真の知性人とは(伊藤瑞叡)


 早稲田大学の松原正教授は『暖簾に腕押し』(地球社、昭和五十八年刊)という書の序(四頁)に次のように記している。

 なるほど、敬を持する儒者に限らず、「己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深」いのは凡人の常であらう。けれども、佐藤直方が言つたやうに、「人の非を言はぬ侫姦人あり。人をそしる君子の徒あり」といふ事もある。つまり、おのれの非を言はれぬために人の非を言はぬ腹黒い手合がゐるし、人の非を(あげつら)ふ奴のすべてが悪党とは限るまい。人の非を言ひ、人を厳しく謗る以上はおのれに対しても厳しくあらねばならず、それゆゑ他人に厳しい者が却つて「君子の徒」であるといふ事もあらう。林羅山は書いてゐる。
 強ハ人ニ(かつ)ヲイヘドモ、(まず)ミヅカラ我ニカチ私ニカチ欲ニカツヲ聖賢ノ強トス。我ガ私ニカツ時ハ、其上二人ニ勝事必定ナルベシ。
 もとより「我ガ私ニカツ」のは容易の業ではない。人間は専らおのれの力によつておのれを抑へうるほど強くはない。けれども、このぐうたら天国日本では、克己といふ事の重要はことさら強調されねばならぬ。
 しかし佐藤直方の理想とする「君子の徒」も、林羅山の理念とする「聖賢の強」も、わが日本の歴史においてははなはだ少ないと思う。現代では松原教授が一人おられるぐらいなものである。しかしながら私は「君子の徒」を日蓮の志行に思うし、「聖賢の強」を日蓮の精神に見る。
 とはいえ日蓮は単なる君子の徒とか聖賢の強ではない。日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざる身であり、日本第一の僻人(びゃくにん)でありながらも、正法(しょうぼう)を受持するが故に法華経(ほけきょう)の御使であり、法華経を身に読むが故に日本第一の法華経の行者であり、神のため君のため国のため一切衆生のために言葉をかざらずに真実を正直に言上する故に、また未萌(みほう)を知るが故に閻浮第一(えんぶだいいち)の聖人であると、自らいう。誠にはげしい気魄であると思う。この現代に御使・行者・聖人の強を承けつぐ言行一致の言論人や宗教人は、日蓮の末流と称する人々の中にも絶えてすでに久しく、寂しいかぎりである。

(伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、pp. 201-202)


 現代の宗教界も言論界も学界までもが、真の批判精神を欠いているとは、よく言われることである。
 聖人は自身の眼に映った中世封建社会の学者について、『佐渡御書』に「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し、知者の弱きをあなどり、王法の(よこしま)をおそる、諛臣(ゆしん)と申すは是なり(定遺六一二頁〔引用者註:学会版九五七頁と痛言している。権力と大衆にへつらいおもねる学者は諛臣であり諂曲(てんごく)の輩で畜生界のものであるというのであるが、現代にこそ通用する見識であるように思う。
 聖人は続けていう、「強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、()()()()()方人(かたうど)をなして智者を失はん時は()()()()()()()()()をもてる者必ず仏となるべし。倒せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず。正法を惜む心の強盛(ごうじょう)なるべし」と。
 真の批判精神を取り戻すためには、人間とか大衆とか平和とかいう新しいタブーや神話を、徹底的に吟味し直すことから始める外はないと思われるが、聖人は自分の時代の集団的な凡庸の中に大衆の熱気によって、すでに世論のようにゆきわたりつつあった西方浄土とか念仏往生とかを、徹底的に吟味したのである。『立正安国論』は念仏思想の「穢土を厭離して浄土を欣求する」という利己的な遁世の姑息を端的に批判している。「国を失ひ家を滅せば、何れの処にか世を(のが)れん」と。この批判は正法の価値基準から、宗教人や言論人の現実世界の問題に対する道義的怠惰を叱し、責任倫理を問うているのであると思う。
 聖人は『開目鈔』下に「なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義破られずば用ひじとなり(定遺六○一頁〔引用者註:学会版二三二頁『頼基陳状』に「智者と申すは国のあやうきを諫め、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ(定遺一三五一頁〔引用者註:学会版一一五六頁と述べている。このことから、真の知性人とは一人で全世界や国民大衆を相手にするほどの勇気をもって、物事のあれやこれやを原理的根本的に吟味し直し、しかも自らの発言に対して一人で責任をとる人間のことである、と教えられる。
 さて一層問題なのは、近時の宗教界の馴合には目に余るものがあるということである。日本仏教が聖徳太子以来、和を重んずることを美徳とするにしても、それは相惜顔面・上下雷同で、和をもって亡ぶものであってはなるまいと思う。既成の宗教教団の多くは歴史を経て現在に至り組織として一往の成熟をみている。しかも更に利権をも含めて、その基盤を確保して勢力の伸長を計ろうとする。しかし宗教目的を実現するために形成された宗教組織は、いつのまにかその組織の保持を至上目的とするに至り、本来の宗教目的を忘失する。また思想的にも社会的にも経済的にも弱点や欠陥はけっこう多い。それは真摯にして訓練された批判には到底たえうるものではない。そこで各宗教は各各の出鱈目を許し合い、気楽に相互協力をなしてゆくことを得策と考えるにいたる。協力の中でひそかに他を利用して教線を拡張しようと謀略をめぐらす手合いもなきにしもあらずである。協力の理由は簡単である。崇高で抽象的な理想あるいは空想を虚構すれば、こと足りるようである。
 そして宗教人は実質的には宗教儀式の執行者であるのに、形式的には偽善的な平和の使徒や革命の前衛などに化してしまい、それで自己満足する。しかしながらそういう宗教人の知的な怠惰による軽率と責任倫理の欠如をチェックする機能は、すでに失われている。すなわち各宗教は相互に「専ら敬を持する」からである。既成教団の新興教団に対する対応もそうである。世論は宗教者の動向や運動の偽善に対しては、ひややかに眺めてはいるが、余りに寛大である(ただ税務所だけが真剣である)。
 さて聖人は文明論的視野から、いわゆる理性的批判である折伏(しゃくぶく)をもって、諸宗を徹底的に批判した。人も知る如く、国権の迫害に直面しても、民衆の暴力に身をさらしても、少しも屈しなかった。現今でいう言論抑圧や論壇排除の被害どころではない。極楽寺良観等は訴状をもって後家尼御前という女性を煽動し、幕府を呪咀する謀叛人に仕立てて、聖人を龍口で処刑しようとさえした。
 聖人は『開目鈔』下において、当時新興の念仏や禅に対する旧仏教既成教団のありさまを、「天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらひをづる事、犬の主に尾をふり鼠の猫を恐るゝが如し(定遺六○七頁〔引用者註:学会版二三六頁と、その醜態を見るに堪えずと批判している。現代でも新興宗教の財力の前に屈膝請和(くつしつしょうわ)する既成仏教や仏教学者や宗教学者の痴態を多く目にする。
 聖人は続けていう、「国王将軍にみやつかひ、破仏法の因縁、破国の因縁を能く説き能くかたるなり」と。
 仏教界に日蓮聖人の精神を受けた人は決して多くはない。ものわかりのよい宗教協力者のみによるシンフォニーが合奏されるのみであり、どうにか私はこの駄文を記すのみである。

(同上、pp. 205-208)


 哲学の生命は批判であり、それは誤謬を犯す危険を軽減することにある。
 さて聖人の宗教の生命は、相惜顔面のインテリゲンツァの顰蹙(ひんしゅく)を大いにかう折伏逆化(しゃくぶくぎゃっけ)にこそある。『開目鈔』に言う、「邪智謗法の者多き時は折伏を先とすべし。常不軽品の如し」と。折伏とは相手の耳に逆らうとも父母が赤子の口に乳を入れんとする慈悲があるが故に、強いて破邪し正法を説くことである。それは相手の根本悪(謗法)を除いて根本善(妙法)を下種しようとする意志より生ずる。
 しかも法華は折伏にして()()()()()()()といわれる如く、折伏の根本は()()()()()でなければならない。折伏の根拠となる正法は、文・理・現の三証を経て確認されていなければならないものである。
 おのれの非を言われぬために人の非を言わぬ腹黒い手合いの多い末世の中にあって、人の非を言い人を厳しく批判した聖人は、したがっておのれに対しても厳しくあった。
 そのことを知らずして末代の教徒が守文の頭で真似すべき事では決してないのである。
 したがって念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇の格言は、悪口乱暴でも立教のための勧俗方便でもない。念仏の厭世的世界観・禅の自我中心主義・真言の迷信邪教的祈祷・律の形式的拘束主義に対する合理的批判であり、娑婆即浄土観・護持正法思想・合理的啓蒙主義・自律的人格主義ともいうべき末法万年の法滅の世界を正しく生きぬく人文宗教としての倫理的理想を開示し、創造する建設的提言に外ならない。
 日蓮聖人の批判精神は、末法観の不安に乗じて新旧の倫理喪失の疑似規範が、人心を昏迷せしめ、社会を惑乱せしめ国家を衰退せしめる虚構に充ちた病的症候群となっていることを、深く洞察し強く剔決(ていけつ)したのである。
 それ故にこそ無常苦からの解脱のために自己と社会において何がなされるべきであるかを追求し、成仏という人間性の回復と通一仏土という人類の一体性を実践的に実現するために、正法を確認し正法の精神に復帰して、末法の衆生と久成の釈尊とが()()()()を回復し、護持正法の精神の中に子父の血脈を相承するという、根源的な人倫の規範を確立しようとしたのである。
 聖人は権力や大衆にへつらいおもねる学者僧等を諂曲(てんごく)の輩、諛臣(ゆしん)と見て、自らは徹底して現状批判の立場に立った。「人の邪見を申しとどめるこそ智者にて候なれ」とも、「種々の大難出来(しゅつたい)すとも、智者に我が義破られずば用ひじとなり」とも述べている。
 聖人の如く一人で諸教を吟味し、一人で全世界を相手にし、自らの発言に対して一人で責任をとる勇気あるものこそ、真の知性人であるのではないか。

(同上、pp. 247-248)

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