「一切」とか「世界」とかいう発想は明確に反仏教的なものだ
(松本史朗)



今日、「世界」とか「宇宙」(18)とかの言葉が氾濫し、“コスモロジー”とかが論ぜられているが、この傾向は必ず深い所で、華厳や密教、さらに根底的には如来蔵思想に結びついているのだ。ではいま一度問おう。「一切」とは何か、「世界」とは何なのか。私達は厭きるほど聞かされてきた。この世界は「真理の世界」(法界)であると。私はこれを否定する。「法」 dharma に「真理」の意味はなく、「界」 dha(_)tu に「世界」の意味はない。にもかかわらず、“世界”や“真理の世界”を主張することは、華厳思想に見られるごとく、如来蔵思想の展開としては全く自然なことなのだ。それは如来蔵思想というものが、元来、“界(dha(_)tu)の一元論”(19)でありながら、界が諸法を生じるという構造上、“一なる界”と“多なる諸法”との二元論(?)、つまり理と事の二元論(?)というごときものをすぐに成立させるからだ。ところで理はその定義上、事に貫通しなければならないから(20)、理事無碍が成り立ち、理事無碍が成り立てば、すぐに事々無碍も成立する。従って「一即一切」「重々無尽」「法界円融」というわけで、何から何まで成立せざるものはなく、この“世界”は最善最美の極致で、めでたしめでたしということになる。無論そんな最善の“世界”に奴隷がいる訳もなかろうし、戦争や貧困や圧政に虐げられている人々も、存在しうる筈はないのだ(21)。私はここではっきりと述べておこう。「一切」とか「世界」とかいう発想は明確に反仏教的なものだと。

(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 33)


特に「法界」(dharma-dha(_)tu)が、「諸法の基体」(単数なる一元)であることに、疑問の余地はない。もしも疑問なら、高崎直道博士の『如来蔵思想の形成』(春秋社、一九七四年)を少しは読まれたらいかがか。博士は、如来蔵思想を総括して、次のように言われる。

全宇宙的な拡がりを一元として把握するインド思想は、一面‘dha(_)tu’の哲学でもある。如来蔵思想は、インド思想のそのような特色を最もよく体現する説であり、哲学的には〔法〕界一元論と呼んでよいであろう。
(七六ニ頁)
 この御文章の存在は、今回の印仏学会の発表直前になって初めて気づいたものだが、高崎博士は十年以上も前に、私の「如来蔵思想=dha(_)tu-va(_)da」説を予言されていたようなものだ。今、博士の御意見が心底ききたくなってくる気持をいかんともできない。師の恩を仇でかえしたとはいえ、私の如来蔵思想研究は、全く博士の不滅の業績に導かれたとしかいえないのだ(45)

(同上、pp. 74-75)

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縁起と空


(8) というよりも、和辻博士は法を“理法”や“真理”と見る一般的見解に与しているだけといえるかもしれない。というのも、“理法”というものは、必ず“個物”に貫通し、内在すると考えられるからだ。つまり“理法”という概念は、個物の存在を前提としている。もしも個物に内在しない理法というものがあったら、それを見せてもらいたいものだ。ということは、“理法”を認める立場というものは、必ず“個物”の存在を認め、“個物”を絶対化する論理を内に備えているということだ。原始仏典で始めて縁起を“理法”と見てしまったとき、「山川草木悉皆成仏」や「事事無碍」や「即事而真」に至る道は、すでに完全に用意されたのだ。

(同上、p. 79)


(18) 「宇宙」の語は、既に引用した宇井博士の文章中に現われている。私は博士のごとく、根本仏教が我々の身心を“世界”や“宇宙”とみなしたとは考えない。

(19) 「界一元論」という語は、本来、高崎直道博士が如来蔵思想を定義された言葉だ。高崎直道『如来蔵思想の形成』(七六ニ頁、一五 − 一六行)参照。なお、この高崎博士の定義(?)については、本論の最終部で言及する。

(20) 前註(8)参照。

(21) この問題に関して、ヴォルテールの『カンディード』及び宮沢賢治の『ビジテリアン大祭』は必ず読むべきだろう。また奈良康明編『仏教の実践』第九章「信仰と社会」の拙文を読んでいただきたい。ただし、そこで私は人間が社会的存在であることを単純に否定した(ニ六四 − ニ六六頁)が、現在の私はむしろ逆に考えるようになった。これについて私は、「如来蔵・人権思想と宗教的世界観─我論(egoism,自己維持)と無我論(自己否定)─」という発表(曹洞宗教学審議会第二専門部会、一九八五年三月一三日)で、自分の意見を述べたつもりだが、私は未だこの発表の内容を公けにするに至っていない。

(同上、p. 82)


(45) 高崎博士の『仏教入門』(前掲)の中に、次の一文のあることを知った。「しかしその理論に、ウパニシャッドやヴェーダーンタ哲学の教える「梵我一如」の説とまったく同じ構造の考え方があらわれているのは注意すべきである(一九一頁)。ここでは「その理論」とは、如来蔵思想を指すと思われる。

(同上、p. 94)


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