「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)


 如来蔵・仏の思想とその説は、たとえば勝鬘経(しょうまんぎょう)の一部に「空」の理論の応用はあっても、全般的には「空」のもつ断固たる否定の契機はきわめて乏しく〔引用者註1〕、本来清浄である心をおおらかに受け入れ、煩悩も上述した客塵(きゃくじん)煩悩として扱われて、そのような外から一時的にまつわりついた煩悩は、この清浄心を堕落させるまでには至らない〔引用者註2〕。それどころか、如来・仏をみずからの身体内に貯えているとする衆生そのものの大胆な肯定は、本来はそのことを仏と大力の菩薩(ぼさつ)のみが知り得て〔引用者註3〕凡夫(ぼんぷ)はそれを信ずるのみと説かれているとはいえ、ある面で、在家仏教の一種のオプティミスティク(楽観的)な理想を反映するものといえよう。

(中村元・三枝充悳『バウッダ・佛教』(小学館ライブラリー80)、小学館、1996年、pp. 381-382)


 大乗仏教が「空」を説く「般若経」にスタートした当時、そこには断固たる否定の精神がみなぎり、それが根強く反復されたことは、本書のその個所にも述べた。したがって、たとえば大乗仏教運動の推進力のひとつに「他者の発見」という私見を示したが、この場合にも、日常の世俗における人間の本に基づいて、たとえば生活を共にする他者などの、すぐ傍らにいる他者をそのまま指しているのではない。もしもそうであれば、それはいわば人間の自然の感情であり、世俗の当然の感性の延長にすぎず、仏教が宗教として機能する場はまったく存在しない。大乗仏教における「他」は、あくまで否定的契機を媒介としており、換言すれば「自」と「他」とが矛盾し合う相反を内臓していて、それをつねに意識しつつ、「自」もまた「他」においては「他」であることの了解に達したうえでの「他者の発見」にほかならない。利他(りた)はそこに活きる。いずれにせよ、否定、矛盾、超越といった宗教の生命とされる契機が、「般若経」からナーガールジュナ(龍樹(りゅうじゅ))に至る「空」を裏づけている。  それにもかからわず、中期大乗で進められた内在化の歩みは、釈尊以来なんらかの形で一貫していた明確な否定の本質を、仏教者の減少や時代の要請などとともに、世俗との妥協に(むしば)まれてしだいに希薄化し、やがて喪失するという、一種の危機に(ひん)する。そのような情況のもとで、大乗文化もしくはその大半は、外部は絢爛(けんらん)たる相を呈し、ごく少数のエリートたちには反映されても、もしその内部が空洞化したならば、それらは「蜃気楼(しんきろう)」(これを仏典はしばしば「ガンダルヴァ城」と称する)に堕する危惧(きぐ)がきわめて濃い。そのような、外見の(よそお)いとは裏腹に、内面はうつろと化し、それまでの惰性に流れて、安逸に馴れきった大乗文化の大半は、本来の「バウッダ(佛教、正確にはバウッダ・ダルマ)」とはもちろん、大乗仏教そのものからも遠く遊離して、虚栄の文化とその所産とに、みずから酔いしれる。これらの醜態は、大乗文化の栄えたインドだけではなく、中国、朝鮮半島、日本、チベットなどの各所に、過去にそして現在にも、少なからず露呈している。だが、それらは、当然のことながら、到底容認されるべきではあるまい。

(同上、pp. 419-420)


〔01.05.18 引用者註〕

(1) 平川彰氏は次のように指摘されている。

つぎに『勝鬘経』は勝鬘夫人という女性が師子吼をしたとなす点で特異な経であるが、この経で如来蔵の教理は一段と整備されている。如来の法身が煩悩蔵を離れないのが如来蔵であると説き、如来蔵を「在纏位の法身」と見ている。そして如来蔵の中にありながらも、如来蔵そのものには煩悩が全然ない点を「空如来蔵」といい、さらに如来蔵に恒沙をすぎた不思議な仏法がそなわっている点を「不空如来蔵」という。同じく「空」という用語を用いながらも、『般若経』『勝鬘経』とでは空の意味が異なっている。如来蔵は常住の実在であるから、一切皆空とは言えない。そのために「煩悩の空」をいうのである。そして迷いの世界は無常・苦・空・無我であるが、如来の法身には常・楽・我・浄の四波羅蜜がそなわることをいう。「我波羅蜜」は次の大乗の『涅槃経』では「大我」と説かれており、ウパニシャッドの思想に近づいていることが注目される。しかし自性清浄なる如来蔵が煩悩に触れずして、しかも染せられることは、凡夫はもとより、阿羅漢、大力菩薩にも了知し難く、ただ如来の説を信ずるのみであると言っており、如来蔵は「信の宗教」であることを示している。
(平川彰『インド・中国・日本 仏教通史』、春秋社、1977年、pp. 45-46、傍線Libra)
 しかし、平川氏は『インド仏教史 下巻』において
自性清浄心の思想はすでに『阿含経』に見られ、さらに『舎利弗阿毘曇論』や大衆部、分別論者などが、この思想を支持していた。この思想は大乗経典にも広く取り入れられ、『般若経』をはじめ多くの経典に見られる。心性本浄、諸法本浄の思想は、すべての大乗経典の根本思想であると言ってよい
(平川彰『インド仏教史 下巻』、春秋社、1979年、p. 70、傍線Libra)
とも言われている。私にはこれらが両立するとはどうしても思えない。
 なお、この問題については、丹治昭義「『八千頌』における心性本浄の問題」(『印度学仏教学研究』第27巻第2号、1979年)藤田正浩「『八千頌般若経』第一章の心性本浄説」(『印度学仏教学研究』第37巻第1号、1988年)松本史朗「『般若経』と如来蔵思想」(『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年)においても取り上げられているが、その議論の経緯も私より見て不可解である。
 藤田氏は
すなわち、煩悩は客来であるが心の本性は輝いているという立場と、一切法に本性を認めず不可得空であるとする立場とが両立し得るか否かというのが、本稿の主題である。
 この点に関して疑問を呈したのは、筆者の知る限りでは丹治昭義氏が最初である。
(藤田論文、p. 31)
と言われているが、最初に疑問を呈されたのはおそらく平川氏であろう。
 また、松本論文では、平川氏の矛盾には全く触れられず、あとの主張だけが取り上げられ、
私には、心浄本浄≠竍自性清浄心≠フ説に示される如来蔵思想というものを、大乗仏教にとって不可欠なものと見られるかのようなこの平川博士の御見解に対し、異見を呈したいという考えがあったのである。
(松本論文、p. 226)
と言われている。
 このような議論の経緯を見て、私は自戒の念を込めて♀ロ山真男の言葉をかみ締めざるを得なかった。
日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているという()()()がいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。
(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)

(2) このような考えが非仏教的であることについては、藤田正浩「原始仏教の心性本浄説について」(『佛教学』第14号、1982年)等を参照されたい。

(3) このように三枝氏は「仏と大力の菩薩のみが知り得て」と言われているが、前註1で見たように平川氏は「凡夫はもとより、阿羅漢、大力菩薩にも了知し難く」と言われている。実際、『勝鬘経』『涅槃経』では多少のニュアンスの違いがあるのかもしれないが、どちらにしても、人知を超えている≠ニいうことであろうから大差はないだろう。

『勝鬘経』では「自性清浄心に染有ることは了知すべきこと難く、唯仏世尊のみ……実の如く知見したまう(33)」、『涅槃経』では如来蔵について「たとえ十地に住する菩薩でも少分に見るのみ(34)
(藤田正浩「原始仏教の心性本浄説について」『佛教学』第14号、1982年、p. 104、傍線Libra)


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