ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない
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「合理主義」とは、神秘的体験とか直感などによってではなく、議論によって、すなわち理由づけによって、ゆるぎのない論拠を追求していこうとする立場、あるいはもう少し弱い定式化のもとで言えば、可能なかぎり議論によって理由を探し求め、物事を明らかにしていこうとする立場にほかならない。〔中略〕さて、この根拠づけの精神としての合理主義は、さしあたり、まことに健全な精神であるように見える。しかしながら、ポパーの弟子のハンス・アルバートは、この精神が、絶対に揺るぎのない最終的根拠を追求するという形態──彼はこれを古典的合理主義と呼んでいる──をとって出現してくるときには、彼が「ほらふき男爵のトリレンマ」と名付ける重大な困難が生じることを指摘した☆4。アルバートによると、それは、自らの立場を絶対的に正当化しよう(基礎づけよう)とする努力(古典的合理主義)から必然的に生じてくる論理的困難である。それは、次の三つの困難からなる。
第一に、合理主義の精神にしたがって、知の正当化が忠実に試みられるならば、いったんは知を基礎づけたとされる根拠(基礎)でさえも、さらに新たな正当化を必要とすることになろう。かくして、このような正当化の背進は、原則上、無限に続く。これが、第一の困難である。一例として、古代懐疑論の集成者であるセクストゥス・エンピリコスの『ピュロニズム概論』から一節を引用してみよう。
……ある者は真なるものが存在するといい、他の者は真なるものは存在しないと言うのだから、論争に決着を付けることはできない。なぜなら、真なるものが存在すると言う者は、論争があることを念頭におくならば、証明なしには信じてもらえないであろうから。そして、彼が、証明を提出しようとするなら、自分の証明が偽であることを認めたのでは、信じてもらえない。他方で、彼が自分の証明は真であると宣言するならば、彼は循環論証に巻き込まれ、その証明が本当に真であることの証明を示すようにと要求されるであろう、そしてさらに、その証明についてのもう一つの証明をというように要求され、無限背進に陥るだろう。☆5第二の困難は正当化の論理的循環である。そのもっとも単純な例は、AがBを正当化しBがAを正当化するというものであろう。先にも引いたデカルトの『省察』のなかには次のような言葉が見られる──もちろん、デカルトはそれが循環論証であることに気づいているが。
神の存在の信ずべきことは、聖者に教えられているところでありますから、まったく真でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まったく真であります。 ☆6第三の困難は正当化の恣意的打ち切りである。ある点において正当化の手続きが中断されてしまうのである。一例として、ウォルター・リップマンから次の一節を引用しておこう。
なぜ証拠による吟味が他のどんな吟味法よりも好もしいのかを問うならば、そのことを吟味するためにも証拠による吟味法を積極的に用いたとき、はじめて答えが得られるであろう。 ☆7ここでは、「証拠による吟味法」それ自体は、もはや正当化される必要のないものとして捉えられている。(こうした例を目にすると、自己原因(causa sui)の概念を連想する人もいることであろう。)この種の打ち切りは、通常はたいへん巧みに糊塗され隠蔽されていて、時として哲学者によってさえ気づかれない。正当化が中断された際に、引き合いに出された基礎が最終的にして絶対に揺るがないものであることを言い立てるために、神の権威とか、時には理性の権威とか経験の権威がひきあいにだされるのである。
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〔02.06.10 引用者付記〕
脚註(☆印)については、すべて引用を省略いたしました。是非とも、小河原先生の御著書を直接参照されて下さい(この御著書は名著です)。
「論証は正当化をなしえない」ということについては、ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』(未來社、2001年)に収められている、小河原先生の「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」という御論文や、『ポパーレター』vol. 10, no. 1(1998年5月)に収められている、デイヴィッド・ミラー先生の以下の御論文も参考になりますので、是非、こちらの方も参照されて下さい。
「論証は何をなしとげるのだろうか」(小河原誠・井上彰訳、『ポパーレター』vol. 10, no. 1, 1998年5月)
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1miller.html