相対主義批判(小河原誠)


 ところで、事実には反するが、彼らが「議論の世界」のうちに平和裡にとどまったと仮定してみよう。おそらく、彼らは、しっぺ返しや罵り合いを通じて対話や議論が不毛であることの自覚に導かれるであろう。結果として彼らは対話を拒否して、自己のタコツボ的世界に閉じこもってしまうかもしれない。だが、この自覚がときを同じくして論敵の側にも生じたとするならば、彼らは、自己の立場も相手の立場も、ともに「絶対の真理」を自称するイデオロギーにすぎないという「醒めた認識」なるものにたって、一種暗黙の紳士協定を結ぶことになるかもしれない。つまり、ともに虚偽意識としてのイデオロギーというガラス細工の家に住んでいるのだから、お互いに石を投げ合うのはやめようではないかというわけである。この協定は、相互否認から相互承認への移行をもたらすかもしれない。すべての立場はイデオロギーであるという彼らの認識からは相対主義が帰結してくる。というのも、相対主義こそは、さまざまな立場、イデオロギーあるいは文化の目も眩むような相違を乗り越えて、相互の承認と平和的な共存をもたらすと想定されているからである。しかし、相対主義は大きな内部的困難を抱えている。

(小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 207-208)


 筆者は、相対主義は原則上、二つのタイプ、つまり、楽天的相対主義と悲観的相対主義とに分類できると考えている。それらを手短かに説明し、同時にそれらの本質を述べておくために、それらのうちの極端なものをそれぞれ取り上げてみることにしよう。
 楽天的相対主義の主張は、簡単に言えば、あなたもわたくしも正しい、ということになるだろう。楽天的相対主義はすべてのイデオロギーが真であると主張しているわけである。しかしながら、このタイプの相対主義はただちに困難に陥ってしまう。「あなた」が楽天的相対主義は正しくないと主張したと仮定してみよう。もし楽天的相対主義者が自らの立場に整合的であることを欲するならば、彼らは「あなたの」主張を認めざるをえないのであり、そしてそこから自己矛盾に陥らざるをえないであろう。さらに、「あなたの」主張と「わたくしの」主張が相互に矛盾するならば、楽天的相対主義は矛盾律の放棄をわれわれに強いるかもしれない。しかし、矛盾律が放棄されているところでは、議論や討論は明らかに不可能であろう。討論のないところで、相互に敬意をもつことなどありうるのだろうか。にもかかわらず、誰かある者が楽天的相対主義を提案するならば、彼はその表面上の寛大さにもかかわらず、悪意をもっているのではないかと疑われてしかるべきであろう。というのも、彼は、楽天的相対主義こそわれわれのあいだの相違を真に尊重するものであると言いつつも、現実には衣の下に刃を隠しているのではないかと思われるからである。彼は、心底においては、相対主義の無力さを知っており、われわれの現実の生活において相違を克服しなければならない状況に直面したとき、最終的に相違を克服するものは暴力にほかならないと信じているからである。
 悲観的相対主義の主張は、簡単に言えば、あなたもわたくしも間違っている、ということになるだろう。悲観的相対主義は、あらゆる言明は偽である、したがって、どの言明を選ぼうがかまわない、と主張する。繰り返して言えば、悲観的相対主義者は、あらゆるイデオロギーは同じように虚偽意識を表現しているのであり、それらのイデオロギーのあいだには重要な相違はないと主張する。ところで、このタイプの相対主義も困難に陥る。「すべての言明は偽である」という主張もそれ自体ひとつの言明である。したがって、もし、この言明が真であるならば、この言明は、その言っていることからして、偽となる。偽であるならば、すべての言明が偽であることはなくなる。つまり、少なくとも真なる言明がひとつは存在することになる。他方で、「すべての言明は偽である」が偽であるならば、同じ結果をえる。かくして、悲観的相対主義は自滅する。

(同上、pp. 208-209)


 相対主義の二つの極端なタイプについての以上の簡単な考察が示しているのは、相対主義はそれ自身でその非合理性を示しているということであり、そしてその自滅的性格は真理への道を切り開くものであるということであろう。これら二つのタイプの相対主義は、その公言された目標、すなわち、異なった立場の平和的な共存と相互的尊敬という目標を達成することはできない。
 歴史的にみるならば、相対主義は各人が固有の真理規準を持つこと、したがって客観的な真理規準は存在しないと主張する立場として理解されてきた。古代ギリシアにおける相対主義の提唱者の一人、プロタゴラスの言をもってすれば、各人があらゆることがらの尺度なのである☆5。そのとき以来、相対主義は繰り返し客観的な実在とか真理は存在せず、存在するのは、ただ主観的な実在のみであると、あるいは、主張の所有者、つまり、個人、社会、時代に特有な真理のみであると主張してきた。しかしながら、相対主義者は、自らの立場の真なることを確信しているかぎりで、この主張自体は客観的な真理であると考えざるをえなかった。ここにあるのは、明らかな自己矛盾である。そしてこれが、相対主義に対する伝統的反駁であった。

(同上、pp. 210-211)


 ここではあくまでも認識論的問題にとどまって考えてみよう。こうした問題設定にたって考えることの重要性は、とりわけ、わが国における思想的風土の特異性を想起してもらえば、かなり納得してもらえるのではないだろうか。
 わが国において、批判的議論はもともと脆弱なものであった。この点にかんしては、日本思想史を素材として展開された丸山真男の古典的な議論に依拠してもよいだろう。たとえば、彼の『日本の思想』に見られる議論は、諸思想間の真剣な対決を促すことあまりにも少ないわが国の知的風土における思想的「無限抱擁性」あるいは「雑居性」を批判の射程に収めつつ、わが国の随所に見られる集団の知的閉鎖性を抉りだしたものであった。丸山の目からすれば、日本におけるさまざまな文化、学問、思想あるいはなんらかの組織といったものは、ひとつの太い幹から枝わかれしてきたもの─彼はこうした文化のあり方を「ササラ型」と呼んでいた─ではなく、それぞれがいわばタコツボに閉じこもっており、そしておのおののタコツボはただ細い紐でつながれているだけであって、そこには相互のコミュニケイションあるいは思想対決を可能にするような座標軸が欠如しているということであった。丸山は次のように述べている。

私達の思考や発想の様式をいろいろな要素に分解し、それぞれの系譜を遡るならば、仏教的なもの、日本的なもの、シャーマニズム的なもの、西欧的なもの、要するに私達の歴史にその足跡を印したあらゆる思想の断片に行き当たるであろう。問題はそれらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていないところにある。そうした基本的なあり方の点では、いわゆる伝統的思想も明治以降のヨーロッパ思想も、本質的なちがいは見出されない。☆16
 丸山はここで、たんに日本思想史上の問題ばかりでなく、わが国における「議論の世界」の根本的な構造的欠陥とでもいうべきものを言いあてている。それは、より具体的に言うならば、わが国における真の意味での「論争」の欠如ということである。もちろん、わが国において論争が皆無であったというのではない。丸山が指摘しているように、ある時代のはなばなしい論争が「共有財産となって、次の時代に受け継がれていくということはきわめて稀である☆17」ということこそが問題なのである。彼はこの点を次のように補足している。
日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないまま立ち消えになっていく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的には同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。☆18
 ここに指摘されているのは、真の意味での「討論の精神」の欠如である。そして。この欠如のあるところ、われわれが目にするのは、目まぐるしいまでの知的流行の変遷である。
新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほど早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として思い出として噴出することになる。☆19
 こうした観点からすると、ここしばらく流行しているパラダイム論はじつに興味深い現象である。それは、相対主義の旋律を奏でているばかりに、実に多義的な意味合いでもてはやされ、同じ時期に展開されていたタコツボ論との真剣な比較検討もなされずにいる。過去どころか、現にあるものとの対決さえなされていないのである。
 ところで、丸山の分析は、いかにも思想史家らしく、主としてわが国における思想受容のパターンの分析として、思想史的事実のレベルでなされている。(もっとも、認識論的分析が皆無というわけではない。)そして、彼は、「無限抱擁性」あるいは「雑居性」に対抗するためには、わが国においては「思想的座標軸」が形成されなかったという事実を見すえて、そこから出発すべきであると主張する。たしかに、この議論には説得力があるだろう。しかし、わたくしは、わが国のいわゆる「思想的無限抱擁性」に対抗するためには、認識論的洞察こそが大切であると考える。
 「思想的無限抱擁性」とは認識論のレベルで言えば、相対主義の支配にほかならない。この点の洞察こそが必要なのである。もちろん、言うまでもないことながら、相対主義は日本人の精神生活において鋭く対自化されていたわけではないし、いわんやその欠陥が一般的なレベルにおいてさえ意識されていたとはとうてい言えないであろう。「相対主義の支配」のもとでは、あらゆる思想やイズムが相互の論争もなく、同居している。ここにある問題は、仏教とか儒教、あるいはキリスト教とかマルクス主義といった個々の伝統のレベルにおける問題ではなく、それらを包含するものとしての超(メタ)伝統あるいはメタコンテクストにおける問題である。換言すれば、日本人の無意識的な意識の基層に根ざす問題である。こうしたレベルでの相対主義の強固な支配こそが、内部から確実に「討論の精神」を腐食しつづけてきたと考えてよいだろう。「思想的無限抱擁性」の問題とはこの腐食の問題にほかならない。

(同上、pp. 230-234)


 事実と価値の二元論が主張するように、両者は根本的に異なるとはいえ、両者が相互批判の関係に立たないわけではない。価値は事実によって批判されうるし、事実も価値によって批判される。たとえば、事実としてなしえないことを要求する価値は非合理である。カール・ルイスに一〇〇メートルを五秒で走るべしと要求することは非合理である。人間は、その筋力と筋肉の重量の関係からして、一〇〇メートルを五秒で走ることは事実問題としてできないからである。事実問題として、病気や障害などによってすべての人が自活できるわけではない。とすれば、「人間はすべて自活すべし」という理念とか、またそれに立脚した施策などは当然のことながら修正されねばならない。古めかしい言い方をするならば、当為(…すべし)は可能(…できる)を含意するのであるから、事実問題として含意されている「可能」が存在しないことを指摘するならば、その当為を批判したことになる。実現のための手段がありえないような価値(規範)を説くことは、無責任であり、非合理である。他方で、価値はまた事実的なるものを批判しうる。道徳的に悪とされる行為をした者はそれなりに批判される。法を破れば、処罰をうける。なぜなら、それらは別様な事実でもありえたはずのものだからである。また、ある価値が他の価値を批判するのは自明である。寄付行為をよしとする価値観は、それを偽善とする価値観とは相互に批判し合っている。
 さて、何が不可能で何が可能であるのかは時代とともに、また知の革新とともに変化する。これは、前のパラグラフでの議論を踏まえれば、事実と価値が耐えざる相互批判の過程に投げ込まれていねばならないことを意味するであろう。たとえば、ほとんどの社会的事実は、人間によって意図的にあるいは意図せずにつくりだされたものである。それらは、原理上、可塑的なもの、すなわちわれわれの努力によって変更可能なものである。とすれば、それらはわれわれの価値によって批判的に評価されうるものである。われわれは、行為者(政府、企業、個人等々)の行為を状況(たとえば、大は地球の環境や資源状況から小は私の身体状況にいたるまで)のなかで分析し、その適切性をわれわれ自身の価値的観点にしたがって問うことができる。これを通じて、逆にわれわれ自身の価値が具体的な吟味を受けることになる。価値は冷静な分析のうちにこそ足場を持つ。価値は、事実との媒介の中で捉えられるべきであって、正当化主義者が、時として言うように、議論の終局点として考えられてはならない。コミットメントの相対主義に平行して、討論を拒むような価値の相対主義を説くのは幻想でしかない。
 事実と価値の相互批判を可能にするものが状況分析であるとすれば、それが生じてくるのはまさにわれわれがあるなんらかの問題に捉えられているからである。問題は多種多様であり、また解決の試みも種々雑多である。ここにあるのは、問題の捉え方の多元性であり、解の多元性であって、コミットメントの相対主義とか、価値の相対主義ではない。われわれは問題を共有するなかで、よりよい解決に向けて討論を続けていくことができる。討論を続けていくためには、立場を共有することではなくて、問題を共有することこそが大事なのである。ここにあるのは、再度言うが、相対主義ではなくて、多元主義である。相互批判のなかで、競い合いつつ問題解決の努力をするなかで、われわれは事実と価値の複雑な交錯を分析し、ひいては社会の改善を目指すのである。  多元主義を支える非正当化主義的批判も冷静な状況分析も、われわれの手の届かないところにあるのではない。コミットメントの相対主義を克服し、「議論の世界」を発展させる批判はすでにしてわれわれ自身のうちにある。

(同上、pp. 242-245)

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〔02.06.10 引用者付記〕
 脚註(☆印)については、すべて引用を省略いたしました。是非とも、小河原先生の御著書を直接参照されて下さい(この御著書は名著です)。


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