日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)


 もちろん、『守護国家論』もしばしば天台・真言、法華・真言を併置しているように、後の純粋に法華経のみに拠る立場からすると、それ以外のものを認めるようなところがある。しかし、それでも最終的には法華経を最優位に置き、それを絶対視するという発想は、すでに確立していると言わなければならない。所詮、天台教学の枠には収まりきれないものを持っているのである。
 本書における『法華経』観として、もうひとつ注目すべき箇所を挙げておきたい。第五章では、真実の教えに逢い難いことを言うが、それは裏返せば、真実の教えである『法華経』に出会った喜びである。その中で、日蓮は、『法華経』普賢菩薩勧発品に、「この『法華経』を受持・読誦等する人がいれば、この人は釈迦牟尼仏を見るのである」等と言っている箇所〔引用者註1〕を引いて言う。

この文を見ると、『法華経』は釈迦牟尼仏である。『法華経』を信じない人の前には、釈迦牟尼仏は入滅されたが、この経を信ずる人の前には、(仏の)滅後であっても仏の在世である。(一二三)〔引用者註2〕

 「『法華経』は釈迦牟尼仏である」というのは大胆な断言である。法然らの浄土教が、釈迦仏が亡くなって末法に入ったという前提のもとに阿弥陀仏信仰を持ち出すのに対して、日蓮は『法華経』が釈迦仏そのものであるから、釈迦仏は亡くなっていない、今も仏の在世である、と主張するのである〔引用者註3〕
 これは後期まで貫く日蓮の『法華経』信仰の重要な論点である。『法華経』の仏は久遠成道であり、永遠の仏といってもよい。単に過去の成仏の問題ではなく、それゆえに、仏は未来に向かっても常に現前しつづけるのである。
 だが、その永遠の仏にどう関わったらよいのか。永遠に現前するといっても、あまりに抽象的で現実感がないではないか。そこで、『法華経』が重要な役割を果たすことになる。『法華経』はこの永遠の仏と我々をつなぐ掛橋である。いな、日蓮によれば、掛橋というような媒介者的なものに留まらず、それが釈迦仏自体なのである。人格的な仏と非人格的な真理とが一体化するところに『法華経』がある。
 このように明確に『法華経』=釈迦仏を説いたところは、日蓮の他の著述に見られない〔引用者註4〕。しかし、後の『観心本尊抄』では、本尊である仏を外在的な人格仏と見る方向と、心の中に内在するものとして把握する方向の両面が複合している。本書の『法華経』=釈迦仏という見方もそれと関連して注目される。
 ちなみに、本書では、「『法華経』の修行者はどの浄土を期したらよいのか」という問いに対して、「本来の久遠実成の完全な仏はこの世界にいますのである。この土を捨てて、どの土を願うべきであろうか(一二九)〔引用者註5〕と答えている。法然の浄土教が、現世的要素を強めつつも、なお来世の浄土を願うという要素を強く持つのに対して、日蓮の仏教ははじめからきわめて強い現世的な性格を持っている。今ここの現実を別に、仏の世界はない。日蓮は晩年、来世を望む傾向が出てくるといわれるが、原則的にはこのような強い現実意識に立脚していると考えられる〔引用者註6〕
 ただ、そうは言っても、決して現実にそのまま埋没してしまうのではない。『法華経』=釈迦仏という絶対真理=絶対者と真向うとき、はじめてその顕現としての現実が真実の姿を顕わし出すのである。究極の真理=仏と現世の現実との緊張関係こそが日蓮の思想のダイナミズムを作り出しているのである。

(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、pp. 116-118)


〔02.08.31 引用者註〕

(1) この部分を書き下し文で引用すれば以下の通りです。


若しこの法華経を受持し読誦し正しく憶念し修習し書写する者有らば、当に知るべし、この人は則ち釈迦牟尼仏に(まみ)えて仏の口よりこの経典を聞くが如しと。当に知るべし、この人は釈迦牟尼仏を供養したてまつるなりと。

(坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(下)』、岩波文庫、1967年、p. 330)


(2) 「(一二三)」というのは、立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺)の通し頁で一二三頁からの引用だということをあらわしています(堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』〔創価学会〕では六六頁になります)。ただし、この部分は原文のままの引用ではなく、末木先生による現代語訳という形で引用されています。

(3) 奥付によれば、末木先生の『日蓮入門──現世を撃つ思想』は「二〇〇〇年七月二〇日 第一刷発行」となっていますが、それとほとんど同じ時期に、引用者も全く同じことを強調していました。

 宗祖は「『法華経』は釈尊である」と言い切られている。我々はこの宗祖の“言葉”を絶対に忘れてはならない。この言葉を軽視するものは「僻見の行者」であることを思い知るべきである。
法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり
(「守護国家論」、全集、p. 66)
釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし
(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1122)

(「日蓮今度命を法華経にまいらせて〜佛身観私論〜(1/2)」(No: 343)、
投稿者:Libra 00/07/19 Wed 12:32:15、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_301_400.html#343

(4) そんなことはないと思います。例えば、引用者註3で引用してある拙文中の「四条金吾殿御返事」の文を参照されて下さい。

(5) この部分も、原文のままの引用ではなく、末木先生による現代語訳という形での引用です。堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』(創価学会)では七二頁になります(問いの部分は七一頁です)。

(6) この点については、松戸行雄先生の「日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相」(『東洋哲学研究所紀要』第14号〔1998年〕所収)というご論文がとても参考になります。


〔11.03.13 引用者付記〕
  「法師品」には「『法華経』の経巻を生きている仏陀≠サのものと見なす考え方が説かれていると見ることができる」という松本史朗博士の説を以下に引用しておきます。

法師品─『法華経』の経巻を生きている仏陀≠サのものと見なす考え方(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/137.html
  この松本説は妥当であるとわたしは考えます。
  よって、日蓮の「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり(「守護国家論」)という主張は、『法華経』そのものに根拠があると考えます。
  もっとも、日蓮は、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」ということを万人が直ちに理解できるとは考えていなかったようです。例えば、日蓮は、「法蓮鈔」に以下のように述べています。

 今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。〔中略〕此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。
(「法蓮鈔」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

  おそらく、日蓮は、『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで仏種純熟していない人々に対しては、いわば対機説法的に、以下のような法主仏従の思想を説いて、最終的には、『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで導こうとしたのだろうと思います。


法華経は仏にまさらせ給ふ事、星と月とともしびと日とのごとし。
(「窪尼御前御返事」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm


法華経は仏にまさらせ給ふ法なれば、供養せさせ給ひて、いかでか今生にも利生にあづかり、後生にも仏にならせ給はざるべき。
(「九郎太郎殿御返事」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

法華経と申すは三世十方の諸仏の父母也。めのとなり。主にてましましけるぞや。かえると申す虫は母の音を食とす。母の声を聞かざれば生長する事なし。から(迦羅)ぐら(求羅)と申す虫は風を食とす。風吹かざれば生長せず。魚は水をたのみ、鳥は木をすみかとす。仏も亦かくの如く、法華経を命とし、食とし、すみかとし給ふ。魚は水にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。鳥は木にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。月は水にやどる、仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。
(「上野殿母尼御前御返事」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

人軽と申すは仏を人と申す。法重と申すは法華経なり。夫れ法華経已前の諸経竝びに諸論は仏の功徳をほめて候、仏のごとし。此の法華経は経の功徳をほめたり。仏の父母の如し。
(「宝軽法重御書」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

仏はいみじしといへども法華経にたい (対)しまいらせ候へば蛍火と日月との勝劣、天と地との高下なり。仏を供養してかゝる功徳あり、いわうや法華経をや。
(「上野殿御返事」〔日興写本存〕、、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/syahon.htm

  『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで達していない人であっても、日蓮が示した法主仏従の教示に導かれて、『法華経』の思想を学んでいきさえすれば、やがては、「法師品」「普賢菩薩勧発品」などの所説によって、『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで到達できるはずですから、法主仏従の考えを強調してみせるという日蓮のやりかたはとても合理的であるようにわたしには思えます。


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