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川蝉さんへ(1/3) No: 500
 投稿者:Libra  00/09/02 Sat 12:59:42

 川蝉さん今日は。

> Libraさんが「釈尊は入滅し消滅した。霊的人格的な存在の仏など
> 無い。仏は経典と弘宣者と云う形でしか存在しない」と云う旨を
> 強く主張するから、

 弘宣者は「釈尊の精神」を心に宿しているということも僕は強く
主張しています。そのことは何度も指摘しました。にも関わらず、
無視し続けて川蝉さんが

>「Libraさんは、仏身は消滅してしまって存在しないと主張してい
>る」と幾度も述べ

られているので、それは「曲解」であり、僕にとってはとても「迷
惑」であると申し上げているのです。それに、「仏身(報身)」が
「霊的人格的な存在の仏」でなければならないという「川蝉さんの
思いこみ」を押しつけられても困るのです。

> >それは「川蝉さんの理解」であって「田村博士の理解」ではない
> >のではありませんか?
> との事ですが、「田村博士の理解」だと思いますよ。

 田村博士も編者の一人として名を連ねておられる「岩波仏教辞典」
の321ページには、

  応身は歴史的世界に現れたブッダの身体であって、人格性を持
  つものではあるが無常な存在である
  
とあります。

> Libraさんが今回引用された伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』の文に
> 都合よく、「日蓮聖人は『観心本尊鈔』に「我等が己心の釈尊は
> 五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」、『三大秘法鈔』
> に「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来此土
> 有縁深厚、本有無作三身教主釈尊也」と述べて、法・報・応の三
> 身の即一にして報身に正意のあることを明かすにいたります。 」
> と有りますね。田村博士のほどの学者ですから、伊藤教授と同様
> に、「宗祖に至っては、寿量品の仏を三身即一の永遠の仏と捉え
> ている、すなわち三身共に無始無終の仏と把握した」と理解して
> いると推測して間違いはないでしょう。

 「五百塵点の当初」は「無始」ではありませんよ。川蝉さんはそ
こをずっと誤解されています。伊藤教授が応身を「有始有終」と捉
えておられることは理解されていますか?
 伊藤教授の論述でも不足のようなので、『日蓮宗辞典』からも引
用しておきます。

  報身は仏の能証の智恵で、この智と境とが境智一如したところ
  を成仏という。一如するべく因行を修するから、因果乗々であ
  り、一如する以前と以後とがあって元来は有始無終である。応
  身は境智一如の後、化他の慈悲に出た仏であり、化縁があれば
  生じ、化縁が尽きれば滅する垂迹の仏であるから、元来は有始
  有終であり、歴史上の釈尊はこの仏と見られる。
  (『日蓮宗辞典』、p. 127)

> Libraさんが引用された伊藤瑞叡教授の論述に「『五百塵
> 点の当初より以来此土有縁深厚、本有無作三身教主釈尊也』と述べ
> て、法・報・応の三身の即一にして報身に正意のあることを明かす
> にいたります。」とある無始三身の古仏の存在を否定しない限りで
> す。

 「三身相即の論理(無始無終の真理との不二の関係)」からでは
なく、「報身」も「応身」も“それぞれが単独で素朴な意味で無始
無終である”というような「無始三身の古仏」解釈は成り立たない
でしょう。報身は「一如するべく因行を修するから、一如する以前
と以後とがあって元来は有始無終である」のです。因果を無視して
は仏法では無くなります。

> >応身が「有始有終」であることは仏教学の常識ではありません
> >か?
>
> 田村博士や伊藤教授も指摘しているように、宗祖は、寿量品の仏
> を三身ともに無始の古仏と捉えていたことは確かです。

 「無始の古仏」の意味が全然違うと思います。「三身相即の論理」
は「三身がすべて等号で結ばれる」ということではありません。そ
のことは認識されておられるのでしょうか?

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近藤さんへ No: 499
 投稿者:Libra  00/09/02 Sat 12:58:35

 近藤さん、こんにちは。

> 私には、ここでは教学的な議論が聞けるのがオモシロイのですが・・。
> ・・とはいっても、それはLibraさんの管轄下ですね。

 そんなこと言わずにいろいろ教えて下さい。お願いします。

 ラーフラバドラの『妙法蓮華賛』が荻原・土田本(1935年)の付録に
収録されているそうですが近藤さんは読まれたのでしょうか。どんな内
容なのか興味津々なんですが…。

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納豆弁当 さん No: 498
 投稿者:三吉  00/09/02 Sat 06:27:25

>じゃ、無責任じゃない?

底の浅い疑問ですね。池田さんも親爺の葬式の時、他宗の葬儀に出席されたでしょ
う。

>「葬式仏教」じゃないですから私達は

じゃあ、あなたたちは葬儀を完全に止めて、先祖供養の墓をぶっ壊して、
学会墓苑造成から手を引かれてから言われた方が説得力ありますよ。

>大体、「極楽」なんて架空の場所にこだわってるなんて
>私には、信じられません。

あなたの極楽のイメージが稚拙なだけかもしれませんじゃないですか。
仮設を求めるの気持ちがわからないなら、法華経の化城の比喩もわかってられない
のでしょう。精進されたし。

>だって、「念仏無間地獄」だからね

喜んで地獄に行ける身となるのが菩薩道ですからね。
あなたがたは、地獄から逃げるのを信仰だと思われているわけだ。
地獄と言う現実を受け止めてなお歩み続けるのが念仏の信でしょう。

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>納豆弁当さん No: 497
 投稿者:近藤 貴夫  00/09/02 Sat 03:57:26

> 私は、この度、さまざまな学会の役職を兼任しなければならなくなりました。
> しばし、ネットに出る事が出来なくなりそうです。

最後の書き込みのご様子からだけでも、お忙しさが伝わってきます。
またちょっとこれらにコメントさせて頂こうかとも思ったのですが、
暫くお忙しいのでは仕方ないですね。
無事に新たな責務を全うされることをお祈りします。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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書き忘れました No: 496
 投稿者:納豆弁当  00/09/02 Sat 00:47:34

私は、この度、さまざまな学会の役職を兼任しなければならなくなりました。
しばし、ネットに出る事が出来なくなりそうです。

また、しばらく経ったら戻ってくるかもしれません。

その時まで、三吉君、仏罰を受けないようがんばってね!

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読んだもんは読んだでしょ? No: 495
 投稿者:納豆弁当  00/09/02 Sat 00:42:53

三吉さんへ

たとえ「出向」したとしても、「念仏」の坊さんが
法華経読んだのは確かでしょ?お認めになったらいかが?
それは、社会通念上、「出向してたから親会社の事は知らないよ」
じゃ、無責任じゃない?

私は勘違いしてたのかな?hideさんのこと。
私の周りではちょっとした話題になったんですけどねぇ

あの・・・
「葬式仏教」じゃないですから私達は。
この日本人の宗教心のなさは葬式仏教の弊害以外の
何者でもないですから・・・。
大体、「極楽」なんて架空の場所にこだわってるなんて
私には、信じられません。

まぁ、念仏を唱えても極楽になんて行けませんよねぇ。

だって、「念仏無間地獄」だからね(爆爆)

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おはよ 納豆弁当さん No: 494
 投稿者:三吉  00/09/01 Fri 06:38:15

>これが確かなら、どんな「よっぽどの理由」があったんですかねぇ。

お西のお坊さんに確認したところ、勝新さんとごっちゃになられているのでは?
とのことでした(事実は未確認)
トシキさんの家族は真宗門徒ですので、それはないのでは?ピアノの生演奏はあっ
たらしいですけど。
勝新さんの場合は本道に白幕をはって、斎場として提供したとのこと。
葬儀で法華経があがったとして、真宗の葬儀といういちづけではないみたいですね

ただ、門徒さんのなかには、こういう貸し方は「金儲け」では?という批判もある
みたいです。

後、真宗僧侶が法華経をあげる場合を考えますと、故人と僧侶が付き合いのある場
合、その方が曹洞宗の場合、例えば曹洞宗の葬儀に「付院」として出て、曹洞宗の
式次第に従い、「法華経」を読む場合があるみたいです。反対もあります。

>私には、カネ以外の何者でもないと思われてなりません。

別に「カネ」と断定できないと思いますよ。
そういう風に思い込まれるのは、あなたの関心がそこに重きをおかれているから
では?

>例えば、立正学園や、駒沢学園などです。

仏教系私大の連合会があります。今年のそこのシンポのテーマは
「仏教系大学は今後どうすべきか?」です。
今、仏教と言う名前で生徒は来ない。仏教から離れて経営を考えるべきではないか
例えば大正大学は仏教学部を人間学部に名称変更したように。
一方で少数ですが、宗門立、仏教の大学を中心に据えている大学もあります。
そこの基調講演に、駒沢は総合大学化した大学の代表として発表し、
大谷大学は単科と言いますか、宗門立ということを中心に据えた大学として
発表するみたいです。
私学関係者ならば、ぜひ小川一乗学長の自画自賛を聞かれると面白いかもしれませ
んよ。

>自分が信仰していたら、こんないい事があった

学会の信仰はそういう類の現世利益が中心なんでしょうけど、私はそういう種の
宗教に魅力を感じません。
私をひきつけて止まないのは、「仏教」ですから。

信仰と言うものを結果を求める。奇跡があったから信ずるという形で考えてません
奇跡、確証がないからこそ「信」なのだ。出発点に立ち、歩んでいく力、勇気とな
るのが信だと思ってます。

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答えになっているようです。 No: 493
 投稿者:shamon  00/08/31 Thu 20:13:37

顕正居士さんが、仏格について喝破しましたのであえて言うこともない
ようですが、参考まで。Libraさん引用、伊藤上人の応身の説明は、あ
くまでも「三身即一の釈尊(無始無終)が、衆生の機根に応じて現れた
のを応身という」基盤に立ち、あえて仏教学上、差別して解説したもの
です。したがって、三身即一の釈尊(無始無終)と応身は不二、つまり
応身も、真理としては無始無終と言うことです。拡散しますので、また。

>具体的に実在するについて〜
Libraさんの主張、次のようにまとめてみました。宜しいでしょうか。つまり、

1 教法は釈尊の魂であり、つまりは釈尊である。したがって、教法を護持す
るということが、心の中に釈尊が実在することである。
2 したがって、客体的には存在しない。

1について
概念的には、間違っておりませんよ。というよりも、Libraさんは、釈尊を概念
(論理的認識)として捉えようとしている、捉えている段階にあるということで
す。概念より、観念(理性による表象的認識)に至っていないというところでし
ょうか。厳しい言い方をすれば、宗教学の域を出ていない、宗教にはなっていま
せん。したがって、2のように客体的に存在しないという、唯物論的な結論を安
易に導き出していると思われます。実は戦後、顕本の中川日史猊下もそのような
ことを主張され(元来、日蓮宗身延派にもあった思想)、教学に混乱をきたしま
した。

そこで、伊藤瑞叡上人の次の文章(日蓮精神の現代)は、どのように捉えますか。
「究極的実在としての絶対者に対する宗教的な表象の根本的な形式は、人格的な
ものへと統一され人格的な観念となりうる。すなわちキリスト教においては、神
観となり、仏教においては仏身観となる。」

顕正居士さん
>そのような存在者を信じないことは、現代人としてはむしろ当然。
顕本法華宗の開祖・日什は、600年も昔より「釈尊は、妙法(衆生本有)
の色心業なり」と教示されていますよ。

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天台宗、日蓮宗の仏格は三身常住! No: 492
 投稿者:顕正居士  00/08/31 Thu 18:03:12

開目抄
法華前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始無終はとけども応身報身の顕本
はとかれず

三身不離、三身常住、天台宗、日蓮宗の仏格は、同じく法海に遍じ、同じく
寂光に居す。天台家、日蓮家の軌範です。
台宗二百題・三身遍法海
(問)自受用身、法海に遍ずるが如く、他受用応化の身もまた法海に遍ずるや。
(答)ともに法海に遍ずべきなり。(略)。一家の意は、三身相即して、一異
あることなし。
台宗二百題・三身寂光
(問)三身ともに寂光に居するや。
(答)しかるべきなり。(略)。一家の意は、三身相即して、しばらくも
相い離れず、

天台宗、日蓮宗の仏格は無始より無終まで、三身を完備する全智、全能、かつ
具体の存在者であります。そのような存在者を信じないことは、現代人として
むしろ当然ですが。

川蝉さん−Libraさんの議論になっていない議論は(日蓮の神学思想については
川蝉さんの発言が100%正しい)、日蓮がどうをやめて、自在神への信仰が今日
可能か否かの科学的議論に移行するべきでしょう!

*四箇格言−十三通御状(本満寺録外)の信頼性問題もあるでしょうが、遺文の
表現をまとめて誰かが「四箇格言」を作った意味です。十三通御状を除いても、
的確ではあるんですが、日蓮は鎌倉の辻に立ち、四箇の格言を咆哮し、のような
大衆イメージが出来ています。日蓮は他宗批判を壇徒に対してしかしない、然も
念仏だけ、少し学問がある人には頓悟禅批判をする、ここまでは既に禁令が出て
いる宗派です。東密批判は後で、台密批判はそうとう学問がある人への秘書です。
「四箇格言」なんか云ったら、十重禁戒の自賛毀他を侵すから、その時点で日蓮
は僧侶でなくなり、幕府は正当に処分できる。日蓮への処分が合法的なものでは
なかったことは、彼が「自賛毀他戒」を侵していない意味であります。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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Libraさんへ。3/3. No: 491
 投稿者:川蝉  00/08/31 Thu 16:02:37

>岩本訳が「至極おかしいもの」であると言われたいのならば、文
>法的・語学的にきちんとご説明頂きたく思います。ただ「羅什訳
>も南條・泉共訳もそのように訳してない」ということを指摘する
>だけでは不十分でしょう。

語学はからきし駄目なので、語学的には説明できません。
寿量品の長行部分をまとめた自我偈に久遠実成は方便であったなどと何処にも語っていないし、いわゆる三誡三請・重誡重請の後、伽耶始成を方便であった事を述べ、「然るに善男子、我実に成仏してより己来無量無辺百千万億那由佗劫なり」と宣言し、続いての「分別功徳品」に、仏の寿命長遠を信受する者の功徳の莫大なる事を語っていますね。こうした経の起尽からしても、寿量品に久遠実成も実は方便であったなどと語るわけはないでしょう。そう思いませんか?。件の部分の岩本訳が「至極おかしいもの」と云う理由はこれで十分でしょう。
伽耶始成も久遠実成もともに方便であるとするなら、では何が真実説なのか?と云う疑問が出てきますね。

>「他者的」と「客体的」との間の「概念的なズレ」を少しは認識
>して頂きたく思います。

三身具足の古仏は、衆生にも具されているので、衆生と隔絶した純客体・純他者でも無い仏であるので「他者的・客体的仏」と表現したのです。Libraさんの「他者的」とは異なる概念の下に使用しています。
Libraさんは
「>だからと言って、釈尊が「客体的生命体」として今も存在し続けているということにはなりません」
と書いているのですから、客体的存在として釈尊(三身具足の古仏)は、存在しないと主張する立場ですね。
Libraさんは
「>何度も何度も申し上げた通り、「仏身は消滅してしまって存在
しない」とは僕は言ってません。」
と、云われていますが、「客体的存在として釈尊(三身具足の古仏)は、存在しない」と云う見解は、「仏身は消滅してしまって存在しない」と云う主張と同じと私には受け取られます。

「如来の肩に荷擔せらるることを得ん」
「如来則ち衣を以て之を覆ひたもうべし。また他方の現在の諸仏に護念せらるることを為ん」
等との「法師品」の文は、客体的仏が影の教導、守護、力添えしてくれている事を語るものと、私は受け取っています。
しかし、Libraさんは、客体的仏の存在を語る文とは受け取らないようですね。

>『法華経』を通して感じることができる「釈尊の人格」が「己心
>の釈尊」でしょう。当然、「己心の釈尊」は常に我々仏弟子を見
>守り、励まして下さいます。・・しかし、だからと言って「客体
>的仏として久遠本仏の存在を認め」なければならないということ
>にはなりません。別の話です。

Libraさん云う「己心の釈尊」とは「本尊抄」の「我等が己心の釈尊は」の句を略して、使用しているものと推測します。
十界互具であるから、仏界としての在他の釈尊(無始の古仏)が「我等が己心の釈尊」と云う事になるのです。在他の釈尊(無始の古仏)が存在しなければ「己心の釈尊」と云う事は云えないのです。
故に、
「>だからと言って、客体的仏として久遠本仏の存在を認めなければならないということにはなりません。別の話です。」
などと、言い得ないのです。

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Libraさんへ。2/3. No: 490
 投稿者:川蝉  00/08/31 Thu 16:00:46

>応身が「有始有終」であることは仏教学の常識ではありません
>か?

田村博士や伊藤教授も指摘しているように、宗祖は、寿量品の仏を三身ともに無始の古仏と捉えていたことは確かです。
前回のコメントに私は、法華経の文を挙げ、「釈尊の肉身が滅んだのは歴史的事実ですが、応身と云う仏格が肉体の消滅と同時に無くなってしまうなどとは法華経に説かれていない」旨を書きました。「応身と云う仏格」と云う語句に注意して読み直し願います。
報中論三(報身を中心にした三身即一)も、肉体が消滅した後でも「応身と云う仏格」は消滅しないから、報中論三と云う事が云えるのです。

> 田村博士が言われる「超歴史的にして、しかも歴史的現実に活
>現し、躍動する永遠なる人格的生命体なる存在」とは
>
> 「教法を通じて釈尊の精神にふれて仏になった人の系譜」
>  =「教法(釈尊の精神)を護持する人の系譜」
>  =「法脈」
>
>でしょう。僕はずっとそう言ってます。

田村博士は「因行果徳身といわれるゆえんである。」と云い「超歴史的にして、しかも歴史的現実に活現し、躍動する永遠なる人格的生命体なる存在」とか「久遠釈尊を仰ぎ」等と述べていますね。
常住不滅の三身即一の仏を指しているものと理解します。
田村博士がここで云っている報身仏の定義は、Libraさんの云う所の単なる「法脈」とは大きな違いがありますね。

> 別に驚いて頂いても全然構いませんが、僕の主張を曲解するの
>だけは止めて頂きたく思います。

Libra さんが「>宗祖は釈尊を“客体的に”捉えられておられなかったのではないでしょうか?」
と云っているし、Libra さんは釈尊を客体的に仰ぐ事を否定している立場と理解していますので、「宗祖が釈尊を客体的に仰いでいたのは、鎌倉時代の衆生に合わせた方便であったという見解ですか?」と書いたわけです。私の曲解でしたか?。

>「三身一体」とは一体どういう意味でしょうか?
> 三身それぞれの差異を無視されるおつもりでしょうか?

「ここでは久遠釈尊が三身一体の仏なることをいったものである・・・三身一体とは・・」とある田村教授の論文を引証して説明したので、田村教授の言葉を使ったまでです。三身即一と云う意味ですよ。前のコメントに挙げた田村教授の論文を再読して貰えば、三身即一と云う意味であることが分かります。少しでも御書を学習した者が「>三身それぞれの差異を無視」するような事はないですよ。
前回のコメントでLibraさんは
>川蝉さんは応身も報身も「無始」であると言われたいようです
>が、そういう主張は成り立たないと思います。
と云われていましたが、宗祖は、寿量品の仏を三身具足の無始の古仏と捉えていたことは確かです。
Libraさんは宗祖の主張は成り立たないと批判されている事になりますね。この点は如何ですか?再度おたずねします。(つづく)

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Libraさんへ。1/3。 No: 489
 投稿者:川蝉  00/08/31 Thu 15:58:42

Libraさん今日は。
>川蝉さんは僕に直接会ってません。ただ僕の発する言葉だけから
>「Libraという人格」を構成なさっているはずです。前にも申し上>げたように、僕はすでに死んでいて、代理の人間が今これを書い
>ているかもしれませんよ。

法華経では、説かれた経も残っているが、説き主の釈尊も存在し続けていると教示しています。こうした、経と説き主の仏との関係を、「Libraさんの言葉」とLibraさんとに当てはめて説明しようとしたのでした。喩えが分かってもらえなかったようですね。

> 何度も何度も申し上げた通り、「仏身は消滅してしまって存在
>しない」とは僕は言ってません。「報身は有始だが無終である」
>と言っています。言ってもいないことを「主張している」と繰り
>返し決めつけられるのは正直言って迷惑です。止めては頂けない
>でしょうか?

Libraさんが「釈尊は入滅し消滅した。霊的人格的な存在の仏など無い。仏は経典と弘宣者と云う形でしか存在しない」と云う旨を強く主張するから、私は「Libraさんは、仏身は消滅してしまって存在しないと主張している」と幾度も述べているのです。
Libraさんが「僕は報身は有始だが無終であると言っている」と云っても、Libraさんは、その報身を「経典と弘宣者と云う形」と限定しているではありませんか。霊的人格的な存在の仏身など無いと云う立場ですね。だから、「Libraさんは、仏身は消滅してしまって存在しない」と主張していると指摘しているのです。

私が、「さらに三身観が進展し、宗祖に至っては、寿量品の仏を三身一体の永遠の仏と捉えている、すなわち三身共に無始無終の仏と把握したと、田村博士は理解されているようですね。」と書いた事に対して
>それは「川蝉さんの理解」であって「田村博士の理解」ではない
>のではありませんか?
との事ですが、「田村博士の理解」だと思いますよ。
私が掲げた田村博士の論述に「・・ここでは久遠釈尊が三身一体の仏なることをいったものである・・・ここから進んで、一乗妙法を信じ、久遠釈尊を仰ぎ・・」と有る事を見ても明らかでしょう。

Libraさんが今回引用された伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』の文に都合よく、
「日蓮聖人は『観心本尊鈔』に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」、『三大秘法鈔』に「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来此土有縁深厚、本有無作三身教主釈尊也」と述べて、法・報・応の三身の即一にして報身に正意のあることを明かすにいたります。 」
と有りますね。
田村博士のほどの学者ですから、伊藤教授と同様に、「宗祖に至っては、寿量品の仏を三身即一の永遠の仏と捉えている、すなわち三身共に無始無終の仏と把握した」と理解していると推測して間違いはないでしょう。

> 我々は「釈尊の言葉(教法)」を通じて、いわば時空を超え
>て、釈尊の人格にふれることが出来るわけですが、それは「応
>身」も「無始無終」であるというようなことを意味しないでしょ
>う。あくまでも教法を通じて「其の跡を継紹して其の功徳を受得
>す」るということでしょう。

「>それは『応身』も『無始無終』であるというようなことを意味しないでしょう。」
の部分を除いた部分には異存はありません。ただし、Libraさんが引用された伊藤瑞叡教授の論述に「『五百塵点の当初より以来此土有縁深厚、本有無作三身教主釈尊也』と述べて、法・報・応の三身の即一にして報身に正意のあることを明かすにいたります。」とある無始三身の古仏の存在を否定しない限りです。(つづく)

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私見です No: 488
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/31 Thu 12:42:42

納豆弁当さん記
> 皆さんにお願いします。「実体験」をもっと語ってください。

私には、ここでは教学的な議論が聞けるのがオモシロイのですが・・。
・・とはいっても、それはLibraさんの管轄下ですね。

その後思うに、納豆弁当さんとの意見の相違も大きくないと思うので、
申し訳ありませんが、先般の議論は終了させて頂きたいと思います。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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いっぱいあるんじゃないかな? No: 487
 投稿者:納豆弁当  00/08/31 Thu 01:02:42

三吉さんへ

真宗の僧侶が葬儀で法華経を読誦した例ですか?
記憶違いだったらゴメンナサイ

元・XJapanのhideさんが不慮の死を
遂げられたのはご存知ですよね?
その葬儀は築地本願寺でした。
その際、法華経の方便品と如来寿量品が読誦されたと思います。
これが確かなら、どんな「よっぽどの理由」があったんですかねぇ。
私には、カネ以外の何者でもないと思われてなりません。

聖職者についてですが、聖職者は世の為人の為につくすから聖職者なのでしょう。
それが、表向きは世の為人の為といいながら、結局は、儲け第一でしかない事実は
学校関係者なら当たり前の事実ですよ。だって一般の「私学」は企業と一緒ですから。私は、私学関係なのでそのような実態をつぶさに見てます。が、ここでは書きませんし、きちんと「一企業」として成り立っているのなら私には文句はありません。例えば、立正学園や、駒沢学園などです。

「四課の格言」をご存知?
真言と念仏がごっちゃになってんなら、真言亡国と念仏無間地獄が両方ミックスされてるんだって事です。

皆さんにお願いします。「実体験」をもっと語ってください。
自分が信仰していたら、こんないい事があった、などの「信仰体験」です。
「信仰体験」が無ければ、「生きた宗教」とは言えないと思うのですが・・・

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三吉さんへ(横レスです) Prev: 476 / No: 486
 投稿者:Libra  00/08/30 Wed 12:35:10

> >「四箇の格言」
>
> さて詳しくはしりませんが、これは日蓮さんはこの形では言ってないと主張されて
> いる方にネットでは顕正居士さんがいます。

 「与建長寺道隆書」は偽書だということでしょうか?

  然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈
  迦如来を抛って、他方の仏菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念仏は無間
  地獄の業禅宗は天魔の所為真言は亡国の悪法律宗は国賊の妄説と云云
  (「建長寺道隆への御状」、全集、p. 173)

> 真宗はもともと「末法無戒」を法義とします。破戒ではありません、戒がそもそも
> ないという見解です。だから肉食妻帯もしますし、髪も伸ばします。
> 禅宗や南伝の比丘は真宗の坊さんを出家と認めてません。
> 江戸幕府すら認めてませんでした。そういう法門です。
> 私はよく分かりませんが、法義では「戒」を言いながら、「戒」を守っていず、
> 妻帯されている他宗より正直でよいと思いますが如何?
> あなたがと仲のよかった正宗も妻帯者はおられたのでは?それを知って仲良くされ
>ていたのでは?お爺さんの時代などから、つい10年前まで。

 宗祖は以下のように言われています(前に言ったと思いますが)。

  問う末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や、答えて日く此の義大
  事たる故に経文を勘え出して貴辺に送付す、所謂五品の初二三品には仏正しく戒
  定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又勘ざれば信を以て慧に代え信の一
  字を詮と為す
  (「四信五品抄」、全集、p. 339)

  教大師未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが
  如し此れ誰か信ず可き」云云
  (同上、p. 341)

 我々にとっては「護持正法」が根本の戒ということになります。

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shamonさんへ Prev: 481 / No: 485
 投稿者:Libra  00/08/30 Wed 11:56:54

 shamonさんおはようございます。

> Libraさんは、自ら批判し、健全な批判を歓迎する宣言しているわけです。そ
> のためには話を拡散させずに言及し、その主張を相手に明確にしていく必要が
> あるのは解りますね。論文を見よでは?ですので。

 分かりました。反省します。

> 「仏法(ブッダ・ダルマ)は、現にあるものとし具体的に実在し〜」
> 「具体的に実在している」とは、どのように実在すると考えますか。
 
 僕なりに分かりやすく説明すれば以下のようになります。

   昔、インドに「釈迦」というすばらしい人格の人間が出現されて、その人
  が「縁起」という教説を中心に法を説かれた。そして、それらの教説は大い
  に人々を救い、「仏法(ブッダ・ダルマ)」と呼ばれた。
   釈迦は「わたしによって説かれ、教えられた教法は、わが亡きのちに、汝
  らの師として存するであろう」と遺言されて亡くなられたが、その遺言の通
  り、「仏法(ブッダ・ダルマ)」は現在もなお仏弟子たちによって護持され、
  「師として」人々を救い続けている。「仏法(ブッダ・ダルマ)」は「釈迦
  の精神」そのものであるとも言えるので、「釈迦は仏弟子たちの心の中に現
  在も生き続けている(実在している)」と言うこともできるだろう。
 
> 具体的な実在は、心の中or心の外なのか,あるいは心の中と外に同時なのか、
> ということも合わせて御願いしますね。

 書物としての『法華経』は「心の外」に実在しますが、やはり第一義的には
「『法華経』を護持する人の「心の中」に実在する」と言うべきでしょうね。

 今回は答えになりましたでしょうか?

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川蝉さんへ(3/3) No: 484
 投稿者:Libra  00/08/30 Wed 11:28:51

>>その「人格的な存在」の実体は「Libraが語った言葉」なのではあ
>りませんか?
>
> Libraさんが何か語った後「Libraさんが語った言葉」だけが存在し、
>語ったLibraさんは存在しないと云う事はいえませんね。

 川蝉さんは僕に直接会ってません。ただ僕の発する言葉だけから
「Libraという人格」を構成なさっているはずです。前にも申し上
げたように、僕はすでに死んでいて、代理の人間が今これを書いて
いるかもしれませんよ。

>法華経を説き残し入滅した後も、三身一体の仏として存在し続けると
>云うのが宗祖の強調するところです。Libraさんがこの点を否定する
>から、Libraさんの立場は、宗祖の教示にもとると私は指摘している
>のです。

 「三身一体」とは一体どういう意味でしょうか?
 三身それぞれの差異を無視されるおつもりでしょうか?三身それぞ
れの差異を無視してよいのならば、何故に「報身正意」ということが
主張されなければならないのでしょうか?「相即」というのは「差異
を無視する」ということではないでしょう。

>羅什訳にも、また岩本訳の反拠として前に紹介した南條・泉共訳にも
>「伽耶始成も久遠実成もともに方便であった」旨の訳文など無い事を
>指摘しました。寿量品の全体の趣旨から判じても岩本訳のこの部分の
>訳は至極おかしいものと云わざるを得ません。

 岩本氏は「羅什訳も南條・泉共訳もそのように訳してない」ことは
承知の上で訳されているわけでしょう。羅什訳や南條・泉共訳が正し
くて岩本訳が「至極おかしいもの」であると言われたいのならば、文
法的・語学的にきちんとご説明頂きたく思います。ただ「羅什訳も南
條・泉共訳もそのように訳してない」ということを指摘するだけでは
不十分でしょう。

>>「仏は実在しない」とも言っていません。ただ、「仏菩薩の教
>>導」は“教法を通じて”あるものだし、仏は“教法を護持する仏
>>弟子の心の中に”実在すると申し上げているだけです
>
> Libraさんは始めから他者的・客体的仏として久遠本仏など存在し
>ないと主張しているから、私は法華経や宗祖の教示にもとる考えだ
>と指摘しているのです。

 「他者的」と「客体的」との間の「概念的なズレ」を少しは認識し
て頂きたく思います。『法華経』を通して感じることができる「釈尊
の人格」は確かに「他者的」と言うことができるでしょう。しかし、
だからと言って、釈尊が「客体的生命体」として今も存在し続けてい
るということにはなりません。川蝉さんの心の中に「Libraという人
格」が「他者的」に今存在しているからと言って、「Libraという生
命体」が「客体的」に今も存在し続けているとは限らないのと同じこ
とです。

> 他者的・客体的仏として久遠本仏の存在を認めないし、また影の
>教導、守護、力添えを認めないようなので批判しているのです。

 『法華経』を通して感じることができる「釈尊の人格」が「己心の
釈尊」でしょう。当然、「己心の釈尊」は常に我々仏弟子を見守り、
励まして下さいます。だから我々はどんな困難にも耐えることが出来
ます。しかし、だからと言って「客体的仏として久遠本仏の存在を認
め」なければならないということにはなりません。別の話です。

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川蝉さんへ(2/3) No: 483
 投稿者:Libra  00/08/30 Wed 11:28:18

>確かに「>釈尊の肉身が滅んだのは歴史的事実です」が、
>応身と云う仏格が肉体の消滅と同時に無くなってしまうなどとは法華
>経に説かれていません。

 応身が「有始有終」であることは仏教学の常識ではありませんか?

>> 僕は「無終性」そのものは否定していません。ただし「法脈」
>>として「無終」であると一貫して主張しています。
>
>「法華経と云う経典の形ならびに弘通し身に教説を実践する者達とし
>ての形でしか報身仏は存在しない」と主張し、田村博士の言葉を借り
>れば「因行果徳身として」また「超歴史的にして、しかも歴史的現実
>に活現し、躍動する永遠なる人格的生命体なる存在」としての仏身の
>存続を認めないのがLibraさんの立場ですね。

 繰り返しますが、「報身は有始だが無終である」と僕は言っていま
す。また、「報身は教法であり、衆生を教化する」とも言っています
し、「教法を通じて釈尊の人格にふれることが出来る」とも言ってい
ます。
 田村博士が言われる「超歴史的にして、しかも歴史的現実に活現し、
躍動する永遠なる人格的生命体なる存在」とは

 「教法を通じて釈尊の精神にふれて仏になった人の系譜」
  =「教法(釈尊の精神)を護持する人の系譜」
  =「法脈」

でしょう。僕はずっとそう言ってます。
 すべての仏は「久遠仏」に統一されているのですから、「仏になっ
た人」はすべて「久遠仏」の活現ということです。『法華経』で強調
される「父子の義」から言ってもそのように理解されるべきではない
でしょうか?

>> 宗祖は釈尊を“客体的に”捉えられておられなかったのではな
>>いでしょうか?もちろん宗祖の時代には「西方浄土」や阿弥陀仏
>>が客体的に捉えられてもいましたので、そういう前提で教えを聞
>>く衆生に対してもわかるように法を説く必要性があったとは思い
>>ます。
>
> 宗祖が釈尊を客体的に仰いでいたのは、鎌倉時代の衆生に合わせた
>方便であったという見解ですか?。驚くより外有りません。

 別に驚いて頂いても全然構いませんが、僕の主張を曲解するのだけ
は止めて頂きたく思います。

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川蝉さんへ(1/3) Prev: 479 / No: 482
 投稿者:Libra  00/08/30 Wed 11:27:37

 川蝉さんおはようございます。

 また同じ議論の繰り返しになりそうですね。時間があまりとれないの
でポイントだけのレスになりますがご容赦下さい。レスに不足があれば
ご批判下さい。また補足させて頂きます。

>Libraさんが「仏身は消滅してしまって存在しない。仏は経典と弘宣
>者と云う形でしか存在しない」旨を強く主張するから、

 何度も何度も申し上げた通り、「仏身は消滅してしまって存在しな
い」とは僕は言ってません。「報身は有始だが無終である」と言ってい
ます。言ってもいないことを「主張している」と繰り返し決めつけられ
るのは正直言って迷惑です。止めては頂けないでしょうか?

>> 報身についてはひとまずおくとしても、少なくとも応身は「有
>>始有終」でしょう.釈尊の肉身(色身・生身・現身)が滅んだのは
>>歴史的事実です。田村博士が次のように論述されていることはす
>>でにご紹介致しましたが、もう一度引用させて頂きます。
>
>Libraさんが引証した田村芳朗『法華経』(pp. 93-94)の何処に、
>「日蓮が把握した寿量品の仏は、法身だけが無始無終で、報身は有始
>無終、応身は有始有終の仏格である」などと云っていますか?。

 少なくとも応身は「有始有終」でしょう。「応身は具体性をおびてい
るが有始有終」とあります。
 川蝉さんが引用された田村博士の主張については、本掲示版におい
てもすでにコメントしましたので繰り返しません。

>> 「応身は有始有終、法身は無始無終、両者の長短をおぎなうべく報身
>が立てられるに至ったのである」と云う段階は「いちおうの完成を見
>た」段階であると述べていますね。
> さらに三身観が進展し、宗祖に至っては、寿量品の仏を三身一体の
>永遠の仏と捉えている、すなわち三身共に無始無終の仏と把握したと、
>田村博士は理解されているようですね。

 それは「川蝉さんの理解」であって「田村博士の理解」ではないので
はありませんか?

> Libraさんは田村博士の論述をもって、ご自分の説の正当性を証した
>いようですが、無理のようですね。

 田村博士の論述だけでも僕は十分だと思いますが、川蝉さんが納得さ
れないようなので伊藤教授の論述も引用しておきます。応身は「生じ滅
する、始めがあり終りのある仏」だと言われています。その上で三身相
即の論理から「己心の釈尊」を「無始の古仏」と言われています。しか
も「報身正意」を言われていますから、「三身それぞれの差異」をきち
んと認識されておられますね。

   仏身には三身ということがいわれます。応身(ニルマーナ・カー
  ヤ)と申しますのは、衆生の資質に応じてあらわれた仏で、いわゆ
  る人間釈尊です。それは生じ滅する、始めがあり終りのある仏です
  が、衆生を教化することのできる仏です。法身(ダルマ・カーヤ)
  は法性、真如をいいます。仏のさとりの内容である抽象的な普遍で
  す。それは生ずることなく滅することのない、始めなく終りのない
  理法でありますから、衆生を教化することは出来ません。この応身・
  法身という考え方は、初期仏教の頃からあるものでして、いわゆる
  「われ(色・身)を見るものは法を見る。法(法身)を見るものは
  われを見る」というふうにいわれています。応身の衆生教化と法身
  の無始無終(永遠性)とが合体いたしまして、はじめて永遠に教化
  するという仏の真のイメージがかたちづくられるわけです。それが
  報身(サンボーガ・カーヤ)であります。『法華義疏』には、この
  報身の考え方はまだ出てきておりません。しかしながら釈尊中心の
  思想と法身常存の思想とは報身思想へと帰結するものであるように
  思われるのであります。
   日蓮聖人は『観心本尊鈔』に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至
  所顕の三身にして無始の古仏なり」、『三大秘法鈔』に「寿量品に
  建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来此土有縁深厚、本有
  無作三身教主釈尊也」と述べて、法・報・応の三身の即一にして報
  身に正意のあることを明かすにいたります。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 32-33)

 我々は「釈尊の言葉(教法)」を通じて、いわば時空を超えて、釈尊
の人格にふれることが出来るわけですが、それは「応身」も「無始無終」
であるというようなことを意味しないでしょう。あくまでも教法を通じ
て「其の跡を継紹して其の功徳を受得す」るということでしょう。

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下記に追補 Follow: 485 / No: 481
 投稿者:shamon  00/08/29 Tue 16:24:53

具体的な実在は、心の中or心の外なのか,あるいは心の中と外に同時なのか、
ということも合わせて御願いしますね。

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?? No: 480
 投稿者:shamon  00/08/29 Tue 16:19:35

Libraさんは、自ら批判し、健全な批判を歓迎する宣言しているわけです。そ
のためには話を拡散させずに言及し、その主張を相手に明確にしていく必要が
あるのは解りますね。論文を見よでは?ですので。

「仏法(ブッダ・ダルマ)は、現にあるものとし具体的に実在し〜」
「具体的に実在している」とは、どのように実在すると考えますか。

「実在化しなければならない」について、貴方の引用した伊藤上人の主張は
「妙法(サッダルマ)を抽象的普遍より具体的な普遍へと、真に実在化せし
める」のは、信・行・学の調和だということです。このコメントは参考まで
ですから結構です。上記の問いのみに、まずコメントして下さい。

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Libraさんへ。3/3。 Follow: 482 / No: 479
 投稿者:川蝉  00/08/29 Tue 12:10:55

> 文字通りの意味です。時間が必要ならいくらでも“無制限に”
>ある(あった)ということです。「時間が足りなくて…」という
>言い訳は一切通用しないということです。

「久遠本仏が無始以来、衆生を教化しているならば、いままでの、際限のない時間の中に、全衆生を教化し全てを成仏せしめている筈である。娑婆の浄土化が完成していない事は、無始以来存在する仏などいないと云う事である 」と云う見解のようですね。
衆生無辺誓願度と云う言葉がありますが、なにせ迷いの衆生は多く素直に仏道を行じる者が少ないのでしょう。いくら時間があっても、煩悩罪悪甚重・謗法の衆生も計り知れないほど多いと考えれば「時間が足りなくて…という言い訳は一切通用しない」という断定も出来ないですね。

「一切は現証には如かず」(教行証御書p. 1279)とありますが、
いかに迷いの衆生が多く、教導が困難であることの現証と思いますよ。
涌出品を見ると、本化の菩薩達の数は計り知れないぐらいですね。無始以来の教導の成果を示していると思いますよ。
弥勒菩薩達は、釈尊は今なりたての仏でなく、久遠実成の仏であったと聞いて、本化の菩薩達の数多いことも、むべなるかなと納得したとありますね。Libraさんのような疑問を懐く人が在ることを予想して、凡夫には知り得ないし、凡眼には見えないが、無始以来より無量の救われた人達が居ることを教える教相と思いますよ。

> もしも川蝉さんが言われるように、本当に仏が無限時間をかけ
>て(無始より)「現実社会の浄土化」及び「全員救済」に努めて
>いて、それでもなお成就していないという現実を認めるのだとす
>れば、それは「簡単には成就しない」どころか「永遠に成就しな
>い」ということになるのではありませんか?

そうかも知れません。しかし、少しづつでも「現実社会の浄土化」及び「全員救済」に近づいてゆくことも事実と思いませんか。

>「仏は実在しない」とも言っていません。ただ、「仏菩薩の教
>導」は“教法を通じて”あるものだし、仏は“教法を護持する仏
>弟子の心の中に”実在すると申し上げているだけです

Libraさんは始めから他者的・客体的仏として久遠本仏など存在しないと主張しているから、私は法華経や宗祖の教示にもとる考えだと指摘しているのです。
他者的・客体的仏として久遠本仏の存在を認める立場であったのですか?。
客体的仏として久遠本仏の存在を認め、その上で「仏菩薩の教導は“教法を通じて”あるものだし、仏は“教法を護持する仏弟子の心の中に”実在する」と云う見解ならば、別に批判いたしません。
他者的・客体的仏として久遠本仏の存在を認めないし、また影の教導、守護、力添えを認めないようなので批判しているのです。

「如来の肩に荷擔せらるることを得ん」
「如来則ち衣を以て之を覆ひたもうべし。また他方の現在の諸仏に護念せらるることを為ん」
「如来の手をもって其の頭を摩でたまふを為ん」
「我異国に在りと雖も、時々に説法者をして我が身を見ることを得せしめん」
「変化の人を遣わして之が為に衛護と作さん」
「我その時に為に清浄光明の身を現ぜん」
等との「法師品」の文は、客体的仏が影の教導、守護、力添えしてくれている事を語るものと思いませんか?。

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Libraさんへ。2/3 No: 478
 投稿者:川蝉  00/08/29 Tue 12:09:11

「余国に衆生の恭敬し信楽する者あれば我また彼の中に於いて為に無上の法を説く」
「実には在れども而も滅すと言う・・我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って度づべき所に随って為に種々の法を説く」(自我偈)とあるように、入滅して肉体散じても、常説法教化の仏であるとを語っています。すなわち応身としての働きも途絶えることがないと語っているのです。確かに「>釈尊の肉身が滅んだのは歴史的事実です」が、応身と云う仏格が肉体の消滅と同時に無くなってしまうなどとは法華経に説かれていません。

> 僕は「無終性」そのものは否定していません。ただし「法脈」
>として「無終」であると一貫して主張しています。

「法華経と云う経典の形ならびに弘通し身に教説を実践する者達としての形でしか報身仏は存在しない」と主張し、田村博士の言葉を借りれば「因行果徳身として」また「超歴史的にして、しかも歴史的現実に活現し、躍動する永遠なる人格的生命体なる存在」としての仏身の存続を認めないのがLibraさんの立場ですね。

> 逆にお伺いしたいのですが、“釈尊は客体的に”ではなく、
>我々仏弟子の“心の中に”生きているということを川蝉さんは認
>識されておられるのでしょうか?

他者的存在としての釈尊すなわち釈尊を客体的に仰がれた事は云うまでもないですが、同時に釈尊は、私どもに内具されていると宗祖が教示している事は、宗学を学ぶ者の常識です。本有の十界互具の教説を少しでも学習した者は、誰でも認識していることでしょう。
> 宗祖は釈尊を“客体的に”捉えられておられなかったのではな
>いでしょうか?もちろん宗祖の時代には「西方浄土」や阿弥陀仏
>が客体的に捉えられてもいましたので、そういう前提で教えを聞
>く衆生に対してもわかるように法を説く必要性があったとは思い
>ます。

宗祖が釈尊を客体的に仰いでいたのは、鎌倉時代の衆生に合わせた方便であったという見解ですか?。驚くより外有りません。

>その「人格的な存在」の実体は「Libraが語った言葉」なのではあ>りませんか?
>僕が、「『法華経』が釈尊である」と言ったり、「報身とは教法
>である」と言ったり、「久遠仏とは法脈のことである」と言った
>りするのはそういう意味です。

Libraさんが何か語った後「Libraさんが語った言葉」だけが存在し、語ったLibraさんは存在しないと云う事はいえませんね。

法華経を説き残し入滅した後も、三身一体の仏として存在し続けると云うのが宗祖の強調するところです。Libraさんがこの点を否定するから、Libraさんの立場は、宗祖の教示にもとると私は指摘しているのです。

> 『法華経』には以下のような教示もあります。

岩波版『法華経(下)』に「伽耶始成も久遠実成もともに方便であった」旨の訳文があるから、「常に此にあって滅せず・・凡夫の顛倒せるを為て実には在れども而も滅すと言う」と云う自我偈の文も方便説であって、仏身の常住不滅を語るものでないと云いたいようですね。
寿量品の長行部分をまとめた自我偈に久遠実成は方便であったなどと何処にも語っていないし、いわゆる三誡三請・重誡重請をもって説かれた久遠実成を、実は方便であったなどと寿量品に語るわけはないでしょう。そう思いませんか?。
羅什訳にも、また岩本訳の反拠として前に紹介した南條・泉共訳にも「伽耶始成も久遠実成もともに方便であった」旨の訳文など無い事を指摘しました。寿量品の全体の趣旨から判じても岩本訳のこの部分の訳は至極おかしいものと云わざるを得ません。

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Libraさんへ。1/3 No: 477
 投稿者:川蝉  00/08/29 Tue 12:06:28

Libraさん今日は。

> 川蝉さんは応身も報身も「無始」であると言われたいようです
>が、そういう主張は成り立たないと思います。

Libraさんは始覚即本覚と云う説明を採用すると立場でしたね。
始覚即本覚と云う説明に由れば、悟ってみれば、我は元々(無始より)の仏であったと云う事ですから、三身共に無始であると云うことに成りませんか?。

寿量品の仏は三身一体の無始無終の仏であると宗祖が教示されていると言う事を云いたいのです。
宗祖は、寿量品の仏を三身具足の無始の古仏と捉えていたことは確かです。
Libraさんは宗祖の主張は成り立たないと批判されている事になりますね。この点は如何ですか?。

Libraさんが「仏身は消滅してしまって存在しない。仏は経典と弘宣者と云う形でしか存在しない」旨を強く主張するから、それに対して、涅槃経では、性徳本有の三因仏性から涅槃の常住性すなわち釈尊の未来常住を論じている事を紹介し、仏道修行によって無作本覚三身を顕在化すれば、未来常住・不滅の三身となる。故に、「経典と弘宣者と云う形」以外に、三身即一の仏身・永遠なる人格的生命体が存在すると考えるべきであると云う事を強調しているのです。

> 報身についてはひとまずおくとしても、少なくとも応身は「有
>始有終」でしょう.釈尊の肉身(色身・生身・現身)が滅んだのは>歴史的事実です。田村博士が次のように論述されていることはす
>でにご紹介致しましたが、もう一度引用させて頂きます。

Libraさんが引証した田村芳朗『法華経』(pp. 93-94)の何処に、「日蓮が把握した寿量品の仏は、法身だけが無始無終で、報身は有始無終、応身は有始有終の仏格である」などと云っていますか?。ありませんね。

私も田村教授の「日蓮」(NHKブックス)の文を引証しておきます。
「日蓮は、初期においては諸仏の統一体として、また時空の限定的なわくを突破し、彼此相対をこえて普遍的・絶対的な存在として、永遠の釈迦物を強調した。たとえば『守護国家論』に『本地久成の円仏は此の世界に在せり』と説かれたところである」(67頁)

「観心本尊抄に『我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり』と解説している。・・要は仏の生命は限りなきことをいったものである。・・ここでは久遠釈尊が三身一体の仏なることをいったものである・・・三身一体とは、釈迦が単に永遠な抽象的理法でもなく、またインドに出現して八十歳でなくなった有限な歴史的人物にとどまるのでもなく、超歴史的にして、しかも歴史的現実に活現し、躍動する永遠なる人格的生命体なることをいったものである。ここから進んで、一乗妙法を信じ、久遠釈尊を仰ぎ、それらを心に観ずることによって、ただいまの現実世界の当所に永遠の世界(浄土)が感得されることを主張するにもいたる(略抄)」(124〜5頁)
と述べ、宗祖が三身一体の永遠の仏として捉えていた事を指摘しています。
Libraさんが引証した田村芳朗博士の文に「報身は、いわば普遍的にして具体的なるものである。因行果徳身といわれるゆえんである。仏身論は、三身説が出るにいたって、いちおうの完成を見たといえよう。」
とありますが、報身を因行果徳身と規定している以上は、「法華経経典のみが報身仏である」と田村博士も考えていないことが分かります。
「応身は有始有終、法身は無始無終、両者の長短をおぎなうべく報身が立てられるに至ったのである」と云う段階は「いちおうの完成を見た」段階であると述べていますね。
さらに三身観が進展し、宗祖に至っては、寿量品の仏を三身一体の永遠の仏と捉えている、すなわち三身共に無始無終の仏と把握したと、田村博士は理解されているようですね。
Libraさんは田村博士の論述をもって、ご自分の説の正当性を証したいようですが、無理のようですね。

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おはよ Follow: 486 / No: 476
 投稿者:三吉  00/08/29 Tue 07:26:41

近藤 貴夫さん

こちらこそよろしくお願いします。

納豆弁当さん

>いないみたいですね、退転者は・・・

そうですか、ありがとうございます。

>真宗でも、禅宗でも、私は聞いたことありますよ。法華経を読誦したお葬式を。
>実際にあるんですから、お調べ下さいな。

そうですか、それはひどい話しですね。それともよっぽどの事情があったのでしょ
うね。
ちなみにどこの寺の住職がしたかアップください。調査確認します。

>「四箇の格言」

さて詳しくはしりませんが、これは日蓮さんはこの形では言ってないと主張されて
いる方にネットでは顕正居士さんがいます。
歴史的事実で言うと、1260年7月に北条時頼に対し、立正安国論提出。これは無視
されてます、幕府から。ですが、念仏者に漏れて、8月27日に松葉谷で法難にあった
とされてます。これは私憤ですね。
それを逃れて、下総に落ちつくのですが、1261年5月に鎌倉に出てきます。
これは幕府に訴えるものがあり採用されて「伊豆・伊東」に流されます。
2年で伊豆流罪を許されて故郷に戻ります。1264年10月です。その11月11日に、
地頭東条景信らの念仏者の襲撃を受けます。これが小松原の法難です。
これも幕府は関係ありませんね。
1271年9月12日の龍口の法難・佐渡流罪は、1268年モンゴルの国書到着で、自らの
予言「他国侵ぴつの難」があたっと、力を得て、激烈に他宗批判を展開し出し、
1271年は特に幕府の帰依する真言律宗忍性を激しく攻撃して、再度挑発的に、
立正安国論を提出、逮捕ですね。

>また創価学会についての議論ですから、私達のことも、もっと知って
>頂ければいいんですが・・・。

確かに外からしかしりませんし、偏見は多々あるかと思います。
よろしく教えてくださいな。

>あなたは、「四箇の格言」をご存知なのでしょうか?

「念仏無間。禅天魔。真言亡国。律国賊」でしょ?

>生活の為に幼稚園などを経営するのは果たして宗教者と言えるんでしょうか。

生活の様々のことは「念仏の助業」と法然は言ってますが。
幼稚園・保育園経営は多いですね、真宗は。
真宗系の大学・短大にそういう学科もありますし、かなり親和的ですね。
逆に幼稚園経営者が宗教をやってはいけない理由がわかりませんが。
主旨はお寺が幼稚園を経営したり、駐車場を経営したりすることに疑問を感じられ
ているのですね。何故ですか?
お坊さんはに対するイメージが、インドの遊行者像になってませんか?
真宗はもともと「末法無戒」を法義とします。破戒ではありません、戒がそもそも
ないという見解です。だから肉食妻帯もしますし、髪も伸ばします。
禅宗や南伝の比丘は真宗の坊さんを出家と認めてません。
江戸幕府すら認めてませんでした。そういう法門です。
私はよく分かりませんが、法義では「戒」を言いながら、「戒」を守っていず、
妻帯されている他宗より正直でよいと思いますが如何?
あなたがと仲のよかった正宗も妻帯者はおられたのでは?それを知って仲良くされていたのでは?お爺さんの時代などから、つい10年前まで。

>そして、物事への評価はさまざまなかたちで現れますが、
>その一つが金銭なのですよね。

仏法の価値が金銭で計れるとは私は思ってませんから。
そこは見解の相違です。
「葬儀の時、法華経の値段が一番高いし、一番ありがたい経典だ。」という見解は
正しく仏法に適っているかどうか、創価学会の正式見解やshamon氏、川蝉氏の見解
をお聞きしたいところです。

だとするならば、私はたぶん呆れ果てると思います。

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うん、いないみたい No: 475
 投稿者:納豆弁当  00/08/29 Tue 02:07:36

三吉さんへ

きのう(というか、今朝)レスした後、実家に問い合わせました。
いないみたいですね、退転者は・・・
真宗でも、禅宗でも、私は聞いたことありますよ。法華経を読誦したお葬式を。
私達は、宗門との問題で、「葬儀」や「戒名」、「墓地」等々の問題では勉強させられました。実際にあるんですから、お調べ下さいな。

日蓮大聖人についての議論です(少なくとも私はそう思っています)。また創価学会についての議論ですから、私達のことも、もっと知って頂ければいいんですが・・・。

「四箇の格言」については、幕府も最初から無視していたのかなぁ?それは、伊豆、佐渡への流罪、斬首の座につかれた等々の歴史からも分かると思いますが。

ところで、あなたは、「四箇の格言」をご存知なのでしょうか?

また、生活の為に幼稚園などを経営するのは果たして宗教者と言えるんでしょうか。そして、物事への評価はさまざまなかたちで現れますが、その一つが金銭なのですよね。何をおっしゃるって感じですよ。

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みなさまへ No: 474
 投稿者:Libra  00/08/28 Mon 11:26:39

 急に論文を一本書かないといけなくなりました。下の「shamonさんへ」
を書いてる途中で先生が部屋にきて、突然頼まれた(;;)。

 ということなので、しばらくは留守がちになるかもしれませんが、どう
かご容赦下さい。

 とは言ってもちょこちょこのぞいてしまうんだろうなぁ…

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shamonさんへ Prev: 467 / No: 473
 投稿者:Libra  00/08/28 Mon 11:20:42

 おはようございます、shamonさん。

 またshamonさんの御期待を裏切ってしまったようですね。申し訳ありま
せん。ですが、僕としては「さて、コメントを如何に。 」と言われましたの
で素直にコメントしただけなのです。

> 自分の主張を正当化するため(貴方独自の主観による)文章を引用するだ
> けで、理解を深めるための議論をしないのなら、この掲示板を訪れる理由
> もありません。

 「理解を深めるための議論」になるように以下に改めてコメントを試みて
みます。

> 「仏法(ブッダ・ダルマ)」は哲学的な学と実践的な行において、「現にある
> ものとし具体的に実在し、実在化しなければならない」のみに、率直な貴方の
> コメントを求めます。

 shamonさんが引用されたのは『日蓮精神の現代』の241頁の文章ですね。
それと、これは打ち間違いだと思いますが、正確には「現にあるものとし具
体的に実在し、実在化しなければならない」ではなく、「現にあるものとし
て具体的に実在化するものであり、実在化しなければならない」です。同趣
旨の文章が170頁にもありますね。

   さらに祖文の教示に従うと、宗教が堕落し仏法が滅失するのは、直く
  正しい実践的な(観なる)行と真摯にして哲学的な(教)学とが断絶し
  ているからである、ということになろう。また、行と学との源泉は信心
  であるから、行と学へと結実するものこそ、真実の信心、本化の信とい
  うことにもなろう。行が実践され学が成就されてゆくことにこそ、信心
  あることの但信口唱の一つの大いなる証しがあるということにもなるで
  あろう。そういう活釈こそ今必要なのである。信(シュラッダー)・
  行(プラティパッティ)・学(シクサー)の調和ある進行こそが、仏法
  (ブッダ・ダルマ)すなわち教・行・証を具足する妙法(サッダルマ)
  を抽象的な普遍より具体的な普遍へと、真に実在化せしめるのであり、
  真の宗教を回復せしめて、人間を道徳的本性あるものとして教化し、世
  界を常寂光の本国土妙として浄化するのである。そのダイナミズム(力
  動性)は信心より起こるのである。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 170)

 「信・行・学の調和ある進行」が「仏法」を「真に実在化せしめる」とい
うことですね。逆に言えば、「信・行・学の断絶」によって「仏法が滅失す
る」ということです。つまり、「仏法」は我々仏弟子の主体的な「信・行・
学の調和ある進行」の中で「真に実在化」されるのであって、“客体的に”
(仏弟子が求めようが求めまいがそれ自体として)実在するようなものでは
ないということでしょう。僕はそのように解釈します。

> 文章を引用しておいて盲従するわけではないと言うこと、文章の一部は文
> 章全体の主旨を含蓄するということを弁えないこと、一念三千にも通ずる
> ことです

 この部分はどういうことなのでしょうか?伊藤教授の主張をすべて無条件
に肯定しろということでしょうか?そのようなことは当の伊藤教授の精神に
反します。伊藤教授は「師教に盲従しないということは道理」(p. 115)とも
言われています。 

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三吉さんへ No: 472
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/28 Mon 09:07:18

横レスから始まった議論にさらに感想の横レスです。

私の母校には、大阪の寺社町である天王寺区から程近かった
こともあって、真宗のお寺の子弟の方も結構おられ、その中の
幾人かとは直接談笑する機会がありました。
中には、学生でありながらご僧侶の資格を持っておられ、
いつも腕に数珠を掛けている人も・・・。

それで、三吉さんの議論には、親近感と、うなづけるものを
感じます。
今後とも宜しくお願い致します。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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納豆弁当 さん。詳しい回答ありがとうございます No: 471
 投稿者:三吉  00/08/28 Mon 06:46:45

>横レスはウルサイぞ!!

だったら、メールで議論されてくださいな。(笑)

>私自身は9所帯です。

立派なものです。

>外部の方にはなかなかご理解頂けないようですが・・・

ですね、外部に出すと反批判を食らい、問題があるから正式に出せないのでは?

>決着は付いて無いんじゃないですか?
>だって、お互い身延離山史では一歩も譲りませんから。

お互いが譲らんとは・・決着がつかず平行線ということでは?

>しかし、その後がいけなかったんじゃないかな?

数を増やしただけでいいなら、蓮如の時代でしよう。真宗が繁栄したのは。
学会にある意味似た部分があると思いますがね。

>でも、大聖人御在世当時、「四箇の格言」は無視出来なかったんでしょう。

そう?はじめは無視したのでは?日蓮さんの進言は。

>、「四箇の格言」の二つを使って破折すればいいんじゃないですか?

意味がわかりません。

>皆、生活の為に寺を「経営」しているのにすぎないと思います。

皆ですか?(笑)寺だけで食えんところもありますがね。
真宗の坊主はもともと半僧半俗ですよ。

>それは、葬儀の読経の際、法華経が一番値段が高い、つまり、僧侶であれば法華
>経が最高の経典であると知っているという事実からしてもわります。法華経が最
>高だと知っているのなら、さっさと改宗すればいいのにそれが出来ないという事
>実からもわかると思いませんか?

値段が高いとどーなんですか?ありがたいんですか?(笑)
真宗の葬儀で法華経を頼む方はおらんでしょう(笑)
私は見たことも聞いたこともない。
で、法華経が最高つて、真宗の方は思ってないでしょう。
真実の教典は大無量寿経ではないかな、真宗にとっては。
それと、葬儀は亡くなった方に読経して回向してしてるわけではなく、参集した方
への仏縁として読経している「法と出遭える場」というのが、真宗では建て前でし
ょう。

>何人が真の聖職者なのでしょう

さて、数えたことがありませんから。それにそもそも坊さんを聖職者視する意識は
私にはない。
親鸞は「名字の比丘」つまり名前だけの坊主を世の真宝とせよと云ってますがね。

>あなたは自分の「セクト」に何人の方を「オルグ」されたのか教えて下さい。

私は無セクトですから(笑)。オルグしてませんね。
ただ、18の時、宗教ではありませんが、某団体にいた時は半年で、10人以上して
止める時に、16、7人連れて止めましたが。
まぁ、こんなものは、がきの遊びですが。
そうそう当時、学会の方と議論したことがあります。(笑)。
相手は苦しくなると仏教用語を撒き散らし逃亡されましたね。
当時、仏教用語しりませんので、煙に巻かれてしまいました。(笑)
今なら煙に巻かれないかもしれません。

最後に祖父の代からオルグされた100世帯の方で法華講に行かれた方は誰一人
おられないでのですか?他宗に転宗された方も一人も?

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横レスはウルサイぞ!! No: 470
 投稿者:納豆弁当  00/08/28 Mon 05:52:06

三吉さんへ

私自身は9所帯です。

ちなみにそのうち誰一人として法華講にはいっておりません。
みな、現役バリバリです。

祖父母、両親が折伏した方の中には、
名前は申し上げられませんが、その中には、<県>幹部になられた方や
全国幹部の方もいらっしゃるようです。

「邪宗と他宗」の区別に関しては、私達創価学会の活動家の間では共通した
認識と思われます。これは、文書の形にはなっておりませんので、外部の方
にはなかなかご理解頂けないようですが・・・。

我が家が紹介させていただいた方の折伏数ですか?
それは分かりません。それは、「タテ線」の頃の話も含まれますので・・・
北は北海道、南は鹿児島、海外にも広がっておるようですので。
私の場合は、高校1年生のときにはじめて折伏をさせていただき、家族揃って入会されました。もちろん、両親や地元の方々のご協力があって出来たのですが。そのように考えると、私が折伏させていただいた方は、全て、折伏を実らせていますねぇ。正確には分かりませんが、合計すると20世帯は超えるんではないでしょうか?それは皆さんすべて、部幹部以上に成長されているから分かるんですが。

日蓮宗とですか?
我が家も元は池上本門寺の根檀家でしたからねぇ・・・
決着は付いて無いんじゃないですか?
だって、お互い身延離山史では一歩も譲りませんから。

最澄、空海、法然、親鸞等々の方々はそれはそれはご立派な方々だったのでしょう。しかし、その後がいけなかったんじゃないかな?
日蓮大聖人が「四箇の格言」を唱えられたときは、今のように、宗派が、また教義が入り乱れてなかったじゃないかな・・・。
それは世間は「四箇の格言」を無視しますよ。だって、自分にとって都合が悪いものね。でも、大聖人御在世当時、「四箇の格言」は無視出来なかったんでしょう。
迫害につぐ迫害、そして懐柔策。無視できないが故ですよね。真言の寺で、念仏を唱えたら、「四箇の格言」の二つを使って破折すればいいんじゃないですか?
また、その2万寺のご住職のうち、何人が真の聖職者なのでしょう。皆、生活の為に寺を「経営」しているのにすぎないと思います。それは、葬儀の読経の際、法華経が一番値段が高い、つまり、僧侶であれば法華経が最高の経典であると知っているという事実からしてもわります。法華経が最高だと知っているのなら、さっさと改宗すればいいのにそれが出来ないという事実からもわかると思いませんか?

さて最後に聞きますが、三吉さんあなたは自分の「セクト」に何人の方を「オルグ」されたのか教えて下さい。

うちの祖父も三吉です。なんか、うちのじいさんと議論してるみたいです。

近藤さんへ

お疲れさまでした。大成功に終わられたのですか?
『折伏教典』は人権無視とおっしゃていますね。私も、そのとおりだと思います。
しかし、『折伏教典』が発刊された当時の時代背景も考慮に入れなければならないと思います。だからこそ精神を学ぶべきだと言いたいのです。

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納豆弁当さんへ Prev: 461 / No: 468
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/27 Sun 23:49:47

温かいレスをありがとうございます。
今日は、コーラスのコンサートの本番を終えてきたところ
ですので、また機会を改めてレスを考えさせて頂きたく
思います。ご了承願えますでしょうか。

> さて、私はあの川崎大師の側で生まれ育ちました。

なるほど。そうだったのですか。
私の家の近くにも、地域に根づいた真言の古刹があります。
大本山須磨寺。大師講には参道に出店が並び、たくさんの
人が訪れています。真言のお寺は、入るだけで独特の空気を
感じますね。

さて、
「一人の人間のために」という精神を学会から学ばれて
実践しておられるとして、それは本当に「折伏教典」の中に
あるのですか?
私には、どうにも、同書は、人間の「信念」と「信仰」の
区別すら付いていない、無神経な書のように感じられて
ならないのです。
そして、やっぱり、内容が本質的に改められるべきであった
からこそ、現在は使われていないのだと考えます。

猶、この度、敬愛する従妹の一人が、私たちの<区>の女子部長に
就任しました。我々の親族でも、「孫」の世代の受け止め方は
結局、様々です。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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 Follow: 473 / No: 467
 投稿者:shamon  00/08/27 Sun 21:51:42

Libraさん

自分の主張を正当化するため(貴方独自の主観による)文章を引用するだ
けで、理解を深めるための議論をしないのなら、この掲示板を訪れる理由
もありません。貴方は、創価学会のそういう体質を問題視している非活動
家であったと思いましたが、やはりポーズだけに終わってしまうようで残
念です。伊藤上人の文章を引用して、伊藤上人の主旨に合わない解釈を試
みようとするのならば(文章を引用しておいて盲従するわけではないと言
うこと、文章の一部は文章全体の主旨を含蓄するということを弁えないこ
と、一念三千にも通ずることです)、宗祖の御遺文を引用して、宗祖の主
旨に合わない解釈を主張するのと変わりありません。

「仏法(ブッダ・ダルマ)」は哲学的な学と実践的な行において、「現にある
ものとし具体的に実在し、実在化しなければならない」のみに、率直な貴方の
コメントを求めます。

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shamonさんへ(2/2) No: 466
 投稿者:Libra  00/08/27 Sun 19:56:05

   かくのごとく、流通分十二品は、仏徒の信心修行を説き勧め
  るものであって、いずれの世にもその感化はなかなか深かった。
  とくにその中で普門品第二十五に現れて、仏徒の保護を宣言し
  た慈悲の主観世音菩薩は、ひろく世の尊信を引き、ある時代あ
  る人々は、この一品をもって法華経全体の代表としたくらいで
  あった。しかしながらこれらの信仰は、単に観音またはその他
  流通分の聖者を神霊と仰いで、これを崇拝し、その加護を受け
  ようとするに止まった。いわば受け目の信仰であって、進取能
  動の信仰でなく、敬虔の情に動き、ありがた涙を流す風の崇拝
  にすぎなかった。
  (同上、p. 121-122)

   しかるに流通分十二品に対する日蓮上人の解釈はこれらと趣
  を異にした。流通分に現れた諸聖者が、みずから誓って、法華
  経の信者を保護せんと宣言した、その精神を上人みずからの身
  に体し、その感化を己が一生の原動力として、法華経のために
  奮闘せんとするにあった。常套の崇拝でなくて、感奮の崇拝、
  あるいは熱情と実行との仕合であった。
   これら聖者の跡を文字で見、心でありがたがるだけでなく、
  その宣言と実蹟とを自分みずからの肉と血で読み、また書こう、
  というにあった。これがすなわち「法華経の色読また身読」(
  色とは色身すなわち肉体の義、すなわち現身の生命で実行する
  こと)という意味であった。「法華経の行者」は、じつにこの
  身読主義の実行結果であった。
  (同上、p. 122)

  つぎの問題は、法華経の真理を体験する実行方法いかんという
  ことになる。この問題に対しても、天台大師はじめ諸家おのお
  の種々の見解があり、またその方法修行を試みたのであるが、
  日蓮上人の主義は、文字の法華経に説いてある功徳、光栄、理
  想を、ことごとく自分の生命に実現しようというにあった。こ
  の「法華経色読」主義からいえば、法華経の実体は、これを他
  に求むべきでなく、信者行者みずからがその実体なのである。
   法華経を信ずる者は「即持仏身」であって、一切衆生がすな
  わち妙法蓮華経の当体(実体)である、とくに日蓮はじめ、そ
  の弟子ら、法華経の生命を体現しつつある者が、すなわち法華
  経である。この修行によっていよいよ法華経を信ずる者は、い
  ままで文字や外界のこととして見てきた法華経が自分自身であ
  って、「法華経の功徳」というのは自分みずからの真価であり、
  光栄であることを悟る。
   ここに至って、諸法実相の理も、宝塔や地涌の神変も、如来
  久遠の長寿も弘通の得益も、みな自分みずからの生命にある。
  これが仏法の体験、法華経の実現である。
  (同上、pp. 128-129)

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shamonさんへ(1/2) No: 465
 投稿者:Libra  00/08/27 Sun 19:55:34

 shamonさん、こんばんは。レスが遅れて申し訳ありませんでした。


> Libraさんの尊敬する伊藤瑞叡上人の日蓮精神の現代に次のような一節がありま
> すね。
>
> 聖人に依れば、「信といふは事において誠を致し僻事をなさず心の底に思い解る
> 是なり」とあって、信とは行と智を含む。また仏法(ブッダ・ダルマ)は哲学的
> な学と実践的な行とにおいて現にあるものとして具体的に実在化するものであり
> 実在化しなければならない。
>
> さて、コメントを如何に。

 まず一点確認させて頂きたく思います。確かに僕は伊藤教授をと
ても尊敬しています。しかし、だからといって、伊藤教授が言われ
ることにはすべて盲従するというわけではありません。伊藤教授ご
自身も次のように言われています。

   およそ如何なる疑義といえども多数者の見解や権威の指図に
  よって判断解決されるべきものではないであろう。一般的承認
  を受けている如何なる意見も、理性の被告席での検証なくして
  は維持し難くその真実性は確証し難いからである。まして真の
  知識と真の信仰との一致を強調する仏教のそれについてはなお
  さらのことであろう。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 110)

 さて、本題の、伊藤教授の「仏法(ブッダ・ダルマ)は哲学的な
学と実践的な行とにおいて現にあるものとして具体的に実在化する
ものであり実在化しなければならない」という言葉をどう解釈する
かについてですが、これは、一言で言えば「法華経にならなければ
ならない」ということだと僕は理解します。「法華経になる」とい
うことにつきましては、僕自身、本掲示板においても御書等を引用
しつつすでに詳しく述べましたので、今日は、以前ご紹介した高山
樗牛(「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。
その後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」と言った)の影
響を受けて日蓮信奉者となった姉崎正治の見解を引用して僕のコメ
ントに代えさせて頂くことに致します。

   「法華経の行者」とは何か。ここでこれを解釈するは不可能
  であって、本書一篇がその脚注である。否、上人の活きた人格
  がその説明であり、実証体現である。仏法が仏陀の人格で、活
  きた事実となったごとく、「法華経」は、じつに上人の一生に
  よって、血あり涙ある人間となって、活躍した。これ以外に区
  々の言を連ねる要はなかろう。
  (姉崎正治『法華経の行者 日蓮』(講談社学術文庫)、講談社、
   1983年、p. 13、※引用内容は初刊(1916年)の序言)

   法華本門の肝心、如来長寿の顕示につづいて、後の十二品は、
  だいたいにおいて本仏法門の永遠流通についてのもろもろの勧
  説や実例である。いまかくのごとく、過去の久遠が明らかにな
  ったとともに、未来永遠の法運も保証も得、過去と現在と未来
  とを一貫した三世諸仏一乗の道は、本門の顕示にその根底を明
  らかにした。そこで、真理はかくのごとく久遠不滅でも、これ
  を実行しこれを弘通する人がなくば、法は死法に終る。
   いま釈尊は、その肉親出現の一生においては、この法を躬(
  み)に体現し、法は人の生命となって現れたが、その滅後にも
  またかくのごとき人が代々に現れなければならぬ。すなわち法
  の流通は、人による。この点がとくに日蓮上人の思想と経歴と
  を支配した重大な勢力であって、上人の自覚は、この「人」を
  もってみずから任じ、みずから如来の使者たることを期し、
  「法華経行者」の実を、この流通の事業で実現せんとするにあ
  った。
  (同上、p. 121)

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川蝉さんへ(2/2) No: 464
 投稿者:Libra  00/08/27 Sun 18:53:34

>「>いまだに娑婆は浄土化されていな」くとも、釈尊不滅常住を確
>信してゆくのが、法華経・宗祖の教えを信受する者の立場と思うの
>です。

 僕は「法脈は永遠に続いていく(ただし有始無終)」と申し上げ
ています。「釈尊の精神」は永遠に仏弟子の中で生きつづけるとい
うことです。そのことは全く否定していませんので誤解のないよう
にお願い致します。「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、「正法護持」
の精神に生きるところの「日蓮の弟子」である以上、そのことは当
然でしょう。
 しかし、そういう認識に立った上で、僕は次のように申し上げて
いるのです。すなわち、「いまだに娑婆が浄土化されていない」と
いう現実(現証)は釈尊の教導が“無始以来のものである”という
主張と矛盾する、と。

  一切は現証には如かず
  (「教行証御書」、全集、p. 1279)

  日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文
  よりも現証にはすぎず
  (「三三蔵祈雨事」、全集、p. 1468)

>>現実に、いまだ衆生全体は仏心を顕わしていません。従って、浄
>>土相も顕れていません。この事実(現証)をどう解釈されます
>>か?
>
> 素直に法華経の教説を信受し、如説修行する正信の人がまだまだ
>少ないからでしょう。

 仏が“際限のない時間”をついやしても、それでもまだなお「素
直に法華経の教説を信受し、如説修行する正信の人がまだまだ少な
い」というのは一体どういうことなのでしょうか?「際限のない時
間」という意味はおわかりになりますでしょうか?

> Libraさんの云う「無限時間」という言葉の意味は知りません。

 文字通りの意味です。時間が必要ならいくらでも“無制限に”あ
る(あった)ということです。「時間が足りなくて…」という言い
訳は一切通用しないということです。
 川蝉さんが言われるように、もし、

> 正信の人がすこしづつでも増えていけば、その分だけ浄土に近づ
>いてゆく

のであるならば、「仏の無限時間の教導」を経た現在において、な
ぜいまもなお「仏心を顕現せず、実践しない衆生」が多く存在して
いるのでしょうか?「全員救済」が完成していなければおかしいの
ではありませんか?

 もしも川蝉さんが言われるように、本当に仏が無限時間をかけて
(無始より)「現実社会の浄土化」及び「全員救済」に努めていて、
それでもなお成就していないという現実を認めるのだとすれば、そ
れは「簡単には成就しない」どころか「永遠に成就しない」という
ことになるのではありませんか?

> 教益や擁護教導を有る事を無視して、Libraさんは「仏菩薩の教導
>は無い、効果を上げてない。故に仏は実在しない」と主張したいよ
>うですね。

 いいえ。全く逆です。僕の主張は、「仏菩薩の教導はインド生誕
の釈尊以来、“教法を通じて”現実にあるし、効果も上げているが、
未だ救われていない衆生がまだ存在するのもまた現実である。故に、
“仏菩薩の教導が無始以来のものである”という教説は善巧方便で
ある」というものです。

 ハッキリ申し上げますが、僕は「仏菩薩の教導は無い、効果を上
げてない」とは申し上げておりませんし、「仏は実在しない」とも
言っていません。ただ、「仏菩薩の教導」は“教法を通じて”ある
ものだし、仏は“教法を護持する仏弟子の心の中に”実在すると申
し上げているだけです。このことは本掲示板でのこれまでの議論か
らも明らかだと思います。
 僕は一貫して、「仏は仏弟子の心の中に、そしてふるまいの中に
実在する」と申し上げています。

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川蝉さんへ(1/2) Prev: 454 / No: 463
 投稿者:Libra  00/08/27 Sun 18:53:02

 川蝉さん、こんばんは。レスが遅れて申し訳ありませんでした。

> 法身のみが「無始無終」と云うような「仏身常住思想」でしたら、
> 諸経の常談で、大したことはないと云う事になります。

 川蝉さんは応身も報身も「無始」であると言われたいようですが、
そういう主張は成り立たないと思います。
 報身についてはひとまずおくとしても、少なくとも応身は「有始
有終」でしょう.釈尊の肉身(色身・生身・現身)が滅んだのは歴史
的事実です。田村博士が次のように論述されていることはすでにご
紹介致しましたが、もう一度引用させて頂きます。

  四世紀ごろまでは右のような二身説がつづくが、ヴァスバンド
  ゥ(Vasubandhu 世親 約三二〇ー四〇〇)の『法華経論』に
  は、三身説が見えてくる。応身(ニルマーナ・カーヤ
  nirma[ ̄]na-ka[ ̄]ya)・法身(ダルマ・カーヤ darma-ka[ ̄]ya)・
  報身(サンボーガ・カーヤ sam[.]bhoga-ka[ ̄]ya)の三つで
  ある。応身は具体性をおびているが有始有終、法身は無始無終
  の普遍性にとむが抽象的、そこで両者の長短をおぎなうべく報
  身が立てられるに至ったのである。報身は、いわば普遍的にし
  て具体的なるものである。因行果徳身といわれるゆえんである。
  仏身論は、三身説が出るにいたって、いちおうの完成を見たと
  いえよう。
  (田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、
   pp. 93-94)

> 無始性を語っていないと仮定しても、未来常住・不滅で有ること
>を語っていると云うことですね。

 僕は「無終性」そのものは否定していません。ただし「法脈」と
して「無終」であると一貫して主張しています。

> 「法華経と云う経典の形ならびに弘通し身に教説を実践する者
>達としての形でしか報身仏は存在しない」と云うLibraさんの立場
>と大いに異ることは認識されていますか?。

 逆にお伺いしたいのですが、“釈尊は客体的に”ではなく、我々
仏弟子の“心の中に”生きているということを川蝉さんは認識され
ておられるのでしょうか?

  南無妙法蓮華経と心に信じぬれば心を宿として釈迦仏懐まれ給

  (「松野殿女房御返事」、全集、p. 1395)

  抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と
  申す経文もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にた
  づね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ
  候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄
  其の人の心の内に候、譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆる
  がごとし、仏と申す事も我等の心の内にをはします譬へば石の
  中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はまつげのち
  かきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをは
  しましけるを知り候はざりけるぞ
  (「十字御書」、全集、p. 1491)

 宗祖は釈尊を“客体的に”捉えられておられなかったのではない
でしょうか?もちろん宗祖の時代には「西方浄土」や阿弥陀仏が客
体的に捉えられてもいましたので、そういう前提で教えを聞く衆生
に対してもわかるように法を説く必要性があったとは思います。

> 天台は如来を人格的な存在であると捉えていた

 「人格的な存在」ということの意味については前に詳しく述べま
したので詳細は過去ログを読み返して頂きたく思います。例えば、
川蝉さんは、“Libra”という人格が存在していることを疑っては
おられないでしょう。その「人格的な存在」の実体は「Libraが語
った言葉」なのではありませんか?僕が、「『法華経』が釈尊であ
る」と言ったり、「報身とは教法である」と言ったり、「久遠仏と
は法脈のことである」と言ったりするのはそういう意味です。

> 自我偈に「常に此にあって滅せず・・凡夫の顛倒せるを為て 
>実には在れども而も滅すと言う」と云う説示や、また仏が四依の菩
>薩を使いとして教導すると云う天台や宗祖の教示がある

 『法華経』には以下のような教示もあります。

  善根が乏しくて多くの煩わしい悩みをもっているために、いろ
  いろな意向をもつ人々には、『僧たちよ、余は年若くして出家
  し、間もなくこの上なく完全な「さとり」をさとった』と、こ
  のように語るのだ。従って、如来が『余はこのように久しい以
  前に「さとり」に到達した』と語るのも、『余は最近に「さと
  り」に到達した』と語るのも、人々を成熟させ、かれらに教え
  を会得させるためであって、そのためにこれらの経説が説かれ
  たのである。
  (岩波版『法華経(下)』、pp.17-19)

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納豆弁当さん 横レスです No: 462
 投稿者:三吉  00/08/27 Sun 06:32:32

>合計すると恐らく、100所帯を越えていると思います。

あなた御自身は何人、オルグされたのですか?
そしてそれらの人々は、全員積極的に学会で今もなお活躍されているの?
その100世帯のそれぞれの方は、何人オルグされてます?

それらの方の中で法華講に行かれた方一人もいませんか?

>今は、「邪宗」と「他宗」の区別がはっきりしたので、「四箇の格言」での折伏が
>そんなに行われてないと思います。

それはあなたの中ではの間違いでは?
世間は「四箇の格言」を無視して動いてますで。
念仏は真宗だけで東西併せて、2万寺ありますよ。

で、日蓮宗とも決着はついたと?(笑)

>手法は変わっても、「精神」は死にません。

確かに、論理は「他宗は間違っている。自セクトのみ正しい。」
そのことはあなたの中では変わってないのでしよう。
昔はそれを強引にやったが、そういうやり方は世間からしっぺ返しがあるので、
ソフトに変えたと。でも「他宗は間違っている」という想いは頑固に堅持すると。
恐らく、そこが、総括できてない一番のネックです。

学会の「対話路線」がこの程度ならば、それは「対話」なのだろうか。
うまく行く場合はソフト。失敗すれば牙を剥く。
そういうことになりはしないだろうか?
そもそもはじめから「自分は正しい」という想いに囚われている方に「対話」は可
能なのか。それは徹頭徹尾、「相手は間違っている」だから「説得」するという
スタイルにしかならないのではないか?
「説得」の技法は向上することはあっても、それは真の「折伏」なのであろうか?
端から相手を「無智悪人」「邪智謗法」と決め付けてかかって、それは「対話」と
云いうるのか?
私はそれほど、学会の教義が、仏法理解が優れているとは思わない。

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 Follow: 468 / No: 461
 投稿者:納豆弁当  00/08/27 Sun 00:50:44

近藤さんへ

お返事が送れて申し訳ありません

さて、私はあの川崎大師の側で生まれ育ちました。
私の友達の中には川崎大師の根檀家が多くいました。
その中には一家離散、離婚、長男の早逝してしまうという
家庭が多くありました。
そんな中、我が家では祖父母の代から、随分とそのような方々を
折伏しました。私もです。合計すると恐らく、100所帯を
越えていると思います。その体験から、あの「折伏教典」に書かれている事は
「事実」と言えると確信しております。

こんな事がありました・・・

私の祖父母が折伏した方で、その時は入信されなかったのですが
孫の私の代になって、その方の孫にあたる方、つまり、私の友人を
折伏したんです。その時は、機が熟していたんでしょう、入信されました。
そのあと、ほどなくして、行方不明になっていたおじいさんの行方がわかたんです。そのとき言われました。
「ばあちゃんが言ってたけど、お前のばあちゃん達に折伏された時は『真言亡国』といわれて、腹が立ったけど、たしかにそのとおりだった。今回、じいさんが出てきて分かった」と・・・

今は、「邪宗」と「他宗」の区別がはっきりしたので、「四箇の格言」での折伏が
そんなに行われてないと思います。また、「四箇の格言」に当てはまらない宗教
もあります。しかし、日本にある古来からの宗派には、「四箇の格言」が当てはまりますよね。戸田先生がおっしゃっていた、科学的に統計をとって、どの宗派が
人々を幸せにし、どの宗派が人々を不幸にするかをハッキリさせるべきだという言葉は、草創の頃の学会員に聞けば一目瞭然ですよね。

ところで、1人の人を救うとなると、その人がそれまでに信じていた信仰を改めさせねばなりません。昔は、随分無茶なやり方をした様ですがいまは違います。あくまでもその本人が納得しないと入会には至りませんよね。ですから、真剣勝負なんです。そう言った経験が、あなたにはありますか?この精神も私は「折伏教典」から受け継がれているものと思っています。それは「精神」がです。手法はその時々によって変わるのは当たり前です。手法は変わっても、「精神」は死にません。
それが、今、私たちの若い世代には足らないんじゃないかと思うんです。

近藤さんのお母様は人間革命の途中だったんです。人間誰しも、すぐには変わりません。その事で、あの「折伏教典」を否定するのは大きな間違いだと思います。

以上、長くなりましたがお読み頂ければ幸いです。

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みなさまご無沙汰しています No: 460
 投稿者:Libra  00/08/26 Sat 18:37:24

 みなさまご無沙汰して大変申し訳ありません。

 川蝉さん、骨太さん、shamonさん、レスありがとうございます。

 川蝉さんとshamonさんの今回のご意見につきましては、これまで
もほぼ同様のご意見を頂いていますので、こちらとしましてもまた
同じようにお答えするしかありません。過去ログを読み返して頂く
ようにお願いしたいところですが、それでは失礼かとも思いますの
でまた改めてレスを書かせて頂きたく思います。今時間がとれませ
んが月曜までにはなんとかレスを書くようにしますのでしばらくお
まち下さい。

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おすすめサイト No: 459
 投稿者:ほー  00/08/26 Sat 09:45:54

下記のサイトはおすすめです。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/2739/

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常住 No: 458
 投稿者:shamon  00/08/25 Fri 12:53:04

宗教・哲学に限らず、何の世界においても、良き意味での批判精神は大切なこと
です。しかし、尊敬する人物の言うことは受け入れ易く、その他の意見の違いあ
る者の言うことは受け入れ難いものです。

Libraさんの尊敬する伊藤瑞叡上人の日蓮精神の現代に次のような一節がありま
すね。

聖人に依れば、「信といふは事において誠を致し僻事をなさず心の底に思い解る
是なり」とあって、信とは行と智を含む。また仏法(ブッダ・ダルマ)は哲学的
な学と実践的な行とにおいて現にあるものとして具体的に実在化するものであり
実在化しなければならない。

さて、コメントを如何に。

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もう少し No: 457
 投稿者:骨太  00/08/25 Fri 04:37:55

私の知っている人に「俺は俺の書いた絵で折伏をするんだ」といっている人
もいます。実際してます。すごい絵を書きます。さまざまな広宣流布がある
のだと深く考えさせられる次第です。

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 No: 456
 投稿者:骨太  00/08/25 Fri 04:32:55

お返事ありがとうございます。

>> 私は、学会の中傷はするのに、こちらと会おうともしない法華講員の方に多少
>> こう言う言葉を引かせていただいたことはあります。

> これも以前に三吉さんが指摘されたことですが、相手の怒りに
>対して怒りを投げ返していては何にもなりません。それが釈尊の
>教えです。やはり、言葉を尽くして正しいことを理解してもらう
>努力を粘り強く続けるしかないと僕は思います。
とのことですが、「このままお話をしてくれないと、こうなってしまいま
すけれども、いいんですか?」と引かせていただいたのです。怒りをもっ
て返したというより、「ここまで対話を拒否する人も珍しいな。」といった
気持ちでした。今も対話はつづいています。

>僕にとっての「折伏」とは、こういう開かれた場で仏法対話を
>地道に進めていくことです。こういうと決まって学会の人からは
>馬鹿にされますが(^_^;)。
そんな事はありません。LibraさんにはLibraさんにしか出来ない
広宣流布のすすめ方があると思います。私の基準としては、外にも
できることがあるならば、「どっちも挑戦していこう」と目いっぱ
いやる気持ちがあれば良いのではと私は思っています。
 この気持ちがなければ私自身は「逃避だ。」と自分自身を判断し
ます。ですから私のやる事は私の友人から見ると馬鹿みたいに多忙
なようです。
 しかし「おまえなんでそんなに元気なんだ?」といわれます、そして「そう
いう信心だから」と答えます。私にとっての折伏はもう「元気でいること」
から始まっているのです。「全部やってやる」というところがヘーゲルっぽ
いですが。

 ヘーゲルといえば、彼が大学に入って一番最初に研究したテーマが「どの
ようにして宗教は民衆に根付くのか」ということをユダヤ教をテキストとし
て研究したといいます。彼の目の付け所がすごいなと思います。
 このことを聞いたとき「彼の焦点は民衆にあった」と知ったときは感動を覚
えました。
この民衆に根付く宗教は、根付いてしかも現実に救いきっていける信仰はな
んなのか、哲学はなんなのか、と探求しつづける事がLibraさんにはできるので
はないかと思います。

私は学会活動において「会員さんを守り抜く」ということもわが使命と感じ
ています。その「守る」ということはなんなのかと思索もしています。「本
当に」守るとはなんなのか?
私のテーマです。

おっともうこんな時間。「朝に勝たねば人生に負ける」
というわけでもう寝ます。
なんか取りとめもないのですが、またの機会にもっと書き込ませていただく事
をどうかお許しください。

追記:なんか文字化けがあったようで…読めますよね?

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Libraさんへ。2/2 No: 455
 投稿者:川蝉  00/08/23 Wed 14:14:54

Libraさんへ。続きです。

>もし、川蝉さんが言われるように「人間を超えた仏」が無始以
>来「此土有縁」の状態で衆生を教化しているのであるのならば、
>何故にいまだに娑婆は浄土化されていないのでしょうか?

自我偈に「常に此にあって滅せず・・凡夫の顛倒せるを為て 実には在れども而も滅すと言う」と云う説示や、また仏が四依の菩薩を使いとして教導すると云う天台や宗祖の教示があるのですから、「>いまだに娑婆は浄土化されていな」くとも、釈尊不滅常住を確信してゆくのが、法華経・宗祖の教えを信受する者の立場と思うのです。

>現実に、いまだ衆生全体は仏心を顕わしていません。従って、浄
>土相も顕れていません。この事実(現証)をどう解釈されます
>か?

素直に法華経の教説を信受し、如説修行する正信の人がまだまだ少ないからでしょう。自我偈に「我が浄土は毀れざるに 而も衆は・・憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る・・罪の衆生は 悪業の因縁を以て 阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず」とある通りの「>事実(現証)」だと思います。

>川蝉さんは「無限時間」という言葉の意味を厳密に理解されてお
>られないのではないでしょうか?
>「煩悩罪悪甚重・謗法の衆生」は未来永劫いなくなることはない
>でしょう。現実の社会に浄土相が現れることもないでしょう。そ
>のことを川蝉さんはお認めになりますか?

Libraさんの云う「無限時間」という言葉の意味は知りません。
正信の人がすこしづつでも増えていけば、その分だけ浄土に近づいてゆくと思いますが、仏心を顕現し、実践する衆生がなかなか増加しないのですから、現実の社会に浄土相が現れにくいのは仕方のないことでしょう。現実社会の浄土化は簡単には成就しないことはたしかでしょう。菩薩道を修行できる場(対象たる迷いの衆生のいる場所)が有り続けることも良いのではないかと達観しながら、浄仏国土に参画して行くほか無いですね。

しかし、現実の社会に浄土相が現れにくくても、個々の正信の者の中には、「難来るを以て安楽と意得る」ほどの高い境地に至る人や、仏心を行ずる人も居ましょう。また、いゆる霊山浄土と云う悟界に往けた多くの人も居りましょう。それらの教益を受けた人達を、仏が見守り擁護し、時にはその人達の身の回りの人を通して、それらの人達を教導した事でしょう。
こうした教益や擁護教導を有る事を無視して、Libraさんは「仏菩薩の教導は無い、効果を上げてない。故に仏は実在しない」と主張したいようですね。

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Libraさんへ。1/2 No: 454
 投稿者:川蝉  00/08/23 Wed 14:12:09

Libraさん今日は。

>厳密には、報身は「有始無終」、応身は「有始有終」なので、法
>身のみが「無始無終」ということになると思います。
>三身相即の論理が成立するからと言って、報身が「無始」になる
>わけではないと思います。

法身のみが「無始無終」と云うような「仏身常住思想」でしたら、諸経の常談で、大したことはないと云う事になります。「諸大乗経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」(開目抄・198頁)と教示されているように、法華経は、法身如来(真如)のみが無始無終であると説くだけで無いところに、その特勝性がある事を忘れてはならないものです。
「一代五時鶏図・632頁」には、久成の三身は応身・報身・法身ともに無始無終と図示してあります。また「本尊抄」にも「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」(247頁)とあるので、寿量品の仏を三身具足の無始の古仏と捉えていたことは確かです。この事は認識されていますか?。

始覚即本覚と云う面から考えると、本覚の内容は本有性徳の三身を指しますので、我れ本より三身具足の仏であったと始覚する事ですね。だから、法身のみならず報身・応身とも無始の仏であったと云う事を覚るわけです。

涅槃経では、性徳本有の三因仏性から涅槃の常住性すなわち釈尊の未来常住を論じている事を紹介しました。
涅槃の体を本覚三身の事と仮定すると、涅槃の体すなわち無作本覚三身を仏道修行によって顕在化すれば、未来常住・不滅の三身となると云うことですね。無始性を語っていないと仮定しても、未来常住・不滅で有ることを語っていると云うことですね。
「法華経と云う経典の形ならびに弘通し身に教説を実践する者達としての形でしか報身仏は存在しない」と云うLibraさんの立場と大いに異ることは認識されていますか?。

>そのことには異議はありません。我々仏弟子は仏法を「未来常
>住」たらしめるという重大な任務を釈尊(父)より託されている
>のです。

天台は、仏が四依の菩薩を遣わす旨を説示しているので、三身即一の如来を人格的な存在であると捉えていて事が分かります。
天台の解釈では報身は有始無終すなわち、初めが有っても不滅、すなわち未来常住と云う事は、Libraさんも「>異議はありません」との事ですね。
しかし、Libraさんはその報身を仏法(経典としての法華経)と弘通者・実践者のこととしていますので、Libraさんが「>異議はありません」と云っても、天台の「報身(三身即一)の未来常住」の釈尊観とは、まったく違っているのです。この認識は有りますか?。(つづく)

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骨太さんへ(2/2) No: 453
 投稿者:Libra  00/08/23 Wed 13:45:03

> 感動は日々の学会活動でたくさん得られました、毎日が輝いています。その楽し
> みを、他の人にも得ていただきたい。という思いで今、折伏をしています。行学
> の二道に励んで行きます。

 骨太さんのような学会員がおられるかぎり広宣流布は間違いな
く実現するでしょう。僕も負けないように頑張ります。

> あまり書き込む時間も取りづらいのですがそれでもお相手をしてくだされば光栄です。
> では。

 こちらこそよろしくお願い致します。どうかくれぐれもご無理
をなさらぬように…。

> 皆さんの折伏の体験もお聞きしたいです。(折角「折伏」教典について論じている事ですし)
> お手数おかけしますが…僕もあとで書きます。
> それともこう言うのは駄目ですか?

 全然オッケーですよ。
 僕にとっての「折伏」とは、こういう開かれた場で仏法対話を
地道に進めていくことです。こういうと決まって学会の人からは
馬鹿にされますが(^_^;)。

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骨太さんへ(1/2) No: 452
 投稿者:Libra  00/08/23 Wed 13:44:30

 こんにちは、骨太さん。

> そうですか、総括が必要だと。
> おそらく、言えほぼ間違いなく、修正が始まる時点で総括は「教学部内」では
> 行ったのでしょう。しかし、それを現場にフィードバックして欲しい、とい
> う事でしょうか。それならば僕もして欲しいと思います。

 組織としてどの程度「総括」ができているかは不明です。おそ
らく「教学部内」でもきちんとした形ではなされていないのでは
ないかと推測します(あくまでも推測です)。とはいえ、個人レ
ベルでは、過去の自分自身の解釈を見つめなおして教学を再構築
しようという「修正」がどんどん進んでいると思います。
 松戸行雄さんなどは「修正」の極端な例だと思いますが、教学
部は無視しているように見えます。

> 修正というか、成長とするか。
> 学会の教学は始まってからまだ数十年という事です、浅きを去って深きにつくは
> 丈夫の心ですから、日々議論を続ければ更なる発展もあると思います。というよ
> り何事においても「すべて完成された」、という事は思わないほうが良いと私は
> 考えていますので、それでいいのではないか、と思います。

 全く同感です。

> 新折伏教典というかどうかはわかりませんが、現場レベルで今最も折伏教典的
> 役割を果たしているのは
> 「仏法対話のすすめ」森田康夫著・第三文明社刊
> だと思います。非常にわかりやすく現場で非常に好評です。
> しかしあまりメジャーでない(笑)
> もっと評価されても良い本だとは思いますが。
> 誰かお読みになった事はありますか?

 残念ながら僕は読んだことがありません。今度見かけたら購入
したいと思います。ご紹介ありがとうございました。

> 前回私が谷川さんの言説を持ち出したのは、「批判」を示す為でなく、「教学を
> 深化させようとしていること・を示す為でした。三連徹位していたので、言葉
> の使い方が自分の意図していたものとは違う風にとられてはいまいか?と心配
> しています。

 言葉というのは時に「誤解」を生むものですが、ねばり強く対
話を続ければ必ず「理解」に結びつくものと信じています。僕の
方に誤解があれば是非ご指摘下さい。

> >「自由座談会」の言動について
> あれは私もショックでした。私も口はかなり荒いほうです。(ネットでは別)
> が、新聞紙上であれはすごい。佐藤青年部長などは会合の席上、「あれはひ
> どすぎる」という声が毎日聖教新聞社に届く、と実状を話していました。

 あれはいくらなんでもひどすぎます。また、あれをひどいと感
じない学会員がいることも非常に残念でした。

> しかし、日蓮大聖人も「蝦蟇法師」「愚禿」等と結構ショッキングな発セを御書
> でしていたように思います。(出典示せません、申し訳ありません)
> ということで佐藤さんは「いいんだ」といっていました。(だいぶユーモラス
> でしたが)
> この大聖人がした=自分もしていいという図式は成り立つのでしょうか?

 宗祖は徹底的な「自己批判」の精神をお持ちでした。相手に対
してよりもまず徹底的に自分に厳しい人です。そして他人に対し
ては徹底的に優しい人です。上記の表現も「全員救済」を切望す
る宗祖の大慈悲心の表れです。
 それに対し、「自由座談会」の言動には、「自己批判」の精神
を欠いた「自己肯定」しか感じませんでした。このような「自己
批判」の欠如は、「折伏経典の総括」の問題とも無関係ではない
ように思います。「折伏経典」は内容的にももちろん問題があり
ますが、むしろ問題の本質は、それをきちんと総括できないとい
う「自己批判精神の欠如」にこそあるのではないでしょうか。

> 私は、学会の中傷はするのに、こちらと会おうともしない法華講員の方に多少
> こう言う言葉を引かせていただいたことはあります。

 これも以前に三吉さんが指摘されたことですが、相手の怒りに
対して怒りを投げ返していては何にもなりません。それが釈尊の
教えです。やはり、言葉を尽くして正しいことを理解してもらう
努力を粘り強く続けるしかないと僕は思います。

> 言葉遣いについては何より、忘恩の輩は断じて許せない、そう思います。竹
> 中労はそのYの信仰を「幼児の信仰と言わずして何というか」徹底的にたたい
> ています。私も論陣はこう張るものだ、とも思わせるほどの気迫と情熱でした。

 そのお気持ちは僕も同じです。

> 今度原文を掲載したいくらいです。潮の本社に行って探して来たいです。 

 置時計さんならたぶんお持ちでしょうね。もうご覧になってな
いかしら?

> その学会の方々も折伏教典を読んでいたことだと思われます。言葉遣いについても
> どちらもさまざまな方向から、論ぜられる事とも思いますが、この点紹介したく思
> い書かせていただきました。

 そうですね。「折伏教典」も「広宣流布」を目的として書かれ
た書物であるにはちがいありません。その目的は正しいです。で
すが、目的は直ちに手段を正統化するものではありません。仮に
過去において、「折伏経典」が結果として「広宣流布」の手段と
して有効に作用したことがあるというのが事実であるとしても、
その反面、弊害が指摘されているのもまた事実です。真摯に反省
して、誤っていた部分はきちんと総括しなければならないでしょ
う。

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もう一つ No: 451
 投稿者:骨太  00/08/23 Wed 05:03:09

皆さんの折伏の体験もお聞きしたいです。(折角「折伏」教典について論じている事ですし)
お手数おかけしますが…僕もあとで書きます。
それともこう言うのは駄目ですか?

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すいません No: 450
 投稿者:骨太  00/08/23 Wed 04:57:33

また、長くて解かりずらくなってはいませんか?
ごめんなさい。

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折伏教典 No: 449
 投稿者:骨太  00/08/23 Wed 04:45:53

>Libraさん
ご丁寧なお返事ありがとうございます。
そうですか、総括が必要だと。
おそらく、言えほぼ間違いなく、修正が始まる時点で総括は「教学部内」では
行ったのでしょう。しかし、それを現場にフィードバックして欲しい、とい
う事でしょうか。それならば僕もして欲しいと思います。

修正というか、成長とするか。
学会の教学は始まってからまだ数十年という事です、浅きを去って深きにつくは
丈夫の心ですから、日々議論を続ければ更なる発展もあると思います。というよ
り何事においても「すべて完成された」、という事は思わないほうが良いと私は
考えていますので、それでいいのではないか、と思います。

新折伏教典というかどうかはわかりませんが、現場レベルで今最も折伏教典的
役割を果たしているのは
「仏法対話のすすめ」森田康夫著・第三文明社刊
だと思います。非常にわかりやすく現場で非常に好評です。
しかしあまりメジャーでない(笑)
もっと評価されても良い本だとは思いますが。
誰かお読みになった事はありますか?

前回私が谷川さんの言説を持ち出したのは、「批判」を示す為でなく、「教学を
深化させようとしていること・を示す為でした。三連徹位していたので、言葉
の使い方が自分の意図していたものとは違う風にとられてはいまいか?と心配
しています。

>「自由座談会」の言動について
あれは私もショックでした。私も口はかなり荒いほうです。(ネットでは別)
が、新聞紙上であれはすごい。佐藤青年部長などは会合の席上、「あれはひ
どすぎる」という声が毎日聖教新聞社に届く、と実状を話していました。
しかし、日蓮大聖人も「蝦蟇法師」「愚禿」等と結構ショッキングな発言を御書
でしていたように思います。(出典示せません、申し訳ありません)
ということで佐藤さんは「いいんだ」といっていました。(だいぶユーモラス
でしたが)
この大聖人がした=自分もしていいという図式は成り立つのでしょうか?

私は、学会の中傷はするのに、こちらと会おうともしない法華講員の方に多少
こう言う言葉を引かせていただいたことはあります。

「人格を貶めるような発言はよしたほうがいいのでは」
とも考えましたが、Y元顧問弁護士などはご存知の通り自分から人格を
貶めるよう行動しているとしか思えません。あそこまで言われているの
ですから、Yさんが御自分で反論してもいいのではないでしょうか?
彼が裏切った直後に潮紙上で紙上公開対決をした事があったと思います。
学会側の論士「竹中労」(字があっているかなあ)はYさんをぼこぼこに
論破しています、反論は帰ってきませんでした。竹中労は学会員ではあり
ません。普段学会と付き合いがあるわけでなく、ただ昔近所の学会員に世
話になった。というだけで、自分から「学会側の論陣を張ろう」と言い出し
ました。「私は学会に大恩がある。半年も家賃を滞納している私をとがめ
もせずに気遣いながらも折伏をしに来た大家、腹をすかしているだろうと
ギョーザを差し入れながら私に仏法を語る近所の中華料理屋の主人。私は
学会に大恩がある。今がその恩を返すときだ、と思い立ち僭越ながら私が
学会員の代わりに学会を守らせていただく。」(趣意)
と、その原稿の最後に彼は語ります。わたしは、「折伏教典」が如何に論理
的に幼稚であったとしても、それを読み、必死に彼を救おうとした学会の
草創の方々の労苦は、決意は、その人生はけっして相手に対する失礼など
微塵もなかった。と断言できます。 その思いが、竹中氏を突き動かし、
学会を守ったのだ。と確信します。また余談ですが竹中氏のその行動を聞
いた私は涙があふれてきました。心の底から「かっこいいぜ竹中!!!!男
前だぜ竹中!!!」と感動しました。心底かっこいいと思いました。

言葉遣いについては何より、忘恩の輩は断じて許せない、そう思います。竹
中労はそのYの信仰を「幼児の信仰と言わずして何というか」徹底的にたたい
ています。私も論陣はこう張るものだ、とも思わせるほどの気迫と情熱でした。

今度原文を掲載したいくらいです。潮の本社に行って探して来たいです。 

その学会の方々も折伏教典を読んでいたことだと思われます。言葉遣いについても
どちらもさまざまな方向から、論ぜられる事とも思いますが、この点紹介したく思
い書かせていただきました。

感動は日々の学会活動でたくさん得られました、毎日が輝いています。その楽し
みを、他の人にも得ていただきたい。という思いで今、折伏をしています。行学
の二道に励んで行きます。
あまり書き込む時間も取りづらいのですがそれでもお相手をしてくだされば光栄です。
では。

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Re: 君の折伏精神とは? Prev: 444 / No: 448
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/23 Wed 02:43:45

> 本当に売られてしまったみたいなので買います(爆爆)
>
論争がお嫌いではなさそうですね。
長い論争をするのが本意ではないのですが、折角のご厚意ですので
もう少しお付き合い願います。

> >「折伏教典」に説かれていて、今、維持を叫ばなくてはならない
> >その「精神」というのは、どのようなものを指しておられましょうか
>
> それは、ずばり「折伏精神」です。
> あなたにとって折伏精神とは?

納豆弁当さんにとって、特に「折伏教典」のなかで、
これぞ特筆すべき「折伏精神」の発露だと思われる特徴は
どこですか?
私にとって、その欠如だと思われるのは、きちんとした
論証をせずに、相手を単純化して、決め付けで批判していると
感じられる点です。

折伏はすべて、澄んだ目で事実を見つめて、誠実な
心で行われるのでなくてはならないと思います。
それなのに、相手に対する先入観を植え付けるような
記述をしてはいけませんよね。

私たちの幼い頃、例えば真言宗の人たちは一家の主人が早死に
するなどという評説が広く語り継がれて、知らず知らず
そういう好奇の目を他宗の人に向けてしまったりしたもの
です。それも悲しいことでした。
それ以上に、父が職場に出かけた後、それまで父に反論し
なかった母が、父が悪魔ででもあるかのように、幼い私に
悪しざまに語る様。思い出すだけで息が苦しくなります。

> 1人の人を救った経験はおありですか?
>
あなたにとって、人を救うとはどのようなことでしょうか。
一宗を強く信じて、人をそれに改宗させることですか。
「もっとありそうな真の原因」から、目を背けさせることですか。
そんなことをしなくとも、人は助け合って生きています。
改宗行為の数だけで、人の慈悲を計ろうとするのがそもそもの
間違いかもしれませんよ。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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近藤さん&納豆弁当さんへ No: 447
 投稿者:Libra  00/08/23 Wed 01:47:50

 「ケンカ」という表現はあまりよくないと思いますが、妥協
せずにとことん議論することはとてもすばらしいと思います。
どうぞ納得がいくまでフェアプレイでがんばってください。僕
も参加させて頂きます。

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三吉さん&川蝉さんありがとうございました No: 446
 投稿者:Libra  00/08/23 Wed 01:43:43

 三吉さんのご質問はとてもタイムリーで、かつ、的確に議論の
ポイントを押さえたご質問ですね。それに対する川蝉さんのコメ
ントも完璧だと思います。さすがは川蝉さんだと思いました。
お二人ともさすがですね。
 
 宗祖は「三大秘法」を命がけで広められたわけですね。いうま
でもなく、「三大秘法」は「宗祖の発明」ではなくて、釈尊が末
法の衆生のために『法華経』の文の底に沈めて説きおかれたもの
です(少なくとも宗祖の立場では)。そういう意味では、「文底
下種仏法は釈迦仏法に非らず」という主張は成立しませんね。

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川蝉さん No: 445
 投稿者:三吉  00/08/22 Tue 23:48:57

詳しいご説明ありがとうございましたm(_)m

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君の折伏精神とは? Follow: 448 / No: 444
 投稿者:納豆弁当  00/08/22 Tue 23:16:00

本当に売られてしまったみたいなので買います(爆爆)

>「折伏教典」に説かれていて、今、維持を叫ばなくてはならない
>その「精神」というのは、どのようなものを指しておられましょうか

それは、ずばり「折伏精神」です。
あなたにとって折伏精神とは?
1人の人を救った経験はおありですか?

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三吉さんへ。 No: 443
 投稿者:川蝉  00/08/22 Tue 20:29:27

三吉 さん今晩は。

>この御書(上野殿御返事)の真偽は確定しているのでしょうか?

○興師写本があるので真蹟とされています。
私がSFを見始めた以前の発言なのか、shamonさんの解釈を読んだ記憶がありません。で、shamonの解釈についての感想は述べられません。

「然るにいま末法の時代に入っては、余経は勿論のこと、法華経でさえも、肝心の妙法五字でなければ救済の功徳はない。ただ法華経一部の肝心たる妙法五字だけが真に役立つのである。かかる主張は、日蓮が私見を以て申し出したことでない。これは釈迦・多宝・十方の諸仏や地涌千界の菩薩のご指示に基づくものである。故にこの南無妙法蓮華経の修行に、その他の修行を交えるのは大なる邪行である」
と口語訳されています。

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、」は、

「末法に入なば迦葉、阿難等、文殊、弥勒菩薩等、薬王、観音等のゆづられしところの小乗経、大乗経、並に法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其時上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。」(高橋入道殿御返事・1458頁・真)や

「今の代は外経も小乗経も大乗経も一乗法華経等もかなわぬよとなれり」(減劫御書・1465頁・真)
等と同意義の文と見ます。

詮無き法華経とは、高橋入道殿御返事に有る如く、薬王、観音等のゆづられしところの法華経の法門ならびに行法の事と解釈すべきでしょう。

「処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず。・・天台伝教の如く法のままありとも今末法に至っては去年の暦の如し」(観心本尊得意抄・972頁・真無)
の文も、詮無き法華経とは、天台伝教の法華経理解の法門の事を意味すると云う解釈の助援となります。

もし、法華経そのものが末法に役立たないものであるとしたら、
「寿量品の一品二半は始めより終わりに至るまで正しく滅後衆生の為なり滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」(法華取要抄・334頁・真)
等の(類文他にもあり)法華経は末法の為に説かれたものと云う文や、
「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法、経文の面に現前なり」(撰時抄・272頁・真)
等の(類文他にもあり)最大の深密の正法が法華経に説かれていると云う文は有るはずがありません。

また「観心本尊抄」に一品二半と題目の五字とを相対していますが、在世教法の一品二半と末法下種の五字とは、ともに純円で同じであるが、末法今時は、行法として題目を採ると云う意趣と解釈します。で、一品二半と題目の五字とは同体相異と見るのが日蓮宗のほぼ共通の解釈です。

題目五字は法華経に説示されているものであるし、それ故に法華経は末法の為に説かれた経といえるし、妙法五字は釈尊の因行果徳の功徳体であるし、釈尊の果分を名体宗用教の面から五字に結要したものであると見るので、妙法五字は釈迦仏法の精髄と見ます。

>学会の教義解釈で、「文上脱益仏法」、「文底下種仏法」はこの
>文証にも依拠しているように見えるのですが・・・。

そのようですね。そして「文底下種仏法は釈迦仏法に非らず」と云う主張に持って行くのですね。しかし、「文底下種仏法は釈迦仏法に非らず」と云う学会の教義解釈は容認できません。

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Re: これって売られたケンカ(笑)  Prev: 440 / No: 442
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/22 Tue 12:40:15

> >「折伏教典」は、そこで破折されている諸教団の方々に非礼・失礼
> >だとは感じませんか?
> >相手の議論の機微を汲み取らない破折が、反感を招かないと思いますか?
> >学問的に不正確な言い方をして、誠実だと思うのですか?
> >そうして、結果的に相手が心を動しさえすれば、それでいいと?
>
> 今だからそう感じるんでしょう・・・。

祖父母の世代がどう感じていたかは推し量りきれませんが、
当然、渦中にいる人々には不自然には思われなかったでしょう。
あくまで、当時の書物が書架に残っているのを読んで育った、
母方からいえば三世に当たる者として、その視点からの話です。

「折伏教典」の他にも、「日蓮正宗教学小辞典」や、川田洋一
副会長の若い頃に書かれた「生命哲学入門」など、結果的に
強い反感を感じたり、呆れた書物はいくつかあります。

「折伏教典」に説かれていて、今、維持を叫ばなくてはならない
その「精神」というのは、どのようなものを指しておられましょうか。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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川蝉さん。質問です。 No: 441
 投稿者:三吉  00/08/22 Tue 07:37:25



今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、
但南無妙法蓮華経なるべし、
かう申し出だして候もわたくしの計にはあらず、
釈迦多宝十方の諸仏地涌千界の御計なり」(「上野殿御返事」)

以前、この「栓なし」をSFで、shamon氏は独自に解釈されてたように思います。
あの解釈は通日蓮宗的なのでしょうか?
川蝉さんの訳はいかがでしょうか?
それと、この御書の真偽は確定しているのでしょうか?

学会の教義解釈で、「文上脱益仏法」、「文底下種仏法」はこの文証にも依拠して
いるように見えるのですが・・・。

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これって売られたケンカ(笑) Follow: 442 / No: 440
 投稿者:納豆弁当  00/08/22 Tue 01:19:53

>「折伏教典」は、そこで破折されている諸教団の方々に非礼・失礼
>だとは感じませんか?
>相手の議論の機微を汲み取らない破折が、反感を招かないと思いますか?
>学問的に不正確な言い方をして、誠実だと思うのですか?
>そうして、結果的に相手が心を動しさえすれば、それでいいと?

今だからそう感じるんでしょう・・・。創価学会も変わりましたが、他の教団も
変わってるんじゃないですか?折伏教典は何も、他宗の破折だけが書かれている訳ではありませんし、わたしも言葉が足りなかったかもしれません。私が言いたいのは、あの、「折伏教典」に説かれている精神がまだまだ現場には必要だということなのです。

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近藤さんへ No: 439
 投稿者:Libra  00/08/21 Mon 15:40:34

> 「折伏教典」という本は、とても傲慢不遜な書物のように
> 愚考します。
> 何も知らない子供があれを読んで、痛快な思いをしたとして、
> 人の言うことに謙虚に耳を傾ける気になると思いますか?
> 私事で恐縮ですが、父に哀しい思いをさせた反省上、同書の
> 美化には引っ掛かりを覚えます。
> 折伏にどれだけの力を果たしたにせよ、相当の副作用を
> 生むようにできている本だと思います。

 僕は以前、「自由座談会」の罵倒表現に対して同じような印象を受
け、聖教新聞社に抗議をしたことがあります。仮に、骨太さんが言わ
れるように、『折伏経典』の内容を批判する事が、学会内部で『当た
り前』になってきているのだとしても、やはり「折伏教典の精神」は
亡霊のように今でもまだ生きているということでしょう。真に批判
すべきは悪しき「折伏教典の精神」ではないかと僕は思います。

 骨太さんが紹介して下さった発言によれば、谷川副会長は「折伏教
典」を批判しておられるようですが、「自由座談会」の発言を見るか
ぎりでは、谷川副会長には「折伏教典の精神」が脈々と息衝いている
ように思いました。

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川蝉さんへ No: 438
 投稿者:Libra  00/08/21 Mon 15:40:03

 こんにちは、川蝉さん。

>Libraさんは仏性を正因仏性のみを指すと理解されているようですね。

 そんなことはありません。「如来蔵思想批判の批判的検討」はご覧に
なって頂けましたでしょうか?

>Libraさんの「縁起の法(正因仏性)=法身=真理身は無始真終であ
>るから、真理身(正因仏性)のみが無始無終の仏である」という主
>張は成り立たないと云う事です。

 厳密には、報身は「有始無終」、応身は「有始有終」なので、法身
のみが「無始無終」ということになると思います。
 三身相即の論理が成立するからと言って、報身が「無始」になるわ
けではないと思います。このことについてはすでに本掲示板でも論じ
ましたので詳しくは省略させて頂きます。

> > ですが、『法華経』の久成仏は教相上は「五百塵点劫」に成仏
> >した「有始」の報身仏です。
>
> とのことですが、天台では「五百塵点劫以前」に成仏した仏と見る
>ので、「有始」の報身仏と云う事になっています。ただし、有始無
>終とされています。有始無終と云うことは初めが有っても不滅、す
>なわち未来常住と云う事です。

 そのことには異議はありません。我々仏弟子は仏法を「未来常住」
たらしめるという重大な任務を釈尊(父)より託されているのです。

> > もし、川蝉さんが言われるように「人間を超えた仏」が無始以
> >来「此土有縁」の状態で衆生を教化しているのであるのならば、
> >何故にいまだに娑婆は浄土化されていないのでしょうか?無限時
> >間かけて教化しても浄土化できないということを認めることは、
> >娑婆の浄土化(仏国土建設)そのものの不可能性を認めることに
> >はならないのでしょうか?
>
> 本尊抄に「今本時の娑婆世界は・・」と有るように、仏の報土とし
>ては浄土だと教示されています。衆生全体が仏心を顕せば自ら浄土
>相が顕れると云う事になっていますね。

 現実に、いまだ衆生全体は仏心を顕わしていません。従って、浄土
相も顕れていません。この事実(現証)をどう解釈されますか?

> 人類の知情意の発達段階に応じて、久遠本仏の慈悲が必然的に活動
>始め、ついにはインドに釈尊として現れ仏法特に法華経を説き残し、
>その後、次々と時代に応じて仏使を遣わし衆生教化をなさしめている
>との事ですが、なにせ、煩悩罪悪甚重・謗法の衆生が集まっていると
>ころです。素直に仏法なかんずく法華経の法門を信受してくれない衆
>生が多いところですから、現実の社会に浄土相が現れにくいのは仕方
>のないことでしょう。

 川蝉さんは「無限時間」という言葉の意味を厳密に理解されておら
れないのではないでしょうか?

 もし本当に無始より仏が衆生を教化しつづけていて、なお「煩悩罪
悪甚重・謗法の衆生」がいなくなっていない(全員救済が完結してい
ない)のだとすれば、これからいくら仏が永遠に教化を続けようと、
やはり「煩悩罪悪甚重・謗法の衆生」は未来永劫いなくなることはな
いでしょう。現実の社会に浄土相が現れることもないでしょう。その
ことを川蝉さんはお認めになりますか?

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骨太さんへ No: 437
 投稿者:Libra  00/08/21 Mon 15:39:39

 はじめまして、骨太さん。これからもよろしくお願い致します。

 谷川副会長の発言をご紹介頂きましてありがとうございました。

> 折伏経典に書いてあるような内容がそのまま正しいとは全く
> 思っていないどころか、その内容に対する批判をする事はすでにもう『当
> たり前』といって差し支えないほどのものになっています。
>
> 事実学会ではもう、以前の教学からの修正は始まっています。現場レベルでは
> 当たり前です。(私の地元学生部では。)

 事実上は「以前の教学からの修正は始まって」いるというのはその通
りだと思います。ですが、問題はむしろ、三吉さんがすでにご指摘され
ているように、「以前の教学をきちんと総括していない」ということだ
と思います。

 谷川副会長の発言については近藤さんに対するレスでも少し述べまし
たので参照して頂ければ幸いです。

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納豆弁当さんへ No: 436
 投稿者:Libra  00/08/21 Mon 15:39:10

 はじめまして、納豆弁当さん。これからもよろしくお願い致します。

> こちらの方々には申し訳無いんですが、
> また議論しましょうか?

 ガンガン議論して下さい。僕も勉強になりますので是非ともお願いし
たいです。

>むしろ、私のような庶民に必要なのは「新・折伏教典」ともいうべき、
> 簡略化され、平易な言葉で書かれたものだとおもうのです。
>是非、こちらにいらして議論されている方々で、書いていだきたいと
>も思います。

 そうですね。「新・折伏教典」という名前がいいかどうかは分かりま
せんが、ここでの議論の成果は何らかの形でまとめたいと思っています。
「成果」と言えるだけの「共通了解」はなかなか成立しませんが…。

 僕としては、一日も早く「日蓮法華宗」が団結することを望んでいる
んです。そして他宗を「折伏」しなければならないと。
 「日蓮法華宗」の内部でこぜりあいをするのはもうそろそろおしま
いにすべきだと思います。700年もやったのでもう十分なんじゃないか
と。立教開宗750年を迎えてもまだやり続けるようでは宗祖に顔向けで
きないのではないでしょうか。

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shamonさんへ Prev: 434 / No: 435
 投稿者:Libra  00/08/21 Mon 15:38:30

 こんにちは、shamonさん。

 お忙しい中、書き込んで下さって本当にありがとうございます。

> 仏教で云うところの精神世界と現象世界に関する哲学を勉強されると良いで
> しょう。

 具体的にはどういう人のどういう哲学を勉強すれば良ろしいでしょうか?ご
教示頂ければ幸いです。

> 我々は「教法」にふれることによって、初めて「法」が無始より存在してい
> たことを覚るのです・・なら、法華経の主意にならうものとなります。釈尊
> の実在も、そういうことです。

 「法」は無始より存在しています。しかし、仏教の「教法」がインド生誕
の釈迦によって創始されたことは動きません(教法は有始無終)。

 「教法」を通して我々仏弟子の心の中に「釈尊の精神」が脈々と息衝いて
いるとしても、だからといって「釈尊が無始より存在している」ということ
にはなりません。そこを混同すべきではないというのが僕の主張です。

 高山樗牛は「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。そ
の後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」といわれたそうです。これ
に対して戸田第二代会長は以下のように言われています。

   かの有名な高山樗牛先生が、「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕
  事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」
  といわれたことを記憶している。樗牛先生は偉大な文学者であるだけに、
  私は非常に悩んだものである。もし先生の言葉のごとくならば、平凡な
  我々や犬や猫は永久な生命といえないことになる。よつてこの場合の永
  遠の生命に普遍妥当性がないわけである。長い間本当かウソかと悩みつ
  づけた結果、彼は偉大なる文学者ではあるが、死後の生命に関しては甚
  だ浅薄な考え方であるという結論に達した。
  (創価学会教学部編『折伏経典』、創価学会、1961年[改訂三版]、p. 29)

 僕は戸田先生は偉大な指導者だと思いますが、上の先生の結論には賛成し
ません。むしろ高山樗牛の主張を支持します。

 p.s.
  納豆弁当さんとお知り合いのようですね。納豆弁当さんとの議論が途中
 みたいですが、できればここで続きをやって頂けないでしょうか?
  僕も勉強になりますし、今この掲示板で問題になりつつある「折伏経典」
 の件にも関係するようにも思いますので。
  shamonさんがお忙しい方だというのは僕もよく知っていますのでゆっく
 りで結構なんですが…。

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つまるところ、 No: 434
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/21 Mon 12:37:49

直接に体験した印象も持っていず、先方の主張を理解も
できないのなら、軽々に批判などしてはいけないはずだと
思うのです。倫理的に。
自分だけで批判記事を読んで同意しとくのは、勝手だと
してもですね。

他宗教を<簡略化/単純化して>攻撃する書物を出版して、
その内容を実際に利用させることは、そういう、倫理にもとる
ことを推賞することだと思うのです。

難しい言葉を使うかどうか、とは別な視点からの議論です。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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 No: 433
 投稿者:  00/08/19 Sat 14:16:07


私の感じるには No: 432
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/19 Sat 10:20:53

「折伏教典」という本は、とても傲慢不遜な書物のように
愚考します。
何も知らない子供があれを読んで、痛快な思いをしたとして、
人の言うことに謙虚に耳を傾ける気になると思いますか?
私事で恐縮ですが、父に哀しい思いをさせた反省上、同書の
美化には引っ掛かりを覚えます。
折伏にどれだけの力を果たしたにせよ、相当の副作用を
生むようにできている本だと思います。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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これも横からの感想ですが No: 431
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/19 Sat 09:54:27

重ね重ね変な横レスで失礼します。

> もっともっと現場を見て下さい。あの「折伏教典」を批判するのは
> 簡単かもしれません。でも、現場を見てからにしてください。

「折伏教典」は、そこで破折されている諸教団の方々に非礼・失礼
だとは感じませんか?
相手の議論の機微を汲み取らない破折が、反感を招かないと思いますか?
学問的に不正確な言い方をして、誠実だと思うのですか?
そうして、結果的に相手が心を動しさえすれば、それでいいと?

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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教義の解釈か・・・ No: 430
 投稿者:納豆弁当  00/08/19 Sat 01:03:21

うーん、なるほど。
『折伏教典』に書いてある事は、批判の対象か・・・
しかし、その『折伏教典』で折伏し、またされた方々も居るのも事実。
それは、「解釈」とか「修正」なんて難しいもんじゃないですよ。
昔は、足し算引き算しか出来なかったのが、いまは、方程式や関数が
分かるようになったんで言い方を換えているだけじゃないかな?
昔も今も、創価学会が言い続けてきた事は変わってないと思います。
これは、いい意味でね。

でも、1つだけ言えるのは、いくら難しい言葉で語っても相手には通じない。
つまり「折伏」は出来ないんですよ。
こちらで、いろいろ勉強させて頂いている身で少々生意気かもしれませんが、
私が、折伏を決めた時も、学生部を卒業して男子部として活動させていただくようになった時も、年齢も、仕事も、何もかも違う会員さんの御家庭に伺う時もつくづく感じます。
これは、「教学」を否定している訳では無いんです。
「教学」はとても大切です。
しかし、草創の大先輩方が築き上げた物を、笑いのねたにするのは
どうかと思います。それは、例え学会の中枢にいようが、英知の学生部
だろうがです。それは、私には「傲慢」と映ります。「簡略化し過ぎた」
大いに結構じゃないですか。現場を知らないから言えるんです。
もっともっと現場を見て下さい。あの「折伏教典」を批判するのは
簡単かもしれません。でも、現場を見てからにしてください。
私たちは、東大や慶応や早稲田なんかの卒業生ばかり折伏してる訳じゃないんですから。むしろ、私のような庶民に必要なのは「新・折伏教典」ともいうべき、
簡略化され、平易な言葉で書かれたものだとおもうのです。
是非、こちらにいらして議論されている方々で、書いていだきたいとも思います。

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Libraさんへ。2/2 No: 429
 投稿者:川蝉  00/08/18 Fri 11:17:56

Libraさんへ。続きです。

> もし、川蝉さんが言われるように「人間を超えた仏」が無始以
>来「此土有縁」の状態で衆生を教化しているのであるのならば、
>何故にいまだに娑婆は浄土化されていないのでしょうか?無限時
>間かけて教化しても浄土化できないということを認めることは、
>娑婆の浄土化(仏国土建設)そのものの不可能性を認めることに
>はならないのでしょうか?

本尊抄に「今本時の娑婆世界は・・」と有るように、仏の報土としては浄土だと教示されています。衆生全体が仏心を顕せば自ら浄土相が顕れると云う事になっていますね。
人類の知情意の発達段階に応じて、久遠本仏の慈悲が必然的に活動始め、ついにはインドに釈尊として現れ仏法特に法華経を説き残し、その後、次々と時代に応じて仏使を遣わし衆生教化をなさしめているとの事ですが、なにせ、煩悩罪悪甚重・謗法の衆生が集まっているところです。素直に仏法なかんずく法華経の法門を信受してくれない衆生が多いところですから、現実の社会に浄土相が現れにくいのは仕方のないことでしょう。
自我偈に
「我常に此に住すれども 諸も神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」とありますね。また、
「大智度論巻第九」に「諸仏及び諸菩薩が有るならば、今、この衆生は多く三悪道の中に堕す。いかなる理由があって、来たって救わないのか?」と云う質問を設け、
「衆生は罪重きが故に、諸仏菩薩来たりたまうと雖も見ず。また法身の仏は、常に光明を放ち、常に法を説きたまうも、而も罪を以ての故に見ず聞かず。・・明鏡浄水に面を照らして則ち見るに、垢翳不浄なれば則ち見る所無きが如し」と答えています。
また「大智度論巻第四」に、同様の質問に対し、
「衆生は無量阿僧祇劫の罪垢深厚なり、種々の余福ありと雖も、仏を見たてまつるの功徳無きが故に、仏を見たてまつらざるり」と答えています。

「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都たるべし。我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し」(最蓮房御返事・1343頁・真無)

「もし然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべき歟。」(四条金吾殿御消息・1113頁・真無)
等とあるように、悟者の感受する寂光土観の教示や、また、(Libraさんは後生有ることを否定する立場のようですが)現実社会が浄土相を顕さないうちでも、信心堅固の者は死後には霊山浄土に往詣出来ると云う教示があります。

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Libraさんへ。1/2 No: 428
 投稿者:川蝉  00/08/18 Fri 11:14:36

Libraさん今日は。

釈尊の常住不滅が、単なる神格化だけに由るものでなく、仏性思想を根拠に置いて主張されている事はおわかり頂けましたか?。
「>縁起の法(正因仏性)=法身=真理身は無始真終という立場です。」との事ですが、Libraさんは仏性を正因仏性のみを指すと理解されているようですね。
正・了・縁の三因仏性を、ともに性徳のものとして、その三因仏性をひっくるめて仏性と云うのです。正因仏性のみが無始無終でなく、了因・縁因仏性も本有種子のものとし、もともに本来的に具しているので、了因・縁因仏性も無始無終と云うことになります。
仏性とは本有性徳の三因仏性の事を指すと云う本来の語義を無視し、正因仏性のみを本有性徳であると云う恣意的に理解を基礎にしたLibraさんの「縁起の法(正因仏性)=法身=真理身は無始真終であるから、真理身(正因仏性)のみが無始無終の仏である」という主張は成り立たないと云う事です。

本有性徳の三因仏性が顕現されて、法身・般若・解脱の三徳の涅槃を得る事が出来るとされ、また、法身・般若・解脱の三徳は、不離にして同時で、不縦不横の関係にあり、どれ一つを取っても他の二が含まれている関係とされます。
そう云う事から、横超慧日博士は「国訳一切経涅槃部二」の解説(429頁)において
「仏は、法身の故に無常の肉身でなくて常住であり、解脱の故に楽であり、般若の故に無明に束縛されない自由の大我である。それは清浄にして煩悩の穢れなきものと云うべきである。真の仏は常楽我浄なる三徳涅槃を以て本質とするが故に仏身は常住であると云わねばならぬということであった」と、涅槃経の仏身常住思想の根拠を解説しています。

> ですが、『法華経』の久成仏は教相上は「五百塵点劫」に成仏
>した「有始」の報身仏です。

とのことですが、天台では「五百塵点劫以前」に成仏した仏と見るので、「有始」の報身仏と云う事になっています。ただし、有始無終とされています。有始無終と云うことは初めが有っても不滅、すなわち未来常住と云う事です。

宗祖は「五百塵点劫」を譬え、すなわち、数によって無数を表すものと解釈し、すなわち教相の深意を酌み取り、三身共に無始無終の久成の三身仏と理解していると言うのが現在の宗学者のほぼ共通見解です。
(一代五時鶏図・632頁・本尊抄247頁「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」・開目抄198頁「諸大乗経に・・応身・報身の顕本はとかれず」が根拠)

>教相上の「五百塵点劫」は、一つには、「過去仏思想・他土仏思
>想等を止揚して一切の仏を釈尊に統一する」ための「方便」であ
>るというのが僕の立場です。

釈尊が無始の古仏であることが方便であるとしたら、諸仏を統一する仏であるなどと誇っても、実のない空いばりの経と云う事になりますね。
釈尊の本地が無始の古仏であると云う教示は方便説であると云うLibraさんの見解は首肯できません。

>もう一つは「始覚即本覚」を表現したものであると思います。

五百塵点劫以前と云う無始の昔に、もともと本覚三身の仏であった事を悟ったと云う事であるから、始覚即本覚であると云う解釈説明が、たしかにあります。この場合でも、もともと無作本覚の三身如来であったと云う事で、もともと法身如来のみ・真理身のみであった事を始覚したと云う事ではないのです。
「諸大乗経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」(開目抄・198頁)と教示されているように、法華経は、単なる法身如来(真如)のみの顕本でないところに、その特勝性がある事を忘れてはならないものです。

>「縁起の法」は常住です。それを真理身=法身仏と見れば「仏身
>常住思想」になります。

そのような「仏身常住思想」でしたら、上記の開目抄の文にも有るように、諸経の常談で、大したことはないと云う事になります。
Libraさんの上の見解は、仏性とは本有性徳の三因仏性の事を指すと云う本来の語義を無視した所から、起きる考えのようですね。(つづく)

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折伏経典 No: 427
 投稿者:  00/08/18 Fri 07:57:13

はじめまして「骨太」と申します。
創価学会員です。
この掲示板に書き込みを為される方々はとても博学なようで。とても勉強に
なります。

昔の学会の教義解釈に対する議論が出てきているようですが、折伏経典に対する、
現学会中枢(といっても差し支えはないでしょう)のひとり谷川副会長(前総
合青年部長)のとても興味深い発言がありましたので紹介させていただきます。

「『折伏経典』とかを読んでもどんな思想もなで切り。実存主義なんて半ペー
ジぐらいでもうすっかり(笑い)。おかげで明快に頭に入っていったけれども
(笑い)。学生になっていろんな本を読んでみると、一面は『そんな簡単なも
のではない、これは』となってくる。」教学通信平成12年7月6日

という発言、折伏経典に書いてあるような内容がそのまま正しいとは全く
思っていないどころか、その内容に対する批判をする事はすでにもう『当
たり前』といって差し支えないほどのものになっています。

事実学会ではもう、以前の教学からの修正は始まっています。現場レベルでは
当たり前です。(私の地元学生部では。)

当時いかにして仏道に入らしめんとするかという事を最重要視していたとい
う点を考えると、学会、日蓮仏法に至る道筋を簡略化したほうがわかりやす
いので、あまりに簡略化しすぎた。すると今、このような(昔言ってたこと
云々)問題も出てくるのだと言う一面もあるのだと思います。

「副会長、折伏経典を冗談のねたに」といったことからも、「現在と折伏経典当
時からとでは違ってきている」ということではないのでしょうか。

「先生は、絶待妙というか、最も普遍性のある大聖人の仏法の立場からいろ
んな思想・哲学を位置づけ、どんな人にも理解させられるという事を、今の
学問の成果も取り入れながらどんどん広げておられる。そうしたことができ
るようにならなければいけない、という事に非常に関心があった。」上記の
つづき

谷川副会長の発言をご覧になっての感想をお聞きしたく思います。

ちなみに教学通信とは学生部教学委員会発行の教学機関紙です。(以前は教
学新報でした)

それでは

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はじめまして No: 426
 投稿者:納豆弁当  00/08/18 Fri 01:45:37

はじめまして。

SGIヨコハマからとんできました。
こちらの掲示板では随分難しい議論をされてますね。
私もいろいろ勉強させていただきます。

あぁ・・・shamonさん!
お懐かしいです。
こちらの方々には申し訳無いんですが、
また議論しましょうか?

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 No: 425
 投稿者:shamon  00/08/15 Tue 19:23:28

>釈尊の精神は我々仏弟子の中に生き続けている

仏教で云うところの精神世界と現象世界に関する哲学を勉強されると良いで
しょう。理象即事象、娑婆即常寂光土、釈尊が心中におわすは、現世間にお
わすなりと、御先師方も確かに覚られているのですよ。

>我々は「教法」にふれることによって、初めて「法」を見ることができる
のです。
我々は「教法」にふれることによって、初めて「法」が無始より存在してい
たことを覚るのです・・なら、法華経の主意にならうものとなります。釈尊
の実在も、そういうことです。

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川蝉さんへ No: 424
 投稿者:Libra  00/08/15 Tue 14:20:52

 川蝉さん今日は。ご丁寧なレスありがとうございます。

 これはすでに述べたことなので繰り返しになりますが、僕は「始覚即
本覚」という意味での「本覚思想」を積極的に肯定する立場です。した
がって、「仏性本来具の立場」です(詳しくは「如来蔵思想批判の批判
的検討」を参照して頂ければ幸いです)。したがって、「縁起の法(正
因仏性)」=法身=真理身は「無始真終」という立場です。
 ですが、『法華経』の久成仏は教相上は「五百塵点劫」に成仏した
「有始」の報身仏です。そして、教相上の「五百塵点劫」は、一つには、
「過去仏思想・他土仏思想等を止揚して一切の仏を釈尊に統一する」た
めの「方便」であるというのが僕の立場です。もう一つは「始覚即本覚」
を表現したものであると思います。

>法華経はどう読んでも仏の常住不滅を教示しています。それを信じられ
>ないからとか、我々の五感で認識できないからとか、いわゆる原始仏典
>の記述思想に反するからと云って、法華経の仏身常住不滅の教示を否定
>する立場は、法華経不信の立場であると云わざるを得ないですね。

 僕は、「釈尊の精神は我々仏弟子の心の中に生き続けている」と主張
しています。その意味では「仏身常住不滅」を否定していません。しか
し、インド生誕の釈迦より前に仏教がなかった(仏教はインド生誕の釈
迦によって創始された)のは歴史的事実です。
 もし、川蝉さんが言われるように「人間を超えた仏」が無始以来「此
土有縁」の状態で衆生を教化しているのであるのならば、何故にいまだ
に娑婆は浄土化されていないのでしょうか?無限時間かけて教化しても
浄土化できないということを認めることは、娑婆の浄土化(仏国土建設)
そのものの不可能性を認めることにはならないのでしょうか?

>仏身常住思想を否定することは、はたして釈尊の思想に近いと云えるか
>どうか大いに疑問の在るところです。

 「縁起の法」は常住です。それを真理身=法身仏と見れば「仏身常住
思想」になります。しかし、我々は「教法」にふれることによって始め
て法を見ることが出来るのです。

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近藤 貴夫さんへ Prev: 419 / No: 423
 投稿者:Libra  00/08/15 Tue 14:20:05

 近藤 貴夫さん こんにちは。
 書き込みありがとうございます。

> 「思想の正当性」つまり、本当に学会が正しいかどうか、自分の
> 選択や理解が正しいかどうか、が、心の底から引っ掛かっている時、
> 「それを強いて具体的活動をせよ」というのは、盲信を勧められている
> のと同じ苦痛を感じます。

 そういうこともあるのでしょうね。

 でも僕の場合は「本当に学会が正しいかどうか、自分の選択や理解が正
しいかどうか、が、心の底から引っ掛かっている」というのとはちょっと
違うと思います。傲慢に聞こえると思いますが、僕は「自分の選択や理解
が正しい」と思っていますし、「現在の学会の教義にはあきらかにオカシ
イ部分がある」と思っています。また、「具体的活動をせよ」と言われて
も別に「苦痛」を感じていません。ただ僕は僕のやり方でしっかりやって
いこうと思うだけです。

> ともあれ、仏教学を考えることに日常の思考の大部分を費やすのは、
> 生活全体から見てバランスを欠いたことになりがちですが、苦しい時は
> 「仕方なく」考えさせられる状況もありうるんですよ。
 
 僕の場合は苦しくて「仕方なく」なった時に、まず西洋哲学を勉強しま
した。ニーチェとかフッサールとか。それでかなりおちついて物事を考え
ることができるようになりました。教学を本格的にやりだしたのはその後
ですね。今は楽しくて「仕方なく」考えさせられる状況かもしれません。
 
  仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあら
  んとをもはば父母師匠国主等に随いては叶うべからず是非につけて出
  離の道をわきまへざらんほどは父母師匠等の心に随うべからず、この
  義は諸人をもはく顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう
  (「報恩抄」、全集、p. 293)

  我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過し
  て万歳悔ゆること勿れ
  (「富木殿御書」、全集、p. 970)

> 取り急ぎ大枠の意見で失礼いたします。

 ありがとうございました。近藤さんはサンスクリット語を読まれるんで
すよね。とても羨ましいです。またいろいろ教えて頂ければ幸いです。

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さとるくんさんへ Prev: 420 / No: 421
 投稿者:Libra  00/08/15 Tue 13:01:53

 こんにちは、さとるくんさん。お返事ありがとうございます。そして
レスが遅れてしまったことをお詫びします。メールもありがとうござい
ました。さとるくんさんとはなにか不思議な縁があるのかもしれません
ね(^_^)。

> 「広宣流布」とは ?
> Libra さんのお考えをお聞かせ下さい。

 名誉会長の言葉で言えば、「大仏法の信仰を人類社会に流布すること」
であり、「仏法哲理を時代精神、世界精神たらしめ」ることだと僕は考
えています。

> 「実践なくしてはありえない」とおっしゃっていますよね。
> Libra さんのおっしゃる実践とはなんでしょうか ?

 勤行・唱題は言うまでもありませんが、僕がこのところ力を入れてい
るのは「心から納得するまで教学に励むこと」です。そして勉強して思
ったことをこういう場で話すことです。

> うーん。。。ないとは言いませんが ^^;
> 家庭訪問をして部員さんが発心してくれた喜び。
> 悩んでいる友人に本流出来た喜び。

 そういう歓びを僕は全く否定していませんし尊敬も致します。

> そんな歓喜と比べると、大乗と小乗くらいの差がありますね。

 これはちょっと違うかと思います。教学を学ぶのは、もちろん「自分
自身の歓び」のためでもあるわけですが、最終的には必ず化他につなが
ります。「人に理解させるためには、まず自分が心の底から理解してい
なければならない」ということです。「化他につながらない歓び」など
は「釈迦の精神」を誤解しているのであって、「ウソの歓び」だと僕は
思っています。

> なんの為の教学なのかと言うことです。

 「広宣流布」のためです。

> トルストイの人生論の「粉ひきの男」に似た危惧を憶えます。

 人生論は僕も読みました。

> 教学を研鑽されることに文句を言うつもりはありません。
> ただ、その教学をどう使うのかです。

 こういう「開かれた場」で宗派・組織や信仰・非信仰などの垣根をこ
えて教学を研鑽していくというのはすごく有意義なことだと僕は思って
います。

> 先生の御指導を自分の正当性を訴える為に使うのはおよしなさい。

 僕は名誉会長の指導を「自分の正当性を訴える為に使」ったわけでは
ありません。僕自身が共感を覚えた言葉として、僕の責任で引用させて
頂きました。言うまでもなく、「名誉会長が言っているから正しい」と
は思っていません。同じ内容のことであれば、誰が言ったものであった
としても、僕は「正しい」と思うでしょう。

> 仏法は実践哲学だと考えています。
> 以前Libra さんは、会合にはほとんど参加していないと・・・

 会合にはほとんど参加してません。本幹の同中に行く程度です。です
が、それが直ちに「実践していない」ということになるとは僕は思って
いないということです。

> 実践の伴わぬ教学には、なんの意味もありませんでしょう。
> ネット上で教学を披歴して広宣流布が進むとは思えません。

 僕は「教学を披歴」しているつもりは全くありません。宗論をしてい
るつもりです。「ネット上での宗論」に意義を認めるかどうかという点
で僕とさとるくんさんはすれ違っているのでしょう。これは今後はっき
りしていくと思っています。

> 「人間・池田大作」の中で先生はハッキリとおっしゃっています。
> 創価学会・先生の理念を弘めていくには ? の質問に・・・
> 「時間がかかっても、一対一の対話しかないのです」と・・・

 「ネット上の対話」も「一対一の対話」です。「ネット上の対話」は
確かに「対面」ではありませんが、やはり「一対一の対話」なのです。
それを軽視するのは「言葉の軽視」だと僕は思います。
 我々は『法華経』を通じて釈尊にお会いすることができるのだし、御
書を通じて宗祖にお会いすることができるのです。「仏の言葉(教法)」
を尊信するのが仏教である以上、「言葉の軽視」は「仏教の否定」につ
ながるのではないでしょうか?「以心伝心」とか「教外別伝」とかいう
非仏教的な「体験主義」は、すべて「言葉の軽視」から始まったのでは
ないのでしょうか?

> 教学研鑽に止まらず、大いに動いて下さい。
> 動かないと見えないことが沢山あります。

 そうですね。これはおっしゃる通りだと思います。ですが、僕は僕な
りに考えて動いていこうと思っています。

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 Follow: 421 / No: 420
 投稿者:さとるくん  00/08/14 Mon 19:09:23

初めまして、近藤さん。

>「思想の正当性」つまり、本当に学会が正しいかどうか、自分の
>選択や理解が正しいかどうか、が、心の底から引っ掛かっている時、
>「それを強いて具体的活動をせよ」というのは、盲信を勧められて
>いるのと同じ苦痛を感じます。

盲信を奨励しているつもりはありませんが・・・
僕自身、頭は悪いですが納得出来ないと前に進めぬタイプです。
Libra 氏とは今回が初めてのレスではありません。
まぁプロセスはあったのですが、初めて読まれたら誤解を招いた
かもわかりません。お詫びします。

>私の場合、心の傷の中心が、幼少時の両親の対立(宗教的なものが
>その中心)や、引っ掛かる気持ちを長らく学会員の方々からすくい
>上げてもらえなかったことに起因していたことが、少年期を通じて
>長くあり、この問題には神経質になっています。

それはお気の毒です。
配慮が足りなかったでしょうか。
ネット上での話し合いは相手の人格も見えぬ部分があります。
そうすると、ネット上での教学論議で広布が進むとも思えませんが。

>二乗的と言われることは、学会内では侮蔑的な響きを強く持つので、
>軽々に使わない方がいいかもしれませんね。

少し意地悪な言い方だったかも知れませんね。
この点は、Libra 氏にお詫び致しましょう。

>ともあれ、仏教学を考えることに日常の思考の大部分を費やすのは、
>生活全体から見てバランスを欠いたことになりがちですが、苦しい
>時は「仕方なく」考えさせられる状況もありうるんですよ。

なるほど、説得力のある言葉です。
バランスを欠いていると感じておられることは大切だと思います。
非活動家だとおっしゃっていましたが、活動家ではないですか ?

>取り急ぎ大枠の意見で失礼いたします。

いえいえ、換言承ります。
Libra 氏に関しては、願わくは活動に参加して頂きたいと思います。
盲信的に教学はどうでもいいなどと言うつもりはありません。
ただ、創価学会に在籍しているならば「座談会」「本幹同中」は
是非、参加していただきたい会合です。

僕自身、「座談会」で何度も励まされました。
また、「座談会」で立ち上がった人を沢山存じ上げています。
人を動かさすのは、やはり人です。その人の思いです。
折伏している友人が、最後に決断するのは理屈ではなく、
その人の思いです。このことは確信として申し上げておきます。
Libra 氏には、掲示板でなくメールを送らせてもらおうと思っています。
対決姿勢でなく、対話出来ればと願っています。

また、御意見下さいませ。
ありがとうございました。 ^^;

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Libraさんへのさとるさんの書込みを拝見して Follow: 423 / No: 419
 投稿者:近藤 貴夫  00/08/14 Mon 17:27:20

非活動家の学会男子部在籍者の一人です。

類似の押し問答をしたことがあるので、他人事とは思えません。
ちょっと横から感想をコメントをさせて頂きます。

「思想の正当性」つまり、本当に学会が正しいかどうか、自分の
選択や理解が正しいかどうか、が、心の底から引っ掛かっている時、
「それを強いて具体的活動をせよ」というのは、盲信を勧められている
のと同じ苦痛を感じます。
私の場合、心の傷の中心が、幼少時の両親の対立(宗教的なものがその
中心)や、引っ掛かる気持ちを長らく学会員の方々からすくい上げて
もらえなかったことに起因していたことが、少年期を通じて長くあり、
この問題には神経質になっています。

二乗的と言われることは、学会内では侮蔑的な響きを強く持つので、
軽々に使わない方がいいかもしれませんね。

ともあれ、仏教学を考えることに日常の思考の大部分を費やすのは、
生活全体から見てバランスを欠いたことになりがちですが、苦しい時は
「仕方なく」考えさせられる状況もありうるんですよ。

取り急ぎ大枠の意見で失礼いたします。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

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「縁起」vs.「絶対者」について2/2 No: 418
 投稿者:川蝉  00/08/13 Sun 10:35:42

Libra さんへ。続きです。
「>この世には、そのような無条件にして存するものは一つとしてあらぬ」と云う「縁起」を悟り釈尊は生死有為の存在を解脱したと云う事になっていますね。覚者としての釈尊がその死後にも存在し続けるのか?と云う問題はそうとう早くから関心を持たれていたようです。
スッタニパーターの第四章・五章は特に最古層部分と見られているそうです。五章の学生ウパシーバァの質問に於いて、
「強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火の)数に入らないように、そのように聖者は名と身体から解脱して滅びてしまって(存在する者の)数に入らないのである」との釈尊の言葉に
「滅びてしまったかれは存在しないのでしょうか?或いはまた常住であって、無病なのでしょうか?聖者よ、どうかそれをわたしに説明してください。あなたはこの法則を如実に知っておられるからです。」というウパシーバァの質問に対し
釈尊は「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである」と答えたとあります。
(岩波文庫「ブッダのことば」)
釈尊死後の存在を否定していません。十四置答と同じ応対です。
むしろ「それを測る基準が存在しない」則ち凡智では測り想像する事の出来ない存在態であると云う意向と解釈すべきものでしょう。
また、学生カッパの質問に対し「いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、これが避難所にほかならない。それをニルバーナと呼ぶ。それは老衰と死の消滅である」と云う答えや、また、学生ヘーマカに質問に対し「欲や貪りを除き去ることが、不滅のニルバーナの境地である」と云う答えを見ると、「スッタニパーター」では、釈尊が肉体消滅後には虚無になると云う意向でないことが推測されます。

こうした文が底流となって、涅槃経の
「汝今、如来何れの処に住し、何れの処に行じ、何れの処に見、何れの処に楽しむと思うべからず。善男子、是の如き義も亦、汝らが知り及ぶ所に非らず。諸仏の法身、種々の方便は思議すべからず」(巻第三長寿品)とか、また、
「たとえば聖王、後宮に処在し、ある時は遊観して後園に在り。王、諸々の采女の中に在らずと雖も、また聖王、命終と云うことを得ざるが如し。善男子、如来も亦しかなり。閻浮提界に現ぜず、涅槃の中に入ると雖も、無常と名づけず、如来無量の煩悩を出でて涅槃安楽の処に入り、諸々の覚華に遊びて観娯受楽す」(巻第四四相品)と云う思想として結実しているのでしょう。

立正大教授であった勝呂信靜師が「日蓮思想の根本問題」に於いて、
「原始仏教聖典の思想が大乗のそれよりも歴史的に釈尊の思想に近いということも断定できない。なぜなら原始仏教聖典の全体は出家僧侶によって編纂されたのであるから、その立場からうけとり理解された釈尊の思想を記述したものであって、そのほかに在家信者の層がうけとり理解した釈尊の思想が存在したはずであるが、それはほとんど無視されているとみられる。また聖典編纂にたずさわった出家者の間でも主流派と反主流派のあったことは事実である。第一結集・第二結集の両度ともに一派の人々は主流派に反対して別の経典を編纂したと云われる。この経典がどのようなものであるかは明らかでない。釈尊の説き明かした法は、その表現においては無限の変化・発展をとげながら普遍性を具現しているものである。釈尊の説法のことを対機説法といって、衆生の素質に適応した仕方をもっていろいろに説き示したものとされるが、それは法というものは、衆生のそれぞれの個性に即して異なった様式をもって実現されることを意味すると解される。このことは広くみれば、釈尊の説法が伝承され伝播される過程において、時代、環境の情況に即して変化・発展して表現されることを意味するのであって、これが多くの大乗経典が仏説として編纂されたことの理由であると考えられる。(略抄)」(176〜7頁)
と記述してあります。
いわゆる原始仏教経典の記述思想のみを基準として、法華経や涅槃経の仏身常住思想を否定することは、はたして釈尊の思想に近いと云えるかどうか大いに疑問の在るところです。

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「縁起」vs.「絶対者」について1/2 No: 417
 投稿者:川蝉  00/08/13 Sun 10:31:55

Libra さん今日は。

Libra さんの投稿(「縁起」vs.「絶対者」)に増谷文雄氏の仏教概論の一部分が掲示されましたが、
上記の論説が、法華・涅槃経に有る「釈尊の常住不滅」の教示を否定する論拠になると、Libraさんは思われて掲示されたものと仮定して、一寸述べさせていただきます。

隋の浄影寺慧遠の「大乗義章(巻第十八)」に
「因に従って得る法は悉く是れ無常なり、と経に説かれてあるが、涅槃断徳は修行に由って得たものであるから、本無今有であるし、涅槃の果は因に依って得たのであるから、どうして常と云えようか?。我々が見ることが出来るあらゆるものは悉く無常であると経にあるではないか、どうして涅槃が常と云えようか?。(趣旨)」と云う質問が有ります。この質問は「あらゆるものは縁起所生であるから、仏といえども永遠のもの(常住不滅)であるとは云えない」と云う主張と共通するところがあると思うので、「大乗義章」の答えの部分の要約を次に書いておきます。
「大般涅槃は本より具してしる。今初めて得たものではない。衆生は煩悩を断じ己って、しかして後に涅槃を証得するのであると仏自ら釈している。生死を離れ涅槃を得るのは初めて今であっても、涅槃の体は本より有るのであるから常である」
また、
「衆生は無明、心を覆って涅槃を見ない。後に闇障を除いて始めて涅槃を見るのである。見て始めて有ると云うのではなく、人が眼を治して始めて日月を見るようなものだ。今まで無かったものを始めて見ると云うのではないから、涅槃は常と名づけることを得るのである」
また、
「生死無常の法を断離する故に、常法性をもって体とする故に、常といえるのである」
等と答えています。
「大般涅槃は本より之有り。今に適たるに非らざるなり」
を「仏性を本より具している。持っていない仏性を取りに行くものでない」と云う意味と理解すれば解りよいと思います。
仏性本来具の立場からいえば、道理上、涅槃は常としなければならないと言うのが「大乗義章」の説明です。
仏身常住の思想は単なる希望・空想に由る神格化の結果ではなく、仏性具有の思想にもその根拠を置いていることが「大乗義章」の説明からも推せられます。
涅槃経では仏の常住不滅の理由を「法常なるを以ての故に、諸仏もまた常なり」と説明しています。今ひとつ納得がいかなかったのですが、
「大乗義章」に、涅槃経のこの説明を補釈してありました。
「無始の法性、今の徳を顕成するを、名づけて法常と為し、方便修生の有作の行徳真に依って壊せざるを、名づけて報常と為す」
と説明しています。
達意的に解釈すれば、「涅槃の体は元々あると云うのが無始の真如法性の持ち前である。そのことを法常と云うのである。そのもともと具している涅槃の体を修行によって、涅槃の体を顕す事を、修行の徳に報われた常と云うのである」と解釈して置いて良いだろうと思います。

法華経はどう読んでも仏の常住不滅を教示しています。それを信じられないからとか、我々の五感で認識できないからとか、いわゆる原始仏典の記述思想に反するからと云って、法華経の仏身常住不滅の教示を否定する立場は、法華経不信の立場であると云わざるを得ないですね。

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 No: 416
 投稿者:さとるくん  00/08/13 Sun 00:34:43

こんばんは、Libra さん。

>さて、「学会活動」とは何なのでしょう。「創価学会の目的を
>実現するための活動」=「学会活動」でしょうか。それとも、
>「会合に参加すること等」=「学会活動」でしょうか。僕は前者の
>意味でとらえています。そして、「創価学会の目的」とは「広宣流
>布」だと思っています。もちろん後者は前者に含まれます。

「広宣流布」とは ?
Libra さんのお考えをお聞かせ下さい。
僕にも分かる平易な言葉でお願いします。

>創価学会は、日蓮大聖人の仏法の研鑽と、この大仏法の信仰を人類
>社会に流布することを目的として生まれた団体であります。創価学
>会の使命、そして生命は、この目的への実践なくしてはありえない
>といっても過言ではないでありましょう。
> (池田大作『池田大作選集』、聖教新聞社、1983年、p. 92)

先生の御指導をどのように読まれました ?
「実践なくしてはありえない」とおっしゃっていますよね。
Libra さんのおっしゃる実践とはなんでしょうか ?

>僕は「広宣流布」のために毎日必死で勉強しています。そして、この
>ような場で対話をさせて頂いています。そこには当然歓喜もありま
>す。これは「活動の歓喜」ではないということでしょうか?

うーん。。。ないとは言いませんが ^^;
家庭訪問をして部員さんが発心してくれた喜び。
悩んでいる友人に本流出来た喜び。
そんな歓喜と比べると、大乗と小乗くらいの差がありますね。

>話が難しくなってしまっているのは僕の力不足だと反省しています
>が、やはり納得するまで教学を勉強することは大事だと思います。
>難しいからといって、教学なんてしなくても成仏できるなどとと思
>ってしまっては「信心を捨てるのと同じになってしまう」と思いま
>す。

教学が不要などと言ったつもりはありませんが ^^;
なんの為の教学なのかと言うことです。
トルストイの人生論の「粉ひきの男」に似た危惧を憶えます。

>それでは「解はなくとも信心あるものは成仏すべし」だから、教学
>をしなくとも、信心さえあれば成仏できるのか、といえば、それは
>誤りです。この場合の“解”とは「法門をば解りて」とあるように
>、勉強した結果としての理解や知識を意味します。勉強しようとす
>る情熱、真剣な求道心は、それ自体が信心なのです。したがって、
>この御文から、解はなくてもよいのだなどと考え、教学の求道心を
>忘れたならば、信心を捨てるのと同じになってしまうことを知らな
>ければなりません。 (同上、p. 93)

>「21世紀を背負って立つ」ためには、「仏法哲理」を「まず自分が
>心の底から理解していなければならない」と思います。僕はこういう
>「開かれた場」の中で自分の教学を磨くことが出来ることに今すごく
>歓びを感じています。

先生は色んな角度から、色んな話しをされますよね。
上記の御指導を以て、教学第一などと思わぬことです。
教学を研鑽されることに文句を言うつもりはありません。
ただ、その教学をどう使うのかです。
先生の御指導を自分の正当性を訴える為に使うのはおよしなさい。
先生の御指導から何を感じ取り、どう動くのかか大切だと思いません ?

>まして、この妙法をもって不幸の民衆を救い、仏法哲理を時代精神、
>世界精神たらしめようとする私たちにとっては、現代人にいかにして
>仏法を理解せしめるかが、もっとも重大な課題であります。人に理解
>させるためには、まず自分が心の底から理解していなければならない
>ことは当然でありましょう。人間相互の理解のために、万人が共通す
>る普遍的かつ恒常的な場は理性であり、理性のなかに消化され吸収さ
>れたときに、あらゆる立場の違いを超えて、共通に分かちあえるもの
>となるのです。
>その意味で、私は、広宣流布という、地涌の菩薩として私たちが担
>っている使命と責任を果たしていくためには、強盛な信仰と旺盛な
>求道心がなくてはならない、と訴えたいのであります。
  (同上、pp. 94-95)

先生の御指導を記憶するのではなく、理解と実践を !
仏法は実践哲学だと考えています。
以前Libra さんは、会合にはほとんど参加していないと・・・
実践の伴わぬ教学には、なんの意味もありませんでしょう。
ネット上で教学を披歴して広宣流布が進むとは思えません。

「人間・池田大作」の中で先生はハッキリとおっしゃっています。
創価学会・先生の理念を弘めていくには ? の質問に・・・
「時間がかかっても、一対一の対話しかないのです」と・・・

>ガンガン発言して頂ければ嬉しいです。これからもよろしくお願い
>致します。

若い大切な人材です。
教学研鑽に止まらず、大いに動いて下さい。
動かないと見えないことが沢山あります。
そして、成長されんことを心よりお祈り致します。

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仏教は本来、権威主義の宗教ではなかった No: 415
 投稿者:Libra  00/08/11 Fri 10:10:22

   それについて、まず第一に考えられることは、仏教は本来、権威
  主義の宗教ではなかったということである。この教団においては、
  ブッダといえども、最初に法を知りえた人であるということ以外に
  は、なんの特別の権能も与えられてはいなかった。その点において
  は、ブッダは、イエス・キリストが神の独り子であり、神と人との
  間の仲保者であったのとは、まったく異なる存在であった。一つの
  経(長部経典、一六、大般涅槃経。漢訳同本、長阿含経、二、遊行
  経)によれば、ブッダは、その死のすこし前のこと、侍者の比丘ア
  ーナンダ(阿難)に、つぎのように語ったことがあったと記してい
  る。
   「ではアーナンダよ、比丘教団(僧伽)はわたしに何を待望する
   というのか。わたしはすでに、内外の区別なく、ことごとく法を
   説いたではないか。アーナンダよ、如来の教法には、あるものを
   弟子に隠すというような、教師の握拳(秘密の奥義)はない。ま
   たアーナンダよ、もしわたしが、<われは比丘たちの指導者であ
   る>とか、<比丘たちはわれに依っている>とか思ったならば、
   わたしは、わが亡きのちの比丘たちについて、何かを語らねばな
   らぬだろう。だが、わたしは、比丘教団の指導者であるとも、ま
   た、比丘教団はわたしに頼っているとも思ってはいない。だから、
   わたしは、比丘教団に関して何をか語ろうか」
   それは、ブッダが、雨期に病いを得て、ようやく回復した時のこ
  とであった。その回復をよろこんで、アーナンダがふと口をすべら
  せて、「師はまだ、比丘教団のことにつき、何ごとも仰せられぬの
  だから、まだ大丈夫だ」と思っていましたという。それは、まだ法
  嗣すなわち教団の指導者について遺言がないから、そのまま逝かれ
  るはずはないという意味である。それを聞きとがめて、ブッダは、
  わたし自身だって教団の指導者だと思ったことはないのだよ、と語
  っているのである。では、ブッダは、教団にたいしていかなる地位
  を占める人であるか。なるほど、彼は比丘たちに法を教える。だが、
  法がことごとく説き与えられたうえは、ブッダもまた、比丘たちと
  ともにその道をゆく同行の一人であるというのである。もはや彼は、
  一片の特別の権能を専有することなき、教団の一メンバーにすぎな
  いといっているのである。
  (増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、
   pp. 167-168)

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「縁起」vs.「絶対者」 No: 414
 投稿者:Libra  00/08/11 Fri 10:06:53

  「縁起」というのは、いうまでもなく、訳語にすぎないのであるが、そ
  の訳語のなかにも、この原語のニュアンスはよく保存されている。それ
  をパーリの原語についてみると、「条件による生起」という意味のこと
  ばである。それをこの訳語は「縁起」すなわち「縁りて起る」という意
  味のことばで受けとめている。なかなかの名訳であるといってよかろう
  と思う。
   それは、すでにいったように、ブッダがかの菩提樹のもとにおいて悟
  りえた相対主義の存在論である。ヘラクレイトスは「すべては流れる」
  といった。アリストテレースは「万物は運動においてある」といった。
  ブッダもまた、おなじような生成流転の存在のすがたをみて、存在する
  ものはすべて、しかるべき条件があって生起したものであり、それらは
  また、しかるべき条件がなくなれば、その存在もまたあり得ないものと
  なるとした。かつ、その考え方を、さきのような公式にととのえたので
  あるが、さらに、その存在論を表現すべき名称をもとめるにいたって、
  「条件による生起」もしくは「縁りて起る」という意味をもって、
  ‘pat.iccasamuppa ̄da’すなわち訳して「縁起」ということばが選
  ばれたものと知られるのである。
   そのような存在論は、とうぜん、絶対なるもの、永遠なるもの、無条
  件なるものを容れることができない。絶対者(the absolute)とは、他
  者よりまったく独立に、それ自身において存立し、いささかも他によっ
  て制約されざるものをいうことばである。それを、いまブッダの思惟の
  形式と表現にひきつけていうならば、条件なしに存在するもの、無制約
  的に存在するものなのであるが、この世には、そのような無条件にして
  存するものは一つとしてあらぬというのが、ブッダの所見である。かの
  樹下に端坐して思惟するブッダのまえに、その真相を露呈した「万法」
  は、そのようなものであった。存在するものはすべて、しかるべき条件
  があって生起したもの、つまり「縁りて起れる」ものであったのである。
  (増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、
   pp. 62-63)

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さとるくんさんへ Prev: 412 / No: 413
 投稿者:Libra  00/08/11 Fri 09:59:07

 さとるくんさん、おはようございます。
 おひさしぶりですね(^_^)。SF研ではお世話になりました。
 いらして頂いて光栄です。

> その後、学会活動で汗を流す気にはまだなれませんか?

 さて、「学会活動」とは何なのでしょう。「創価学会の目的を実現する
ための活動」=「学会活動」でしょうか。それとも、「会合に参加するこ
と等」=「学会活動」でしょうか。僕は前者の意味でとらえています。そ
して、「創価学会の目的」とは「広宣流布」だと思っています。もちろん
後者は前者に含まれます。

   創価学会は、日蓮大聖人の仏法の研鑽と、この大仏法の信仰を人類
  社会に流布することを目的として生まれた団体であります。創価学会
  の使命、そして生命は、この目的への実践なくしてはありえないとい
  っても過言ではないでありましょう。
  (池田大作『池田大作選集』、聖教新聞社、1983年、p. 92)

> 難しい話しより、活動の歓喜ある話しを聞きたいもんです。
> 21世紀を背負って立つ青年部の皆さんには。。。

 僕は「広宣流布」のために毎日必死で勉強しています。そして、このよ
うな場で対話をさせて頂いています。そこには当然歓喜もあります。これ
は「活動の歓喜」ではないということでしょうか?
 話が難しくなってしまっているのは僕の力不足だと反省していますが、
やはり納得するまで教学を勉強することは大事だと思います。難しいから
といって、教学なんてしなくても成仏できるなどとと思ってしまっては
「信心を捨てるのと同じになってしまう」と思います。

   それでは「解はなくとも信心あるものは成仏すべし」だから、教学
  をしなくとも、信心さえあれば成仏できるのか、といえば、それは誤
  りです。この場合の“解”とは「法門をば解りて」とあるように、勉
  強した結果としての理解や知識を意味します。勉強しようとする情熱、
  真剣な求道心は、それ自体が信心なのです。したがって、この御文か
  ら、解はなくてもよいのだなどと考え、教学の求道心を忘れたならば、
  信心を捨てるのと同じになってしまうことを知らなければなりません。
  (同上、p. 93)

 「21世紀を背負って立つ」ためには、「仏法哲理」を「まず自分が心の
底から理解していなければならない」と思います。僕はこういう「開かれ
た場」の中で自分の教学を磨くことが出来ることに今すごく歓びを感じて
います。

   まして、この妙法をもって不幸の民衆を救い、仏法哲理を時代精神、
  世界精神たらしめようとする私たちにとっては、現代人にいかにして
  仏法を理解せしめるかが、もっとも重大な課題であります。人に理解
  させるためには、まず自分が心の底から理解していなければならない
  ことは当然でありましょう。人間相互の理解のために、万人が共通す
  る普遍的かつ恒常的な場は理性であり、理性のなかに消化され吸収さ
  れたときに、あらゆる立場の違いを超えて、共通に分かちあえるもの
  となるのです。
   その意味で、私は、広宣流布という、地涌の菩薩として私たちが担
  っている使命と責任を果たしていくためには、強盛な信仰と旺盛な求
  道心がなくてはならない、と訴えたいのであります。
  (同上、pp. 94-95)

> また、お邪魔してもいいですか ? ではでは。。。

 ガンガン発言して頂ければ嬉しいです。これからもよろしくお願い致し
ます。

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おひさしぶりです ^^; Follow: 413 / No: 412
 投稿者:さとるくん  00/08/11 Fri 00:34:35

Libraさん、おひさしぶりです ^^;
SF研以来ですが・・・
その後、学会活動で汗を流す気にはまだなれませんか?
難しい話しより、活動の歓喜ある話しを聞きたいもんです。
21世紀を背負って立つ青年部の皆さんには。。。
また、お邪魔してもいいですか ? ではでは。。。

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m-floさんへ(Re: うーーーん??) Prev: 409 / No: 411
 投稿者:Libra  00/08/10 Thu 09:46:35

 m-floさんはじめまして。これからもよろしくお願いします。

> なんか、リンクしてきちゃったけど、なんか難しい(分からない)
> お話とおもちゃッたです。

 そうですか。反省します。分かりやすく自分の意見を述べるのって本当に
難しいですね。これからがんばって修行します。

> みんな日々前進でがんばりましょーーーー!!

 そうですね。この一点さえ肝に銘じていれば、小難しい話などは不要なの
かもしれませんね(^_^)。なんかCCさくらの主題歌「プラチナ」を思い出し
ました。鳥たちは風にのって今日から明日へと旅をしていくっていう。ちな
みに僕はケロちゃんの大ファンです。

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Shigeへ(Re: 初めてだ・・・) Prev: 408 / No: 410
 投稿者:Libra  00/08/10 Thu 09:35:09

 おはよう!Shige

> (考えてみれば)初めて書き込みます(一回くらいはね)

 おいおいこれで最後かよ(涙)。でもオレは嬉しいよ。

> 本来のほうに影響出ないように、ほどほどにね。

 最近また影響が出つつあるので反省して気を引き締めます。
 忠告ありがと。

 また「てろてろ」の方に書き込むね。

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うーーーん?? Follow: 411 / No: 409
 投稿者:m-flo  00/08/10 Thu 01:31:04

なんか、リンクしてきちゃったけど、なんか難しい(分からない)
お話とおもちゃッたです。
みんな日々前進でがんばりましょーーーー!!

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初めてだ・・・ Follow: 410 / No: 408
 投稿者:Shige  00/08/09 Wed 23:52:57

(考えてみれば)初めて書き込みます(一回くらいはね)
HAPPY RUNRUNにリンク貼ってたので来てみました。
また怒涛の書き込みやってたんだね、気づかんかった・・・
本来のほうに影響出ないように、ほどほどにね。

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魯の人さんへ Prev: 404 / No: 407
 投稿者:Libra  00/08/09 Wed 12:39:07

 魯の人さん こんにちは。

> ちょっと、気になったのでしゃしゃり出てきました。

 ありがとうございます。お忙しいと思いますがこれからもどんどんご意見を
頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。

> 釈尊においては、金ぴかに祭り上げられた釈尊の否定は今も昔も変りません。

 ええ。僕も「神格化された釈尊」は否定します。そのことは中村博士や増谷
氏の説を引用して強調してきたつもりです。

> 今、我々のうちで展開されているのは、人の側面からも、歴史上の釈尊の振る舞
> いに光をあてていこうということです。
> その時、釈尊と日蓮大聖人との間に御振る舞いの一致、或いは相通ずるものを見
> 出すことができるというのが我々の立場です。

 人間・釈迦、人間・日蓮をそのまま仏とみるということだと僕は理解してい
ます。

> ともかく、我々は、金ぴかの釈尊や絶対神のごとき日蓮、および神話としての法
> 華経は、どこまでも否定していくつもりです。

 『法華経』はシンボリズムで構成されていますので、その教相をその通りま
にうけるということを僕は否定します。その意味では観心主義者ということに
なるでしょう。しかし、あくまでも教相に即した観心でなければならないと思
っています。

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三吉さんへ Prev: 403 / No: 406
 投稿者:Libra  00/08/09 Wed 12:17:30

 三吉さんこんにちは。

> 1総括なしの修正は、また元に戻る可能性がある。

 そうですね。総括は必要です。

> 2機関紙で仏典散策を載せたとして、それがどの程度の意義をもつのか不明。

 僕は毎週楽しみにしてますよ。とても勉強になります。

> 3釈尊へ帰れと言う時の釈尊観が不明。

 人間・釈尊だと思います。

> 厳しい見方をすれば、総括なしの現状は一時的な誤魔化しなのか、本気なのか、
> 私には判定不能です。

 これからハッキリしていくと思います。

> それと真面目に釈尊自身に、しかも比丘の教法に溯れば、学会の教義・・・
> 現世利益とは矛盾するように愚推します。

 「善巧方便」として「現世利益」を言うことは、本質的には矛盾しないと僕
は思っています。これは最終的には「功徳」というものをどう捉えるかという
問題になりますね。

> ですから、紹介もつまみ食いしか無理なのでは・・・。

 これも今後ハッキリするでしょう。

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文底さんへ Prev: 402 / No: 405
 投稿者:Libra  00/08/09 Wed 12:05:15

 文底さんこんにちは。

 ご丁寧なレスありがとうございました。
 僕なんかまだまだ不勉強でどうしようもありませんが、これからも
いっしょに勉強させて頂ければ幸いです。

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末法無益 Follow: 407 / No: 404
 投稿者:魯の人  00/08/09 Wed 11:59:01

Libraさん 今日は。

魯の人です。
ちょっと、気になったのでしゃしゃり出てきました。

「法華経や釈迦は末法無益」の解釈や展開はちょっと違うと思います。
質的側面が無視されています。
学会で使っている「法華経や釈迦は末法無益」の意味は
信仰対象として文上の法華経や脱仏としての釈尊を無益であり、用いないとしま
すが、
三大秘法の南無妙法蓮華経の立場から法華経そのものは序分とし、流通分として
昔から活用しています。
戦後の再建期に戸田氏は法華経講義から始めましたし、昭和36年には創価学会
から法華経開結が発行されています。

釈尊においては、金ぴかに祭り上げられた釈尊の否定は今も昔も変りません。
富士教学においては、昔から、蔵、通、別、法華経迹門、法華経本門、法華経本
門文底の釈尊と釈尊を六種に立て分けています。

これは、法の側面からの釈尊の捉え方ですが、
今、我々のうちで展開されているのは、人の側面からも、歴史上の釈尊の振る舞
いに光をあてていこうということです。
その時、釈尊と日蓮大聖人との間に御振る舞いの一致、或いは相通ずるものを見
出すことができるというのが我々の立場です。

ともかく、我々は、金ぴかの釈尊や絶対神のごとき日蓮、および神話としての法
華経は、どこまでも否定していくつもりです。

多忙なもので、中々書き込めませんが、
また、書きますので、以上ごめんください。

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Libraさん。 おはよ Follow: 406 / No: 403
 投稿者:三吉  00/08/09 Wed 07:15:48

>しかし、やはり事実としては“修正してきている”のです

1総括なしの修正は、また元に戻る可能性がある。
2機関紙で仏典散策を載せたとして、それがどの程度の意義をもつのか不明。
3釈尊へ帰れと言う時の釈尊観が不明。

厳しい見方をすれば、総括なしの現状は一時的な誤魔化しなのか、本気なのか、
私には判定不能です。
あなたが歓迎されているのはよくわかりますが・・・。

それと真面目に釈尊自身に、しかも比丘の教法に溯れば、学会の教義・・・
現世利益とは矛盾するように愚推します。
ですから、紹介もつまみ食いしか無理なのでは・・・。

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Libraさんへ Follow: 405 / Prev: 395 / No: 402
 投稿者:文底  00/08/09 Wed 01:13:27


Libraさん

何時も御丁寧なレスありがとうございます。
私の愚問に対し、真摯的且つ具体的レス感謝致します。

>「全称命題に於いて批判的な立場ではない」という表現の意味がよく分からないのでご説明頂ければ幸いです。

回りくどい言い方で申し訳ありません。
「全称」とは、定言的「命題」の中で、主語のさし示す外延全体について、肯定的または否定的な事例を例外なく断定する命題のもつ文章の事です。
ですから、私が述べたかったのは「日蓮仏法の教義を批判するだけの、対象となる教義内容を、私自身が検証しきっていない」と言う事です。


>>創価学会の教義的バックボーンから生まれた認識の上での御発言と考えますが、違いますでしょうか?

>さてどうでしょうか。それは読者のみなさまの判断にゆだねたいと思います。
>僕は組織としては創価学会に所属していますが、日蓮法華宗の一員であるという自覚に立って発言しています。

仰るように、Libraさんの御発言の推移を拝見させて頂いていると、確かに、その御自身の思考の手順は一元的ではありません。
ですから、自分の思い込みのみで「創価学会的教義」と言う問い掛けをしたのは「不適切であった」と反省しております。

何れにせよ、この掲示板はLibraさんをはじめ、皆さん大変博学であり、理知的で真摯的発言が多いので、私自身勉強になります。
また、愚問を投げかける事などあるかも知れませんが、その時は宜しくお願い致します。

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頑迷な心を捨てる〜「智慧の泉─仏典散策─」より〜 No: 401
 投稿者:Libra  00/08/08 Tue 16:37:00

   あるとき、異教徒が集まって、怪談や王族のうわさ話などの雑談に耽(ふけ)
  っていた。
   釈尊の弟子、アーナンダが通りかかると、異教徒たちはおしゃべりをやめた。
   ひとりがアーナンダに近づくと、まじめな顔をして「あなたの師(釈尊)の
  教えを聴(き)きたい」と請うた。
   アーナンダは言った。
   「師は、真理を得ることができない四種の似非(えせ)宗教者がいる、と常
  々語っています。
   一番目は、『私はすべてを知っている』とうぬぼれ、犬にかまれても、『私
  はかねてから、こういう目に遭(あ)わねばならない運命であると予言してい
  た。その予言どおりになった。すごいものだろう』と負け惜しみを言う人。
   第二は、その宗教の伝統をそのまま鵜呑(うの)みにする人。長年、習慣と
  なった伝統を検討せずに、そのまま信じ込むのです。
   第三は、理論や理屈を玩(もてあそ)ぶ人。もちろん、その理論が正しい場
  合もあれば、そうでない場合もあります。それを謙虚に検討せずに、そのまま
  信じ込むのです。
   四番目は、何か質問されたとき『そうであるとも言えるし、そうでないとも
  言える』などと、曖昧(あいまい)な態度ではぐらかす人です。
   これに対し、真の宗教者は、振る舞いを律し、虚言を捨て、真実を語り、信
  頼され、人を中傷せず、愛情に満ちた、人の心に響く言葉を語る人、そのよう
  な人こそが、真の宗教者なのです」
   (マッジマ・ニカーヤ)
                 ◇◆◇
   この四種の「似非宗教者」は、具体的には修行などはそっちのけで雑談に耽
  っていたこのときの異教徒に対する批判ですが、いつの世の自称「宗教者」た
  ちに対しても、共通する批判といえるでしょう。
   「私はすべてを知っている」とうぬぼれ、犬にかまれるなどの災難にあって
  も、「予言が当たった」などと負け惜しみを言う似非宗教者。その姿はこっけ
  いそのものです。
   また、伝統には、時代の変化とともに変わらねばならない部分と、変わらな
  い部分とがあります。伝統をすべて正しいとして無批判に鵜呑みにすることは
  似非宗教者であるのです。
   また、逆に自分の考えだけが正しいとして理屈をこね、人の意見を聞こうと
  もしないのも、似非宗教者です。
   また、世の中に確固たる真理はないとして、すべてに曖昧な姿勢をとるのも
  似非宗教者であると、アーナンダは言います。
   これらの似非宗教者に共通なことは、「謙虚な求道心の欠如」でしょう。真
  の宗教者は、閉ざされた頑迷な心を捨て、自らを律し、真実を何より尊び、他
  者に対しては愛情と尊敬心をもって接するのです。
  (「智慧の泉─仏典散策─」、『聖教新聞』2000年8月2日、p. 7)

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