神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)


 みずからの中に本来もっている聖なるものを見つけ出すためには、理性はまったく役にはたたない。いくら経典とか論書を学んでも、すばらしい講義を聞いても、どれほど苦しい行を積み重ねても、悟りに入る直接の原因とはならないのである。
 それぞれの人はみんな仏性という宝を、みずからの内に秘めている。平常は煩悩という雲に覆われて、それが自覚されることは少ない。みずからの内にひそむ宝に気づき、それを見出す最も有効な方法は、密教ではヨーガ(瑜伽)の観法なのである。
 ヨーガの観法は、みずからが修することが必要であるが、そのためには、宗教体験を積んだ師匠から、その方法が伝授されねばならない。このような意味から、神秘主義的な傾向をもつ宗教は、宗教的な生活だけではなく、日常生活においても、師に対して絶対的な服従を求めるのである。
 古代インドにおいても、ヴェーダとかウパニシャッドの秘儀は、師と弟子とが相対して直接伝授されるたてまえとなっている。ウパニシャッド(upanisad)というサンスクリット語は、もともと「師匠の近くに坐す」という意味をもち、秘儀の伝授のありかたを示す言葉でもある。サンスクリット語では、師匠を意味する言葉は「グル」(guru)という。それはもともと、「重い」とか「尊敬すべき」という形容詞で、それからさらに名詞に転じたものである。尊敬に価する人という意味で用いられる。

(松長有慶『密教』(岩波新書・新赤版179)、岩波書店、1991年、pp. 95-96)


 インドの後期密教では、一切の世俗的な倫理に対しては大胆に挑戦し、否認するが、ただ師匠に対する非礼だけは絶対許さない。一般社会の倫理、道徳だけではなく、殺、盗、淫、妄語等の仏教の戒律を徹底して無視し、それらに反逆する姿勢が貫かれている中で、師匠に対する非礼の行為をきびしく禁ずる記述は、かなり異様な感じがしないでもない。しかし神秘的な宗教のありかたを示すという点ではきわめて特色をもち、興味深い記述といってよいであろう。

(同上、p. 97)

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