マクロコスモスとミクロコスモスが本来的に一体(松長宥勝)


 一九ニ六年、南アフリカ連邦のヤン・クリスティアン・スマックが、その著『ホーリズムと進化』の中で、「全体は部分の総和以上である」と説き、全体を部分の集合と見る近代科学に対し最初の疑問を投げかけた。それを手始めに以後、個と全体との関係をどのように規定するか、西欧社会で論議が続けられた。この中で東洋思想が参照される場合、個の集合によって全体がなりたつとともに、「それぞれの個の中に全体が含まれている」という考え方が、東洋の思想に特徴的であると見做される。その例として『ウパニシャッド』における、マクロコスモスとしてのブラフマン(最高原理)と、ミクロコスモスとしてのアートマン(個人原理)が、本来的に一体であるとする、いわゆる「梵我一如」の思想が取り上げられる。また「全体との関連性を考えないで、一物たりとも存在しない」あるいは「森羅万象すべてのものは、同時に、全体的に性起する」という華厳哲学が引き合いに出される。

(松長宥勝『仏教と科学』(現代の宗教14)、岩波書店、1997年、pp. 116-117)


 一方、目に見える動植物の生命の基底に、それらの根源となる「永遠なるいのち」を想定することがある。宗教や芸術、哲学などが対象とするいのちであり、それは通常の時間と空間とを超越しているから、対象化して捉えることはできない。宗教者がそれを内面的に把握したり、芸術家が象徴的に表現したりする「目に見えぬいのち」である。仏教ではこの永遠のいのちを体得した仏を、無量寿如来とも称し、あるいは久遠実成の仏ともいう。密教では、宇宙の永遠のいのちをそのまま仏と見たてて、大日如来と呼んでいる。

(同上、pp. 172-173)


 ミクロの動植物のいのちが、マクロの宇宙のいのちと本来同体であるという考えかたは、インド古来のバラモン教の「梵我一如」の思想に存在する。また大乗仏教の如来蔵思想や密教の仏と衆生の一体を目ざす瑜伽の観法も、基調としては異ならない。
 ヒンドゥー教のタントラ派では、人間の身体と天体現象との間に密接な対応関係を想定する。ヨーロッパにおいても、カバリストや新プラトン主義者たちもまた、大宇宙と小宇宙との間には調和があるため、人体の各部分と、宇宙のさまざまな部分とが共感し合うという。

(同上、pp. 173-174)


 仏教においても、ヒンドゥー教においても、人間と宇宙が本質的に一つであるという認識に到達すれば、同時に現実存在がそのまま宇宙生命の顕現であり、相互に密接な関連性をもちながら存在していることに気づく。現象世界の多がそのまま絶対の一にほかならず、一がまた無限の多として展開し、多はそれぞれたがいに内面的につながり合っていることが分かる。
 以上のような「多即一、一即多」の思想は、大乗仏教では、基本的な構造としてもっているが、華厳の哲学ないし密教の曼荼羅の思想の中にも凝縮して示されている。

(同上、p. 175)


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