空無我の思想と本性心の思想とが両立し得るとは考え難い
(藤田正浩)


 すでに繰り返し言っているように、心性本浄説について考えるとき、まず問題となるのは「性」であった。このことについて水野弘元博士は、「大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、清浄なる本性としての常住不変とも見られる心性が考えられているのに対して、原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、……。元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである(25)」と述べておられる。上座部系の部派にも当て嵌まるかどうかについてはまだ考察の余地が残されていると思われるが、今はしばらく措くとして、原始仏教における「性」がこのような性格であることに異論はないと考える。citta-pakati はもとより、一切法に関して pakati という考え方は、釈尊の思想とは調和しない。pakati / prakrti とほぼ同義である語も他にいろいろあり、仏教全般において、citta 以外の言葉となら一緒に使われている。しかし、後に心性本浄説で用いられる「性」に限って言えば、例外なくプラクリティである。しかもプラクリティは、サーンキヤ学派では覚(buddhi)などを開展してゆく不変の原理であるし、仏教でも『現観荘厳光明』(26)『プラサンナパダー』(27)では、プラクリティは svabha(_)va(自性)の同義語であるとされている。svabha(_)va も釈尊にあっては問題にされなかった言葉である。
 サーンキヤ学派の転変説(parin.a(_)mava(_)da)では、根源的原理としてプルシャ(purus.a)とともにプラクリティをたて、結果を原因と別の存在とはせず、原因の中にすでに存在していると考える。したがって、現在とは新たに生ずるのではなく、過去世にすでに決定されていることになる。つまり結果から原因へと遡る考え方である。仏教でこれと同様の考え方をするのは、如来と衆生との等質性に注目し、連続的な面、不異の面を重視する如来蔵思想である。このような側面から見ると、サーンキヤ学派と如来蔵思想とは似ていると言える。このようなことから、『舎利弗阿毘曇論』で「心性」となっていても、パーリ『増支部』にはパカティという言葉が現われないことは、どうしても軽視するわけにはいかないであろう。空無我の思想と本性心の思想とが両立し得るとは考え難い。
 本性浄心をたてないときには、あるいは、一切衆生に成仏の可能性があるのだから如来と衆生との等質性をどこに見出すのか、悟りの根拠はどこにあるのか、などという疑問が起こるかもしれない。しかしこれもまた、空無我の思想が解決を与えてくれるであろう。本性浄心が説かれないのと同様に、本性染汚心も説かれない。仏陀を除いては、一〇〇%清浄である人はいないであろうし、同じく一〇〇%染汚である人も存在しないであろう(28)。釈尊が悟りを開いた後衆生への説法をためらわれたことは、「梵天勧請」の話で有名である。この経はかなり神話化が進んでおり、古層に属するものとは思われないが、そこに「そこで世尊は仏眼によって世間を観察しながら、衆生にして塵垢の少ない者、塵垢の多い者、利根の者、鈍根の者、善き相の者、悪しき相の者、教化の容易な者、教化の困難な者、……がいることをご覧になった(SN.I, p.138)とある。衆生にはいろいろな状態があって、悟りに達するための努力が比較的少なくてすむ者、逆に非常に多く要する者などの別のあることがわかるだけで、如来蔵系経典の描写とはかなり異なっている。仏陀となる以前は、釈尊の心もまた染浄和合であったと考えられる。しかし無我であったからこそ、修行によってその心を清浄なるものに変えることができた。凡夫の心も等しく無我であるから、努力によって清浄なることを得るであろう。一〇〇%の染汚心でない限り、つまり染浄和合心であれば、アングリマーラのような人物でさえ、微小な善心を拠所として清浄なる心へ向かう決意は可能なはずである。本性浄心を設定しなくても、無我の思想によって、如来と衆生との不一の面のみならず、不異の面をも見出せると思う。
 原始経典に解脱という用語のあることが、平川彰博士によって注意されている(29)。原始仏教で解脱(vimutti, vimokkha)と言えば、普通には心解脱、場合によっては慧解脱や倶解脱を指す。しかし、これらの前段階に一段低い最初の解脱があり、それが解脱(saddha(_)vimutta)と言われている。信解脱の内容は、慧によって煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信が確立して根を生じていることとである(30)。このような信は、智慧が不十分な段階でも得ることができる。心に少しでも清浄な部分があれば信解脱は可能である。したがって原始仏教においては、まずこの信解脱が重視され、このあと心や慧の解脱へと進むのであろう。一方平川博士は、浄土教における信の問題についても論じ、『無量寿経』の信が、「自己の理解し得ないものを信ずる」という点で、原始仏教では見られない新しいものである、と述べておられる(31)。このような慧を絶した信は、如来蔵の信と同様の構造を持つものである(32)。自性清浄心や如来蔵のような形而上学的本質論に及ぶと、信はこのような性格に変化せざるを得ないのであろう。これに対し原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであり、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信である。劣っているとはいえ、あくまで慧に基づいた信である。原始仏教で三宝に帰依するというときの信と如来蔵の信とは、同じ信とはいうものの全く次元を異にする。したがって、如来蔵思想に見られるような性格の信が、原始仏教に説かれていたとは考え難い。原始仏教の信解脱は慧が劣っていても可能であり、本性浄心を考えなくても、釈尊の無我などの教えを信ずること、信解脱を得ることによって、段階的に悟りへと精進努力することができると考える。
 如来蔵における信と深い関わりがある問題であるが、自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。『勝鬘経』では「自性清浄心に染有ることは了知すべきこと難く、唯仏世尊のみ……実の如く知見したまう(33)」、『涅槃経』では如来蔵について「たとえ十地に住する菩薩でも少分に見るのみ(34)」、『大乗起信論』では「この心は本より已来自性清浄なるに、しかも無明あり。無明のために染せられてその染心あり。染心ありといえども、しかも常恒不変なればなり。このゆえにこの義は、ただ仏のみ能く知るなり」、「忽然と念の起こるを名づけて無明となす(いずれも大正三二。五七七下)などと言っている。如来蔵思想が与える最終的な結論は、「無明生起の理由や如来蔵の存在については、ただ如来を信ずるしかない」ということに落ち着く。自性清浄心や如来蔵を考察する上で、「性」とともに「信」の問題をも避けて通ることはできないと思う。

(藤田正浩「原始仏教の心性本浄説について」『佛教学』第14号、1982年、pp. 101-104)


(25) 水野弘元、前掲論文〔引用者註:「心性本浄の意味」『印度学仏教学研究』20-2、八頁

(26) Abhisamaya(_)lam.ka(_)r'a(_)loka(_), Prajña(_)pa(_)ramita(_)vya(_)khya(_), ed. by U. Wogihara, p. 38

(27) Prasannapada(_), publiée par L. de la Vallée Poussin, p. 364

(28) 本稿四六頁に挙げた提婆達多についての叙述が問題となるが、このような峻烈な言葉は原始経典の古層には見出せない。成仏不可能な人を認める立場は無我説と矛盾すると思われ、釈尊がこのような立場にあったとは考えられない。

(29) 平川彰「信解脱より心解脱への展開」、『日本仏教学会年報』三一号。ただし信解脱は、原始経典に広く見られる用語ではなく、比較的新しい層に出てくる。したがって古くからあった用語かどうかはわからないが、このような考え方自体は古くからあったと考えて差し支えないと思う。

(30) 平川彰、前掲論文、五五頁

(31) 平川彰「如来蔵としての法蔵菩薩」、『恵谷先生古稀記念・浄土教の思想と文化』、一二九七頁

(32) 平川彰、前掲論文、一三〇〇頁

(33) 大正一二、二二二中−下『不増不減経』にも、信(s()raddha(_))による以外、手立てのないことが示されている(大正一六、四六七上、『宝性論(ジョンストン本)』の引用文は二頁)

(34) 『宝性論』、七七頁の引用文による。『涅槃経』、大正一二、四一二上、六五二下、八八七上

(同上、pp. 109-110)


〔引用者付記〕
藤田正浩氏は、本論文の他にも心性本浄説についての優れた論文をいくつも発表されている。引用者の知る限りで以下に列挙しておくので是非参照されたい。

 1.「パーリ『増支部』の心性本浄説について」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊第8集』、1982年

 2.「部派仏教の心性本浄説について」『禅学研究』第65號、1986年

 3.「パーリ上座部の心性本浄説について」『印度学仏教学研究』35−1、1986年

 4.「有分心と自性清浄心」『東洋の思想と宗教』第5號、1988年

 5.「『八千頌般若経』第一章の心性本浄説」『印度学仏教学研究』37−1、1988年

 6.「『八千頌般若経』の心性本浄説について」『フィロソフィア』第76号、1989年

 7.「自性清浄心をめぐって」、平川彰編『如来蔵と大乗起信論』、春秋社、1990年

 8.「「清浄」の意味について─ウパニシャッドから初期如来蔵系経典まで─」『禅学研究』第70號、1992年


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