「創価学会関連リンク集」掲示板での発言[ 2 ]

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[2199へのレス] 私への言及にちょっと補足 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/04(Wed) 18:24 <HOME>
 私の主張への言及があったようなので、少し補足させて頂きます。

> ところがだ、Libra氏は、仏性思想支持派であるぞ。仏性思想を
> 明確に説く大乗の涅槃経は「我=アートマン」肯定だぞ(笑)。

 涅槃経は前半と後半とで仏性の扱い方が違います。

  大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)
  http://fallibilism.web.fc2.com/047.html

> Libra氏があなたを騙しているとは私は思わない。氏は仏性
> 支持派であるが、批判仏教は一般的にいって、否定派である。仏
> 性を鼓舞した大乗の涅槃経は「我」を是認しているからです。こ
> の矛盾をどう氏が考察されているのかを私は知らない

 仏性を全否定される松本先生(及び袴谷先生)のお考えに対する
批判については、以下の拙稿の2章(「仏性修現論」は論理的に成
立する)を参照して頂ければ幸いです。

  「如来蔵思想批判」の批判的検討
  http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html

#「私は知らない」はないんじゃないですか(>_<) >三吉さん

[2199へのレス] 真理に口はない 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/05(Thu) 11:30 <HOME>
 こんにちは、三吉さん。

> 「法華の諸法実相の上にあるのが『涅槃経』の仏性思想で
> あるといってよい」とのことだが、逆ではないのかな。史
> 的には、法華経の思想を継いで、大乗の涅槃経が説かれた
> のである。

 「般若中観の空思想と法華の諸法実相とがその基盤にあり」
というのは、〔般若中観の空思想と〕「法華経の思想を継い
で」、〔その基盤の上に〕「大乗の涅槃経が説かれた」とい
う意味だと思いますが、そうは読めませんか?
 もっとも、私はそのような“継承”の部分ではなく“逸脱”
の部分を問題視するわけですが。

> 法華経で一切が成仏可能であるとされた根拠は自性清浄心
> だと思う

 平川先生は確かそのように言われていましたね。ですが、
それはおそらく間違いでしょう。方便品第一〇二偈では「心」
は問題にされていません。文脈から言って、方便品第一〇二
偈の「法」は「教法」でしょう(藤田正浩「『八千頌般若経』
第一章の心性本性説」『印仏研』37−1、p. 36、註17を参照)。

> 法華経の久遠釈尊

 は「有始無終」です。従って、「法華経の久遠釈尊」は
“真理そのもの”ではありません。そうではなくて、“仏の
言葉(教法)”の「危機的」な永遠性の表現だと思います。
あるいは「法脈」の永遠性と言ってもいい。「危機的」とい
うのは、“釈子がいようがいまいが無関係にそれ自体として
存在する独立自存の実体(アートマン)ではない”というこ
とです。釈尊を恋慕して真摯に仏説に耳を傾けるその求道心
が“存続する限りにおいて”生き続けるということです。

> 涅槃経の「我」とは、サーンキヤ哲学のプルシャ(神我・
> 純粋精神・霊我)でもなく、固定的実体的な自我でもなく、
> 法は常住がテーマです。

 「法(永遠の真理)」がいつどこでも普遍的に妥当すると
しても、それが、「一切皆空(無我)」という具体的内容を
もったものとして人々に示されなければ実質的には何の意味
もありません。仏の言葉によって始めて“真理”は“智慧”
になり、仏教が誕生したのです。

> その法が永遠に我々に働きかけ

 我々に永遠に働きかけるのは「仏の言葉(教法)」であっ
て、真理そのものではありません。真理は文字を書かないし、
口もありません。

> あるいは我々の中に実はあるとするのが「仏性」でありま
> す

 「無我である」という“事態”そのものが「(正因)仏性」
であるとしても、「無我(という“もの・存在”)がある」と
いうことではないでしょう。
 また、「無我である」からと言って直ちに「智慧がある」と
いうことにはなりません。仏の言葉を信じて、「無我である」
という“事態”を考え抜かねば“智慧”は生じません。

[2199へのレス] 三吉さんの 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/06(Fri) 05:23 <HOME>
 こんばんは、三吉さん。

> 方便品には「衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを
> 得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう」とある。
> 不軽菩薩品に「此の経を聞くことを得て 六根清浄なり」
> とあるところからすれば、六根に意根はあるので、心=清
> 浄であると法華経は語っているのではないかと私は思う。

 「法華経を受持した結果として心が清浄になる」というこ
とと、「心の本性は本来清浄である」ということは別でしょ
う。前者が後者を含意するわけではありません。

> あるいは方便品に「衆生垢重く慳貪嫉妬にして、諸の不善
> 根を成就するが故に、諸仏方便力を以て、一仏乗に於て分
> 別して三と説きたもう。」と説かれ、寿量品に「顛倒の衆
> 生」とあるところからも、法華経が「客塵煩悩説」に親和
> 的であると考える。

 たしかに、仏の立場からすれば衆生は顛倒していて真実を
知らないわけですが、そのことが「客塵煩悩説」とどう結び
つくのでしょうか?

> 煩悩が客塵であれば、塵・垢を払った
> 後の元々の心は清浄なのである。

 「心の本性は清浄で煩悩は客塵だ」というような楽天的な
断定がどうして可能なのでしょうか?「如来は性悪・修善」
という天台のような立場はどうなります?

> これは日蓮さんは「仏種」を「仏性」とみなし…

 天台の三因仏性説では、「正因仏性=無自性」です。宗祖
もそれを継承されていると思います。

> <法華経の久遠釈尊は「有始無終」>

 創価大学の菅野博史先生は、

  釈尊が菩薩の修行をして成仏したと説かれているように、
  『法華経』成立の歴史的段階では、後に形成された法身
  仏のように理法そのものを仏と見立てた仏の観念(この
  法身仏は無始無終、すなわち、過去も未来も永遠とされ
  る)はまだ成立しておらず、そのような意味では、仏は
  必ず菩薩の修行をして、ある特定の時間点において成仏
  した存在と考えるべきであるから、釈尊の寿命も無限で
  はなく、単に長大な時を表現しただけなのかもしれない。
  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、
   p. 224)

と言われています。
 宗祖は本尊抄で、

  我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子な
  り
  (「観心本尊抄」、全集、p. 253)

と言われていまので、法華経の久遠釈尊(教主釈尊)は「菩
薩の修行をして、ある特定の時間点において成仏した存在」
という立場です。成仏した時点が途方もない過去の時点であ
ることから、時に「無始」と表現されることもありますが、
厳密には「有始」だということです

> <釈子がいようがいまいが無関係にそれ自体としてある教
> 法>は、「又善男子、諸仏如来は法皆是の如し。衆生を度
> せんが為なれば皆実にして虚しからず。」と説かれている。

 「諸仏如来」は久遠釈尊の垂迹と考えます。私は「久遠釈
尊=教法の永遠性=法脈」ととらえます。教法は釈子によっ
てはじめて永遠性を得るのです。

> あるいは、史的釈尊自体、過去仏を承認し、悟った者の一
> 人であると言う教説は原始仏教の古層から推論されている。

 「それは推論に過ぎないのではないか。」

> 「我」論を否定し「無我」を説いた意義を「実体」批判と
> 肯定し、法華経の如来常住の論理的展開として、つまり
> 「法」の「はたらき」の主体的力用として「我」を説いて
> いるのである。 つまり、「仏説は常に衆生に働きかけつづ
> けているはたらき」としての「我」であって、換言すれば、
> 教法の常住性が「我」なのである。

 働きかけるのが具体的内容を持つ「教法(仏説)」である
うちはまだしも、六巻本の新層でもアートマンは“無内容”
な内在原理に転落しているのでは?その転落の原因は「教法
の常住性」を「アートマン」と表現したからでは?

> 「仏の言葉(教法)」とは何か。釈尊は文字を書き残さな
> かったから、肉声は、謎なのである。何を持って釈尊の言
> 葉とするのか。経典なのか。ならば、矛盾した教法が説か
> れているのである。

 矛盾した経典が残っているからと言って、それをすべて一
人の人間(釈尊)の言葉に帰さなければならないわけではな
いでしょう。

> あなたは仏語の半分を了知し、半分を
> 捨て去る「聞不具足」ではないか。あるいは、片方の仏語
> をもって、その論理性に拘り、諸法の半分を捨て去ってい
> る立場ではないのか。それは、「不信」の立場であり、論
> 理的、合理的かもしれないが、人智の立場であり「疑惑」
> の立場である。

 ならば「聖道門」を捨て去って、「浄土門」を選ぶのも
立派に「不信」の立場であり、「疑惑」の立場ということに
なりましょう。
 
  選択というのはこれが本物で、あとは偽物だと、そのこ
  とをはっきり見極めるのが選択であろうと思います。長
  い歴史の中で同じ仏教という範疇に包括されていても、
  これは仏教で、これは非仏教と言い切ることができる確
  信、たしかな原点を持つ、それが選択ということではな
  いかと思います。
  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、
   まえがき v)

> あるいは、学問的に云えば、あなたのいう仏語のみがなぜ
> 教法と云いうるのか。それは推論に過ぎないのではないか。
 
 推論によって仏教を選択すること自体を「不信」と否定さ
れるのであれば、あなたの言われる「信」は矛盾を矛盾のま
ま認めるということになります。

> 真理に釈尊と言う
> フィルターが、そして伝承した弟子達のフィルターが重な
> り、何が真理なのか、「何をもって決定」できるのであろ
> か。

 一切のフィルターから自由な「真理そのもの」を想定する
こと自体がナンセンスだと考えます。

   不可能なある目標を設定したうえで、これとは別種の
  真理が不可能であるという理由から、われわれがもちう
  るし、また現にもっている真理をけなすものとして、相
  対主義者は懐疑主義を見る。それはあたかも、架空の宝
  物を捜し求める無益な旅の途上にある探検家が、道すが
  ら本ものの宝物(架空の宝物よりはおそらく劣るであろ
  うが)に出会いながらも、それを脇へ放り投げるか無視
  するようなものである。相対主義はこのような態度を不
  合理なものと考えるのである。
  (鷲田清一『現象学の視線』(講談社学術文庫、1997年)
   よりの孫引き。p. 220)

> 「其の苦難を抜き無量無辺の仏智慧の楽を与え、其れをし
> て遊戯せしむべし。」ならば、<考え抜かねば“智慧”は
> 生じません。>というのは、法華経に対する疑心でしょう。

 またそのパターンで来られましたか(^_^;)。
 まず第一に、「考え抜かねば“智慧”は生じない」という
のは“智慧”の定義から帰結されるものだと考えます。

  『スッタニパータ』vs.『ダンマパダ』(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/008.html

 第ニに、『法華経』は「法を説け」と説きますが、理解も
していないものをどうやって説きますか?それとも、「考え
抜かず」に理解すべきだとでも?

[1903へのレス] 宇宙生命論はブラフマニズムであり、密教である 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/27(Tue) 01:33
 こんばんは。Libraです。

>でも、現代は釈尊は用いません。(かつや氏)

 「令法久住」の「法」とは『法華経』であり、「我常在此。
娑婆世界。説法教化。」の「我」とは釈尊です。仏身論につ
いては以下を参考にされたい。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

>永遠の生命とは、宇宙の根源のことでもあり、御本尊のことなのです。(かつや氏)
>永遠の生命を記号化したものが御本尊です。(三色旗氏)

 御本尊は「釈尊から本化の菩薩への正法付嘱の儀式」の表
現であって、「宇宙の根源」の表現でもなければ、「永遠の
生命」の表現でもありません。「令法久住」の表現です。
 もし、「宇宙の根源」の表現とみるならば、それは「密教
のマンダラ」になってしまいます。

>なにもかもすべてひっくるめた宇宙の本質、宇宙の法則を指して
>南妙法蓮華経 (妙法)と名付けたというところにあります(三色旗)

 「南無妙法蓮華経」は「宇宙生命」の名前などではありま
せん。現在も生きつづける「人間・釈尊の精神(スピリット)」
であるところの『法華経』に南無したてまつるということで
す。「妙法蓮華の法門」に帰依するということです。「妙法
蓮華の法門」とは、「菩薩行(蓮華) という修行によって
真理(妙法)に近づき(=上求菩提)、少しでも真理(妙法)
に近づいたら、それを行かしてますます菩薩行(蓮華)に励
む(=下化衆生)」という教えです。

 ところで、なんで「南妙法蓮華経」というように「無」を
飛ばして書いてあるのですか?わざとですか?

>御義口伝巻下
>自得の無始無終の古仏があると説かれています。(三色旗氏)

 御義口伝には中古の邪義が入りこんでいるのです。

>梵我一如の梵のように自分の外に根源を求めれば(三色旗氏)

 「一如」というのは、梵と我は一体ということです。自分の
外に求めるわけではありません。

>自分の内に根源を求めれば内道(仏教)となる

 仏教は根源など求めません。

>九識論という仏法があり、自己の心の奥底が
>宇宙と繋がると説かれています。これは梵我一如
>とは異なります。

 どこがどう違うといわれるのでしょうか?

 「宇宙生命論は仏教ではない」という言葉がお気に召さない
のであれば、こう言い換えましょう。

 「宇宙生命論はブラフマニズムであり、密教である」、と。

 以下、参考資料です。

  大宇宙と小宇宙の一体を体得する道─ヒンドゥ教・タントラ(松長有慶)
  http://fallibilism.web.fc2.com/033.html

  マクロコスモスとミクロコスモスが本来的に一体(松長宥勝)
  http://fallibilism.web.fc2.com/034.html

  宇宙生命それじたいを本体とする法身大日如来(宮坂宥勝)
  http://fallibilism.web.fc2.com/035.html

  全宇宙が仏陀の姿─華厳思想(渡辺照宏)
  http://fallibilism.web.fc2.com/036.html

  密教の「入我我入」(頼富本宏)
  http://fallibilism.web.fc2.com/037.html

  タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
  http://fallibilism.web.fc2.com/022.html

  「一切」とか「世界」とかいう発想は明確に反仏教的なものだ(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/032.html

  如来蔵思想は仏教ではない(松本史郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/001.html

[1903へのレス] 名誉片山さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/30(Fri) 18:55 <HOME>
 名誉片山さんへ

> 法華経も含めて後世の大部分の大乗教典は釈迦の教えとは原理を
> 異にするという認識なんじゃ(学術的論証はLibra氏提供の論文
> 参照のこと)。

 私はそのような論文は提供しておりません(^_^;)。「釈迦の直説
でない」ということと、「釈迦の教えとは原理を異にする」という
ことは別です。

  呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/042.html

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

> ところが、かつや君を初めとする学会員(日蓮も、更には法華経
> 作成者すら含む)は宇宙生命体理論(≒ヒンズー教のブラフマニ
> ズム)という、釈迦仏教哲学とは正反対のものをとり入れて仏教
> を再構成したものを信仰しておる

 法華経寿量品は「宇宙生命」を説くものではないし、宗祖も同じ
です。

> 恐らく日蓮の言っておる釈迦は「宇宙生命体」(或いはそれの擬
> 人化した「仏」)のことじゃろ。

 宗祖の立場は

 〇“釈尊滅後の釈尊=『法華経』”

というものです。寿量品の仏身観については、私と日蓮宗の御僧侶
との討論記録が残っていますので、お暇な時にでも参照して頂けれ
ば幸いです。

  Beat Me! 過去ログ
  http://fallibilism.web.fc2.com/log_index.html

 ただし、中古天台本覚思想の宇宙生命論(法中論三)が偽書に入
りこんでいるということはあります。

[1903へのレス] 名誉片山さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/31(Sat) 03:50 <HOME>
 こんばんは、名誉片山さん。

> 過去ログの中でLibra氏が“釈尊滅後の釈尊=『法
> 華経』”との主張をしなさっておられたのは記憶し
> ておりますわ。

 これは僕が勝手に主張しているわけではありません
よ(^_^;)。

  法華経に云く(…)「若し是の法華経を受持し読
  誦し正憶念し修習し書写すること有らん者は当に
  知るべし是の人は即ち釈迦牟尼仏を見るなり仏口
  より此の経典を聞くが如し当に知るべし是の人は
  釈迦牟尼仏を供養するなり」[已上]此の文を見
  るに法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざ
  る人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ず
  る者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり。
  (「守護国家論」、学会版御書全集、p. 66)

> ついでに質問させてもろうと、Libra氏は「現世利益」
> 「宿命転換」「輪廻論」などをどのように考えてお
> られるのかの?

 輪廻説については以下の拙文をご覧下さい。

  輪廻説は仏教ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html

 「宿命転換」というのは“業”の問題のことかと思
いますが、これについては、すでにアップしている以
下の資料を見ていただければ、僕の立場がお分かり頂
けるかと思います。

  意志と業(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
  http://fallibilism.web.fc2.com/015.html

 もしお持ちでしたら、和辻哲郎『原始仏教の実践哲
学』(岩波書店、1970年〔改版第一刷〕)のpp. 273-
293
もご参照下さい。僕の立場は和辻先生の立場に近い
です。

 あと、「現世利益」には否定的です。以下での議論
を参照頂ければ幸いです。

  B B S - s a n g h a
  http://www.lemon.ne.jp/bbs/bbs.cgi?room=sunlotus

[1903へのレス] 名誉片山さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/31(Sat) 12:08 <HOME>
 名誉片山さん、おはようございます。

> 法華経に呪術的要素が残存していてもそれは「中古天台
> 本覚思想の宇宙生命論(法中論三)が偽書に入りこんで
> いる」からにすぎない。

 「中古天台本覚思想」というのは日本天台の思想なんで、
それがインド成立の『法華経』に入りこんでいるというこ
とはありえませんが、法華経成立当時のインド仏教にすで
に呪術的要素が入りこんでいたのは事実でしょう。でも、
そういう人々もちゃんと正しく仏道に導いていかないとい
けないわけです。仏教は全員救済を目指しますので。それ
で、法華経編集者たちは、“仏道への入り口”として、当
時の“呪術的雰囲気”をも“利用”したんだと思います。
“善巧方便”として。よく読んで頂ければお分かり頂ける
と思いますが、「陀羅尼品」のテーマも“『法華経』の受
持”なのです。

> しかし、それと同時に、Libra氏が学会員として存在する
> 意味もないんじゃないかの?

 いや多いにあると思います..
 『中外日報』によれば、WCRP(世界宗教者平和会議)日
本委員会青年部会の平成十二年度総会・講演会(十七日)
において、森孝一氏(同志社大学教授・神学部長)が以下
のような見解を示されたそうです。

  「アメリカのキリスト教界においても原理主義勢力の
  台頭が著しい。世界の宗教界は対話の促進よりも、対
  立構造の先鋭化へと向かっている。必要なのは異なる
  宗教間の対話より、対話の必要性を認めようとしない
  同じ宗教内の原理主義者との対話だ」
  (「宗教間対立は先鋭化」『中外日報』01.03.27の
    8面)

 バーミヤンの石窟破壊は私にとっては他人事ではないの
です。

> 題目唱えて現世利益を願うことも法華経(=釈迦仏教)
> の教えに反するのじゃないかの?一種の呪術じゃからの。

 題目は『法華経』のエッセンスなんです。

  日蓮は広略を捨てて肝要を好む
  http://fallibilism.web.fc2.com/z002.html

  続・日蓮は広略を捨てて肝要を好む
  http://fallibilism.web.fc2.com/z003.html

  日蓮は広略を捨てて肝要を好む(完結編)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z005.html

> 太鼓叩いて題目唱えても意味ないじゃろ?

 学会は太鼓なんか叩きません(^_^)。

> 題目(=法華経は素晴らしいという呪文)を唱えること
> になんの意味があるんじゃ?法華経的に。

 「南無妙法蓮華経」は「宇宙生命」の名前などではな
く、現在も生きつづける“人間・釈尊の精神(スピリッ
ト)=如来の本体(アートマバーヴァ)”であるところ
の『法華経』に南無したてまつるということです。「妙
法蓮華の法門」に帰依するということです。もちろん、
「妙法蓮華の法門」とは、「菩薩行(蓮華)という修行
によって真理(妙法)に近づき(=上求菩提)、少しで
も真理(妙法)に近づいたら、それを行かしてますます
菩薩行(蓮華) に励む(=下化衆生)」という教えです。
永遠に自他ともに向上していく螺旋軌道を目指すのです。
“ブッダは歩む ブッダは語る”です。

> 「折伏」も池田氏が言うとるのとはずいぶん違う意味に
> なると思うがのう。「仏法は勝負だ!この野郎という気
> 持ちでいいんだ!!」(池田発言)などという精神はお
> よそ法華経精神とは相容れないもののようにワシには思
> えるがの。

 その通りだと思います。

  折伏は慈悲が根本
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html

[1903へのレス] 名誉片山さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/31(Sat) 23:00 <HOME>
 こんばんは、名誉片山さん。

> Libra氏は徹底して「法華経全肯定」の立場なんじゃな。
> 法華経は真理そのものであるとのう。

 そうですね(^_^;)。
 ですが、私は「汎批判的合理主義」の立場に立ちますの
で、自分の立場は常に積極的に批判にさらしていきたいと
考えています。本題とあんまり関係ありませんが、すでに
アップしてある「汎批判的合理主義」関係の資料を挙げて
おきます。

  議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/017.html

  正当化主義と非正当化主義―汎批判的合理主義(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/018.html

  弟子の批判を許容する精神(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/027.html

  相対主義批判(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

 初代牧口会長は合理的な批判精神の持ち主でした。

  信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/024.html

  依法不依人(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/025.html

> Libra氏が学会員である理由は概ね理解できた。

 牧口先生の精神を生きるということが僕の課題です。

  善人は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/026.html

> しかし、たとえ法華経にそう書いてあるとしても「真理
> に帰依します」という言葉を唱えることが真理に到達す
> ることになるとはワシには思えん。法廷の宣誓みたいに
> 一回言えば十分じゃないかの?

 繰り返し繰り返し確認し、噛み締めていくという作業も
やはり必要だろうと思います。縁起説・無我説を頭で理解
したからと言って、その瞬間に我執というものがすべて消
えてなくなるというものではありません。心の習慣という
のはそういうものでしょう。あの中村博士でさえ、毎日
「般若心経」を唱えられておられました。

   東洋思想研究の世界的権威として知られた中村元博
  士は、仏陀の教えに深く帰依し、私生活において毎朝
  欠かさず「三帰依文」「般若心経」「四弘誓願」、浄
  土真宗で唱える「生活信条」を読誦し続けていたこと
  が死後に明らかにされた。これが中村博士の「日課経」
  として印刷され、会葬者に配られた。遺言にしたがい、
  遺影を前にして参列者全員が声をそろえてこの「日課
  経」を唱えたとき、会葬者は中村博士の温もりのある
  息づかいに触れる思いを味わった。
  (『中外日報』01.03.15の社説)

 なんか資料の提示ばかりになってしまい申し訳ありませ
ん。

[1903へのレス] 三色旗さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/31(Sat) 23:01 <HOME>
 三色旗さん、こんばんは。よろしくお願い致します。

> 大乗非仏論を「否定する」釈迦の説法

などはありません。創価大学の菅野博史先生は以下の
ように言われています。

  中国における教判の形成の必然性(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/021.html

> 小説人間革命、新・人間革命は「真意」を伝える
> ための現代版法華経なのだろうか、それとも単なる
> 小説なのだろうか。

 僕は第一巻で挫折したクチのでコメントできません。
申し訳ありません。

[1903へのレス] 名誉片山さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/02(Mon) 00:47 <HOME>
 名誉片山さん、こんばんは。

> その思想が、Libra氏によると法華経に記述されておる
> らしい(ワシはそう思わんが)。

 失礼ですが、名誉片山さんは、法華経をきちんと読まれ
たご経験はおありでしょうか?

 法華経は「空・縁起(因縁)」の思想を説いています。

   薬王よ、若し善男子、善女人ありて、如来の滅後に、
  四衆のために、この法華経を説かんと欲せば、云何ん
  が、応に説くべきや。この善男子、善女人は、如来の
  室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、しかし
  てすなわち、応に四衆のために広くこの経を説くべし。
  如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心、これなり。
  如来の衣とは、柔和忍辱の心、これなり。如来の座と
  は、一切法の空、これなり。この中に安住して、然し
  て後に、懈怠ならざる心をもって、諸の菩薩及び四衆
  のために、広くこの法華経を説くべし。
  (「法師品」、『法華経(中)』(岩波文庫)、p. 160)

   復次に、菩薩・摩訶薩は、一切法は、空なり、如実
  の相なり、顛倒ならず、動ぜず、退せず、転せず、虚
  空の如くにして所有の性無く、一切の語言の道断え、
  生ぜず、出でず、起らず、名無く、相無く、実に所有
  無く、無量・無辺・無礙・無障なりと観ぜよ。但、因
  縁をもって有るのみ、顛倒より生ずるが故に常・楽と
  説くなり。かくの如きの法相を観ずる、これを菩薩・
  摩訶薩の第二の親近処と名づくるなり」と。
  (「安楽行品」、同上、p. 248)

 「あまりにも簡略すぎるではないか」と言われる方がお
られるかもしれませんが、そういう時は「空・縁起」を主
題として理論的に解説している経・論(例えば、般若経や
中論など)を参照すればよいというのが日蓮大聖人のお立
場です。

   五には法華経と申すは開経には無量義経[一巻]法
  華経八巻結経には普賢経[一巻]上の四教四時の経論
  を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり、法華経
  の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得るこ
  と莫きなり、爾前の諸経は一経一経を習うに又余経を
  沙汰せざれども苦しからず、故に天台の御釈に云く
  「若し余経を弘むるには教相を明さざれども義に於
  て傷むこと無し若し法華を弘むるには教相を明さずん
  ば文義闕くること有り」文、法華経に云く「種種の道
  を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種種の道
  と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の為とは法華経の為
  に一切の経を説くと申す文なり。
  (「一代聖教大意」、全集、p. 397-398)

  般若経開会の文は安楽行品の十八空の文
  (同上、p. 404)

 しかし、法華経は“自己の解放”を究極の目的とするの
ではありません。“全員の解放”を目指すのです。「永遠
に自他ともに向上していく螺旋軌道を目指すのです」。こ
こに「釈尊の精神」があるのです。

  > 「妙法蓮華の法門」とは、「菩薩行(蓮華)という修行
  > によって真理(妙法)に近づき(=上求菩提)、少しで
  > も真理(妙法)に近づいたら、それを行かしてますます
  > 菩薩行(蓮華) に励む(=下化衆生)」という教えです。
  > 永遠に自他ともに向上していく螺旋軌道を目指すのです。
  > “ブッダは歩む ブッダは語る”です。
  (本掲示板、No.2158)

  「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となるこ
  とによってではなく、「法を語る者」となることを主
  張する。そうすることによって、「法華経」は、呪縛
  と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経の宗教
  性」がある。
  (友岡雅弥「『法華経』の宗教性」『東洋学術研究』
   第34巻第2号、1995年11月、p. 108)
   http://fallibilism.web.fc2.com/042.html

> 無我説に付いては、出来ればLibra氏のより詳細な解説
> が聞きたいのう。

 「無我説」については、あまりにも多くの参考書がすで
に多くありますので、私があえてこの場で「詳細な解説」
をする必要はないでしょう。無我とは“我”を実体視する
立場の否定です。諸法を「縁起・無自性・空」と見るいう
ことです。

> 無我説を引用するLibra氏のネタ本(氏が啓発されたらし
> い)は、どうも、「和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』
> (岩波書店、1970年〔改版第一刷〕)のpp. 273-293」ら
> しいんじゃ
> が

 和辻先生の本の上の部分は「輪廻説と無我説の矛盾」を
説いた部分でして、とくに無我説を主題にして解説した部
分ではありません。無我説そのものについては、和辻先生
の本にこだわられる必要はないでしょう。

[1903へのレス] 三色旗さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/02(Mon) 00:52 <HOME>
 三色旗さん、こんばんは。

> 小乗仏教以前の原始仏教として釈迦は「無我」さえも説いて
> いない可能性があります。(上記文献参照)

 三色旗さんは以下をどう読まれますか?

  人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候
  なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟
  子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出
  でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてまし
  ませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり
  出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智と
  はなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせし
  か
  (「開目抄」、全集、p. 208)

 p.s. 2、3日、ネットから離れます。

[1903へのレス] 名誉片山さんへ(ハルさんも読んで下さい) 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/02(Mon) 10:28 <HOME>
 おはようございます、名誉片山さん。

> Libra氏が法華経を全肯定するのは勝手じゃが、そう考え
> ない人間もおる。世界中にな。

 いや「全肯定」と言っても、その“思想性”を肯定してい
るわけでして、「法華経の記述には一切矛盾はない」とか言
うような子供らしい考えはもっておりません。
 また、「法華経を否定する人間が世界中にいる」という
“事実”によって法華経そのものが直ちに否定されるわけで
もありません。それらの人間がいかなる根拠によって法華経
を否定しているのか。果たしてその根拠は説得力を持つのか。
それが問題になります。

> 救いを求める人間にそれを与えればよいとワシは思うとる。

 果たして「救いを求めない人間」がいるのでしょうか?

> たとえ、法華経にそう書いてあったとしても、原始釈迦仏
> 教の無我説と同じように、「仏教による人類全員解放」を
> 論理的に説明できるのかのう?

 友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』(第三文明社、
2001年)はその説明の一つと言ってもよいと考えます。
 名誉片山さんは、釈尊が何のために「遊行」されたのだと
お考えでしょうか?

> Libra氏が法華経を全肯定するのは勝手じゃが、そう考え
> ない人間もおる。世界中にな。
> なんかのう、「釈迦仏教=法華経=真理」と断言した瞬間
> に反釈迦仏教哲学的になるような気がするんじゃ(藁

 こういう発言こそ「注意して使わんと拙い」と思います。
でないと「俗流の相対主義」に陥ります。俗流でない相対主
義者、メイランドとクローズの言葉を引用しておきましょう。

   不可能なある目標を設定したうえで、これとは別種の
  真理が不可能であるという理由から、われわれがもちう
  るし、また現にもっている真理をけなすものとして、相
  対主義者は懐疑主義を見る。それはあたかも、架空の宝
  物を捜し求める無益な旅の途上にある探検家が、道すが
  ら本ものの宝物(架空の宝物よりはおそらく劣るであろ
  うが)に出会いながらも、それを脇へ放り投げるか無視
  するようなものである。相対主義はこのような態度を不
  合理なものと考えるのである。
  (鷲田清一『現象学の視線』(講談社学術文庫、1997年)
   よりの孫引き。p. 220)

 「不可説の絶対的真理」のような「架空の宝物」を持ち出
すことによって「議論の世界」からの逃亡をはかるというの
は、私から見れば、全く馬鹿げています。

  議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/017.html

  相対主義批判(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

 もし、法華経に「反釈迦仏教哲学的」な思想があると言わ
れたいのであれば、それを具体的に論証して頂きたく思いま
す。私は、法華経に「空・縁起(因縁)」の思想があること
を論証しました。
 「汎批判的合理主義」の基本は、「可謬主義」(自分が間
違っている“可能性”を常に認め、相手の批判によってそれ
が“具体的に”論証された場合には、必ず誤った主張を改め
るという前提に立つ)です。何度も申し上げますが、重要な
のは「論証」です。

> その思想が、Libra氏によると法華経に記述されておる
> らしい(ワシはそう思わんが)。[No.2190]

 の「ワシはそう思わん」の部分に対して改めてコメントを
求めます。「本を見たことすらない」にもかかわらず、なぜ
「ワシはそう思わん」と発言できたのでしょうか?

 p.s. 
  ハルさんのご発言に対してもコメントしたいのですが、
  議論が錯綜してもいけないと思いますので、名誉片山
  さんとの議論が一段落してからコメントさせて頂きま
  す。どうかご容赦下さい。

 p.s.2
  今日から2、3日、ネットを離れますのでレスが遅れま
  す。

[1903へのレス] 名誉片山さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/04(Wed) 17:23 <HOME>
 こんにちは、名誉片山さん。

> 法華経の呪術的部分も釈迦仏教哲学にひきつけて解釈
> した

 読んでもいないのに、「法華経の呪術的部分」というよう
な発言をして欲しくないのです。

> 世界中にいろんなものを信じておる人がおる。そうい
> う別のものを信じておる人々に法華経の正当性を無理
> 強いする権利は誰にも無いじゃろ、と言うとるんじゃ。

 別に「無理強い」はしていません。いいものをいいと根拠
を提示しつつ主張しているのです。もしも私の主張に説得力
がなければそれまでのことです。
 また、仏教でないものを仏教だと強弁する人がいる場合に
は、それを放置するわけにはいきませんので批判します。も
ちろん反批判も受けます。

> 法華経に書いてあることが唯一絶対の真理であると決
> め付けること。

 私は別に根拠無く「決め付け」ているわけではありません。
 それに、前回も言いいましたように、そもそも「唯一絶対
の真理」などというモノを持ち出す時点でナンセンスだと考
えます。

   不可能なある目標を設定したうえで、これとは別種の
  真理が不可能であるという理由から、われわれがもちう
  るし、また現にもっている真理をけなすものとして、相
  対主義者は懐疑主義を見る。それはあたかも、架空の宝
  物を捜し求める無益な旅の途上にある探検家が、道すが
  ら本ものの宝物(架空の宝物よりはおそらく劣るであろ
  うが)に出会いながらも、それを脇へ放り投げるか無視
  するようなものである。相対主義はこのような態度を不
  合理なものと考えるのである。
  (鷲田清一『現象学の視線』(講談社学術文庫、1997年)
   よりの孫引き。p. 220)

> 「無記」を貫いた釈迦が伝えたかった、無
> 我・無常に覚醒した精神状態(ニルヴァーナ)が、法
> 華経という文書に記述されておると言うのはどう説明
> すりゃいいんじゃ?

 「ニルヴァーナ」というのはある「完成された状態」では
ないでしょう。「絶えず自分自身を乗り越えていく運動その
もの」だと私は考えます。フッサールの著作は「現象学」を
完成させたわけではありませんが、「無限の未来へと続く
“現証学運動”」を導き続けるでしょう。それと同じだと思
います。

[1903へのレス] ブルガリアさんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/04(Wed) 17:25 <HOME>
 ブルガリアさん、こんにちは。よろしくお願い致します。

> またLibraさんの法華経信仰を否定するつもりは毛頭あ
> りません。

 いえいえ、間違っていると思われる場合には是非ご批判下さ
い。

> さて単純な質問なのですが、「汎批判的合理主義」と法華経は
> 整合性(共存)が取れるのですか?

 まず、「初期仏教(釈尊)」と「汎批判的合理主義(ポパー)」
との整合性については問題ないと考えます。実際、バートリーは
ポパーの思想と釈尊の思想との類似性に注目しています(小河原
誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、
1993年、pp. 34-36を参照)。
 そして、私は「法華経こそが釈尊」だと思っているわけですか
ら、もちろん、私自身は『法華経』と「汎批判的合理主義」は矛
盾しないと考えます。以下が参考になるかもしれません。

  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/003.html

  真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければ
  ならない(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/011.html

> 「救い」とは何か、という議論は必要ですがね・・・。

 「苦の自覚」という問題ですね。「生きる」ということ自体が
「苦」だとすれば、生きるものはみな「苦からの解放(救い)」
を求めているということになります。
 しかし、今現在、特に苦を感じておられないのであれば、確か
に、あなたは救いを求めておられないと言うべきかもしれません。

[1903へのレス] 三色旗さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/04(Wed) 17:26 <HOME>
 三色旗さん、こんにちは。

> Libraさんは今の学会を批判しているようだが人間革命
> を読んでない、ただの法華経ファンで偽善者だ。

 このような発言こそ、まさに、三色旗さんが、仏教徒ですら
なく、ただの「学会ファン」にすぎないということのなにより
の証拠だと私は考えます。それと、私は『人間革命』は読んで
いませんが、『法華経の智慧』(全六巻)は何度も読んでいま
す。

> 私の言いたかったのは批判をするのなら人間革命のような
> 原点(原典)を読む必要があったのではないかと言うことです。

 『法華経の智慧』では不足なのでしょうか?小説よりもむし
ろ妥当だと私は思います。小説『人間革命』が、日蓮法華宗の
「原点(原典)」であるなどと言う意見は論外です。

  釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に
  分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば
  経をすてて釈につくべきか如何
  (撰時抄、全集、p. 259)

 もしも「学会の原点」ということを言われるのであれば、そ
れは「牧口思想」だと私は思います。あなたは『牧口常三郎全
集』は読まれましたか?牧口先生の「依法不依人」の思想と、
あなたの言われるような意味での「師弟不二」の思想は明らか
に矛盾します。私は創価学会員として堂々と後者を捨てて前者
を選びます。

  信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/024.html

  依法不依人(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/025.html

  仏教の師弟関係(中村元)
  http://fallibilism.web.fc2.com/044.html

  神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
  http://fallibilism.web.fc2.com/046.html

> 経典の指摘の羅列に何の意味があるものか。
> どうとでもとれるではないか。

 それではすでに「仏教」ではありません。

  仏教には経論にはなれたるをば外道と云う
  (「蓮盛抄」、全集、p. 152)

> そうでないのなら反論して欲しい。

 私から見れば、私があえて反論するまでもなく、あなたはす
でに自滅しています。

[1903へのレス] ハルさんへ(p.s. ブルガリアさんへ) 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/04(Wed) 21:44 <HOME>
 ハルさん、こんばんは。よろしくお願い致します。

> たしか、Libraさんはご自身の掲示板で、御自分のことを「宗祖(日蓮)
> の弟子」と言い、また同じ掲示板の別のところで「一日も早く日蓮法
> 華宗が団結することを望んでいる。そして他宗を折伏しなければならな
> い」という意味のことを仰っていたと思います。

 ええ。言った覚えがあります。ただし、「折伏」というのは“理性的批
判”のことです。

  真の知性人とは(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

  宗門の学は、法華経に対する信心の欠落の状態にある(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/010.html

  折伏は慈悲が根本
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html

> (あえて「日蓮法華宗」という言葉を使ったのは意識してのことでしょ
> うか?)

 その通りです。

> これは、板曼荼羅(モノ本尊)への信仰をキッパリと断る、ということ
> なのか?それとも宗門との関係をキッパリと断る、ということなのか?

 第一義的には、「モノ本尊への盲信をキッパリと断つ」と言うことです。
ですが、曼荼羅を「付嘱の儀式の表現」としてとらえた上で、板曼荼羅を
「富士門流に伝わる一番大切な御本尊である」と認識する事までを否定す
るものではありません。あくまでも、“板曼荼羅を「マジカルなモノ信仰
の対象」として見ること”を否定するということです。宗門の権威主義の
根本的な原因はそのような「神秘主義的・非仏教的思考」だと私は思って
います(「宗祖の神格化」についても同じ)ので、この最も“本質的な問
題点”をウヤムヤにしたまま、表面だけ宗門を批判し続けても全く意味が
ないと思うのです。
 同じく、私が現創価学会の「宇宙生命論」を批判するのは、現創価学会
の場合には“宇宙生命”が「マジカルなモノ信仰の対象」になってしまっ
ていると思うからです。

  神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
  http://fallibilism.web.fc2.com/046.html

  この連載では、ゴータマ・ブッダの言葉や行動を通して、仏教がきわ
  めて現実批判的な、そして神秘性を徹底して排除した宗教であること
  を示そうと思いました。
  (友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、
   p.2)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

> 後者だとすれば、宗門を切り捨てる、という風に受け取れるのですが。

 私の現在の印象を率直に言えば、宗門は「モノ本尊への信仰」にどこま
でもこだわり続けるように思います。これは、松戸行雄『日蓮思想の革新』
(論創社、1994年)を読んでの印象です。従って、「モノ本尊への信仰を
キッパリと断つ」ということと、「宗門との関係をキッパリと断つ」とい
うことが別であるとは、(少なくとも現時点では)思えません。この場合、
「本質的な問題点を論点として宗門を批判する」ということは、「宗門を
切り捨てる」ということとは違うように私などは思うのですが、ハルさん
はどのように思われますでしょうか?

p.s. ブルガリアさんへ。「ポパーの思想と釈尊の思想との類似性」につ
  いては以下を参照して頂ければ幸いです。先程アップしました。

  ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

[1903へのレス] 三色旗さんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/04/04(Wed) 22:28 <HOME>
 三色旗さん、こんばんは。

> 経典という意味でなく、人間革命 4巻 生命の庭は戸田先生の
> 法華経への原点が書かれています。

 まだ言われますか…。
 戸田先生の体験は密教の「阿字観」に近いものだと私は想像
しています。それと、当時の「新宗教」の影響もあったでしょ
う。

  新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
  http://fallibilism.web.fc2.com/041.html

> 戸田先生の戦時中の
> 牛乳ぶたの数珠の展示はみたことありますか。
> 戸田先生の思いはわかりますか。

 そうやって感情に訴えるのではなくて、きちんと“法門”で
勝負して下さい。

  少し考えれば、少し実証的になれば、虚構だと分かるはず
  のものなのに、しかし、考えさせずに、感情に訴える。感
  情に訴えるが故に、一見それは、分かりやすく見え、多く
  の支持を得るのです。
  (友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、
   2001年、p.116)

  法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず
  (「唱法華題目抄」、全集、p. 16)

> これは小説ですが、出来事は事実に基づくとのことです。

 だからと言って、「宇宙生命論は仏教でない」ということは
動きません。

> 逆に言うと、人間革命を読まないとLibraさんのような
> 考えになるということもわかるような気がします。

 『人間革命』を読むと、必ず「宇宙生命論」を仏教だと思い
込むようになってしまうということでしょうか?もし本当にそ
うなのであれば(私にはまだ本当にそうなのかどうか、疑問で
はありますが)、“『人間革命』は読まれるべきではない”と
結論せざるを得ないことになります。

> また、活動しないと退転する例を見せていただいたと、
> 思いますので、Libraさんには深く感謝させていただきたいと
> 思います。

 私のことを「退転」と言われていますが、私から見ればあな
たは退転以前です。最初から仏教徒ではないのですから。

 結局、あなたは「論理的反論」を断念されたように見えます
がそれでよろしいでしょうか?

  理にまけてありとも其の心ひるがへらずば天寿をもめしと
  れかし
  (「妙一女御返事」、全集、p. 1259)

  議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/017.html

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