「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)


 ところで、右の引用中にはなかったが、山田師は体験主義者こそ「一文不知」の味方だと言わんばかりに周利槃特を引き合いに出すが、これは全く考え方が逆転していると言わなければならない。なぜなら、「不知」や「無知」は、知性主義者にとってのみ意味があるのであって、体験だけを重んじ知性を無視する純然たる体験主義者には全く意味のないことだからである。そもそも「知性(intellect)」とは、物ごとを区別してそれらの「間(inter)から選びとる(lego)」ことを意味するから、真偽を分けて「判断する(crino(_)、このギリシア語に対応するフランス語がデカルトもよく使う juger である)」能力即ち「批判(jugement、直接的意味は判断)」と密接な関係をもたざるをえないが、単に頭のいい人が器用に「判断をもちいずに自分の知らぬことを語る(parler, sans jugement, de celles gu'on ignore)(デカルト『方法序説』第一部、落合訳)ような、いわば一を聞いて十を知るような能力とは全く関係がない。だから、私が批判主義〔引用者註1〕の典型と考えているデカルトは、速断と偏見を避け「闇の中をただひとり歩く人のように、そろそろ行こう、そうしてあらゆることに周到な注意を払おうと決心した(同上)のであり「人が二十年かけて考えたもののすべてを、それについて僅か二、三語を聞くやいなやただ一日のうちに悟る自信を有する(同上、第六部)頭のよい者こそがデカルトの敵にほかならなかったのである。「判断」と「批判」の「般若(pañña(_),prajña(_))」を重んじる仏教は勿論前者なのであり、禅宗が認めるような「悟」は、後者を敵としたデカルトと同様に、仏教の敵であったことは言うまでもない。周利槃特は Cu(_)lapanthaka のことで、その人の謳ったとされる詩は、『仏弟子の告白(Theraga(_)tha(_))』(岩波文庫、中村元訳)の第五五七 - 五六六頌にも取り上げられているが、進歩の遅かった彼が、仏教について知るところがあったとすれば、じっくり「判断」を試みることによって、少しずつ偽を改めて真を知っていくことができたからであろう。現在に伝わる如上の頌は、精神統一を重視して体験主義的色彩を強めているが、真偽の判断を避ける体験主義者には、「無知」すら理論上ありえないことを、ここでもう一度想起しておくことも無意味ではあるまい。
 だが、断っておくが、私は精神統一が全く無用だと主張しているわけではないのである。否、むしろ、「知性」によって真偽の「判断」を慎重に考えぬこうとすれば、自ずと精神は集中される必要があるだろう。従って、釈尊も、結跏趺坐した(pallan()kena nisi(_)di)後に縁起を熟慮した(manas()a(_)ka(_)si、作意した)のである。しかるに、縁起を熟慮することもなく、文字どおりの「無作意(amanasika(_)ra)」ともいうべき「無念無想」の「禅」の体験主義を至上のものとするとき、それはもはや仏教ではありえないものに転落する。かかる非仏教批判が、道元の場合には、「禅」もしくは「禅宗」批判となり、「自然外道」批判となったのであるが、それについては、拙稿の「禅宗批判」(『駒沢大学禅研究所年報』創刊号、六一 - 八六頁)、及び「自然批判としての仏教」(『駒沢大学仏教学部論集』第二一号、一九九○年十月刊行予定)〔既刊、三八○ - 四○三頁〕を参照されたい。
 また、山田師のように、なにが正しい仏教かを知ろうともしないで、己の従前どおりのあり方をなんの根拠もなく全面的に自己肯定してしまう体験主義者にならないためには、まず自分の「無知」をはっきり知ろうと努めるのでなければならない。孫悟空の徒と仏教徒たらんとするものとの違いはそこにあるのである。しかるに、少しでもその努力をしようとした人には分かるであろうが、「無知」をはっきり知ることは難しいし、知った「無知」を明確に改めることはなおのこと難しい。そして、これは他人に向かって平然と言えることではないが、自分で正しいことはなにかと知りつつ、それを選びとることができず、それどころか現状のままでいいやと開き直る人のことを『法華経』は「増上慢」と呼んだのである。この「増上慢」こそ度し難い人の最たるものだとは、『法華経』の永遠のテーマでもあり、私も自分のうちに充分に「増上慢」を感じるので大層な口を利くことはできないが、周利槃特を持ち出しただけで自分の方が「無知」の側を代表しているかのように取り違える人を私は決して許すことはできないのである。しかし、周利槃特であることすら難しいと思っている私を、山田師があくまでも「宗門人の屑と罵倒しつづけるであろう」と言うのなら、いつまでも罵倒しつづけるがよかろう。

(袴谷憲昭『道元と仏教 ── 十二巻本『正法眼蔵』の道元 ── 』、大蔵出版、1992年、pp. 208-209)

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道元と仏教


〔01.05.20 引用者註〕

(1) 袴谷氏は仏教とは批判であると主張されている(『批判仏教』、大蔵出版、1990年、p. 3)。私もそのように考えるが、このような「批判主義」はポパーやバートリーによって展開された「汎批判的合理主義」と共通するところが多いようにも思う。初期仏教と「汎批判的合理主義」との類似性についてはバートリー自身によって言及されている小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 34-36。かつて私信の中で袴谷氏にそのことについてお尋ねしたことがあるが、意外にも、氏はその時点ではポパーを読まれていなかった。その後ポパーを読まれた上での氏のポパーに対する考えについては、今年出版される氏の御著書の中で触れられるそうである。


〔01.09.29 引用者付記〕

 引用者註1で述べた袴谷氏の御著書(『唯識思想論考』、大蔵出版)が今年8月に出版されたので是非参照されたい。ポパーについては、pp. 2-5 で触れられている。


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