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三吉さんへ。(2/3) No: 300
 投稿者:川蝉  00/07/10 Mon 11:43:05

三吉さんへ。続きです。
>そこに私達の主体的な参画があろうが、因は、教法にあります

確かに因は教法仏の働きかけにあると思います。しかし、所具の仏性と云
うか、私たちに教法を受け入れる機根力が有るからこそ、教法の働きかけ
に応え得るのでしょう。
「玄義巻第六上」に
「衆生に生ずべきの善有り、故に聖(仏)応ずれば則ち善生じ、応ぜざれ
ば則ち生ぜず」
と、衆生に善を生じる可能性があっても、仏が働きかけなければ善は生じ
ないとあるので、「>因は、教法にあります」と云えますね。同時に「衆
生に生ずべきの善」が有ると云う「>私達の主体的な参画」の重要性もあ
るわけですね。

この「玄義巻第六上」に仏の働きかけと、それを受ける機(衆生)の関係
が論じられていますが、長くなるので、管野博史博士の「玄義入門」にあ
る概説を挙げます。
「衆生は自ら仏を感じるのか、それとも仏に依存して仏を感じるのかとい
う問題です。また、仏は自ら衆生に応じるのか、それとも衆生に依存して
応じるのかという問題です。このような分析的な視点による問いかけその
ものが、究極的立場では成立しないことを指摘したうえで、世間の言語習
慣の立場で、かりに感と応、能と所などを区別する立場が成立することを
しめしています」
とあります。
「衆生に生ずべきの善有り」とか教法を受け入れる機根力と云う自力的表
現があるのは、世間の言語習慣の立場で述べていると考えてください。

>「呼び覚まし、促し」というのが他力です。
是には異論はありません。

>この他力を因とするならば、我々の個々の能力は関係ありませ
>ん。我々個々の能力を因とするならば自力です。ならば結果に差
>異が生まれます。

現実的には仏縁の厚薄の差が有ることを実感します。修道上では個々の修
行能力で悟達に差が有るのが現実のように感じます。
浄土経でも、機根の違いで、その報果に上品上生から下品下生の別がある
としていますね。
我々は五陰仮和合・因縁所生の故に現実には機根の差があるので、他力を
因としても、個々の能力は大いに関係が有るのでは。

>我々個々のうちにある仏界・仏性がそれぞれで差があるのでしよ
>うか?

覆蔽されている度合いは差があるのでしょう。

>我々は、仏性がすべてにあると信じ、それを願いとしなければ大
>乗といえないと思います。

その通りと思います。 (つづく)

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三吉さんへ。(1/3) No: 299
 投稿者:川蝉  00/07/10 Mon 11:39:27

三吉さん今日は。

私は前回コメントに
「今一歩意味が掴めませんが、私は、所具の仏界は本具のものであって、
無から自分で作り出したものでないから、単自力でないと云うように解釈
しておきます。」
と書いた後、更に考えてみて、
十界互具とは、あらゆるものに変化する可能性を本来から具えている事で
すから、我々が十界互具の体であると云う事は、変化しない自性を想定し
ないと云えます。自性空と云う事ですね。だから、「自力も定んで自力に
あらず」と云われていると解釈すべきかなと考え直しました。

>悉有仏性の涅槃経には、仏性は本当ない。だけどないと云っては
>駄目なんだ。何故ならば、仏性とは未来に仏になる可能性のこと
>だから、

「涅槃経如来性品第十二 」に
「我今普く一切衆生に所有の仏性、諸々の煩悩に覆蔽せらるるを示す。彼
の貧人の真金蔵有れども、見るを得ること能わざるが如し。如来今日、普
く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂仏性なり」
とあります。
この文のにも、
「一切衆生悉く仏性有り、即ち是れ我の義なり」
とあります。
迦葉菩薩が、仏性有りとすると次のような疑点が生じるとし、12の疑問
を問いかけ、それに対して、喩えを述べ、「仏性有りと雖も、皆見ること
能わず。而も貪淫、瞋恚、愚痴に覆蔽せらる。」と答えています。
「仏性真我は、たとえば金剛の毀壊すべからざるが如し」
「我性仏性有るを観察すれば当に知るべし是の如き人、秘密蔵に入ること
を得」
等とあります。
たしかに「>仏性とは未来に仏になる可能性のこと」ですが、「如来性品
第十二 」を見る限りでは、「仏性は本当ない。」と云うより、「本当に
有るのだが隠れて見えず」と強調している箇所が多いです。

>ですから、もし仏教がなければ、仏性も仏界も虚しいだけです。
>我々は教法に対する共感をもってはじめて信に立てるわけです。

その通りですね。「教法に対する共感を」持ち得るのは本来所具の仏性・
菩薩性があるからですね。(つづく)

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Libraさんへ。 Follow: 301 / No: 298
 投稿者:川蝉  00/07/09 Sun 12:05:09

Libraさん今日は。

LibraさんのJonathanさんへ(2/3)のコメント中に
跋迦黎の説話が紹介されていたので、国訳大蔵経の雑阿含経を開けてみ
ました。見つからなかったので、紹介の文に沿って、一言。
私との議論にも関係すると思われますので一寸述べます。
跋迦黎が「わたしは、末期の思い出に、世尊の御顔を仰ぎ、御足を頂礼
いたしたいと思いまして」と仏所に詣でたとあって、釈尊の神通力によ
って病気を治してもらいに来たのではないですね。
釈尊の尊顔を末期の思い出に拝したいと云う気持ちです。
それに対し、我が色身を見るより、我が所説の教えに従い修道し悟りを
得ることこそ真に我を見る事なのだと云うのが釈尊の教示ですね。
「法句比喩経第一」にも
釈尊に面奉するため二人の修行者が旅に出た。渇きに倒れそうになった
二人は、古井戸にほんの少し残っている水を見つけたが、飲めば水中の
沢山の小さな虫の命を取ることになる。一人は殺生戒を護るため飲まな
かったので、命をおとし、飲んだ一人は旅を続け、仏所に詣でることが
出来た。
釈尊は「彼は戒めを守ったので、天に生まれ、汝より先に私の所に来る
ことが出来た。汝は仏の肉身を身に来たのか。なぜ仏の説いた法を見よ
うとしないのだ。私の形ばかりを見て、私の教えである戒めをよく守ら
なかった。汝は今、私を見たと思っても、私は汝を見ない。と諭された
と云う説話があります。
跋迦黎の説話と同趣旨ですね。形だけ仏に会うを願うより、仏道精進し
て仏の教えを体達する事を仏は一番願っているのであると云う事を示す
説話であろうと思われます。
増谷文雄の様に、「神格化をこばむブッダ」を示す説話と受け取るのは
少々無理がある、と私には思えます。
ただし、仏陀観の未発達な原始経典ですから 増谷文雄氏が云うように、
「彼らは、うたがいもなく、ブッダの教法と垂範とによって、この道に
いたったものである。だが、ブッダは、彼らにとっては、礼拝の対象で
もなく、ひとえに憑依して救済を願うべき相手でもなかった」と云う立
場が基本であったかも知れません。


寿量品偈にも、見仏の条件として「自ら身命を惜しまず」とか「あらゆる
功徳を修し柔和質直なる者」とかありますが、上の説話の系譜といえまし
ょう。
また、寿量品偈には「度すべき所に随って為に種々の法を説く
何を以てか衆生をして無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せ
しめんと」とあるように、キリスト教の神のように神の絶対力によって救
済する立場とは異なります。
「薬草品」にも「我は是れ一切知者・一切見者・知道者・開道者・説道者
なり」とあって、キリスト教の神のように、神の絶対力によって救うと云
うような仏陀観ではありません。
「譬喩品」にも子供達を羊車・鹿車・牛車の方便を説き大白牛車を与えて
火宅より救済するとあります。この譬えもキリスト教で云うの神の如く、
神の絶対力で救済すると云うような仏陀観ではありません。

法華経には常住不滅の仏の実在を説きますが、上に挙げた経文が示すよう
に、増谷文雄氏が懸念するような「神の子・仲保者・贖罪者・審判者」と
云うキリスト的なものでなく、キリスト教で云う絶対神でもありません。

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川蝉さん こんばんわ No: 297
 投稿者:三吉  00/07/08 Sat 23:48:58

>私は、所具の仏界は本具のものであって、無から自分で作り出したものでないか
>ら、単自力でないと云うように解釈しておきます。

悉有仏性の涅槃経には、仏性は本当ない。だけどないと云っては駄目なんだ。
何故ならば、仏性とは未来に仏になる可能性のことだから、大乗と言うのは、
すべてが成仏することを願いとする立場だから、ないにもかかわらず、あると
云わなければならない。すべてに仏性をありありと見る立場が仏の立場であり、
我々はその仏の願いや目に共感する、つまりありありとみることはできないが、
それを信頼することはできるというのが本当でしよう。

ですから、もし仏教がなければ、仏性も仏界も虚しいだけです。我々は教法に対す
る共感をもってはじめて信に立てるわけです。正確に言えば、共感を呼び覚まさ
れ、参画を促されるわけです。そこに私達の主体的な参画があろうが、因は、教法
にあります。我々の自力で掴んで訳じゃありません。「呼び覚まし、促し」という
のが他力です。この他力を因とするならば、我々の個々の能力は関係ありません。
我々個々の能力を因とするならば自力です。ならば結果に差異が生まれます。

我々個々のうちにある仏界・仏性がそれぞれで差があるのでしようか?
それが仏界・仏性ならば、もとより同じはずです。

そもそも仏性の起源は原始仏教の本性清浄説・客塵煩悩説でしょう。
我々の本質は無我・非我でありますから、それは無色透明といいますか、縁起に
よって様々な変化するものです。
その無我・非我性を本性清浄・客塵煩悩と捉え、竜樹に至って、それを空性と捉え
その空性を仏性と展開していったのでしょう。
親鸞は煩悩成就説ですから、この伝統の埒外にでている観があります。
日蓮さんはこの伝統に随順して展開しているような気がします。
しかしながら、親鸞教学はこの伝統説を包摂しております。
三願転入説でいえば、第二段階にあたります。
半自力・半他力という、これもまた願われた逸脱です。

>他者的仏も単他者ではない

他仏を自力の立場から見ればそうなると思います。ただ、己心の仏性までを他と見
る他力の立場ならば、見解は異なります。

>妙楽大師

涅槃経の悉有仏性の趣旨をきちんと抑えている見解だと思います。
我々は、仏性がすべてにあると信じ、それを願いとしなければ大乗といえないと
思います。

>仏性の顕現は妙法五字の信唱受持によるとします。

なるほど、「完全に自力」は言い過ぎかもしれません。
半自力・半他力でしょう、全体をみれば。
で、その半自力の自力の所以は「仏性」を「自」と見てしまう立場にあります。

無我=空性=仏性ならば、その主体的行為は、般羅密のごとくなはずです。
般羅密とは「自」を意識しないで主体的な行為を取る点にあるのでは?
そして、我等が無我=空性=仏性にきづかせしめられた、根本の因は仏教の教法に
あります。教法に促されて無我=空性=仏性にきずき、それが顕現したとして、
その「促し」を因と見るならば「他力」です。自分の努力を「因」と見るならば、
「自力」です。何を因と見るのが、真に仏教と相応するとお考えか?

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Libraさんへ。(4/4) No: 296
 投稿者:川蝉  00/07/08 Sat 11:22:56

Libraさんへ。つづきです。
私の「常住不滅の人格的久遠本仏を認めなければ、本有十界互具の教理
は成 立しないのですよ。」に対し
> なぜでしょう?「縁起」は永遠の真理だと思います。
との事ですが、
本有の菩薩界や本有の本仏の存在を認めないと十界互具平等の理が成立
しないのです。宗祖は十界互具平等の理こそ永遠の真理と理解されている
のです。

「十界互具は、迷(九界)悟(仏界)二界の互具と云える。もし迷界だけ
があって、悟界が存在しないと、十界の互具は成立しない。寿量品に於い
て本仏人格実在を明かして、悟界の実在を断定し、はじめて、本当の迷悟
十界の実在と互具が完成し、まことの一念三千の法門が成立するのである。
まことの一念三千の妙義によれば、九界は無始の仏界即ち本仏体内の九界
である。言い換えれば「我等本仏の中にあり」である。また仏界も無始の
九界に備わって、無始常住不滅・大智大慈の本仏も九界衆生の色心の中に
備わるのである。言い換えれば「本仏我等の中におわします」のである。
ここに我等は無始よりこのかた、本仏の大人格と一体不二であって、ここ
に無始より本仏と同時存在のわれであり、本仏の子であり、本仏の精神を
継承する自分である事が本来の面目で有ったことが示されるのである。こ
こに迷える人間のまま仏と成り得る成仏の原理が保証されるのである。」
とは、開目抄の説示を了解した宗学者の共通した説明です。

十如実相は「縁起」の実態です。十如実相すなわち十界互具平等の理です
から、十界互具平等の理は「縁起」の理と違うものではありません。

私の「久遠本仏は存在しない。仏は経典としてしか存在しない」などと云
っ たら宗祖の教学を頭から否定することなのですよ。」とのコメントに
対し
> そんなことは絶対にありません。
との事ですが、 
上に少し述べておきましたが、本仏や本有の菩薩の無始常住不滅を認めな
ければ真の一念三千の法門は成立しないのです。大曼荼羅御本尊も出てこ
ないのです。
「開目抄」の
「いまだ発迹顕本せざればまこと(実)の一念三千もあらはれず、二乗作
仏も定まらず、」(学会版197)
とありますね。発迹顕本とは釈尊が人格的実在である三身具足の常住不滅
の本有の古仏であることを顕したと云うことです。宗祖はそのように把握
しています。
この開目抄の文を読んだら、とうてい「>そんなことは絶対にありません。」
などとは云えないはずです。
だいぶ見解の相違が明確になってきましたが、そろそろ堂々巡りの意見交
換になってきたようですね。(以上)

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Libraさんへ。(3/4) No: 295
 投稿者:川蝉  00/07/08 Sat 11:17:24

Libraさんへ。続きです。
私の
> 「仏教は有神論であり、原始経典にも諸天の存在は語
> られている」と云う事は承認しますか?。
との質問に対し
> 教相に「神話的表現」があることは最初から認めています。し
>かし、それを「有神論」とは思わないということです。
> 見宝塔品に説かれている巨大な宝塔は現実にかつてこの地上に
>あらわれたと捉えるべきでしょうか?「法華経はシンボリズムに
>よって構成されているので、そこに象徴されているものの意味を
>読み取る必要がある」というごく当たり前のことを僕は言ってる
>だけです。
とのコメントですが、私は宝塔出現についてなど、今は論題に挙げていま
せん。
Libraさんが仏教は無神論であると云うような事を主張するようなので、
中村博士の論文に基づき 「仏教は有神論であり、原始経典にも諸天の存
在は語 られていると云う事は承認しますか?。」
と質問したのです。
Libraさんは「原始経典にも諸天の存在は語 られている」と認めないの
ですか?。もし認めるなら「原始経典は有神論でない」とは云えないの
では?。原始経典には諸天の存在が語られているけれど、何も宝塔出現
のようなシンボリズムな教説ではありません。しごく単純に直裁てきに
諸天の存在を語っているのです。

> では中村博士の次の言葉も承認して頂きたく思います。

これについては上部のコメントがすでにコメントになっているので省き
ます。

> 私も単純ですから「観音菩薩等(の神的存在)は実在しない」
>と信じています。

仏菩薩や諸天の存在は証明が出来ませんので、それぞれの信にまかせま
しょう。

> 法華経に説かれている上行菩薩の役割を現実に果たされたのが
>宗祖でしょう。その意味では宗祖こそが実在の上行菩薩でしょ
>う。
宗祖の本地身としての上行菩薩の存在を架空のものとする立場のようで
すから、本有の菩薩界の存在も架空のものと考えるのですね。(つづく)

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Libraさんへ。(2/4) No: 294
 投稿者:川蝉  00/07/08 Sat 11:12:22

Libraさんへ。続きです。
> 釈尊も人間でしょう。釈尊自身は神格化をこばんだのではあり
>ませんか?

ご自身の事を正しく知ってもらいたいと願われていたことでしょう。
Libraさんが下に掲示した中村博士の所論のように、徐々に神格化されて
いったことも事実しょう。
神格化の頂点・完成が寿量品の仏陀観であるとも言い得ます。
前にも書きましたが、わたしは、仏教教理の探求深化と修行者達の修行実
践と見仏三昧との体験によって、ついには寿量品の仏陀観として結実した
と理解しています。で、寿量品の仏陀観は的を外れた神格化と思いません。
釈尊の真実の正体を把握したものであろうと信じています。寿量品の仏陀
観が正しく釈尊の実体を明かすものであるなら、釈尊は苦々しく思わない
であろうと推測します。

岩波文庫「ブッダのことば」「七、学生ウパシーバァの質問」の項に、
「滅びてしまったかれは存在しないのでしょうか?或いはまた常住であ
って、無病なのでしょうか?聖者よ、どうかそれをわたしに説明してくだ
さい」とのウパシーバァの質問に対し、釈尊が
「ウパシーバァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。
かれをああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない」と答えた
とあります。
釈尊の死後の生存のあり方は、説明しても理解を得られないと云う意趣を
示す問答ですね。釈尊が肉体を捨てた後、まったく完全に消えて無くなっ
てしまうものなら、釈尊ははっきりと滅無に成ってしまうと答えたでしょ
う。
生前はっきりと説明しなかった滅後のあり方を追求していった総決算が寿
量品の仏陀観だと推測しています。
単に好き勝手な凡夫の妄想に基づいた神格化などではないと信じています。
Libraさんは、寿量品の仏陀観が、単なる想像、こうあって欲しいと云う
気持ちによって作り出されたところのまったく架空のものであると思うの
ですか?。

>法力によって成仏できるという立場でしょう。

私は、普賢品の四法成就の文と玄義を文証として、仏道成就の為には外護
としての仏神菩薩の応援導きが必要であると述べたのです。四法成就の文
や玄義の文の教示を否定されるのですか?。
前にも、仏力・法力・信力の三がそろって仏道が成就すると云う文証を挙
げましたが再掲します。
辞書によると、「大日経疏」に「此の三縁を以ての故に、則ち能く不可思
議業を成就するなり」とあるそうです。
「修禅寺相伝私注(ただし伝教の著述に非らずとの見解有り)」には、
「法力とは、妙法を唱えるとき諸仏の自利利他の功徳、来入し行者の身内
に成就す。仏力とは、法華称念の輩の前に来現し加護し、特に速やかに天
命を開かしむ。是を仏力と云う。信力とは、信心の力なり(取意)」とあ
るそうです。
三力和合して、初めて衆生は仏道を成じる事ができると云う考えは仏教共
通の考えですね。
日像上人の写本があるので宗祖撰述と云う事が確実な「御祈祷経」とか
「撰法華経」と称されるものがあります。
読誦の前に勧請文が記されています。勧請とは仏神の影現を求める言葉で
す。そこに「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼如来 一礼・・」とあります。
この勧請文は、息災延命所願成就の行法の際にも仏力・法力・信力の三力
を揃えるべき事を示しています。仏性顕現の為の唱題の際にも仏力・法力
・信力の三力具備すべきと宗祖が考えていた左証となりましょう。(つづく)

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Libraさんへ(1/4) No: 293
 投稿者:川蝉  00/07/08 Sat 11:06:16

Libra さん今日は。

> 伊藤教授は「常住不滅の仏」=「仏法」というスタンスでしょ
>う。いくら引用しても理解して頂けないようなのでこれ以上引用
>はしませんが。
伊藤教授は、観心主義的宗学者と云われる一妙日導上人の教学を高く評価
しています。で、伊藤教授の所論は、やや観心主義的傾向があるように思
えます。しかし、伊藤教授のスタンスが「常住不滅の仏」=「仏法」であ
るという理解は正鵠を得ていないのでは。
伊藤教授は、間違いなく「法華経は常住不滅の仏の存在を説いている」と
認めています。
隆文館刊「法華経の真実と救済」の「法華経の概要と真実」の項に天台の
解釈をもって法華経の概要を説明しています。
その中で、「寿量品は、要するに無始本有の本仏釈尊、三身常住、三世の
利益を明かしたものである、と解釈されています」と述べていますので、
間違いなく「法華経は常住不滅の仏の存在を説いている」と認めていまね。

さらに「法華の信心と救済」の項には
「日蓮聖人が法華経の寿量品によって建立された本仏を主体とする、いわ
ゆる佐渡始顕の本尊を閻浮提第一の本尊と申されたことを、私どもは確認
する必要があります。」
「本尊という実在のその人格的な本体は「根本の仏陀」であり、これを本
仏と称します。その本仏は抽象的な存在ではなくして、私どものこの世界
に実際に出生したところの釈迦牟尼仏の直接的な本体でもあります。」
と論じています。本仏を単なる法華経経典としていないことも分かります。

> 釈尊も人間でしょう。釈尊自身は神格化をこばんだのではあり
>ませんか?

Libraさんが伊藤教授の霊魂のあり方についての理解を語る文を引き
「>おそらく、「意志や自意識をもちつつ生き続ける」というような意味
での「霊魂」ではないだろうと推測します。」
と読みとり、霊的な存在としての本仏を否定する根拠にしたようなので、
私は、
「なつかしい私どもの父や母の霊魂も、亡き良き人々の霊魂も、この地
に留まって離れることはない。共にこの地にあって共に今の時にあって、
娑婆を寂光にする任を担うのである」
と有りますね。「意志や自意識をもちつつ生き続ける」というような意
味がなければ、 「共にこの地にあって共に今の時にあって、娑婆を寂光
にする任を担うのである」とは云えないと思われませんか?。また、人
々の霊魂の不滅を語っていると受け取れませんか?。
とLibraさんの読みとりが伊藤教授の文を正当に理解していないのでは?と
疑問を呈したのです。
その疑問に対して「> 釈尊も人間でしょう。釈尊自身は神格化をこばん
だのではありませんか?」と云うコメントは直接的なこめんとではない
ですね。(つづく)

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Jonathanさんへ(3/3) No: 292
 投稿者:Libra  00/07/07 Fri 12:08:35


> 無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を「師」として、
>「人間・釈尊」は人間のまま仏となったのです。
> そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の『永遠
>の仏』を師として仏になったのだとわかったのです」

 “有始無終”で「慈悲の活動を続ける」のが『法華経』だろうという
のが僕の立場です。それを擬人化して表現すれば「南無妙法連華経如来」
となりましょう。『法華経』には「“無始無終”の真理身(法身)」が
包摂されているという「三身相即の論理」から言えば、「南無妙法連華
経如来」を「無始の古仏」と言うことも可能かと思います。
 ともかく、『法華経』になった人間(法華経の行者)が仏であり、そ
ういう仏の「永遠の系譜(法脈)」が『永遠の仏』だろうと僕は思いま
す。こういう論理から、宗祖は

  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差
  別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈と
  は云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持
  つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  (同上、p.1338)

と言われたのだと僕は理解しています。「久遠実成の釈尊」と「法華経」
に「差別あり」と考えてしまっては「法華経を持つとも無益なり」とい
うことになってしまうのではないでしょうか。

> 宗門問題への悪影響等もあり、教学部から言論活動を控え
>るよういわれたらしいです。これは、文字になっていませんが、池田先
>生も衛星放送で「日顕の説法は、ドイツ語みたいでわからない」となん
>ども言っておりました。

 松戸氏の言論活動が与えた「宗門問題への悪影響」とは具体的にはど
のようなことなのでしょうか?
 それと、松戸氏の言論活動と名誉会長の上記の発言とはどう関係して
いるのでしょうか?

> ともあれ、宗門教学の批判的検討は、当然なされなければならないで
>しょうし、「人間・日蓮」は追求されなければならないでしょう。

 全く同感です。

>  私は松戸さんの著作としては「現代に生きる仏法―自分を見つめるカ
>ウンセリングのために―」が一番好きです。あの本は全国の各会館の店
>頭に並んでいて欲しいくらいです。そうすれば、あの本によって救われ
>る人がたくさん出てくるのではないでしょうか。

 『日蓮思想の革新』も是非置いて欲しいです。教学部の中だけで議論す
るのではなくて、学会員全員で自由闊達に議論されるべきだと僕は思いま
す。そのような議論の中から、松戸試論をさらに止揚するような、真の
「人間主義の仏法」が育まれ、本当の意味での「日蓮思想の革新」が実現
することを僕は心より願っています。

 最後に、以上のような主張に関連する僕の過去の発言の所在を示してお
きます(本掲示板以外)。Jonathanさんもお忙しいことと思いますが、
ご批判頂ければ幸いです。

 ○三吉さんの掲示板
  http://www.aaacafe.ne.jp/free/sankichi/main.bbs
  No: 45 (00/04/24 Mon 13:09:49 )〜

 ○ゆきぞさんのページ
  http://www.alles.or.jp/~maruzo21/think/index.htm
   ●過去ログ
    http://www.alles.or.jp/~maruzo21/think/bbs/20000206.htm
    02月15日(火)22時58分46秒〜

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Jonathanさんへ(2/3) No: 291
 投稿者:Libra  00/07/07 Fri 12:07:53


> 当初からやはり、松戸氏の論法には(SGIの現実でもあるが)
>「師弟の義」を十分に読みこめていないといった疑念、「人法一箇」を
>等閑にした「法偏重」といった問題点がありました。

 よく分かります。松戸氏は「法勝人劣」という言葉を強調されますが、
宗祖が言われているのは「経勝仏劣」ということだと僕は思います。そ
のあたりを松戸氏は混同なさっているのではないかと愚考します。

> さらに、「釈尊の師は南無妙法連華経如来」(P56)というところ
>で、「法と人(仏)は、本来不可分」であるとして、「釈尊の説法に
>『法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る』という言葉がある。
>法を体得すれば釈尊に会うことができ、釈尊に会えば法を悟れるという
>意味です。『我を見る』の『我』とは、根本的には『永遠の法』と一体
>となった『永遠の仏』です。

 宗祖と同じく、名誉会長は「三身相即の論理」からそのように言われ
ているのだと理解しています。
 また、『法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る』という言葉
はむしろ「法勝人劣」の文脈で説かれたのかもしれません。

   神格化をこばむブッダ
   そのことについて、わたしはまず、一つの経(相応部経典、二二、
  八七、跋迦梨。漢訳同本、雑阿含経、四七、二五、跋迦黎)が語る、
  かなりショッキングな物語を紹介しておきたいと思う。
   それは、経題にも見えるように、ヴァッカリ(跋迦梨)という病
  める比丘を主人公とする悲しい物語である。彼はそのころ、マガダ
  (摩掲陀)の都ラージャガハ(王舎城)にあって、ある陶工の家で
  病いを養っていた。だが、病状はいっこうにはかばかしからず、も
  はや再起ののぞみはないように思えた。そのとき彼が、最後の想い
  出にと願ったことは、もう一度、ブッダの姿を拝したいということ
  であった。使いの者がその由をブッダに伝えた。ブッダはそのころ、
  この都の郊外、竹林精舎ことヴェールヴァナ(竹林)の僧房にあっ
  たが、すぐに起ちあがって陶工の家にむかった。
   ブッダの姿がみえると、ヴァッカリは病床におきて坐した。ブッ
  ダはそれを制して、彼をふたたび安臥せしめると、その枕もとに坐
  した。
    「どうだ、ヴァッカリよ、がまんできるか。いくらかよいか」
    「大徳よ、わたしはもう駄目です。病いは重るばかりで、とて
    も恢復ののぞみはありません。それで、わたしは、末期の思い
    出に、世尊の御顔を仰ぎ、御足を頂礼いたしたいと思いまして」
   その時ブッダが彼に与えたことばを、経はこのように記しとどめ
  ている。
    「ヴァッカリよ、このわたしの老耄のからだを見ても、なんに
    もなりはしない。なんじはかく知らねばならない。〈法を見る
    ものはわれを見る。われを見るものは法を見る〉と」
   そのことばは、きっと、あたたかい気韻をおびていたにちがいな
  い。病める弟子を見舞って、その病床のかたわらに坐す師のこころ
  は、同苦同悲のおもいをもって充たされていたにちがいないからで
  ある。それにもかかわらず、この師のことばは、かのヴァッカリを
  してはっとせしめ、なみいる比丘たちにつよい感銘を与えるものを
  蔵していた。なんとなれば、ブッダはここに、おのれを礼拝せんと
  するものを拒んで、この期におよんでも、%8 2ネんじは法を見よと説い
  ているからである。
   このような物語をまずあげてみるのは、ほかでもない。そこには、
  ブッダとその弟子たちとの関係がよく現れている。彼らは、うたが
  いもなく、ブッダの教法と垂範とによって、この道にいたったもの
  である。だが、ブッダは、彼らにとっては、礼拝の対象でもなく、
  ひとえに憑依して救済を願うべき相手でもなかった。
   (…)
   仏教においても教祖たるブッダ・ゴータマにたいする信仰告白は
  存在する。ブッダの弟子もしくは在俗の帰依者となろうとするもの
  は、いわゆる「三帰依」を表白するように定められていた。「ブッ
  ダ(仏)に帰依したてまつる。ダンマ(法)に帰依したてまつる。
  サンガ(僧伽)に帰依したてまつる。」その第一が、ブッダにたい
  する信仰告白である。だが、その表白の意味するところは、つまり、
  彼が法を知り、法を実践する人であるから、その智慧と人格とに心
  からなる帰依と信頼をよせるということであって、それ以外のなに
  ごとも含まれてはいない。経のことばはその内容を、また、しばし
  ば、つぎのように表現する。
    「ブッダにたいして不壊の信をいだく。かの世尊は応共、正等
    覚者、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏
    陀、世尊にましますと」
   ここに列記された厳めしい十の徳号は、古来、ブッダの「十号」
  と称せられるものであるが、それらは、平たくいえば、たとえば、
  世の尊敬にあたいする人(応共)、くまなくさとれる人(正等覚者)、
  智慧と実践をかさねそなえた人(明行足)、もはや輪廻をくりかえ
  さぬ人(善逝)、この世のことのよくわかっている人(世間解)、
  あるいは、生きとし生けるものの師たる人(天人師)といった徳号
  であって、そこには、いささかでも神的属性を附与した跡はないの
  である。それらの厳めしい徳号にもかかわらず、ブッダはあくまで
  も人間であって、神の子でもなく、仲保者でもなく、贖罪者でもな
  く、審判者でもなく、いわんや神そのものでもない。神格化のここ
  ろみは、一歩もブッダの教団に立入ることが許されていない。さき
  の物語は、それを、ブッダがおのれを礼拝せんとする者を拒否する
  という、いささかショッキングなかたちで物語っている。
  (増谷文雄『仏教概論』、筑摩書房、1965年、pp. 32-36)

(3に続く)

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Jonathanさんへ(1/3) No: 290
 投稿者:Libra  00/07/07 Fri 12:05:27

 こんにちは、Jonathanさん。

 丁寧にレスして下さって本当に感謝しています。僕はJonathanさんの
ような方といつか必ず出会えるはずだと信じていました。今は、「やっと
めぐりあえた」といううれしい気持ちでいっぱいです。

 Jonathanさんの松戸試論に対しての御意見には僕も大筋で賛成です。
松戸氏の論では「真理としての法(縁起)」と「釈尊の残された教法(法
華経)」の差異が十分に意識されていないように思います。
 僕は「釈尊が残された智慧の結晶(教法)」が「報身」であると考えて
います。つまり、『法華経』が「報身」ということです。曼陀羅に即して
言えば、中尊である「南無妙法蓮華経」が「報身」を、多宝如来が「法身」
を、釈尊が「応身」を象徴していると見ます。あくまでも「報身正意」で
あり「報中論三」の立場です。その上で三身相即の論理から宗祖は「無始
無終の古仏」と言われたのだと理解しています。また、曼陀羅では、釈尊
と上行菩薩が題目と多宝如来を間にはさむ格好で向きあっていますが、そ
れは、「永遠の真理(法身)」を包摂する「釈尊の智慧(報身)」が釈尊
(父)から上行菩薩(子)に付嘱されているまさにそのシーンを象徴的に
表現したものであると見ます。つまり、曼陀羅は「父子の義」の具体的表
現だと見ます。Jonathanさんの言葉で言えば「師弟の義」ということで
す。僕は「御義口伝」の精神にのっとって、この「父子の義」こそが『法
華経』の最重要テーマであると考えています。

  > 日寛教学は「宗祖久遠本仏」の立場に立ちますが、松戸氏の「凡夫
  >本仏論(=人間真仏論)」は日寛教学の「宗祖久遠本仏論」を明確に
  >否定しています。というよりは、「久遠本仏」そのものを否定してい
  >ると言った方がいいでしょう。
  >
  >   さて、この「既に常に同時に完成された人格的実在性」・「永
  >  遠なる実在」たる「久遠元初の三身円満の報身」だが、これは絶
  > 対に理解できない事柄なのである。私は叫びたい。理解できない
  > のが当然である、否、理解する必要はない、と。なぜなら、この
  > 久遠本仏は単なる想像の所産であり、「神学」の領域の議論であ
  > り、「仏教」を否定しているからである。これこそ知性を否定す
  > る玄妙な禅的境地にほかならない。
  >  このような永遠の仏が久遠元初に想定されてしまう限り、そし
  > てそれが仏教思想だと思惟される限り、大聖人が末法に人間とし
  > て人間のために生き抜いた偉大な凡夫であったという主張は許さ
  > れないのであろう。
  > (松戸行雄『日蓮思想の革新』、論創社、1994年、p.127)
  >
  >  どう考えても、久遠の昔に人格、すなわち「有神論的人格」と
  > しての仏が実在したとは想像できないし、仏教に反すると思って
  > いる。一歩譲って、日蓮大聖人が、当時の科学知識の限界から、
  > 久遠実成を比喩とか虚構ではなく、事実として起こった出来事と
  > して把握していたとしても、人格が面になるのは矛盾である。大
  > 聖人は文上の久遠実成の釈尊に即して、そこに普遍的な法を観て
  > いるからである。ましてや、大日如来や阿弥陀仏を批判する大聖
  > 人が自分自身を久遠本仏に祭り上げることはありえない。
  > (同上、p.160)
  >
  > 僕自身は、人本尊としては基本的には「釈尊本仏」の立場ですが、
  >その場合の釈尊とは「インド生誕の人間・釈尊」です。従って、
  >「釈尊久遠本仏論」は否定します。しかし、宗祖の立場は「報身正意」
  >です。報身とは「釈尊の智慧」である以上、「人格的実在」であると
  >も言えると思います(この点は松戸氏の立場とは少し違うようです)。
  > ただし、「人格的実在」と言っても「意志や自意識をもって存在し続
  >ける霊魂」のようなものではなく、あくまでも、『法華経』という経
  >典のなかに残された「釈尊の智慧・経験」の結晶ということです。
  > ただし、宗祖も三徳を備えられています。よって、宗祖を「末法の
  >御本仏」と仰ぎます。
  (本掲示板、00/06/06 Tue 13:54:01)

 以上のような立場から、Jonathanさんの今回のレスに対して以下にコ
メントさせて頂きます。よろしくご批判下さい。

(2に続く)

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御質問 No: 289
 投稿者:shamon  00/07/07 Fri 10:49:32

Jonathanさん

仏教全般の方面からより、宗祖の思想からより、その会通を心がけることが
大切なことだと御理解していると思います。

1 さて、妙法蓮華経の五字は、妙法を顕わすものとの御遺文は随所にあり
ますが、「南無妙法蓮華経」は「南無妙法蓮華経如来」であるとの根拠を皆
さんは、宗祖の御遺文をもって、どのように指導されているのか教えていた
だけませんか。

2 「永遠の仏」とは、釈尊ではなく「久遠元初仏」=「南無妙法蓮華経如
来」との根拠も同様に御願い致します。

3 「永遠の仏」即「永遠の法」とは、「本仏」即「本法・妙法」であると
考えますが、あえて「法」を法とせず、「久遠元初仏」と仮説する根拠も同
様に御願い致します。

4 「永遠の法」=「永遠の仏」=「永遠の大生命」とのことですが、法と
仏の他に、あえて生命を仮説する根拠も同様に御願いします。

5 私どもは、心という小宇宙も妙法の働きあり、三千世間という大宇宙に
も妙法の働きありと考えております。文脈から「大宇宙」は「大生命体」で
あり「師」である「久遠元初仏」であるとされていますが、つまり「宇宙が
本仏」であるとするものですね。根拠を同様に御願い致します。

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松戸試論について No: 288
 投稿者:Jonathan  00/07/06 Thu 22:13:57

 私も学生(創大)時代は、ちょうど松戸氏が勢力的に出版活動を展開していましたので、多大な影響を受けました。学会は宗門によって教学展開を制限され続けていたので、SGIの現実的実践からそれを裏付ける論を展開しようした松戸さんの存在は、大変大きかったと思います。当時は、教学部の有名な若手論客から何から松戸論を熱心に学び、語っていました。私もそういう論文を学生時代に書き残したりしました。
 今の創価学会の教学部の姿勢というのは柔軟な姿勢を持っているので、Libraさんは、Libraさんの研究から有意義な成果をだして、教学の興隆に貢献されればいいと思います。
 さて、松戸論について、私もいろいろいいたいことがあるのですが、私の場合、『法華経の智慧』の寿量品のところを読んでから、ぼくの中では、松戸論に決定的に修正的な立場をとるように変わってきた経緯があります。当初からやはり、松戸氏の論法には(SGIの現実でもあるが)「師弟の義」を十分に読みこめていないといった疑念、「人法一箇」を等閑にした「法偏重」といった問題点がありました。
 それは、松戸論では、釈尊の遺言である「自帰依・法帰依」が貫徹されているのですが、問題は、その捉え方が、池田先生と決定的に違うところがあるのです。
『法華経の智慧』から引用すれば、
 「結論をいうと釈尊が『法』と呼んでいるものは、実は『永遠の仏』と別のものではない。・・・釈尊が『永遠の法』を悟ったというのは、イコール『永遠の仏』を自身の内に見た、ということ・・・法華経から見るならば、『法を依りどころとせよ』という教えは、根本的には『永遠の仏』を師とせよ、との遺言であった。何よりも釈尊自身が、その『永遠の仏』を師として悟りを開いたのです」(第4巻P55)
 さらに、「釈尊の師は南無妙法連華経如来」(P56)というところで、
 「法と人(仏)は、本来不可分」であるとして、
 「釈尊の説法に『法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る』という言葉がある。法を体得すれば釈尊に会うことができ、釈尊に会えば法を悟れるという意味です。『我を見る』の『我』とは、根本的には『永遠の法』と一体となった『永遠の仏』です。
 寿量品では、永遠なる『常住此説法』の仏身を説く。文上の法華経では、五百塵点劫以来の『久遠実成の釈尊』のことだが、その指向しているのは無始無終の『久遠元初仏』です。
 釈尊が悟った『永遠の法』即『永遠の仏』は、あらゆる仏が悟った『永遠の大生命』であった。過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく『久遠元初の仏』を師として悟ったのです。
 それが、久遠元初の自受用身であり、南無妙法連華経如来なのです。戸田先生は言われた。
 『日蓮大聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということです。これを久遠元初といいます。始めもなければ、終りもないのです。大宇宙それ自体が大生命体なのです』と。
 無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を「師」として、「人間・釈尊」は人間のまま仏となったのです。
 そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の『永遠の仏』を師として仏になったのだとわかったのです」
 長い引用になってしまいましたが、ここは大変重要なところなので引用しました。松戸氏は、「自帰依・法帰依」を貫徹するあまり、多くの人が指摘するように、この「永遠の仏」を切り捨ててしまっています。
 確かに松戸氏の最初の著作『人間主義の日蓮本仏論を求めて』は、日寛教学の問題点を的確に指摘していたり、誰しも口にしずらかった「本尊象徴論」を主張し、「人間・日蓮」を探究して行こうという姿勢は、大変真摯で共感をうるものでした。池田先生もこの該博にして、鋭い論を展開される松戸さんの功績を大変称えられておりました。しかし『宗門教学を笑う』を出版した時点で決定的に「永遠の仏」を否定する文脈が明確化しており(最初の著作においてもそういう文脈が目立つのですが・・・)、宗門問題への悪影響等もあり、教学部から言論活動を控えるよういわれたらしいです。これは、文字になっていませんが、池田先生も衛星放送で「日顕の説法は、ドイツ語みたいでわからない」となんども言っておりました。
 ともあれ、宗門教学の批判的検討は、当然なされなければならないでしょうし、「人間・日蓮」は追求されなければならないでしょう。
 私の松戸試論に対しての意見の大筋は以上の通りです。
 私は松戸さんの著作としては「現代に生きる仏法―自分を見つめるカウンセリングのために―」が一番好きです。あの本は全国の各会館の店頭に並んでいて欲しいくらいです。そうすれば、あの本によって救われる人がたくさん出てくるのではないでしょうか。

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田村説を再掲しておきます(神の否定) No: 287
 投稿者:Libra  00/07/06 Thu 17:37:02


  現代は、素朴に神を信じた時代にもどることはもはや不可能で
  ある。神にたいする絶望を通して新たに神を見いだすことしか、
  現代に残された道はない。
  (田村前掲書、p. 33)

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川蝉さんへ Prev: 281 / No: 286
 投稿者:Libra  00/07/06 Thu 17:30:47

 こんにちは、川蝉さん。

> また、伊藤教授は件の著書に「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無
> く、報身は法華経 と云う形でしか存在しない」と云うような論述をして
> いますか?。

 伊藤教授は「常住不滅の仏」=「仏法」というスタンスでしょう。いく
ら引用しても理解して頂けないようなのでこれ以上引用はしませんが。

> 引用の伊藤教授の文は、凡夫の霊魂のあり方についての伊藤教授の理解
> ですね。

 釈尊も人間でしょう。釈尊自身は神格化をこばんだのではありませんか?

> 誤解無いよう述べておきますが、法華経は修道上、自力・他力に偏しな
> い立場です。

 法力によって成仏できるという立場でしょう。

> 「仏教は有神論であり、原始経典にも諸天の存在は語
> られている」と云う事は承認しますか?。

 教相に「神話的表現」があることは最初から認めています。しかし、そ
れを「有神論」とは思わないということです。
 見宝塔品に説かれている巨大な宝塔は現実にかつてこの地上にあらわれ
たと捉えるべきでしょうか?「法華経はシンボリズムによって構成されて
いるので、そこに象徴されているものの意味を読み取る必要がある」とい
うごく当たり前のことを僕は言ってるだけです。

> Libra さんは、法華経や宗祖の言葉を証にしても、一向に受け入れない
> ようですから、中村元博士の「原始仏教から大乗仏教へ」から引証して
> おきます。

 では中村博士の次の言葉も承認して頂きたく思います。

   教団が発展して変容すると、仰がれる開祖のすがたも発展し変容
  する。釈尊ゴータマは、永遠の真理(dharma)をさとったが故に、
  覚者(Buddha)と呼ばれる。しからば、真理をさとった人はみな
  覚者であるといわなければならぬ。その人は何ら超自然的な存在で
  もなければ、神秘的な人物でもない。いわんや超越神のごとき存在
  でもないはずである。
   原始仏教聖典をみると、古い層と新しい層とでは、非常に思想の
  相違があるが、その古い層についてみると、仏教の開創者ゴータマ
  はどこまでも単にすぐれた人間として考えられていた。
  (中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教I』(中村元
   選集第11巻)、春秋社、1969年、pp. 487)

   特に仏教が発展し、マウリヤ王朝時代に殆んど国教ともいうべき
  地位を占めると、ゴータマはもはや人間ではなくて、超自然的な神
  的存在と考えられ、神格化されるに至った。ゴータマを「超神
  (atideva)と呼び、また「神々の神」(devadeva)と呼ぶに至
  る。後世には「神々を超えた神」(deva ̄tideva)と呼ばれるこ
  とさえもある。そうしてブッダは、人間ではないと考えられた。
  (同上、p. 511)

> 私は単純ですから観音菩薩等は実在するものと信じています。

 私も単純ですから「観音菩薩等(の神的存在)は実在しない」と信じ
ています。

> Libraさんは観音菩薩を神的存在と見ないのですね。すると、宗祖の本地
> 身である上行菩薩も存在してなかったと考えるのですか?。

 法華経に説かれている上行菩薩の役割を現実に果たされたのが宗祖で
しょう。その意味では宗祖こそが実在の上行菩薩でしょう。

> ○常住不滅の人格的久遠本仏を認めなければ、本有十界互具の教理は成
> 立しないのですよ。

 なぜでしょう?「縁起」は永遠の真理だと思います。

> 「久遠本仏は存在しない。仏は経典としてしか存在しない」などと云っ
> たら宗祖の教学を頭から否定することなのですよ。

 そんなことは絶対にありません。
 宗祖は「法華経」あるいはその「経題(題目)」を本尊とされたのです。
曼陀羅の中心は「南無妙法蓮華経」であって「南無釈迦牟尼仏」ではあり
ません。

> 常住不滅の人格的久遠本仏を認めなければ「まことの一
> 念三千もあらわれず」

 「常住不滅の人格的久遠本仏」とは「法脈」を擬人化したものでしょう。
そういう意味で「認めている」のです。 

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三吉さんへ(2/2) No: 285
 投稿者:川蝉  00/07/06 Thu 17:26:05

三吉さんへ。続きです。
上野殿の供養に感謝し、
「釈迦仏・法華経定めて御計らい給はんか」(上野殿御返事1562)と
書し、上野殿の強い信仰実践は釈迦仏・法華経の働きかけでしょうと讃
えています。
これらの文は単自力でない事を応用的に表しているものと云えましょう。

>念仏者ひとりひとりが称名する根拠はそれぞれの方ではなく、弥
>陀の本願に根拠があるとの思想です。
との事ですが、日蓮宗では、
「返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の
本従の師にて、而も主、親の徳を備へ給ふ 」(曽谷入道殿御返事1057)
との教示があるように、久遠釈尊より受けた、妙法五字一念三千の仏種
による下種結縁の功徳力が、我々が発心修道し成仏への道を歩み出す原
動力であるとしています。

>我等の主体は煩悩だと見るのが他力です。その煩悩の奥底に眠っ
>ている仏性は、仏教と出遭うことで照らせれて、本願に適った称
>名という行為に参画する。というのが他力です。その時、因(弥
>陀の本願)が浄なるが故に果も顛倒しない。

日蓮宗では我等は十界互具平等の体とみます。ただし、特に末法衆生は
煩悩罪悪甚重で仏性は覆われて顕れずの状態であるが、久遠釈尊こそ真
の主師親三徳者と仰ぎ、妙法五字信唱受持によって仏界を顕現せしむる
事が出来るとします。

>問題は、凡夫の善行は因が浄ではない故に、煩悩に惑染されてい
>る故に、動機は善だが、煩悩の悪縁で結果が顛倒して悪果になる
>点です。

確かに顧みれば、悲しいかなそれが現実の姿ですね。
故に妙法五字の信唱受持を省いてはならないと云うのが日蓮宗の基本的
立場です。ですから、
「既に仏を良医と号し法を良薬に譬へ衆生を病人に譬ふ。されば如来一
代の教法を擣シ和合して妙法一粒の良薬に丸ぜり。豈に知るも知らざる
も服せん者、煩悩の病愈えざるべしや。病者は薬をもしらず病をも弁へ
ずといへども服すれば必ず愈ゆ、行者も亦然なり。法理をもしらず、煩
悩をもしらずといへども、只信ずれば見思、塵沙、無明の三惑の病を同
時に断じて、実報、寂光の台にのぼり本有三身の膚を磨かん事疑あるべ
からず」(聖愚問答抄499)
の教示を有り難く思うわけです。

>他力の根幹は我が仏性を「他」と見る点にあります。あなたはそ
>れを「自」と見られているでしょう?ならば完全に自力です。

仏性を具していると見ます。本有の三因仏性を我が本質と見ます。ただ
し、すでに述べたように、仏性の顕現は妙法五字の信唱受持によるとし
ます。信唱受持して行くために仏や菩薩・諸天の応援も必要と考える立
場です。「>ならば完全に自力です」とは云えないのでは。

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三吉さんへ(1/2) No: 284
 投稿者:川蝉  00/07/06 Thu 17:21:46

三吉さん今晩は。

神の存在を認めないで仏神の教導加護を否定する立場に対し、自身の修
行能力(いわば自力)だけでなく、仏神の教導加護も必要であると云う
立場が正当であろうと云う事を主張したものです。
「信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし」(諸法実相抄1361)
と云う宗教的立場が必要であろうと云う事を述べることが目的でした。
その経証として、普賢品の四法成就の文と、天台の玄義の教示を掲示し
たのです。
>他力=外部からの護念でしょうか?ならば諸天、つまり善神です
>ら、他力になります。
他力=外部からの護念という程度の概念で記述したものです。

「 今の法華経は自力も定んで自力にあらず、十界の一切衆生を具する
自なる故に我身に本より自の仏界あり。一切衆生の佗の仏界をも我身に
具せり。されば今仏に成るに新仏にあらず。又佗力も定で佗力にあらず、
他仏も我等凡夫の自ら具せる故に、又他仏も我等が如きの自に現同する
なり。共と無因は之を略す。」(一代聖教大意403)
と有ります。
「自力も定んで自力にあらず」「佗力も定で佗力にあらず」と云う事で、
単自力にも非らず、単他力にも非らずと云う立場が宗祖の考えです。
「十界の一切衆生を自身内に具有する自である故に、本より自の仏界や
一切衆生心内の他の仏界を具している。成仏すると云っても自身内の仏
を顕現するのである。」から、単自力でないと云うのですね。今一歩意
味が掴めませんが、私は、所具の仏界は本具のものであって、無から自
分で作り出したものでないから、単自力でないと云うように解釈してお
きます。
また「他力と言っても自己と全く隔絶した他力ではない。他仏も我等の
身内に具有するところの仏であるからである。」
と、単他力でない理由を挙げています。
一切の万法は己心の現現するものであるから、十方の諸仏と云うも行者
自己心内に存する仏界の顕れと見るので、他者的仏も単他者ではないと
云うことです。
「守護国家論」に
「我等常没の一闡提の凡夫、法華経を信ぜんと欲すれば、仏性を顕さん
とする先表なり。故に妙楽大師の云く『内薫にあらざるよりは何ぞ能く
悟を生ぜん。故に知んぬ、悟を生ずる力は真如に在り、真如内に薫ずる
を外護とするなり。已上』」(67頁)
と、あります。これは、
自己心内の真如が内より薫発しなければ、悟ることは出来ない。故に真
の外護は心内の真如法性即ち仏性である、その仏性を呼び顕すものは法
華経である。との趣旨です。
(「初心成仏抄」の「妙法蓮華経と唱ふれば・・心中の仏性を唯一音に
呼び顕し奉る功徳無量無辺なり」の文を傍証として解釈しました )
「守護国家論」のこの文も単自力を否定しています。

「此くの如く法門を尋ねさせ給う事は只事にあらず、教主釈尊御身に入
り替わらせ給うにや」(妙一御返事1262)
と、妙一尼が聞法熱心なのは教主釈尊の働きかけでしょうと讃えています。
(続く)

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shamonさんへ Prev: 277 / No: 283
 投稿者:Libra  00/07/06 Thu 16:25:51

 こんにちは、shamonさん。

>貴方の主張しているのは、増谷教授
> が批判しているところの「唯物論と結合して、強烈な宗教否
> 定のニュアンスを含むもの」としか取れないものです。

 それは誤解です。僕は「釈尊は人間である」ということを言
っているのです。そして、釈尊が残された教え(仏法)は永遠
に衆生を教化すると言っているのです。宗教を否定してません。

> ちなみに創価学会が普及させている「法華経」は、文字は同じで
> も、今でも釈尊の説いた「法華経」ではなく、日寛教学あるいは
> 御都合的文底で読む創価学会の「法華経」ですよ。自らが擁護す
> る組織を美化するばかりでなく、良く目を開いて現実を見ること
> ですな。

 日寛教学を止揚しようとしている人間もちゃんといます。これも
現実です。

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川蝉さん 横レスです No: 282
 投稿者:三吉  00/07/06 Thu 07:00:56

>との文が端的に自力・他力に偏しない立場であることを教示してありますね。
>いわば、一は他力、二・三・四は自力と云えましょうか。
>修道上、仏の護念という他力を受けることも必須条件です。

他力概念をよくご存じないのでは?他力の思想性を無視して「自力・他力に偏しな
い立場」と云ったところで偏してないと思い込んでいるだけに過ぎません。

他力=外部からの護念でしょうか?ならば諸天、つまり善神ですら、他力になりま
す。
親鸞はなぜ他力かを説明して、念仏というのは弥陀の大行だと捉えます。
念仏者ひとりひとりが称名する根拠はそれぞれの方ではなく、弥陀の本願に根拠が
あるとの思想です。そして弥陀の本願に呼応する内部の仏性そのものが仏です。
我等の主体は煩悩だと見るのが他力です。その煩悩の奥底に眠っている仏性は、
仏教と出遭うことで照らせれて、本願に適った称名という行為に参画する。
というのが他力です。その時、因(弥陀の本願)が浄なるが故に果も顛倒しない。
正定聚の益を受けます。退転しないという益です。歩み出したら歩みを止めないと
いう益です。
自力で様々な徳本を植えようとする立場も肯定します。それは願われた逸脱です。
仏教に出遭い、自力善行しようと考えるのは極めて自然な感情です。他力思想は、
これを願われた逸脱と捉えてます。初門と言ってもよい。
問題は、凡夫の善行は因が浄ではない故に、煩悩に惑染されている故に、動機は善だが、煩悩の悪縁で結果が顛倒して悪果になる点です。
「論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のための
ゆえに、持読誦説せん。」という姿勢です。

他力の根幹は我が仏性を「他」と見る点にあります。あなたはそれを「自」と見ら
れているでしょう?ならば完全に自力です。

それと「法を成就せば如来の滅後に於いて必ず是の経を得ん」これは自力で法を成
就したご褒美にこの経を貰えたから、自力なのでしょうか?
私は仏教の願うところに共感し、参画していったらならば、それは仏教を得たとい
うことだと読めます。指し示される所に従って生きるのですから、まったく持っ
て、「他力」ではないでしょうか?

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Libraさんへ(3/3)について Follow: 286 / No: 281
 投稿者:川蝉  00/07/05 Wed 15:09:15

Libra今日は。
(3/3) へのコメントです。
> これまでの議論を通して主張してきたように、「本門の釈尊
>(久遠本仏)」という「神話的記述」もまた「仏教的に理解され
>るべき」だと僕は考えます。

○常住不滅の人格的久遠本仏を認めなければ、本有十界互具の教理は成
立しないのですよ。
「久遠本仏は存在しない。仏は経典としてしか存在しない」などと云っ
たら宗祖の教学を頭から否定することなのですよ。
「発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏の定ま
らず。」
「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・
百界千如・一念三千なるべし」(開目抄・昭定552)
と有るように、常住不滅の人格的久遠本仏を認めなければ「まことの一
念三千もあらわれず」であり、常住不滅の人格的久遠本仏を認めてはじ
めて 「真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」が成立すると云う
のが宗祖の教示です。

Libraさんが掲示している伊藤瑞叡教授の『日蓮精神の現代』
(pp. 124-125)の記述には、 「久遠本仏は存在しない。仏は経典とし
てしか存在しない」と云うような意味合いは全くありませんね。

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Libra さんへ(2/3)について No: 280
 投稿者:川蝉  00/07/05 Wed 15:04:56

Libra さん今日は。
(2/3)に対するコメントです。
>「梵天勧請」は非神話化して理解すべきだと考えます。
○私は「梵天勧請」は神話か事実かまた其の意味する事についてはを論
題に挙げてないし、長くなるので、コメントは置いておきます。
再度質問します。「仏教は有神論であり、原始経典にも諸天の存在は語
られている」と云う事は承認しますか?。
Libra さんは、法華経や宗祖の言葉を証にしても、一向に受け入れない
ようですから、中村元博士の「原始仏教から大乗仏教へ」から引証して
おきます。
「仏教では世界創造者としての神を認めないということが通説となって
いる。かれらは神々を低位の存在とみなしていた。かれらは神々を超え
た境地に絶対者を認めていたのであった。・・他方、神々の存在は、仏
教もこれをはっきりと承認していた。神を漢訳仏典では天と訳している。
天に存在するものであると考えられたからである。・・神は人間に恵み
を垂れることがある。『神に愛し恵まれた人はつねにめでたいことを見
る』神の使者が人をいましめることもある。」(476〜7頁)

Libraさんが掲示した伊藤瑞叡教授の記述(pp. 274-275)は、仏教の有
神論を否定するものでないですね。

私の「 観音菩薩も『神通力を具足し』『普門示現の神通力を聞かん者は』
等と あるように、神的存在といえば云えますね。
仏教は立派な有神論ではないですか?。」
に対して、
> 確かに教相には「神話的表現」があります。しかし、それもや
>はり、「仏教的に理解されるべき」だと考えます。

とのコメントでしたが、
私は単純ですから観音菩薩等は実在するものと信じています。
Libraさんは観音菩薩を神的存在と見ないのですね。すると、宗祖の本地
身である上行菩薩も存在してなかったと考えるのですか?。
>例えば、宗祖は以下のように述べられていますが、この場合の
>「虚空蔵菩薩」とは「空性の譬喩」と理解されるべきでしょう。

○「善無畏三蔵抄」や 「清澄寺大衆中」に有る虚空蔵菩薩影現は、まさ
に菩薩の実在を示す神秘体験だと思われないのですか?。 何も無理矢理
「>空性の譬喩と理解されるべきでしょう」なんて事を云う必要などない
でしょうに。
智慧の宝珠が「空性にうらづけられた般若の智慧」「般若の観照作用すな
わち般若の光明」を意味するものであったと十分言い得ますが、宗祖が
「虚空蔵菩薩より授与された」と記述しているのですから、素直に、そ
うした神秘体験があったいう事も等閑視してはならないと思います。。

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Libraさんへ(1/3)について No: 279
 投稿者:川蝉  00/07/05 Wed 15:00:09

Libra さん今日は。
(1/3)に対するコメントです。
Libraさんが、伊藤教授の一体三宝論を証として「法華経は常住不滅の
仏の存在を説いて無く、報身は法華経と云う形でしか存在しない」と云
う主張を再度しているようなので、「常住一体三宝論は慈悲活動する三
身具足の常住不滅の仏の存在を必須条件とするものである」から、Libra
さんの主張の論拠には成り得ないと云う事を指摘したのでした。

また、伊藤教授は件の著書に「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無
く、報身は法華経 と云う形でしか存在しない」と云うような論述をして
いますか?。

> そうですね。確かに伊藤教授は「霊魂」という言葉を肯定的に
>用いられています。しかし、「霊魂」は人々の心に存在するとも
>言われています。

引用の伊藤教授の文は、凡夫の霊魂のあり方についての伊藤教授の理解
ですね。
寿量品の仏陀観を直接に語って文段では無いようですね。
伊藤教授は「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無く、報身は法華経
と云う形でしか存在しない」と云う立場でないはずでは?と云う私の質
問に対しては、適切なコメントでないようですね。

引用の伊藤教授の文について、Libraさんは
「>おそらく、「意志や自意識をもちつつ生き続ける」というような意
味での「霊魂」ではないだろうと推測します。」
と了解したようですが、
「なつかしい私どもの父や母の霊魂も、亡き良き人々の霊魂も、この地
に留まって離れることはない。共にこの地にあって共に今の時にあって、
娑婆を寂光にする任を担うのである」
と有りますね。「意志や自意識をもちつつ生き続ける」というような意
味がなければ、 「共にこの地にあって共に今の時にあって、娑婆を寂光
にする任を担うのである」とは云えないと思われませんか?。また、人
々の霊魂の不滅を語っていると受け取れませんか?。

> そうですか。例えば、増谷文雄氏は以下のように言われていま
>す。参考にして頂ければ幸いです。
○再度質問します。仏教は神意説論否定の立場であるが、有神論である
と云う事は認めますか?。
Libraさんが引用した増谷文雄氏の文に
「>近代における「無神論」ということばには、特に唯物論と結合して、
強烈な宗教否定のニュアンスが含まれている。攻撃的無神論なのである。」
と、有りますから、私の「宇宙創造者として、天地自然の動きや人の運命
を支配する絶対神を否定しているが、科学的に実証・証明出来ないから仏
・神などは存在しないと云う様な無神論などではない」と見解と反するも
のではありません。  

誤解無いよう述べておきますが、法華経は修道上、自力・他力に偏しな
い立場です。
「普賢品」に
「一には諸仏に護念せらるることを為、二には諸々の徳本を植え、三に
は正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発せるなり。・・四法を
成就せば如来の滅後に於いて必ず是の経を得ん」
との文が端的に自力・他力に偏しない立場であることを教示してありま
すね。
いわば、一は他力、二・三・四は自力と云えましょうか。
修道上、仏の護念という他力を受けることも必須条件です。
「諸仏の護念 」の中には菩薩や諸天の導き手助け応援の含まれている
ものと理解すべきです。
私は法華経信者ですから、たとい『ダンマパダ』に「とりすがるべき神
もなければ、祈りをささぐべき超人間的存在もない」と有ったとしても、
法華経に従い「修道上、即ち、自己がよく調御せられ、人はえがたいよ
りどころを得る為には、諸仏の護念 ならびに菩薩や諸天の導き手助け
応援は必要なものである」と断言するだけです。
玄義巻第七に
「外の仏の威の、益を加ふることを信ぜず、此れ自性の痴に堕す。また、
一向に外の仏の加を信じて、内心に益を求めざるは此れ他性の痴に堕す
・・自性痴の人は、眼に世間の重きを牽くに前(すす)まざる者も、傍
らより力を以て助け進むを見る。云何ぞ罪垢重き者も、仏威建立して、
観慧をして益を得せしむることを信ぜざらんや。」ともあります。

阿含経典を根拠にして述べている増谷文雄氏の仏教理解をもって法華経
・宗祖の立場を律することは、そもそも無理があると思います。

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shamonさん こんばんわ No: 278
 投稿者:三吉  00/07/05 Wed 02:35:18

>だから何でしょ

別に威張っているわけでも自慢しているわけでもない。
別に中村氏の見解を支持しているわけでもない。
弥陀と遊んでいる方とおつきあいする「暇はない」という姿勢がね、
問題では?とご指摘申し上げてます。
あまり頑なにならずだ、肩の力ぬかれたらどうか?

私の勉強不足は明らかだ。念仏についてもたいしてしらん。とはいえあなたよりは
知っている。そのあなたにだ、念仏について聞こうとは思ってませんよ。
(但し同レベルで念仏批判されるのかは興味はある(笑))

私からすればあなたと中村氏のやりとりは勉強になったし、その意味で
あなたに注目している。だからとはいえあなたが100%正しいわけでもないし、
あなたのやり方(脅迫的言辞)に疑問を覚えるから批判しているわけだ。

菩提寺の勉強はね、おっしゃるとおりだ。
何かよい書籍があれば推薦してくれたまえ。
私の場合は、念仏に関心を持つことで、菩提寺の祖、日蓮さんにも関心をもったと
いう流れなんだよ。世の中には色々な方がおり、仏教と様々な出逢いをするわけだ

もうちと、柔軟性をみにつけられたらと思う。

信は熱くなるではなく醒めていくものだと私は予想してます。

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 Follow: 283 / No: 277
 投稿者:shamon  00/07/04 Tue 20:52:15

Libraさん

増谷教授引用
>キリスト教が徹底した「神の宗教」であるのに対し、仏教は
徹底した「人間の宗教」

これは、キリスト教の神は人間を離れた隔歴した存在であり、
一切を支配する絶対者的存在であると規定しているのに対し、
仏教のいう仏・神とは、人間の心・己心に存在し、事象とし
ても実際(差別相を超えた在り方)に存在する教導の絶対者
と言うことです。何度も言ってきましたが、理解しないよう
ですね。開目抄にも宗祖は、華厳経の「心如工畫師」大日経
の「心実相我一切本初」を天台の一念三千と同義であるよう
に云われているでしょ。貴方の主張しているのは、増谷教授
が批判しているところの「唯物論と結合して、強烈な宗教否
定のニュアンスを含むもの」としか取れないものです。

伊藤上人引用
>日蓮の魂魄も〜なつかしむ私の心に存在し、何とかあやかろ
うとするとき、あやかろうとする私の所に顕在する。
宗祖も観心本尊抄にて、「我が己心の釈尊」「上行等は我が己
心の菩薩」と云われているでしょ。「霊魂」は便宜的に使うも
のだとも前に言いましたよ。宜しいですか。顕在すると言うこ
とは貴方の否定する「意志や自意識をもちつつ生き続けるもの」
として存在せしめる因果の関係にあるのですよ。

Libraさんは、伊藤上人の著書に係わらず偏狭的な読み方をしま
すね。伊藤上人の「仏教的に理解」するの意を良く読んで下さい
な。「宗教的事実、神話的であり非歴史的事実であるからと言っ
て決して否認されるべきではない」。前にも「識」というものは、
表象として顕れ、宗教的現実となると言うようなことを言ったと
思いますが。精神的現実を観ない者は、それを表象として顕わし
める存在が不明なるものであり、精神的現実を観る者は、それを
表象として顕わしめる存在が明らかになっている者なのですよ。
故に「仏界常住」の信行が強調されるのです。

ちなみに創価学会が普及させている「法華経」は、文字は同じで
も、今でも釈尊の説いた「法華経」ではなく、日寛教学あるいは
御都合的文底で読む創価学会の「法華経」ですよ。自らが擁護す
る組織を美化するばかりでなく、良く目を開いて現実を見ること
ですな。それと、伊藤上人の名誉のためにも付け加えておきます
が、上人の立場は「本尊は、究極的な実在である聖なる絶対者」
であり、「寿量品の”本仏”を主体とする佐渡始顕の本尊」です。

三吉さん

中村さんは、仮にも男子部副本部長です。そういう方が私との
対論で法華経の教主釈尊は、釈迦牟尼仏のことではないと、釈
迦の弟子ではないと学会信者に指導しているのです。仮にも仏
教を学んでいると言う方が、そういう非常識的なものへの批判
を加えず一緒になって喜び、人を思い込みが激しいだとか、漏
れが多すぎるだとか、えさって批判しておられる。そういう所
からまず改めるべきですね。もとより、信仰もなく阿弥陀仏で
お遊びする貴方に、お付き合いする程の暇はないのですが、折
角菩提寺が日蓮門下なのですから、そちらの勉強もされること
です。俺は真門だと威張られても、だから何でしょと返すだけ
ですよ。

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川蝉さんへ(3/3) No: 276
 投稿者:Libra  00/07/04 Tue 11:36:46

 伊藤教授は次のように解説されています。

   この記述内容の一部は神話的表現であるといえよう。ある人々は
  現在、神話という言葉を間違いであることの自明である非歴史的事
  実に対して用いている。すなわちある出来事で神話的であるという
  ならば、それは虚偽であるに等しいようである。無批判的にこの立
  場を受け入れるならば、日蓮のこの記述は全く無視黙殺されるか、
  あるいは非難譴責の対象とされるしかないことになる。他方、現在
  の神学的用法によれば、神話は宗教的神秘の叙述ということになる。
  すなわちそれは観察される現象ではなく、観察されない内面的現実
  を表わしたものであるという。この立場を受け入れるならば日蓮の
  この記述は他者には観察されない宗教的神秘として、例えば瞑想的
  な集中心理での意識内容のようなものとして、あるいはその神話的
  表現として非神話化的還元によって理解されなければならないとい
  うことになろう。
   しかしながら問題はより単純に、しかも仏教的に理解されるべき
  ではないだろうか。この記述内容は、日蓮によって語られた言葉に
  ちがいないのである。およそ言葉は何らかの意義を伝達する目的を
  もって発せられる。そしてここではその意義というのは神話的表現
  の核となっている宗教的事実と考えられるべきであろう。そういう
  ものは記述内容の表現様式が神話的であり非歴史的事実であるから
  といって決して否認されるべきものではない。したがって私どもは
  神話的表現を通していつの時代にも何人にも伝達可能なものとして
  効果的な形で含意されている、そういうものを一つのメッセージと
  して受け取り解読するべきである。そのメッセージには史実的秩序
  以上の精神的現実ともいうべき宗教的根本感情が生き生きとして超
  世上的な優位を占めていると解されるべきだからである。
   しからばこの神話的表現と見られる記述内容はどのように解読さ
  れるべきなのだろうか。この記述において「虚空蔵」というのは既
  述した如く、やはり空性の譬喩であろう。また「智慧の宝珠」とは、
  空性にうらづけられた般若の智慧を意味するものであろう。また
  「明星の如く」とは般若の観照作用すなわち般若の光明を示してい
  ると解しうるのではなかろうか。大乗仏教では多くの般若の光明
  (プラジュニャー・アーローカ)とは真実なるものを照らし出して
  見るところの如実知見を予想し、また時として生けるものを導き真
  実なるものに安住せしめる利他的な作用を意味するようである。私
  どもはこのような理解に立脚するとき、この神話的記述の内部に、
  空性にうらづけられた般若の光明の内実を体得しえたという自覚と
  確信そしてその実感を、日蓮のこのときの意識の内在的現実として
  読み取ることができるように思われる。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、
   pp. 118-119)

> 久遠本仏の存在のあり方は我々の想像を絶した不可知のものですが、時
> 間空間を超越し、遍在し「一切知者・一切見者・知道者・開道者・説道
> 者」(薬草品)としての働きを為し続けているものと考えたら良いでし
> ょう。

 これまでの議論を通して主張してきたように、「本門の釈尊(久遠
本仏)」という「神話的記述」もまた「仏教的に理解されるべき」だ
と僕は考えます。

   その頃、若い蓮長の宗教的感情においては、真理へ向う意気が
  充実化し、より深いもの(超世上的妥当性)への敬虔なる心情が
  具体化していたはずである。そしてそのような立場の宗教的根本
  衝動において、直観的に一つの何かが認定されたのである。
   「論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん」
  とあるのがそれである。すぐれた個々の人々の努力や知識はそれ
  ぞれ人格の沈殿であり、人類にとって諸多の財産である。しかし
  めざめた人格の、またその人格を憧憬した、いわゆる人類の師表
  者としての人々の叡智の集積でもあり、歴史の厳しい批判にたえ
  ぬいてきたところの経典は、権力ではなくて聖なる精神の権威を
  いだきつづけている。そしてそれはまさしく人類にとって大いな
  る遺産である。そういう経典に対して信頼を置くことは、おのれ
  個人の限界を知るもののなすべき真摯な態度であると共に、何よ
  りもその根源に仏たるものを内在する人類への信頼に充ちており、
  それ故に仏陀への信頼に充ちたものといえる。
   日蓮にあっては論師・訳者・人師は如何に鋭利な能力と神秘力
  とを具えていようとも、おのれ個人とあい等しい一個の有限なる
  個性であり、教にとっての対機でしかなかった。しかしながら経
  典の言文は絶対的理念的なるものが相対的現存的な意識の形をと
  ってそこに現われてくる表象形式であり宗を示す教であった。い
  な、ある記述(定遺七九一頁)を参照すると、形式どころか、仏
  の梵音声であり、御意であり、心そのもの(叡智的精神)に他な
  らなかったのである。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、
   pp. 124-125)

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川蝉さんへ(2/3) No: 275
 投稿者:Libra  00/07/04 Tue 11:36:23

> 中村元博士が岩波文庫で訳している原始経典にも諸天は語られています
> よ。梵天とか帝釈天とか四大天王とか、天上界とかはいわゆる神的存在
> のことです。

 「梵天勧請」は非神話化して理解すべきだと考えます。

   原始経典には“念願(パニダーナ、パニディ)”“希望する(パ
  ニダティ)”という語が見えますが、いずれもヴェーダの上天思想
  と関連して用いられ、大乗仏教における如く、中心概念としての思
  想の本筋には取入れられてはありません。
   しかし願や願行という言葉のもつ概念や意義は、仏陀釈尊の思想
  と生涯の行実の中に看取されるのです。ことに仏陀の宗教的事蹟は
  北伝では八相成道、すなわち下天・託胎・降誕・出家・降魔・成道・
  転法輪・入涅槃であり、南伝すなわち『パーリ長部大般涅槃経』で
  は四大仏事、いわゆる誕生・成道・初転法輪・入涅槃でありますが、
  この両説において共通する「梵天勧請による初転法輪の事蹟」とい
  うものが着目されなければなりません。梵天勧請の伝説というのは、
  正統バラモン教(ブラフマニズム)が思潮主流としての社会的地位
  を仏教に譲ったことを示唆するものですが、それにも増して釈尊が
  それを契機としまして、自受用法楽の自行を克服されて説法(=転
  法輪)をなすという覚他の行に転じたことを意味するのです。加え
  てそのことによって釈尊が自利利他覚行窮満の真の仏陀になられた
  ことをも意味するのであります。すなわち梵天勧請という神話的表
  現は、内面的自覚の深淵に真実の悲願(衆生教化)を聞得しえたと
  いう内在的な実存の証事実を表示したものであるというふうに、ブ
  ルドマン流に非神話化して理解することができますから、そこに法
  華経寿量品に見えます「毎自作是念 以何令衆生」云々という久成
  釈尊の根本悲願に通ずるものが看取されるべきなのであります。し
  かもそれ以後の仏陀釈尊のご生涯が「法による衆生救済」を願とす
  る教化活動を行実とされたものであることは自明ですから、そこに
  願行のリアライズ(体認即実現)されていることを知るのでありま
  す。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、
   pp. 274-275)

> 観音菩薩も「神通力を具足し」「普門示現の神通力を聞かん者は」等と
> あるように、神的存在といえば云えますね。
> 仏教は立派な有神論ではないですか?。

 確かに教相には「神話的表現」があります。しかし、それもやはり、
「仏教的に理解されるべき」だと考えます。例えば、宗祖は以下のよう
に述べられていますが、この場合の「虚空蔵菩薩」とは「空性の譬喩」
と理解されるべきでしょう。

  幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給
  へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智
  慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅
  宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ
  (「善無畏三蔵抄」、全集、p. 888)

  生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者
  となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝
  珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗
  並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ
  (「清澄寺大衆中」、全集、p.893)

(3に続く)

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川蝉さんへ(1/3) Prev: 269 / No: 274
 投稿者:Libra  00/07/04 Tue 11:36:00

 おはようございます、川蝉さん。
 昨日は中途半端なレスになってしまい申し訳ありませんでした。

> 伊藤教授の本は手元にないので分かりませんが、一体三宝を述べる以上、
> 伊藤教授は「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無く、報身は法華経
> と云う形でしか存在しない」と云う立場でないはずと推測します。

 そうですね。確かに伊藤教授は「霊魂」という言葉を肯定的に用いられ
ています。しかし、「霊魂」は人々の心に存在するとも言われています。
おそらく、「意志や自意識をもちつつ生き続ける」というような意味での
「霊魂」ではないだろうと推測します。

  日蓮の魂魄もこの地を離れない。なつかしい私どもの父や母の霊魂も、
  亡き良き人々の霊魂も、この地に留まって離れることはない。共にこ
  の地にあって共に今の時にあって、娑婆を寂光にする任を担うのであ
  る。「常に霊鷲山に在り」であり「常に此に住して法を説く」である。
  日蓮の魂魄も、亡き私の父母や吾子の霊魂などと同じく、限りなくな
  つかしむとき、なつかしむ私の心に存在し、何とかあやかろうとする
  とき、あやかろうとする私の所に顕在する。「柔和質直なる者は則ち
  我が身此に在って法を説くと見る」である。日蓮の宗教思想を追求す
  るとき、死の問題の若干について、私はこのように思う。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 147)

> >○仏教は「無神論」である。「無始より存在しつづける人格的存
> >在」は「神」であるから、そのようなものを認めるならば仏教で
> >はない。
>
> 仏教が神意説論否定とは初学者でも知るところですが、無神論であると
> は初めて聞きました。

 そうですか。例えば、増谷文雄氏は以下のように言われています。参
考にして頂ければ幸いです。

  仏教のことばでいうならば、此岸から彼岸にいたる。その方法につ
  いて正しい教えを語り、かつ、みずから垂範してその実践の先達と
  なる。それがブッダの教団におけるブッダの地位であって、そのほ
  かには、とりすがるべき神もなければ、祈りをささぐべき超人間的
  存在もない。よく知られている『ダンマパダ』(「法句経」)の一
  句(一六0偈)に、
    「自己のよりどころは自己のみである
     他にいかなるよりどころがあろうか
     自己がよく調御せられたとき
     人はえがたいよりどころを得る」
   それは、今日の理解をもっていうなれば、人間の自己形成の道で
  ある。仏教とは、そのような道である。その道において願われてあ
  るものは、神のまえにぬかずいて、罪を許され、救われんことでも
  ない。神の恩寵によって天国におもむくことでもない。いわんや、
  労せずして財宝にめぐまれんことでもなく、功なくして栄誉をあた
  えられんことでもない。この道において追求されるものはただ一つ、
  よく調御せられたる自己を確立して、そこに究極の自由と安立のと
  ころを見出そうとするのである。
   それは厳しい道である。その道を、彼らは、神にもすがらず、恩
  寵もねがわず、ただ一人して歩みつづける。それを勇気づけるもの
  とては、ただ、ブッダの垂範と、その教法と、そして、たがいに後
  になり先になりして、ともにこの道をたどる法の兄弟たちと取りむ
  すぶ友情の手があるばかりである。それが、さきにいうところの三
  つの依処、すなわちブッダ(仏)とダンマ(法)とサンガ(僧伽)
  にほかならない。
   このような仏教の性格を、かつて、わたしは「無神論」として規
  定してみたことがある。仏教が「神なき宗教」であることは、現代
  の諸宗教のあいだに行なわるべき「おおいなる対話」において、な
  お、声を大にして主張さるべきことである。だが、「無神論」とい
  う規定づけには、どうも、いろいろの語弊がまつわる。たとえば、
  近代における「無神論」ということばには、特に唯物論と結合して、
  強烈な宗教否定のニュアンスが含まれている。攻撃的無神論なので
  ある。それに反して、仏教が「神なき宗教」としてある所以は、あ
  くまで人間的立場に徹してその道をゆかんとするものである。神が
  あろうがなかろうが、ブッダは、あくまでも人間的立場にたちつづ
  けて、そのその思想と実践の体系を確立したのである。それを、キ
  リスト教が徹底した「神の宗教」であるのにたいしていえば、仏教
  は徹底した「人間の宗教」ということもできる。
  (増谷文雄『仏教概論』、筑摩書房、1965年、pp. 38-40)
 
(2に続く)

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たまひめさんへ Prev: 270 / No: 273
 投稿者:Libra  00/07/03 Mon 13:21:49

 こんにちは、たまひめさん。

> 今度お仲間に入れてくださいな。

 大歓迎です!どんどん発言して下さい!

> 教えてください。(初心者!)

 こちらこそよろしくお願いします。
 「実生活から遊離した教学」などは「百害あって一利なし」
だと思いますし、法華経は「信」によってどんな人間でも仏
になれる(慧が得られる)と説く経典です。
 たまひめさんの感覚でオカシイ!と感じたことをどんどん
発言して下されば幸いです。

>       西多摩地区! の おんなのこ!

 「!」がお好きなんですね(^_^)。
 この掲示板でもその調子でガンガン発言して頂けたらうれ
しいです。
 今後ともよろしくお願いします。

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Jonathanさんへ Prev: 267 / No: 272
 投稿者:Libra  00/07/03 Mon 13:11:07

 こんにちは、Jonathanさん。
 よろしくお願いします。

>  どうも、ぼくのHPに書き込みしてくれたみたいなので、お邪魔させていただきます。 

 ありがとうございます。

>  意見交換は、重要ですが、人格攻撃に生産性があるのかどうかゥ・(^.^;)

 そうですね。ご忠告ありがとうございます。

>  Libraさん。もちっと味方を作ったら良いのになと思ったりしまがゥ・。負けずに頑張ってくださいね。また来ます。

 今はまだ味方はいません。一人立てば味方は後から自然にできるものだ
と信じてやってます(^_^;)。

 また必ず来て下さいね。おかしいと思ったところはバシバシ突っ込んで
下さい。

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川蝉さんへ Prev: 269 / No: 271
 投稿者:Libra  00/07/03 Mon 13:04:22

 こんにちは、川蝉さん。

 今日はちょっと忙しいのですが、少しだけコメントさせて頂きま
す。

> >○「報身」は「有始」ではあるが「無始」である。釈尊(父)の
> >「智慧・ スピリット(報身)」は我々仏弟子(子)の活動(菩
> >薩行)の中に永 遠に生きつづける。このような「父子の義」あ
> >るいは「付嘱」が法華経の中心テーマである。
>
> 「>「報身」は「有始」ではあるが「無始」である」
> と云う定義と共に、「無終」であると云う事が定格に成っていることを
> 忘れては困ります。

 上記の「無始」は僕の打ち間違いです。「無終」と書くつもりで
した。「仏弟子(子)の活動(菩薩行)の中永遠に生きつづける」
という意味で「無終」と書いたつもりでした。

> 有始であるが無始無終すなわち常住
> 不滅の存在として、たゆみ無く教導を続けていく三身具足の仏など存在
> しないなどと云うのでは困ります。

 すでに述べましたように、僕は「歴史的シャカ」が「有始無終」
の存在として「たゆみ無く教導を続けていく」ということは否定
していません。ただし、「歴史的シャカ」というのは「釈尊を源
流とする法脈=仏法」を擬人したものだと考えます。
 だから「我々衆生(法華経の行者)」=「歴史的シャカ」とい
う論理が成立するのではないでしょうか(「全く差別無し」)。

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おはつです。 No: 270
 投稿者:たまひめ  00/07/02 Sun 23:23:45

みなさん!
すいません。

今度お仲間に入れてくださいな。

教えてください。(初心者!)

      西多摩地区! の おんなのこ!

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Libraさんへ。 Follow: 271 / No: 269
 投稿者:川蝉  00/07/01 Sat 14:18:30

続きです。
>○仏教は「無神論」である。「無始より存在しつづける人格的存
>在」は「神」であるから、そのようなものを認めるならば仏教で
>はない。

仏教が神意説論否定とは初学者でも知るところですが、無神論であると
は初めて聞きました。
中村元博士が岩波文庫で訳している原始経典にも諸天は語られています
よ。梵天とか帝釈天とか四大天王とか、天上界とかはいわゆる神的存在
のことです。
観音菩薩も「神通力を具足し」「普門示現の神通力を聞かん者は」等と
あるように、神的存在といえば云えますね。
仏教は立派な有神論ではないですか?。

仏教は「無神論」であると云う場合は、宇宙創造者として、天地自然の
動きや人の運命を支配する絶対神を否定しているのです。
科学的に実証・証明出来ないから仏・神などは存在しないと云う様な無
神論などでありません。
久遠本仏の存在のあり方は我々の想像を絶した不可知のものですが、時
間空間を超越し、遍在し「一切知者・一切見者・知道者・開道者・説道
者」(薬草品)としての働きを為し続けているものと考えたら良いでし
ょう。


>○「報身」は「有始」ではあるが「無始」である。釈尊(父)の
>「智慧・ スピリット(報身)」は我々仏弟子(子)の活動(菩
>薩行)の中に永 遠に生きつづける。このような「父子の義」あ
>るいは「付嘱」が法華経の中心テーマである。

「>「報身」は「有始」ではあるが「無始」である」
と云う定義と共に、「無終」であると云う事が定格に成っていることを
忘れては困ります。
もちろん親の意志は子供に引き継がれて、子供の活動の中に生き続けて
いくと云う事も云えます。しかし、有始であるが無始無終すなわち常住
不滅の存在として、たゆみ無く教導を続けていく三身具足の仏など存在
しないなどと云うのでは困ります。


>○法華経が「有始」の「始」を「五百塵点劫」にまでさかのぼっ
>て説い ているのには合理的な意図がきちんとある(過去仏や他
>土仏等をシャ カ一仏に統合するため等)。

寿量品は諸仏を久遠釈尊に統一する教説であることは周知のことです。
それと共に、常住不滅の仏であることを明かし、かつ、釈尊と衆生との
教縁の深さと、釈尊の慈悲活動の尊さを説いていることを忘れては困り
ます。

>○『法華経』は「釈尊(インドに生まれた釈尊)滅後の釈尊(本
>門の釈 尊)」である。『法華経』はチャイトヤ(経塔)崇拝を
>通して経巻崇 拝を説いている。

釈尊の慈悲智慧は法華経・妙法五字としても残されている事はもちろん
です。しかし、久遠釈尊が消えて無くなってしまっているなどという思
想は法華経には全くないことを忘れては困ります。
法華経塔をとおして、この経在るところ釈尊も在すと云う気持ちで釈尊
を偲び、釈尊を直接面奉する欲求を満たしたのでしょう。
この経と云う形でしか釈尊は存在しないなどという考えは無かったでし
ょう。

>○書物としての『法華経』や『法華経』になった人間(法華経の
>行者)が現実に活動する「本門の釈尊」の当体である。

己心の釈尊を顕現し、釈尊の手足・代理としての働きを為せるように成
ろうと云う目的が法華経信仰の目的ではあります。しかし、
「>書物としての『法華経』や『法華経』になった人間(法華経の行者) 」以外に久遠釈尊は存在しないなどと云う教示は法華経にも宗祖の教示にも無
いことを忘れては困ります。

> 理証を一つだけ追加しておきます。
>1.寿量品ではあらゆる仏は「本門の釈尊」に統一されている。
>従って、
>2.すべての仏は「本門の釈尊」の分身仏である。
>また、
>3.「法華経の行者」は仏である(即身成仏・一生成仏)。
>から、2.と3.により、
>4.「法華経の行者」は「本門の釈尊」の分身仏である。

これについてのコメントは、上記の私のコメントに自ずと含まれていま
すので略します。(以上)

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Libraさんへ No: 268
 投稿者:川蝉  00/07/01 Sat 14:12:00

Libraさん今日は。

私はLibraさんの質問に答えながら「久遠釈尊は三身具足の常住不滅
の仏であり、報身は法華経と云う形でしか存在しないと云う義は、法
華経・天台・宗祖の教示には無い」と云う事を述べました。
しかし、Libraさんは、「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無く、
報身は法華経と云う形でしか存在しない」と云う主張を一向に変えな
いようですね。

さて、Libraさんはshamonさんへのコメントに、伊藤教授の「一体三宝」
の解説を紹介し、

>特に、以下の表現に注目されたい。
>○「三宝はそのいずれの一宝にも統一されうるが、殊には仏をし
>て仏たらしめている慈悲ある智慧の本質であり」(4〜6行)
>○「仏の慈悲ある智慧の結晶である妙法の五字七字」(17行)
と記していますが、この表現をもって「法華経は常住不滅の仏の存在を
説いて無く、報身は法華経と云う形でしか存在しない」と云う主張の援
引とするのは、恣意的解釈といわざるを得ません。

「仏たらしめている慈悲ある智慧の本質であり」
「仏の慈悲ある智慧の結晶である妙法の五字七字」
と云う事は宗学を学ぶ者の共通認識で、私も何ら異議はありません。し
かし、この認識からは「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無く、報
身は法華経と云う形でしか存在しない」と云う主張は出てくるものでは
ありません。

そもそも、一体三宝は、仏宝としての久遠実成の釈尊と、法宝としての
所説の法華経・妙法五字と、僧宝としての伝弘者(宗祖)との関係を語
るものです。仏宝としての久遠実成の釈尊の常住不滅を前提としなけれ
ば、仏宝が欠けるので一体三宝の義が成立しません。「寿量品の過去常
を顕した三身常住で無ければ、一体三宝・常住三宝も究竟しない」と云
うのが古来の義です。

一体三宝の出処は涅槃経巻第三の長寿品第四の
「仏・法・及び僧を修習して常想を作すべし。この三法は異相あること
なし」の文だそうです。
三法とも常で、一々にみな仏法僧の三義がある事を一体三宝としている
のです。ですから、寿量品の三身常住久遠実成の釈尊に至って仏宝が常
住不滅となり、真の一体三宝が成立すると云うのが古来からの定格なの
です。
Libraさんの主張のように、「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無く、
報身は法華経と云う形でしか存在しない」とすると真の一体三宝は成立
しないのです。
伊藤教授の本は手元にないので分かりませんが、一体三宝を述べる以上、
伊藤教授は「法華経は常住不滅の仏の存在を説いて無く、報身は法華経
と云う形でしか存在しない」と云う立場でないはずと推測します。
(つづく)

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どうも。 Follow: 272 / No: 267
 投稿者:Jonathan  00/07/01 Sat 01:59:36

 どうも、ぼくのHPに書き込みしてくれたみたいなので、お邪魔させていただきます。 
 難しい。議論やってますねゥ・。ぼくはどうもそういうの苦手ですが。
 意見交換は、重要ですが、人格攻撃に生産性があるのかどうかゥ・(^.^;)
 Libraさん。もちっと味方を作ったら良いのになと思ったりしまがゥ・。負けずに頑張ってくださいね。また来ます。

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三吉さんへ Prev: 264 / No: 266
 投稿者:Libra  00/06/30 Fri 09:42:22

 三吉さん、おはようございます。

> >そうですね。なげ返してはダメなんですよね。そう原始仏典にもあり
> >ます。言い過ぎでした
>
> 相手がこちらを嫌おうが、どんな悪人でも仏性はあるんだと大乗仏教は教示してま
> す。一切皆成ですから。

 常不軽菩薩の精神ですね(^_^)。

> ただ、shamon氏は折伏経典から創価学会の教義を断定して批判を展開されてますが
> それが昨今、学会員にどれだけの影響力があるのか疑問です。

 この問題は創価学会の側にも責任があると思います。「折伏経典」等に
含まれている「問題のある過去の主張」を“きちんと総括しないまま”修
正してきたせいでこういう問題が発生しているのでしょう。

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shamonさんへ Prev: 263 / No: 265
 投稿者:Libra  00/06/30 Fri 09:28:16

> 「釈尊出世の本懐である法華経さえも、末法の今日にはまったく力
> はない」と教える創価学会が、「法華経の精神を現代に体現する集
> 団」を前面に出しているとし、Libraさんは何を言っても無駄という。

 現在の創価学会は「釈尊出世の本懐である法華経さえも、末法の今
日にはまったく力はない」などとは主張してません。実際、『法華経
の智慧』という本が刊行されてます。「法華経展」の件も紹介しまし
たし、聖教新聞紙上で原始仏典の内容が解説されている事実について
も指摘しました。6月22日の聖教新聞の「教学」のコーナーで「法
華経展」のことが詳しく紹介されていましたが、そこでも明確に創価
学会が「法華経の精神を現代によみがえらせる団体」であることが主
張されています。
 人は変わるし組織も変わります。それが縁起でしょう。shamonさ
んのイメージするような「創価学会」は今やどこにもありません。あ
なたが作り出した仮想敵に過ぎません。「無駄な時間を費や」さない
ためにも、もう幻影と戦うのはお止めになられた方がよろしいかと思
います。

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私は博識じゃありませんよ。 Follow: 266 / No: 264
 投稿者:三吉  00/06/30 Fri 07:32:50

shamonさん。おはよ

中傷しているつもりはありません。批判しているつもりです。
差異は根拠を示してます。

あなたはアプリオリに全面的に正しいのか?

>無駄な時間を費やしたようです

そういうことをおっしゃるから、あなたの人間性の底が見える。
あなたの論が入れられなければ、あなたは無駄な時間とお感じになる。
相手の仏性を信じていたならば、そんな発言はでないはすだ。
本当にあなたは仏教を信じているのか?信じていると思い込んでいるだけではない
のか?
あなたの現状は、自分の力不足こそ嘆くべきであろうと私は思う。

>豪語(趣意)”している比喩する

過去ログはもってませんが、私の記憶ではあなたは、すべての仏教をまなんだ上で
日蓮が正しいとわかったとおっしゃっていた。覚えはありませんか?

それとあなたのいう「仏教の全体像」は漏れが多すぎます。
趣旨はわかりますし、それほどはずしてないかもしれませんが、いずれかの立場に
立てば見えてくる「全体像」は異なります。

>まあ、仲良くおやりなさい。

あなたも妙なプライドを捨てて、仲良くされたらどうか?
私はあなたの本山をよく知っているし(実家が近所)、
宗派は違うが、私の家は日真門流の本隆寺の檀徒ですよ。
ちなみに母方の実家は日隆門流の本能寺の檀徒です。
信仰心はないが、仏教に関心を持っている。何も知らん方はお相手できて、
少しく雑知識があるものは敬遠されるか?

>その誤りを指摘することをすることを”地獄行きの脅迫”云々と言ってのける。

誤りを指摘するならば、わざわざ脅迫的引用はせずともよいでしょう。
誤まりだけを論じなさい。
「喜んで地獄に行ける身となるのが菩薩道」でしょう。
あなたは地獄行きがまだ怖いのか?


Libraさん

>そうですね。なげ返してはダメなんですよね。そう原始仏典にもあり
>ます。言い過ぎでした

相手がこちらを嫌おうが、どんな悪人でも仏性はあるんだと大乗仏教は教示してま
す。一切皆成ですから。

>僕の解釈が「創価学会の解釈」というわけではないことをまずおこと
>わりしておきます。

ですね。了解してます。
ただ、shamon氏は折伏経典から創価学会の教義を断定して批判を展開されてますが
それが昨今、学会員にどれだけの影響力があるのか疑問です。
それと私は折伏経典は目次しかしらん。(笑)

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 Follow: 265 / No: 263
 投稿者:shamon  00/06/29 Thu 19:24:54

仏教の全般を学ばないで学会教義を主張する者に、仏教の全体像の
上に立って宗祖の主旨を考えるべきと指摘することを、三吉さんは
”「すべての仏教を学んで〜」と豪語(趣意)”している比喩する。

「釈尊出世の本懐である法華経さえも、末法の今日にはまったく力
はない」と教える創価学会が、「法華経の精神を現代に体現する集
団」を前面に出しているとし、Libraさんは何を言っても無駄という。

無駄な時間を費やしたようです。まあ、仲良くおやりなさい。

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ムダかもしれませんが… Prev: 260 / No: 262
 投稿者:Libra  00/06/29 Thu 17:20:36

> 「釈迦の法はもう過去のもで何の利益もない」「われわれは釈迦
> 仏教に縁のない民衆であることを知らねばならない」と創価学会
> 折伏教典の教えを信じて釈尊を謗る者に(以下略)

 直前の僕の投稿はお読みになられなかったのでしょうね。もう何
を言ってもムダかもしれませんが。

 >  現在の創価学会は「『法華経』の精神を現代に体現する集団」という
 > ことを前面に押し出しています。実際、ヨーロッパで「法華経展」を開
 > 催したりしていますね(↓)。
 >
 >  http://www.interconnec.de/Lotossutra/
 >
 >  また、聖教新聞に原始仏典の内容が紹介されたりもしています。

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 No: 261
 投稿者:shamon  00/06/29 Thu 15:32:54

「釈迦の法はもう過去のもで何の利益もない」「われわれは釈迦
仏教に縁のない民衆であることを知らねばならない」と創価学会
折伏教典の教えを信じて釈尊を謗る者に、

宗祖、一ノ谷抄に云わく
「法華経に背き、釈迦佛を捨つる故に、後生は必ず無間地獄に堕ちん
ことはさておきぬ、今生にも必ず大難に値ふべし」を引用し、その誤
りを指摘することをすることを”地獄行きの脅迫”云々と言ってのけ
る。

仏教書で紙相撲をして博識を喜ぶ輩は、揚げ足を取り、相手にされな
いと中傷を繰り返す。三吉さん、そのような者が仏教云々を言うこと
事態、嘆かわしいのですよ。「日蓮精神の現代」にも犬儒学派云々と
ありましたかね、Libraさん。皆さんは、知恵と智慧の違いを考える
のが宜しいようです。自惚れの強い者には、九官鳥に甘んじておきま
しょう。

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言い過ぎでした Follow: 262 / Prev: 259 / No: 260
 投稿者:Libra  00/06/29 Thu 09:52:44

> まあでも、最低は言い過ぎでしょう。そういう言葉を使われたのでなげ返しただけ
> でしょうが。

 そうですね。なげ返してはダメなんですよね。そう原始仏典にもあり
ます。言い過ぎでした。

> とはいえ、私が創価学会の解釈を支持しているわけじゃありませんがね。
> 第一、よくしりませんし(笑)>創価学会の解釈

 僕の解釈が「創価学会の解釈」というわけではないことをまずおこと
わりしておきます。創価学会にご迷惑をおかけするわけにはいきません
ので。

 そもそも、「創価学会の解釈」というものは現在存在しているようで
存在していないように思います。以前は「日蓮正宗の解釈」が「創価学
会の解釈」だったわけですが、今はちがいます。実際、松戸行雄さんみ
たいな主張(日寛教学の止揚)も出てきています。

 現在の創価学会は「『法華経』の精神を現代に体現する集団」という
ことを前面に押し出しています。実際、ヨーロッパで「法華経展」を開
催したりしていますね(↓)。

 http://www.interconnec.de/Lotossutra/

 また、聖教新聞に原始仏典の内容が紹介されたりもしています。
 
 僕は、創価学会が「釈尊脱仏・宗祖本仏」というような日蓮正宗的主
張から早く「完全に脱皮」して、「人間主義」を具現する「真の菩薩団」
となることを心より願っています。

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最低 Follow: 260 / No: 259
 投稿者:三吉  00/06/29 Thu 07:18:50

shamon氏が情けないのは、はじめからわかっていたことです(笑)。
はじめに批判ありきは波木井坊氏のHPでスタンスを明らかにされてましたし、
SIG横浜での中村俊基氏とのやりとりで、「すべての仏教を学んだ上で、日蓮宗
が正しいとわかった」(趣意)と豪語されてましたが、他宗をよくしらんのは、S
Fでの私とのちょっとしたやりとりで明白です。思い込みの激しい方なのです。
決定的にひどいと私が思ったのはSFで他者に「地獄落ち」云々の脅迫をしていた
ことでしょう。注意しても日蓮さんや経典にあるんだからよいのだというスタンス
だったように思います。
ヒューマニズムではshamon氏の弟子を名乗る方が出られてましたが、私の批判に対
し逃亡の一手でした。
そういえば白川勝彦元代議士のサイトでもみかけた(笑)。

まあでも、最低は言い過ぎでしょう。そういう言葉を使われたのでなげ返しただけ
でしょうが。shamon氏は変な信念に凝り固まっている危ない系の方というイメージ
を世間に自ら撒きらしているだけなのでしょう。とはいえ、やっかいなことに、そ
れをいっても「日蓮さんを継いでいるの」だと主観的に思い込めます。(笑)

とはいえ、私が創価学会の解釈を支持しているわけじゃありませんがね。
第一、よくしりませんし(笑)>創価学会の解釈

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伊藤教授の三宝観 Prev: 257 / No: 258
 投稿者:Libra  00/06/28 Wed 10:04:12

 以下、『日蓮精神の現代』から引用しておきます。


===============================   行
   仏教では一般に信の心の主体的対象となるのは、不テン倒の因   1
  果と四聖諦と三宝とであり、殊に仏法僧の三宝であって、他宗教   2
  で客体的な対象として立てる世界創造の、しかし嫉妬心のある人   3
  格神の如きものではない。三宝はそのいずれの一宝にも統一され   4
  うるが、殊には仏をして仏たらしめている慈悲ある智慧の本質で   5
  あり、したがって仏を内に含む妙法に統一されうる。三宝は本化   6
  の仏教においては、広義には釈迦・多宝・十方の諸仏、法華経、   7
  十方の諸菩薩・諸天善神であり、教義には久遠世尊・法華一部・   8
  能持行者(高祖)、すなわち本仏(本尊)・本法(題目)・本僧   9
  (戒壇)でもある。要するに宗旨の三秘であり、一体三宝の妙旨  10
  としては、南無妙法蓮華経の五字七字となる。          11
   かくて信心とは高祖が『生死一大事血脈鈔』に示される如く、  12
  久遠実成の釈尊(仏法)と皆成仏道の法華経(法宝)と我等衆生  13
  (僧宝)との三つ全く差別なしと解り(=得意)て妙法蓮華経と  14
  唱え奉る処の生死一大事の血脈のそれとならなければならない。  15
  五字七字を信力をもって受け念力をもって持ち、但信口唱して、  16
  仏の慈悲ある智慧の結晶である妙法の五字七字の法力に自己を委  17
  ね任せゆく信の中に、私どもは自己の生存の意味を自覚し生命の  18
  真実を確認して、始めて生きる勇気を回復し清々しい歓喜を抱懐  19
  することができる。                      20
   信の一字を種子として、自らの心の中だけにではなく、他の人  21
  々の心の中にも、移ろうこと無く穏やかな香りに充ち浄らかな色  22
  あいに輝くものとして、等覚の花を咲かしめ妙覚の果を実らせて  23
  ゆくことこそが、私ども本化の信に生きる者の目的となり、生き  24
  甲斐とならなければならない。かかる本化の信こそが、私どもの  25
  悲痛を慰藉し絶望を希望へと転じ不安を滅除して歓喜を生成する、 26
  いわゆる創造的で価値あり意味ある人生の正当な開拓を、私ども  27
  に約束するのである、と私は思う。               28
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、
   pp. 165-166.
   ※右の行は『日蓮精神の現代』における行数とは一致しない。
   ※一行目の「テン」は難しい漢字だったので変換できず。 )
===============================

 特に、以下の表現に注目されたい。

○「三宝はそのいずれの一宝にも統一されうるが、殊には仏をして仏
  たらしめている慈悲ある智慧の本質であり」(4〜6行)

○「仏の慈悲ある智慧の結晶である妙法の五字七字」(17行)

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伊藤教授の妙法観 Follow: 258 / No: 257
 投稿者:Libra  00/06/27 Tue 17:08:17

 以下、『日蓮精神の現代』から引用しておきます。

===========================
 11 サッダルマ(妙法)の三義

 「妙法中最上如[二]白蓮華[一]」こういう意味であります。
他に法華経では、白蓮華はいくつかの意義、すなわち仏・菩
薩をも含意しますが、ここでは省略いたします。問題は、で
は「妙法の最勝なるもの」、「白蓮華の如く最勝なるところ
の妙法」とは何かということであります。原始経典では、サ
ッダルマと仏身とは一体視されています。すなわちサッダル
マは仏法を意味しています。仏法とは、甚深法(ガンブヒー
ラ・ダルマ)たる縁起であり、最勝説法の内容たる四諦八正
道であり中道であり、三法印、四法印でもあります。甚深法
は、法華経方便品では諸法実相・五何十如是として表示され
るわけです。寿量品では、文上は五百塵点久成仏、文底は常
住三身本有無作無始古仏となりましょう。
 ところで大乗経典では、サッダルマには一般的普遍的なも
のとして三つの意義があるようです。そのことを、私は華厳
経を研究して発見いたしました。それは、ひとつはプラバチ
ャナ・ダルマ、すなわち言葉として示された仏陀のダルマで
す。仏陀の言葉は、つきつめますとスートラ、経典です。別
言いたしますと、おそらく教法すなわちダルマ・ネートリー
です。それからもうひとつは、仏陀の言葉によって示される
修行法です。サムヤクサンブッダ・シャーサナと称します。
すなわちプラティパッティ・ダルマ、行法、修行法です。そ
れからもうひとつは、修行した結果、悟りが証得されますけ
れども、その証得された悟りとしての法、アヌッタラ・サム
ヤク・サンボーディ、無上正等正覚がそれです。プラープテ
ィ・ダルマとも称します。要するに、仏教学的な意味で言う
教法・行法・証法、これがサッダルマの三義です。妙法の三
義です。般若経では、教法は般若経、修行法は六波羅蜜、証
法は無上正等正覚です。華厳経では何かと申しますと、教法
はつまるところ華厳経です。それから修行法は十地十波羅蜜
などです。証法は如来知・一切智智・無上正等正覚というこ
とになります。
 では一体、法華経ではどうなのかと申しますと、この三義
が実は、華厳十地経と同一語や、その同義異語をもって、方
便品を中心として、十箇所ぐらいちりばめられております。
漢訳の妙法華では解かりませんが、サンスクリット原典です
と、あるルールに基づいて明示されておりますので分明とな
るわけです。すなわち法華経でも、教法・行法・証法の三義
が示されております。方便品を中心として三義が示されてい
るのです。問題は、法華経では、表現のニュアンスが華厳経
と異なるということです。すなわち本当の妙法とは、教法が
そのまま修行法であり、修行法がそのまま悟りの証法である
という、そういうニュアンスです。そこが華厳経とか、般若
経とかと違う所なのです。弁別されない。真実のサッダルマ、
真実の妙法というのは何か、教法がそのまま修行法であり、
修行法がそのまま証法であるようなものこそ、それである、
そういう考え方です。何とそれは、古典宗学の大成者の一妙
院日導上人のいわれる本化別頭の妙旨たる一体三法の義に同
到なのです。ですから、法華経では、サッダッルマ・パリグ
ラハということが重要となるわけであります。いわゆる妙法
の受持ということです。三義の具体的内容の研究が、今後の
私の研究課題です。

 12 寿量品の大良薬
 サッダルマのサットとは、ビー動詞の現在進行形ですから、
「いまここに現に実在する」というような意味を原意としま
す。如来神力品では、ブフータ・ダルマと換言されています
が、ブフータとは「真実の」という意味です。三義を同時に
総持するのが真実の法であるというのです。このような三義
を同時に具足する点を強調するのが、如来寿量品の「色香美
味皆悉具足」の大良薬という表現です。「是好良薬色香美味
皆悉具足」は「今留在此」ですから、今とどめてここに在く
とされたものですから、末法の衆生の為にとどめおかれた本
法たる妙法五字で、それは色・香・味の三つを具えていると
いうわけです。この色(=戒)・香(=定)・味(=慧)は
まさしく妙法の三義に照合しています。すなわち方便品を中
心として説かれている妙法の三義、サッダルマの三義が寿量
品において、それは「色香美味皆悉具足」の大良薬というふ
うに、比喩的に、象徴的に、強調的に表現されています。し
たがって本迹は教相勝劣なるも、教旨一致であると知られる
のであります。方便・寿量の二品のかかる関係は、漢訳され
たものを見たってわからない。ところが、インドの法華経を
信仰していた人々にとりましては、私は、それは自明なこと
だったのだろうと思います。経典で説明する程のことではな
くて、自明のことだったのではないか。で、説明を一々しな
かったわけです。時代を経て場所が変わりますと、その自明
のことがわからなくなります。しかし世親の『法華論』では、
今まで誰も指摘しませんでしたけれど、この三義がきちっと
明示されています。うれしいことです。
(伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、
 pp. 80-83)
===========================

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最低なのはどっちか? Prev: 255 / No: 256
 投稿者:Libra  00/06/27 Tue 17:05:58

 こんにちは、shamonさん。←IPから特定させて頂きました。

 今回の書き込みは非常に残念です。

> (  )書きを入れてまでも、筆者の文章を都合良く歪曲する。
> 創価学会ならではである。実に嘆かわしい。  

 名前も名乗らずに、きちんとした根拠も提示せず、上のような
無責任な発言をされるような人こそ「最低」なのではないでしょ
うか?

 これでshamonさんが、「まず創価学会否定ありき」の人だと
言うことがはっきりしました。そういう人は世間に多いので別に
珍しくはありませんが、shamonさんのようなご僧侶が日蓮宗に
おられるかぎり、創価学会と日蓮宗の間で冷静な話し合いがもた
れることもないのでしょうね。残念です。

  本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずい
  づれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし
  (「破良観等御書」、全集、p. 1293)

#伊藤教授の「妙法(サッダルマ)」観については改めて投稿さ
#せて頂きます。

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最低 Follow: 256 / No: 255
 投稿者:  00/06/26 Mon 13:50:04

(  )書きを入れてまでも、筆者の文章を都合良く歪曲する。
創価学会ならではである。実に嘆かわしい。  

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shamonさんのレスに対するコメント Prev: 252 / No: 254
 投稿者:Libra  00/06/26 Mon 10:29:11

 最後ということなので、もう御覧になられてないかとも思います
が、事実誤認もありますのでコメントさせて頂きます。

> 貴方が尊敬する伊藤上人も、妙法の立場です。また、伊藤上人は
> 報身正意を主張されますが、あくまでも人格身としての報身です。

 shamonさんが伊藤教授の「妙法の立場」をどのように理解され
ているか不明ですが、伊藤教授にとっては「報身」とは「仏智」だ
と思います。
 例えば、伊藤教授は平川博士の主張に対して以下のようにコメン
トされています。

   また博士の云われる如く、仏塔供養を基盤としながら舎利
  信仰を経典信仰へと転換せしめようとする意図を看取しうる
  のである。すなわち舎利供養の一般性を提示しておいて、如
  来の真の舎利は遺骨ではなく仏智を含意する経であり、経
  (=法)を受持することが仏智(=仏身)を保持することで
  あるとして、経典受持(すなわち妙法の受持)を第一義的な
  ものとして主張しようとするものであると見ることができる。
  経典受持の基盤は舎利供養による衆生と仏との間の(本質を
  同じくするが故の)いわゆる父子の義にあるから、その後も
  舎利供養は前提的のものとして説かれうるのである。
  (伊藤瑞叡「法華経成立論史(その八)」『大崎学報』第1
   50号、p. 259)

   その父子の義は、博士が・(3)に示される如く、長者窮子喩
  と良医治子喩などに示されるが、ことに寿量品の良医治子喩は
  注目されるべきである。すなわち寿量品は父より子に服用する
  べく色香美味皆悉具足の大良薬(妙法)が与えられることを記
  すが、入於涅槃の示現が恋慕せしめ渇仰の心を生ぜしめて広供
  養舎利をうながすことを述べる。すでに宝塔品などにより仏の
  真の舎利は経巻であり妙法であることが示唆されているし、常
  住不滅の仏身が妙法に含意されていることも自明である。した
  がって真の舎利供養は経巻受持へ、そして妙法の受持へと止揚
  されて、そこに一乗の行法が建立されてもいるのであろう。
  (同上、p. 260)

 「経(=法)を受持することが仏智(=仏身)を保持すること」
とか「経典受持(すなわち妙法の受持)」というように言われてい
ますね。「常住不滅の仏身が妙法に含意されていることも自明」と
も言われています。

> 仏教で言う存在のあり様についても、縁
> 起についても、全く理解していないようです。その方面の基本的な
> 勉強をされることですね。

 根拠が全く不明です。ただ「全く理解していない」と言うだけな
ら九官鳥にだって言えるのです。

>「有神論」と妙法に基づく久遠仏の違い
> も勉強されることです。

 その違いを「きちんと言葉で説明」して下さるように何度もお願
いしたではありませんか。

> ちなみに、創価大教授の岩本氏の法華経訳
> については、恣意的であると伊藤上人も指摘しているはずです。

 伊藤教授は「岩本氏の法華経観には問題がある」とされていま
すが、氏の訳が「恣意的である」とは言われてないように思いま
す。「法」をすべて「教え」と訳すのはどうかとは言われていま
すが。実際、早稲田大学では学生に「岩本氏の法華経訳」を読ま
せていると言われてます。

> さすれば、姉崎氏の引用と川蝉さんの言うことは同じであり、姉
> 崎氏の結論は、Libraさんと違うことも解ってくるでしょう。

 具体的にどこがどう間違っているのかを指摘して頂くように何
度もお願いしましたが無駄のようですね。残念です。

   ところで、知性や言葉による「あれかこれか」の決
  着の場で分が悪くなるとすぐ「宗教体験」に訴えたが
  る人の多いのが世の常かもしれないが、中沢新一氏が
  流行るのも、彼の発言の基盤がチベット僧ケツン・サ
  ンポ師について実修されたゾクチェンの瞑想体験にあ
  ると世に一般受けしているせいなのかもしれない。そ
  こで、正邪の決着に絡めて、仏教の瞑想である「定
  (sama[ ̄]dhi、三昧)」や「禅(dhya[ ̄]na)」に
  ついて一言しておけば、いかに「定」や「禅」に耽っ
  たからとて、それ自体によって仏教の正邪もしくは真
  偽を決することは決してできないということを銘記し
  ておくべきである。正邪を決するのは必ず「慧(
  prain[~]a[ ̄]、知性)」でなければならないのであっ
  て、その逆であることは決してありえない。仏教の整
  備されたある実践体系においては、以上の二つに「戒
  (s[’]i[ ̄]la)」を加えた「三学
  (s[’]iks[.]a[ ̄]-traya)」の中で、「定」と「慧」
  とが並存するかのように言われる場合もあるが、額縁
  の大きさが決ったからといってそこに入る絵はただ一
  つではなく幾通りもあるように、「定」によって心が
  調えられたからといってそこに正しい一つの「慧」だ
  けが自ずと住み着くわけのものではなく、邪見ですら
  いつでも取り着くのである。正しく知らんがためには、
  正しい仏教の教え(saddharma、妙法)だけを聞いて
  正邪を決する「慧」を錬成すべく日々努めねばならぬ
  ことは言うまでもあるまい。
  (袴谷憲昭『批判仏教』大蔵出版、1990年、
   pp. 314-315)

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川蝉さんへ Prev: 249 / No: 253
 投稿者:Libra  00/06/26 Mon 09:45:08

 おはようございます、川蝉さん。

> 報身問題や久遠釈尊の常住不滅について、これ以上論議しても無意味もようですね

 そのようですね。僕も言いたいことはほぼ言わせて頂きましたので、
あとは読者のみなさんの判断にゆだねることにしましょう。

 僕の主張のポイントだけ確認させて頂きます。

○仏教は「無神論」である。「無始より存在しつづける人格的存在」は
 「神」であるから、そのようなものを認めるならば仏教ではない。

○「報身」は「有始」ではあるが「無始」である。釈尊(父)の「智慧・
 スピリット(報身)」は我々仏弟子(子)の活動(菩薩行)の中に永
 遠に生きつづける。このような「父子の義」あるいは「付嘱」が法華
 経の中心テーマである。

○法華経が「有始」の「始」を「五百塵点劫」にまでさかのぼって説い
 ているのには合理的な意図がきちんとある(過去仏や他土仏等をシャ
 カ一仏に統合するため等)。

○『法華経』は「釈尊(インドに生まれた釈尊)滅後の釈尊(本門の釈
 尊)」である。『法華経』はチャイトヤ(経塔)崇拝を通して経巻崇
 拝を説いている。

○書物としての『法華経』や『法華経』になった人間(法華経の行者)
 が現実に活動する「本門の釈尊」の当体である。

 理証を一つだけ追加しておきます。

  1.寿量品ではあらゆる仏は「本門の釈尊」に統一されている。

従って、

  2.すべての仏は「本門の釈尊」の分身仏である。

また、

  3.「法華経の行者」は仏である(即身成仏・一生成仏)。

から、2.と3.により、

  4.「法華経の行者」は「本門の釈尊」の分身仏である。

#長々とお付き合い頂きましてありがとうございました。>川蝉さん

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 No: 252
 投稿者:shamon  00/06/24 Sat 22:48:45

Libraさんとは、これが最後になると思います。
貴方が尊敬する伊藤上人も、妙法の立場です。また、伊藤上人は
報身正意を主張されますが、あくまでも人格身としての報身です。

>生物・人類史を無視して〜仏教ではありません。
呆れてものが言えません。仏教で言う存在のあり様についても、縁
起についても、全く理解していないようです。その方面の基本的な
勉強をされることですね。「有神論」と妙法に基づく久遠仏の違い
も勉強されることです。ちなみに、創価大教授の岩本氏の法華経訳
については、恣意的であると伊藤上人も指摘しているはずです。

迹門にて、釈尊は出世の理由を明かし、教法について述べられる。
本門にて、釈尊は入滅の理由を明かし、行法について述べられる。
妙法を受持して菩薩行をすることが、釈尊の実在と如何なる関連
性があるのか、川蝉さんの説明の意を少しは理解するべきですね。
さすれば、姉崎氏の引用と川蝉さんの言うことは同じであり、姉
崎氏の結論は、Libraさんと違うことも解ってくるでしょう。

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川蝉さんへ No: 251
 投稿者:shamon  00/06/24 Sat 19:43:48

僧籍をお持ちのこと、大変失礼を致しました。今後とも、宜しく
御願い申し上げます。今年1年ほどは私事で忙しいのですが、片
づきましたら、いろいろと皆様のお力を頂戴しながら展開したい
と考え準備しております。私も、インターネットは2年程の初心
者です。この投稿の投稿者欄、shamonの青字をクリックすると送
信できるかと思います。

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shamonさんへ。 No: 250
 投稿者:川蝉  00/06/24 Sat 16:37:24

shamonさん今日は。

この掲示板にあったメール宛先にメールを送信しましたが、なんだ
か届かないようです。返送メールを開けませんでした。(私が送信
した文章は開けるのですが)私はニフターム通信ソフトですが、パ
ソコン操作は未だに初心者クラスなので、何で開けないのかわかり
ません。
で、私信ですがこの掲示板を借りてメール発信したことを報告させ
ていただきます。
掲示板ではメールのように詳しく云えませんが日蓮宗の僧籍を持っ
ています。

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Libra さんへ。 No: 249
 投稿者:川蝉  00/06/24 Sat 16:32:37

(6/6) についてのコメントです。
> 報身とは「釈尊の智慧・精神」だと僕は思います。その具体
>的表現として「教法・経典」というものが存在します。「経典」
>の王が「法華経」ですから、「法華経」は「釈尊の智慧の神髄」
>です。「妙法蓮華経」は「法華経」の肝心ですから、「釈尊の
>智慧の神髄の神髄」です。

前にも書いた筈ですが、開経偈にも「能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は応身なり」とあるように、経典に三身を見ると云う義もあります。しかし是は応用的かいしゃくで、本来は真如を証悟した存在を報身とする事が仏教の定格です。身の字が付いていることに注目ねがいます。「> 報身とは、釈尊の智慧・精神だと僕は思います」との事ですが、真如を証悟した仏を報身というのです。
たとえば、宗祖が在世中に御書を著しました。御書は宗祖の証悟・智慧の結晶・顕れです。だからと云って、当時の弟子達が御書のみが宗祖の智慧であると考えて、宗祖は空っぽの存在として、御書の外に宗祖の智慧・教えは存在しないなどと云う馬鹿げたことは主張していません。
寿量品は久遠釈尊を常住不滅の仏としています。だから久遠釈尊を報身仏(法・応身も具足しています)としている事は理の当然です。法華経は釈尊の智慧・証悟を我々に得せしめる為に顕された経です。しかし、法華経が有るから釈尊は報身で無くなったとか、久遠釈尊は既に存在しないなどと云う主張は、寿量品の教説を全く無視したものと云わざるを得ません。

この後にいかなる意味で「御義口伝」の文を掲示しているのか一向にわかりません。

> 最後に、「宗学的立場」と「批評的立場」に関して、本田義
>英博士の言葉を引いておきます(伊藤教授の論文からの孫引き
>です)。

云いたいことはわかります。
Libra さんが「批評的立場」で何を云っても構いませんが、寿量品には無始の古仏の常住不滅の活動を説いていないとか、報身は法華経経典と云う存在のあり方としてか無いと云う事などは、全く法華経や宗祖の教示に無いことを、まずもって認識して欲しいのです。その上に立って常住不滅の久成釈尊など無いとか、報身は法華経経典と云う存在のあり方としてか存在しないと主張することはご自由です。
報身問題や久遠釈尊の常住不滅について、これ以上論議しても無意味もようですね(以上)

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Libra さんへ。 No: 248
 投稿者:  00/06/24 Sat 16:29:06

(5/6)へのコメントです。
>しかも、われわれの成仏、いいかえれば久遠仏との同質・一体
>が説かれている
>  (田村前掲書、p. 117)
>のです。この視点が欠落しているかぎり「法華経を持つとも無
>益」ではないでしょうか?

Libra さんは、久遠仏の存在を認めない立場でなかったですか?。久遠仏の存在を認めなければ、久遠仏との同質・一体など成立しないのでは?。
久遠仏の存在を認めなければ「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(開目抄・197)と云うことにならないから、久遠仏との同質・一体など成立しないことになります。


>久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差
>別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈と
>は云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持
>つとは是なり
>  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

上の文に久遠実成の釈尊とありますね。「生死一大事血脈抄」では、久遠実成の釈尊を常住不滅の仏としている立場ですね。


> 田村博士の言われる「超歴史的シャカ」は、増谷文雄氏の言葉
>で言えば「ブッダという源に流れいでる仏教という河」というこ
>とになるでしょう。

六或示現、従果向因の菩薩行と云う事から、一つの解釈として、そのように理解しても良いでしょうが、寿量品本来の教示を忘れてもらいたくありません。
(続く)

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Libraさんへ。 No: 247
 投稿者:  00/06/24 Sat 16:25:01

(4/6) へのコメントです。
> 「法華経を受持する者は則ち釈迦牟尼仏に見えて仏の口よりこ
>の経典を聞くが如し」ということです。

釈尊の説法であるから、法華経から教えを酌み取ることは、説法の再演を聞くのと同じようなものであると云う意味ですね。
ですから、三身即一の本仏釈尊は、 経典という形としてしか、存在しないなどと云う意味はありませんね。
この経文のどこに、三身即一の本仏釈尊は、経典という形としてしか、存在しないなどと云う意味が説いてありますか?
Libraさんが引証された経文にある
「仏に善い哉と讃めらるるなり」「釈迦牟尼仏の手にて、その頭を摩でらるるを為ん」「釈迦牟尼仏の衣をもって覆わるることを為ん」
と云う言葉は、かえって、釈尊の常住存在を説いている文と思いませんか?。
との質問は氷解しません。

> それを「応身正意」と言っていいかどうか疑問です。「常説法教>化の釈尊」とは『法華経』のことだと僕は思います。
に対する私の「 あまりにもかた偏った解釈ですね。」と云うコメントに対して
> そうでしょうか?僕はそうは思いません。法華経を色読するこ
>と(法華経になること)が仏になることだと僕は思っています。

との事ですが、これがコメントなるのかな?と云う感想です。
推測するところ「常説法教化の釈尊などは存在しない。我々が成仏して法を説くことが、常説法教化の正しい解釈だ」と云いたいようですね。
観心釈的解釈も必要ですが、常住不滅の仏が常に衆生の教導を続けていると云う経文上の教示も軽んじてはならないと思います。
引用の姉崎正治氏の文は、茂田井教亨立正大名誉教授の口癖であった「法華経に入って法華経に出る」と同じ趣旨と受け取られますね。
姉崎正治氏の文や茂田井教授の言葉は、法華経信行者としての有るべき姿であることはもちろんです。
しかし、常住不滅の久遠釈尊の存在を否定したり、報身は法華経経典としての形でしか存在しないなどと云う趣旨は決して、籠もってないと私は読みます。
法華経信行者は釈尊の手足として、釈尊の代理として生きることに努めれば努めるほどに、久遠釈尊の六或示現の慈悲、また、常に衆生の教導を続け、見守っている常住不滅の仏のある事の実感が深まって行くことでしょう。(続く)

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Libraさんへ。 No: 246
 投稿者:川蝉  00/06/24 Sat 16:03:26

(3/6)が途中で切れたようです。続きです。

仮に、久遠実成も始成正覚もともに衆生教化の為のものと解釈しても、始成正覚は方便、久遠実成は真実であると云う事です。

Libra さん引用の岩本裕氏の訳だけ見ると、久遠正覚も始成正覚もともに方便で真実でないと云う意味に解釈されがちですね。

しかし、南條文雄・泉芳共訳「梵漢対照 新訳法華経」には
「錠光如来を首めとする他の如来として教化したことも有る。処々に自の名号を現じ、又処々に自の滅度を現じ、かくて種々の法門によりて、種々に有情を満足せしめ給う(取意)」の後に
「善家男子よ、如来は去々来々の種々なる善家男子よ、如来はかしこに善根少なくして煩悩多く、種々の信解ある有情のためにかくの如く語りたまうなり。『比丘よ、われ年少にして家を出たり。比丘よ、われ無上なる正等覚を証してより未だ久しからす』と。されど善家男子よ、かくの如く久しき以前に証を得たりし如来のかくの如く証を得しより未だ久しからずと示現したまへるは他なし。有情の調熟のために仏道に入れしめむがために、この法門は説かれたるなり。
善家男子よ、一切かれらの法門は如来によりて有情の調御のために説かれたり」(356頁)
とあります。
ですから終わり部分の「一切かれらの法門は」とあるのは、「処々に自の名号を現じ、又処々に自の滅度を現じ、かくて種々の法門によりて、種々に有情を満足せしめ給う(取意)」ところの法門を指していることになります。

漢訳ならびに 「梵漢対照 新訳法華経」によるかぎり、久遠正覚も始成正覚もともに方便で真実でないと云う意味は無いですね。
(続く)

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Libraさんへ。 No: 245
 投稿者:川蝉  00/06/24 Sat 15:57:05

(3/6) へのこめんとです。

>その前では
>医の善き方便をもって 狂子を治せんがための故に
>  実にはあれども、しかも死すと言うに 能く虚妄なりと説く
>   もの無きが如し
>と言われていますね。如来の目的は「如来の智慧」(大良薬)を
>授けることによって衆生を救う(「狂子を治せん」)ことただ一
>つです。
この教説がどうして「実には在れども而も滅すと言う」すなわち
「実には常住不滅であるか衆生教化の方便として滅を示すのである」
との教示を否定することになるのですか?。
明確に「>実にはあれども、しかも死すと言うに」と「実には常住
不滅であるか衆生教化の方便として滅を示すのである」と教示して
あるではありませんか。
「>「如来の智慧」(大良薬)を授けることによって衆生を救う
(「狂子を治せん」)ことただ一つ」
の為に、「実にはあれども、しかも死す」と方便を説いたとありま
すね。少しも釈尊は無常の仏であるなどとは教示していませんね。

>実際、父を見ても「大良薬」を飲まない子供たちは治癒しないと
>説かれています。

その通りです。しかし、その事は、久遠釈尊の常住不滅であること
を少しも否定する事柄ではありません。
大良薬を服して病が癒えたならば「父、子悉く已に差ゆることを得
つと聞いて、尋いで便ち来り帰って咸く之に見えしめんが如し」と
ありますね。久遠釈尊の常住不滅で有ることがしめされていますよ。


> 『余はこのように久しい以前に「さとり」に到達した』という
>のも衆生を救うため説かれた方便だということです。

>  如来は諸の衆生の、小法を楽える徳薄く垢重き者を見ては、
>  この人のために、われは少くして出家して阿耨多羅三藐三菩
>  提を得たりと説くなり。然るに、われは実に成仏してより已
>  来、久遠なること斯くの若し。
>  但、方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんがために
>  のみ、かくの如き説を作すなり。
>  (「如来寿量品」、岩波版『法華経(下)』、pp.16-18)

もう一度よく読み、意味を確かめてください。
「諸の衆生の、小法を楽える徳薄く垢重き者を教導するために、方
便として始成正覚の仏であると説いたが、今時機が熟したので、真
実は久遠常住の仏であると宣言するのである。衆生を教化して、仏
道に入らしめんがために方便として、かくの如き(始成正覚の事)
説を作したのである。」
と云う意味に解すべきでしょう。
久遠正覚も始成正覚もともに方便で真実でないなどと云う意味では
ありません。
仮に、久遠実成も始成正覚もともに衆生教化の為のものと解釈して
も、始成正覚は方便、久遠実成は真実であると云う事です。

Libra さん引用の岩本裕氏の訳だけ見ると、久遠正覚も始成正覚も
ともに方便で真実でないと云う意味に解釈されがちですね。

しかし、南條文雄・泉芳共訳「梵漢対照 新訳法華経」には
「錠光如来を首めとする他の如来として教化したことも有る。処々
に自の名号を現じ、又処々に自の滅度を現じ、かくて種々の法門に
よりて、種々に有情を満足せしめ給う(取意)」の後に
「善家男子よ、如来は去々来々の種々なる善家男子よ、如来はかし
こに善根少なくして煩悩多く、種々の信解ある有情のためにかくの
如く語りたまうなり。『比丘よ、われ年少にして家を出たり。比丘
よ、われ無上なる正等覚を証してより未だ久しからす』と。されど
善家男子よ、かくの如く久しき以前に証を得たりし如来のかくの如
く証を得しより未だ久しからずと示現したまへるは他なし。有情の
調熟のために仏道に入れしめむがために、この法門は説かれたるな
り。
善家男子よ、一切かれらの法門は如来によりて有情の調御のために
説かれたり」(356頁)
とあります。
ですから終わり部分の「一切かれらの法門は」とあるのは、「処々
に自の名号を現じ、又処々に自の滅度を現じ、かくて種々の法門に
よりて、種々に有情を満足せしめ給う(取意)」ところの法門を指
していることになります。

漢訳ならびに 「梵漢対照 新訳法華経」によるかぎり、久遠正覚
は真実でないと云う意味は無いですね。
(続く)

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Libra さんへ。 No: 244
 投稿者:川蝉  00/06/24 Sat 15:38:16

Libra さん今日は。
(2/6)についてのコメントです。

>また、「久遠仏説」は「菩薩行」と関連づけて理解されなければ
>ならないということを一貫して強調されています。
(1/6)についてのコメントに述べてように、久遠実成を認めな
ければ本有十界互具平等は成り立たず、 本有十界互具平等は成り
立たなければ、菩薩が成仏できると云う根拠がないと云う事を忘れ
ないでください。

>「久しい以前に成仏した如来は、寿命無量であって、常に住  
> する」(我成仏してより已来、はなはだ大いに久遠なり。寿命
>無量阿僧祇劫、常住にして滅せず)と説きつつ。すぐつづけて、
>「善男子よ、わたしには、いまなお、かつての菩薩行は成しとげ
>られていず、寿命の量もまた、満たされていない」(諸の善男
>子、我、本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶、未だ尽き
>ず)とことわっているのである。つまり、かぎりなく絶えること
>のない菩薩行をとおして、仏の永遠性を証明しようとしたもので
>ある

田村博士は寿量品には仏の永遠性を説き、永遠に衆生教化の活動を
続ける(宗学用語では、いわゆる従果向因の菩薩行とか六或示現の
教導ですね)と説いていると認識している事がわかります。
それに対し、どうも、Libra さんは、寿量品は仏の永遠なる活動を
説いていると云う事を認識出来てないようですね。


> 寿量品の久遠仏説がいわゆる一神教とは質を異にすることを知る
>のである。

こんな事は寿量品解釈のいろはでしょう。

(続く)

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Libraさんへ。 No: 243
 投稿者:川蝉  00/06/24 Sat 15:34:05

 Libraさん今日は。
(1/6)についてのコメントです。

> 生物史・人類史を無視して「無始無終の人格的存在」を認める
>のであれば「有神論」です。それはもはや仏教ではありません。

仏教の哲理を追求深化し、また修行実践、特に優れた禅三昧力によ
って、時には三昧中に見仏聞法し、あるいは啓示を受け、それらの
精華、精髄として、法華経の仏陀観・衆生観・浄土観・教法観等が
闡明されたものと私は基本的に推測しています。
ですから、田村博士が「久遠仏説を釈尊自身が説いたものではなく、
釈尊滅後に弟子・信徒たちによって作り上げられたものである」と
いうことを主張していても一向に差し支え有りません。

天台・宗祖の理解に依れば、法華経は三身相即の無始の古仏の存在
を力説している経です。
「これらの二つの大法は一代の骨髄・一切経の心髄なり」
(開目抄197)
と有るとおりです。二つの大法とは二乗作仏と久遠実成の法門のこ
とです。
三身相即の無始の古仏の存在を否定する事は、法華経の重要教説を
否定することです。


>田村博士ご自身が「任意捨命」等の思想を肯定しているわけでは
>ないことを注意しておきます。

との事ですが、田村博士は寿量品が常住不滅の久遠仏の存在を説い
ている経で有ることは指摘しています。もちろんLibra さんと同じ
ように、信じてないかも知れませんが。

私が幾度も云っているように、寿量品にある三身相即の無始の古仏
の存在を、Libra さんが信じられなくとも否定しようとも一向に構
わないのです。ただ寿量品に三身相即の無始の古仏を説いてないと
か、法華経経典のみが報身仏であるなどと主張することは、法華経
の教説を正しく解釈出来てない主張だと云う事を私は指摘している
のです。


>如来寿量品第十五(第十六)であるが、伝統的にはシャカの久遠
>仏なることを明かしたものと解され、文中にもそのように説かれ
>ているが、注意すべきことは、絶えることのない菩薩行をとおし
>て仏の永遠性を明かしているので、やはり強調するところは菩薩
>行にあったと考えられる。

久遠実成を認めなければ本有十界互具平等は成り立たず、 本有十
界互具平等は成り立たなければ、菩薩が成仏できると云う根拠がな
いと云う事を忘れないでください。
(続く)

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高尾様へ(Re: Libra様) Prev: 241 / No: 242
 投稿者:Libra  00/06/23 Fri 18:47:08

 こんにちは、高尾様。

> Libra様の勉学はすごいですね。
> どうか益々のご精進をお祈り申し上げます。

 インターネットで宗論するようになってから、いろんな人に鍛
えてもらっています。とてもありがたいと思っています。宗祖の
弟子として恥ずかしくないように、これからも勇猛精進していき
たいと思います。

> 拝読し共に修習させていただきたいと思います。

 よろしくご批判下さい。

 話は変わりますが、「石田語録」を読ませて頂きました。「宗
祖本仏論」の部分には賛成できませんでしたが、縁起についての
考えなどには共感を覚えました。

 高尾様には、拙稿「「如来蔵思想批判」の批判的検討」を是非
読んで頂いて、感想をお伺いしたいです。

 最後になってしまいましたが、いつも貴重な文献をご紹介して
下さってありがとうございます。でも、無理はしないで下さいね。
これからもよろしくご指導下さい。

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Libra様 Follow: 242 / No: 241
 投稿者:高尾  00/06/23 Fri 17:42:41

Libra様の勉学はすごいですね。
どうか益々のご精進をお祈り申し上げます。
拝読し共に修習させていただきたいと思います。

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川蝉さんへ(6/6) No: 240
 投稿者:Libra  00/06/23 Fri 14:36:41

> >さて、宗祖は「法身は単なる真如理ではなく、説法する法身、身
> >語意三密円備の法身である」という「密教教学の前提」に立たれ
> >ておられたのでしょうか?
>
> 報身を法華経経典と限定する中は上記のコメントをしても理解は無
> 理かと思います。

 報身とは「釈尊の智慧・精神」だと僕は思います。その具体
的表現として「教法・経典」というものが存在します。「経典」
の王が「法華経」ですから、「法華経」は「釈尊の智慧の神髄」
です。「妙法蓮華経」は「法華経」の肝心ですから、「釈尊の
智慧の神髄の神髄」です。

  御義口伝に云く法華一部廿八品の題号の中に信解の題号此
  の品に之れ有り、一念三千も信の一字より起り三世の諸仏
  の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を
  切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利
  剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三
  世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧 とは南無妙法蓮
  華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く
  解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり、今
  日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚
  不求自得の大宝珠を得るなり信は智慧の種なり
  (「御義口伝巻上」、全集、p. 725)

 最後に、「宗学的立場」と「批評的立場」に関して、本田義
英博士の言葉を引いておきます(伊藤教授の論文からの孫引き
です)。

  宗学的立場とは法華経を所依の経典として見る立場であっ
  て、日蓮聖人が上行の再現たる自覚に立って活釈せられた
  る法華経に絶対の随順帰依を捧げなければならぬ立場であ
  るが、批評的立場とは法華経を法華経として見る立場であ
  って、印度に於て作成せられ諸方を経由して支那に於て翻
  訳せられたる法華経を、或は諸種の異訳と比較し、或は諸
  種の梵本と対校し、その本文を批評すると同時にその内容
  を公平に検討し、虚心坦懐自由なる立場に立ってその経の
  真相を出来得る限り原始的に研究せんとする立場である
  (…)
  宗学は(…)所謂本化の活釈にその成立の本義を有する。
  而して活釈とは畢竟これ結論なのである。最後の大高峰な
  のである。批評(…)的立場と言っても決して宗学そのも
  のを批評せんとするのではなく、宗学の大高峯を抑察すべ
  く言はば窮子の立場に立って佛智の高大を仰がんとする立
  場である
  (…)
  宗学に携はる専門の学者は厳としてその宗学的立場を確守
  し、同時に批評的立場をも喜んで是認し、益々強盛に宗学
  の大高峰を顕示せらるる義務があると思ふ
  (『佛典の内相と外相』)
 
(終了)

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川蝉さんへ(5/6) No: 239
 投稿者:Libra  00/06/23 Fri 14:35:54

> 寿量品は、本仏釈尊は無始以来衆生教化を続けている常住の仏であ
> る事を力説している事を忘れないで下さい。

 寿量品は、

  伝統的にはシャカの久遠仏なることを明かしたものと解され、
  文中にもそのように説かれているが、注意すべきことは、絶え
  ることのない菩薩行をとおして仏の永遠性を明かしているので、
  やはり強調するところは菩薩行にあったと考えられ
  (田村前掲書、p. 46)

また、

  しかも、われわれの成仏、いいかえれば久遠仏との同質・一体
  が説かれている
  (田村前掲書、p. 117)

のです。この視点が欠落しているかぎり「法華経を持つとも無益」
ではないでしょうか?

  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差
  別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈と
  は云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持
  つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  (同上、p.1338)

> このことを認識した後、寿量品の教説を信じられないで、Libraさ
> んが増谷文雄氏のような考えを持つことはご自由です。

 僕は上に述べたような意味で「寿量品の教説」をちゃんと信じて
います。その上で増谷文雄氏の考えや田村博士の考えに共感してい
るのです。
 田村博士の言われる「超歴史的シャカ」は、増谷文雄氏の言葉で
言えば「ブッダという源に流れいでる仏教という河」ということに
なるでしょう。

  今日、大蔵経のなかに収められているものは、けっして、ブ
  ッダの教法と戒律だけではなく、また、インドの諸師の手に
  なる著作物ばかりでもない。中国やわが国における著作物も
  また、現にその中に地位を占めている。したがって、大蔵経
  はその刊行のたびごとに増大する。かつて、唐の開元十八年
  (730)に撰述された『開元釈教録』(略して『開元録』)
  に登載されたものは、一0七六部、五0四八巻であったが、
  その後、印刻刊行のたびごとに漸増して、その最新なるもの、
  「大正新修大蔵経」においては、さきにいったように、三0
  五三部、一一九七0巻となっている。
   わたしは、このようなことを、単なる文献論として語って
  いるのではない。このような仏教経典のありようは、詮ずる
  ところ、仏教そのもののありようを、はなはだ具体的に物語
  っている。そのことを、わたしは指摘したいのである。それ
  を端的にいえば、仏教はブッダにおいて尽きずということで
  ある。ブッダという源に流れいでる仏教という河は、いくた
  の世紀をながれ下り、東洋の諸地域をうるおして現代にいた
  った。その間には、さまざまの水流を併を呑んで、いろいろ
  の流派を形成した。大乗もそれである。禅もそれである。念
  仏もそれである。仏教とは、それらの総体の称である。そし
  て、仏教の経典はそれをそのままに具現しているのである。
   この河は、さらに、ながき世紀にわたって流れつづけるで
  あろう。その中に、わたしどももまた身をゆだねて、仏教者
  としてある。そして、そこでもまた仏教は、たえず新しい経
  典を生産しつづけるであろう。いまわたしのもっともいいた
  いことはそのことである。しかるに、今日、仏教者たちが経
  典について論ずるとき、しばしば言及されるのは、経典の現
  代語訳といったようなことである。それによって、ふるき経
  典がたやすく現代の人々に読まれることも、また願わしいこ
  とである。わたしもまた、そのようなことに深い関心をもっ
  たことがある。だが、いまにして思えば、もっと大事なこと
  は、もし仏教がなお新しいエネルギーをもって生きつづける
  ものならば、現代にもまた新しい経典の生産があって然るべ
  きである。たえず膨張しつづけてきた経典の歴史が、そのこ
  とを示唆するのである。
  (増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、
   1965年、pp. 216-217)

(6に続く)

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川蝉さんへ(4/6) No: 238
 投稿者:Libra  00/06/23 Fri 14:35:21

 寿量品の「久遠仏説」には、田村博士が言われるように三つの
意図があったのでしょうし、「西暦前後においてインド一般に高
まった一神教的な思潮」を止揚する意味もあったのでしょう。

 「実には在れども而も滅すと言う」というのは、『法華経』が
「釈尊滅の釈尊」として衆生を救い続けるという意味でしょう。
また、「法華経の行者」が「釈尊の口となり手となり足となって
衆生を救っていかねばならない」という意味もあるのではないで
しょうか。

> 真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存 の遺文を中心根拠にするこ
> とは宗祖の教義を正しく把握して行く為に極めて大切と言うことで
> しょう。

 一般論としては間違ってませんが、もし「三大秘法抄」が真作
だとすれば、その真蹟が残ってないのは「たまたま」ということ
になり、浅井教授の主張には意味がありません。そして、「三大
秘法抄」が真作である可能性が高いことは伊藤教授らによって主
張されています。

> 長部経典の「大般涅槃経」の文や、増谷文雄氏の見解を採って、常
> 住不滅の本仏釈尊を否定するならば、法華経・涅槃経・御書の教示
> を捨てる外ないですよ。

 そんなことはないでしょう。「伝統的な宗学の殻」は破ること
になるかも知れませんが。

> 浅学の私が語っても、受け入れ難いでしょうから、田村芳朗教授の
> 説明を紹介しておきます。春秋社刊「日蓮と法華経」の第三節の論
> 述です。

 「日蓮と法華経」は読んでいませんが、『法華経』(中公新書196)
とほぼ同じ内容のようですね。

> 次に、現実のシャカは、超歴史的シャカが歴史的現実の上にすがた
> を現したもので、したがって、そのすがたを消したからといってシ
> ャカはなくなったのではなく、有無の普通の考えかた、見方をこえ
> て永遠にそんざいするものであり、その考え方、見方をこえた者に
> は、シャカの存在がつかまれること、これがシャカ久遠仏説の第二
> にいいたかったことである。・・・

 超歴史的シャカとは、具体的には「仏教という思想運動」のことに
他ならないでしょう。つまり、仏法を実践する仏弟子たちの「現実に
おける実践活動(菩薩行)」であり、「力動的な歴史形成・現実実践」
ということでしょう。宗祖が言われる「本門の釈尊」というのもこの
「超歴史的シャカ」のことを指すのではないでしょうか。

  御義口伝に云く我とは釈尊我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊
  は我等衆生の事なり
  (「御義口伝巻上」、全集、p. 720)

> >普賢よ、若しこの法華経を受持し読誦し正しく憶念し修習し書
> >写する者有らば、当に知るべし、この人は則ち釈迦牟尼仏に見
> >えて仏の口よりこの経典を聞くが如しと。
>
> Libraさんが引証されたこの経文のどこに、三身即一の本仏釈尊は、
> 経典という形としてしか、存在しないなどと云う意味が説いてあり
> ますか?

 「法華経を受持する者は則ち釈迦牟尼仏に見えて仏の口よりこ
の経典を聞くが如し」ということです。

> >それを「応身正意」と言っていいかどうか疑問です。「常説法教
> >化の釈尊」とは『法華経』のことだと僕は思います。
>
> あまりにもかた偏った解釈ですね。

 そうでしょうか?僕はそうは思いません。法華経を色読するこ
と(法華経になること)が仏になることだと僕は思っています。

  法華経の行者とならせ給へば仏とをがませ給うべし、いきて
  をはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏
  と申す 大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能
  く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。
  (「上野殿後家尼御返事」、全集、p. 1504)

  つぎの問題は、法華経の真理を体験する実行方法いかんとい
  うことになる。この問題に対しても、天台大師はじめ諸家お
  のおの種々の見解があり、またその方法修行を試みたのであ
  るが、日蓮上人の主義は、文字の法華経に説いてある功徳、
  光栄、理想を、ことごとく自分の生命に実現しようというに
  あった。この「法華経色読」主義からいえば、法華経の実体
  は、これを他に求むべきでなく、信者行者みずからがその実
  体なのである。
   法華経を信ずる者は「即持仏身」であって、一切衆生がす
  なわち妙法蓮華経の当体(実体)である、とくに日蓮はじめ、
  その弟子ら、法華経の生命を体現しつつある者が、すなわち
  法華経である。この修行によっていよいよ法華経を信ずる者
  は、いままで文字や外界のこととして見てきた法華経が自分
  自身であって、「法華経の功徳」というのは自分みずからの
  真価であり、光栄であることを悟る。
   ここに至って、諸法実相の理も、宝塔や地涌の神変も、如
  来久遠の長寿も弘通の得益も、みな自分みずからの生命にあ
  る。これが仏法の体験、法華経の実現である。
  (姉崎正治『法華経の行者 日蓮』(講談社学術文庫)、講談
   社、1983年、pp. 128-129)

(5に続く)

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川蝉さんへ(3/6) No: 237
 投稿者:Libra  00/06/23 Fri 14:35:00

   久遠仏は創造者でなく、しかもたえざる菩薩行をおこなって
  いる。しかも、われわれの成仏、いいかえれば久遠仏との同質・
  一体が説かれている。それでは、どういう意図のもとに久遠仏
  が主張されたかであるが、その意図は三つにまとめることがで
  きよう。一つは仏陀観の整理である。つまり、諸仏の統一・整
  合をはかったものである。ここから、仏教における法(真理)
  の統一が方便品第二であったのにたいし、仏(人格)の統一が
  如来寿量品第十五(第十六)であったといえよう。
   二つは、統一的真理のあるところ、久遠の人格的生命が見ら
  れるということである。つまり、宇宙の統一的真理は単なる自
  然理法ではなく、人生・生活に作用する永遠なる人格的・生命
  的躍動体であることを明かしたものということである。
   三つは、現実における実践活動のなかに、永遠なる生命の脈
  動が感得されるということである。寿量品に、久遠仏であるシ
  ャカ自身がたえざる菩薩行をおこなってきたと説かれたゆえん
  がそこにある。
  (同上、p. 117)


> > 真理は「無始無終」でしょうが、人類の歴史は明らかに「有
> >始」です。そして、釈尊は絶対に「人間」です。「人間を超えた
> >生命体」などではありません。
>
> Libra さんがそう思う外考えられないのですから仕方ないですね。

 川蝉さんが「伝統的な宗学の殻の中に閉じこも」られるおつもり
なのであれば仕方ないですね。

> 自我偈をよく読んでくださいと云う外ないようですね。

 僕も「そう云う外ない」ようです。

> 「実には在れども而も滅すと言う」との教示を信じるかいなかです
> ね。

 その前では

  医の善き方便をもって 狂子を治せんがための故に
  実にはあれども、しかも死すと言うに 能く虚妄なりと説く
   もの無きが如し
  (岩波版『法華経(下)』、p. 34)

と言われていますね。如来の目的は「如来の智慧」(大良薬)を
授けることによって衆生を救う(「狂子を治せん」)ことただ一
つです。

  衆生を引導するは仏の智慧を説かんが故なり。
  (「方便品」、岩波版『法華経(上)』、p.106)

  仏の智慧を世に弘めるために、世間の庇護者である仏は、こ
  の世に出現する。その目的は実にひとつ、第二の仕事はない。
  (梵本からの和訳、岩波版『法華経(上)』、p.107)

 また、衆生が救われるかどうかは、「釈尊を見るかどうか」に
は依存せず、ただ「大良薬」を飲むかどうかにかかっています。
実際、父を見ても「大良薬」を飲まない子供たちは治癒しないと
説かれています。
 『余はこのように久しい以前に「さとり」に到達した』という
のも衆生を救うため説かれた方便だということです。

  如来は諸の衆生の、小法を楽える徳薄く垢重き者を見ては、
  この人のために、われは少くして出家して阿耨多羅三藐三菩
  提を得たりと説くなり。然るに、われは実に成仏してより已
  来、久遠なること斯くの若し。
  但、方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんがために
  のみ、かくの如き説を作すなり。
  (「如来寿量品」、岩波版『法華経(下)』、pp.16-18)

  善根が乏しくて多くの煩わしい悩みをもっているために、い
  ろいろな意向をもつ人々には、『僧たちよ、余は年若くして
  出家し、間もなくこの上なく完全な「さとり」をさとった』
  と、このように語るのだ。従って、如来が『余はこのように
  久しい以前に「さとり」に到達した』と語るのも、『余は最
  近に「さとり」に到達した』と語るのも、人々を成熟させ、
  かれらに教えを会得させるためであって、そのためにこれら
  の経説が説かれたのである。
  (梵本からの岩本裕氏の訳、同上、pp.17-19)

(4に続く)

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川蝉さんへ(2/6) No: 236
 投稿者:Libra  00/06/23 Fri 14:34:34

 また、「久遠仏説」は「菩薩行」と関連づけて理解されなければ
ならないということを一貫して強調されています。

   見宝塔品第十一になると、多宝如来のすわる宝塔が空中に立
  ち、シャカは地上から宝塔へと座をうつし、多宝如来と並んで
  すわる(二仏並坐)。それとともに、諸方にちらばるシャカの
  分身仏が来集してシャカに帰一し、また諸世界は通じて一仏土
  となる。多宝仏はシャカの過去のすがた(過去仏)であり、そ
  れと並び坐したことは、シャカが久しい過去から仏であったこ
  とを象徴したものと解される。つまり、これはシャカの久遠仏
  たることを暗示したものであり、また分身来集および通一仏土
  はシャカの統一仏たることを表現したものということである。
   その意味で、宝塔品は如来寿量品第十五の前ぶれをなすもの
  と見なされるが、しかし寿量品でもそうであるように、本章で
  も菩薩行が強調されており、末世におけるこの娑婆(サハー
  忍土)世界を中心としての菩薩の現実実践が唱えられ、その菩
  薩にたいする法の付嘱が説かれている。そういうわけで、宝塔
  涌現・分身来集・通一仏土などの思想も、菩薩行の唱道という
  観点から見なおされるべきであろう。
  (同上、p. 49)

   如来寿量品第十五は、伝統的にはシャカの永遠性を明かした
  ものと見なされているが、それを明かすきっかけとなったもの
  は、前章において、無数の地涌の菩薩衆がシャカの本来の弟子
  であるということにたいして投げられた疑問である。すなわち、
  シャカは悟りをひらき、仏となってまもないのに、どうしてか
  くも多くの弟子たちが存するのかということである。そこで寿
  量品にきて、シャカは久遠の昔に仏となったものであり、仏と
  なってより無限の時をへていることが明かされるのである。こ
  こから、シャカの久遠仏の主張は菩薩に関連したものであるこ
  とを知る。
   また注意されねばならないことは、寿量品における永遠性の
  明かしかたである。それは、「久しい以前に成仏した如来は、
  寿命無量(アパリミタ・アーユス)であって、常に住する」と
  説きつつ、そのあとで「わたしには、いまなおかつての菩薩行
  は成しとげられていず、寿命の量もまた満たされていない」と
  ことわるように、かぎりなく絶えることのない菩薩行をとおし
  して、仏の永遠を証明していることである。これは、かぎりな
  い現実実践の中に永遠の生命が脈動することをいったものであ
  る。
  (同上、p. 54-55)

  シャカの久遠仏なることの明かしかたであるが、前にもあげた
  ように、
   「久しい以前に成仏した如来は、寿命無量であって、常に住
   する」(我成仏してより已来、はなはだ大いに久遠なり。寿
   命無量阿僧祇劫、常住にして滅せず)
  と説きつつ。すぐつづけて、
   「善男子よ、わたしには、いまなお、かつての菩薩行は成し
   とげられていず、寿命の量もまた、満たされていない」(諸
   の善男子、我、本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶、
   未だ尽きず)
  とことわっているのである。つまり、かぎりなく絶えることの
  ない菩薩行をとおして、仏の永遠性を証明しようとしたもので
  ある。
   右のことわりがきは、永遠の観念そのものからすれば、一見
  矛盾した感をうける。五百塵点劫のたとえにしても、そうであ
  る。『法華経』注釈者の一人である光宅寺法雲(四六七 - 五二
  九)が評したごとく、それは時間・空間の延長にすぎず、時間・
  空間を突破した真の永遠・絶対とはなっていない。それゆえに、
  法雲は真の永遠を求めて『涅槃経』の法身常住説に移っていっ
  た。
   しかし、『法華経』の一見矛盾した常住説が、実はすぐれた
  思想的特色ともなっているのである。かぎりない菩薩行の中に、
  ないしは力動的な歴史形成・現実実践のただなかに、永遠なる
  生命が脈うつことを明かしたものである。ここからまた、寿量
  品の久遠仏説がいわゆる一神教とは質を異にすることを知るの
  である。
  (同上、p. 115-116)

(3に続く)

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川蝉さんへ(1/6) No: 235
 投稿者:Libra  00/06/23 Fri 14:34:01

 川蝉さんおはようございます。

> > ええ。でもそれは「三身相即」の論理からそのように言われた
> >のだと思います。
>
> だから、素直に三身相即の無始の古仏と信受したらよいと思いますよ。

 インドの釈尊の以前に「仏教」はありませんでした。これは歴史
的事実です。
 田村博士は、「神は死んだ」と叫んだニーチェの思想にふれて次
のように言われています。

  現代は、素朴に神を信じた時代にもどることはもはや不可能で
  ある。神にたいする絶望を通して新たに神を見いだすことしか、
  現代に残された道はない。
  (田村前掲書、p. 33)

 生物史・人類史を無視して「無始無終の人格的存在」を認めるの
であれば「有神論」です。それはもはや仏教ではありません。
 また、田村博士は「久遠仏説」について次のようにコメントされ
ています。

   久遠仏説は仏教思想の進展ライン上において考えられるべき
  である。ただ、西暦前後においてインド一般に高まった一神教
  的な思潮から刺激をうけたということは、認められてよいであ
  ろう。しかし、それはあくまでも刺激であって、その影響下の
  産物ということではない。
  (同上、p. 116)

 ここで言われている「仏教思想の進展ライン」とは以下のような
「仏身論の発達」を指すでしょう。

   そもそもシャカは、宇宙の真理(法)ないし実相を悟った覚
  者(ブッダ 仏陀)として弟子・信徒に対した。そうして、な
  くなるときは真理を師とせよと遺言した。ところが、弟子・信
  徒たちは、常にシャカという偉大な人格をとおして真理を耳に
  したのである。かれらにとって、真理はブッダ・ダルマ(仏法)
  であり、教法であった。それゆえにシャカがなくなると、弟子・
  信徒たちの間からシャカ追慕の念がおこり、シャカの遺物・遺
  跡あるいは遺骨(シャリーラ 舎利)をあがめ、遺骨について
  は、それを塔(ストゥーパ 率塔婆、塔婆)におさめて崇拝し
  た。
   いっぽう、遺物だけに満足できず、シャカそのものはどうな
  ったかとの疑問をおこすにいたる。そこで、シャカの肉身(色
  身・生身・現身)は滅びたが、不滅の真理のもと、それと一体
  となったシャカの本身、つまり真理身(法身)は滅びないとの
  考えがおきた。これを逆にして、シャカは不滅の真理・法身の
  もと、本来は永遠なる存在であるが、人びとを救うために、み
  ずからこの世に応現した(化身・応身)と見なすにもいたる。
  したがって、化身・応身としてのシャカの肉身は普通人(凡夫)
  における生滅の観念をあてはめることはできないものであって、
  その滅はシャカが自己の意志でもって選びとった(任意捨命)
  ものであるとした。
  (同上、pp. 93-94.ただし言語表記は省略[以下同様]。)

 上記の解説はあくまでも「仏教思想の進展ライン」を田村博士が
客観的立場に立って記述したものです。田村博士ご自身が「任意捨
命」等の思想を肯定しているわけではないことを注意しておきます。
例えば、田村博士は次のように言われています。

  崇拝対象は仏であるとしても、ともかく真理信仰で出発した仏
  教にどうして人格崇拝がおきたかという問題は、価値中立的な
  客観的な宗教研究をモットーとする宗教学においても、重要な
  研究課題となるもので、仏教側も客観的な立場に立ってその問
  題を再検討してみる必要はあるといえよう。
  (同上、p. 100)

 田村博士は「久遠仏説」を釈尊自身が説いたものではなく、「釈
尊滅後に弟子・信徒たちによって作り上げられたものである」とい
うことを認められているわけです。実際、田村博士の法華経成立史
では、寿量品は「第二類作成」とされています。また、「第二類作
成の意図」は「菩薩精神の高揚、菩薩運動の推進にあった」とも言
われています。この場合、作成者は釈尊ではありません。

   以上の理由から、授学無学人記品第九と法師品第十との間で
  一線が画され、法師品第十から嘱累品第二十一までが一グルー
  プとして作成され、法師品以前の部分に増補されたことを知る
  のである。そうして、この第二類作成の意図は菩薩精神の高揚、
  菩薩運動の推進にあったといえよう。たとえば、第二類に含ま
  れる如来寿量品第十五(第十六)であるが、伝統的にはシャカ
  の久遠仏なることを明かしたものと解され、文中にもそのよう
  に説かれているが、注意すべきことは、絶えることのない菩薩
  行をとおして仏の永遠性を明かしているので、やはり強調する
  ところは菩薩行にあったと考えられる。
  (同上、p. 46)

(2に続く)

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高尾26 No: 234
 投稿者:高尾  00/06/23 Fri 09:26:40

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「大聖人の論法ははなはだ出没自在を極めていて、右と思わせて実は左を指すごとき用法があるから、よほど注意しないと化城と宝処を誤る危険がある。 中略。
第一に口伝と御書の一致点を見つけること、第二は御書の思想の論理的発展の方向が口伝を指向している時、第三は御書にあらわれていないでも聖人の他の御所作と口伝とが意において一致する時で、ことに真跡御本尊と口伝の一致は重大な意義を有する。聖人の法門はいかに展開しても本尊に集まらざるはない。そうすれば深秘の口伝は真に本尊の註脚ならざるべからず、本尊は「御正筆」の口伝の証明でなければならぬ。 中略。
日蓮宗の至極は本尊にある。内容極めて高広深遠、その割に御書に扱われる量は少なく、口伝書は真偽雑揉し、文体またはなはだ難読である。」
以上までで、御義口伝が真であるとの立論を先学の文献をもとにしましたが、ここにおいても御義口伝は偽であるとの考えもあろうと存じます。真偽については読者のご賢察をまつこととしたいと思います。                      続く

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川蝉さんへ No: 233
 投稿者:Libra  00/06/22 Thu 12:28:54

 今日は三吉さんのところでかなり時間を使ってしまいました。
 川蝉さんへのレスは明日かならず書きますのでご容赦下さい。

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Libraさんへ。2の2へのコメントです No: 232
 投稿者:川蝉  00/06/22 Thu 09:47:34

Libraさん今日は。

> 僕もきちんと祖文をあげて「法華経が(釈尊滅後の)釈尊であ
>る」と主張しました。法華経を如来と同等視する表現は法華経に
>たくさんあると思います。

たしかに、「>法華経を如来と同等視する表現は法華経にたくさん
ある」ことは、言うまでもありません。しかし、法華経の経典のみ
が報身仏であり、本仏釈尊は法華経の経典としてか存在しないなど
という事は、どこにも説かれていませんよ。

法華経は一切衆生の成仏の鍵であり、釈尊の内証智慧を説いている
ものだから、崇拝し、釈尊の形見、慈悲として仰ぎ、此の経なくし
て成仏はあり得ないということで尊ぶ精神が 「>法華経を如来と
同等視する表現」として表れているのです。
だからといって、三身即一の本仏釈尊がもやは経典という形として
しか、存在しないなどと云う意味など全くありません。

前のコメントの田村教授やLibraさんが引用された坂本教授や天台
の文をよく理解すれば分かるように、また辞書にも有るように、報
身の本来の意味は、真如を悟った人格的存在のことです。

>普賢よ、若しこの法華経を受持し読誦し正しく憶念し修習し書
>写する者有らば、当に知るべし、この人は則ち釈迦牟尼仏に見
>えて仏の口よりこの経典を聞くが如しと。当に知るべし、この
>人は釈迦牟尼仏を供養したてまつるなりと。当に知るべし、こ
>の人は仏に善い哉と讃めらるるなりと。当に知るべし、この人
>は釈迦牟尼仏の手をにて、その頭を摩でらるるを為んと。当に
>知るべし、この人は釈迦牟尼仏の衣をもって覆わるることを為
>んと。

Libraさんが引証されたこの経文のどこに、三身即一の本仏釈尊は、
経典という形としてしか、存在しないなどと云う意味が説いてあり
ますか?
「仏に善い哉と讃めらるるなり」
「釈迦牟尼仏の手にて、その頭を摩でらるるを為ん」
「釈迦牟尼仏の衣をもって覆わるることを為ん」
と云う言葉は、かえって、釈尊の常住存在を説いている文と思いま
せんか?。


> 天台大師は「別意に従はば正しく報身に在り」と言われていま
>すが、この主張は間違っているのでしょうか?

間違っているわけなどないですね。義の便に従えば報身としている
のです。従に非らず横に非らず伊字の三点の如き三身即一の如来と
しています。


>それを「応身正意」と言っていいかどうか疑問です。「常説法教
>化の釈尊」とは『法華経』のことだと僕は思います。

あまりにもかた偏った解釈ですね。


> 僕は、増谷文雄氏の言われるような意味では、「人格的仏の実
>在」を認めます。つまり、釈尊の「大いなる業(わざ)は、その
>死とともに終ったのではな」く、「その死ののちにもなおその営
>みをつづけ」ていると思っています。しかし、釈尊が「無始以
>来、意志や自意識をもちつつ存在し続けている」とは思いませ
>ん。それでは「神」になってしまいます。

寿量品は、本仏釈尊は無始以来衆生教化を続けている常住の仏であ
る事を力説している事を忘れないで下さい。
このことを認識した後、寿量品の教説を信じられないで、Libraさ
んが増谷文雄氏のような考えを持つことはご自由です。


>さて、宗祖は「法身は単なる真如理ではなく、説法する法身、身
>語意三密円備の法身である」という「密教教学の前提」に立たれ
>ておられたのでしょうか?

報身を法華経経典と限定する中は上記のコメントをしても理解は無
理かと思います。

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高尾25 No: 231
 投稿者:高尾  00/06/22 Thu 09:26:01

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「本覚法門がさかんに出てくるから、本覚法門は中古天台とこり固まって、日蓮聖人には本覚法門なしという領解をしている宗学者からは偽作呼ばわりされやすかろうが、諸法実相抄等に見るように本覚法門は天台そのままではないが日蓮宗の大切な法門である。望月博士の「本迹論と日蓮宗の分派(2)」にもその意が見える。また入文にも秘すべし秘すべしと厳重な注意のされているものを、どこにあったにしたところでやたらに公開するはずがなく、したがって宗門の上古に流伝しないのは当然である。文体が等海口伝に似ているというのも逆に等海口伝の方が鎌倉時代の古風を存しているともいえるから決め手にはならない。ただ、伝承明らかならずというのが、日興師筆受本の存在の証跡が宗門の上古にないというならばまことに所論のごとしだが、これとても唯授一人の秘伝として抱え込まれてしまったのなら、御陵の副葬品同様掘り出すことが困難であって、掘り出せないからないものだということもできぬ。むしろ日蓮宗の曼陀羅の中尊に首題を置く理由は御義口伝に至ってはじめて明瞭になるというべく、観心本尊抄だけでは曼陀羅の法門が明らかにならないことから見て、本書を真書としなければ聖人の説法は完了しないことになると云うべきであろう。

御義口伝にしてすらしかりである。諸山に伝わる口決法門を、直ちにそのまま深秘の相承と盲信することもできないし、さりとて大事をとって御書にない思想を盛った口伝法門は皆偽物だと片づけてしまうこともできない。それだから口伝法門の研究は今まで宗学者が手を付けなかった完全な処女地といってもよいくらい、誰も敬遠した泣き所なのだ。」
                                      続く

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Libra さんへ。 No: 230
 投稿者:川蝉  00/06/21 Wed 16:27:27

Libra さん今日は。

> ええ。でもそれは「三身相即」の論理からそのように言われた
>のだと思います。

だから、素直に三身相即の無始の古仏と信受したらよいと思いますよ。

> 真理は「無始無終」でしょうが、人類の歴史は明らかに「有
>始」です。そして、釈尊は絶対に「人間」です。「人間を超えた
>生命体」などではありません。

Libra さんがそう思う外考えられないのですから仕方ないですね。
自我偈をよく読んでくださいと云う外ないようですね。
「実には在れども而も滅すと言う」との教示を信じるかいなかです
ね。

> それは事実でしょう。ですが、その事実を指摘することにどの
>ような意味があるのでしょうか?

真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存 の遺文を中心根拠にするこ
とは宗祖の教義を正しく把握して行く為に極めて大切と言うことで
しょう。

>「無作三身」という語句を含む「真蹟現存遺文や由緒正しい古写
>本現存の遺文」がないのは「ただの偶然」だということになりま
>せんか? 

五大部等の重要御書に、無いのは単なる偶然ではなく、使用しなか
ったと考える方が自然だと思われます。
教義を語る上で必要不可欠な言葉で有れば、当然本尊抄・開目抄あ
たりでは出てきていいはずだと思います。

> 浅井教授は「三大秘法抄」を真作と思ってらっしゃらないので
>はありませんか?そう考えないと浅井教授のご指摘は理解不可能
>だと思います。

「無作三身考」では真蹟御書・確実なる写本のある御書に限って
「無作三身」の語句はないと指摘しているのです。
何等かの偽作論のある御書には有るとしていますね。

> では改めて川蝉さんにお聞きします。「三大秘法抄」は「真
>作」だと思われますか?それとも「偽作」だと思われますか?

私の如き浅学に、改めて聞かれても困りますね。
高名な学者どうしでも意見が異なるくらいですから。
まあ偽書論のある御書であるとし、本尊抄等真蹟のある重要御書の
教示に反しなければ、良いのではないですか。

>「教法」は「釈尊の智慧」でしょう。「釈尊の智慧」(=「教
>法」)が「報身」だと思います。

天台大師の報身の説明も、坂本幸男教授の説明も、Libraさんのよ
うに、「報身=教法(法華経)」と言うように限っていませんよ。
Libraさんが、報身とは教法の事とする立場なので、私の見解と全
くかみ合わないのです。

長部経典の「大般涅槃経」の文や、増谷文雄氏の見解を採って、常
住不滅の本仏釈尊を否定するならば、法華経・涅槃経・御書の教示
を捨てる外ないですよ。

浅学の私が語っても、受け入れ難いでしょうから、田村芳朗教授の
説明を紹介しておきます。春秋社刊「日蓮と法華経」の第三節の論
述です。

「しばらくは、現身と不滅の本身という二身説がつづくが、次第に
現身と本身との関係づけ、あるいは結びつけに考慮がはらわれるよ
うになり、もう一身が付け加えられ、三身説が成立するにいたる。・・
人々は永遠な仏を求め、いっぽうで具体的な仏を求めた。応身は・・
具体性を求める人びとの心を満足させるが、有始有終で、永遠性の
点では人びとの心を満たさない。法身は無始無終の真理身であり、
その点、永遠性を求める人びとの心を満足させるが、抽象的なもの
で、具体性の点ではひとびとの心を満たさない。そこで・・報身が
考えられだしたのである。
報身は、因行果徳身とも称せられる。仏因・仏果をそなえたものと
いうことで、そこに具体性がみられる。・・・

その過程において、法華経が作成され、如来寿量品を通してシャカ
の永遠性(久遠仏)が主張されたのである。・・・

次に、現実のシャカは、超歴史的シャカが歴史的現実の上にすがた
を現したもので、したがって、そのすがたを消したからといってシ
ャカはなくなったのではなく、有無の普通の考えかた、見方をこえ
て永遠にそんざいするものであり、その考え方、見方をこえた者に
は、シャカの存在がつかまれること、これがシャカ久遠仏説の第二
にいいたかったことである。・・・

以上、仏身論・仏陀観の歴史、法華経の成立、法華経の注釈などを
参照して、久遠本仏が主張された理由をまとめてみると、まず、諸
仏の統一をはかったことである。・・次に統一的真理(一乗妙法)
のあるところ、久遠の人格的生命(久遠本仏)が見られるというこ
とである。・・・

久遠仏とは静的な理法身にとどまるものでなく、永遠の生命体とし
て、現実に脈動し、活現するもの(報身)である。歴史的シャカを
もって久遠仏としたゆえんが、そこにある。つまり、歴史的シャカ
は、単なる生滅身(現身、応身)ではなく、久遠仏の現実脈動ない
し活現のすがたにほかならない。」

等等と説明しています。
このコメントをよく読んでもらえれば、2の2に対するコメントに
もなるかと思います。

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shamonさんへ Prev: 218 / No: 229
 投稿者:Libra  00/06/21 Wed 11:48:30

 おはようございます、shamonさん。

> わたしも、Libraさんは(創価学会に影響された)独自の三身観にある
> とします。

 「三身観」については川蝉さんへのレスで述べましたので繰り返しま
せんが、「創価学会に影響された」というのは具体的にはどういう意味
でしょうか?僕は創価学会員ですから、「創価学会に影響を受けている」
というのはその通りでしょう。ですが、その影響が直ちに「悪影響」と
いうことにはならないでしょう。それが「悪影響」であることを論証す
るためには、創価学会のどういう主張がどういう理由で間違っていて、
その主張に僕の三身観のどの部分が影響を受けているのかを具体的に指
摘しなければならないはずです。
 shamonさんはよく、僕の議論は「まず創価学会ありき」で「組織の
ためである」という言い方をされますが、ただそのように言われるだけ
なのであれば、shamonさんのせっかくのご指摘も、僕にとってなんら
有益なご指摘たりえません。shamonさんは「まず創価学会否定ありき」
の立場で発言されてるわけではないはずです。どうかご指摘は具体的に
お願い致します。

> 釈尊の智慧(Libraさんの引用なら、教法と戒律)の永存のみではなく、
> 法華経が、何故釈尊そのものの永存を説いているのか、深い意味合いに
> 入っていないということです。Libraさんの引用は、涅槃経を以て法華
> 経を否定し、自らの見解を正当化しているに過ぎません。

 僕は「涅槃経を以て法華経を否定」したりしていません。「法華経が
(釈尊滅後の)釈尊である」と一貫して主張しているのです。

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川蝉さんへ(2/2) No: 228
 投稿者:Libra  00/06/21 Wed 11:22:39

> 私は繰り返し、本仏釈尊の常住不滅を教示している祖文や法華経、
> 涅槃経の文を挙げました。しかし祖文や法華経の教示を受け入れら
> れないのですから、いくら同じ事を私が繰り返し述べても無駄でし
> ょう。

 僕もきちんと祖文をあげて「法華経が(釈尊滅後の)釈尊である」
と主張しました。法華経を如来と同等視する表現は法華経にたくさ
んあると思います。「いくら同じ事を私が繰り返し述べても無駄」
なのかもしれませんが、一つだけ文証を追加しておきます。

  普賢よ、若しこの法華経を受持し読誦し正しく憶念し修習し書
  写する者有らば、当に知るべし、この人は則ち釈迦牟尼仏に見
  えて仏の口よりこの経典を聞くが如しと。当に知るべし、この
  人は釈迦牟尼仏を供養したてまつるなりと。当に知るべし、こ
  の人は仏に善い哉と讃めらるるなりと。当に知るべし、この人
  は釈迦牟尼仏の手をにて、その頭を摩でらるるを為んと。当に
  知るべし、この人は釈迦牟尼仏の衣をもって覆わるることを為
  んと。
  (「普賢菩薩勧発品」、岩波版『法華経(下)』、p. 330)

> 三身即一ですから実体的には応身中心とか報身中心とか法身中心と
> か強いて分別出来ないものですね。

 天台大師は「別意に従はば正しく報身に在り」と言われています
が、この主張は間違っているのでしょうか?

> 「我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って・・為に種々の法を
> 説く 毎に自ら是の念を作す・・」
> との常説法教化の釈尊である事にスポットを当てれば、応身正意と
> いえましょう。

 それを「応身正意」と言っていいかどうか疑問です。「常説法教
化の釈尊」とは『法華経』のことだと僕は思います。

> 凡夫の認識を越えた存在のあり方ですが常住不滅の、いわば人格的
> 仏の実在を認めない立場であるLibraさんには肯けないことでしょ
> うね。

 僕は、増谷文雄氏の言われるような意味では、「人格的仏の実在」
を認めます。つまり、釈尊の「大いなる業(わざ)は、その死とと
もに終ったのではな」く、「その死ののちにもなおその営みをつづ
け」ていると思っています。しかし、釈尊が「無始以来、意志や自
意識をもちつつ存在し続けている」とは思いません。それでは「神」
になってしまいます。

> > 中古天台では「法中論三」ということですね。
>
> 中古天台は「法中論三」と云うより、「単法身」、あるいは「単真
> 如」と云う概念といえるようです

 浅井教授も「「無作三身」考」で

   彼等は相次いで入唐して叡山に密教を興隆し、密教独特の曼
  陀羅思想に仏陀論の基盤を置いたから、それに引かれて法華経
  の仏陀論は今までの天台系の正在報身から法中論三に移行した。
  従って三身の遍一切処は正在報身のときよりも論じ易くなり、
  而もその法身は単なる真如理ではなく、説法する法身、身語意
  三密円備の法身であるというのが密教教学の前提であるから、
  彼等は法身真如仏性の遍在という仏性論を、果仏の内在論とし
  て取扱うようになった。
  (p. 105)

と言われていますから、中古天台はやはり「法中論三」なのでしょ
う。
 さて、宗祖は「法身は単なる真如理ではなく、説法する法身、身
語意三密円備の法身である」という「密教教学の前提」に立たれて
おられたのでしょうか?

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川蝉さんへ(1/2) Prev: 217 / No: 227
 投稿者:Libra  00/06/21 Wed 11:22:06

 おはようございます、川蝉さん。

> 宗祖は、法身のみならず報・応も無始である無始の古仏と教示され
> てますね。

 ええ。でもそれは「三身相即」の論理からそのように言われたのだ
と思います。
 真理は「無始無終」でしょうが、人類の歴史は明らかに「有始」で
す。そして、釈尊は絶対に「人間」です。「人間を超えた生命体」な
どではありません。

> 御書を検索して見ましたが、真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存
> の遺文には事実 、無作三身と云う語句はありませんでした。

 それは事実でしょう。ですが、その事実を指摘することにどのよう
な意味があるのでしょうか?
 「三大秘法抄」に「無作三身」という語句がある以上、「三大秘法
抄」を真作と認めるのであれば、「三大秘法抄」のご真蹟がかつて存
在していたという事実を認めることになります。「無作三身」という
語句を含む「真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存の遺文」がないの
は「ただの偶然」だということになりませんか?だとすれば、上記の
事実を指摘することに一体どのような意味があるのでしょうか?

> 浅井教授は「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無
> 始の古仏なり」(本尊抄・昭定712)との三身の概念と、言葉は
> 三身といえども、その実は単法身的の「無作三身」の概念と別物と
> 見て、単法身的の「無作三身」の義は確実なる御書には無いと云っ
> ているのでしょう。

 「単法身的の無作三身」というのはたぶん「慧心流」の三身観のこ
とをおっしゃってるのだと想像しますが、そのようなものが御書にな
いという浅井教授の主張は正しいと思います。

> 浅井教授が、「三身考」において、「三大秘法抄に、無作三身の名
> 目も義もある」とは書いておりません。

 浅井教授は「三大秘法抄」を真作と思ってらっしゃらないのではあ
りませんか?そう考えないと浅井教授のご指摘は理解不可能だと思い
ます。

> Libraさん「三大秘法抄」の文を挙げたので、私が「三大秘法抄の
> 無作三身の語は中古天台的修行不要論を主張するもでない」旨を書
> いたのです。

 では改めて川蝉さんにお聞きします。「三大秘法抄」は「真作」だ
と思われますか?それとも「偽作」だと思われますか?

> 私の書き方が悪かったせいか、Libraさんは私の上記の見解を浅井
> 教授の「三身考」の主張と受け取り「>一体何を言おうとしている
> のか理解に苦しみます」と云っているようですね。

 ええ。「三大秘法抄」を真作だと信じる立場からすれば、浅井教授
のご指摘には何の意味もありません。浅井教授ご自身が「三大秘法抄」
を真作だとされているならば、それこそ「一体何を言おうとしている
のか理解に苦しみます」。

> Libraさんと同じような報身観を採った先学はいないようですので、
> Libraさん独特の報身観ですね。

 そうでしょうか。天台大師は

  この品の詮量は通じて三身を明かす。もし別意に従はば正しく報
  身に在り。何を以ての故に、義便に文会す。義便とは、報身の智
  慧は上に冥し下に契して三身宛足す。故に義便と言う。文会とは、
  我れ成仏してより已来、甚だ大いに久遠なるが故に、能く三世に
  衆生を利益すと。所成は即ち法身、能成は即ち報身、法と報と合
  するが故に能く物を益す。故に文会と言ふ。これを以てこれを推
  すに、正意はこれ報身仏の功徳を論ずるなり
  (天台「法華文句巻九下」、大正34巻、129頁上)

と言われています。坂本幸男氏の解説によれば、

  如来は三身に通ずるけれども、別して言えば、正しく報身である。
  その理由を、報身の智は上(かみ)理たる法身に契い、下は衆生
  を利益する応身の根源であるからである、と説明した
  (岩波版『法華経(下)』、p. 339)

ということです。法華文句でも「壅(ふさぐ)こと無き不思議の慧」
が即ち「報身」であると言われています。「報身」とは「釈尊の智慧」
だと言うことではないのでしょうか?

  通是無壅不思議慧。即報身也。
  (「法華文句」、大正34巻、129頁下)

 「法宝(教法)崇拝」は原始仏教からあると思いますが、「教法」
は「釈尊の智慧」でしょう。「釈尊の智慧」(=「教法」)が「報身」
だと思います。

  アーナンダ(阿難)よ、あるいは汝らに、かかる思いをなす者が
  あるかもしれない。〈師のことばは終わった。われらの師はすで
  にない〉と。だがアーナンダよ、そのように思うべきではない。
  アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた教法と戒律と
  は、わが亡きのちに、汝らの師として存するであろう。
(「大般涅槃経」、長部経典)

 増谷文雄氏の以下の主張も同じようなことを言われているのだと思
います(「報身」という言葉は使われていませんが)。

  思うに、ブッダの大いなる業(わざ)は、その死とともに終った
  のではない。その弟子たちは、けっして、ブッダ再臨の説を編み
  出さなかった。あるいは、なお天界にあってその業をつづけるブ
  ッダを考えたこともなかった。それにもかかわらず、ブッダの業
  はその死ののちにもなおその営みをつづけるであろう。それは、
  彼の説きのこした教法と戒律とが、厳としてなお「わが亡きのち
  の汝らの師」として存するからにほかならない。
  (増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、
   p. 227)

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高尾24 No: 226
 投稿者:高尾  00/06/21 Wed 09:36:59

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋
「時代ははるかに後に下るが国柱会の田中智学居士は本化妙宗教学大観の中で、やはり相伝を得なければ分からないと云っておられる。中略
伝教大師「守護章」にも 一乗の独円は動静無礙なり鏡像円融の三謗は口決にあらずんば知りがたし。師資相承まことに由あるや。 といわる。
「仏説に依憑して口伝を信ずる莫れ」と唱うる大師にしてこの語ある。もって口決相承の事実確在せりしを知るにたるべし。
と唱えて、天台宗の上古に口決相承が実在したことを云っているのは、いかにしても法華宗から口伝相承を抹殺することはできないものであることを物語っている。

日蓮聖人の法門は・はじめから・その全貌を示したのでなく、段々と・順を追って発表されている。その理由として聖人が自ら云っておられるものに三沢抄がある。
・法門のことは・佐渡の国へ流され候し已前の法門は・ただ仏の爾前の経とおぼしめせ。この国の国主、我代をもたもつべくば真言師等にも召し合わせたまわんずらむ。その時まことの大事をば申すべし、弟子等にも内々申すならば披露して彼ら知りなんず、さらばよもあわじとおもいて各々に申さざりしなり。しかるに・いぬる文永八年九月十二日の夜・龍ノ口にて頸をはねられんとせし時よりのち・ふびんなり・我につきたりし者どもに・まことの事をいわざりけると思うて、佐渡の国より弟子どもに・内々申す法門あり
これは法門対決の時に備えて人々に教えたい法門でも教えなかったが、佐渡以後になると弟子どもには内々発表するようになったというもので、法門を公開できない理由の一面を伝えている。

そもそも御義口伝は「御義」の「口伝」であってそれがしかも書記され、能授の聖人の御判まですえられたものである。 中略。 註を入れ、印可を得たものが御義口伝であり 中略。 何度も言い伝えられているうちに、原形から段々離れてくる。原意は変わらないでも形は必ず変わらずにはいない。時代によって語法が変わり生活環境が変わる。色々な知識が付加される。伝説が参入する。私註が本文の中にまざりこむ、話しの順序が前後する。 中略。
御義口伝の中で「御義口伝に云わく」として、そのあとに書かれているのが正真正銘の口伝であって、山上三郎居士(清水龍山門の高足にして現在は富士門徒)の説ではその前の「文句」などを引いたのは興師の註であるという。 中略。
御義口伝は総じて云えば聖人と興師の合作であり、その中での正味は「御義口伝に云わく」以下の文章なのであり、おそらく建治三年の頃に口授されたものを、建治四年の元旦に改めて聖人から興師に付属され、それが後に清書される時に年号を弘安に改めたか、または伝写の途中で誰かが書き改めたものであろう。
それだから、御義口伝の註に聖人より後の徐註が入っても、執行海秀教授が云われるような特別な問題が起こるわけではない。
興師が後にこれを整束する時に新来の徐註で書き改められたかも知れないし、伝写の途中で字が読めなくなったのを徐註で補訂したかも知れない。とにかく、御義口伝を内容的に批判した人は本格的な宗学者にはないのだから興師の註が書き改められたからといって、本文そのものまで疑っては、口伝の文献的性格を知らないで論じたことになる。」続く

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石田6 No: 225
 投稿者:高尾  00/06/21 Wed 08:45:00

○御本尊様
戒壇の大御本尊様について、楠の板に我々凡夫が書いても御本尊にならない。たとえ日興上人がお書きになってもだめである。釈尊が書いてもだめ。五百塵点劫の釈迦が書いてもだめ。久遠元初の大聖人様がお書きにならないとだめなのである。ですから、戒壇の大御本尊様につながっていない限りはだめなのである。日蓮大聖人様が書いた御本尊であっても戒壇の大御本尊様につながっていない限りは効力がないのである。

○仏法は、各人のカルマ(業。身口意の三業)の法である。カルマから離れた因果はあり得ない。自分がやった行為(業)に導かれるままに地獄・餓鬼・畜生を現じているのである。

○因果は、因の中に因と縁が含まれ、果の中に果と報が含まれる関係にある。
「因」は「業」なりで、「因」と「業」とは同じものである。
縁は、内縁と外縁があり、よからざる我が身の前念がみな我が身の縁になってくる。前念の因果が現在の業を引っ張るからそれが因縁である。

 因縁は、因と縁は、表と裏の関係・境智の関係・依正の関係にある。
 縁起法成立の必要最小条件は、一因三縁である。
   因 カルマ・業
   業依 前念をいう。
 業境 相手・待境をいう。
 業縁 善悪二法の相応諸法をいう。
 因縁は、この多重構造により成り立っているのである。


○大聖人のご法門の綱格は、一代経教の中には法華経と釈尊を取り、法華経によって始成正覚の釈尊を去って久遠実成の釈尊に就き、久遠実成の釈尊を去って妙法の本有無作三身に就く。これを結縁・付属・種脱に約して日蓮大聖人が具有遊ばされるとなすにあるのである。

○釈迦・多宝は、南無妙法蓮華経の脇士となるのである。
南無妙法蓮華経は日蓮大聖人が御所有なさっているのである。

○日蓮大聖人様が妙法を御所有なさる御境涯には、無作三身即大聖人様、久遠の日蓮大聖人でましますのであって、法華会上の上行菩薩は久遠の大聖人の垂迹である。御本尊中の十界は、日蓮大聖人所具の十界であるのである。

○末法の大聖人様を拝する時はインドの釈尊に相対し、法華経の釈尊をとる時は法華経の上行菩薩を相対し、久遠の釈尊をとる時は久遠の上行菩薩を相対しなければならない。もし久遠の上行菩薩が始成であるならば久遠の釈尊も始成である。これは法華経の教相に明らかである。
 最後に一転して、無始の釈尊から後々を望むならば上行菩薩もまた無始でなければならない。かくてこそ天台・妙楽の釈を理解することができるし、十界互具の事相に通ずることができるのである。

○御義口伝・神力品に「この妙法蓮華経は釈尊の妙法に非ざるなり。すでにこの品の時、上行菩薩に付属したまうゆえなり」とある。

○経文によると、上行菩薩は釈尊が久遠の往昔、成道して第一番に弟子となしたと説かれているが、実には上行菩薩は久遠の仏であり、久遠の仏が菩薩として出現し、釈尊の教化を助けられたのである。

○末法の日蓮大聖人の三大秘法を予証したものが法華経である。

○観心釈からいえば、南無妙法蓮華経が主体であり、法華経二十八品は、この南無妙法蓮華経を開いて説いたということになるのである。

○南無妙法蓮華経は法であるとのみ考えたり、宇宙に遍満する妙法の理とする考えは、大変な誤りであり、南無妙法蓮華経は仏身なのである。すなわち、法報応三身具足の当体であり、「報身」中に具し給うのである。
妙法は日蓮大聖人様の御智慧のうちにのみ厳然として具わり給うのである。

○法華経の行者は、日蓮大聖人様唯御一人だけであり、末法の仏も日蓮大聖人様御一人である。

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石田5 No: 224
 投稿者:高尾  00/06/21 Wed 08:44:08

○六道輪廻
 我々の生活は、悩みや苦しみの心(地獄)、常に飢え、渇き、苦しみに悩まされ、あれが欲しい、これが欲しいと欲望に際限がない心(餓鬼)、楽をする心、なまけもの、おろかなるものを畜生という(畜生)、いかり、ずるい、冷静でずるい、冷酷無惨(修羅)、人間としての平静な心持ち(人)、よろこびや楽しい心(天)の六道を常に輪廻している。
 「天」はいつまでも続かず、横曲がりに地獄・餓鬼・畜生に転落する一時的なものであり、天の楽しみの本質は、迷っている楽しみである(顛倒見)。 

○自覚・一人称の仏法から、仏教という・二人称化した教法が成り立っている。

○仏法での・自覚論・認識論・存在論・の関係は、自覚論という「家」の中に、認識論という「各部屋」があり、その各部屋の中に、存在論という色々な「家具道具」のたぐいがあるというありぶりである。

○仏法は仏の「如実知見」(自覚)を説くものであり、「経」は、「報身如来」が歴史上に現れて・現実の「応身」でもって説かれた果実である。

○「如来如実知見」の問題は、「法華経」壽量品の問題であり、一般論(仏教一般の立場からすれば法身中心となる)の場合とは違ってくる。この極説のところになると、三身即一の「自受用報身如来」が中心になる(法身中心主義は、存在論者が陥りやすい執著の穴である。法身中心の凡夫本仏論は誤り。)。

○仏法では・仏なり・事態なり・から離れた法はない。仏なり・事象なり・から離れた法は抽象した「理」だけ・形式だけのことになる。法の理在は客観上の事柄であり、そこでは法はまだ尊貴でも不尊貴でもない。客観は三人称命題界であり、そこからは尊貴という概念はでてこない。

○人・法は、仏と衆生との二人称世界で事在になって・初めて尊貴になる。自覚所証の法に対して能生の人(仏)が実際にいて、人法が互いに顕わし顕われあう、この人法互顕の所・具体的な「事実上の顕現」が大切である。この所証法は「反省自覚法」である。

○事実の上では、自覚法理は・自受用報身如来の上にのみ顕現していて、あとは宇宙のどこにもない(心外無別法)のだから、人法の間に勝劣はなくなる。人即法・法即人・の而二不二体一である。この報身如来が中心になる。妙法を反省自覚した方(仏)である。

○転迷開悟は、仏の化道に信順して・行ずる以外にはないから、生死一大事の解決には、仏の智慧つまり仏智が中心である。こうして・事に行ずる・仏法の究極においては、境(法)智(慧)体一の報身が中心になる。

○日蓮大聖人の仏法においては、久遠元初の自受用報身如来が大聖人様であり、法は南無妙法蓮華経で・人法体一になる。また南無妙法蓮華経は仏身である(南無妙法蓮華経如来)。末法においては、この大聖人様の仏法が究極の法門である。
 人法一箇というように、人(仏)から離れた法はない。

○仏法は智法(仏の智慧の法・般若法)であり、断じて境法(客観法)ではない。仏法を境法化すると世俗の客観論となる。
仏法はたといどんな論を展開するにせよ・反省自覚の立場で・常に智法(仏の智慧の法・般若法)の窓口から論ずるということを忘れてはならない。科学的解釈・哲学的解釈を許さない、それをやってしまうと内外一致になってしまう。
仏法がもしも境法学説(客観論)であって推理推論で得意されるものならば、信行は一切無用となる。仏教学を専攻して博士にでもなれば皆得道成仏してしまうことであろう。こうならば唱題も仏道修行もすべていらないことになる。しかし、現実の事実は決してそうではない。

○南無妙法蓮華経という法は、教主たる日蓮大聖人の胸中に、己心内にだけ存して、その他のどこにもない。分け取れば、仏の他には信受し奉った僧俗の己心内にだけ存して、あとは誰の手元にもない。戒壇の大御本尊様から離れては、その己心内にさえも存しなくなる。南無妙法蓮華経は、太古から大宇宙に厳然としてどこにもなかったし将来もない。
妙法が、「この宇宙内に厳然として太古から存在してきた」という説明は間違いである。「妙法という宇宙の法理…」という説などは完全な誤りである。「法界」とは「一心の法性界」のことなのに「法界」を「宇宙」だと誤解するからこういう珍説になってしまう。南無妙法蓮華経は「在る法」ではなくて悟りだして「知る法」であるから、昔から宇宙内のどこにもあり得たことはあり得ないのである。大宇宙に厳然としてなかったのである。これは妙法を「境法化」して考えたことからきた誤りである。妙法は「智法」(仏の智慧の法・般若法)であり、決して「境法」(客観法)ではない。こういう風に万事を存在論化してしまうのは外道の特徴である。

○妙法を「客観上の法」、「外界の客観存在法」だと思いこんで、「妙法は宇宙の実在根源法である」という主張があるが、これが正しければ、仏法は研究だけが必要であって仏道修行は一切不必要であろう。それなのに修行しても修行してもこの妙法をなかなか覚知・体得できないのは一体どういうわけであろうか。宇宙に普遍に実在していることが判っていながら得られない、こんなばかなことがあり得るだろうか。
「所詮・一心法界の旨を説き顕わすを・妙法と名づく、もし己心の外に法あり(宇宙も・宇宙の法も己心の外の法である。)と思わば・全く妙法にあらず(宇宙にある法は、自然科学上の法だけであって妙法ではない。)」(一生成仏抄)
「宇宙に遍満する妙法の理・という考えは大変な誤りであり、南無妙法蓮華経は仏身であります(宇宙は仏身ではない。ゆえに宇宙は妙法ではない。)。実際には、仏の智慧のうちにのみ(であるから、決して妙法は宇宙の方にはない。)厳然として具わりたまうのであります。」(「日蓮大聖人の教義」)

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石田4 No: 223
 投稿者:高尾  00/06/21 Wed 08:43:12

○世の中一切は「実体・本質有り」が正しいか「無実体・無本質」が正しいかこれを見極めるべきである。この区別をわかるのが内外相対である。
内外相対は、厳密にいえば、無実体・無本質・無我・無自性に立ち、縁起説に立って、その上に「行業因果」(カルマ・業・身口意三業)を正しく説くか否かということになる。行業因果は反省自覚の基盤だからである。

○一切法皆これ非実体法・無本質法である。仏教は非実体論に立つ宗教である。
仏教に限らず・科学的な宗教・など原理上あり得ない。科学は分析・総合を手段とした部分学であり三人称世界のものである。
仏教でも他の宗教でもこれは一・二人称世界の実践法であって非合理領域のものである。つまり信仰は一人称・宗教は二人称である。非合理世界のものだが合理性に貫かれているのが仏教である。

○己心の法門
 仏法は、「己心の法門」が根幹である。
己心とは、自分自身のこと、わが心をいう。自分自身の身に当てて、自分を観察していくこと(内観)。仏法の法を自分以外の外に考えてはいけない。
仏法は、心外の法門(外道)ではない。
仏法は、客観法ではない(客観である三人称命題界ではなく、主観である一人称命題界であり、科学論ではない)。
無自性、すなわち自己は無実体・無本質であり、固定した「我」(我所有)はない。あくまで「仮名我」があるのみである。
妙法をたもたない己心など、いくら観じても、所詮でてくるものは流転の六道だけである。

○仏教とは、「抜苦」のために、悟った仏の方から・迷っている衆生の方へ・悟りの道筋を教え示すことである。結果は「与楽」となる。その仏にとっては、「初めに中道ありき」である。すでに仏界を成就しているから・これを「果位」の立場という。これに対して、衆生は凡夫のゆえに・「因位」の立場となる。こうして仏と衆生との「対座」が成立する。仏は衆生の方へ・慈悲と無上無分別智慧、つまり「般若」の光を投げかけて、道を照らし・衆生を照らして励ます。衆生はその光に導かれて・仏の方へまっすぐに視線を向けて進み出す。因から果へ、これが衆生の取るべき・取りうる・唯一の道である。

○仏法では・我が身の六道九界を反省して仏界を自覚すること・を目指す(自覚論)である。己の作業を反省して仏界を自覚できるように仏道修行(信行学)をせよと言う。仏が悟った以前に・反省し・そして自覚して・開悟した経験に基づいて、仏と同じことを衆生に行ってみよと言っているわけである(仏法は「反省自覚論」である)。

○仏法の反省は通常の反省よりも難しい。現在の自分は何界か・を反省するとしても、反省して・地獄・餓鬼・畜生・修羅という界へ行っては何もならない。反省して・人界・天界・二乗界・へ行くこと(自覚すること)ならば、仏法はなくても自分の努力でできる。ところが、菩薩界・仏界を自覚するような反省だけは、仏法なしでは、絶対にできない。釈尊以来・時代毎に教法は替わってきたが、どの教法でも「反省自覚法」であったし、この一点は永久不変である。仏法は反省自覚の智法(仏の智慧の法・般若法)である。

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 No: 222
 投稿者:高尾  00/06/21 Wed 08:41:35

○仏法は科学論ではない。信仰は己心の法(一人称命題・実存智法)、科学は心外の法(三人称命題・客観境法)である。客観・科学は、仏法とは違って、一切を対象化・境法化して取り扱う法界外の法なのである。
 仏法での法は、必ず「法は十界十如因果不二の法」(「法華玄義」)、つまり仏法は各人個々の体験事法であって、客観した科学上の法ではないのに、十方法界=全法界=宇宙法界と理解して、我々に説明されてきたが、これはまちがいであり、「法界」の内容に宇宙をあげるのは梵我一如(宇宙即我)を説くバラモン・六師の方であり、仏法ではない。我々は「法界」ということの理解からして気を付けなければならない。
仏法での「法界」という言葉は、宇宙を指して用いられた語ではない。「御書」には、「一心法界」と、己心法界のものとしての「十法界」(地獄界〜仏界)と、同じく己心法界の中のものとしての「十方法界」(誰かの作動智(現念)に縁待して働きつつある境(依報・しかもその内の非情依報)世界、必ず誰かの五陰世間と縁待しつつある国土世間としての法界)とは説かれており、この十方法界といえども抽象十方法界や客観宇宙法界、宇宙法界などではない。宇宙の方は、「器世界」・「三千大千世界」等と一切経に表現されている。
客観宇宙は非法界の法。法界は己心の法である。
仏法で説く己心・一心・一念が抽象的な一般心(普遍存在)なのであれば、これはもはや心理学研究でしかなく、決して仏法ではない。仏法での己心・一心・一念は必ず誰かの作動しつつある「現念」であるように、十方法界もまた、この作動現念における、これと縁待しつつある己心の十方法界であり、客観化された宇宙法界などではない。
「一心法界」の「事法」では、他人の現量(感覚知識)や比量(推理知識)は取り扱わない。必ず当人の現量と比量である。

○仏法と哲学、科学の違いは、以下のとおりである。
 仏法 認識→仏道修行→解脱
哲学 認識→思索 →愛知
科学 存在→認識 →実用・活用

○仏法は、「無分別法」(南無妙法蓮華経は我々の分別・理解では悟ることができない。仏道修行により体得・会得するしか方法がない。)である。仏法は己心の法であって、しかも覚知法(悟る法、会得する法、知る法、知るべき法)であり、存在法(在る法、認識した法)ではない。仏法は仏道修行による会得・体得はできるが、認識不可能な法である。科学のように、客観観察→分析→総合による会得はできないのである。仏法は分別法ではなくて、無分別法である。だから仏法は、「言語道断・心行所滅」といわれるのである。仏法は、仏が体験された仏己心の智法であって、客観存在法ではない。仏法は人・仏に即しての法であるから、したがって宇宙に具わって在るわけはないのである。
仏法の悟りは、南無妙法蓮華経であり、これは法であるとともに仏身である。
仏界は、仏の御知慧のうちにのみ具わっているものである。仏とは、日蓮大聖人のことである。覚者抜きの仏法はないゆえに宇宙に妙法があるとする考えは誤りである。

○この世の中の第一原理とは、「縁起の法」である。釈尊はその縁起の法(正確には縁起中道法)を悟った。それに対して、バラモンや六師外道は・客観宇宙論や唯物論、実体論、梵我一如等を説いた。内外の違いの一つは・縁起の法を悟ったかどうかによる。

○縁起の法門
人間の生命は、「阿含経」に「此あれば彼あり、此生ずれば彼生ず。此なければ、彼なし。此滅すれば、彼滅す。」という関係性においてのみ成り立っている(独存・個在していない)のが仏法の法理である。
我々及び万物全て宇宙の階層構造の中へ組み込まれ、時間的にも空間的にも組み込まれ・他へ依存しかつ依存されて存立しているだけで、決して個在・独存はしていない。
 業因諸縁(因となる業・カルマや様々な縁)が寄り合って成り立つのが「縁起の法門」である。

○縁起とは、「此あるがゆえに彼あり、彼なくば此なし」という・相依・相待・依り合い・待ち合い・の関係のことだが、一切の事法・理法・はこの縁起法で成り立っており、したがって、諸行という一切万法は縁起関係の在り方(組まれ方)次第で常なく変わって行くものである。変わって行かない諸行はないから、諸行は無常法に貫かれており、この無常法は・横には全法界に拡がっていて・縦には不断不常の常住不変に継続していくわけである。「諸行無常」とはこのことを教えている。
一切万法は「常住不変なる無常法」に貫かれており、無常法は縁起関係の上に現出する現象だ・ということになると「縁起こそ法の根幹である」ということになる。
縁起は法の根幹である。「如来は此の法(縁起中道法)を悟りて等正覚を成じ給う」(雑阿含経)とあるとおりである。「此の法」を一般に仏教学では・縁起法と解しているが、これはまだ正しくない。これではただの世間法の悟りである。仏の悟りは出世間法としての悟りなのであり、縁起法の奥の「縁起中道法」の方を悟ったのである。(縁起法はただの世間法だということは、推理判断だけで得られて・反省を必要としていないということである。反省→自覚が出世間の悟りであるから、縁起中道法でないと等正覚ではないということである。)
釈迦を始め三世諸仏の教法は、一切、この縁起中道法を浅きより深きに至って説いて、ついには仏種である聞法下種の法体にまで説き至るものである。いうまでもなく、この聞法下種の法体もまた、縁起中道法であることに変わりはない。縁起しない妙法というのはあり得ない。
「諸行無常」といって万事は常なく変わるのだから、反省→自覚の修行で・自分や条件を良い方へ変えればよい。無常だということは、諸行は悪い方へも変わるし善い方へも変わることを示している。万事は変わることが徹底して解ったら、まずい状態から良い状態へ変わればよい。そこで反省→自覚と修行すればよいわけである。仏道修行とは反省→自覚・反省→自覚という行為(唱題行)を一生涯貫いていく作業である。

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石田2 No: 221
 投稿者:高尾  00/06/21 Wed 08:38:52

○実体とは、存在体について自己同一な分の体、つまり常一主宰、サブスタンスをいう。本質とは、実体の性質について自己同一な分の性質、自性、エッセンスをいう。自己同一とは、自己について変わらない分を自己同一(アイデンティティ)という。この自己は、総じては万物を指し、別しては人間特に個人を指す。この自己同一はそのもの(自己)の存在時間幅を長くとると、自己同一はどんどん減少してしまう。自身について、一日の自己同一と五十年間での自己同一とを較べてみると、一日の自己同一は極めて大であり、五十年前の自分と現在の自分を較べてみると自己同一は小さくなってしまう。このゆえに、常一主宰はなかった。実体や本質もこの自己同一の支えで成り立っていたのだから、これらの言語は無効言語であり、仏法の説く無我・無自性(無実体・無本質)が正しく、「不一不異」なのである。

○仏法は、「諸行無常・是生滅法」(諸々のことどもは、全て実在・実体がなく、生じては滅する法である)と説いている。

 諸行無常 現量(感覚知識・当人が五根で感覚して得た知識)
是生滅法 比量(推理知識・演繹や帰納や類推で推理して得た論理的な推理知識)

諸行は無常であるから、個在して変わらないもの(常一主宰)は何一つとしてない。この変化体に不変な体(実体)や性質(本質)を探し求めるのはおかしなことであり、実体や本質はないというのが現実の姿である。そうであれば、では何があるかというと、縁起というものがこの世の中を貫いている法であることがでてくる。縁起するものであれば全部が出来事で、縁起の焦点が諸現象として現れるのであって、諸現象以外には何もない。現象の奥に実在、常一主宰な実体や本質があるという考えはまちがいある。
縁起とは、因縁生起ということで、因と縁とが依り合って事象が生ずることである。因と縁とが別れれば、つまり因縁離散すれば、事象は滅してしまう。だから、諸行は無常で生滅する。つまり諸行無常・是・生滅法である。
実体・本質がないから無自性である。では無自性のありかたはいかにといえば、因縁は仮和合しているだけだから、有にも非ず・無にも非ずで空となる。

生滅滅已 空諦 分別としての思量
寂滅為楽 中諦 無分別

これは、「寂滅・つまり涅槃の世界」という境法に言及しているのでもない。
これは、当時の外道の六師たちが「この世は生滅法ばかりの世の中だ」と見ている生滅見という「断見」に対する論破の立場から発言された句である。この点を論破すると今度は、邪見の外道は生も滅も無し、常住という無生滅見の「常見」を持ち出す。そこで断常二見は誤っていることを重ねて破折しなければならない。この破折原理が無生無滅の非断非常中道の正見である。だから、この句は、あなたは正見を取る気か邪見を取る気か、一体どちらだと迫って、心作用のうちの「見」を問題にしているのである。見惑の方が問題にされている。「生滅滅」と指摘して、「生滅見も無生滅見も滅してしまえ」と勧めるわけである。この「滅」もまた「見滅の滅見」という「見」なのである。反省によって浅い前見を滅するところが見滅。すると自然に深い後見が立つところ自覚のところが滅見である。したがって、生滅滅已は空諦になる。無生無滅の中道法性が見えてくる。これが思量というものであり、空から中を見る。「生滅見、無生滅見を滅已すれば無生無滅の中道正見が立つではないか」といい、どこまでも「見」を問題にしている。寂滅は名詞ではなくて寂滅するという動詞である。寂滅行は生滅二辺遠離の反省行である。寂滅した結果は論理や概念操作が絶えてしまうから言語道断・心行所滅であって、無分別に入る。この無分別は仏界の無分別としての「為楽」である。
断常二見を滅し已ることが「滅已」だが、これには無生無滅見を目指して邪見を寂滅する行を修行することが必要なのである。反省修行が満じた生滅滅已は空諦である。寂滅は滅見を寂するという双遮行である。寂滅とは、諸行は生滅法であるという浅い見解を滅し已ったら、その上さらに、その滅した反省行為をも寂し空じ(再反省)てしまうということである。「生滅滅已」が一度目の反省(思量)、「寂滅」が再反省(再思量)、以上で二重否定の反省思量である。断常二見を双遮して非断非常の中道正見を得て、この中道見で断常二見を双照することになる。寂滅・是・為楽となる。二者択一思想(二辺見)を捨てさえすれば寂である。滅をも寂する寂滅行そのものが不苦不楽の中道楽である。全体が見の迷悟問題を扱った智法論・修行論である。
「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」
「諸行は無常なり、是れ生じては滅するの法なり、生滅を滅し已りて、その滅をも寂して楽為り」と読むのが正しい読み方である。

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石田1 No: 220
 投稿者:高尾  00/06/21 Wed 08:28:20

石田次男氏の発言語録からの抜粋を掲載します。ご参考にしていただけましたらと思います。


○2500年前のインドの六師外道(客観存在論者、実在論者)も現代解釈をする昭和・平成の妙法僧俗も、根は六師外道の法門と一向になんら変わっていない。
6世紀の中国では、天台大師によって大いに六師義が破折されている。有無・断常等の二辺見(断見・常見)に対する論破がなされている。自性か無自性か、有我か無我か、個在か縁起かという論破がこれである。インドの龍樹も同様に六師外道を徹底的に論破している。
明治の開国、文明開化の波にのって、ヨーロッパから西欧思想・ギリシャ哲学等の客観論・実在論等が流れ込んだ。そして、学校教育を通じて日本人の頭へしみこんでしまった。この西欧思想・ギリシャ哲学・科学思想が、六師外道の法門と全く思想の骨格を同じくしている(客観論・実在論)。六師義が西欧思想という新しい装いのもとに末法の現代に復活してしまったのである。西欧思想・ギリシャ哲学・科学思想で仏法を解釈するということは大非法である。ところが、そうでないと思いこみ、これが最も現代的で先進的な解釈だと思い、昔通りの解釈・解説では今の人には解らない、現代には現代風の解説でないと通じないと思いこんでいる。その結果、仏法の初門である「内外相対」を逸脱して内外一致の仏法となってしまっているのである。

○釈尊と六師外道の違いは、
六師は 宇宙・世界を「物の集まり」と考えていた。これが個在(プドガ      ラ)主義となり、個在観から個物・個人には「実体=我、本質=自     性」が内在すると考えていた。つまり六師は、自己を含めた宇宙の
万物(梵天所造の万物)は、我を所持している。我を所持している     から、我の性質としての自性を備えていると考えていた。この       「我」(アートマン)はギリシャ哲学や現代哲学でいう「実体」と     いうことである。この「自性」は哲学でいう「本質」ということで     ある。
釈尊は 宇宙・世界を「物の集まり」ではないと悟り「事件の集まり」と考     えていた。事件・出来事の集まりであるから諸因諸縁が寄り合って     (縁起ということ)、そこに一つのたたずまいとして、組み上げら     れた形として仮存している(これが仮有ということ)という「縁起     の法門」を説いた。因と縁との相依・相待、これが一切万象の姿で     ある、すなわち因縁仮和合というのが仏説であり、このことは龍樹、     天台、日蓮大聖人とどの方におかれても全くそのままである。一切     法は因縁仮和合だから、これを仮有と称し、それゆえに「実体」も     「本質」もその中にはあり得なく、万法は「無実体・無我」、「無     本質・無自性」であると考えた。

○そればかりではなく、互いに求めた悟りの界が違うのである。およそ人が求める幸せとか理想境というものは、意識・無意識を問わず「天界」である。だから大半の宗教は天界を立てて、これを安楽なところと思わせている。天にいます父なる神よといっても、所詮天界でしかない。
六師は 悟りとして天界を求めた。帰一修行に依るところの、所造の梵天と     所造の自分及び宇宙万物の「我」との一致、つまり「梵我一如」      (宇宙即我)を目指して、この天界を悟りとした。
釈尊は 外道が悟りとする梵我一如の天界を六道輪廻する迷いと排して、仏     界を説いた。

○「祈りとは大宇宙のリズムに合致する儀式といえる」という説を見受けるが、宇宙側の客観上のリズムは「六道のリズム」しかないのである。だから人々が六道輪廻するのである。

○「宇宙法界」・「妙法は宇宙の根源法」は間違った考えである。 
 宇宙は、己心法界の境法の素材にすぎない。「宇宙法界」は、「宇宙」は三人称命題界であるのに対して、「法界」は一人称命題界であり、命題界が異なるから論理上、言語上成り立たない概念であり、間違った考えである。宇宙法界という用語そのものが成り立たない。
 仏法は、客観宇宙論は、人生苦の解決法ではないと悟った。しかも、宇宙は己心法界の単なる素材でしかないと悟り、各個人一人一人にとっての事件・出来事の集まりであるから、業因諸縁が寄り合って(縁起ということ)、そこに一つのたたずまいとして組み上げられた形として仮存しているという己心の法としての縁起の法門を説いたものである。
 宇宙と一体というのは何もめずらしいことではなく、人間も宇宙の一部分であるし、金魚や猫のたぐいも宇宙の一部分である。このような考えはあたりまえすぎて、しかも、だからといって抜苦を解決することも不可能だし、何の悟りにもならない。

○内外相対論の所詮は、「諸法因縁仮和合・万法無実体無本質」に尽きる。
  因縁仮和合:縁起の法門
  内道:無実体・無本質
  外道: 実体・ 本質
因と縁との相依・相待、これが存する一切法万象の姿であるというのを因縁仮和合という。

外道   :      個在→実体(本質=自性)→真実在
仏法・内道:諸行・無常→縁起→無自性      →空
仏法は、個在を破して縁起を述べ、自性(本質・実体)を破して無自性ではないかと反省を促し、真実在などない、空であると外道の見惑を打破して目を覚ませと言っているのである。

無常→縁起→無自性→空
無常 現量(観察結果)
縁起 比量(推理知識)
無自性 比量
空 思量(反省判断)

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川蝉さんへ No: 219
 投稿者:shamon  00/06/21 Wed 00:12:02

日蓮宗の公式本尊を、久遠実成の本師釈迦牟尼仏と明確にされたのは、
本多猊下のお力であり、身延山には、本多猊下の銅像もあります。日
蓮宗内には、諸々の派閥教義もありますが、川蝉さんのお持ちになっ
ている教義は、宗祖教義の正統であり、本来の顕本法華宗とも一心一
体のものであると感じております。

大変失礼な申し出になるやも知れません。私としましては、川蝉さん
のように正しき理解をお持ちになり、布教所も開設されている方が、
もし僧籍をお持ちでないのでしたら、是非とも得ていただきたいと思
うのです。もし不都合無ければ、御連絡を頂き度思っております。

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 Follow: 229 / No: 218
 投稿者:shamon  00/06/20 Tue 20:44:25

わたしも、Libraさんは(創価学会に影響された)独自の三身観にある
とします。

>「釈尊の智慧」は実在する。

釈尊の智慧(Libraさんの引用なら、教法と戒律)の永存のみではなく、
法華経が、何故釈尊そのものの永存を説いているのか、深い意味合いに
入っていないということです。Libraさんの引用は、涅槃経を以て法華
経を否定し、自らの見解を正当化しているに過ぎません。

法華経は釈尊の智慧を比喩を以て説く、あるいは釈尊の智慧(仏知見)
を顕わさんとするものではありますが、釈尊の智慧は無量無辺なるもの
で、法華経28品、或いは他の経典に残された文字に限られるものでな
いことは、重々承知のことと思います。従って、釈尊の智慧>法華経で
あり、釈尊の智慧=法華経ではありません。

宗祖にとって妙法蓮華経の五字は、妙法そのものを顕わすものであり、
釈尊の魂そのものです。妙法より、無量無辺なる智慧も顕れてくるの
です。その顕れたものが、釈尊の説かれた教法となり、経典という文
字となるのです。妙法を真理より説けば法身であり、智慧より説けば
報身であり、慈悲より説けば応身と言えましょう。釈尊は、妙法の色
心業です。

>「曼陀羅」を信じて

宗祖の教義は、庶物崇拝ではありませんから、信じると言うことは
曼陀羅そのものを崇拝することではありませんね。(正宗はそのよ
うです。)ですから貴方が言うように、「曼陀羅」信じるとは「虚
空会の付属の儀式」を信じると言うことならば、釈尊から、上行菩
薩(宗祖)が地涌菩薩の筆頭として、妙法の五字を付属された、ま
さにそのシーンです。宗祖にとって、釈尊の実在なくして、付属さ
れた自覚など得ることは出来ません。実在の釈尊に付属されること
により、上行菩薩の自覚を得て、それまでの宗祖の行為が上行菩薩
としての役割であったこと、そしてその後の振る舞いも、上行菩薩
としての役割であることを覚るのです。釈尊の実在を覚るには、一
切は釈尊の法(おしえ)なりと感受して、人生を如説修行すること、
あるいは如説修行の人生を顧みて、釈尊の法に包まれていたこと感
受することです。地涌菩薩の自覚の法門です。

南無妙法蓮華経

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Libra さんへ。 Follow: 227 / No: 217
 投稿者:川蝉  00/06/20 Tue 19:24:37

Libra さん今晩は。

> 確認のためにお聞きしますが、宗祖は「報中論三」ではないの
>でしょうか?

宗祖は、法身のみならず報・応も無始である無始の古仏と教示され
てますね。


> 「真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存の遺文には無作三身の名
>目も義もない」(280頁)

御書を検索して見ましたが、真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存
の遺文には事実 、無作三身と云う語句はありませんでした。

浅井教授は「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無
始の古仏なり」(本尊抄・昭定712)との三身の概念と、言葉は
三身といえども、その実は単法身的の「無作三身」の概念と別物と
見て、単法身的の「無作三身」の義は確実なる御書には無いと云っ
ているのでしょう。
そう云う立場を前提として、浅井教授は「日蓮には無作三身観はな
かったと断定した方がすっきりする」と述べていると思います。こ
の前提を忘れると「>誤解を招く表現です」と云いたくなると思い
ます。

> 「三大秘法抄」に「無作三身の名目も義も」あることを認める
>のであれば、上の言説は一体何を言おうとしているのか理解に苦
>しみます。

浅井教授が、「三身考」において、「三大秘法抄に、無作三身の名
目も義もある」とは書いておりません。
Libraさん「三大秘法抄」の文を挙げたので、私が「三大秘法抄の
無作三身の語は中古天台的修行不要論を主張するもでない」旨を書
いたのです。
私の書き方が悪かったせいか、Libraさんは私の上記の見解を浅井
教授の「三身考」の主張と受け取り「>一体何を言おうとしている
のか理解に苦しみます」と云っているようですね。


> 僕は別に独特だとは思ってません。文証・理証も僕なりに提示
>してきたつもりです。どこがどうおかしいのかを具体的に破折し
>て頂きたく思います。

Libraさんと同じような報身観を採った先学はいないようですので、
Libraさん独特の報身観ですね。
私は繰り返し、本仏釈尊の常住不滅を教示している祖文や法華経、
涅槃経の文を挙げました。しかし祖文や法華経の教示を受け入れら
れないのですから、いくら同じ事を私が繰り返し述べても無駄でし
ょう。


> 確認のためにお聞きしますが、宗祖は「報中論三」ではないの
>でしょうか?

> 宗祖の場合はどうなのでしょうか?

以下は私の独自の考えなので、正否はまだ自信がありません。
本有十界互具ですから、本仏は無始より常修常証する仏であって、
譬えれば、元々の国王が国王の働きを積めば積むほどに、いよいよ
国王であることが実証されて行く事に譬えられる。
元々の国王が国王の働きをし始める点にスポットを当てれば、
「有始」と云えるのではないかと考えています。

三身即一ですから実体的には応身中心とか報身中心とか法身中心と
か強いて分別出来ないものですね。
田中智学居士の
「法身正意でも報身正意でも応身正意でも、帰する所の内容は一つ
であるが、義に於いては報身中心(正意)を便とし、もし我々に近
い知りやすい方から云うと応身を正意とすべきである」
と云う見解に私は従っています。

「我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って・・為に種々の法を
説く 毎に自ら是の念を作す・・」
との常説法教化の釈尊である事にスポットを当てれば、応身正意と
いえましょう。
凡夫の認識を越えた存在のあり方ですが常住不滅の、いわば人格的
仏の実在を認めない立場であるLibraさんには肯けないことでしょ
うね。


> 中古天台では「法中論三」ということですね。

中古天台は「法中論三」と云うより、「単法身」、あるいは「単真
如」と云う概念といえるようです

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高尾23 No: 216
 投稿者:高尾  00/06/20 Tue 17:42:24

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「以上を要約すれば、
一 立正観抄等天台の口伝法門を引用した御書は日蓮教学の正系であり、特に当体義抄は  観心本尊抄と並ぶ大切な御書であると聖人御自身云っておられる。
二 御義口伝、日向記は最も根幹的な教義を述べられたものである。
三 すでに聖人が上行菩薩として釈尊から口決を受けられたと三秘抄、御義口伝、日向記  等に明言しておられ、かつ大切な御書に口伝を引用せられておるから、聖人の教義に  口伝がないなどとは言えない。
四 聖人の法門は法華経によって立てられ、天台の疏釈や口伝は義の正しいもののみ文を  借りて深意をあらわしておられる。
五 日蓮教学の正系は、山川博士の領解の線上にあるが、さらに奥深い。
以上のごとく、山川博士の口伝に関するお説はまちがいであるが、それだからといって博士の学功が偉大なものであることに変わりはない。正しいお説はやはり正しく、不滅の文字である。また家永博士が日蓮に中古口伝の影響ありと云われたことも、限定的に承認し得るが、それだけで博士の日蓮聖人に対する批判が正しかったということにはならない。」 続く

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高尾22 No: 215
 投稿者:高尾  00/06/20 Tue 17:28:49

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「上のごとく、聖人の正系法門は種脱相対であり、三大秘法である。しかるに中古天台の口伝というのは本仏の自受用身が宇宙に遍満するというところは日蓮聖人と同じだが、観心の施設としては十観十乗一心三観を説くだけであり、三大秘法のごときものはない。法華曼陀羅はあっても妙法大曼陀羅のごとき意匠ではなく、本仏下種益の化導にいたってはまったくあとかたもない。聖人が修行中に中古天台の影響を受けられたのは当然で、この点は家永博士の所説に若干正しいところがあるが、聖人が中古天台を引用されたからといって、その影響下を脱していないことが証明されなければ、聖人の法門は中古天台の焼き直しだということはできない。現在の比叡山では失われているかも知れないが、聖人のころには所謂中古天台の源をなした伝教大師が道随和尚から伝えられた正統の血脈がまだ残っており、その血脈に連なる根本大師門人日蓮とも自称しておられるが、それは一往の義であって再往は多宝塔中大牟尼世尊直授の血脈を本意とし、法華経を文証として法門を立て、さらにその文底の意によって教義の根本を形成されたのが日蓮宗なのであって、天台妙楽等の釈も口伝法門もただ、深義を示すために文を借りたに過ぎない。本文に引いた伝教大師の依憑仏説云々の文が日蓮宗でるる日蓮聖人の説として引用されるのも伝教大師の文を借り来たってご自分の意として用いられたものと見るからである。その証拠には前述のごとく所説の法門ははるかに天台の枠を突破しているではないか。聖人の当時にあっては天台の口伝法門は直ちに伝教将来の口伝と信ぜられており、それが中間でっちあげのものではないかと科学的検討をする方法がなかったかも知れぬ。しかし「与修多羅合者余而用之無文無義不可信受」というのが天台宗の学問法則だから、口伝のうち義の経文と合するものがあればそれが唐決であろうと中古でっちあげであろうと録して文を借るは正しい方法である。そして説かれた法が天台よりはるか先に出ているならばただ中古天台を引用したというだけで、聖人の法門は中古天台の影響下にありと断ずるのは不当であろう。中古にできた口決でも大師の意を正しく伝えたものとしからざるものがあり、前者は用いられたが、後者は人師荘厳己義の法門として捨てられたこと前々に述べたごとくである。」 続く

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Libra様 No: 214
 投稿者:高尾  00/06/20 Tue 16:20:41

ご返事大変ありがとうございました。

まだ全部入力していないのですが、仕事の方がいそがしくなりました

ものですから、恐縮ですが、マイペースで入れさせて頂きます。

                            敬具  

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高尾様へ Prev: 208 / No: 213
 投稿者:Libra  00/06/20 Tue 13:03:03

 こんにちは、高尾様。

> 三宅重也氏著の「御義口伝の研究」は昭和37年頃、御義口伝刊行会刊という形で
> 身延山第八十五世増田日遠猊下の校閲により出版されたものです。
> 三宅重也氏については、その著書に略歴等がのっていないので定かなことはわかり
> ませんが、身延山の猊下の校閲を経ているところから、日蓮宗の御信者のように
> 思います。

 ご教示ありがとうございました。

> 御義口伝については、日蓮正宗では用いていますが、日蓮宗では三宅氏のように
> 用いている方と他方では真偽論的な観点等から用いていない方もいられるようです。

 立正大学の伊藤瑞叡教授は用いられています。僕は伊藤教授を大変尊敬して
います。

 高尾様の文献紹介は大変参考になります。印刷してじっくり読ませて頂いて
います。
 すっかりご好意に甘えてしまっていますが、どうかご無理をなさらないよう
に。
 今後ともよろしくご指導下さい。

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shamonさんへ Prev: 205 / No: 212
 投稿者:Libra  00/06/20 Tue 12:49:13

> Libraさんにとって必要なのは、まず社会において人生の奮闘を経験
> をすることでありましょう。

 そうですね。もっと社会の荒波にもまれないとダメなんでしょうね。
ご忠告ありがとうございます。

> 私のところは、いつでも門戸は開かれて
> います。ただし当然の事ながら、宗祖がそうであったように、釈尊の
> 実在を覚知もしくは信じる者によって、その意味を探求し、宗祖の教
> 学を現代に向けて研鑽することになります。

 僕は「釈尊の智慧」は実在すると思っているのですが、それではダメ
だということでしょうか?
  
  アーナンダ(阿難)よ、あるいは汝らに、かかる思いをなす者が
  あるかもしれない。〈師のことばは終わった。われらの師はすで
  にない〉と。だがアーナンダよ、そのように思うべきではない。
  アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた教法と戒律と
  は、わが亡きのちに、汝らの師として存するであろう。
(「大般涅槃経」、長部経典)

  思うに、ブッダの大いなる業(わざ)は、その死とともに終ったの
  ではない。その弟子たちは、けっして、ブッダ再臨の説を編み出さ
  なかった。あるいは、なお天界にあってその業をつづけるブッダを
  考えたこともなかった。それにもかかわらず、ブッダの業はその死
  ののちにもなおその営みをつづけるであろう。それは、彼の説きの
  こした教法と戒律とが、厳としてなお「わが亡きのちの汝らの師」
  として存するからにほかならない。
  (増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、
   p. 227)

> 宗祖と曼陀羅本尊と題目の関係を示し、何を信じ、どうしてそれが成
> 仏の方法となるのか、今一度説明していただければと思います。

 これまでの議論がその説明になっていると信じたいのですが、今一度
かいつまんで説明しますと、

 ○題目  =釈尊の智慧の結晶である『法華経』の肝心。
       釈尊の智慧の神髄の神髄。
 ○曼陀羅 =虚空会の付嘱の儀式。
       釈尊(父)から上行菩薩(子)へ「仏の智慧の全体」で
       あるところの「題目」が付嘱されているまさにそのシー
       ン。
 ○宗祖  =現実に『法華経』を色読・如説修行して、「釈尊の智慧」
       を見事に体現された三徳者(仏)。教相に説かれている
       上行菩薩の役割を現実に果たされた。
 ○衆生  =「曼陀羅」を信じて「題目」を唱え、『法華経』を如説
       修行することによって「仏の智慧の全体」を授かること
       ができる。

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川蝉さんへ Prev: 206 / No: 211
 投稿者:Libra  00/06/20 Tue 12:14:30

 川蝉さん、こんにちは。

> 天台大師や伝教大師は「報中論三」とする立場ですね。

 確認のためにお聞きしますが、宗祖は「報中論三」ではないのでし
ょうか?

>  >御書に「無作三身」という言葉があったとして、それが必ず「中
> >古天台的修行不要論」を意味するいうことは何ら論証されていま
> >せん。
>
> 「無作三身考」の主題ではないからでしょう。

 では「日蓮には無作三身観はなかったと断定した方がすっきりする」
などとは書かれるべきではなかったと思います。誤解を招く表現です。

> 浅井教授はもちろん、「三大秘法抄」の「無作三身」の語は「中古
> 天台的修行不要論を主張するもの」などといっていません。

 では宗祖には「天台的修行不要論」などではない「正統的な無作三
身観」があったということになります。

> 「真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存の遺文には無作三身の名目
> も義もない」(280頁)とは云っていますが。

 「三大秘法抄」に「無作三身の名目も義も」あることを認めるので
あれば、上の言説は一体何を言おうとしているのか理解に苦しみます。

> Libraさんが独特の三身観に立っていますので、コメントしようが
> ありません。

 僕は別に独特だとは思ってません。文証・理証も僕なりに提示して
きたつもりです。どこがどうおかしいのかを具体的に破折して頂きた
く思います。

> > 上の「塵点に即して報身常住」の「塵点に即して」は「有始」
> >という意味でしょうか。
>
> 天台にも、始覚即本覚と云う意があると思いますが、実成と云って
> いるので、その面では「有始」と云う立場でしょう。

 宗祖の場合はどうなのでしょうか?
 「無始無終」の「法身」との「相即関係(三身即一)」を踏まえ
れば、「報身」も「応身」も「無始無終」であると見るのは当然で
すが、別して、「報身」だけにスポットを当てればやはり「有始」
なのではないのでしょうか?

> 中古天台では「無始無終の本覚三身如来」と云う言葉を使っていて
> も、その内容は、理法身(真如)の概念であると云うことですね。

 中古天台では「法中論三」ということですね。

#御義口伝に関するコメントありがとうございました。

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高尾21 No: 210
 投稿者:高尾  00/06/19 Mon 16:56:29

かくのごとく、種脱法門は本門の釈尊(壽量所顕の本仏)に対して根本本仏の勝を説く教相と、本門の肝心壽量品に望めて壽量文底秘沈の根本法華たる南無妙法蓮華経の勝を説く教相の法門だ。ところが一般の教相は依経を選択すればあとはその経によって観心をつかむ修行をすればよいのだから教相と観心は別々だが、この法門は直ちに観心を説かねば理解できない。三大秘法によらなければ観心そのものはつかめないが、慧学に約しては根本法華の七字は文簡に意甚深だからその説明をしなければならぬから、そこで種脱法門は教相の法門であるとともに観心の法門となる。しかしこの法門は、所謂「難多く答え少なく未聞のことなれば人の耳目を驚動すべし」で、従来の仏教の常識を破るものだから、信心堅固でも学の足らぬ者や、学問広博でも信心疎弱な者には教えられない上、ことに佐渡配流のころはまだ諸宗と対決の時まで秘し隠しておくつもりであったが、謗徒の蠢動が激しく、万一に備えて幾分を教えておくことも必要と認められたので、「観心の法門少々これを注」して授けられたものが観心本尊抄であり、「国主信心あらんののちはじめてこれをもうすべき秘蔵の法門なり日蓮最蓮坊に伝えおわんぬ」、「日蓮が相承の法門等前々かき進らせそうらいき ことにこの文には大事のことどもしるしてまいらせ候ぞ この文あいかまえて秘したまえ 日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ」(諸法実相抄)等と秀抜にしてかつ病弱で外にもらすおそれのない最蓮坊日浄師に相伝の形で与えられたものが最蓮坊に与えられた若干の御書であり、身延に入って興向等の大弟子に対してその深層を露呈しはじめた法が御義口伝、日向記である。御義口伝、日向記はもはや壽量本仏の三身常住だとか、末法上行応化などという法門は通り越した根幹中の根幹の法門なのだ。中略
さてこうなってくると聖人は実際口伝法門をする必要があった。一には法義深重のゆえ、二には他聞をはばかって公場対決に備えるため、三には天台や真言の口伝という先例があったためだ。」 続く

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高尾20 No: 209
 投稿者:高尾  00/06/19 Mon 16:55:24

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「しかるに、御義口伝、日向記には仏とは何かという説が非常に多く、
・この本門の釈尊は我等衆生の事なり
・父において三これあり・法華経・釈尊・日蓮これなり
・今日蓮等の類・南無妙法蓮華経と唱えたてまつる者は・三世の諸仏の父母にして其祖転 輪聖王なり
・無作の三身とは末法の法華経の行者なり、無作三身の宝号を南無妙法蓮華経というなり
・行者あに釈迦如来にあらずや
など類文はなはだ多い。教相の語を経文の判釈に限定する通途の用法からいえばこれらは教相ではない。すなわち観心証道に属するということになるが、日蓮宗では法のみならず人にも教相を立てるから、これをもって観心証道の辺に限局することはできないのである。すなわち爾前諸経では法は常住だが仏の三身常住はうたってない。それを打ち返して本仏三身の常住を説くのが法華経の眉目である。中略
法華経になると宝塔品には三変土田して十方の諸仏を集め、あるいは観音等の他仏の大士を拉しきたって釈尊の化を助けしめ、化城品に三千大千世界を墨として一点を一劫とする無量劫の昔に出たと説かれる大通仏も、壽量品に五百千萬億那由陀阿僧祇の三千大千世界を抹して微塵とし一塵を一劫とするもなお釈尊の仏壽を計るには五百千萬億那由陀阿僧祇の国を抹した一塵をただの一塵と比較する校量にも足らずという算数を超越した無量劫以前に成仏したと説かれた釈尊の或説侘身の一化に過ぎずとされ、したがって大通仏の弟子阿弥陀等の十六仏も釈尊の弟子とされた。これらの教相によって仏界はただの一大釈迦仏に統一された。これが本門壽量品の開顕した釈尊である。しかもこの教相すら超越してこれほどの釈迦如来すら根本本仏が脱益の機に対して化導をする教化利益の一つの姿であって、根本本仏こそ壽量所顕の釈尊の本地であり、根本本仏の果位を示したのが壽量の釈尊、因位を示したのが上行日蓮とするのが種脱法門だ。世上日蓮学者は壽量所顕の釈尊をもって直に根本本仏とするから種脱の教相の名は知っていても実を求め得ず、種脱の説明を充分にしない人が多く・したがって日蓮宗外の仏教学者は余程の大家でも種脱法門はご存じないから今ここでは話しを進めるための便宜上、前もって若干の種脱法門の紹介をしたにすぎぬが、この根本本仏が下種の化導をする時にどんな現れ方をするのかというのが日蓮宗の根幹法門たる下種仏身論なのであって、この種脱の法門は極めて簡略な形ではあるけれども観心本尊抄にも御義口伝にも説かれていること、前に見たごとくである。しかして凡夫こそこの根本本仏であって、因縁と業感によってそのあらわれ方はちがっていても、我等ことごとく根本本仏の体なりと悟るのが日蓮宗の観心であり、三大秘法はこれを悟らしめるための施設であり、事の一念三千は本仏の性であり、南無妙法蓮華経は本仏所証の法であるとともにその宝号である。釈迦如来の本地根本の御名が南無妙法蓮華経であって、それは単なる経典信仰の唱え言ではない。

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Libra様 No: 208
 投稿者:高尾  00/06/19 Mon 10:31:28

三宅重也氏著の「御義口伝の研究」は昭和37年頃、御義口伝刊行会刊という形で
身延山第八十五世増田日遠猊下の校閲により出版されたものです。
三宅重也氏については、その著書に略歴等がのっていないので定かなことはわかり
ませんが、身延山の猊下の校閲を経ているところから、日蓮宗の御信者のように
思います。
御義口伝については、日蓮正宗では用いていますが、日蓮宗では三宅氏のように
用いている方と他方では真偽論的な観点等から用いていない方もいられるようです。
私としましては、日蓮宗の方で三宅氏のように、「日蓮教学に志すものは、必ず
研究すべき御書であると聞かされ、爾来もっぱら御義口伝の研究に没頭したのであ
る。」(三宅氏のコメント)として御義口伝の由来等について研究成果を発表され
ておりましたので、参考の一つとして抜粋させていただいたものであります。
その取捨選択におきましては、読者のご判断にゆだねたいと思っております。
おいていると

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Libraさんへ。2の2. No: 207
 投稿者:川蝉  00/06/17 Sat 15:31:49

Libraさんへ。
続きです。

聖人の判形ならびに六老僧の署名加判がある事からも正式文書とさ
れたことは明白でありましょう。正式文書であれば日付は当然正確
であるべき筈でしょう。
「後日に至って弘安元年正月という日付を用いられたことは何の不
思議もないのである」と云う理由は首肯しぬくいですね。
宗祖の御書に実例があるとか、興師の正式文書にもその実例がなけ
れば三宅氏の見解にはうなずき難いですね。
「弘安改元事」(真在)
「弘安元年太歳戊寅建治四年二月二十九日 改元。疫病の故か」
と云う御書があり、その前の「始聞仏乗義」(真蹟)にも正確に
「建治四年二月二十八日」とあり、「弘安改元事」の後の「諸人御
返事」(真蹟)も「弘安元年三月二十一日」と改元通り正確な日付
となっています。

三宅氏は奥書にある高祖について「高祖の敬称のあったことは想像
にかたからず」と云っていますが、興師や他の老僧が「高祖」と宗
祖を敬称している事例があるのだろうか?。
生前中に高祖と呼ぶは如何にもおかしいですね。

また、奥書にある蛇の聴聞の件は「日蓮聖人註画讃」(1601年
刊行・祖滅319年)に描かれた「七面天女示現図」の以前の記録
には無いもとのことです。これも「御義口伝」が祖滅後に制作され
たのではないか?と疑われる理由のひとつです。
宮崎教授の「日蓮宗の守護神」(123頁)によると、七面明神勧
請ならびに信仰が盛んになったのは身延十四代以降であろうとのこ
とです。祖滅277年以降ですね。

以上のような疑点が有るので、日淳上人は「奥書は後世の挿入」と
弁明しだしたのでしょう。

徐行善の科註については、三宅氏が、「祖滅424年に平楽寺で重
刻したものと、祖滅367年に刊行された新校科註が有り、後者は
『徐行善が本を書いて註をもって科経に入れ縁を募って刊す』とあ
る。聖人当時倫註の支那本または写本があったろうことは当然であ
る(趣旨)」と云って、
あれこれ論じていますが、「倫註の支那本または写本が広く流布し
ていたであろう」とは推測の域を出ないし、「御義口伝」制作者が、
徐行善刊行の「新校科註妙法蓮華経」を引用した可能性を否定出来
る確固たる証拠は無いようですね。

池田氏の云う「祖滅13年に成立した徐氏の註が日本に渡ってきて
から宝塔品第十一のところに付加されたものであろう」
との推測していますが「御義口伝」を真作とする以上はそのように
考えるほかないでしょうね。

「御義口伝」の「寿量品の第二十三久遠の事」の趣旨は、中古天台
文献の「文句略大綱私見聞」にある「久遠の文点を久遠(もとのま
ま)とも久遠(つくろはず)とも読むなり」と同趣旨ですね。
「文句略大綱私見聞」は尊舜の作とされています。尊舜は祖滅16
9年に生まれた人です。「寿量品の第二十三久遠の事」の箇所は後
世の挿入か、あるいは「御義口伝」が「文句略大綱私見聞」成立後
の制作と云う事になるようですね。

宗門先師が「御義口伝」してきたと云う事ですが、それらの諸師は
本尊抄・開目抄等を一番の重要御書とし根拠としています。その援
用として「御義口伝」を扱っています。
そして大石寺教学のように「日蓮本仏論」などを主張した師はいま
せん。

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Libraさんへ。2の1. Follow: 211 / No: 206
 投稿者:川蝉  00/06/17 Sat 15:25:10

Libraさん今日は。
長くなったので分けます。

> 話は変高尾様がご紹介下さった様々な「御義口伝偽作論に対す
>る反論」についてはどのようにお考えでしょうか?特に最初の三
>宅氏の説に対してはどのようにお考えでしょうか。

三宅氏の「御義口伝の研究」は所有していないし、読んだこともあ
りません。
前から大石寺ではどのように反論しているのか知りたいと思ってい
ました。
高尾さんの長文の書き込み大変だった事でしょうが、大変参考にな
りました。
色々反論されているが、屁理屈を付ければいくらでも付けられるも
のだな、根拠が弱いなと云う感想です。

「>天文写本によりそれ以前から既に久しく存在したることを知ら
れる」
元亀二年(祖滅289年)の古写本があるとは聞いていましたが、
それより古い天文写本があるとは初耳です。
文献上現れたのは要法寺日辰師の「負薪記」(祖滅273年から2
94年の間の著述)が初出とされていましたが、天文一年は祖滅2
50年ですから、天文写本は、ほんの少し遡りますね。
しかし、文献的にはそれ以上は遡れないと云う事ですね。

三宅氏は、日興上人の「御遷化記録」に「私集最要文 注法華経と
名づく」とあるのが「御義口伝」の事だとしていますが、玉沢妙法
華寺所蔵の、日昭上人が御遺物として配分を受けた「注法華経」の
ことです。

宗祖の判、ならびに六老僧の連判があるほどの講義記録ですから、
いわば門下に取っては公の文書です。それほど重要な講義記録なら
ば、他の老僧、中老僧たちも写本をしたと推するのが自然です。そ
うすれば、昔の種々の御書目録に記載されているのが自然でしょう。
「注法華経」が御遺物として扱われたのだから、「御義口伝」が存
在していたとすれば、当然、「注法華経」のように御遺物として扱
われたと推測可能ですね。
ところが、御遺物配分記録に記載されてないので、存在してなかっ
た可能性すこぶる大と云う事になりませんかね。

「録内御書 」の成立時期を浅井要麟教授は祖滅100年頃とし、
山川智応博士は祖滅120年から30年とし、宮崎教授は祖滅10
8年以降と見ています。
もし「御義口伝」が存在していたのなら、口述筆記とはいえ宗祖の
署名加判と六老僧の署名加判がある程のものであるば当然 「録内
御書 」に録せらる事が当然でしょう。なのに録せられてない事は
「御義口伝」の存在は大いに疑わしいと云う事になりましょう。

三宅氏は、「聖人御入滅の一両日前に聖人のご署名御加判まで戴い
ている」としていますが、弘安五年九月十九日の「波木井殿御報」
(興師代筆曾存)には「所ろうのあひだ、はんぎょうをきはへず候
事、恐れ入り候」とあります。まず、御入滅前日に、ご署名御加判
をしたとは考えにくいですね。

日付の後の六老僧の判としてあるが、いつ署名書き判をしたのだろ
うか?。聖人の署名御加判の直後とすると、日頂上人と日向上人は
他行中で葬儀前後には、いなかったので署名御加判出来なかったは
ずなのに、加判があるのは怪しいことになります。(つづく)

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 Follow: 212 / No: 205
 投稿者:shamon  00/06/17 Sat 15:02:02

>ここで想像できるのは〜
>次に想像できるのは〜
>詳しい論述は省略〜
高尾さん、これを以て正当化するには、議論に価値なきものであり
ましょう。

御義口伝に見られる己心本尊に関する興門徒の解釈は、宗祖のもの
とは違う誤謬に満ちたものであるとするのが、本多猊下の主張であ
る。

釈尊は、妙法の色心業なり。しかして、妙法は、釈尊の心でもある。
衆生も、妙法の色心業なり。しかも、妙法は衆生本有の心でもある。
理において仏と凡夫は不二なれども、事として仏と凡夫には、歴然
の差別あり。事としての差別を認めるが故に、仏にならんとする修
行は成り立つのである。

正宗の解釈する己心本尊は、妙法と釈尊の関係を捨て去ったもので
あり、宗祖の己心本尊は、妙法の色心業である釈尊を心の内に納め
た上に主張されたものである。故に釈尊の一切の教えは、全人生に
活かされてくるのである。ちなみに顕本は、天台大師や伝教大師が
報身中心の三身論であるのに対し、宗祖は応身中心であるとする。
(応身とは、慈悲による応用として顕現する身)

Libraさんにとって必要なのは、まず社会において人生の奮闘を経験
をすることでありましょう。組織に養ってもらう教学は、どうしても
御都合主義になるものです。私のところは、いつでも門戸は開かれて
います。ただし当然の事ながら、宗祖がそうであったように、釈尊の
実在を覚知もしくは信じる者によって、その意味を探求し、宗祖の教
学を現代に向けて研鑽することになります。

高尾さん、Libraさん

宗祖と曼陀羅本尊と題目の関係を示し、何を信じ、どうしてそれが成
仏の方法となるのか、今一度説明していただければと思います。

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Libraさんへ。 No: 204
 投稿者:川蝉  00/06/17 Sat 12:23:30

Libra今日は。

> 「報中論三」の立場から仏の常住を主張しているということで
>よろしいでしょうか?

天台大師や伝教大師は「報中論三」とする立場ですね。


 >御書に「無作三身」という言葉があったとして、それが必ず「中
>古天台的修行不要論」を意味するいうことは何ら論証されていま
>せん。

「無作三身考」の主題ではないからでしょう。
Libraさんが
「>浅井教授は、「宗祖の思想には中古天台的修行不要論などはな
い」という、ある意味「自明」なことを論証なさっているだけのよ
うな気がします」。
と云うとおり、白明なことだからでしょう。


>「三大秘法抄」にも「無作三身」の語がありますが、これは明ら
>かに「中古天台的修行不要論」を主張するものではありません。

浅井教授はもちろん、「三大秘法抄」の「無作三身」の語は「中古
天台的修行不要論を主張するもの」などといっていません。

「真蹟現存遺文や由緒正しい古写本現存の遺文には無作三身の名目
も義もない」(280頁)とは云っていますが。

古来真偽論があるけれど、Libraさんが掲示した「三大秘法抄」の
部分は、本尊抄や開目抄の教示と反するものでは無い事は論じるま
でもないでしょう


> 「法華経を受持する凡夫」(=「法華経の行者」)は「真の仏
>子」であり、仏の智慧・慈悲(報身)(=『法華経』)にあって
>(=智慧の全体を授かって)、自らも三身如来と開かれるのであ
>ると主張する場合には、「(法華経を受持する)凡夫が実仏であ
>るか否かという類の凡夫論」と関係してくると思われます。

Libraさんが独特の三身観に立っていますので、コメントしようが
ありません。


> 「仏性修現論」ということですね。

その通りのようですね。

> 上の「塵点に即して報身常住」の「塵点に即して」は「有始」
>という意味でしょうか。

天台にも、始覚即本覚と云う意があると思いますが、実成と云って
いるので、その面では「有始」と云う立場でしょう。

>「無始無終の本覚三身如来」と対比されているようですが。

中古天台で云う「無始無終の本覚三身如来」の概念はの「自然本覚
の素法身に外ならぬ」と浅井要麟教授は述べているのです。
中古天台では「無始無終の本覚三身如来」と云う言葉を使っていて
も、その内容は、理法身(真如)の概念であると云うことですね。

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高尾19 No: 203
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 17:33:51

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「次は、本仏常住、
・第三我実成仏已来無量無辺の事 御義口伝にいわく 我とは釈尊の久遠実成道なりとい う事を説かれたり しかりといえども当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指し て我というなり 実とは無作三身の仏なりと定めたりこれを実というなり 已とは過去 なり来とは未来なり已来の言の中に現在はあるなり 我れ実とひらけたる仏にして已も 来も無量なり無辺なり 百界千如一念三千と説かれたり 百千の二字は百は百界千は千 如なりこれすなわち事の一念三千なり 今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱えたてまつる 者は壽量品の本主なり 惣じては迹化の菩薩この品に手わつけいろうべきにあらざる者 なり 彼は迹表本裏これは本面迹裏 しかりといえどもしかも当品は末法の要法にあら ざるか そのゆえはこの品は在世の脱益なり、題目の五字ばかり当今の下種なり、しか れば在世は脱益、滅後は下種なり よって下種をもって末法の詮となす云々
本仏常住そのものずばりと云いたいが、文は山川博士の線を飛び越してはるか先へ突っ走ってしまう。博士の引いた壽量所顕の釈尊という線は最初の一節だけで、次に本仏は法界の衆生だという、最前博士が正系法門ではないとがんばった当体義抄の方向に飛び出してしまい、法界全体が無作三身の仏なんだ、それを悟らぬのが衆生、覚ったのが仏だ、悟ってみれば法界は無始無終だから我も無始無終だ。そう悟った壽量本仏とは法華経の行者のことである。とはいうものの末法は壽量品で仏になるのではない。この品は釈尊在世脱益の機に対して説かれた教で、末法では下種の法華経=題目しか役にたたんのだ。という種脱の法門になる。種脱の法門は観心本尊抄にもあるが、
・ただし彼は脱・これは種・彼は一品二半・これはただ題目の五字なり  所詮迹化他方 の大菩薩等に我内証の壽量品(=題目)をもって授与すべからず  末法の初めはホウ ボウの国にして悪機なるゆえにこれを止めて地涌千界の大菩薩を召して壽量品の肝心た る妙法蓮華経の五字をもって閻浮の衆生に授与せしむるなり
という、全く互いにあい映発するような文章であり、種脱法門は五段教相の最後にくる教相の法門で、しかも両本の説は全同なのだから・これをもって一方を教道、他方を証道と論ずることは全く無理だ。」 続く

註:土曜日曜日は所要につき休止します。月曜日に続きを入力します。

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高尾18 No: 202
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 16:48:36

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「山川智応博士の信人十八巻一、二号の論文については次の若干点が問題になる。
(1)立正観抄等、天台の口伝法門を引用した御書は、日蓮教学の正系に属せぬという判断 は正しいか。
(2)御義口伝、日向記は教義というべきものではないというのは正しいか。
(3)教義ではないとしても、証道の側の法門に口伝があるとすれば、聖人に口伝法門あり と云ってもよいのではないか。
(4)省略
(5)山川博士の領解が一往正しいとしても、再往深重の教学に入るとき口伝法門を正系教 学と考えねばならぬのではないか。
(6)聖人の正系法門は、中古天台の影響下にあるか。
(7)聖人は天台の口伝法門をいかに扱っておられたか。
    中略
立正観抄は、止観勝法華の中古天台思想を破して、法華経の一言の妙法を勝とする。
当体義抄は、十界依正妙法蓮華の当体なりという天台法門を巧釈して、本門題目の法門を説明し、南無妙法蓮華経と唱える凡夫が本門壽量の当体蓮華仏であると断ぜられたもの、
十八円満抄は、「当世を天台宗の奥義」であるとして「伝教大師修禅寺相伝日記」を講義し、最後に「日蓮己心相承秘法」「塔中相承の南無妙法蓮華経」に持ってきて天台宗の奥義の底を破って本門の題目に至らせるもの、
三世諸仏総勘文教相配立は、一往中古天台の本覚法門ではないかと早合点しやすいが、これも仏の教は南無妙法蓮華経であると説かれる。
義浄房御書は、自我偈の一心欲見仏不自惜身命の文を天台の口伝を利用して活釈して壽量品の事の一念三千の三大秘法を成就する文と云われたもの、
日女抄は、詳しく大曼陀羅の形みょうを述べた後、この御本尊は他にあるのではなく、衆生の心におわしまし、信心の厚い無二の信者はこの御本尊の宝塔に入ると、信による入曼陀羅を説かれ、最後に南無妙法蓮華経と唱える時五種の修行を具足するとて伝教大師が道随和尚から五種頓修の妙行を相伝されたことを云われる。
中略
次に御義口伝、日向記は如何。
・日蓮己証の事 仰せにいわく・壽量品の南無妙法蓮華経これなり、地涌千界の出現末代 の当今の別付属の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に取次ぎたまうべき仏勅使 の上行菩薩なり云々(日向記)
・第廿五建立御本尊等の事 御義口伝にいわく・この本尊の依文とは如来秘密神通之力の 文なり・戒定慧の三学は壽量品の事の三大秘法これなり・日蓮たしかに霊山において面 授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。
もし上行応化が正系法門というならば・これほどの正系はあるまい。御書には三大秘法抄しか霊山で上行菩薩として付属を受けた事は言っておられぬ。 続く

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高尾18 No: 201
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 16:51:53

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「山川智応博士の信人十八巻一、二号の論文については次の若干点が問題になる。
(1)立正観抄等、天台の口伝法門を引用した御書は、日蓮教学の正系に属せぬという判断 は正しいか。
(2)御義口伝、日向記は教義というべきものではないというのは正しいか。
(3)教義ではないとしても、証道の側の法門に口伝があるとすれば、聖人に口伝法門あり と云ってもよいのではないか。
(4)省略
(5)山川博士の領解が一往正しいとしても、再往深重の教学に入るとき口伝法門を正系教 学と考えねばならぬのではないか。
(6)聖人の正系法門は、中古天台の影響下にあるか。
(7)聖人は天台の口伝法門をいかに扱っておられたか。
    中略
立正観抄は、止観勝法華の中古天台思想を破して、法華経の一言の妙法を勝とする。
当体義抄は、十界依正妙法蓮華の当体なりという天台法門を巧釈して、本門題目の法門を説明し、南無妙法蓮華経と唱える凡夫が本門壽量の当体蓮華仏であると断ぜられたもの、
十八円満抄は、「当世を天台宗の奥義」であるとして「伝教大師修禅寺相伝日記」を講義し、最後に「日蓮己心相承秘法」「塔中相承の南無妙法蓮華経」に持ってきて天台宗の奥義の底を破って本門の題目に至らせるもの、
三世諸仏総勘文教相配立は、一往中古天台の本覚法門ではないかと早合点しやすいが、これも仏の教は南無妙法蓮華経であると説かれる。
義浄房御書は、自我偈の一心欲見仏不自惜身命の文を天台の口伝を利用して活釈して壽量品の事の一念三千の三大秘法を成就する文と云われたもの、
日女抄は、詳しく大曼陀羅の形みょうを述べた後、この御本尊は他にあるのではなく、衆生の心におわしまし、信心の厚い無二の信者はこの御本尊の宝塔に入ると、信による入曼陀羅を説かれ、最後に南無妙法蓮華経と唱える時五種の修行を具足するとて伝教大師が道随和尚から五種頓修の妙行を相伝されたことを云われる。
中略
次に御義口伝、日向記は如何。
・日蓮己証の事 仰せにいわく・壽量品の南無妙法蓮華経これなり、地涌千界の出現末代 の当今の別付属の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に取次ぎたまうべき仏勅使 の上行菩薩なり云々(日向記)
・第廿五建立御本尊等の事 御義口伝にいわく・この本尊の依文とは如来秘密神通之力の 文なり・戒定慧の三学は壽量品の事の三大秘法これなり・日蓮たしかに霊山において面 授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。
もし上行応化が正系法門というならば・これほどの正系はあるまい。御書には三大秘法抄しか霊山で上行菩薩として付属を受けた事は言っておられぬ。 続く

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