないと私は思います。
  逆に、それを妨げるような《感情の問題》を受け手の側に発生させるよう
  な《形式》がある場合に、それを別の《形式》に変えたとしても全く問題
  はないと私は思います。(>>785


854 名前: Libra 投稿日: 2002/09/01(日) 12:30
>>847 ゆみさん

> 本尊をもらえるとかもらえないとか言うのは本来ないものなのでしょうか?

 昔は、《本尊書写権は法主一人が所有する》というわけのわからないことが
言われていました。しかし、そのような神話はすでに崩壊していると思います。

  初期興門教学には「唯授一人血脈相承論」などなかった(小林正博)
  http://fallibilism.web.fc2.com/098.html

  「印籠教学」だけでは、松戸・小林の新説を覆すことは難しそう(西山茂)
  http://fallibilism.web.fc2.com/101.html

> お守り御本尊など、もらえる人に条件等あったように聞いていましたが、自
> 分で書き写して携帯すれば同じ意味があるということでしょうか?

 本尊の意味についての私の考えはすでに述べました(>>785)。仮に、自分
で書き写したものを《形式》として選択したとしても、全く問題はないと思う
とも述べました(>>845)。


857 名前: Libra 投稿日: 2002/09/01(日) 12:48
>>856 ゆみさん

 たしかに今でも神話を信じておられる学会員の方はおられるでしょう。学会
内部でこの問題がきちんとオープンに議論されているとはまだまだ言えないと
思います。そういう問題意識から、私も以下のようなものを会長あてに書いた
わけです。

  秋谷会長への手紙
  http://fallibilism.web.fc2.com/z007.html


862 名前: Libra 投稿日: 2002/09/01(日) 14:16
>>860 ゆみさん

> もう一つ質問してみたいのですが、本尊というのは必ず必要なものだと思わ
> れますか?
(中略)
> ほかの宗教も知るほどに深いですし、その哲学の深いところはかなり似通っ
> た部分があるように思うのです。

 宗教というのは、思想とか生き方と同じで、最終的には自分で選びとるしか
ないものだと思います。

  最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/007.html

> 私は学会を信じる、学会に属するということはもうないと思いますが、めぐ
> りめぐれば、Libra さんの考え方なら、それに近い形で信じることはありう
> ると思われるお返事でした。

 私の書いたレスは、提示した資料も多く、文章もあまり分かりやすいもので
はなかったのではないかと恐れます。それでも、私としては精一杯書いたので、
ゆみさんにそのようにおっしゃって頂けたのは本当に嬉しいです(涙)。

 ゆみさんのように《本当に心から納得がいくまで、ごまかさずに、真剣に、
批判的に考えてみる》という態度を私は心から尊敬します。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。
  「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に
  固執して生きること」という儚(はかな)き夢から「常に目覚める者」がブ
  ッダなのです。

  (友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、
    pp.166-167)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


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