犀角独歩さんとの対話

 今回は、「佛教再考」というHPを開設されている犀角独歩さんという方との対話の記録をご紹介したいと思います。

 今回のこの対話は、HPで公開することを前提としてなされたものではなかった(そのおかげで、ざっくばらんに独歩さんから御意見を頂戴することができ、 Libra としてはとてもありがたかった)のですが、私にとってとても有意義であったことから、独歩さんにお願いして公開のお許しを頂きました。このような無理をお許し下さった独歩さんに心から感謝の意を表します。

 なお、「註」は、今回の対話の記録をここに公開するにあたって、対話の後で Libra が付けたものです。

 Libra です。長らくご無沙汰してしまい、申し訳ありませんでした。

 昨年は「仏教再考掲示板」においても相変わらずの未熟さ≠露呈してしまい、恥ずかしく思っています。

 昨年末くらいから「富士門流信徒の掲示板」での独歩さんのご活躍を拝見させて頂いています。私としては、独歩さんのご発言の相変わらずの鋭さ≠ノ舌を巻くしかありませんが、以下の4点について質問させて頂きたくなりました。独歩さんにとっては愚問かもしれませんが、ご教示頂ければ幸いです。

  1.宗祖は三徳者を自覚されていたのでは?

  2.『五人所破抄』の作者は誰か?

  3.「曼荼羅正意」とはどういう意味か?

  4.万年救護御本尊の御讃文中の「大本尊」の語の意味は?


【1.宗祖は三徳者を自覚されていたのでは?】


いずれにしても三徳を自らに示すものでないことは「主師親」の用法は聖人の真蹟には多く見られるものの、すべて例外なく教主釈尊(釈迦牟尼世尊)に充てられていることからも明白です。

(41 名前: 独歩 投稿日: 2001/12/18(火) 19:28、スレッド「(続) 大石寺の歴史」



誤)「「主師親」の用法は聖人の真蹟には多く見られるものの
正)「主師親」の用法は聖人の真蹟にも見られるものの
(42 名前: 独歩 投稿日: 2001/12/18(火) 20:06、同上)
 独歩さんは上のようにご発言されていますが、『一谷入道御書』及び『撰時抄』の以下の文についてはどのようにお考えなのでしょうか。

日蓮は日本国の人人の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし

(「一谷入道御書」、学会版全集〔以下、全集と略記〕、p. 1330)



日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり

(「撰時抄」、全集、p. 265)


 宗祖はあくまでも「釈子」という立場に立ちながら、自らが三徳者であるこ とを宣言されている(「法華経を心得る者は釈尊と斉等なり」)ように私には 見えます。

釈子 日蓮 述ぶ

(「撰時抄」、全集、p. 256)



経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず

(「日妙聖人御書」、全集、p. 1216)



【2.『五人所破抄』の作者は誰か?】


『五人所破抄』は嘉暦3年(1328)順師の草案(他に澄師説もあり)とされるので、50年の間に日蓮本仏論は醸造されたと予想されます。

(181 名前: 独歩 投稿日: 2001/10/21(日) 09:33、スレッド「『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について」



この『富士一跡門徒存知事』また、『五人所破抄』といった、いわゆる五・一相対義に基づく資料は、石山では興・澄・順師の作であるという説を採るのですが、私はこの点については疑問が残ります。

(105 名前: 独歩 投稿日: 2001/11/18(日) 09:43、スレッド「富士大石寺の歴史について」


 宮崎英修氏は『五人所破抄』を日代作だと言われていますが、独歩さんはこの説に親和的でしょうか?   
拙文「初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった」、
〔01.12.19 付記〕

http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html#fuki011219

【3.「曼荼羅正意」とはどういう意味か?】
 日代は

「仏像造立の事、本門寺建立の時也、(中略)御本尊図はそれが為なり」
(「宰相阿闍梨御返事」、宗全二−二三四頁)
と言っているようです。確かに、富要第五巻にも「西山日代上人より日印に贈り玉ふ御返事に云はく」として、以下の記述が見えます。

仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰伏の時三ケの大事一度に成就し給はしむべき御本意なり、御本尊図は是なり、只今造立過無くんば私の戒壇建立せらるべく候か、若し然らば三中の戒壇尚以て勅裁無し六角の当院甚た謂れ無き者なり

(要法寺日辰『祖師伝』、「日印の伝」)


 上のような考えは『五人所破抄』の「曼荼羅正意」とは全く異なる考えだと思いますが、「現時点で本尊とすべきは曼荼羅である」という意識だけは共通しているようにも思います。
 また、もしも『五人所破抄』が宮崎氏の言うように日代の作だとすれば、日代自身の曼荼羅(本尊)観にブレがあったことになるだろうと思います(以下の拙文を参照されて下さい)。
前掲拙文、〔01.12.20 付記〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html#fuki011220
 「曼荼羅正意」という意識は「聖人が立像仏をよけて曼荼羅をかけさせたこと」を弟子たちがどのように解釈したかということとも関係しているように思いますが、このあたりを独歩さんはどのように理解しておられるでしょうか。

聖人の臨終の模様については御遷化記録には何ら記されていないが、文明十年(一四七八)身延十一世行学院日朝の著、元祖化導記
或記云、十月十二日酉刻(午後六時)北ニ向テ坐シ玉ヘリ、御前〔ニ〕机〔ヲ〕立〔テ〕、供〔レ〕花焼〔レ〕香年来御安置〔ノ〕立像〔ノ〕釈迦仏〔ヲ〕立参セント申シタリケレバ、目ヲアゲテ御覧有〔テ〕面〔ヲ〕振リ玉フ、アル御弟子御直筆大漫荼羅ヲ可〔レ〕奉〔レ〕懸耶ト伺イ申サレケレバ、最モ、ト答サセ玉フ間仏像ヲ少シ傍ヘ押シ寄セ参セテ、其ノ後[ウシロ]ニ御直筆ノ妙法蓮華経ノ漫荼羅ヲ懸ケ玉フヲ御覧有リ (日蓮聖人伝記集 四六頁)
と「或記」を引いて記されている。ところで化導記より十八年ばかり前の寛正二年(一四六一)中山本妙寺の学匠本成房日実の著、当家宗旨名目にも
十月十ニ日、北向〔ニシテ〕御坐時、御前ニ文机〔ヲ〕立〔テ〕焼香散花〔ヲ〕致〔シ〕 釈迦像〔ヲ〕立進[マイラ]セ、同御本尊懸進セテ候ト申時見上〔テ〕御覧ジ面ヲ振リ給時、白連阿闍梨、御筆〔ノ〕曼荼羅懸進セ候テ此ノ釈迦像ノ方ヘヨセ妙法蓮華経ノ御本尊ヲ懸ケ奉ル、御覧アリテ後 (下ニ九ウ)
とあり二書ほとんど同じで、当時この所伝は一般によく知られていたことであったらしい。日興の新弟子六人いわゆる新六の一人、西山本門寺開祖蔵人阿闍梨日代(一二九七−一三九四)が日尹(大夫日尊の弟子)に与えた書状に、「御円寂ノ時、件ノ漫荼羅ヲ尋ネ出サレ懸ケ奉ル事顕然也(宗全ニ・二三五)と記しているのを見れば、聖人が立像仏をよけて曼荼羅をかけさせたことは真実を伝えていると見てよい。

(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、pp. 185-186、
    ※[]、〔〕はルビ、返り点等を表現するために引用者が補った)


 「曼荼羅」と「仏像」の関係についての私見は以下に提示してありますので ご批判下さい。
拙文「本尊論メモ」、〔01.12.10付記〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#fuki011210

【4.万年救護御本尊の御讃文中の「大本尊」の語の意味は?】

『山中喜八著作選集T 日蓮聖人真蹟の世界 上』、雄山閣出版、1992年
p. 59 に万年救護御本尊の写真が掲載されています。当該御讃文を「直筆 ではない」と論じた方を私は知りません。独歩さんはこの御讃文を宗祖の直筆 ではないとお考えなのでしょうか。

Libra、[メール送信日時: 02 01 07 (月) 7:53])



明けましておめでとうございます。

>  昨年は「仏教再考掲示板」においても相変わらずの未熟さ≠露呈してし
> まい、恥ずかしく思っています。
いやいや、とんでもございません。こちらこそ、失礼しました。


> 【1.宗祖は三徳者を自覚されていたのでは?】
>  宗祖はあくまでも「釈子」という立場に立ちながら、自らが三徳者であるこ
> とを宣言されている(「法華経を心得る者は釈尊と斉等なり」)ように私には
> 見えます。
なるほど。仰せのとおりですね。
Libraさんは、この延長で、三徳具備をもって、仏とするお考えは聖人はあったと思われ ますか。


> 【2.『五人所破抄』の作者は誰か?】
>  宮崎英修氏は『五人所破抄』を日代作だと言われていますが、独歩さんはこ
> の説に親和的でしょうか?
実は、この点、いまだしっくりとわかっていないのです。執行師は順師草案を代師が清書したなどといいます。
代師の曼荼羅を設計図のように考えるのは、順師にも見られますね。重須で興師が存生の間はそのような考えであったのかとは思うのです。
となると、曼荼羅正意、仏像堕獄などと論が展開していく時機を、いったいいつと見るべきか、悩むところがあります。
現段階では、むしろ聖人の祖形の削り出しが中心課題で、聖人滅後、興師50年の思想的な変遷、そこから興師の名を籍りた重須の思想展開、さらに富士周辺との交錯、さらに隆門の影響から、要山との交易による変化、とても、そこまでの全体像は見えていません。ただ、五人抄門徒事とは教学史的な相違は見られるわけですね。代師の円寂は応永元年(1394)、時既に石山時師の時代に入っている聖滅113年。既に石山は道師の段階で曼荼羅正意は喧しく言われていたのに、一尊四士が言われる内容からすれば、もっと上代の成立とするべきか、悩むところがあります。
「随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を 用ゆること勿れ」
というのは、非常に興味が惹かれる文で、頂澄二師が重須に帰伏しているのに、「継子一旦の寵愛」などと順師が果たして言うものであろうか。まあ、この言葉を言って重須において物議をかもすことがないのは澄師ということになるのではないのかと思う節もあります。また、「執者尚強欲帰依」が時師本にないといい、するとその一尊四士は重須前の興師思想に近いことからも、私は案外、澄師の草案なのではないのかと思う節があります。


> 【3.「曼荼羅正意」とはどういう意味か?】
>  「曼荼羅正意」という意識は「聖人が立像仏をよけて曼荼羅をかけさせたこ
> と」を弟子たちがどのように解釈したかということとも関係しているように思
> いますが、このあたりを独歩さんはどのように理解しておられるでしょうか。
私は曼荼羅正意がこのようなことから言われ出したとは思わないのです。
重須の造像批判というのは随身仏を持ち去られたヒステリックな反応に起因するのでないのかと勝手な憶測をしています。というのは、随身仏はどうも聖人自らが彫刻された可能性を感じるからです。上代のものでは海中出現の浮木を彫刻したというのです。全体の文面から、私はそれを「聖人が」と読んでいるのですが、実際は「させた」のかも知れません。いずれにしても、海中から出現したものではない、この前提があります。聖人は仏像彫刻と関わっていることになります。しかし、それが持ち去られてしまった。註法華経も持っていかれた。聖人の舎利は身延に葬られたまま、結局、興師の元に残っているのは曼荼羅のみ。さらにそこで御影信仰が加わる。そのような背景から、曼荼羅正意論は生じるようになっていったのではないのかと考えています。教義的な理屈は後追いであったのではないでしょうか。もっとも、こんなことを言っている人は誰もいないかもしれません。
私の勝手な考えです。
しかし、よく私は言うのですが、仏像彫刻がだめなのに、なぜ御影はよいのかと本当に不 思議に思うのです。
それと、曼荼羅は元来、安置するものではなく、聖人入滅の記述にも見られるように、時々に奉掲される用途であったのではないのかと私は考えています。
聖人の御在生の頃の弟子は、大概は天台宗寺院に寄宿しており、興師もまた、四十九院の供奉僧であったわけで、そのような弟子たちに下賜された曼荼羅は通常は巻いて保存されており、勤行などのとき、俄かに奉掲して勤行が執り行われる、そのような携帯性を意識したものであったと、私は想像しています。
しかし、興師が重須に拠点を構え、ようやく本拠が整ってからは御影堂に掛けっぱなしができるようになった。いわゆる、ここら辺りで、はじめて曼荼羅の“安置”という化儀が確定したのではないのか、その安置形式を得て、はじめて曼荼羅正意の基礎が整ったのではないのかというのが、私の勝手な見解です。
以上のようなところから、曼荼羅正意は徐々にその基礎を固めていったと思っています。

あと、極めて穿った見方ですが、仏像造立は檀信徒が仏師を使って行い、その後に開眼供養の段階で、はじめて僧への経済活動(供養)が発生するわけですが、曼荼羅の場合は、書写以前に、檀信徒から供養を付して願いが上がるという経済効率もあったろうと想像しています。

このようなことを言い出すと、もはや信仰ではないと眉を顰める御仁もいらっしゃるでしょうが、批判仏教を学ばれるLibraさんであれば、本来、仏像、曼荼羅という有形のものが仏教の本懐であるはずはないことは理解されてお出ででしょうから敢えて記しました。

>   聖人の臨終の模様については御遷化記録には何ら記されていないが、文明
>   十年(一四七八)身延十一世行学院日朝の著、元祖化導記に…
臨滅度曼荼羅をもって延山では宗定曼荼羅とするようですが、実際、聖人が入滅に当たっ て曼荼羅を掛けさせたかどうか、どうも私は「わからない」というしかありません。第 一、葬送儀礼は仏像肯定者の昭・老二師が執り行ったわけで、当然、仏像は置かれていた だろうと思ったりもするわけです。どうも、曼荼羅の権威付けに伝説が添加されたという ことはないのかと疑うところはあります。

なお、Libraさんの記述を拝見し、三身説に融和性がある点に興味が惹かれました。
私は聖人は、この点をそれほど意識していなかったと私は考えてきました。
また、本尊抄における「無始古仏」の、教主釈尊との関係をいつも意識するところがあります。
どのような点かというと、実成の段階の釈尊を教主と呼び、それ以前の無始古仏と区別されているのではないのかと私には思えるからです。つまり、五百塵点成道の釈尊は教主(本尊)であるけれど、無始古仏は教主と見なしていないのではないのかと考えているのです。


> 【4.万年救護御本尊の御讃文中の「大本尊」の語の意味は?】

> 当該御讃文を「直筆
> ではない」と論じた方を私は知りません。独歩さんはこの御讃文を宗祖の直筆
> ではないとお考えなのでしょうか。
いや、実は考えておりません。この点は問答名人さんとのやり取りをご覧になった結果として仰っていらっしゃるのでしょうが、私は「慎重」ということです。戒壇、万年救護などの成句が、戒壇之本尊、万年救護本尊、日禅授与本尊に共通して使われ、いわゆる曼荼羅の権威付けの常套句になっている点、日蓮上行説が当初、興門でしか言われていなかった背景から、他の資料と著しく親和性を欠いた点に答えを見出せない段階で悩んでいるということです。

ご承知のとおり、聖人が曼荼羅をもって「本尊」と記す実例は真蹟中ではわずか数例しかなく、また図示の曼荼羅でも通じて「未曾有之“大曼荼羅”」であって、「本尊」語の使用は寧ろ例外のように私には感じるわけです。そのようなことから慎重ということです。

独歩 拝

独歩さん、 [メール送信日時: 02 01 07 (月) 14:53])



 ご返事ありがとうございました。とても勉強になりました。

 以下、コメントが可能な部分について、現時点での卑見を述べさせて頂きま す。

> Libraさんは、この延長で、三徳具備をもって、仏とするお考えは聖人はあった
> と思われますか。
 宗祖は、佐前においては、三徳具備は「釈迦一仏にかぎりたてまつる」とお考えだったのではないかと思います。

ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる

(「南条兵衛七郎殿御書」、全集、p. 1494)


 しかし、佐後においては「法華経を心得る者は釈尊と斉等なり」ということを確信されていたと思います。「釈尊と斉等なり」ということは「仏である」ということと同じことだと私は考えます。だからこそ、宗祖は自らを三徳者であると宣言されたのだろうと思います。このような宗祖のお言葉には「仏の滅後に法華経を信ずる」ことの筆舌に尽くしがたい困難・法悦≠ニいうものがにじみ出ているような気がいたします。

応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり

(「御衣並単衣御書」、全集、p. 971)



> このようなことを言い出すと、もはや信仰ではないと眉を顰める御仁もいらっ
> しゃるでしょうが、批判仏教を学ばれるLibraさんであれば、本来、仏像、曼
> 荼羅という有形のものが仏教の本懐であるはずはないことは理解されてお出
> ででしょうから敢えて記しました。
 私は、以下のような浅井氏の考えに親和的なので、むしろ、独歩さんから見れば少々「行きすぎ」ということになるのではないかと恐れます。
同一理に支えられた同一相貌の御本尊は同質同体(浅井円道)
http://fallibilism.web.fc2.com/099.html

> なお、Libraさんの記述を拝見し、三身説に融和性がある点に興味が惹かれました。
> 私は聖人は、この点をそれほど意識していなかったと私は考えてきました。
 「報身」は「因行果徳身」とも言われます。このことをふまえて、私は本尊抄の以下の文を読んでしまいます。しかしながら、これは「連想ゲーム」の域を出ないのかもしれません。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 246)


 独歩さんは以下の文をどのように解釈されますでしょうか。

南無妙法蓮華経と心に信じぬれば心を宿として釈迦仏懐まれ給う

(「松野殿女房御返事」、全集、p. 1395)


 私の考えは以下に提示しています。
拙文「仏身論メモ」
http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html

> また、本尊抄における「無始古仏」の、教主釈尊との関係をいつも意識する
> ところがあります。
 「教主釈尊」には「初発心」がありますから、厳密に言えば「無始」ではありえないように思います。というのも、「初発心」の前からすでに「教主」であるというようなことはおよそありえないことだろうと思いますので。

我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり

(「本尊抄」、全集、p. 253)


 独歩さんが仰るように、宗祖は言葉を厳密に使われる傾向が強いと思いますので、「無始古仏」と「教主釈尊」は意識的に区別して用いられているのかもしれません。
 その場合、問題は、それらの間の「差異」ということになりますが、法身(無始*ウ終)までも視野に入れた三身全体を「無始古仏」と呼ばれ、特に智慧の側面である報身(有始*ウ終)に着目する時に「教主釈尊」と呼ばれている、という考えは成り立たないでしょうか。つまり、一尊四士の「一尊」は「無始古仏」で、曼荼羅の「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である、というふうには考えられないでしょうか。
拙文「本尊論メモ」、〔01.12.10付記〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#fuki011210
 あるいは、独歩さんが仰るとおり「無始古仏は教主と見なしていない」のであれば、「無始古仏」は報身未顕の法身(「理性の仏」、「理性の毘盧」)ということになるのでしょうか。

禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり

(「蓮盛抄」、全集、p. 152)



毘盧とは何者ぞや若し周遍法界の法身ならば山川大地も皆是れ毘盧の身土なり是れ理性の毘盧なり

(同上)


 以上、ほとんど思いつきの域を出ない愚考ではありますが、独歩さんのご忠告を私なりに受け止めて、「私自身の考え」を率直に述べさせて頂いたつもりです。ご批判頂ければ幸いです。

 2002.01.07 Libra拝

Libra、[メール送信日時: 02 01 07 (月) 20:56])



さすがに正鵠を得た無駄のない議論が成り立つ少ない論者であると改めて感心しました。

>  しかし、佐後においては「法華経を心得る者は釈尊と斉等なり」ということ
> を確信されていたと思います。「釈尊と斉等なり」ということは「仏である」
> ということと同じことだと私は考えます。だからこそ、宗祖は自らを三徳者で
> あると宣言されたのだろうと思います。このような宗祖のお言葉には「仏の滅
> 後に法華経を信ずる」ことの筆舌に尽くしがたい困難・法悦≠ニいうものが
> にじみ出ているような気がいたします。
たとえば、私はしつこく書く印度応誕の釈迦と久遠実成教主釈尊は、同じ仏であっても、その仏格に相違がありますね。
聖人が三徳具備をもって自ら仏を自称する場合、この仏格といかばかりのものとお考えになられますか。

>  私は、以下のような浅井氏の考えに親和的なので、むしろ、独歩さんから見
> れば少々「行きすぎ」ということになるのではないかと恐れます。
>   同一理に支えられた同一相貌の御本尊は同質同体(浅井円道)
いや、この円道師の書かれることは至極当たり前のことであると思います。
私は極端な話、曼荼羅は聖人の真筆とそれ以外、しかも書写したものに限定してしか考えていません。
ですから、印刷物(含・形木)を頒布するのではなくて、自ら書写したものを弟子に下賜するべきであると考えます。
ただし、図示は観心の道標を出ないと思いますが。

>  「報身」は「因行果徳身」とも言われます。このことをふまえて、私は本尊
> の以下の文を読んでしまいます。しかしながら、これは「連想ゲーム」の域
> を出ないのかもしれません。
先だって、正信会の人と話したのですが、その人も三身論者でした。
ご承知のように、私は真蹟、あるいは聖人の使用語彙以外には極めて慎重です。
鶏図に以下のような記述がありますね。
           倶舍(くしゃ)宗
 劣応身釈迦如来    成実宗         本尊
            律宗
 盧舍那報身(るしゃなほうしん)      華厳宗の本尊
    勝応身に当たる
 釈迦如来       法相宗の本尊
    勝応身に当たる
 釈迦如来       三論宗の本尊
    法身 胎蔵界
 大日如来       真言宗の本尊
    報身 金剛界
    天台は応身
         劣応
         勝応
 阿弥陀仏       浄土宗の本尊
    善導等は報身



                応身   有始有終
  始成(しじょう)の三身   報身   有始無終
                 真言大日等
                法身   無始無終

         応身
  久成の三身  報身   無始無終
         法身
これはLibraさんのお考えと整合性があるところですか。

>  独歩さんは以下の文をどのように解釈されますでしょうか。
>   南無妙法蓮華経と心に信じぬれば心を宿として釈迦仏懐まれ給う
さあ、どうでしょうか。簡潔には論じられないところです。
Libraさんは「私自身は「仏弟子の心の中に実在する」という言い方をしていこうと考えています」ということなのですね。
概ね、この考えには賛成ですが、「実在」という語の使用は引っかかります。私は実践的な意味合いを含めて慈悲に収斂して考えられないものかと試案しているのです。仏教は空と縁起、さらに慈悲ということを中心に据え、見られないものであろうかという基本的な考えを持っています。

>  私の考えは以下に提示しています。
>   拙文「仏身論メモ」
>   http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html
拝見しました。
やや、勝手な感想を述べれば、「本宗の本尊観は極めて明瞭であって、本門法華経の法体たる五字の題目が本尊なのである」というのは、どうも私は納得できません。本尊とは仏格を言うべきであって、その法のみを取り出して本尊というのであれば、「本尊・本門教主釈尊(人・仏の面)」語は死語になってしまうと感じます。まあ、私が疑う曼荼羅正意論の基礎概念を提供するものだと感じるわけです。また、曾谷入道殿御返事生死一大事血脈抄種種御振舞御書船守弥三郎許御書南無御書を真筆の如く扱われることには、正直申し上げて違和感があります。

しかし、全体的に仰ろうとすることはわかります。やはり、三身解釈がネックであろうとも思いました。しかし、この点はいままで充分に他の方と論じられてきたのでしょう。

>  「教主釈尊」には「初発心」がありますから、厳密に言えば「無始」ではあ
> りえないように思います。というのも、「初発心」の前からすでに「教主」で
> あるというようなことはおよそありえないことだろうと思いますので。
そうですね。
>  独歩さんが仰るように、宗祖は言葉を厳密に使われる傾向が強いと思います
> ので、「無始古仏」と「教主釈尊」は意識的に区別して用いられているのかも
> しれません。
>  その場合、問題は、それらの間の「差異」ということになりますが、法身
> (無始*ウ終)までも視野に入れた三身全体を「無始古仏」と呼ばれ、特に
> 智慧の側面である報身(有始*ウ終)に着目する時に「教主釈尊」と呼ばれ
> ている、という考えは成り立たないでしょうか。つまり、一尊四士の「一尊」
> は「無始古仏」で、曼荼羅の「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である、というふ
> うには考えられないでしょうか。
おもしろい見解であると思います。
ただ、これは先に挙げた鶏図久成三身とは相違することになると感じます。
しかし、釈迦・多宝を踏まえて三身というアイディアはおもしろいとは思います。

>  あるいは、独歩さんが仰るとおり「無始古仏は教主と見なしていない」ので
> あれば、「無始古仏」は報身未顕の法身(「理性の仏」、「理性の毘盧」)と
> いうことになるのでしょうか。
この点はきわどいところでしょうね。
私は本尊抄の「所顕三身無始古仏」を「所顕の三身にして無始の古仏」と読むことを疑っています。「三身を顕わす所が無始の古仏なり」ではないのかと考えてきました。つまり、五百塵点成道という有始の仏では三身を論ぜず、三身を論じるのは無始古仏の段階であるといったニュアンスです。たしかに三身論は台学でも重要なテーマに違いないのですが、聖人の真蹟中に、三身説に重きを置いていると私には感じられないのです。もちろんのこと、三身相即、三即一は論外であると思うのです。ですから、Libraさんの三身説明は興味は沸くものの、しかし、聖人御立法門の説明原理としては至当かどうか悩むわけです。

また、曼荼羅の相貌というのは、なにより愛染・不動の種子と共に、山川師によれば、花押は大日の種子のデザインであるとも言うわけでしょう。つまり、涌出品の宝塔涌現と二仏並座にアイディアを得て、そこに聖人の御在世時代までの十界聖衆を載せる故に十界曼荼羅などといわれるのに、しかし、梵字で愛染・不動を脇士とする大日如来にご自身を凝しておられる可能性があるという。妙本寺蔵の愛染・不動感見記の「自大日如来至于日蓮廿三代嫡々相承」を表したものなのだろうかと怪しむわけです。どうも、曼荼羅相貌の説明ではここのところではどれも歯切れが悪い、しかし、この点を除いてはまともな説明とは言えないという歯がゆさがあるのです。Libraさんは、この点はどのようにお考えですか。残念ながら、私は現時点では答をもち合わせていません。

>  以上、ほとんど思いつきの域を出ない愚考ではありますが、独歩さんのご忠
> 告を私なりに受け止めて、「私自身の考え」を率直に述べさせて頂いたつもり
> です。ご批判頂ければ幸いです。
批判など、僭越さは弁えます。しかし、Libraさんご自身の考えとなると俄然、文章に興味が涌くものです。
有り難うございます。

独歩 拝

独歩さん、 [メール送信日時: 02 01 08 (火) 0:01])



 ご返事ありがとうございました。お言葉に甘えて、引き続き、思いきって卑見を述べてみます。

> たとえば、私はしつこく書く印度応誕の釈迦と久遠実成教主釈尊は、同じ仏
> であっても、その仏格に相違がありますね。
> 聖人が三徳具備をもって自ら仏を自称する場合、この仏格といかばかりのも
> のとお考えになられますか。
 私はおおよそ以下のように考えています(粗雑の謗りは免れないでしょうが)。
「久遠実成教主釈尊」=『法華経』
          =『法華経』の精神を体現した人間の系譜(法脈)
 印度応誕の釈迦も宗祖も『法華経』を体現した人間(1)≠ナあり、「久遠実成教主釈尊」の一部(手足?)≠ニいう位置付けになるのではないかと私は考えます。白蓮華に喩えるなら、白蓮華という「種」が「久遠実成教主釈尊」で、その「個体」が『法華経』を体現した個々の人間≠ニいう関係になるというようなイメージも持っています。

> ですから、印刷物(含・形木)を頒布するのではなくて、自ら書写したもの
> を弟子に下賜するべきであると考えます。
 「相貌」に意味があるのであれば、印刷物でもよいということになるように私には思えるのです(あくまでも「理窟からいえば」)。かつて私は以下のように論じたことがあります。

>戒壇の大御本尊は真とする意見(正宗・学会)と偽とする意見(日蓮宗等)に分か
>れますが 真実のところはどうなんでしょうか。Libraさんにお尋ねします。


 さて、その場合の「真・偽」の定義はどうなりますでしょうか?日興上人が日目
上人に相伝したと伝わっている「弘安二年」の曼陀羅が、現在の「板曼陀羅」かど
うかということでしょうか。僕はその点については全く無知なのでお答えする資格
を持ちません。どなたか詳しい方おられませんでしょうか?

 僕の「曼陀羅」についての考えは以下のようなものです。

  >  だいたい、「曼荼羅」っていうのはその物自体に
  > 霊力がやどっているようなモノではないでしょう。
  > 宗祖が、命をかけて表現された「法華経の肝要(エ
  > スプリ、エッセンス)」でしょう。もちろんエッセ
  > ンス中のエッセンスは「題目」なわけですが。
  >
  >  そう考えれば、「曼荼羅」に優劣があるなどとい
  > う発想自体がナンセンスです。いかなる「曼荼羅」
  > であっても、そこに表現されている「法体」は同じ
  > ものです。
  >  また、「真筆」か「書写」かという違いも決定的
  > ではないでしょう。例えば、写本の『妙法蓮華経』
  > と、羅什(の門下)の直筆の『妙法蓮華経』とで
  > 「法体」が異なるでしょうか?宗祖直筆の諸御書
  > と現在本の形で発行されている御書とで「法体」が
  > 異なるでしょうか?
  (ゆきぞさんの掲示板、02月15日(火)22時58分46秒)


(旧掲示板「Beat Me !」での発言、「みなさまへのレス」、
  投稿者:Libra 00/05/11 Thu 10:46:10、
  http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_001_100.html#87



>                 応身   有始有終
>   始成(しじょう)の三身   報身   有始無終
>                  真言大日等
>                 法身   無始無終
>
>          応身
>   久成の三身  報身   無始無終
>          法身
>
>
これはLibraさんのお考えと整合性があるところですか。
 私の立場では、「三身が揃って顕われるのは『法華経』のみであり、その三身全体を一仏と見て無始無終と言われている」というように考えざるを得ないと思います。
 先述したように「教主釈尊」は「無始」ではありえません。永遠に娑婆世界で法を説き続け、衆生を導き続けるのですから「有終」でもありえません。とすれば、「教主釈尊」は「久成の三身」の中の「報身(有始無終)」と考えざるを得ないように思います。「久成の三身」を「無始無終」と言うためには、やはり、無始であるところの法身との相即関係から言う以外にないと私は思います。『法華経』の報身(教主釈尊)だけが法身(=境・実相・中道=縁起・空)を完全に証得した智である〔02.11.20 訂正〕と言われているのだと私は理解します〔02.11.20 補註〕
 以上のような私の考えに根本的な無理があるとすれば「整合性はない」と言わざるを得ないと思います。

> 私は実践的な意味合いを含めて慈悲に収斂して考えられないものかと試案して
> いるのです。仏教は空と縁起、さらに慈悲ということを中心に据え、見られな
> いものであろうかという基本的な考えを持っています。
 私も同じような考えを持っているつもりですが、私の場合には「空・縁起・慈悲(菩薩行)」を題目に結びつけて考えています。
拙文「題目論メモ」
http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html

> やや、勝手な感想を述べれば、「本宗の本尊観は極めて明瞭であって、本門法
> 華経の法体たる五字の題目が本尊なのである」というのは、どうも私は納得で
> きません。本尊とは仏格を言うべきであって、その法のみを取り出して本尊と
> いうのであれば、「本尊・本門教主釈尊(人・仏の面)」語は死語になってし
> まうと感じます。
 「法体」と言ってしまうと、どうしても「仏格」の側面が欠落してしまうのかもしれません。「思想・精神」と言い換えればどうでしょうか。
> たしかに三身論は台学でも重要なテーマに違いないのですが、聖人の真蹟中に、
> 三身説に重きを置いていると私には感じられないのです。
 宗祖においては「三身説」と「三因仏性」はセットで考えられていたのではないでしょうか。

         ┌法身如来            ┌正因仏性
仏────────┼報身如来        衆生──┼了因仏性
         └応身如来            └縁因仏性


          ┌小乗経には仏性の有無を論ぜず。
 衆生の仏性────┼華厳方等般若大日経等には衆生本より正因仏性有
          │ つて了因縁因無し。
          │
          └法華経には本より三因仏性有り。

(「八宗違目抄」、全集、pp. 154-155)


 「三因仏性」については以下で論じました(「御義口伝」等を引用している点は反省しています)。
拙論「「如来蔵思想批判」の批判的検討」、2章
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html#chapter2
 独歩さんは以下の文をどのように解釈されますでしょうか。

法身とは法身如来般若とは報身如来解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり

(「始聞仏乗義」、全集、p. 983)



> また、曼荼羅の相貌というのは、なにより愛染・不動の種子と共に、山川師
> によれば、花押は大日の種子のデザインであるとも言うわけでしょう。
(中略)
> Libraさんは、この点はどのようにお考えですか。残念ながら、私は現時点
> では答をもち合わせていません。
 私も考え中です。ただ、宗祖は時に台密の形式(思想ではなく)を逆用されているようです。例えば、「忘持経事」の以下の部分は、おそらく台密の「八葉蓮華説」と無関係ではないでしょう(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、pp. 50-51を参照しました)。

心性の妙蓮忽ちに開き給うか

(「忘持経事」、全集、p. 978)


 おそらく曼荼羅の相貌の密教的な側面も、宗祖の立場からの「開会」ということになるのだろうと想像しますが、その「開会」の意味(ロジック)が私には分かりません。

 2002.01.08 Libra拝

Libra、[メール送信日時: 02 01 08 (火) 3:33])

〔02.11.20 訂正〕
 もともとは「法身(=空・縁起・理の一念三千)と相即する(事の一念三千)」と書いてあったものを本日このように訂正しました。



Libraさま:

>  印度応誕の釈迦も宗祖も『法華経』を体現した人間≠ナあり、「久遠実成
> 教主釈尊」の一部(手足?)≠ニいう位置付けになるのではないかと私は考
> えます。白蓮華に喩えるなら、白蓮華という「種」が「久遠実成教主釈尊」で、
> その「個体」が『法華経』を体現した個々の人間≠ニいう関係になるという
> ようなイメージも持っています。
わたしはこのような説明はまあ至極であると思うのです。ただ、いつも戻るのは、では法華経とはなにかということになります。本尊抄一巻の趣意は、つまり一念三千であるということになるのでしょう。
不識一念三千者仏起大慈悲五字内裏此珠令懸末代幼稚頸
この結論からすると、一念三千>妙法蓮華経=本門教主釈尊という関係が見て取れるようですが、この点は思案中です。

本尊観に関するLibraさんが提示された文章を読んだ結果として、やはり、「富士門の出」、つまり、曼荼羅正意、題目本尊帰結型の思惟なのだと改めて思いました。

本尊抄において私がいちばん悩んだ記述は

来入末法始此“仏像”可令出現歟
であって、仏像の出現を暗示している点です。この点は看過できないと私は考えています。

>     >  だいたい、「曼荼羅」っていうのはその物自体に
>     > 霊力がやどっているようなモノではないでしょう。
そのとおりでしょうね。
>     > 宗祖が、命をかけて表現された「法華経の肝要(エ
>     > スプリ、エッセンス)」でしょう。もちろんエッセ
>     > ンス中のエッセンスは「題目」なわけですが。
私は少し違う観点から考えています。何度か記したことですが、曼荼羅相貌は二重、あるいは三重の観心構造になっているのではないのかと思うのです。一重は聖人の観心、そこに本門教主釈尊を観、その教主の己法として妙法蓮華経を観る、これが二重。さらに所顕三身無始古仏が潜むということです。まあ、題目をエッセンスといってもよいのでしょうが、エッセンスといえば、どちらかといえば、一念三千である、その導入のための題目ではないのかと思うのです。つまり、それが「不識一念三千者仏起大慈悲五字内裏此珠令懸末代幼稚頸」という記述の印象です。
>     >  そう考えれば、「曼荼羅」に優劣があるなどとい
>     > う発想自体がナンセンスです。いかなる「曼荼羅」
>     > であっても、そこに表現されている「法体」は同じ
>     > ものです。
法体のみの面でとらえれば、そうなります。けれど、仏・法を話して考えれば、単なる理法になってしまうわけですから、曼荼羅は本門教主釈尊仏像とセット化されないと意味をなさないように思えます。もちろん、これは文字、あるいは木絵で“表現しようとする”場合のことです。少なからず、本尊抄の起案は、その動機に基づいていると私はとらえます。仏格は脇士に軽重を論ずるのが聖人の本尊抄の資性ですから、相貌・図示によって出入はあることになると思うのです。
>     >  また、「真筆」か「書写」かという違いも決定的
>     > ではないでしょう。例えば、写本の『妙法蓮華経』
>     > と、羅什(の門下)の直筆の『妙法蓮華経』とで
>     > 「法体」が異なるでしょうか?宗祖直筆の諸御書
>     > と現在本の形で発行されている御書とで「法体」が
>     > 異なるでしょうか?
これは実に現代っ子的な(失礼)発想ですね。仏教は師弟子の道を欠いては成じないとういのは興師も言うところです。(師の聖人を現代においてはリーダーなんて置き換えるのはなおさらいただけませんが)
図示されてしまった結果だけを見れば、それを真似て書いたものも、元の聖人の筆も相貌としては同じでしょう。しかし、聖人なくして、その図示を知ることはできなかった。故に報恩概念、師・弟子概念からして、自ずと聖人の筆とそれ以外の別は見立てるべきであるというのが私の考えです。

故に私は印刷されてしまった文字データとしての聖人の祖書と真筆では実際、目の当たりにした印象、常に心に訴えるものがまったく違うと実感しています。それが実際に人に会うのと、その人の写真を見るだけとの違いに相似するものでもあろうかと思います。つまり、実物を見たときの情動と、その印刷物、写真を見たときの情動の差異は、一念三千という側面から重要な相違をはらんでいると私は思うのです。この点は、あとで一水四見から記します。

>  私の立場では、「三身が揃って顕われるのは『法華経』のみであり、その三
> 身全体を一仏と見て無始無終と言われている」というように考えざるを得ない
> と思います。
私が三身説、とりわけ報身解釈に慎重なのは、「自受用報身如来」という後代の解釈がどうしてもダブってくるからです。
故に石山系教学を分析するうえで、いったん、三身解釈は差し置きたいという思惑が実はあります。

天台というのは当事の仏教を総合し、法華最勝を言いきったところに価値があったと思います。 天台は当然、法華の三身を認める立場ですが、学者によって初期大乗経典に属する法華経は、三身思想発生以前に構成されたものであり、久遠仏思想はもっていても三身思想にいたっていないと指摘する学者も多いのはご承知のところです。私はこの意見にはどちらかというと賛成で、法華経経典の文面からは、必ずしも三身は読み取れないと考えます。

ただし、説明原理としての三身説は、法・報・応、空・仮・中、相・性・体などを、いかようにも配置して、当て嵌め説明することは出来るでしょう。もちろん、聖人自体、その基本はもちろん、天台に順ずるのだろうと思います。

しかし、それはそれとして、聖人が自身の実体験に当て嵌めて、思惟されていったのは、むしろ、本門教主釈尊と四菩薩、地涌菩薩、常不軽との関係における法華思想の確率であった、この点が、天台から飛躍していると私は思えます。ですから、三身説は基本として、その上にある本門教主釈尊と四菩薩の関係、つまり一尊四士こそ、最大の関心事であったろうと思うわけです。Libraさんは、これらの点は、どのようにお考えですか。仏像のことと併せてお考えをお聞かせいただければ有り難く思います。


>  私も同じような考えを持っているつもりですが、私の場合には「空・縁起・
> 慈悲(菩薩行)」を題目に結びつけて考えています。
>   拙文「題目論メモ」
拝見しました。
宇宙生命論の否定的な見解には全面的に賛同の意を表します。

>永遠に生き続ける釈尊=『法華経』
という記述がありますが、私はこういった表現はどうも馴染めません。聖人は己心に本尊(教主釈尊)とその所持の法・妙法蓮華経を観じる、つまり観心本尊を確立され、その指標として曼荼羅を図して示し、報恩流宣面から寿量仏(本門教主釈尊)像の出現を示唆されたのであろうと思うからです。

この微妙なニュアンスは、実はLibraさんがよく引用される袴谷さんやら、松本さん、また松戸さんといった人のフィルターを通してしまうと干渉縞(モワレ)がかかり、かえって見づらくなるという印象を私はもっています。

その意味で、たとえば「法華経は釈尊の智慧」と表現したりする風潮も生理的な嫌悪感を覚えます。もっと、聖人の使用語彙に忠実であるべきであると思うわけです。

先に「仏弟子の心の中に実在する」というLibraさんの言葉に異論を唱えたのもこのようなことに由来します。これを聖人の言によれば「実在」というのではなく、まさに「観心」と拝するべきであると思うわけです。すなわち「仏弟子の心の中に観ずる(観心)」とすれば、本尊抄一巻と矛盾しないことになるであろうと思うわけです。

>  「法体」と言ってしまうと、どうしても「仏格」の側面が欠落してしまうの
> かもしれません。「思想・精神」と言い換えればどうでしょうか。
上述の事情から、このような現代語への置き換えは、私はできる限り避けたいと思っています。
執行師が「宗祖本仏論の思想は、仏格本尊の確立を忘れたる法本尊大曼荼羅正意論思想」というのは仏・法というセットで考えられる片方のみで成立する過ちを指摘するところであろうと思います。仏格が欠落すれば、それはもはや、仏法ではなく、法のみということになるからです。

三身相即を述べられ、かつ報身の施設を述べられるのに、法身偏重と感じると言えば、言葉が過ぎるかもしれません。

次に

> 南無妙法蓮華経」という記号列
という表現を使用されていますが、分析、勘案するのに、このような発想は学的でしょうが、しかし、仏教のアプローチとしては、やはり受用側の心のポテンシャルが計算されていないと感じます。聖人が『法蓮抄』
今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼(にくげん)なれば文字と見るなり。た とへば餓鬼は恒河(ごうが)を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれど も果報にしたが(随)て見るところ各別なり。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず、 肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る
などというのは、つまり、観る側の心の境地による各別を特に訴えるのであり、記号の充足とともに、観る側の心の位置こそ、重要視している点は見逃せません。この点を、つまり染浄の二法として教える面が聖人にはあろうかと思います。
これは、先の曼荼羅の聖筆、書写、印刷を感じる相違とも大きく関わって私は判断するのです。「感じる側の問題であるから、印刷でもよい」といえば、今度は受用者側のみに偏った見方であるとおもうことになります。


>  宗祖においては「三身説」と「三因仏性」はセットで考えられていたのでは
> ないでしょうか。
この点については、そうであろうと思いました。

>   拙論「「如来蔵思想批判」の批判的検討」、2章
拝見しました。このなかで、

>「山川草木悉皆成仏」というような主張は、仏教の主張としては絶対にありえない
との記述。これはしかし、本尊抄の
草木之上不置色心因果木画像奉恃本尊無益也
という観門難信難解を否定するものとなりますが、そのようにとらえてよろしいのでしょうか。
> ア)“妙法”―――――→“縁起”
>イ)“蓮華”→“菩薩”→“利他”
>ウ)“経” →“仏説”→“言葉”
私は、このような当て嵌めは聖人の真蹟を手放しではなんともいえないところです。
なお、この論考において「不ニ」を述べるに、まったく四門観別(四句分別)が適用されていないことには、やや驚きました。

>  独歩さんは以下の文をどのように解釈されますでしょうか。
>   ─────────────────────────────────
>   法身とは法身如来般若とは報身如来解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠
>   劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり
ただ、字句とおりです。天台の本則に忠実であると思うばかりです。ここから常不軽と同じ実体験を経、四菩薩論へと展開していくのが聖人の御一代ということではないでしょうか。


>  おそらく曼荼羅の相貌の密教的な側面も、宗祖の立場からの「開会」という
> ことになるのだろうと想像しますが、その「開会」の意味(ロジック)が私に
> は分かりません。
今後のご賢察を期待します。

独歩 拝

独歩さん、 [メール送信日時: 02 01 08 (火) 13:09])



> では法華経とはなにかということになります。
 繰り返しになりますが、私は法華経を「妙法蓮華の法門」とらえています。
「妙法」=「縁起・空・無我」
「蓮華」=「菩薩行」

> > ア)“妙法”―――――→“縁起”
> >イ)“蓮華”→“菩薩”→“利他”
> >ウ)“経” →“仏説”→“言葉”
> > 私は、このような当て嵌めは聖人の真蹟を手放しではなんともいえないところ
> です。
 これは『法華経』から直接言えるのではないかと私は考えています。
拙文「本尊論メモ」、「経題釈」との関係
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#kyoudaisyaku
拙文「蓮華不染喩のパドマと経題のプンダリーカについて」
http://fallibilism.web.fc2.com/z020.html

> 仏教は師弟子の道を欠いては成じないとういのは興師も言うところです。
 これは仰る通りだと思います。しかし、例えば、宗祖の真筆の曼荼羅の写真を印刷したものに対して恋慕の念を懐くということは不自然ではないようにも思います。

> 故に私は印刷されてしまった文字データとしての聖人の祖書と真筆では実際、
> 目の当たりにした印象、常に心に訴えるものがまったく違うと実感していま
> す。
 この点は実体験がないので何とも言えません。「本物の凄さ」というものはあるのだろうと想像します。

> 三身説は基本として、その上にある本門教主釈尊と四菩薩の関係、つまり一尊
> 四士こそ、最大の関心事であったろうと思うわけです。
 この点については、現段階では、以下で提示した見解に留まっています。
拙文「本尊論メモ」、〔01.12.10付記〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#fuki011210

> 「法華経は釈尊の智慧」と表現したりする風潮も生理的な嫌悪感を覚えます。
> もっと、聖人の使用語彙に忠実であるべきであると思うわけです。
 この点は前にも仰って頂きましたが、悪いクセはなかなか直らないようです。独歩さんに何度も同じ事を言わせてしまい、恥ずかしく思います。今後はさらにこのことを意識するように努めていきたいと思います。

> >「山川草木悉皆成仏」というような主張は、仏教の主張としては絶対にありえない
>
> との記述。
 上の記述は不適切であったと今では反省しています。それで以下のように述べてみたことがあるのですが、まだ私の中ではきちんと整理ができていないというのが正直なところです。

 なんらかの意味で『法華経』になることができるのであれば、動物でも仏であると言えるでしょう。経典(無情)である『法華経』や曼陀羅が仏であるのと同じような意味においては。

(旧掲示板「Beat Me !」での発言、「顕正居士へ(Re: ところで) 」、
    投稿者:Libra 00/05/17 Wed 11:33:26、
    http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_101_200.html#108


 独歩さんが言われるように、「受用側の心のポテンシャル」および「受用者側のみに偏った見方」の問題をもっと考えないといけないのだろうとも思います。

 以上、私の方からは、今現在持っている弾をすべて打ち尽くした感じです。

 最後に、独歩さんに総括して頂いて、今回の対話を締めくくって頂ければ幸いです。

 今回も私の考えの盲点・弱点をご教示頂きまして本当にありがとうございました。

 2002.01.08 Libra拝

Libra、[メール送信日時: 02 01 08 (火) 15:39])



>  繰り返しになりますが、私は法華経を「妙法蓮華の法門」とらえています。
>   「妙法」=「縁起・空・無我」
>   「蓮華」=「菩薩行」
蓮華に因果倶時の意味を持たせないのですか?
となると、即身成仏(一生成仏)という聖人の命題は霞むことになりませんか。

>  これは『法華経』から直接言えるのではないかと私は考えています。
>   拙文「本尊論メモ」、「経題釈」との関係
この本尊メモには報身中心の、法華経=釈尊思想まではわかるのですが、三徳具備の日蓮(仏)というLibraさんの日蓮仏思想との関係がすっきり理解できません。聖人は鎌倉時代を始まりとする有始無終の仏と解しているのか、あるいは日蓮=上行=実成釈尊=無始古仏と見る本仏思想なのか、あるいはそれ以外なのか、よく理解できません。

私は聖人を仏と見ると、実は曼荼羅正意は成り立たないと思っています。理由は、仏典の中で自ら本尊を認めた仏など登場しないからです。教法の提示は確かに能化(仏)の役割ですが、その仏を敬慕して、経典をまとめたり、本尊に刻んだりするのは常に所化側のことのようになるでしょう。少なからず聖人の振る舞いは後者を出でないと思うからです

また、教主釈尊を無始古仏と=でつなげないだろうと、私は考えるのです。その理由は至ってシンプルです。
寿量品に「我本行菩薩道」とあるからです。つまり、総勘抄の「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」という一節は、まさにこの点と矛盾すると思います。もっとも、この書や、当体義抄が真筆であるはずはありません。即座開悟はまた五十二位のコンセプトとも矛盾するでしょう。つまり、菩薩道、初発心という脈絡から実成釈尊=無始古仏という等価は成り立たないはずだというのが私なりの考えです。


>   拙文「蓮華不染喩のパドマと経題のプンダリーカについて」
拝見しました。
松山俊太郎氏、懐かしい名前です。『法華経と蓮』は第三文明誌の連載で楽しみに読んでいたのは、もう25年以上前のことになるのでしょうね。まとめて加筆・訂正され、あるいは違う本として出たのが同書でしょうか。
当時、松山氏はプンダリーカとパドマの差異は、たしか理解していなかったと思います。あの頃の結論は、地涌出現の有り様はプンダリーカが散じた種、地下茎が伸びたあちらこちらで華を咲かせるイメージを現わしたものではないのかという仮説を立てていたと記憶しています。自説の修正は結構なことです。

少なからず、指摘されている梵本上で経題でしか、プンダリーカは使われておらず、「如蓮華在水」はパドマであったという発見は、法華経信奉者を慌てさせたのは、事実でしょう。あとから、説明をつけることは可能でしょうが、少なくても、この理解は、伝統的な法華経解釈では意識されていなかったのは残念ながら事実でしょうね。 プンダリーカとパドマ、矛盾しては困りますものね。しかし、私はこの説明にはアイロニカルになってしまいます。


>  これは仰る通りだと思います。しかし、例えば、宗祖の真筆の曼荼羅の写真
> を印刷したものに対して恋慕の念を懐くということは不自然ではないようにも
> 思います。
これは当然でしょう。しかし、私が言っている真筆に対する意味立てとは違う話です。これは最後に結論的にまとめて欠きます。
> > 故に私は印刷されてしまった文字データとしての聖人の祖書と真筆では実際、
> > 目の当たりにした印象、常に心に訴えるものがまったく違うと実感していま
> > す。
>  この点は実体験がないので何とも言えません。「本物の凄さ」というものは
> あるのだろうと想像します。
昨年の暮れ、とある寺院の庫裏から出てきた宮崎師の鑑定書がついた聖人の断片を拝見しました。
現代ではあまりお目にかかったことのない紙の質、墨の色、筆致の濃淡、年月を経た痛み、気がつくと無意識に合掌していました。

凄さというより、オリジナル、元々を大切にするのは仏教の基本でしょう。仏が教法を説いた。しかし、教法がわかれば、仏は要らなくなる。月を指す指、月を見た後は不用というのは禅宗の論理です。そんなことを意図したLibraさんではないでしょうが、このような誤解を受ける部分があると思います。

先のメールでテキスト・データ化された御書にも法体がある、そんなLibraさんの意見に触れました。また、妙法蓮華経という“記号”ということにも触れました。

Libraさんの思惟は西洋的なのだと思うのです。しかし、中観思想は中国日本では正確に理解されなかったとどこかでかかれてお出ででしたが、思想理解の根本的な手法として思惟構造の相違は致命的ですね。この点は中村元師がまとめていましたね。また、私が四句分別から文を組み立っていないと指摘したのもその意味です。

私は御書のテキスト・データに法体などないと思います。しかし、それを読むものが想念の中に取り入れられたとき、法体を認知することは出来るのでしょう。これは本尊についても同様でしょう。つまり、これが五蘊説ですね。十如是も同様のコンセプトで理解されるわけでしょう。受用者側と私が記した部分です。この基本部分の記述がLibraさんの文章には欠落していると感じるのです。ひいては基本的な一念三千理解が曖昧であるとも映じます。(もっとも10×10×10が1000で、それに3種類の世界があって3000なんていう程度の説明が罷り通るご時世ですから一念三千を真面目に注視する人は少ないのでしょうが)
もっとも、これはすべての文章を拝見したわけではないので、ここのところのメールのやり取りで提示された文章に限って申し上げるところです。

Libraさんは研究者ですから、当然、法華三大部六大部はお読みなのだろうと思いますが、しかし、聖人がこれらをどのように考えられたのかという遡追、また再現が不徹底な段階で、多の研究成果のみを参考にしてまとめているのではないだろうか?という疑問が、少し頭をよぎりました。しかし、よく勉強なさっていると感心するのです。しつこいようですが、一水四見、実は聖人理解の重要なポイントですよ。

まあ、勝手な感想を記しています。ますますご精進を期待いたします。

犀角独歩 拝

独歩さん、 [メール送信日時: 02 01 09 (水) 10:04])



 先のメールで今回の対話に区切りを付けようと思っていましたが、もう少しだけお付き合い頂いてもよろしいでしょうか。独歩さんの貴重なお時間を無駄にさせてしまうようで申し訳ありません。

> 蓮華に因果倶時の意味を持たせないのですか?
 「菩薩行」というのは、「修行」という意味では成仏の「因」であり、「慈悲のふるまい(縁起・空の体現)」という意味では「果」でもある、というように考えるわけにはいかないでしょうか(無茶苦茶だと言われそうで恐いですが)。

「妙法蓮華の法門」とは、「菩薩行(蓮華) という修行によって真理(妙法)に近づき(=上求菩提)、少しでも真理(妙法)に近づいたら、それを行かしてますます菩薩行(蓮華)に励む(=下化衆生)」という教えです。

(「創価学会関連リンク集」掲示板での発言、
    「宇宙生命論はブラフマニズムであり、密教である」、
    投稿者:Libra 投稿日:2001/03/27(Tue) 01:33」より、
    http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html#myouhourenge



> 聖人は鎌倉時代を始まりとする有始無終の仏と解しているのか、あるいは日蓮
> =上行=実成釈尊=無始古仏と見る本仏思想なのか、あるいはそれ以外なのか、
> よく理解できません。
 私としては、すでに提示してある以下のコメントで答えになっていると思うのですがこれでは不十分でしょうか。
>   「久遠実成教主釈尊」=『法華経』
>             =『法華経』の精神を体現した人間の系譜(法脈)
>

>  印度応誕の釈迦も宗祖も『法華経』を体現した人間≠ナあり、「久遠実成
> 教主釈尊」の一部(手足?)≠ニいう位置付けになるのではないかと私は考
> えます。
 あえて言うならば、私の立場は法華経本仏論≠ニいうことになるのだろうと思います。

> また、教主釈尊を無始古仏と=でつなげないだろうと、私は考えるのです。
 「教主釈尊」が無始ではありえないということは私自身すでに申し上げた通りです。

> 仏が教法を説いた。しかし、教法がわかれば、仏は要らなくなる。月を指す指、
> 月を見た後は不用というのは禅宗の論理です。そんなことを意図したLibraさん
> ではないでしょうが、このような誤解を受ける部分があると思います。
 むしろ、「禅宗の論理」の問題は「仏の言葉」さえも不要だとする点にあるのではないでしょうか。私にとっては、「仏の言葉」こそが仏そのものです(2)
拙文「曽我逸郎さんとの対話」、註1
http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html#1

> 中観思想は中国日本では正確に理解されなかったとどこかでかかれてお出で
> でしたが、
 これは松本先生が言っている(書いている)のであって、私自身が言っているわけではありません。むしろ、私は、「天台や宗祖によって中観思想が正しく継承されている」と主張することによって松本説を批判したのです。以下を参照されて下さい。
拙文「「如来蔵思想批判」の批判的検討」、
  4.中国仏教にも中観思想は存在した

http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html#chapter4

> 思想理解の根本的な手法として思惟構造の相違は致命的ですね。
 原理的には、「論理」に西洋も東洋も関係ないと私は思っています(3)

> 私は御書のテキスト・データに法体などないと思います。しかし、それを読
> むものが想念の中に取り入れられたとき、法体を認知することは出来るので
> しょう。
 私が「御書のテキスト・データに法体がある」と言うのはもちろんそういう意味においてです。

> 基本的な一念三千理解が曖昧である
 私は「一念三千」を「縁起」と理解していますが〔02.11.18 補註〕、「法華三大部六大部」を十分に読み込めておらず、勉強不足であり、曖昧であるというのは仰るとおりです。

 2002.01.09 Libra拝

Libra、[メール送信日時: 02 01 09 (水) 14:22])



> > 蓮華に因果倶時の意味を持たせないのですか?
>  「菩薩行」というのは、「修行」という意味では成仏の「因」であり、「慈
> 悲のふるまい(縁起・空の体現)」という意味では「果」でもある、というよ
> うに考えるわけにはいかないでしょうか(無茶苦茶だと言われそうで恐いです
> が)。
元来の因果倶時の意味がそうであれば、可でしょう。
Libraさんが蓮華を菩薩に充てたいのは、「如蓮華在水」からの連想からではないのでしょうか。ですから、プンダリーカとパドマが相違すると融通が悪くなるでしょうか。
台家に忠実に言えば、本因は菩薩道で、本果は成仏、それも地涌菩薩に充てるのではなく、釈尊についていうもので、これを菩薩に充ててしまうと違ってしまうと、私は思います。

> > 聖人は鎌倉時代を始まりとする有始無終の仏と解しているのか、あるいは日蓮
> > =上行=実成釈尊=無始古仏と見る本仏思想なのか、あるいはそれ以外なのか、
> > よく理解できません。
>  私としては、すでに提示してある以下のコメントで答えになっていると思う
> のですがこれでは不十分でしょうか。
>
>   >   「久遠実成教主釈尊」=『法華経』
>   >             =『法華経』の精神を体現した人間の系譜(法脈)

>   >
>   >  印度応誕の釈迦も宗祖も『法華経』を体現した人間≠ナあり、「久遠実成
>   > 教主釈尊」の一部(手足?)≠ニいう位置付けになるのではないかと私は考
>   > えます。
>  あえて言うならば、私の立場は法華経本仏論≠ニいうことになるのだろう
> と思います。
これは明かに法華経のコンセプトから逸脱していませんか。つまり、「皆応起七宝塔。極令高広厳飾。不須復安舎利。所以者何。此中已有。如来全身。

七宝塔は如来の全身、つまり=であるというのです。しかし、Libraさんは釈迦と法華経の軽重を論じ法華経を本仏であるといいます。しかし、ここでいう法華経とは経典として法華経ではなく、妙法蓮華経という法体であり、それが=釈尊であるという手順でしょうか。まあ、永遠に生き続ける釈尊ですか。わたしも、本仏という点以外では、ほぼ同様に考えますが、しかし、仏格の確立を意識する点で、Libraさんと違っています。

それにそもそも「本仏」とはなんでしょうか。


>  むしろ、「禅宗の論理」の問題は「仏の言葉」さえも不要だとする点にある
> のではないでしょうか。私にとっては、「仏の言葉」こそが仏そのものです。
このような考え方は、いわゆる法華経創作者が意図した経典崇拝主義の、成功例でしょう ね。
しかし、聖人が意図した仏教というより、むしろ、キリスト教のようだと感じます。

ヨハネ伝に「初めに言葉があった。言は神とともにあった。言が神である。この言は初めに神とともにあった」という聖書と何ら変わらない結論と感じます。

言い換えてみましょうか。「初めに言葉があった。言は仏とともにあった。言が仏である。この言は初めに仏とともにあった」、まあ、これは批判ではありません。印象を述べたまでです。

しかし、この聖書とLibraさんはまた違っています。法華経=釈尊とするまではよいでしょう。聖人の祖意と同一であろうと思います。しかし、仏の言葉が仏であるといった瞬間は仏格が消え去っていると感じます。言いたいことはわかりますが、こういう運びは、法のみで仏がない。仏は言であるとは、私は思いません。なぜならば、仏なくして、説法を考えるなどということを聖人は考えなかったろうと思うからです。Libraさんが割愛される「仏像出現」を示唆した聖人の一面があるからです。


> > 中観思想は中国日本では正確に理解されなかったとどこかでかかれてお出で
> > でしたが、
>  これは松本先生が言っている(書いている)のであって、私自身が言ってい
> るわけではありません。むしろ、私は、「天台や宗祖によって中観思想が正し
> く継承されている」と主張することによって松本説を批判したのです。以下を
> 参照されて下さい。
そうですか。なるほど。失礼しました。

> > 思想理解の根本的な手法として思惟構造の相違は致命的ですね。
>  原理的には、「論理」に西洋も東洋も関係ないと私は思っています。
そう考えていらっしゃるでしょう。文面から、それが伝わります。また、こうやって言いきってしまうところを、惜しいと感じるわけです。

しかし、実はこの思い込みを近代仏教の最大の過ちとして、その打破に命をかけたのが石田次男さんでした。
この人の思惟は問題もありますが「宇宙に遍満する妙法」「宇宙に実在する妙法」などという仏教論理の解明が謎解きをしたのでした。私はこれを意義のあったことであると思っています。

『現代諸学と仏法』、お読みになられましたか。もし、お読みでなければ、ぜひ、読んでみてください。上述の言葉を覆す因になることでしょう。ただし、この本も中途で終わっています。しかし、原島崇さん台本、池田大作さん俳優演じる創価教学に終止符を打たせた名著ではありました。

石田さんは三身から一歩進んで、三諦で考えている点で、Libraさんと異なります。「言語(仮名分別)の問題さえ解決されれば既存の哲学諸問題は大半程解消してしまう・と言う。論理実証主義から始まった現代の基礎理論は、この事を明白に示している」といい、現代理論ではなく、経典著述に使用された古代因明(四句分別)をもって論理とすることは薦めていました。そして、前者を現代諸学(外道義)、後者を仏教(内道)と相対を述べたのが『現代諸学と仏法』のコンセプトです。学会では、彼をぼろくそに非人間扱いすることによって、この著述から会員を遠ざけることに躍起になったものでした。逆にそれだけ、創価教学には危険なものであったということです。

私は石田論者ではありませんが、少なからず、私のように永年石山問題に関わってきた人間は、石田氏の論、業績、価値を看過することはできません。少なくても、ここで批判されている過ちは繰り返せないと思うわけです。つまり、それはLibraさんが言った「「論理」に西洋も東洋も関係ない」という思い込みにはNGを出さざるを得ないということです。因明で考える習慣がつくと、実はLibraさんの説明は仏教“理論”と感じないほどになるのですよ。びっくりでしょうか。

>  私は「一念三千」を「縁起」と理解していますが、「法華三大部六大部
> を十分に読み込めておらず、勉強不足であり、曖昧であるというのは仰るとお
> りです。
ここが、もう一つの弱点でしょうね。

自分の頭で考える、自分の言葉で語ると私が言うのは、法華経を語るのであれば法華経を、天台義を語るのであれば天台の著述をまず読んで、自分で感じたことを先に掴んでから前に進んだほうがよいということです。そうしないで、学者先生の成果を先に見てしまうと、その固定観念が頭に残存してしまうからです。もっとも、こちらのほうが学者として成功するには近道に違いありませんが、私には無縁の世界です。

以上、二つが解消されるとき、Libraさんの“言”は、私たちのように創価教学の形成から崩壊を見てきた人間をも頷かせるものになるでしょう。もし、お読みでなかったら、まずは『現代諸学と仏法』をお読みになられ、ぜひとも感想をお聞かせください。参考になるところはあろうかと思います。

まあ、かっとならないこと、批判されることに馴れることは大切でしょう。

独歩 拝

独歩さん、 [メール送信日時: 02 01 09 (水) 15:58])



> それにそもそも「本仏」とはなんでしょうか。
 創価学会の『仏教哲学大辞典 第三版』では以下のように説明されていますが、実は私もこの程度の認識しかありません。

三世十方の権迹の仏を出生する根本の仏のこと。迹仏に対する語。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 1568)



> しかし、この聖書とLibraさんはまた違っています。法華経=釈尊とするまではよい
> でしょう。聖人の祖意と同一であろうと思います。しかし、仏の言葉が仏であるといった
> 瞬間は仏格が消え去っていると感じます。
 「薬王菩薩本事品」には以下のように説かれていますが、この場合にも「仏格が消え去っている」とお感じになられますでしょうか。それとも訳に不満を感じられるでしょうか。

この『正しい教えの白蓮』という経説は、偉大な志を持つ求法者の乗物に乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来である。

(岩波文庫『法華経(下)』〔岩本裕他訳注、1967年〕、p. 201)



> 『現代諸学と仏法』、お読みになられましたか。もし、お読みでなければ、ぜひ、読んで
> みてください。上述の言葉を覆す因になることでしょう。
 石田氏の著作は私も読みたいと思うのですが、簡単に入手できるものでしょうか。

> 「言語(仮名分別)の問題さえ解決されれば既存の哲学諸問題は大半程解消してしまう・
> と言う。論理実証主義から始まった現代の基礎理論は、この事を明白に示している」とい
> い、現代理論ではなく、経典著述に使用された古代因明(四句分別)をもって論理とする
> ことは薦めていました。そして、前者を現代諸学(外道義)、後者を仏教(内道)と相対
> を述べたのが『現代諸学と仏法』のコンセプトです。
 私は因明には通じませんので、現段階では何とも言えません。ダルマキールティの『論理学小論(4)ぐらいは読もうと思っていますので、それまでこの点は保留ということにさせて下さい。言語についても触れておられますので、とりあえず、現時点での私の言語観を示すために、以下を引用しておきます。

言語の「意味の体系」というのは「可塑的な差異のシステム」なのであって、実体的意味(アトム的な意味)を構成要素としてもつような固定・完結した(閉じた)システムなどではありえません。

(拙文「縁起と空」、
    http://fallibilism.web.fc2.com/z012.html



彼らの議論、そして相対主義者と反−相対主義者のあいだで戦わされる不毛な応酬、また以下で扱う相対主義的命題の含む論理的困難、これらがともすればなおざりにしているのは、言語が自らのうちに自分自身との「ズレ」を含み、また不断にそうした「ズレ」を生みだすことによって特徴付けられる体系である、という言語に関するきわめて基本的な事実である。詩人の活動がこれを最も端的に例証しているが、なにも詩人をもちだすまでもなく、我々の日常的な言語使用の過程もけっしてそれと無縁なわけではない。子供が大人の成熟した概念を修得する以前にその言葉を用いて語ることを学び始めるという事実自体、そもそも我々が言語を本来「ズレ」たものとして修得しはじめるのだということを明瞭にものがたっている。この「ズレ」はつねに相対的なものである。つまり、確かに一集団内での言語使用の総体が比較的安定した体系を指向しているということは言えるとしても、言葉の「本来の用法」だとか「文字どおりの意味」だとかを仮定したり確定しようとする努力がつねに困難に陥るという事実が示しているように、「ズレ」がそれとの関係で測定できるような絶対的な基準、不動の中心はアプリオリには存在しないのである。

(浜本満「文化相対主義の代価」『理想』第627号、1985年、pp. 112-113)



> 因明で考える習慣がつくと、実はLibraさんの説明は仏教“理論”と感じ
> ないほどになるのですよ。びっくりでしょうか。
 びっくりです(笑)。
> 自分の頭で考える、自分の言葉で語ると私が言うのは、法華経を語るのであれば法華経
> を、天台義を語るのであれば天台の著述をまず読んで、自分で感じたことを先に掴んでか
> ら前に進んだほうがよいということです。
 法華経は読んでいるつもりです(もちろん独歩さんに比べればまだまだだと認めます)。

> 以上、二つが解消されるとき、Libraさんの“言”は、私たちのように創価教学の形
> 成から崩壊を見てきた人間をも頷かせるものになるでしょう。
 ご指摘ありがとうございます。謙虚に受け止めて今後の糧にさせて頂きます。

> まあ、かっとならないこと、批判されることに馴れることは大切でしょう。
 肝に銘じます。今後ともよろしくご批判下さい。

 2002.01.09 Libra拝

Libra、[メール送信日時: 02 01 09 (水) 16:58])



> > それにそもそも「本仏」とはなんでしょうか。
>  創価学会の『仏教哲学大辞典 第三版』では以下のように説明されていますが、
> 実は私もこの程度の認識しかありません。
>   ─────────────────────────────────
>   三世十方の権迹の仏を出生する根本の仏のこと。迹仏に対する語。
>
>   (『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 1568)
>   ─────────────────────────────────
私はこの辞典は使いません。あまりにも記述がお粗末だからです。
辞典は織田仏教辞典が使いやすいと思っています。解釈より、語句の出展をしっかり示し ているので役に立ちます。
それにしても、この辞典をコンピュータもない時代に一人で作り上げた織田得能師は私の 尊敬する一人です。

「本仏」語は通常、真蹟と言われる御書には一箇所も出てきません。しかし、平成新編(石山)に収録する『秀句十勝抄』に「迹仏は長者の位、本仏は法王の位か」とあるのみです。聖人は現代の本仏というような用法で、この語は使われていないわけです。ですから、私はこの語を使いません。つまり、この点でも学会の辞典は好い加減です。このような点を意識しないで、論を重ねると宗乗を学んだ人からは信頼されない文章になることになります。私は、Libraさんにそのようになってほしくないので、敢えて指摘しているわけです。

>  「薬王菩薩本事品」には以下のように説かれていますが、この場合にも「
> 格が消え去っている」とお感じになられますでしょうか。それとも訳に不満を
> 感じられるでしょうか。
>   ─────────────────────────────────
>   この『正しい教えの白蓮』という経説は、偉大な志を持つ求法者の乗物に
>   乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来である。
>
>   (岩波文庫『法華経(下)』〔岩本裕他訳注、1967年〕、p. 201)
>   ─────────────────────────────────
岩本師はまた、私の尊敬する一人です。たぶん、引用の「正しい教えの白蓮」はもっとも 信頼できる直訳本でしょう。
私は、この一節から、もちろん、仏格をしっかり見て取りますよ。なぜならば、経典は仏の言葉をまとめたという前提だからです。法華経を如来という教えを垂れた仏を仏格と見るわけです。この文面から仏格が見えないことに、私は寧ろ不思議を感じます。

法華経=如来を示すのに有利な梵本直訳を使われるのはけっこうです。つまり、法華経創作者は先に記したとおり、経典崇拝信仰が、コンセプトにあった点が明瞭になります。しかし、聖人は、そこから仏格を見出され随身の釈迦仏を所持され、片時も離さなかったし、しかももちろん、薬王菩薩本事品の該当の一節は「此経能救一切衆生…」として受用されてはいたでしょう。なお、聖人は経典崇拝から経題崇拝へ、台家の解釈を、さらに徹底して、唱題を確立されたのでしょうね。その意味で南無本門教主釈尊ではなく、南無妙法蓮華経であれば、仏格が薄らぐ土壌はあったろうと思うところはあります。


>  石田氏の著作は私も読みたいと思うのですが、簡単に入手できるものでしょ
> うか。
なかなか、今となっては難しいでしょう。それと石田氏はいまいう平和神軍の元、自称中杉“博士”に、出版を委ねたために、その価値を誤解される隙を作ることになったのは残念であったと思います。

石田さんの文書は一つだけ、私のサイトに隠しておいてあります。ただし、これは御書の真偽は前提とされていませんし、中古天台本覚思想との関係も論じられず、いわば寛師教学を疑わない。日蓮本仏論もそのまま。検討無しですが、まあ、参考になるところはあろうかと。宇宙生命論批判では、Libraさんより20年ほど、先輩ということになります(笑)

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ishida.htm

>  私は因明には通じませんので、現段階では何とも言えません。ダルマキール
> ティの『論理学小論』ぐらいは読もうと思っていますので、それまでこの点は
> 保留ということにさせて下さい。言語についても触れておられますので、とり
> あえず、現時点での私の言語観を示すために、以下を引用しておきます。
少し読みましたが長い(笑)あとでゆっくりと拝見させていただきます。
まあ、ぜひとも古因明には通じてください。

それと、ちょっと整理する意味で私のスタンスみたいな…、そんな大袈裟なことでもないのですが、書いておきます。

私は、ともかく、石山系グループにとって、第一段階として聖人の祖意、興師の祖意と、その相違を闡明にすることを一つの自分の仕事と考えています。それは過去に石山系で布教し、活動した罪滅ぼしです。しかし、それはプロセスであって、最終的にはシャキャムニの原形まで戻るつもりです。

で、この場合、実は縁起・空も仏教ではないのではないのかという仮定に基づいているのです。無我と空は矛盾するのではないのか、縁起法門は実はシャキャムニは説いていないのではないのか。では何を説いたかというと、当時のサンサーラが一般的であったご時世で、死んで無になる実態をそのままに受け止めよ、死は「楽」である、そんな死に行く修道がシャキャムニの教えではなかったのか、そんなところを考えています。ですから、ナーガルージュナ、バスバンドも、単なる通過点、中観も通過点であるという思いがあります。

変な表現ですが、その通過点を仏教であるというのがLibraさんの考えと、どこか私のなかでは映じているわけです。結局、私が実際に興味を持っている最初と結論の、その中間点に思惟を集中させているLibraさんがいる、そんな印象を抱いています。ですから、Libraさんにとって、私の指摘はどこか中途半端に終わることになるだろうという予想があります。しかし、Libraさんが、今後、果たすであろう役割には期待しています。

そして、Libraさんが対告衆とすべき人たちは、やはり、空・縁起を仏説を思いたい人たちなのだろうと。(多分、その意味で扱う人たちが私とは違うのだろうという思いもあります)しかし、それとは別に法華思想を経験してきた人たちをいサポートする必要は生じていくだろうと思うわけです。その人たちは、石山の近年の教学的な動向、近くは創価学会、少し遠くても寛師教学を学んだ人たちを含むでしょう。その人たちに効果的な影響を与える鍛錬としては、私の勝手な意見は、少しは参考になるところもあるかもしれない・ないかもしれない、そんなふうに考えています。

石田さんの提示も、そんな思惑からでした。もちろん、この方の考えに全面的に賛成などということではもちろんありません。しかし、この方はナーガルージュナに重きを置いているのは事実です。その意味ではLibraさんは認識しておく必要はあろうかと思うのです。

やや、余計なことを記しました。ご判読いただければ、有り難く思います。

独歩 拝

独歩さん、 [メール送信日時: 02 01 10 (木) 0:31])




> 私はこの辞典は使いません。あまりにも記述がお粗末だからです。
 もちろん私もこの辞典(『仏教哲学大辞典 第三版』)を全く信頼しておりません(笑)。というよりも、私にとっては「批判対象」でしかありません。
> 聖人は現代の本仏というような用法で、この語は使われていないわけです。
 私も宗祖を本仏そのものだとは言っていません。あくまでも本仏は『法華経』で、「印度応誕の釈迦」も宗祖もその一部(手足?)であるという構造になると申し上げたにすぎません。
 もっとも、宗祖と違って、私自身は「印度応誕の釈迦」より以前に歴史を遡って仏教があったとは考えませんので、他でもない「印度応誕の釈迦」の精神が『法華経』として生き続けているのだと理解しています(5)。この点では、「聖人の祖意」からは離れてしまっている(6)ことを自覚しています。

> 私は、この一節から、もちろん、仏格をしっかり見て取りますよ。なぜなら
> ば、経典は仏の言葉をまとめたという前提だからです。
 もちろん私も「経典は仏の言葉をまとめたという前提」に立っています。そして、その「仏の言葉」が仏の死後には衆生の「師」となると理解しているのです。

「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。

(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)、岩波書店、1980年、p. 155)


 だからこそ、拙文に以下のような勝呂氏の説を引用したりしているのです。

経典は法に外ならないから法師品以降の所説はいかにも「法」が中心であるように見える。しかし『法華経』がこの経に対する信仰を熱心に鼓吹しているのは、この経が仏の残された言葉であるからに外ならない。仏滅後は釈尊の肉体はすでに滅して生身の釈尊は存在しない。生身の釈尊を衆生が具象的に認識しようとすれば、釈尊の肉体のかたみである舎利とその遺言ともいうべき経典以外にない。経典は救済者・説法者としての仏陀を象徴するものである。経典を通してその説者である仏陀を崇拝するというのが『法華経』の立場であると考えられる。

(勝呂信静「法華経の一乗思想」、『印度哲学仏教学』第10号、1995年、p. 161)



仏の入滅した後の衆生にとっては、仏はすでにこの世にないのであるから、現実に存在するものは、経典とそれを説く法師である。この二つのものが仏に代るはたらきをなすのであり、そこにおいてこそ仏の姿を認めねばならぬというのが法華経の説かんとするところであろう。法華経の最後の章の普賢品に、「法華経を受持するものは、釈迦牟尼仏を見、供養するのと同じである。そしてこのように経を受持する人もまた仏と同じように敬われるのである」(取意)と述べているのは、法華経の結論に当るものであろう。

(勝呂信静「法華経の仏陀論」、渡辺宝陽編『法華仏教の仏陀論と衆生論』(法華経研究X)、平楽寺書店、1985年、p. 108)



> この文面から仏格が見えないことに、私は寧ろ不思議を感じます。
 私自身は仏格を否定しているつもりなど全くないのです。
拙文「仏身論メモ」
http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html

> 石田さんの文書は一つだけ、私のサイトに隠しておいてあります。
 ありがとうございます。じっくりと読ませて頂きます(7)

> 少し読みましたが長い(笑)あとでゆっくりと拝見させていただきます。
> まあ、ぜひとも古因明には通じてください。
 独歩さんが言われている「因明」とは「古因明」のことだったのですね。独歩さんはきちんとそう説明されていたにも関わらず、私が勝手に誤解・混乱してしまったようです。いずれにせよ、新・古を問わず、「因明」についての基礎知識だけはしっかりと身につけるように努力したいと思います。

> で、この場合、実は縁起・空も仏教ではないのではないのかという仮定に基
> づいているのです。無我と空は矛盾するのではないのか、縁起法門は実はシャ
> キャムニは説いていないのではないのか。
 なるほど。要するに、シャキャムニは無我を説いたのであって、縁起も空も無我の説明としては、まずい(無我説の苦さを表現できていない)ということなのですね。しかしこれは「縁起・空」の解釈の問題なのではないでしょうか。私は無我と空は矛盾しないと考えます。すでに提示した拙文「縁起と空」とともに以下を参照して頂ければ幸いです。

> > つまり、「この世の中は“持ちつ持たれつ”なのだ」「この世にあるすべての
> > ものが持ちつ持たれつで成り立っているのだ」ということ。
> > これが「縁起説」ではないのかな、と今のぼくは、そう解釈しています。
> .
>  実は袴谷先生や松本先生は上のような解釈を極端に嫌われているのですが、私
> は上のような説明も「縁起」の一面を正しく言い表していると思っています。つ
> まり、この世のあらゆるものは必ず(背景をともなった)前景≠ニして存在し
> ている(切り出されている)ということが「縁起」であり、「空」ということだ
> と私は思っています。「背景」を伴わない「前景」などはありえません(前景と
> いうものはそもそも何かを背景として沈めることによって前景として成立してい
> る)。
> .
>  しかし、残念ながら、上の説明では、「縁起」の一面(共時的・空間的側面)
> しか言い表されていません。というのも、(背景をともなった)前景≠フ「脆
> さ(通時的・時間的側面)」がこの説明にはにじみ出ていないからです。
> .
>  ここで言う「脆さ」というのは、
> .
>   「仮としての存在であり、確かなものとして存在していない
>    (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 144-145)
> .
> ということであり、
> .
>   「常住(永遠)でも、実在(有)でもない」「実に不安定な中ぶらりんな危
>    機的存在
>    (松本史朗『縁起と空』、大蔵出版、1989年、p. 63、p. 27)
> .
> だということです。上の説明で「縁起」を考える際には、このこと(時間的側面
> の欠如)だけは十分に自覚されなければならないと思います
(8)



> そして、Libraさんが対告衆とすべき人たちは、やはり、空・縁起を仏
> 説を思いたい人たちなのだろうと。(多分、その意味で扱う人たちが私とは違
> うのだろうという思いもあります)
 「役割分担」のようなものがあってもいいのかもしれませんね。

> しかし、それとは別に法華思想を経験してきた人たちをいサポートする必要は
> 生じていくだろうと思うわけです。その人たちは、石山の近年の教学的な動向、
> 近くは創価学会、少し遠くても寛師教学を学んだ人たちを含むでしょう。その
> 人たちに効果的な影響を与える鍛錬としては、私の勝手な意見は、少しは参考
> になるところもあるかもしれない・ないかもしれない、そんなふうに考えてい
> ます。
 独歩さんからはこれからも貪欲にいろいろなことを吸収させて頂きたいと思っています。独歩さんにとっては迷惑な話でしょうが(笑)。

 これからもよろしくご指導下さいますよう改めてお願い申し上げます。

2002.01.10 Libra拝

Libra、[メール送信日時: 02 01 10 (木) 1:41])



Libraさん、あなたは本当に興味深く、そして、魅力的な方であると思います〔05.09.04 補足〕

独歩

独歩さん、 [メール送信日時: 02 01 10 (木) 2:02])



> Libraさん、あなたは本当に興味深く、そして、魅力的な方であると思います。
 私の方こそ、独歩さんのような方に出会うことが出来てとても幸運だと思っています。導いて下さった法華経と釈尊と宗祖に感謝いたします。

〔後略〕

Libra、[メール送信日時: 02 01 10 (木) 3:25])



(1) 『法華経』を体現した人間≠ヘ『法華経』そのものである。姉崎正治『法華経の行者 日蓮』〔講談社学術文庫〕(講談社、1983年)の pp. 128-129 を参照。

(2) 私のこの発言に対して、独歩さんは「初めに言葉があった。言は仏とともにあった。言が仏である。この言は初めに仏とともにあった。」というような印象を受けるとコメントされたが、私はまさにそのように考えているのだということをここに告白しておきたい。というのも、「最初の説法にみごと成功した時」に釈尊の成道は完成した(本当の意味で仏が誕生した)と私は考えているからである(増谷文雄『現代人の仏教1 智慧と愛のことば・阿含経』、筑摩書房、1965年、 pp. 19-41 を参照)。

(3) 中村元博士も以下のように言われている。


 論理学は普遍的な学問であるべきである。どこの国の人が考えたとしても、〈正〉はつねに正であり、〈誤謬〉はつねに誤謬であらねばならぬ。ところが、今までには、ヨーロッパ系の諸言語で書かれた論理学の諸体系のあいだには一応の共通の理解が成り立っているが、インド文化圏の論理学や東アジア文化圏の論理思想(因明など)とのあいだには、まだ共通の理解ができ上っていないようである。

(中村元「インド論理学の理解のためにII インド論理学・術語集成──邦訳のこころみ──」、『法華文化研究』第9号、1983年、pp. 235-236)



しかし、記号論理学や、アリストテレス論理学、因明、東アジアの論理思想──これらすべてを含めて普遍的な基準から考察する〈普遍的な論理学〉、または〈構造論理学〉というようなものが必要ではないか、とわたくしは現在考えている。

(同上、p. 237)



 こうなると、少くとも論理学の領域では、日本語とか英語とかいうような既存の言語にたよることは、不用になるであろう。
 しかしそこまで到達するまでには、まだまだ長い距離がある。その間は、当分、既存の言語を用いて、形式論理学と記号論理学あたりにたよらざるを得ないであろう。一種の便宜的な手段として、いまわたくしがたどりつつある過程である。

(同上、p. 241)


(4) 『ニヤーヤ・ビンドゥ(Nya(_)ya - bindu)』のこと。この邦訳には、例えば、中村元「インド論理学の理解のためにI ダルマキールティ『論理学小論』(Nya(_)ya - bindu)」(『法華文化研究』第7号、1981年、pp. 1-178)がある。

(5) 私は以前、次のように論じたことがある。


 寿量品が「釈尊の成仏」を「五百塵点」まで遡って説いているのは、
過去仏思想が定着していた『法華経』成立当時の状況下において、な
んとか過去仏思想を止揚して、衆生を釈迦一仏に帰らしめるためでし
ょう。宗祖の時代にはまだ「大乗非仏説論」も「高等批評学」もなく、
過去仏思想がまだ現前と生きていました。よって、宗祖が『法華経』
の教相の「五百塵点」に立脚して法を説かれたことはむしろ当然であ
り、『法華経』の意図に沿うものです。

> 伽耶始成も久遠実成もともに方便であるとするな
> ら、では何が真実説なのか?と云う疑問が出てきますね。

 「インド生誕の釈尊によって仏教は始まった」というのが真実説で
す。

 仏身論は釈尊自身が言い出したものではありません。弟子達が言い
出したものです。

   これらの仏身論の出発点は、仏陀の入滅に際しての諸弟子達の
  思索沈思にあるとされる。

  (『日蓮宗辞典』
〔註:正しくは『日蓮宗事典』(日蓮宗宗務院、
  1981年)、p. 334)


 それと同様に、寿量品の久遠仏の教説も釈尊自身が言い出したもの
ではありません。

  法華経寿量品の久遠の仏は、これらの乱立した諸仏を統一して再
  び本来の釈迦一仏の状態に復帰し、諸仏を釈尊の応化または分身
  として包括する信仰的欲求から出た教説である。

  (同上、p. 334)

 さて、ある学校の教室で、授業中に生徒たちがぺちゃくちゃおしゃ
べりをしているという状況(当然、うるさくて授業を集中して聞くこ
とは難しい)があったとしましょう。そこで、授業をちゃんと聞きた
いと思った一人の真面目な生徒が、教室の誰よりも(すなわち先生の
声よりも)大きな声で、「みんな静かにして下さい!先生の話が聞こ
えません!」と叫んだとしましょう。そして、彼が叫び続けることよ
って、ついに生徒達が静かになったとしましょう。その場合、彼はも
うそれ以上大声で叫び続けるべきではないでしょう。もし叫び続ける
とするならば彼自身が最悪の「授業の妨害者」となってしまうでしょ
う。
 仏教がインド生誕の釈迦によって説き始められたものであるという
真実がすでに常識と化した現代にあって、過去仏思想に固執して続け
るとすれば、それは、せっかく「釈迦一仏の状態に復帰し」たにも関
わらず、仏教の創始者としての「現実の人間・釈尊の生涯」から目を
そらすことになってしまうでしょう。

(旧掲示板「Beat Me !」での発言、「川蝉さんへ(3/3) 」、
  投稿者:Libra 00/09/02 Sat 13:01:22、
  http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_501_521.html#502


(6) 当然のことながら、聖人の主張の()()()()()()を捻じ曲げてしまうというようなことは決してあってはならない。しかし、()()()()()()()()()については、たとえ「聖人の祖意」から離れることになってしまうとしても、もしもそのことによって現代に生きる我々にとっての「聖人の法門」の価値≠ェますます高まるのであれば問題はないと私は考える。
 このような私の立場を「批評的立場」だと言えば、本田義英氏のお言葉(『佛典の内相と外相』、弘文堂書房、1934年、pp. 461-462)を汚すことになってしまうかもしれないが、それでもあえて私は自分の立場を「批評的立場」だと言っておきたい。

(7) 読後の私の率直な感想を述べるならば、「古因明」にこだわる必要性を特に感じなかった。
 石田氏は


仏法で言う〈有・無〉は〈仮有・仮無〉という〈判断〉だからこそ矛循律違反な筈の〈非有非無〉(空)が妥当に成立している・という点を能く能く御考察願いたいものであります。

(『六師義は正埋なのでしょうか 知らなかった・では済まされません』、
    http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ishida.htm


と言われているが、そもそも〈非有非無〉というのは、「自性として≠ニいう限定語を付して理解されなければならない(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 346)であろう。そのように理解するかぎり、最初から〈非有非無〉は「矛循律違反」などではない。詳しくは、拙文「縁起と空」http://fallibilism.web.fc2.com/z012.html)を参照されたい。

(8) 創価学会応援隊・会議室1(http://www19.big.or.jp/~sunshine/soukagakkai/kaigisitu-1-new.cgiで行なったハル氏との対話の一部(No. 46514-46515)過去ログ(http://www19.big.or.jp/~sunshine/soukagakkai/kaigisitu-1-kako.cgi「02/01/05/03:21:09、03:21:43」を参照されたい。

2002.01.30
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http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html


〔02.11.18 補註〕 新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、263-269ページを参照されたい。

〔02.11.20 補註〕 法身(境)と報身(智)の関係については、花野充道「智(〔豈+頁〕)と本覚思想」、『印度学仏教学研究』第48巻第1号、1999年12月、154-156ページ、および、浅井円道「日蓮聖人の仏身論の特徴」、『印度学仏教学研究』第28巻第2号、1980年3月、580-582ページを参照されたい。


〔02.02.27 付記〕
 2002年2月19日に「富士門流信徒の掲示板」が運営されていたサーバー( green.jbbs.net )がダウンし、同掲示板は同日中に別のサーバーに移転された。よって、本稿中に記した同掲示板の URL は現在は無効となってしまったが、幸いなことに、同掲示板の管理者によって過去ログが現在も保管されているので、そちらにジャンプできるようにリンク先を修正した。なお、「富士門流信徒の掲示板」の新しい URL は以下である。

「富士門流信徒の掲示板」
http://jbbs.shitaraba.com/study/364/


〔05.09.04 補足〕
 独歩さんの名誉のためと、読者の方々に誤解を与えないために申し上げておきますと、現時点(05.09.04)における独歩さんの Libra 評価は、ここでいわれているのとはむしろ逆転しています。


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