折伏は慈悲が根本

 さて、今回は、第一回めの「宇宙生命論は仏教ではない」に引き続き、現在の創価学会のあり方について、前回とは別の角度から批判的に考察してみたいと思う。すなわち、前回の「宇宙生命論は仏教ではない」では教義的な問題(理論上の問題)について論じたので、今回は創価学会の現実の行い(ふるまい)について考えてみたいと思う。

 去年の12月、僕は、当時『聖教新聞』に連載されていた「自由座談会」の中で執拗に使われていた「口汚い悪口」を批判して、ある掲示板で以下のように発言した。


僕は聖教新聞の「汚い表現」に大反対です。あんなのは明らかに宗祖の精神に反します。批判はあくまでも「クール・ロジック」でやるべきであって、感情的に「口汚く罵る」のは批判でもなんでもありません。

 そして、その結果、多くの創価学会員の反感を買うことになってしまい、大人数を相手に論争を展開することになった。すなわち、多くの創価学会員は、当時の学会指導者が公の場において、ある個人を相当に汚い表現をつかって罵っていたことについて、「全く何の問題もない」というどころか「これこそが仏教的正義なのである」とまで主張したのであった。その論争は、最終的には“誠に不明瞭な理由によって”管理人の手によって突然“凍結”という形でウヤムヤにされ、さらには、何の予告もなく過去ログも消去されてしまった。また、当時、「自由座談会」の「汚い表現」について聖教新聞社に抗議の電話を掛けたりもしてみたが、結局なんの効果もなかった。

 これは僕としては半分予想していたことであったとはいえ、それまでは「いやそんなはずはない。健全な学会員も結構多くいるだろう」という希望的観測もやはり捨てきれずにいたので、やはり相当なショックではあった。しかし、それが自分をも巻き込んだ「受け入れざるを得ない現実の状況」として目の前に展開されてしまった以上、僕がその事実を虚心に受け止めなければならなかったのは言うまでもない。そして、「どうしたらこのような“非仏教的な”創価学会の体質を改善していくことが出来るか?」ということを真剣に考えるようになった。実に僕のHPはそういう思考の産物なのである。

 前置きはこれくらいにして、以下、「“怒りをあらわにして”仏敵をやっつけろ!やりこめろ!」という創価学会の根本姿勢が、いかに“非仏教的”な姿勢であるかということについて、経典に訊ねながら述べていくことにする。「依法不依人」との釈尊の遺言に従って。

 日蓮法華宗の人間としては早速『法華経』に訊ねたいところではあるが、「『法華経』だけが仏教ではあるまい」という方も読者の中にはおられるかもしれないので、中村元博士をして「パーリ語で書かれた仏典のうちでは恐らく最も有名なものであろう」と言わしめた原始仏典『ダンマパダ』にまず訊ねてみることにしたい。

 『ダンマパダ』では「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない」と言われている。


三 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。

四 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。

五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波文庫)、岩波書店、1978年、p. 10)
 創価学会では「“怒りをあらわにして”仏敵をやっつけろ!」と教え続けているが、これは“怨みに報いるに怨みを以てせよ”と言っているのと同じではないだろうか。

 さらに『ダンマパダ』に訊ねてみよう。


一九七 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮していこう。

(同上、p. 37)

二二一 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ、名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

二二二 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは〈御者〉とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(〈御者〉とよぶにはふさわしくない。)

二二三 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち会うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

二二四 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には)神々のもとに至り得るであろう。

(同上、p. 41)
 上では「怒るな」ということがしつこく強調されている。仏典は決して「怒れ」とは語らない。しかし、第二二四詩の言葉からも分かるように、「怒るな」と言っても沈黙してしまってはダメなのであって、きちんと真実を、そして正邪を見きわめようと努め、考え、真実を堂々と人々に語っていかなければならないのである。


一一 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実に達しない。

一二 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人々は、正しき思いにしたがって、ついに真実に達する。

(同上、p. 11)

七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれる。

(同上、p. 21)

二六八、二六九 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が〈聖者〉なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ〈聖者〉なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤にかけてははかるように)よく考える人こそ〈聖者〉とよばれる。

(同上、p. 47)
 以上で原始仏教の立場は明らかになったであろう。一言で要約するならば、「怒らずに慈悲の心をもって真実を語れ」ということである。

 さて、いよいよ『法華経』に訊ねる番である(勘のいい読者なら僕がどの部分を引用しようとしているのか気づかれていることと思うが)。


薬王よ、汝は当に知るべし かくの如き諸の人等にして
法華経を聞かざれば 仏の智を去ること甚だ遠きなり。
若しこの深経は 声聞の法を決了するをもって
これ諸経の王なりと聞き 聞き已りて諦かに思惟せば
当に知るべし、此の人等は 仏の智慧に近づけるなり。
若し人、この経を説かんには 応に如来の室に入り
如来の衣を著 しかも如来の座に坐して
衆に処して畏るる所なく 広くために分別して説くべし。
大慈悲を室となし 柔和忍辱を衣とし
諸法の空を座となし これに処して、ために法を説け。
若しこの経を説かん時 人ありて悪口をもって罵り
刀・杖・瓦・石を加うとも 仏を念ずるが故に応に忍ぶべし。

(「法師品」、岩波版『法華経』(中)、p. 162)


 上に引用した「法師品」の弘経の三軌の教説は、すでに引用した『ダンマパダ』第二二四詩の内容にほぼ対応するであろう。すなわち、
如来の室 = 大慈悲  ≒「請われたならば、乏しいなかから与えよ」
如来の衣 = 柔和忍辱 ≒「怒るな」
如来の座 = 諸法の空 ≒「真実を語れ」
というふうに。

 念のために創価学会教学部編『日蓮正宗教学小辞典』での「柔和忍辱」についての解説を確認しておく。


柔和忍辱(にゅうわにんにく) 柔和は性質がやさしくおとなしいこと。忍辱は、もろもろの侮辱を忍受し、逆境にあっても心が動揺しないこと。御本尊に信順することが柔和であり、世間にあって中傷を忍受し逆境を切り開く信心が、柔和忍辱である。

(創価学会教学部編『日蓮正宗教学小辞典』、創価学会、1972年、p. 631)

 以上により、「“怒りをあらわにして”仏敵をやっつけろ!」という精神が『法華経』で説かれる「柔和忍辱の衣をまとって弘経せよ」という精神に決定的に違背していることは明らかになったと思われる。しかし、そうであればなおさら、『法華経』を依経としているはずの創価学会が、何故に「“怒りをあらわにして”仏敵をやっつけろ!」などと言い続けるのだろうかという疑問はますます深まっていくのである。創価学会では涅槃経を根拠としているようなので、最後に御書に訊ね、日蓮大聖人の涅槃経解釈を示す。


涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の経文にせめられ奉りて日蓮は種種の大難に値うといへども仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。 但し謗法に至って浅深あるべし、偽り愚かにしてせめざる時もあるべし、真言天台宗等は法華誹謗の者いたう呵責すべし、然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし、然る間まづまづさしをく事あるなり立正安国論の如し、いふといはざるとの重罪免れ難し、云つて罪のまぬがるべきを見ながら聞きながら置いていましめざる事眼耳の二徳忽に破れて大無慈悲なり、章安の云く「慈無くして詐り親むは即ち是れ彼が怨なり」等云々、重罪消滅しがたし弥利益の心尤も然る可きなり、軽罪の者をばせむる時もあるべし又せめずしてをくも候べし、自然になをる辺あるべしせめて自他の罪を脱れてさてゆるすべし、其の故は一向謗法になればまされる大重罪を受くるなり、彼が為に悪を除けば即ち是れ彼が親なりとは是なり。

(「阿仏房尼御前御返事」、全集、p. 1307)


 上では、章安の涅槃経会疏の文を用いられて「彼が為に悪を除けば即ち是れ彼が親なりとは是なり」と結論されている。すなわち、折伏とは「相手をやっつけよう」と思ってやるものでは絶対にないのであって、あくまでも“慈悲”が根本なのである。

 今回の結論を言うならば、“怒り”を“慈悲”と“智慧”に昇華させて柔和忍辱の衣をまとって弘経するのが「法華経の行者」の使命であるということである。大聖人が「瞋恚は善悪に通ずる者なり」(全集、p. 584)といわれているのもそのような意味においてであったのだと僕は信じる。


一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ
(「崇峻天皇御書」、全集、p. 1174)

公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自賛気なる体・人目に見すべからず浅ましき事なるべき、弥身口意を整え謹んで主人に向うべし主人に向うべし
(「教行証御書」、全集、p. 1283)

2000.10.17
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〔訂正 01.04.06〕
 本日、以下のミスを訂正致しました。

〔誤〕(「法師品」、岩波版『法華経』(中)、p. 156
                 ↓
〔正〕(「法師品」、岩波版『法華経』(中)、p. 162
 メールで間違いを指摘して下さった反創価連盟さんに感謝申し上げます。


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