輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)


 釈尊自身は外道からの問難である形而上学の問題に関しては、答えることは意味のないものであるとして十四無記を説かれたという。いわゆる、(1)世界(および我)は常であるか、(2)無常であるか、(3)常にして無常であるか、(4)常でも無常でもないのか、(5)世界は有辺であるか、(6)無辺であるか、(7)有辺にして無辺であるか、(8)有辺でも無辺でもないのか、(9)如来(衆生[25])は死後に有であるか、(10)無であるか、(11)有にして無であるのか、(12)有でも無でもないのか、(13)命と身は同一であるか、(14)異であるか、の十四無記である[26]
 この中で輪廻説の上で注目すべきは、(9)如来(tatha(_)gata)(衆生)は死後に有であるか、(10)無であるか、(11)有にして無であるのか、(12)有でも無でもないのか、という四句分別と、(1)我は常であるか、(2)無常であるか、(3)常にして無常であるか、(4)常でも無常でもないのか、という四句分別である。
 釈尊はこれらの形而上学的な問題に関して無記として答えなかったといわれる。これはある意味で輪廻の否定ともいえるのではなかろうか。勿論、(10)死後を無である、ともいっていないのだから、完全な否定ともいえないかもしれない〔引用者註1〕

(舟橋尚哉「輪廻思想と仏教」、『仏教学セミナー』第59号、1994年5月、p. 6)


 輪廻思想は仏教本来の考え方であると思いがちであるが、歴史的に見るときに、インドの思想の上では、大体BC8世紀頃から説かれ出したものであり、仏教の開祖、ゴータマ・ブッダの頃には、インド一般に輪廻転生の問題が当然のこととして正統派の思想の中では認められていたので、仏教も当然その影響を受けたものと思われる。しかしゴータマ・ブッダ自身は十四無記を説くのだから、全面的に輪廻説を認めていたとは考えられない。ただ一般大衆である知識の低い人々にもわかりやすいように譬喩的に説かれたものと思われる。そういう点からは仏教本来の思想とはいえないのかもしれない。
 しかし時が経ち、アビダルマ時代になると、十二縁起の胎生学的解釈が行なわれ、この解釈が主流を占めるようになり、唯識思想にまで影響を与えているから、ここでは輪廻転生の問題を抜きにしては語れないと思う。
 それでは現代において輪廻説はどのように考えられているのであろうか。最近はテレビなどのマスコミの影響を受けやすい時代である。従ってテレビに占い師が登場し、輪廻転生に関して占ったり、霊のたたりなどを前面に出して説明する場合もある。
 このような混沌とした時代にあるからこそ輪廻思想がはたして仏教の本来の考え方か否かを改めて問い直し、迷信に執われることなく、現代の仏教における輪廻転生の問題を、もう一度、再検討する必要があるのではないかと思う。

(同上、pp. 13-14)


[25] 長崎法潤稿「Tatha(_)gata 考」(前田恵学博士頌寿記念佛教文化学論集)四六頁参照。

[26] 多屋、横超、舟橋編「仏教学辞典」四三三頁a参照。

(同上、p. 15)


〔01.05.27 引用者註〕

(1) 私は完全な否定と言っていいと考える。舟橋氏が「完全な否定ともいえない」とされるのは氏の十四無記理解が不十分だからではなかろうか。私は龍樹のように理解するのが正しいと考える。

釈尊が「アートマン(世間)は常であるか、無常であるか」等の十四の問いに答えなかった十四無記ということは、実在論に基づく問いに対して応答しなかったということである。アートマン(我)の実在を前提として、それが死後(来世)に存続するか存続しないかという意味で、死後におけるアートマンの常と無常を問うているのであるから、常と答えても無常と答えても、アートマンの実在を前提とする実在論を是認したことになってしまう。そのために、アートマンの存在そのものを「無我」として根本から否定した釈尊は、それらに応答しなかったと了解しているのが龍樹である。そのことこそを意味して、『根本中論偈』の中で、次のように、
自性として空であるとき、そのお方について「仏陀は入滅の後に存在する」とか「存在しない」と考えることは合理的でない。 〔XXII-14〕
と主張されている。
(小川一乗「業報輪廻について──龍樹の基本主張を中心にして──」、『印度哲学仏教学』第13号、1998年、pp. 153-154)


トップページ >  資料集 >  [061-080] >  078. 輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)

NOTHING TO YOU
http://fallibilism.web.fc2.com/
inserted by FC2 system