輪廻説は仏教ではない

 さて、久しぶりの「雑記」となってしまったが、今回はいわゆる「輪廻説」を批判的に検討してみたいと思う。実は、この件については、「004. 折伏は慈悲が根本」の中でふれた掲示板(もう消滅してしまったが、現在は新たな形で復活しているらしい)においてすでに議論した問題なのであるが、大事な問題だとも思うし、当時の過去ログもすでに消滅してしまっていると思われるので、もう一度改めてここできちんと扱っておくべきだと考えた次第である〔05.08.25 補足〕
 そもそも「輪廻説」というのは最初期の仏教にはなかった考えである(1)。「日本の原始仏教研究の第一人者は?」と問われれば、多くの人が今でも「中村元博士」と答えるであろう。その中村博士は「釈尊の神格化」の問題を扱われている文章の中で次のように言われている。

 釈尊が超人的なものであると考えられるとともに、インド人一般の輪廻の観念と結合して、過去世に釈尊は善根を積んだからこの世に仏として現われ出たのだと考えた。そこでゴータマの前世についていろいろな想像がなされる。釈尊は過去世にカッパ(Kappa)といい、バカ(Baka)梵天の弟子であったとか、過去世にカッサパ仏の世にジョーティパーラ(Jotipa(_)la)というものとして陶工の友であったともいう。カッサパ仏と釈尊との関係はジャイナ教からとり入れたものらしい。ジャイナ教でもカーシャパ(Ka(_)s()yapa)はマハーヴィーラにジャイナ教の真理を授けたということになっている。
(中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教I』(中村元選集第11巻)、春秋社、1969年、pp. 514)
 すなわち、「輪廻の観念」は“最初期の仏教にはなかった”のに、「釈尊が超人的なものであると考えられるとともに」、仏教の中に取り入れられたということである。
 増谷文雄氏もまた原始仏教の研究者としては有名な人であるが、その増谷氏も「ブッダの説いたことのなかには、そのような考えはまったくなかった」と言い切られている。
 今日においても、わが国では、仏教とは来世のことを説くものであると考えている人々がすくなくないように思われる。それには、いろいろの理由があることであるが、なかでも、仏教僧侶が死者の祭葬と供養のことをつかさどる司祭者の役割をはたしたこと、ならびに、仏教のなかに生天もしくは往生を説く思想がとりいれられて、それが後代の仏教のなかに大きな流れを形成したことが、その直接にして最大の理由と考えられる。それらの功罪については、いまは簡単にいうべきではない(D、仏教の歴史、参照)が、ブッダの説いたことのなかには、そのような考えはまったくなかった。
(増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、p. 17)
 しかし、原始仏教研究者の論を待つまでもなく、「輪廻説」という考えが、仏教の根本教説であるところの「無我説」とは真っ向から対立する考えであるということは火を見るよりも明らかである。「輪廻説」というからには「何らかのものが輪廻する」のであろう。しかも、その輪廻するところのものは「(肉体が消滅しようが世界がどう変化しようが)永遠に不滅」というものとされる。しかし、そのようなもの(我)の存在を否定する考えこそが仏教の「無我説」だったのである。
 以下に「無我説」についての増谷氏の解説を引用しておく。
 あるいは、さきにあげた一つの経(相応部経典、二二、四九、輸●那)にみえる問答式においては、無我にかんする問答が、つぎのように交されている。
「ソーナ(輸●那)よ、およそ色の無常かつ苦にして、変易するものを、〈こは我所なり。こは我なり。こは我体なり〉ということができるだろうか」
「大徳よ、それはできませぬ」
   それらの定式的な表現は、いずれも、ブッダの否定するところが、つぎの三点にあることを語っている。
1 我所(mama)の否定
2 我(attan)の否定
3 我体(me atta(_))の否定
   その第一に、我所というは、これを漢訳についていえば、我所有の略であるとせられる。「わがもの」というほどの意であって、われに属し、われによって執着せられるものをいうことばである。それに対して、「こは我所にあらず」との主張は、かかる所有の固定もしくは恒久を否定するものである。無常の存在論の立場にたつかぎり、そのような「わがもの」はあり得ないからである。これは、常識の世界において支配的である自己の所有に関する固有的な観念を否定したものであり、ひいては、所有に関する執着を排せんとするものである。
 その第二は、かの時代の思想家たちのあいだに行なわれていた自我の考え方を否定するものであった。われわれは、ウパニシャッド(Upanishad)の思想家たちが、個人我を意味する「アートマン」(a(_)tman)を高めて、普遍的な実在者の位置をあたえ、ふるき宇宙原理としての「ブラフマン」(Brahman;梵)とひとしうして、「梵我一致」の思想体系を展開したことを知っているが、そのようなバラモン的自我観もまた、縁起もしくは無常の存在論の立場からは、まったく許容しがたいものであったのである。「こは我にあらず」というは、かかる絶対的、無制約的な自我の主張を、真正面から否定したことばなのである。
 その第三に、「こは我体にあらず」というは、自我の不変なる本体を主張するものに対する否定である。‘me atta(_)’という句は、これを直訳すれば「わが我」となるであろう。それを、中国の訳経者たちが「我体」と訳したのは、その中に自我の恒久不変なる本体が含意せられているからである。体というのは、不変の本体、本性、本質をいうことばなのである。だが、そのような我の不変常恒なるものも、また、無常の存在論のまったく容れざるところであった。たとえば、霊魂という考え方はそのようなものである。それは、この肉体はほろびても、なお永続する我の本体ともいうべきものであるが、ブッダの無常の存在論は、そのような存在を容れることができないのである。
(増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、pp. 86-87)
 以上の説明で“「輪廻説」は仏教ではない”ということが明らかになったと思うが、以下ではさらに具体的に、“創価学会の「三世の生命」説”について批判的に考察しておきたいと思う。

 僕が批判の対象とするのは『法華経の智慧』第4巻における以下のような議論である。

 名誉会長 心と身体、なかんずく心と脳が密接な関係にあることは明らかです。
 しかし、だからといって心の存在が脳の中に限定されると言えるのかどうか。イギリスの生物学者(ルパート・シェルドレイク)が、わかりやすい譬えを説いていた。記憶と脳の関係を、テレビの「画像や音」と「受信機」に譬えるのです。例えば、テレビで印象に残るシーンを見たとしよう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりはしない。テレビは、電波を受信するだけです。「受信機がなくては画像は映らない」が、テレビの中に画像そのものがあるわけではない。
 
斉藤 心は「脳を媒介にして働く」としても、脳そのものではないという譬えですね。
 
名誉会長 そうです。心と脳は切り離せない。その意味では「不二」です。しかし不二ということは、同じものということではない。
 「而二不二(二にして、二でない)」が実相です。心という「心法」と、脳内現象という「色法」は、別のものでありながら(二にして)、しかも一体で活動する(不二)というのが仏法の見方です。いわば、脳は心の働きが顕在化する「場」であり、「心の座」とも言えるのではないだろうか。
 
遠藤 テレビのどこかが壊れたら、画像はちゃんと映りません。脳もどこかが破壊されれば、精神現象に異常が生じます。
 またテレビが完全に壊れたら、画像は映りません。死によって脳細胞が破壊されたら、心理的・精神的現象も発現の場を失います。しかし、あくまでも発現する「場」がなくなっただけで、心の働きそのものは存続していくと考えられます。
(池田大作他『法華経の智慧』第4巻、聖教新聞社、pp. 324-326)
 もし名誉会長の言う通り、本当に「心と脳は切り離せない」のであれば、論理的には「脳が消滅すれば心もまた消滅する」と結論せざるを得ない。なぜならば、もし「脳が消滅してもまだ心が存在し続けている」とすれば、そのような状態にある「心」は、明らかに「脳からは切り離されている」からである。
 しかし、実際に議論を参照して頂ければ分かるように、上の議論ではそのような結論には到達していない。これは「心と脳は切り離せる」という立場に途中ですり替わっている(あるいは「混乱している」)からに他ならない。ではどこですり替わっていたのか?
 上の議論ではテレビが譬えとして持ち出されていたが、「画像や音」と「受信機」しか話に出てきていなかった。しかし、これは明らかにオカシイ。なぜオカシイか?それは、名誉会長が同書の少し後の方で次のように言われていることを確認すれば明らかになるであろう。

 名誉会長 そう。今、世界には、さまざまな放送局からのいろんな波長の電波が飛び交っている。今、ここにも、日本のいろんな放送局からの電波もあれば、海外からのいろんな電波もある。
(池田大作他『法華経の智慧』第4巻、聖教新聞社、pp. 354)
 名誉会長が上で言われているとおり、「受信機」に「画像や音」が映るのは、「放送局(カメラ or ビデオ+送信機)」から、その「画像や音」に相当する「電波」が飛んできているからなのである。従って、もし上の図式で心を問題にするというのであれば、本来は「心の発生源」ともいうべき「放送局」こそがここでは問題にされるべきなのである。しかし、上の議論では、たとえ「死によって脳細胞が破壊され」ても、壊れるのは「受信機」だけであって、「放送局」は“全く無傷”だということが何の根拠もなく前提されている。これは「脳から切り離せる心」が存在することを前提としていることに他ならない。この場合は明らかに「放送局」が「脳から切り離せる心」に相当するのだ。
 名誉会長が先の議論の中で「脳は心の働きが顕在化する場であり、心の座とも言える」と言われていたのは実にそういう意味だったのである。
 これで、先の「テレビの議論」が、「心と脳は切り離せない」と言いつつ、実は「脳から切り離せる心」が存在することを前提としてしまうという「矛盾」の上に成立していたことが明らかになったと思う。
 しかし、ここで議論をうち切らずに、以下ではさらに、“「脳」というものを、「心が自らの働きを顕在化するために使う道具」として解釈すること”が“極めて不自然な論理的帰結”を導いてしまうということを指摘しておきたいと思う。といっても、このような指摘は、すでにポール・エドワーズという哲学者の手によってなされているので、僕は彼の業績を奪うことのないように注意しながら、彼の主張を以下に引用するにすぎない。
 まず氏は、「心の破壊」と説明されることの多い「アルツハイマー病」と「その患者の脳に発生する異常」との関係について以下のように指摘している。
それでも、アルツハイマー病患者の脳で起きていることについてかなり多くのことが知られるようになった。この病名のもとになった神経学者アロイス・アルツハイマーは一九○六年に、患者の大脳皮質と海馬に線維濃縮体とフィラメント(微細線維)、そして「神経突起斑」または「老人斑」として知られる異常な神経突起があることを発見した。それ以降、こうした異常な構造物の密度が重症度に直接比例していることが明かになった。また解剖の結果、アルツハイマー病患者は「コリンアセチルトランスフェラーゼ」と呼ばれる酵素のレベルが大きく下がっていることが分かった。この酵素は神経伝達物質アセチルコリンを産生するのに必要なものである。この酵素と神経伝達物質のレベル低下が大脳皮質に現れているが、症状を引き起こす原因は脳の別の領域にある。それが視神経交差のすぐ上に位置する基底核である。解剖してみると、アルツハイマー病患者の基底核から神経細胞が大幅に失われていることが明らかになった。このことが患者の脳で問題の酵素がわずかしか産生されない理由になっている。
(ポール・エドワーズ『輪廻体験─神話の検証─』、皆神龍太郎監修/福岡洋一訳、太田出版、2000年、p. 342)
 そして、「心は脳の死を超えて存続し、脳は交信のための道具にすぎない」とする説に対して以下のように批判を展開している。

 最初に検討する反論は、心の機能が多様な仕方で脳のプロセスに依存していることに異議を唱えるものではない。しかし、そのような事実は死後存続と矛盾しないと主張している。たしかに、死のときに心は消滅するという見方と矛盾しないが、それとは大きく異なる立場とも矛盾しないというのだ。つまり、心はなお存続するが世界の中で活動するための──もっと具体的には、まだ生きている人たちと交信するための──「道具」を失うという考え方である。この反論の支持者たちが考えていることを見事に説明しているのが、ジョン・A・オブライエン神父の『魂──それは何か?(The Soul ─ What Is It?)』[*4]という小冊子である。彫刻家が彫像を彫るには、ハンマーや鑿のような道具が必要だ、とオブライエン神父はいう。道具がひどく傷めば作品の質はそれに応じて低下するが、だからといって、道具が完全に破壊されると彫刻家は存在できない、などということはない。

     *4. New York: The Paulist Press, 1946.

(同上、p. 344)

 関連する事実を説明するこうした二つの対立する立場の、どちらを選ぶべきかを決定する方法はない、という議論がときどき出てくるが、そのような不可知論的な結論を受け入れるべき理由がわたしには分からない。アルツハイマー病や昏睡状態にある患者のような症例で過去の方向に外挿をすれば、心の消滅に反対する道具説が持ち出す対案がバカげたものであることが分かると思う。たとえば、アルツハイマー病の末期患者の行動を考えてみてほしい。例が具体的であればあるほど、対立説のもつ意味がより明確に見えてくるはずだ。わたしの親友の母親であるD夫人は、八年間アルツハイマー病を患い、最近になって亡くなった。D夫人はヴァージニア州の裕福な女性で、銀行家の未亡人だった。アルツハイマー病にかかる前は上品で思いやりのある人で、もちろん娘や、そのほかの親族、友人たちを見分けることは容易にできていた。身体が麻痺した人たちのことを夫人がどう感じていたかは分からないが、たぶんそういう人に憐れみを感じていて、もちろん叩いてやりたいなどとは思いもしなかっただろう。病気が進行したD夫人は、優しく思いやりのある態度で知られる修道女たちの経営する老人ホームに入れられた。そこでは自分より年上の、身体が麻痺した女性と同室になった。最初の一年ほどは暴力的な振る舞いはなかったが、やがて看護婦たちを叩くようになった。娘の顔が分からなくなったころ、D夫人が同室の麻痺した女性を叩くという出来事が二度か三度つづいた。D夫人はそれ以降、暴力的でとくに扱いにくい患者を収容することになっている「七階」に閉じこめられてしまった。
 さて、死後存続論者はD夫人の振る舞いについて、どのような説明を求められることになるかを考えてみよう。彼らの考え方からすると、D夫人は死後も健全な心のまま存在していて、ただ地上の人びとと交信する手段がなくなるだけだということを思い出してほしい。そして、アルツハイマー病にかかっていた間もD夫人の心は健全なまただったということになる。夫人は娘の顔が分かったが、この認識を表現する能力を失っていた。何もしていない麻痺した老女を叩くつもりなど、夫人にはなかった。それどころか、「内部」では病気の発症以前と同じ思慮深い女性だった。本当の感情にふさわしい振る舞いができなかったのは、脳の病気のせいでしかない。心は脳の死を超えて存続し、脳は交信のための道具にすぎないという説は、以上のようなことをたしかに含意しているとわたしは主張しなければならない。もちろん、こうした結論はバカげたものだ。D夫人はもはや娘の顔が分からなくなっており、麻痺した老女に対する思いやりも失っていたというのが事実である。いずれにせよ、アルツハイマー病を患っていない人が誰かを見分けられなかったり思いやりがなかったり、という事例はいくらでもあって、そこでは別に論争があるわけでもない。それと同じ根拠に基づいて、D夫人の状態についても先のように主張することができるのである。
(同上、pp. 348-350)
 脳に回復不可能な損傷を受けた人の心、あるいは意識について、何を主張するかが問題なのだ。患者の心は消え去ったと結論するのか、それとも、心はまったく無傷(脳が損傷を受けていない場合とまったく同じ)だが脳を道具として使うことができなくなっているというのか。わたしがいいたいのは、こうした状況で意味をもつのは前者のみであるのに、生まれ変わりの信奉者は後者を主張して譲らないということである。
(同上、p. 351)

 さて、僕の「三世の生命」説批判は以上でほぼ尽きたと思う。しかし、ついでなので『法華経の智慧』第4巻の別の問題について少しふれておきたいと思う。
 『法華経の智慧』第4巻では、キューブラー=ロス氏やレイモンド・ムーディ氏の名前を挙げ、彼らの研究を「学問的研究」と言っている(例えば、同書の pp. 309-310を参照)。しかし、はっきり言って、彼らの研究なるものは単なる「オカルト」でしかない(キューブラー・ロス氏のごく初期の研究についてはこの限りではない)。この件については、詳しくは、『輪廻体験─神話の検証─』(邦訳)の5章と6章を参照して頂きたい。ここでは、キューブラー=ロス氏が自分自身を「体外離脱によって光速度で飛行した最初の人間」だと公言している人物であるということ(同書の p. 189 以降を参照)、および、レイモンド・ムーディ氏が「“霊姿の部屋”の中で被験者に鏡を凝視させ、すでに他界した友人や近親者に再会させる方法を考え出した」人物であるということ(同書の p. 183 を参照)を紹介しておくにとどめる(もちろん、読者の楽しみを奪わないためにである ^_^;)。

 最後に、『輪廻体験─神話の検証─』の中から、僕が実に味わい深いと感じた、ポール・エドワーズ氏の以下の言葉を引用させて頂いて、今回のまとめに代えさせて頂きたいと思う。

 そこで、わたしのような懐疑的な人間はどうしてキューブラー=ロスを放っておかないのか、という疑問が当然出てくるはずだ。死が終わりでないと信じられれば人は幸せでいられるのだし、いずれにせよキューブラー=ロスのメッセージは害のないものではないか、という意見もあるだろう。
 しかしわたしは、キューブラー=ロスのメッセージが無害だという見方に賛同できない。たしかに、政治的な狂信者──人種差別主義者、ユダヤ人迫害者、人工中絶をする医師を殺害せよと説く連中、ダーウィンの進化論を教えることに反対する創造説の信奉者たち──のメッセージほど危険なものではない。しかし、キューブラー=ロスのメッセージはもっと微妙な形で害を及ぼす。知的水準を低下させるのだ。意図的にではないにせよ、少なくとも宗教的な問題においては、何であれ自分にとって喜ばしいことを信じるがよいと説いているに等しいからである。苦痛を回避することだけが善ではない。「誠実であること」にも価値があるのだ。人類が達成した最も偉大なことの一つは、科学的にものを見るということ、たとえ不愉快きわまりない結論であろうと、それが正しいという証拠があれば潔く受け入れるという態度である。バートランド・ラッセルは晩年のある著作にこう書いている。「宇宙に関する伝統的な信念に関するかぎり、恐怖の念は望ましいものとされ……その一方で知的な勇気は、戦闘における勇気とは異なり、無感覚で唯物主義的だとみなされている」。ラッセルはさらに、「望ましくないものにとって有利な証拠を直視することを拒絶する」行為には、まったく弁解の余地がないという。「人類が繁栄しうるとすれば、いかに歓喜に満ちたものであろうと妄想によってではない。確固たる勇気をもって真実を追求することだけが繁栄をもたらすのである」[*15]

     *15. Fact and Fiction (London, 1957), p. 46.

(ポール・エドワーズ『輪廻体験─神話の検証─』、皆神龍太郎監修/福岡洋一訳、太田出版、2000年、pp. 234-235)

2000.10.12
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(1) 和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』、岩波書店、1970年〔改版第一刷〕、pp. 272-292を参照されたい。


〔01.05.12 付記〕

1.読みやすい形式に直した(ただし、本文の内容には手を入れていない)。
2.本文に註(1)を付け加えた。


〔02.09.02 訂正〕

 本文の最後に引用した、ポール・エドワーズ『輪廻体験─神話の検証─』pp. 234-235 の中に引用ミスが一箇所あることに気がついたので訂正した。


〔05.08.25 補足〕
 この雑記を発表した一年後、輪廻説と仏教思想との整合性の問題について、曽我逸郎さんと意見交換する機会がありました[*1]。その中で列挙しておいた参考資料も参考にして頂ければ幸いです。
 曽我さんの仏教理解は私の理解と非常に近いと思っています[*2]。曽我さんの輪廻論者との戦いの記録[*3]から、我々は多くのことを学ぶことができると思います。
 輪廻説と仏教思想との整合性の問題を考えるときに、いわゆる「十四無記」が話題にのぼることがあります。舟橋尚哉さんは、十四無記を解釈して、「これはある意味で輪廻の否定ともいえる」が「完全な否定ともいえないかもしれない[*4]などといわれていますが、わたしは完全な否定であると理解するのが正しいと考えます[*5]

[*1] 梶山先生のお考えについて(岩井均臣様のご意見に)
   http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha097.html
[*2] 曽我逸郎さんとの対話
   http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html
[*3] 意見交換
   http://www.dia.janis.or.jp/~soga/exchange.html
[*4] 輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)
   http://fallibilism.web.fc2.com/078.html
[*5] 上記資料の引用者註1
   http://fallibilism.web.fc2.com/078.html#l_1

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