大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)


 中道は仏教全体を貫く実践原理、あるいは教理思想といってもよいが、大きく言えば、智(〔豈+頁〕)の中道の理解には、般若中観の空思想と法華の諸法実相とがその基盤にあり、そしてさらに、この般若中観の空思想と法華の諸法実相の上にあるのが『涅槃経』の仏性思想であるといってよい。大乗『涅槃経』は仏教のこれまでのタブーを破って「我」を説き、仏性は「我」であると説いたが、経の後半部に至ると、特に師子吼品においては仏性は般若の空思想と結びつけられて説かれるようになる〔引用者註1〕。すなわち、

仏性とは第一義空に名づく。第一義空は名づけて智慧と為す。言う所の空とは、空と不空とを見ず。智とは空及び不空と、常と無常と、苦と楽と、我と無我とを見る。空とは一切の生死、不空とは大涅槃を謂い、乃至無我とは即ち是れ生死、我とは大涅槃を謂う。一切空を見て不空を見ざれば、中道と名づけず。中道とは名づけて仏性と為す。是の義を以ての故に、仏性は常恒にして変易有ること無し。

(大正蔵巻十二、767c)

 とあって、ここでは仏性は第一義の空、中道とされており、これを承けたのが智(〔豈+頁〕)の仏性理解である〔引用者註2〕

(藤井教公「天台智(〔豈+頁〕)における中道と仏性」、『印度学仏教学研究』第49巻第1号、2000年12月、p. 32)


〔01.05.18 引用者註〕

(1) 法顕訳の「仏陀とはアートマンである」という主張が、後の曇無讖訳・チベット訳において「アートマンとは実は仏陀に他ならない」と改変されている事実に関して、松本史朗氏は以下のように解釈されている。

これは藤井教公氏が『涅槃経』の我論について、「経が(二)の部分において、(一)の部分でなされた「我」の主張のゆきすぎを是正する意図があるかの感を懐かせる(23)」と言われたことと無関係ではない。藤井氏は、ここで“『北本』前10巻相当の(一)の部分でなされたアートマンの主張のゆきすぎが、インド産との確証をもたないその後の(二)の部分において是正された”という重要な視点を提示されたのであるが、筆者より見れば、『涅槃経』が本来その成立に当たって主張した余りにも明瞭なアートマン論は、(一)の部分の中の『涅槃経』の最古層部分とされるものに関しても、時代を経るに従って、様々の仏教的改変、つまり、仏教の無我説に見合った修正、緩和を蒙ったのである。すなわち、「仏陀とはアートマンである」と言えば、無我説との矛盾は明瞭であるが、それを「アートマンとは実は仏陀に他ならない」と言い直せば、アートマンを仏陀という仏教的観念にひきよせることによって、無我説との矛盾をくらますことができるからである。
(松本史朗「『涅槃経』とアートマン」『前田専学博士還暦記念論集 〈我〉の思想』、春秋社、1991年、p. 150)

(23) 藤井教公「『涅槃経』における「我」」『仏教学』第16号、1983年、68頁
(同上、註23、p. 153)

  経の後半で仏性が般若の空思想と結びつけられて説かれるようになるのも、同じく「仏教の無我説に見合った修正」「仏教的改変」と言えよう。ただし、私は、そのような是正が必ずしも「無我説との矛盾をくらます」ためだったとは思わない。

(2) これについては藤井教公「羅什訳の問題点─「仏種」の語の解釈をめぐって─」(『印度哲学仏教学』第13号、1998年)の226−227ページ、及び、拙稿「「如来蔵思想批判」の批判的検討」の二章を参照されたい。


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