題目は呪文ではない


 私が「題目は呪文ではない」と言うのは、「南無妙法蓮華経」と唱える行為の()()にではなく、その()()(例えば、その読みの音声のリズム等)に力があるというような捉え方を問題視するということである(もしもそのような捉え方を認めるならば、〈障害で声を出せないような人を救う力は題目にはない〉ということになってしまうであろう)。
 題目の()()(「妙法蓮華経」)というものが、釈尊滅後のインドで創られた法華経という大乗経典のタイトルの()()()()()()()であることは動かないであろう。従って、もしも、その()()()ではなく、その()()()力があるなどと考えるのであれば、それは、羅什によって開発されたもの(すなわち「仏教」ではなく「羅什教」)ということになってしまうであろう。そもそも、()()という()()は、釈尊とは直接の関係を持たないのであるから、もしも日蓮のように〈妙法蓮華経の()()に「釈尊の因行果徳の二法」が具足している(1)〉と言うことが可能であるとすれば、それは、〈題目の()()の中に釈尊の()()()()のエッセンスがよく盛り込まれている〉という意味において以外にはありえないであろう〔05.08.25 補足〕
 題目の()()(「南無妙法蓮華経」)について言うならば、日蓮自身は、〈目連尊者、天親菩薩らによって、すでに「南無妙法蓮華経」と唱えられていた〉と考えていたことに注目すべきであろう(それが歴史的事実であったかどうかは今は問わない)。


目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す

(「盂蘭盆御書」、全集、p. 1429)



南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか

(「月水御書」、全集、p. 1203)


 もし、あくまでも「南無妙法蓮華経」という表現の()()に意義を認めるというのであれば、目連尊者や天親菩薩もまた、その()()の通りに──()()()()()に基づいて──「南無妙法蓮華経と唱え」ていたと考えざるを得ないであろうが、それは不合理であろう。おそらく、日蓮は、〈目連尊者や天親菩薩は「南無妙法蓮華経」という()()の言葉を唱えていた〉と考えていたのであろう。
 私は、「南無妙法蓮華経」と唱える行為の()()()ではなく、その()()()意義があると考える(2)。その()()にこそ「智慧による自己解放」(3)を実現する力があるのだ。題目は決して呪文などではない。


(1) 日蓮は「観心本尊抄」において、以下のように言っている。


釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 246)


(2) その内容の中身については、拙文「題目論メモ」http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html)を参照されたい。

(3) 創価学会応援隊・会議室2http://www19.big.or.jp/~sunshine/soukagakkai/kaigisitu-2-new.cgi)での Libra の発言(No. 19184http://fallibilism.web.fc2.com/kaigishitu2.html#19184 に記録してある)。ここで言う「智慧」とは、釈尊によって説かれた〈縁起・空・無我の思想〉のことであり、「自己解放」とは〈今ある自己を常に乗り越えていく(絶えざる自己超越)〉ということである。私は、〈縁起の思想〉こそが釈尊の根本思想であったと考えているが、これは、現代思想の文脈で言うならば、カール・ポパーの哲学に通じるものであると考えている。実際、ポパーの弟子のバートリーは、釈尊とポパーとの間に思想的な親縁性を見ている(小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 34-36 を参照)。拙文「対話主義と可謬主義」http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html)も参照されたい。

2002.07.07
Copyright (C) Libra(藤重栄一), All Rights Reserved.
http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html


〔05.08.25 補足〕
 日蓮が題目(五字)の()()をどのように理解していたのか、すなわち、日蓮は五字に何がつつまれていると考えていたのかというと、それは「一念三千の法門」です[*1]。 「一念三千の法門」というと難しく聞こえるかもしれませんが、その本質は、「悪人というのは名称に過ぎず、悪人という固定的な存在はない。今、良心にしたがって生きているから、この人は、今、善い人なのだ[*2]という〈縁起の思想〉であると理解してよいと思います[*3]
  

[*1] 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を(つつ)み末代幼稚の(くび)に懸けさしめ給う」(「観心本尊抄」)
[*2] ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
   http://fallibilism.web.fc2.com/080.html
[*3] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
   http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

トップページ >  雑記 >  024. 題目は呪文ではない

NOTHING TO YOU
http://fallibilism.web.fc2.com/
inserted by FC2 system