議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎない(小河原誠)


 かつてナポレオンは、当時の哲学者たちを罵って「イデオローグ」と呼んだが、そのとき以来今日に至るまで、イデオロギーという言葉には「侮辱」の意味がまといついている。相手の主義、主張あるいは立場をイデオロギーと呼ぶことは、それらが虚偽意識の現われであると断定することにほかならない。しかしながら、この断定には同じ断定がはねかえってくる。一例としては、かつて一九六〇年代の初期に「イデオロギーの終焉」を語ったダニエル・ベルに対して、論敵たちが、それ自体がイデオロギーであると言い返したことを思いだせば十分であろう。イデオロギー批判者は、自らの立場が絶対の真理を表現していると断言するにもかかわらず、他方の側の者によって、おまえの立場こそがイデオロギーであると告発されることを避けられない。おのおのの党派は他の党派の立場をイデオロギーと呼ぶ。かくして、そこから生じてくるのはイデオロギー闘争である。

(小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 203)


 いまや、「決着」を希求するイデオロギー批判者がとる典型的な道は、「議論の世界」を離脱して、「実践の世界」へと引き返していくことである。彼らは、立場の「真理」性は唯一実践においてのみ立証されると断言する。たしかにこの断言に千鈞の重みをもつ真理が含まれていないわけではない。ヒトラーのごとき独裁者が議論だけによって打ち倒されると信じている者がいるとしたら、その者はまさしく観念の世界の溺死者であろう。
 しかしながら、翻って、実践による立証とは何か。それは、もろもろのイデオロギーの最終的な法廷となりうるのであろうか。実践によって立証されたイデオロギーとは、たかだか、一時の政治的勝利を永久の真理と見なすイデオロギーにすぎないのではないか。そして、実践における勝利が意味するのは、せいぜいのところ、そのイデオロギーの政治的有効性、さらに言えば、たとえば、革命後の粛正に見られるごとき残忍性にすぎない。
 こうした思考様式においては、実践は自由な対話を通じての意志の形成ではなく、対話以外のあらゆる手段―もちろん、物理的強制も含めて―による「既定の」意志の貫徹というマキャヴェリズム的概念に頽落している。さらにまた、実践における「勝利」こそが「真理」であると定義されるならば、思考の根本的な本末転倒が生じよう。つまり、そうであるならば、なにも議論などする必要はなかったということである。毎日せっせと軍事訓練でもしていた方がよかったことになろう。われわれの観念の世界の一切を、イデオロギーという名の下に、政治的あるいは軍事的有効性の観点から裁断するのは、革命的信条のうちにひそむ狂気のなせる業にすぎまい。
 ここに見てきたような思考様式には、何かしら大きな誤りが隠されてはいないか。むしろ、「議論の世界」からの「離脱」は、たんなる逃亡、すなわち、議論のレベルにおけるイデオロギー闘争からの逃亡にすぎなかったのではないか。さらにまた、議論は、究極のところ、「絶対の真理」あるいはコミットメントによる罵り合いにならざるをえないという断定は正しかったのか。ともあれ、こうした思考様式においては、結果として「議論の世界」が彼らの思考から抜け落ちていくように見える。「議論の世界」はいわば内側から破砕されてしまうのである。

(同上、pp. 205-206)

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