正当化主義と非正当化主義―汎批判的合理主義
(小河原誠)


 さて、ここでは、わたくしは汎批判的合理主義の他の側面に光を投げかけておきたいと思う。汎批判的合理主義は、正当化主義と非正当化主義とを鋭く区別していたが、この区別のもつ意義を、とりわけ政治的文脈を念頭において説明しておきたいと思うのである。そのためには、両者を対比させて論じるのが、好都合であろう。
 正当化主義者によれば、正当化の機能を果たす基礎には、「正義にかなっている」、「正しい」、「有意味である」、「経験的である」、「観察可能」、「真」等々といった卓越性がそなわっているのであり、それらは、公理から定理が演繹される際に公理の「真である」という性質が定理に推移していくように、基礎づけられるものに推移していくと想定されている。したがって、正当化主義者によれば、正当化をおこなうことは、論理的演繹をおこなうことにも似て全くもって合理的なことがらであった。これは、正当化主義的合理性における推移性の原則であって、すでに第二章第七節で見たものである。
 しかしながら、このタイプの合理性には明白な欠陥がある。というのも、「基礎」が卓越性を示す性質のみからなっているかどうかは議論の外におかれているからである。もし、この点を立証するような他の原理があったとしたら、最初の「基礎」は基礎ではなくなってしまうからである。「基礎」の卓越性は、正当化主義においては最初から鵜呑みにされるべきことがらなのである。それだから、仮に「基礎」に欠陥があるならば、正当化の手続きが正しければ正しいほど、その欠陥は帰結のいくつかにも推移することになる。正当化主義は、基礎のもつポジティブな特徴のみならず、ネガティブな特徴も推移させてしまうわけである。ここにおいては、正当化主義的合理性のモデルとなっている論理的演繹においては、偽なる前提からは、真なる帰結とともに偽なる帰結も、妥当な仕方で、導出されてしまうことが想起されてしかるべきである。
 ここで注意されてよいのは、正当化主義が権威主義と強い親縁性をもつという点である。権威主義的社会においては、権威のトップにたつ者の命令は、多くの場合、重大な障害に出会うこともなく、一般の人々へと流れ下っていく。また、それが正当であると考えられている。さらに、何を血迷ったかこれを「美しき流れ」などと称する人もいる。ここでは統治者が「よい」のであれば、その「よさ」は、必然的に人々にも伝わるはずであると想定されている。そして、正当化主義的合理性はこれを保証する。正当化主義的合理性からは、権威主義をチェックし批判することが合理的であるということは、決してでてこない。上から下への正当化の流れが「合理的」であるならば、下から上へ向かう運動は「非合理」となるからである。こうした意味において、正当化主義的合理性は、権威主義を補強する知的礎のひとつになっている。
 他方で、われわれは、われわれのありふれた日常生活において、正当化主義の異様な姿に出会うことが多い。というのも、そこにおいて正当化主義は、論理的に不可能なことを試みているからである。たとえば、「おれとおまえは、〇〇高校の同窓生ではないか。だったら、先輩の△△さんに投票すべきだ。」といった発言を考えてみよう。ここでは、事実言明から価値(規範)言明の導出が試みられている。そして、これは、事実と価値の二元論に立つ限り不可能なことである。事実によって、価値を正当化する事はできないにもかかわらず、正当化が「合理的思考」の規範とされているから、不可能事を試みるという倒錯的世界から抜け出すことができないのである。また、「太郎は酒がすきだよ、次郎だって花子だってそうだ。だからね、人間は酒がすきなんだよ。おまえだってすきなはずだ。」といった発言を考えてみよう。ここでは、帰納法の装いを借りて個別の単称言明から一般的な全称言明の導出という不可能事が企てられている。ここでもまた、正当化が「合理的思考」の規範とされているから、個別の単称言明をいくつか並べれば、「人間というものは酒がすきなのだ」という全称言明を正当化できると誤認されているのである。これもまた倒錯の世界である。
 しかしながら、こうした状況下にあって、正当化に論理的な障害があることに気づいた者たちは、この障害を克服するために、なんらかの「正当化の原理」を持ち込んでくるであろう。それは、ときとしては「価値と事実の融合の原理」とか「帰納の原理」などと呼ばれるかもしれない。しかし、それらは、本質的に、論理的不可能事を不可能でなくする原理である。だとすれば、それらを論理的に他人に納得させることは不可能であろう。では、彼らはどうするのか。ここにおいて、彼らの決まり文句はじつに陳腐である。「論理なんかどうでもいい」。彼らは、場の雰囲気をこわしてはならないなどといって、彼らの「正当化の原理」を強制する。さらには、物理的強制という手段に訴える。あるいは、彼らは彼らの「原理」を受け入れてくれる人たちとのみで「閉じた」集団をつくることもあろう。彼らは、まさに正当化主義的思考そのものによって「タコツボ的世界」へと駆り立てられるか、議論を拒否する行動様式へと追い立てられていくのである。
 これとは反対に、非正当化主義の原理は批判の逆推移性である。非正当化主義においては、思考の方向は、帰結から「基礎」へと進む。つまり、非正当化主義においては、もし帰結のうちに欠陥があるならば、論理的推論が妥当であったかぎりで、基礎(前提)のうちにも欠陥があると推論される。それゆえ、非正当化主義者は、このような非正当化主義的合理性を通じて、「基礎」のうちにおける欠陥の除去を試みる。仮に「基礎」に権威があるとしたら、非正当化主義者は、まさにそれへの抵抗者である。もちろん、彼らは、下からの批判の運動が上(「基礎」)に伝わっていくためのいわばパイプをつくることも試みるであろう。彼らは、「基礎」はいつでも批判に対して制度的に開かれているように努力することであろう。
 このような非正当化主義的合理性は、官僚によってコントロールされた社会を市民のイニシアティブによって改革していく政治的運動を哲学的レベルにおいて支援するものであろう――ほとんどの市民が正当化主義者であるとしても。この点を説明するためには、日本の著名な政治哲学者である丸山真男によってかつて「還元論法」と呼ばれたものに言及するのがよいかもしれない。彼は、次のように書いていた。

制度の建前の論理は、具体的政策→法の施行→国会の多数決→国民多数の意思というような「首尾一貫」した還元論法によって、政策を実施した場合の具体的な効果についての面倒な測定や普段の検証の問題を一挙にとびこしてしまうのです。
 ここで丸山が述べている「還元論法」は、一見したところ、議論の下から上への動きと見えるかもしれない。しかしながら、よく注意してみれば明らかなように、そこでの議論は、上位の原理によって下位のものを正当化しようとする思考方法によっている。丸山の言う「還元論法」とは、正当化主義の一形態にほかならず、正当化主義を逆方向から述べたものである。
 これに対して、非正当化主義は、具体的政策の対象とされた市民としてのわたくしの身に不都合があるならば、それを声を大にして言い立てることそれ自体が合理的であると主張する。これは、制度の建前の論理とは真っ向から対立する。正当化主義が抑圧的な「還元論法」を支えるのに対し、非正当化主義は制度の建前の論理に対するプロテストを支える。丸山の表現を真似て図式的に言うならば、具体的政策における誤り→法の施行における誤り→国会の多数決における誤り→国民多数の意思における誤りと進んでいき、各段階における誤りを除去するのが合理的となる。正当化主義的合理性は、こうした誤りの除去を支援する合理性ではない上に、前章で述べたことが正しければ、それ自体、理論的には破産していることを想起すべきである。

(小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 236-241)

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