英雄は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る(牧口常三郎)


 善人があつて世の不義横暴の悪人に反対して立つて之れと戦ふ。この場合善人は((おほむ))孤立無援であるに反して悪人は必ず強大なる仲間の応援を((も))つて居るのを普通とする。((けだし))し善人は個人として生存するには何等の欠陥を持つて居ないが故に、非常なる直接の強圧を感じない限りは。他人と同盟して窮((ママ)(屈))を忍ぶ気にはならないから、目前に他の善人が迫害されるのを見ても知らぬ顔して居るのに反し、犯罪者は何処に在つても常に戦々競々((ママ)(兢々))として発覚を怖れるが故共同の敵に当る為には容易く結束をなしてそれに伴ふ窮((ママ)(屈))や圧迫を忍ぶ。
 ((か))く善良人は恐怖のない代り、他人と結合して敵に当るといふ意識は起らぬのに反し、悪人は孤立しては安心して居られない程に生存上の欠陥を((も))つて居るがために((たちま))ち他人と共同し、殊に強者庇護の下に((あ))つて其身を防禦しようとするのである。そこで当然の勢として善人は古往今来必ず強大なる迫害を受けるが、之れを他の善人共は内心には同情を寄するものゝ何等の実力がないとして傍観するが故に善人は負けることになる。故に之に抵抗して勝つものは其の中で僅少稀有の人のみである。かれは四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して((やうや))く勝利を得る。それが即ち英雄であり、豪傑であるとして当代からも後世からも尊敬され崇拝される。斯様((かやう))にして尊敬し崇拝するものはその善人が払つた犠牲によつての利益を均霑((きんてん))すること恰も前記の幼弟の力によつて徒手((としゆ))で菓子を貰つた兄姉と異る所はない。現在吾々が当然の権利として日常獲得しつゝある利益は皆斯様にして先人が残して呉れた犠牲の((たまもの))に外ならない。
 然らば吾々が偉人を尊崇し、それ等を祭つた神社を参拝する等の場合に於てそれによつて得られた利益によつて其の徳を((しよう))するならば、反面に於て其人が斯くまでに奮闘努力して同胞万人の為に戦つて居たことを傍観して見殺((みごろし))にした腑甲斐((ふがひ))なき当時の小善人共を軽蔑し怨恨((ゑんこん))すると共に、自分等が現在の生活に如何にそれ等に対して処置して居るかを反省して、将来に対する生活法則を確立することを心掛けなければならぬ。さもなくして僅かなる賽銭((さいせん))を投じ其の払つた代価によつて自己の幸福を祈るが如きは虫のよ過ぎる話である。諸天善神は斯様の自己主義的の亡恩者不知恩者を加護し給ふ訳がない。想はねばならぬ所である。
 余をして若し社会学を修めしめなかつたら、及び法華経の信仰に入らなかつたならば、余が善良なる友人知己の様に、成るべく周囲の機嫌を損ねぬ様に、悪い事を見ても見ぬ振りをし、言ひたい事も控((ママ)(へ))目にして、人に可愛いがられなければ損であるといふ主義を守つて居れたであらう。それが世の寵児((ちようじ))になつて、自分だけの生存上には賢い方法には相違ない。少くとも現代の如き所謂五濁悪世((ごぢよくあくせ))の末法に於ては。けれども誰れも彼れもが皆この賢明なる主義であつたなら国家社会は遂にどうなるであらう。人間の数はいくら((ふ))えても畢竟石礫((せきれき))の堆積と何の異がある。セメントで固められなければコンクリートにはならぬではないか。然るに悪人は自己防衛の本能から((たちまち))ち他と協同する。共同すれば孤立するよりは非常に強くなる。さうなれば仲間は少数でも、孤立の多数を自由に圧制することが出来る。強くなつて益々善良を迫害する悪人に対し、善人は何時までも孤立して弱くなつて居る。一方が膨大すれば他方は益々畏縮する。社会は険悪とならざるを得ないではないか。教育の御蔭と思へば多少の気休めとならぬ事もあるまい。何となれば蒙昧((もうまい))無智の単純なる腕力争闘の時代には、善人共の防禦の方法も単純で、恰かも戦争中と同様に善人達の結束も容易に行はれたのであるが、智慧が進んだ為めに、悪の手段が益々複雑になり、巧妙になつたのに対し、自己生存のみに没頭し、その事だけ利巧になつた善人共を協力団結して当らしめることは容易でない。詮する所、智慧は昔に比すれば進んだが所謂生存競争の智慧、自己防衛だけの小智で、社会といふ大なる団体が吾々の上に存在して居て、吾々の生命財産の安寧幸福を((はか))りつゝあるといふことに気付くだけに一般の心がまだ進んで居ないからである。釈尊の滅度されてから二千年以後を末法、五濁悪世の時代と予言された理由には即ち之があるであらうと思ふ。而して法華経で此の五濁悪世に処する吾々の方針を授けられて居る。涅槃経に曰く、『((じ))無くして((いつは))り親むは是れ彼が((あだ))なり。彼が為に悪を除くは是れ彼が親なり。』と。社会学の研究によつて構成される最高至上の理想生活も之に帰着するであらう。司法官や警察官は既に国家の命令によつて其を本職として実行してゐる。奴隷扱に甘んじた専制治下の国民が、立憲政体になつた為に参政権を得て、国家から相談相手の大人扱を受けるに至つた以上は、それ等と同様の精神になつて自治の実を挙げねばならぬのが当然の義務であらう。これを意識して総てが実行することになれば即ち((つひ))には法華経の大精神に帰入することになつて世が((あらた))まるに至るであらう。宗教を教育と没交渉の様に考へて居て、どうして教育の実が挙がるであらうか。

(斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第六巻、第三文明社、1982年、pp. 67-70)

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牧口常三郎全集 第6巻


〔01.06.08 引用者付記〕

 私は本資料を「善人は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る」という題のもとに引用していたが、

“本資料にそのような題をつけることは本資料の内容からして全く不適当である。Libra氏は自分の孤立を正当化したいとの想いに引きずられて、テキストを誤読しているのではないか。”
とのご指摘を、我が親友FIN氏より頂戴した。氏のご指摘はもっともだと私には思われるので、氏のご提案に従って、「英雄は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る」という題に改めることにした。氏の有意義なご指摘・ご提案に深く感謝する。


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