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「われを善き友として」〜増谷文雄『仏教概論』より〜 No: 400
 投稿者:Libra  00/08/08 Tue 15:49:38

   「われを善き友として」
   ここに、わたしは、もう一つ、「善き友のあつまり」という規定をもっ
  て、仏教の性格を規定してみようと思う。それは、いうまでもなく、サン
  ガ(sam.gha,僧伽)すなわち教団の側面からみた仏教のありようを言表
  しようとするものである。
   ブッダはその教団を「サンガ」(僧伽)ということばで呼んだ。それも
  また、はなはだ味わいふかいことばであるが、それはすでに当時の外道の
  指導者たちが、その率いる弟子たちの集団をいうにもちいたことばであっ
  た。経のなかにも、外道の指導者を語って、しばしば「サンガ(僧伽)を
  もち、ガナ(gan.a,衆)をもち」という句があらわれてくる。さらにいえ
  ば、それらの用語は、いずれも、衆議によって国事を決定する政体、すな
  わち共和制の政体における政治的集会をいうことばであった。ブッダがそ
  の一つ、サンガということばをもって、その教団を呼んだのは、そこでは
  すべての者が平等であることにおいて、両者が相通ずるものであったから
  にちがいない。一つの経(増支部経典、八、一九、波呵羅。漢訳同本、増
  一阿含経、四二、四、須倫)は、そのことについて、つぎのような有名な
  一節をしるしのこしている。
   「たとえば、もろもろの大河あり。いわく、ガンガー(恒河)、ヤムナ
   ー(夜摩那河)、アチラヴァティー(阿夷羅跋堤河)、サラブー(舎労
   浮河)、マヒー(摩企河)なり。それらは、大海にいたれば、さきの名
   をすてて、ただ大海とのみ号する。それとおなじく、クシャトリヤ(刹
   帝利)、ブラーマン(婆羅門)ヴァイシャ(吠舎)、シュードラ(首陀
   羅)の四姓あり。彼らは、如来所説の法と律とにおいて、家よりいでて
   出家すれば、ただ沙門釈子とのみ号する」
   インドはカースト(caste)の国である。彼らが家にあった頃には、家
  柄というものがあり、血統というものがあった。その厳重なさだめが彼ら
  をがんじがらめに束縛していた。だが、ひとたびこのブッダの教団に入れ
  ば、それらの束縛する要素はことごとく払拭せられて、すべての者がまっ
  たく平等にされる。そのさまは、あたかも、もろもろの大河が海に注ぎ入
  ってしまうと、もはや、その名を失なってしまって、ただ大海とのみ称せ
  られるに似ているというのである。そのように、ブッダの教団においては、
  すべての者がまったく平等であって、階級もなく、統率する者もなく、ま
  た、統率される者もなかった。ブッダその人さえも、その中にあっては、
  そのメンバーの一人にすぎなかった。
   むろん、この教えは、ブッダと称せられるこの人によって悟られ、この
  人によって人々に教示せられたものである。もしも、この人がこの世にい
  でて「さとり」を成就せず、さらに、起ってこの法を説かなかったならば、
  人々はついにこの法を知らず、この道をゆくものと成り得なかったであろ
  う。仏教そのものがこの地上にあり得なかったわけである。その意味にお
  いて、彼はまさしく仏教の教祖である。だが、さきにも言ったように、ブ
  ッダは、そのほかには、なにか神的属性を有するとか、救済の権輿を与え
  られたとか、そのような特別の存在ではなかった。彼もまた、法の証知と
  実証という一本の道を、みなと一緒に歩いている一人である。そこでは、
  ブッダとその弟子たちとは、たがいに手を携えて、おなじ道にいそしむ同
  行なのである。一つの経(相応部経典、四五、二、半。漢訳同本、雑阿含
  経、二七、一五、善智識)は、そのことにつき、つぎのようなブッダのこ
  とば記している。
   それは、ブッダがサキャ(釈迦)族のすむある村にいた時のこと、侍者
  のアーナンダ(阿難)がこのような質問を提した。
   「大徳よ、よくよく考えてみると、われらが善き友をもち、善き仲間の
   なかにあるということは、すでにこの聖なる道のなかばを成就したにひ
   としいと思われる。このことはいかがであろうか」
   このような質問を提したアーナンダは、おそらく、善き友をもつことの
  重大さが、ようやく身にしみてわかってきたところで、その重きことは、
  このくらいに考えてもよいかと問うたのであろう。しかるに、ブッダはそ
  の考え方を否定して、それは「なかば」どころではない、この道の「すべ
  て」であるということであった。そして、その例証をつぎのように語った。
   「アーナンダよ、それはこのことを考えてみてもわかるではないか。人
   々は、わたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老
   いより自由になることができる。病まねばならぬ身にして病いより自由
   になることができる。また、死なねばならぬ人間でありながら、死より
   自由になることができる。アーナンダよ、このことを考えても、善き友
   をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてであると
   いう意味がわかるではないか」
   そこでは、まず、ブッダが、その弟子たちにたいして、自分自身を「善
  き友」といっていることが注意されねばならぬ。ついで、この経の主題は
  それであるが、「善き友」をもつということは、この道の「すべて」であ
  るというのは、いったい、いかなる意味であるか。そのことを、とくと考
  えてみなければならぬと思うのである。
  (増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、
   pp. 41-44)

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三吉さんへ Prev: 398 / No: 399
 投稿者:Libra  00/08/08 Tue 09:58:46

 三吉さんおはようございます。

> 昔、学会が「法華経や釈迦は末法無益」を主張し、今は引っ込めたとするならば、
> 世間的には、昔云っていた事実を間違っていたと自己批判してこそ、それは撤回し
> たことになるのでは?と思います。
> 自己批判も総括もなしに、現在「法華経や釈迦も大事」と修正したところで、「末
> 法無益」は過去の話しとはならないのでは?と思います。

 おっしゃるとおりだと思います。少し前に本掲示板で申し上げた通りです。

  >> ただ、shamon氏は折伏経典から創価学会の教義を断定して批判を展開されてますが
  >> それが昨今、学会員にどれだけの影響力があるのか疑問です。
  >
  > この問題は創価学会の側にも責任があると思います。「折伏経典」等に
  >含まれている「問題のある過去の主張」を“きちんと総括しないまま”修
  >正してきたせいでこういう問題が発生しているのでしょう。
  (本掲示板における三吉さんへのレス、00/06/30 Fri 09:42:22)

> つまり「末法無益」はまだ健在であると見るのが妥当でしょう。

 現実に“きちんと総括しないまま”修正してきてしまっているので、そう言われ
ても仕方がない面はあります。そのこと自体は否定しません。
 しかし、やはり事実としては“修正してきている”のです。そのことも川蝉さん
には正確に理解して頂きたいと僕は思うのです。例えば、先月の31日の聖教新聞
の寸鉄は、

  大聖人「釈尊に還れ!」
  恩師「大聖人に還れ!」
  ここに創価の万年の道。

と言っています。大聖人は「釈尊に還れ!」と言われたという認識です。

> それが「創価学会の現在」だと思います。

 「自己批判も総括もない」ということは大いに批判されるべきだと僕も思います
が、だからと言って、現在も創価学会が「法華経や釈迦は末法無益」を主張してい
るということにはならないというのが僕の主張です。

 創価学会としても「有益な批判」は歓迎すべきなのはもちろんです。しかし、
「創価学会なんてつぶれてしまえばいいんだ」とか「学会員なんて早く毒薬(謗法)
の報果が顕れて苦しめばいいんだ」とかそういう発想がまず先にありきでは、学会
員からすれば、何を言われてもただの雑音にしか聞こえません。なんら「有益な批
判」たりえないのです。耳を傾けることはないでしょう。せっかくのご批判も無駄
になってしまいます。

 もし、創価学会が「法華経や釈迦は末法無益」という主張の誤りに自ら気付いて
その主張を修正すること自体を“正しいこと”だと思われるのであれば、そして、
そのことによって現実に一人でも多くの学会員に「毒薬(謗法)の報果が顕れ」ず
にすむと思われるのであれば、慈悲心ある「有益な批判」を展開して頂きたいと僕
はお願いしているのです。
 川蝉さんやshamonさんは日蓮宗の御僧侶です。「宗祖の精神を現代に体現して
衆生を仏道に導いていく」という大変な任務を自らに課しておられる方々です。そ
うであるなら、赤子に乳を飲ませるように、大慈悲心をもって学会員に接して頂き
たいと、僕はそう思うのです。

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Libra さん 横レスです。 Follow: 399 / No: 398
 投稿者:三吉  00/08/08 Tue 06:47:26

>今はそんなことは言っていません
>それと同時に、創価学会の現在もちゃんと見て頂きたいと思います。

昔、学会が「法華経や釈迦は末法無益」を主張し、今は引っ込めたとするならば、
世間的には、昔云っていた事実を間違っていたと自己批判してこそ、それは撤回し
たことになるのでは?と思います。
自己批判も総括もなしに、現在「法華経や釈迦も大事」と修正したところで、「末
法無益」は過去の話しとはならないのでは?と思います。

つまり「末法無益」はまだ健在であると見るのが妥当でしょう。
それが「創価学会の現在」だと思います。

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川蝉さんへ(横レスです) Prev: 392 / No: 397
 投稿者:Libra  00/08/07 Mon 10:58:58

 川蝉さんには「もうウンザリだ」と言われそうですが、やはり言わせて頂きます。

> 創価学会の「釈迦所説の法華経は末法に無益。南無妙法蓮華経(唱題)は釈迦が
>説いたものでない」との立場から云えば、題目と法華経と等価と考えたり、題目
>の中に法華経が含まれていると考えることは、当然、否定される事になります。
>
>釈迦所説の法華経は末法に無益。南無妙法蓮華経(唱題)は釈迦が説いたもので
>ない」との創価学会の主張は、容認できないので「学会の題目に違和感を感ずる 」
>旨を書いたのです。
>
> 「南無妙法蓮華経は釈迦が説いたものでない(釈迦仏法でない)」と云う創価学
>会の主張が、おかしいな?と云う事になるので、「理路をたどり直す」ことはま
>ずいことなのです。
>
> 「法華経や釈迦は末法無益であり、題目は釈迦の説いたものでない。釈迦は脱仏
>であり、日蓮大聖人こそ釈迦を教化した根本の本仏である」などと固く信受し、
>それを他の人にも積極的に説く人は題目を唱えていても、薬と同時に毒薬を飲ん
>でいると同じで、やがて時期がくれば毒薬(謗法)の報果が顕れることになると
>思っています。

 たしかに創価学会は過去に「法華経や釈迦は末法無益」ということを言っていま
した。それは事実です。これは教学として決定的に間違っていたと僕も思います。
しかし、今はそんなことは言っていません。事実、聖教新聞では「智慧の泉─仏典
散策─」が毎週連載されていますし、第三文明では友岡雅弥氏が「人間ブッダとの
出会い 釈尊と弟子たちの語らいから」を連載されています。『法華経の智慧』も
刊行されています。
 川蝉さんが創価学会の過去の教学上の過ちを厳しく追及されるのは日蓮宗の御僧
侶として当然の行為だと思いますし、尊敬も致しますが、それと同時に、創価学会
の現在もちゃんと見て頂きたいと思います。

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文底さんへ(2/2) No: 396
 投稿者:Libra  00/08/07 Mon 10:30:33

> Libraさんが日蓮の振る舞いを「不惜身命の精神の体現」とお考えになる事には、
>私自身、全称命題に於いて批判的な立場ではありません。

 「全称命題に於いて批判的な立場ではない」という表現の意味がよく分からない
のでご説明頂ければ幸いです。

>  そうなると、他の思想・宗教の方でも「何も恐れずに正しいと信じることを素直
>に妥協せず実行する」方々は「不惜身命の精神の体現」をしている事になるのです
>が、何か問題はありますでしょうか?
 
 問題は「なにが正しいか」という事ですね。これは最終的には主体的に選び取るし
かありません。また、そのためには言葉によって「正邪を決する」ことが必要になる
でしょう。
 
> >法華経の精神にふれることによって、誰でも最終的には如来使となることができ
>ます。
>
> これは仏縁に触れる(法華経に帰命する)と言う事でしょうか?
> また全称命題に於いて「他の方法はあり得ない」「間違っている」とお考えですか?

 「全称命題に於いて」かどうかは知りませんが、少なくとも、「釈尊の真意」を
よく理解している人であるならば『法華経』の価値を否定したりしないでしょう。
そういう確信はあります。ですが、「『法華経』を通してしか釈尊の真意をつかむ
ことはできない」ということもないでしょう。『法華経』以外だと遠回りだし、途
中で変な方向に言ってしまう危険性が大きいとは思いますが、釈尊の真意に到達す
る可能性はゼロではないでしょう。しかし、あえてそういう道を選ぶ必要性は全く
感じません。

>  無知な質問で申し訳ありませんが『日蓮精神の現代』はどのような御立場の方が
>書かれた書物なのですか?

 日蓮宗の御僧侶であり、立正大学の教授でらっしゃいます。すばらしい学者だと
尊敬しています。

> また、もしこの文献を拠り所として、私の発言の内容を説明・論証して頂いてい
>るのであれば、誤解を防ぐ意味でも、私の発言と「真の知性人」の文章を対比して
>述べて頂ければ、大変ありがたいのですが・・

 誤解を与えてしまい申し訳ありません。「真の知性人」の文章は文底さんの発言
とは直接関係ありません。

> 「学会員」との発言がLibraさんの心証を害するようであれば

 別に「心証を害」したわけではありません(^_^)。ただ有意義な対話になるように
と思って提案させて頂きました。

>  私が「学会員の方」と発言した理由は、事、宗教に於ける論議上、その自身の夫
>々の立場を踏まえた上での発言が重要であると思ったからです。また、私が「学会
>員の方のお考えを伺いたい」との理由からでもあります。

 僕は組織としては創価学会に所属していますが、日蓮法華宗の一員であるという自
覚に立って発言しています。立教開宗750年を目前に控えているにもかかわらず、い
まだに日蓮の弟子が異体異心である現状を悲しく感じています。

  総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無
  妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通す
  る処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子
  の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p. 1337)

  過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽
  んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝の行をば立てさせ給いしなり、法華経
  を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてかくの如く礼拝し給う何
  に況や持てる在家出家の者をや、此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出
  家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈
  迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり、或は「若実若不実」
  とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀
  るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るな
  り。
  (「松野殿御返事」、全集、p. 1382)

> その発言内容が「正しいと信じることを、ありのまま、自分の言葉で、自分の責任
>で発言する」当該者の思想的バックボーンが「何であるか?」理解し合い、当該者の
>立場を踏まえる事も重要だと思うのですが、如何でしょうか?

 確かにそれは重要ですね。

> ただ、此処での論議(宗教的)の推移に於けるLibraさんの御発言は、創価学会の
>教義的バックボーンから生まれた認識の上での御発言と考えますが、違いますでしょ
>うか?

 さてどうでしょうか。それは読者のみなさまの判断にゆだねたいと思います。
 僕自身の自覚としては、日蓮宗の田村博士や伊藤教授の影響をかなり受けているし、
曹洞宗の袴谷教授や松本教授の影響も受けていると思っています。中村博士の影響も
大きいでしょう。もちろん創価学会の松戸行雄さんの影響も大きいですね。

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文底さんへ(1/2) Follow: 402 / Prev: 389 / No: 395
 投稿者:Libra  00/08/07 Mon 10:30:02

 文底さんおはようございます。

> しかし、私が述べている事象の「釈迦は久遠の仏の化導」と言う定義は、歴史上
>の事柄ではなく「久遠」と言う言葉が指すように、釈迦の仏観を私見で類推した
>「架空の比喩」です。

 文底さんの言われる「架空の比喩」という表現の真意がよく分かりませんが、
僕は釈迦はリアリストだったと思っていますので、僕自身も「現実的事象」を重
要視しています(ただし「詩的表現」の価値を認めないということではありませ
ん)。

   ブッダをリアリスト(現実主義者)として規定することは、いささか勇気
  と決断を要する。なんとなれば、ながい仏教の歴史のなかで、この師にその
  ような規定づけをこころみたものは誰もないからである。ただ、初期の仏弟
  子たちが、この師の教法にたいして表白した類型的表現は、彼らもまた、あ
  きらかに、この師がつねに現実を直視する人であるとの印象をもっていたこ
  とを示している。その表白とはこうである。
   「ここに聖弟子は、教法にたいして不壊の信を成就する。<教法は世尊に
   よりて善く説かれた。すなわち、この教法は、現に証せられるもの、時を
   へだてずして果報あるもの、来たり見よというべきもの、よく涅槃に導く
   もの、かつ、智者がそれぞれ自ら知るべきものである>と」
   これもまた、初期の経ども(阿含部の諸経)のなかに、いくたびとなく繰
  り返してあらわれてくる類型化した表現であるが、その表白の内容は、ブッ
  ダの教法の基本的性格をずらりと箇条がきにして連らねたものと見ることが
  できる。その中心的なものを、わたしもいま箇条的にならべてみると、つぎ
  のように連らねることができる。
   1「現に証せられるもの」
   2「時をへだてずして果報あるもの」
   3「来り見よというべきもの」
   4「よく涅槃に導くもの」
   5「智者がそれぞれ自ら知るべきもの」
   そして、それらのうち、すくなくともはじめの三つの箇条は、ブッダの教
  法が、現代の表現をもっていえば、リアリストの思想であることを言表した
  ものなのである。だが、それらの箇条は、いささか耳慣れない表現をもって
  示されているので、すこし説明しておかねばならない。
   その第一は「現に証せられるもの」とある。中国の訳経者たちはそれを
  「現見」と訳した。「現に見られるもの」の意である。この師の説くところ
  は、すべて人生の現実の問題であるから、静かに眼を開いて、じっとその真
  相を観察すれば、現にその虚ならざることを見ることができ、証することが
  できる。もしもブッダが、幻想を語る人であったならば、他人はそれを現見
  することはできない。あるいは、この師の説くところが、死後のこと、未来
  のことであったならば、われらはそれを現証することはできない。だが、こ
  の師の教法は、そのような世のつねの宗教者たちの語るところと異って、現
  に見、現に証することを得るものであったというのである。
  (増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、
   pp. 25-26)
 
>系譜上のブッダに於ける差異は無いのでしょうか?
>そうなると、釈迦=日蓮でも宜しいわけですね。

 そうですね。それが「父子の義」だと思います。

>また、系譜という言葉を使われていらっしゃるところから考えると、系譜上に何
>人かのブッダが存在しそうですが、Libraさんの私見に於いて、ブッダは他にどの
>ような方がいらっしゃいますか?

 少なくとも、『法華経』の作者と龍樹はブッダだと思っています。

>>実際には、『法華経』は釈迦滅後に成立した経典なので、釈迦を「法華経の行者」
>>と呼ぶことには客観的には無理があるわけですが・・・・
>
>その客観的に無理な事象を、主観的に納得せしめる具体的動機付けとなった事は、
>何だったのでしょう?

 『法華経』を読んで釈迦の慈悲を感じて涙がでたこと事です。もちろん宗祖の一
生および御書を通して『法華経』を読んだ結果です。

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人間は宇宙の要素 No: 394
 投稿者:チャミ  00/08/07 Mon 02:02:06

 誰でも自分が存在していると思っています。
しかし、それは錯覚です。真実は無分割の宇宙のあるだけです。

http://ww21.tiki.ne.jp/~osami/

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川蝉さん No: 393
 投稿者:三吉  00/08/07 Mon 01:42:38

>差が出るのは、理解力の有る無し、信の強弱、宿善の有る無し、仏縁の有る無
>し、等に由ると云うのが実感です。

それは本質的な差なのでしょうか?
人間はすべて遇縁的な存在で、たまたまの差ではないでしょうか?

たまたまの差であれば、それは一時的な差だと思います。

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三吉さんへ。 No: 392
 投稿者:川蝉  00/08/05 Sat 15:24:02

三吉さん今日は。

>こういう題目観。実利的な関心の題目。あるいは題目の私物化。
>これがおかしいということでしょうか?
>1川蝉さんの題目観はどういう風になられているのか?
>2そこに差異があるとしても、はじめは実利的関心で出発したと
>して、最後的には本来の題目へと帰結する「効用」「はたらき」
>を題目は有してないのか?
>3有さないとしたら・・・「題目」自体に意味がないということ
>なりはしないか?
>つまり、それは「法」ではないと。

創価学会の「釈迦所説の法華経は末法に無益。南無妙法蓮華経(唱題)は釈迦が説いたものでない」との立場から云えば、題目と法華経と等価と考えたり、題目の中に法華経が含まれていると考えることは、当然、否定される事になります。
そこで、「学会員らしき方」は、「>南無妙法蓮華経(と唱えること)と『法華経』(という経典)とは、実質的にはほとんど関係ない、という解釈をしています」と云っているのだと推測できます。「釈迦所説の法華経は末法に無益。南無妙法蓮華経(唱題)は釈迦が説いたものでない」との創価学会の主張は、容認できないので「学会の題目に違和感を感ずる 」旨を書いたのです。

宗祖は法華経・天台の解釈を文証として唱題受持行をうち立てています。「>法華経から出発して南無妙法蓮華経にたどり着いたその理路をたどり直す」と、「南無妙法蓮華経は釈迦が説いたものでない(釈迦仏法でない)」と云う創価学会の主張が、おかしいな?と云う事になるので、「理路をたどり直す」ことはまずいことなのです。ですから、「学会員らしき方」は「>理路をたどり直す必要はないでしょう。南無妙法蓮華経が実際に功徳をもたらすか否かが分かれば、それで十分です。」と云っているのでしょう。

「松野殿御返事」(学会版1382頁・真無)に
「但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり」
とあります。
「法華経や釈迦は末法無益であり、題目は釈迦の説いたものでない。釈迦は脱仏であり、日蓮大聖人こそ釈迦を教化した根本の本仏である」などと固く信受し、それを他の人にも積極的に説く人は題目を唱えていても、薬と同時に毒薬を飲んでいると同じで、やがて時期がくれば毒薬(謗法)の報果が顕れることになると思っています。

大概の信者さんは、現実的な救い(御利益)を求めて御題目に近づきます。困ったときの神頼みの状態で留まる人も居ますが、その中から、更に、祈り、聴法、唱題に熱心な、すなわち祈り・悟り・行いを具えた信者さんも現れます。
差が出るのは、理解力の有る無し、信の強弱、宿善の有る無し、仏縁の有る無し、等に由ると云うのが実感です。
唱題する者には必ず仏力、妙法力の加持と云うか働きかけがあることを疑ってはならないと思っています。
天台が玄義巻第六上に
「世の病者は医を延けども、而も差不差有るが如し。機も亦是の如し、熟不熟有れば、すなわち応に遠有り近有り」とあります。是は「医師の治療を受けても治る者と治らない者があるようなものである。機根に熟している者と熟していない者があるので、すぐ益(応)を受ける者と益が現れるのに時間が掛かる者が居るのである」との意です。応とは仏力と妙法力の応え・働きかけの事としておきます。
続いて、冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応の四句分別を説き、続いて
「もし四意(上の四句分別)を解せば一切の低頭挙手にも福むなしく棄てず。終日感無けれども、終日悔い無し。・・釈論に云はく、今我が疾苦は皆過去に由る。今生に福を修すれば報、将来に在り。正念僻むこと無くんば此の四意を得ん」
とあります。冥利、冥応の有ることを疑ってはならないと言う教示と私は受け取っています。
長くなるので、顕機冥応の説明だけ紹介します。
「人一世に勤苦して、現善濃かに積むと雖も、而も顕に感ぜずして、冥に利有るが如き」と有ります。冥利とは顕わなる益で無いと云うことです。

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川蝉さん おられます? No: 391
 投稿者:三吉  00/08/05 Sat 06:20:47

以前、学会の題目に違和感を感ずるとおっしゃってました。
同じ題目であるが、違う題目であると。
そのことについて議論したいと思います。

これは某サイトでの学会員らしき方の発言。
「>いいじ<さんの質問は、「妙法蓮華経」という題目が『法華経』という経典そ
のものと等値されるのは何故か、という意味でしょうか? 日蓮自身は「日本とい
う二字に日本国の全体が収まっているのと同じだ」という風な説明をしています
が、今日の眼から見ると、なかなか苦しい論証です。私としては、「南無妙法蓮華
経」(と唱えること)と『法華経』(という経典)とは、実質的にはほとんど関係
ない、という解釈をしています。日蓮自身は、『法華経』から出発して「南無妙法
蓮華経」にたどり着いたにしても、我々がその理路をたどり直す必要はないでしょ
う。「南無妙法蓮華経」が実際に功徳をもたらすか否かが分かれば、それで十分で
す。」

こういう題目観。実利的な関心の題目。あるいは題目の私物化。これがおかしいと
いうことでしょうか?
1川蝉さんの題目観はどういう風になられているのか?
2そこに差異があるとしても、はじめは実利的関心で出発したとして、最後的には
本来の題目へと帰結する「効用」「はたらき」を題目は有してないのか?
3有さないとしたら・・・「題目」自体に意味がないということなりはしないか?
つまり、それは「法」ではないと。

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下記投稿は私です。 No: 390
 投稿者:文底  00/08/03 Thu 18:34:30

申し訳ありません。
投稿者名を入れるの忘れてしまいました。
下記N0389の投稿は私(文底)です。

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Libraさんへ Prev: 387 / No: 389
 投稿者:  00/08/03 Thu 18:31:35


Libraさん

私の愚問に対し、いつも大変御丁寧なレス有難う御座います。

>釈尊=ブッダ(覚者、目覚めた人)ということでしょうか?

そうなるのかも知れません。

>僕は「正法時代に生まれた釈迦は久遠の仏の化導により正法に出現した仏である」とは思っていません。インド生誕の釈迦の前には仏教はなかったし、従って、当然のことながら「(仏教で言うところの)仏」という概念もなかったと考えています。

「過去仏思想」の意味が多少分かりました。(鈍くてスミマセン)
しかし、私が述べている事象の「釈迦は久遠の仏の化導」と言う定義は、歴史上の事柄ではなく「久遠」と言う言葉が指すように、釈迦の仏観を私見で類推した「架空の比喩」です。
Libraさんの「インド生誕の釈迦の前には仏教はなかった」という言葉は、現実の歴史事象から踏まえて、現実的事象を述べられている様なのですが如何でしょうか?

>「ブッダの系譜」は「法華経になった人間の系譜」ということになります。初代のブッダは釈迦だという立場です。当然、宗祖も偉大なる「法華経の行者」です。

系譜上のブッダに於ける差異は無いのでしょうか?
そうなると、釈迦=日蓮でも宜しいわけですね。
また、系譜という言葉を使われていらっしゃるところから考えると、系譜上に何人かのブッダが存在しそうですが、Libraさんの私見に於いて、ブッダは他にどのような方がいらっしゃいますか?

>実際には、『法華経』は釈迦滅後に成立した経典なので、釈迦を「法華経の行者」と呼ぶことには客観的には無理があるわけですが・・・・

その客観的に無理な事象を、主観的に納得せしめる具体的動機付けとなった事は、何だったのでしょう?
その辺りの処を教えていただけると、光栄なのですが。

>僕は「久遠元初の仏」というものを認めない立場なのです。

そうですか、それは失礼いたしました。

>何も恐れずに正しいと信じることを素直に妥協せず実行するということです。宗祖の一生は「不惜身命の精神の体現」そのものです。

「不惜身命の精神の体現」の具体的説明ありがとうございました。
Libraさんが日蓮の振る舞いを「不惜身命の精神の体現」とお考えになる事には、私自身、全称命題に於いて批判的な立場ではありません。
しかし「何も恐れずに正しいと信じることを素直に妥協せず実行する」人は「日蓮(仏法の人々)」だけでなくとも上記定義上は「不惜身命の精神の体現」者は、複数人生まれても問題は無いと考えます。
そうなると、他の思想・宗教の方でも「何も恐れずに正しいと信じることを素直に妥協せず実行する」方々は「不惜身命の精神の体現」をしている事になるのですが、何か問題はありますでしょうか?
  
>法華経の精神にふれることによって、誰でも最終的には如来使となることができます。

これは仏縁に触れる(法華経に帰命する)と言う事でしょうか?
また全称命題に於いて「他の方法はあり得ない」「間違っている」とお考えですか?

>「幾つかの文献」からではなく、すべて『日蓮精神の現代』からの引用です。

Libraさんの御発言の概要だけでの判断で、上記のように発言してしまい申し訳ありませんでした。
無知な質問で申し訳ありませんが『日蓮精神の現代』はどのような御立場の方が書かれた書物なのですか?
また、もしこの文献を拠り所として、私の発言の内容を説明・論証して頂いているのであれば、誤解を防ぐ意味でも、私の発言と「真の知性人」の文章を対比して述べて頂ければ、大変ありがたいのですが・・(無論私の発言を指していないのであれば、その必要はありません)

最後に

>まずご提案したいのですが、学会員だから云々というような議論は止めにしませんか?

「学会員」との発言がLibraさんの心証を害するようであれば、私の本意ではありません、お詫び申し上げます。
申し訳ありませんでした。
私が「学会員の方」と発言した理由は、事、宗教に於ける論議上、その自身の夫々の立場を踏まえた上での発言が重要であると思ったからです。
また、私が「学会員の方のお考えを伺いたい」との理由からでもあります。

>各人が正しいと信じることを、ありのまま、自分の言葉で、自分の責任で発言すればそれでいいのではないでしょうか。

その発言内容が「正しいと信じることを、ありのまま、自分の言葉で、自分の責任で発言する」当該者の思想的バックボーンが「何であるか?」理解し合い、当該者の立場を踏まえる事も重要だと思うのですが、如何でしょうか?
何れにせよ、Libraさんの御発言が創価学会の代弁者・代表者的発言だとは受け取りませんので御安心下さい。
ただ、此処での論議(宗教的)の推移に於けるLibraさんの御発言は、創価学会の教義的バックボーンから生まれた認識の上での御発言と考えますが、違いますでしょうか?

私自身意図しないところで、Libraさんの心証を害するような発言があるかも知れません。
その時は、又ご遠慮なく申し述べてください。

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三吉さんへ Prev: 386 / No: 388
 投稿者:文底  00/08/03 Thu 18:29:43


三吉さん

レスありがとうございます。

>>法用方便、能通方便、秘妙方便

>それはいずれの立場からの分類でしょうか?

私も詳しくは知らないのですが、

天台は『法華文句』で、方便を
*法用方便は、衆生の機根に合わせて種々の法を説き、その方の働き(用)で、人々に応じた利益を与える教え。
*能通方便は、真実に入る門となる教え。
*秘妙方便は「方便品」の方便である処の教え。
三つに分けているようです。

そして、方便には二つの方向性があると説き、一つは、現実から悟りへ近づかせる方向(法用・能通方便)、もう一つは、悟りの境地から現実へと近づき、その悟りを現実世界に説明し表現していく方向(秘妙方便)があるそうです。

私は、秘妙方便としての定義付けで「方便」を述べてしまったので、私の私見は「法華経の方便品」としての定義になってしまいます。
それで、三吉さん述べられた、念仏の「南無阿弥陀仏」の方便がどの定義にあたるのか分からなくて、お伺いさせて頂いたのです。

>さしづめ科学的な価値判断。つまり人間から見た普遍妥当性、同条件ならば誰でも再現可能かどうかという思考法を身に纏っているのは自然でしょう。
>仏教は仏智不可思議を説きますので、まったく相容れぬ価値判断です。

仏教と科学の価値の定義付けの相違が良く分かりました。
すると、仏教は基本的に仏智不可思議の為「信」が第一となり、その説明付けの為に「教義」が存在すると言う事でしょうか?
又「疑」は「信」を妨げる要因として、好ましからざる事になってしまいそうですね。

>恐らく、仏教的に言えば科学的な知の立場は「疑」の立場です。それは仏や菩薩の立場ではなく、人間の立場です。

私などは「疑」だらけの人間ですので、とても仏や菩薩の立場にはなれそうにもありません。
しかし、日蓮自身は時(鎌倉時代)の宗教・政治の時代背景に対し「疑」の立場で批判・検証した結果、自身が立宗宣言したとも考えられます。
「疑」を持ち批判・検証した結果が新しい宗教を生む動機付けになりながら、その宗教自身が「疑」を否定するような教義であるなら、自己矛盾しているような気がするのですが、如何でしょうか?

>>「無辺の衆生界を尽くさん」

に対する三吉さんの詳しいご説明、どうもありがとう御座いました。

これからも、時々トンデモ無いレスを付けたりするかも知れませんが、お気づきの点が御座いましたら、御遠慮なく横レス等して下さい。

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文底さんへ Follow: 389 / No: 387
 投稿者:Libra  00/08/03 Thu 10:47:05

 文底さんおはようございます。

> 此処で、釈迦と釈尊の定義付けの命題を再確認したいのですが、私が定
>義付けている「釈迦」とはインドに実在した(と言われている)人間の事
>です。
> そして「釈尊」とは仏教における「仏」の「異名」として、捉えていま
>す。ですから「釈尊」の定義においては、私見に於いては必ずしも「釈迦」
>と同一視はしておりません。

 釈尊=ブッダ(覚者、目覚めた人)ということでしょうか?

>「釈尊」を「久遠の仏」と定義付けるか「久遠の仏の化導により正法
>に出現した仏」を「釈尊」と定義付けるかでは、意味が全然違ってしまい
>ます。

 あえて過去仏思想の立場にたって言いますと、“釈尊=ブッダ”と定義付
ければ、「ブッダの系譜」が「久遠の仏」ということになります。その場合、
「久遠の仏」の本体は「ブッダの系譜」によって継承されているところの
「法」ということになります。当然、「正法に出現した仏」も「ブッダの系
譜」の流れの中にありますからブッダ(釈尊)です。

> 学会員であるLibraさんはどちらかと言うと、後者としての位置付けに基
>づいて、日蓮を「久遠元初の仏」と定義付け、正法時代に生まれた釈迦は
>「久遠の仏の化導により正法に出現した仏」と考えられていると思うので
>すが如何でしょうか?

 まずご提案したいのですが、学会員だから云々というような議論は止め
にしませんか?
 各人が正しいと信じることを、ありのまま、自分の言葉で、自分の責任
で発言すればそれでいいのではないでしょうか。

 さて本題ですが、僕は「正法時代に生まれた釈迦は久遠の仏の化導によ
り正法に出現した仏である」とは思っていません。インド生誕の釈迦の前
には仏教はなかったし、従って、当然のことながら「(仏教で言うところ
の)仏」という概念もなかったと考えています。過去仏思想は釈迦滅後に
発生しています。前回以下のように申し上げたのはそういう意味です。

  >『法華経』が成立した段階で、すでに「過去仏思想」がかなり定着し
  >ていた(当時の常識になっていた)わけです。釈尊の前にも仏がいた
  >と。まずは『法華経』もその当時の常識にのっとって論を展開してい
  >るのだと僕は思います。しかし、僕自身はインドの釈尊より前に仏教
  >があったとは考えません。

 僕の立場からすれば、「ブッダの系譜」は「法華経になった人間の系譜」
ということになります。初代のブッダは釈迦だという立場です。当然、宗
祖も偉大なる「法華経の行者」です。
 実際には、『法華経』は釈迦滅後に成立した経典なので、釈迦を「法華
経の行者」と呼ぶことには客観的には無理があるわけですが、僕は『法華
経』こそが釈迦の真意を伝える経典だと思っていますので、僕の立場では、
やはり釈迦も「法華経の行者」ということになります。

>Libraさんの御立場での「久遠元初の仏の定義」を再確認させて頂きたい
>のですが如何でしょうか?

 僕は「久遠元初の仏」というものを認めない立場なのです。本掲示板で
の川蝉さんとのやりとりを見ていただければ幸いです。

> >そのためには「不惜身命」の精神を体現しなければなりません。
>
> 「不惜身命の精神を体現」するとは、具体的にどのような事を指すのでし
>ょうか?

 何も恐れずに正しいと信じることを素直に妥協せず実行するということ
です。宗祖の一生は「不惜身命の精神の体現」そのものです。

  本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずいづれも仏
  説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等にはよるべ
  からず専ら経文を詮とせん、又法門によりては設い王のせめなりとも
  はばかるべからず何に況や其の已下の人をや、父母師兄等の教訓なり
  とも用ゆべからず、人の信不信はしらずありのままに申すべしと誓状
  を立てしゆへに
  (「破良観等御書」、全集、p. 1293)

> >「一切皆空であり、当然、自らも無自性である」ということを深く了解
>している人間でなければ「不惜身命」の精神は体現できません。
>
> そうなると「一切皆空であり、当然、自らも無自性である」ということを
>深く了解していない「現在の私のような存在」は「不惜身命」の精神は体
>現出来ず、したがって「如来使として正法(法華経)を受持する」する事
>は無理であると理解しても宜しいのでしょうか?

 法華経の精神にふれることによって、誰でも最終的には如来使となるこ
とができます。

>「真の知性
>人」との定義付けを、幾つかの文献にて御説明されていらっしゃいますが、

 「幾つかの文献」からではなく、すべて『日蓮精神の現代』からの引用
です。

>この御意見がLibraさんの御気持ちと同義であると捉えて宜しいのでしょ
>うか?

 そう捉えて頂いて結構です。

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文底さん おはよ Follow: 388 / No: 386
 投稿者:三吉  00/08/03 Thu 07:55:15

>「船」との定義づけ

いえいえ悪くありません。筏の比喩は初期仏教では捨て去るものとしてあります。
大乗はそれをあえて捨てないところに差異があるかと思います。

>私の推測と同義

ですね。しかしながら大乗ではそれは終わりのないものです。
法華経の捨方便は、「二乗不作仏」という「般若」「結摩」の初期大乗に対する
具体的な批判です。それ以外の意味はここにありません。
それを爾前経云々とまで援用するのは、法華経の誤読だと思います。

>法用方便、能通方便、秘妙方便

さて存じ上げません。それはいずれの立場からの分類でしょうか?
あえて言うならば「善功方便」でしょう。

>私もある意味での「信仰者」

マインドコントロールされているという意味で「信」を捉えるならばおっしゃる
とおりです。教育とはつまりマインドコントロールですから、我々は時代や地域に
限定された教育の影響下にあります。
さしづめ科学的な価値判断。つまり人間から見た普遍妥当性、同条件ならば誰でも
再現可能かどうかという思考法を身に纏っているのは自然でしょう。
仏教は仏智不可思議を説きますので、まったく相容れぬ価値判断です。
恐らく、仏教的に言えば科学的な知の立場は「疑」の立場です。それは仏や菩薩の
立場ではなく、人間の立場です。

>「無辺の衆生界を尽くさん」

つまり、誰もがすべてが解放されるのが、仏なり菩薩の立場でありましょう。
法華経でいえば、「一乗」や「一切皆成」という心ではないでしょうか。

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三吉さんへ No: 385
 投稿者:文底  00/08/03 Thu 00:01:15


三吉さん

初めまして、宜しくお願いいたします。

>大乗の場合、そこに、目的に辿り着いても、背負いつづけるということがあるかと思います。

そうですか・・・そうなると私見としでても「船」との定義づけは、適切な喩えではないかも知れませんね。

>方便は具体化の唯一の「てだて」だと。

具体化の唯一の「てだて」としての御意見は、ある意味で、私の推測と同義とも考えられます。

>念仏は「南無阿弥陀仏」を日蓮系は「南無妙法蓮華経」を「てだて」としている。と無信仰の私には見えます。

その辺りの方便としての定義づけは、法用方便、能通方便、秘妙方便、の何れにあたるのでしょうか?
また、私も特定の宗教団体の信者ではないのですから、ある意味「無神論者」ではあるかもしれません。
ただ、その定義が「無信仰」に当たるのかは未だ結論が出ていません。
と申しますのは、人間は無意識下の間にも漠然とした何か(例えば現代科学とか社会常識)を信じて生きているものですから、それが「信」と言う定義にかなうならば、私もある意味での「信仰者」なのかも知れないと思うのです。

>自分が渡り終えるだけでいいなら「不要」となりますが「無辺の衆生界を尽くさん」と思えば要りつづけます。

「無辺の衆生界を尽くさん」との御言葉をもう少し具体的に述べて頂くと、私のような無見識の者でも理解できるかもしれません。
もし、御手隙であれば申し述べてください。

>自分だけで、仲間だけでいいと思うのは菩薩の死かもしれません。

同感です、我欲に振り回されている姿は、とても菩薩とは呼べないものだと思います。

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Libraさんへ No: 384
 投稿者:文底  00/08/02 Wed 23:57:16


Libraさん

御丁寧なレス有難う御座います。(此方こそレスが遅くなりすみません)

>『法華経』が成立した段階で、すでに「過去仏思想」がかなり定着していた(当時の常識になっていた)わけです。(中略)「過去仏思想」がリアリティをもっていた当時は「釈尊が大通智勝仏の教化を受けた」という教説もリアリティをもっていたということだと思います。

大変具体的に御自身の御意見を述べて頂き、感謝いたします。
此処で、釈迦と釈尊の定義付けの命題を再確認したいのですが、私が定義付けている「釈迦」とはインドに実在した(と言われている)人間の事です。
そして「釈尊」とは仏教における「仏」の「異名」として、捉えています。
ですから「釈尊」の定義においては、私見に於いては必ずしも「釈迦」と同一視はしておりません。
この辺りが、諸説分かれるところなのでしょうが「釈尊」を「久遠の仏」と定義付けるか「久遠の仏の化導により正法に出現した仏」を「釈尊」と定義付けるかでは、意味が全然違ってしまいます。
学会員であるLibraさんはどちらかと言うと、後者としての位置付けに基づいて、日蓮を「久遠元初の仏」と定義付け、正法時代に生まれた釈迦は「久遠の仏の化導により正法に出現した仏」と考えられていると思うのですが如何でしょうか?
そうなると問題は、釈尊が釈迦とは違う定義で、釈尊を「久遠元初の仏」としてしまうと、日蓮=釈尊になりますし、釈迦を釈尊と同義で扱ってしまうと、日蓮=釈迦になってしまう訳です。
これでは「一致派」の考えに近くなってしまうと思われますので、久遠元初の仏の定義が日蓮=釈迦では困ると思います。
そこで、Libraさんの御立場での「久遠元初の仏の定義」を再確認させて頂きたいのですが如何でしょうか?


>『法華経』は「教菩薩法」とも言われます。「菩薩道」は『法華経』の文脈で言えば、「如来使として正法(法華経)を受持する」ということになると思います。もっと言えば、『法華経』になるということです。

何となく仰ろうとされている事は、理解出来ます。 

>そのためには「不惜身命」の精神を体現しなければなりません。

「不惜身命の精神を体現」するとは、具体的にどのような事を指すのでしょうか?

>「一切皆空であり、当然、自らも無自性である」ということを深く了解している人間でなければ「不惜身命」の精神は体現できません。

そうなると「一切皆空であり、当然、自らも無自性である」ということを深く了解していない「現在の私のような存在」は「不惜身命」の精神は体現出来ず、したがって「如来使として正法(法華経)を受持する」する事は無理であると理解しても宜しいのでしょうか?

>「真の知性人」とは? 

この御発言は色々興味深いことが述べてありますね、まだ、詳細は拝見させて頂いておりませんので、具体的なレスは付けられませんが「真の知性人」との定義付けを、幾つかの文献にて御説明されていらっしゃいますが、この御意見がLibraさんの御気持ちと同義であると捉えて宜しいのでしょうか?

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「真の知性人」とは? (3/3) No: 383
 投稿者:Libra  00/08/02 Wed 16:16:54

 哲学の生命は批判であり、それは誤謬を犯す危険を軽減することにある。
 さて聖人の宗教の生命は、相惜顔面のインテリゲンツァの顰蹙を大いに
かう折伏逆化にこそある。『開目鈔』に言う、「邪智謗法の者多き時は折
伏を先とすべし。常不軽品の如し」と。折伏とは相手の耳に逆らうとも父
母が赤子の口に乳を入れんとする慈悲があるが故に、強いて破邪し正法を
説くことである。それは相手の根本悪(謗法)を除いて根本善(妙法)を
下種しようとする意志より生ずる。
 しかも法華は折伏にして権門の理を破すといわれる如く、折伏の根本は
理性的批判でなければならない。折伏の根拠となる正法は、文・理・現の
三証を経て確認されていなければならないものである。
 おのれの非を言われぬために人の非を言わぬ腹黒い手合いの多い末世の
中にあって、人の非を言い人を厳しく批判した聖人は、したがっておのれ
に対しても厳しくあった。
 そのことを知らずして末代の教徒が守文の頭で真似すべき事では決して
ないのである。
 したがって念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇の格言は、悪口
乱暴でも立教のための勧俗方便でもない。念仏の厭世的世界観・禅の自我
中心主義・真言の迷信邪教的祈祷・律の形式的拘束主義に対する合理的批
判であり、娑婆即浄土観・護持正法思想・合理的啓蒙主義・自律的人格主
義ともいうべき末法万年の法滅の世界を正しく生きぬく人文宗教としての
倫理的理想を開示し、創造する建設的提言に外ならない。
 日蓮聖人の批判精神は、末法観の不安に乗じて新旧の倫理喪失の疑似規
範が、人心を昏迷せしめ、社会を惑乱せしめ国家を衰退せしめる虚構に充
ちた病的症候群となっていることを、深く洞察し強く剔決したのである。
 それ故にこそ無常苦からの解脱のために自己と社会において何がなされ
るべきであるかを追求し、成仏という人間性の回復と通一仏土という人類
の一体性を実践的に実現するために、正法を確認し正法の精神に復帰して、
末法の衆生と久成の釈尊とが子父の義を回復し、護持正法の精神の中に子
父の血脈を相承するという、根源的な人倫の規範を確立しようとしたので
ある。
 聖人は権力や大衆にへつらいおもねる学者僧等を諂曲の輩、諛臣と見て、
自らは徹底して現状批判の立場に立った。「人の邪見を申しとどめるこそ
智者にて候なれ」とも、「種々の大難出来すとも、智者に我が義破られず
ば用ひじとなり」とも述べている。
 聖人の如く一人で諸教を吟味し、一人で全世界を相手にし、自らの発言
に対して一人で責任をとる勇気あるものこそ、真の知性人であるのではな
いか。
(同上、pp. 247-248)

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「真の知性人」とは? (2/3) No: 382
 投稿者:Libra  00/08/02 Wed 16:16:32

 現代の宗教界も言論界も学界までもが、真の批判精神を欠いているとは、
よく言われることである。
 聖人は自身の眼に映った中世封建社会の学者について、『佐渡御書』に
「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し、
知者の弱きをあなどり、王法の邪をおそる、諛臣と申すは是なり」(定遺
六一二頁)と痛言している。権力と大衆にへつらいおもねる学者は諛臣で
あり諂曲の輩で畜生界のものであるというのであるが、現代にこそ通用す
る見識であるように思う。
 聖人は続けていう、「強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破
るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は獅子王の如くなる心を
もてる者必ず仏となるべし。倒せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず。
正法を惜む心の強盛なるべし」と。
 真の批判精神を取り戻すためには、人間とか大衆とか平和とかいう新し
いタブーや神話を、徹底的に吟味し直すことから始める外はないと思われ
るが、聖人は自分の時代の集団的な凡庸の中に大衆の熱気によって、すで
に世論のようにゆきわたりつつあった西方浄土とか念仏往生とかを、徹底
的に吟味したのである。『立正安国論』は念仏思想の「穢土を厭離して浄
土を欣求する」という利己的な遁世の姑息を端的に批判している。「国を
失ひ家を滅せば、何れの処にか世を遁れん」と。この批判は正法の価値基
準から、宗教人や言論人の現実世界の問題に対する道義的怠惰を叱し、責
任倫理を問うているのであると思う。
 聖人は『開目鈔』下に「なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義
破られずば用ひじとなり」(定遺六○一頁)、『頼基陳状』に「智者と申
すは国のあやうきを諫め、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ」
(定遺一三五一頁)と述べている。このことから、真の知性人とは一人で
全世界や国民大衆を相手にするほどの勇気をもって、物事のあれやこれや
を原理的根本的に吟味し直し、しかも自らの発言に対して一人で責任をと
る人間のことである、と教えられる。
 さて一層問題なのは、近時の宗教界の馴合には目に余るものがあるとい
うことである。日本仏教が聖徳太子以来、和を重んずることを美徳とする
にしても、それは相惜顔面・上下雷同で、和をもって亡ぶものであっては
なるまいと思う。既成の宗教教団の多くは歴史を経て現在に至り組織とし
て一往の成熟をみている。しかも更に利権をも含めて、その基盤を確保し
て勢力の伸長を計ろうとする。しかし宗教目的を実現するために形成され
た宗教組織は、いつのまにかその組織の保持を至上目的とするに至り、本
来の宗教目的を忘失する。また思想的にも社会的にも経済的にも弱点や欠
陥はけっこう多い。それは真摯にして訓練された批判には到底たえうるも
のではない。そこで各宗教は各各の出鱈目を許し合い、気楽に相互協力を
なしてゆくことを得策と考えるにいたる。協力の中でひそかに他を利用し
て教線を拡張しようと謀略をめぐらす手合いもなきにしもあらずである。
協力の理由は簡単である。崇高で抽象的な理想あるいは空想を虚構すれば、
こと足りるようである。
 そして宗教人は実質的には宗教儀式の執行者であるのに、形式的には偽
善的な平和の使徒や革命の前衛などに化してしまい、それで自己満足する。
しかしながらそういう宗教人の知的な怠惰による軽率と責任倫理の欠如を
チェックする機能は、すでに失われている。すなわち各宗教は相互に「専
ら敬を持する」からである。既成教団の新興教団に対する対応もそうであ
る。世論は宗教者の動向や運動の偽善に対しては、ひややかに眺めてはい
るが、余りに寛大である(ただ税務所だけが真剣である)。
 さて聖人は文明論的視野から、いわゆる理性的批判である折伏をもって、
諸宗を徹底的に批判した。人も知る如く、国権の迫害に直面しても、民衆
の暴力に身をさらしても、少しも屈しなかった。現今でいう言論抑圧や論
壇排除の被害どころではない。極楽寺良観等は訴状をもって後家尼御前と
いう女性を煽動し、幕府を呪咀する謀叛人に仕立てて、聖人を龍口で処刑
しようとさえした。
 聖人は『開目鈔』下において、当時新興の念仏や禅に対する旧仏教既成
教団のありさまを、「天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらひを
づる事、犬の主に尾をふり鼠の猫を恐るゝが如し」(定遺六○七頁)と、
その醜態を見るに堪えずと批判している。現代でも新興宗教の財力の前に
屈膝請和する既成仏教や仏教学者や宗教学者の痴態を多く目にする。
 聖人は続けていう、「国王将軍にみやつかひ、破仏法の因縁、破国の因
縁を能く説き能くかたるなり」と。
 仏教界に日蓮聖人の精神を受けた人は決して多くはない。ものわかりの
よい宗教協力者のみによるシンフォニーが合奏されるのみであり、どうに
か私はこの駄文を記すのみである。
(同上、pp. 205-208)

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「真の知性人」とは? (1/3) No: 381
 投稿者:Libra  00/08/02 Wed 16:15:55

 早稲田大学の松原正教授は『暖簾に腕押し』(地球社、昭和五十八年刊)
という書の序(四頁)に次のように記している。
   なるほど、敬を持する儒者に限らず、「己を守ること甚だ堅く人を
  責むること甚だ深」いのは凡人の常であらう。けれども、佐藤直方が
  言つたやうに、「人の非を言はぬ侫姦人あり。人をそしる君子の徒あ
  り」といふ事もある。つまり、おのれの非を言はれぬために人の非を
  言はぬ腹黒い手合がゐるし、人の非を論ふ奴のすべてが悪党とは限る
  まい。人の非を言ひ、人を厳しく謗る以上はおのれに対しても厳しく
  あらねばならず、それゆゑ他人に厳しい者が却つて「君子の徒」であ
  るといふ事もあらう。林羅山は書いてゐる。
    強ハ人ニ勝ヲイヘドモ、先ミヅカラ我ニカチ私ニカチ欲ニカツヲ
   聖賢ノ強トス。我ガ私ニカツ時ハ、其上ニ人ニ勝事必定ナルベシ。
   もとより「我ガ私ニカツ」のは容易の業ではない。人間は専らおの
  れの力によつておのれを抑へうるほど強くはない。けれども、このぐ
  うたら天国日本では、克己といふ事の重要はことさら強調されねばな
  らぬ。
 しかし佐藤直方の理想とする「君子の徒」も、林羅山の理念とする「聖
賢の強」も、わが日本の歴史においてははなはだ少ないと思う。現代では
松原教授が一人おられるぐらいなものである。しかしながら私は「君子の
徒」を日蓮の志行に思うし、「聖賢の強」を日蓮の精神に見る。
 とはいえ日蓮は単なる君子の徒とか聖賢の強ではない。日蓮は身に戒行
なく心に三毒を離れざる身であり、日本第一の僻人でありながらも、正法
を受持するが故に法華経の御使であり、法華経を身に読むが故に日本第一
の法華経の行者であり、神のため君のため国のため一切衆生のために言葉
をかざらずに真実を正直に言上する故に、また未萌を知るが故に閻浮第一
の聖人であると、自らいう。誠にはげしい気魄であると思う。この現代に
御使・行者・聖人の強を承けつぐ言行一致の言論人や宗教人は、日蓮の末
流と称する人々の中にも絶えてすでに久しく、寂しいかぎりである。
(伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、pp. 201-202)

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文底さんへ Prev: 367 / No: 380
 投稿者:Libra  00/07/31 Mon 15:33:07

 文底さん、こんにちは。レスが遅くなってすいません。

> Libraさんと川蝉さんとでは「日蓮仏法」の最後の定義付け(久遠本仏)
> に根本的相違があると考えておりますが如何でしょうか?

 おっしゃる通りだと思います。

> また、Libraさんご自身の私見でも構いませんので「釈尊が大通智勝仏の教化を受けた」
> 大通智勝仏を定義せしめる、仏教学的見地から、文献的・論理的な一考察を
> お聞かせ願えると嬉しいのですが。

 お言葉にあまえて、僕の私見を述べさせて頂きます。
 すでにこの掲示板でも述べていることですが、『法華経』が成立した段
階で、すでに「過去仏思想」がかなり定着していた(当時の常識になって
いた)わけです。釈尊の前にも仏がいたと。まずは『法華経』もその当時
の常識にのっとって論を展開しているのだと僕は思います。しかし、僕自
身はインドの釈尊より前に仏教があったとは考えません。「過去仏思想」
がリアリティをもっていた当時は、「釈尊が大通智勝仏の教化を受けた」
という教説もリアリティをもっていたということだと思います。

> 「迹の説に約せば大通智勝仏の時を指して」
> 「本門に約せば我本行菩薩道の時を指して」との文から類推すると、
> 迹の大通智勝仏=本の本行菩薩道(我は必要なのですか?)と考えられ、
> 「本行菩薩道」とはどの様な定義のものか非常に興味がでてきます。

 『法華経』は「教菩薩法」とも言われます。「菩薩道」は『法華経』の
文脈で言えば、「如来使として正法(法華経)を受持する」ということに
なると思います。もっと言えば、『法華経』になるということです。その
ためには「不惜身命」の精神を体現しなければなりません。
 「一切皆空であり、当然、自らも無自性である」ということを深く了解
している人間でなければ「不惜身命」の精神は体現できません。「妙法」
とは「縁起(一切皆空)」であり、「蓮華」とは「菩薩」であるというの
が僕の経題釈です。菩薩は縁起(正法)の体現者ということです。

> 現象学ですか、そうするとカントやヘーゲル等もお詳しいのでしょうね、

 詳しくはありません。かじった程度です。

> やはり日蓮仏法における体験的現象(功徳)がその命題と関わっているのでしょうか?

 「功徳」というのは、いろいろな「苦」を主体的に乗り切っていける歓
びのことだと思います。また「仏国土の建設」という永遠に続く作業に今
現実に参加しているという歓びも「功徳」だと思います。永遠の今を生き
るというか。

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おはよ No: 379
 投稿者:三吉  00/07/31 Mon 07:15:37

S4323さん

みたいですね。私は詳しい事はしりませんが、川蝉氏やshamon氏が詳しくお応え
くださってますね。お陰で勉強になりました。ありがとう。

文底さん

横レスです。

>私見による「方便」の定義付け

大乗の場合、そこに、目的に辿り着いても、背負いつづけるということがあるかと
思います。それが自行化他でしょうし、方便は具体化の唯一の「てだて」だと。
念仏は「南無阿弥陀仏」を日蓮系は「南無妙法蓮華経」を「てだて」としている。
と無信仰の私には見えます。
自分が渡り終えるだけでいいなら「不要」となりますが「無辺の衆生界を尽くさ
ん」と思えば要りつづけます。
自分だけで、仲間だけでいいと思うのは菩薩の死かもしれません。

それますが、こういう「方便」の意味もあるかと。

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川蝉さんへ No: 378
 投稿者:文底  00/07/30 Sun 20:21:05


川蝉さん

何時も御丁寧なレスありがとうございます。

>文中に「「嘘」(方便)であり」とありますが、嘘=方便はちょっと誤解を受ける恐れがあります。

これは私も適切な語では無いと理解しております。

>たくみな手だて。便宜な方法。巧みになされたはかりごと。すぐれた教化方法。真実の世界に導くてだて。真実の教えに導く為に仮に設けた法門。等の意味がある方便の語義が消えてしまうのではないかと思われます。

私は「方便」と言う言葉の「意」を具体的に汲み取るのには、時間が掛かりました。
川蝉さんの上記命題を何度も繰り返し考え、私なりの「方便」を定義付けて見ましたので、御検証ください。

*私見による「方便」の定義付け

ある目的(本意・本義)に向かう為の必然性をもつ手段、例えれば、川向こうに行くための「渡し舟」のようなもの。
目的(対岸)に到着すればその手段であった(船)は不必要である、然しながら、目的に到着するためには、船(方便)は必要であり、その船(方便)自体の存在が決して目的(本意・本義)を不明確にさせる事象とはならない。
むしろ、対岸(本意・本義)にたどり着くために絶対的必要な手段法(教化)となる。
したがって、方便とは「本意・本義にたどり着くために、その目的となる本意・本義とは位置付けが異なるが、本意・本義にたどり着くための必要不可欠な対機説法方」である。

この様な感じでしょうか?

>>何故、釈迦自身の説法の中の「方便」としてであっても、具体的な言葉にて、自身が前世で「大通智勝仏の教化を受けた」等・・・

>法説・譬説でもまだ二乗も作仏できる事を信じられない下根の弟子の為に、釈尊と二乗の弟子達との宿世の因縁を説いて、二乗の弟子達も成仏できると云う事を理解せしめんとしているのですね。

「大通智勝仏」と言う具体的言葉も、他の「仮の仏」(方便として)等と同様に、釈迦はあらゆる比喩的手段を使って、弟子達を化導させようとした一定義だと言う事ですね。
つまり、二乗作仏出来得る事を信じられない弟子等を、より具体的な言葉を駆使する事により、釈迦が必死に理解させようとしていた事になるのでしょうか?
ちょうど私に対して川蝉さんが取られている行為と同じですね・・・(笑)

>仏陀観の方は、始成正覚のままにしていると考えたら如何でしょうか。
>他の経典や他の宗教の聖典をも法華経を中心頂点とした体系に組み入れて生かし得る思想であり、他の神や聖人を寿量品仏の化現と開顕しうる思想だと思います。

この辺りが、日蓮仏法における「曼荼羅」(御本尊)の定義付けとも繋がっているのだと推察されますが、上記の「約束的命題の上」でならば、どの「仏・神」も「諸天善神」として許容され得ると言う事でしょうか?
そうであるならば、方便としての教義上で顕れる「仮の仏」(無論それだけの意ではないが)を「諸天善神」として、用いるならば「正直捨方便」を「完全否定」形だと解釈しては、私も行き過ぎだと思います。

>「諸宗何れの宗なりとも扁党執心あるべからず・いずれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし」

この文は、宗教に限らず全ての学術的(それ以外も含む)分野において、人間一人一人が常に心掛けて行かなければならない、事象を述べているようですね。
私自身も常に、この心がけを忘れないようにしていきたいと思います。

私のレスに問題等ございましたら、また、御意見ください。

川蝉さん色々御教授、有り難う御座いました。

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文底さんへ。追加です。 No: 377
 投稿者:川蝉  00/07/30 Sun 14:43:54

文底さんへ。追加です。

>何故、釈迦自身の説法の中の「方便」としてであっても、具体的
>な言葉にて、自身が前世で「大通智勝仏の教化を受けた」等と
>「他の誰かに教えを受けたかのような」誤解を与える表現をわざ
>わざしたのでしょうか?

法説・譬説でもまだ二乗も作仏できる事を信じられない下根の弟子の為に、釈尊と二乗の弟子達との宿世の因縁を説いて、二乗の弟子達も成仏できると云う事を理解せしめんとしているのですね。
深い因縁の有ることを知らしめんために、仮に大通智勝仏以来の教縁が結ばれていると説いたのでしょう。(本当はもっと遠い過去世からの教縁が有るのですが)

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文底さんへ。 No: 376
 投稿者:川蝉  00/07/30 Sun 14:12:23

文底 さんへ。

>仏教における仮説は、・・・本義(本当に述べたい事象)への
>「化導・教化的意味合い」と捉えれば宜しいのでしょうか?

ご理解の通りと思います。

>「意趣訳」されていますが、これは「意訳」とは意味合いの違う
>ものなのでしょうか?

同じと思ってください。ただし、余分な語を加えたので、「意訳」より、もう少し意味を強調した訳と云う気持ちから「意趣訳」と注記したものです。

>川蝉さんの論旨から考えれば「久遠仏である事が真実説」(本
>義)と解釈出来ますが宜しいでしょうか?

そのように解釈して貰って良いです。

>私流に川蝉さんの「意趣訳」を我流に訳すると

よく意を採って貰っています。ただし、文中に「>「嘘」(方便)であり」とありますが、嘘=方便はちょっと誤解を受ける恐れがあります。
たくみな手だて。便宜な方法。巧みになされたはかりごと。すぐれた教化方法。真実の世界に導くてだて。真実の教えに導く為に仮に設けた法門。等の意味がある方便の語義が消えてしまうのではないかと思われます。

宗祖は、法華経の特色を、
1、釈尊一代の説法の施説の意趣を明かしたもの(佛経全体を体系づけたもの)教法の統一を説いたもの。
2、二乗作仏を宣言し十界互具平等を説いたもの。
3、久遠本仏を明かし無量劫来の教導と諸仏の統一を説いたもの。と捉えています。

1と2は法華経前半の主題ですね。この主張も爾前の諸経に説かれなかった思想ですが、仏陀観は爾前の諸経に同じて始成正覚の立場に立っています。
3は寿量品に至って初めて主張される思想です。

「本尊抄」にも「一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此は教門の難信難解なり」(239頁)と有る通りですので、

>しかし、Aと言う命題が導き出せた瞬間、FEDCBはその時点
>で、全く意味の無いもの(極論すれば間違いと言う定義)なって
>しまうのは「1+1=2」である、基本原理を否定する数学のよ
>うなものであり、
と思われるのも無理ない事だと思います。

佛教教理の発展史と云う面から考えた方が理解しやすいと思われます。教理思想がさらに深化高められ、二乗成仏も成仏できる、釈尊は久遠劫来常住不滅の仏であると云う結論が出て、今まで、二乗成仏は出来ない、成仏できない者も居る、釈尊は始成正覚の仏であるとしてきた立場が変更されたのですね。
迹門は、先に挙げた1と2が主題なので、仏陀観の方は、始成正覚のままにしていると考えたら如何でしょうか。

>「正直捨方便」との一文は、方便である教えは、今後一切今後用
>いてはならないとの「完全否定」形だと解釈できるのですが、如
>何でしょうか?

法華経の教判は、全仏経典を、法華経を頂点・中心とした一大体系と見て、法華経を根本・中心にして行く事だと思います。
たしかに、「一偈をも受けざれ」とも「正直捨方便」ともあるので、「完全否定」とも思われ勝ちな点もありますね。

しかし、「嘱累品」に「信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於いて示教利喜すべし」ともあるし、
御書の引証は長くなるので挙げませんが、宗祖の立場を達意的に云うと、
仏種は法華経・妙法五字に限る(下種結縁は法華経に限る)が、余経は養分に成る。法華経と云う塔を建てたり修理するときには足場に譬えられる諸経は必要である。人を善導する世間流布の善論は法華経の支流に譬えられる。法華経には成仏という大綱を説き、細目は諸経に説いてある。
等と云うお考えがあるので、「完全否定」形だと解釈しては行き過ぎの点がありましょう。

他の経典や他の宗教の聖典をも法華経を中心頂点とした体系に組み入れて生かし得る思想であり(本尊抄の序正流通の思想)、他の神や聖人を寿量品仏の化現と開顕しうる思想だと思います。

>文献的教義解釈によってハッキリと黒白が結論付けられない命題
>においては、自身の解釈も「一解釈」との謙虚さを持って他の思
>想を「許容」する事も又「慈悲」であると考えられるのですが如
>何でしょうか?

まったくその通りと思います。
「諸宗何れの宗なりとも扁党執心あるべからず・いずれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし」(破良観等御書・1292頁)との学道の精神を忘れてはいけないと思います。

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川蝉さん(他の皆さん)へ No: 375
 投稿者:文底  00/07/29 Sat 13:36:15

川蝉さん

>私は、仮に設けた一時的な説法、いわゆる方便の説と云う意味で仮説と表現したのでした。
>仏教辞典では、仮説は、仮に説くこと。比喩的表現。実物をそのままに表現するのではない表現。と定義づけられています。

仏教上の仮説に対する定義付け有り難う御座いました。
つまり仏教における仮説は、定説(宗教に定説なる定義は不適当ですが・・・・)を裏付ける表現方法ではなく、比喩的表現を使用した、本義(本当に述べたい事象)への「化導・教化的意味合い」と捉えれば宜しいのでしょうか?

>「皆、今の釈迦牟尼仏 釈氏の宮を出て伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂へり。然るに善男子、我実に成仏してより己来無量無辺百千万億那由佗劫なり」

を川蝉さんは

>「前世において大通智勝仏の教化を受けるなどの修行をしてきた結果、このたび、伽耶城の近くで成仏したと想っているだろうが、本当は、成仏してより己来無量無辺百千万億那由佗劫過ぎているのである」

と「意趣訳」されていますが、これは「意訳」とは意味合いの違うものなのでしょうか?
「逐語訳」に近いものなのでしょうか?
又これは、寿量品(本門)における定義ですから、川蝉さんの論旨から考えれば「久遠仏である事が真実説」(本義)と解釈出来ますが宜しいでしょうか?
又、私流に川蝉さんの「意趣訳」を我流に訳すると

「私(インドにおける釈迦)は、今まで、前世において、大通智勝仏の教化を受けるなどの修行をしてきた結果、伽耶城の近くで成仏したと皆(弟子達)に述べてきたが、実はそのずっと昔(久遠)に仏であったのです、だから、大通智勝仏の教化を受けるなどの修行したと言うのは「嘘」(方便)であり、本当は、誰からも教化など受ける必要性は無く、最初から仏だったのです。ただ、君達(弟子)が最初から、その本意を語っても理解出来ないだろうから、仮の教えとして、今まで色々述べて来たに過ぎない。だから、これからは仮の教えは一切捨ててこれからの私が述べる事を信じなさい。」

と言う事でしょうか?

それであれば「大通智勝仏」との定義付けは「地獄図」「極楽図」等と同様に「心の一状態」を比喩として論じた、絵空事に過ぎないので「大通智勝仏」の定義付けなど、全くのナンセンスのような気もします。
しかし、何故、釈迦自身の説法の中の「方便」としてであっても、具体的な言葉にて、自身が前世で「大通智勝仏の教化を受けた」等と「他の誰かに教えを受けたかのような」誤解を与える表現をわざわざしたのでしょうか?
やはり、迹門は迹門としての意味付けがあると思うのですが、私のような立場が考える教化的指導方法とは、根本的に迹門の定義付けが違うような気がします。
つまり、Aと言う根本的命題を導き出すためにFからE→D→C→B→とその対象となる立場の能力(機根)に会わせて説明する事は、理解出来ます。
しかし、Aと言う命題が導き出せた瞬間、FEDCBはその時点で、全く意味の無いもの(極論すれば間違いと言う定義)なってしまうのは「1+1=2」である、基本原理を否定する数学のようなものであり、あいうえおの語源を否定しながらも文章を読解しなければいけない文学のようなものであり、全く私のような人間には理解できないのです。
これはどのように考えたらよいのでしょうか?
少なくとも「正直捨方便」との一文は、方便である教えは、今後一切今後用いてはならないとの「完全否定」形だと解釈できるのですが、如何でしょうか?
何故、このような事に拘るかと申しますと、この思想自体に、他の教えを「否定」する「教判」における根本的命題が隠されているからです。
宗教はその特性上、慈悲の精神を持ち、苦を抜き楽を与える事を本義に、人間がその意識・無意識を問わず過去の歴史において「祈り」「願い」「振舞った」行為そのものだと思うのです。
問題なのは、その教義の「位置付け」と「唯一性」です。
開祖・宗祖の本義である「慈悲と抜苦与楽」の精神がその教義の「位置付け」と「唯一性」によって、その宗教に関わらない人間に対し「不都合を生じさせる命題ならば」意図せずとも、宗教本来が持つ「慈悲と抜苦与楽」の精神を一集団(該当の宗教団体)のみに限定してしまうと思うのです。
無論、宗教と言う名ばかりのエセ集団もあるでしょう、しかし、文献的教義解釈によってハッキリと黒白が結論付けられない命題においては、自身の解釈も「一解釈」との謙虚さを持って他の思想を「許容」する事も又「慈悲」であると考えられるのですが如何でしょうか?(川蝉さんがそうだとは言っていませんので、誤解なさらないで下さい)
少し話が脱線してしまいました・・・・(スミマセン)

>大通智勝仏がいかなる仏であったかは、真偽論の無い御書には特に説明は無いようです。

しかしながら「開目抄」「御義口伝」「法華経直談抄」等の具体的文献の一文を掲示されての川蝉さんの論述は大変参考になりました。
又その真摯的論述態度には敬意の念を持ち、感謝の気持ちを抑えきれません。
何れにせよ「大通智勝仏」の文献的定義並びに川蝉さんのご意見は大変参考になりました、謹んで感謝の気持ちを述べさせて頂きます。

また、上記の私の讒言に対し何かコメント等ありましたら、他の皆さんもご遠慮無く仰って下さい。

以上有り難う御座いました。

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 No: 374
 投稿者:S4323  00/07/29 Sat 11:45:29

三吉さん、川蝉さん、沙門さん、おはようございます!。


三吉さん、いつも、レスありがとうございます。

>一念三千は我々の人間の一念のあり方から三千を説いてますが、それを現象それぞれに展開したということなのでは?

全ての存在・現象に各々、三千を具す。(有情だけが、一念三千の当体ではない。)ということでいいんですネ。


川蝉さん、こんにちは

>四明知礼は万法唯心はなお、権教を兼ねるものにして他師皆説く、一切の唯色は、ただ円宗のみに在りといい、知礼にとっては現実界の三千世間の当相当処がそのまま円融三諦の実相であるとし、唯色説を強調したそうです。

ここの所は、私には少し難しいです。

>「色具三千」は「一色一香無非中道」の別表現と見て良いと思います。

「一色一香」を、手がかりに、調べてみましたら、川蝉さんのおしゃるとうりでした。
「・・・一塵一香一心一念悉く然りである。故に色香中道とも称し、又色具三千とも云って居る。」(天台学概論)
とありました。
あと、「色具三千」という言葉は、御書には、出てこないみたいですが、草木成仏口決に
「・・・天台大師も無非中道といへり、一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千依正等をそなえずと云う事なし、・・」とありますが、この文のように「色具三千」を、理解して良いのですね。

shamonさん

>一念三千は、心具三千と同意と云える。
湛然は「法華玄義釈籖」において色心不二を立てる。
故に、色具三千なり。

>つまり、声・唱題に一念三千を具足することになる。

一番わかりやすかったです。
学会の御書講義みたいです。

みなさん、どうもありがとうございました!。
また、お願いしまッス。

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色具三千 No: 373
 投稿者:shamon  00/07/28 Fri 22:38:32

一念三千は、心具三千と同意と云える。
湛然は「法華玄義釈籖」において色心不二を立てる。
故に、色具三千なり。

宗祖は「木絵二像開眼之事」にて、「意は心法、声は色法〜
色心不二なるが故に〜」とす。つまり、声・唱題に一念三千
を具足することになる。

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S4323さんへ No: 372
 投稿者:川蝉  00/07/28 Fri 17:25:08

S4323さん初めまして。

「色具三千」について
辞書には、「三千の諸事象の一つ一つに三千が具わっていること。四明知礼が説いた」とありました。
四明知礼は万法唯心はなお、権教を兼ねるものにして他師皆説く、一切の唯色は、ただ円宗のみに在りといい、知礼にとっては現実界の三千世間の当相当処がそのまま円融三諦の実相であるとし、唯色説を強調したそうです。

妙楽大師は「一切諸法 心性に非らざること無し」と「総在一念」を説いたが、必ずしも「総」を「心性」に限定していない。そこで知礼は、妙楽大師が「総在一念」としたのは観法の便宜の為であって、実には一色を総としても、一香を総としても差し支えないものであると考えているそうです。

「一色一香無非中道」の句は天台が、円教の義を説く時の句ですが(一念三千の教理から出てくる句です)一色一香とは、一つの色(形色・顕色)、一つの香というような、ごく小さな物質の事で、そうした微細な物質も中道実相という真理の本体、当体であり、一つの色、一つの香にもその性に三千法界の依正を具すと云う思想です。
恐らく、「色具三千」は「一色一香無非中道」の別表現と見て良いと思います。

「一色一香無非中道」の義は、「非情にも仏性あり」へと展開する思想で、妙楽大師が弘決第一に「一色一香無非中道」を説明する中で、十義をもって「非情にも仏性あり」を論じ、終わりに「一塵に一切衆生の仏性を具足し、また十方諸仏の仏性を具足す」と結語しています。

別な辞書を見たところ、「一色一香無非中道」とは有情の悟りの心より観たるもので、非情自身に三千を具するには非らずと云う見解と、有情非情ともに中道実相の体であるから共に三千を具すという見解があるが、後者の色具三千をもって台家の正意とする。とありました。

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川蝉さんへ No: 371
 投稿者:文底  00/07/28 Fri 13:08:47


川蝉さん

度々の私の愚問に真摯的にお答えくださり、感謝の極みです。
川蝉さんが今回述べれた事象は、私が抱いている疑問に対し、
より具体的に述べて頂いております。
まだ、全文を検証するには至っておりませんので、具体的なレスは後ほどと致しますが、
先ずは、川蝉さんの度重なる御好意に対し、取り急ぎレス致しました。
川蝉さん有り難う御座いました。

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文底さんへ。 No: 370
 投稿者:川蝉  00/07/28 Fri 09:13:49

文底さん今日は。

>したがって、迹門におけるの仏陀観も、本門における諸仏統一観
>も、「様々な事柄の間の関係が実際には確かめられていない」定
>義においては、どちらも仮説と定義付けられるのではないので
>しょうか?

仮説の語義は、一般的には、文底さんの云われるとおりなのでしょうね。私は、仮に設けた一時的な説法、いわゆる方便の説と云う意味で仮説と表現したのでした。本当のところは、久遠本仏であるけれど、教化の都合上、大通智勝仏に教化を受けた事のある始成正覚の仏であると説いたと云うことですね。
仏教辞典では、仮説は、仮に説くこと。比喩的表現。実物をそのままに表現するのではない表現。と定義づけられています。

「皆、今の釈迦牟尼仏 釈氏の宮を出て伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂へり。然るに善男子、我実に成仏してより己来無量無辺百千万億那由佗劫なり」
と寿量品にあります。意趣訳すれば
「前世において大通智勝仏の教化を受けるなどの修行をしてきた結果、このたび、伽耶城の近くで成仏したと想っているだろうが、本当は、成仏してより己来無量無辺百千万億那由佗劫過ぎているのである」との意ですね。
久遠仏である事が真実説であり、寿量品の釈尊観は仮説(方便説)でないと云うことですね。

>ある事象(此処では釈尊が大通智勝仏の教化を受けた)と言う
>「仮説」をやはり論議の対象としても、決して筋違いでは無いと
>思うのですが、如何でしょうか?

そうですね、釈尊が大通智勝仏の教化を受けたと云う事柄は、一時的な方便(真実を説く前段階として、説かれたもの)であるとしても、いたづらに無意味に説かれた筈はないのですから、いかなる意匠のもとに説かれたのかと考えることは重要だと思います。

>迹門におけるの仏陀観の文献的教義解釈の中で、具体的文献に
>て、大通智勝仏の命題(どの様な位置付けで捉えるべきか?)に
>ついて、言及している一文があるでしょうか?

コメントに成らないかも知れませんが。
「開目抄」に「迹門爾前の意を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏なり、過去の因行を尋ね求れば」(242頁)と述べ、因行の一つとして、「三千塵点等の間七万・五千・六千・七千等の仏を供養し劫を積み行満じて今の教主釈尊と成り給う」と書かれています。大通智勝仏の教化を受けたと言う話しは、迹門の立場で説く釈尊の過去の因行を語るものとしているのですね。
大通智勝仏がいかなる仏であったかは、真偽論の無い御書には特に説明は無いようです。
「御義口伝」(733頁)には、観心釈・法門釈的に大通智勝仏について記述してありますね。
室町の日本天台の文献「法華経直談抄」には、「大通仏とは一念不生の本源真如法界の体なり」とか「大通智勝とは一心三観なり。大通は空なり、大は空の義と釈する故成り。智とは照了分別体なる故に仮体なり。勝とは中の義と釈する故に中道なり」等と法門釈的な説明がしてあります。

>3つの命題以外にも種々の
>意義が読み取れそうで、自分自身のこの性格が嫌になってしまい
>ます。

汲めども尽せない経文ですから、種々の意義を読み取って良いのでは。感性があればあるほど、種々の意義を読みとれると思います。
追加しますと、日蓮聖人は、「久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり」(開目抄232頁)と不信受と悪知識の悪影響を示す話しと受け取ってもいます。
また、「法華取要抄」(332頁11行目)にあるように教判の根拠にもしています。
(御書頁は創価学会版です)

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おはよ S4323さん No: 369
 投稿者:三吉  00/07/28 Fri 06:31:34

>色具三千

天台の四明知礼の説。
仏教で「色」というのは形作られたもの、つまり具体的な物質を示しますが、
それは壊れるもの、変化するもの、つまり一時的な現象という意味を持ちます。
「具」といのうは備わっているという意味。
つまり三千の諸事象の一つ一つに三千が備わっているという意味になります。

一念三千は智の説ですから、それを踏まえての説だと思います。
一念三千は我々の人間の一念のあり方から三千を説いてますが、それを現象それぞ
れに展開したということなのでは?と愚推します。
あるいは華厳経の「インダラ網」を思わす説です。

とはいえ、詳しい事はしりません。

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調べようがない・・・。、 No: 368
 投稿者:S4323  00/07/27 Thu 21:54:42

Libraさん、川蝉さん、三吉さん、みなさん こんばんは!。

「色具三千」とは、なんでしょうか。どなたか解説してください。

一念三千と、どのような関連があるのですか?
調べようにも、資料すらわかりません。

宜しくお願いっス。

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Libraさんへ No: 367
 投稿者:文底  00/07/27 Thu 13:04:45


Libraさんへ

追加レスも含め、度々のご意見ありがとうございます。
具体的文献の掲示や、自身の御立場の定義を詳しく述べてくださり、
感謝しております。

>僕と川蝉さんとでは「久遠仏」の解釈が異なりますので・・

Libraさんと川蝉さんとでは「日蓮仏法」の最後の定義付け(久遠本仏)
に根本的相違があると考えておりますが如何でしょうか?
この板の方は皆さん博学で、見識のある御意見なので、事の推移楽しみにしております。
また、第三者的立場からトンチンカンな横レスを入れるかもしれませんが、
その時は、御了承下さい。

Libraさんが述べられた、具体的教義における事例は、大変良く理解できましたし、
勉強になりました。感謝致します。
ただ、川蝉さんにレスしたように
>>文献を仮説を証明するための教義的解釈と捉えるならば、
>>本迹いづれの文献的定義付けにおいても、ある事象
>>(此処では釈尊が大通智勝仏の教化を受けた)と言う「仮説」を
>>やはり論議の対象としても、決して筋違いでは無いと思うのですが、
Libraさんはどのように考えますか?

また、Libraさんご自身の私見でも構いませんので「釈尊が大通智勝仏の教化を受けた」
大通智勝仏を定義せしめる、仏教学的見地から、文献的・論理的な一考察を
お聞かせ願えると嬉しいのですが。
ただ、妙楽大師の
「迹の説に約せば大通智勝仏の時を指して」
「本門に約せば我本行菩薩道の時を指して」との文から類推すると、
迹の大通智勝仏=本の本行菩薩道(我は必要なのですか?)と考えられ、
「本行菩薩道」とはどの様な定義のものか非常に興味がでてきます。
もし宜しければ「本行菩薩道」に付いての具体的定義付けをお聞かせ願えると、
より一層迹門における「大通智勝仏」の意義付けが、私のような第三者の立場でも、
明確になって来ると思います。
もし宜しければ御教授下さい。

>僕は西洋哲学では後期フッサール→メルロ=ポンティの路線(現象学)に注目しています。

現象学ですか、そうするとカントやヘーゲル等もお詳しいのでしょうね、
現象学自体の定義は、フッサールの立場で考えれば、事実としての心理現象ではなく、
純粋意識の体験である現象の本質を命題にしていますが、
やはり日蓮仏法における体験的現象(功徳)がその命題と関わっているのでしょうか?
私は哲学も「ある普遍的真理」を見出そうと「もがいている」学問であると解釈しています。
逆説的に考えれば、もがききった結果が「宗教」に帰納、
若しくは演繹したのだと解釈できますが、その宗教の正邪の実態を「教判」するのが
中々私のように「二乗」の心が強いと見えてきません。
また、御意見等御座いましたら遠慮無く述べて下さい。

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川蝉さん遅くなりました No: 366
 投稿者:文底  00/07/27 Thu 12:19:00


川蝉さんへ

レス大変遅くなりました。

私は仏教学においては(他でもそうですが・・・)浅識で薄学な為、
無礼、失礼とも思われる問題定義をする事が、多々あるとは思いますが、
二乗における「愚者の讒言」とでも御達観下さり、川蝉さんの寛大なる御配慮を持って、
お読み下さる事、お願い致します。

>「化城喩品」では、諸仏はそれぞれ別の仏であり、釈尊も伽耶始成の始覚仏とされていています。
>これは諸経・迹門の仏陀観の特色ですね。

これは法華経迹門としての定義付けですね。

>寿量品では、諸仏が各修各別の仏であることや釈尊の伽耶始成を、
>仮説であったと否定して、釈尊は久遠本仏であり、諸仏は分身であると説いたのですね。
>久遠本仏の元に諸仏を統一するのですね。

そして、これは法華経本門としての定義付けと理解致しております。

>すると、三千塵点劫の昔に釈尊が大通智勝仏の教化を受けたと云う話しや、
>伽耶始成は、ことごとく仮説であったと云う事になりますね。

正に仰る通りなのですが、仮説と言う定義付けは、
「様々な事柄の間の関係が実際には確かめられていない場合、
それを統一的に説明するための理論的な事象」と一般では定義付けらています。
したがって、迹門におけるの仏陀観も、本門における諸仏統一観も、
「様々な事柄の間の関係が実際には確かめられていない」定義においては、
どちらも仮説と定義付けられるのではないのでしょうか?
文献を仮説を証明するための教義的解釈と捉えるならば、
本迹いづれの文献的定義付けにおいても、ある事象
(此処では釈尊が大通智勝仏の教化を受けた)と言う「仮説」を
やはり論議の対象としても、決して筋違いでは無いと思うのですが、
如何でしょうか?

>仮説である以上、「>大通智勝仏の現世(歴史上現存していた人間)
>における定義付けは誰になるのでしょうか?」と云う事を問う必要は無いのではと思います。

私の問題定義が、歴史上の人物として限定していたため誤解を受けたのかも知れませんが、
この命題(釈尊が大通智勝仏の教化した大通智勝仏の実相)は何も固有名詞でなくても
構わないのです。
つまり、歴史上の人物の固有名詞である「釈迦」「日蓮」「親鸞」「キリスト」「モーゼ」
等に限定せずとも「慈悲の精神を持って実践した人」「十界の中に存在する生命の状態」等
抽象的表現であってもそれが「仮説」を「統一的に説明するための理論的な事象」の
一つであれば、私は全然構わないのです。

そこで今一度お尋ねいたしますが、迹門におけるの仏陀観の文献的教義解釈の中で、
具体的文献にて、大通智勝仏の命題(どの様な位置付けで捉えるべきか?)について、
言及している一文があるでしょうか?
その一点について出来得ればお答え下さい。

また、天台の「玄義巻第七下 」や日蓮の「開目抄」における文献的教義解釈は
「諸仏観」における、大変具体的な一説であり、勉強になりました感謝致します。

>>「過去の大通智勝仏」との下りから、複数の人間・仏・菩薩・如来等が想像できますし、
>>鎌倉時代以降にも「大通智勝仏」に相当する人間・仏・菩薩・如来等が顕れるとも受け取れます
>と云うのは少し深読みでは、と思います。

疑い深くてスミマセン!
如何しても第三者的に仏観を検証しようとすると「我見」(余り良い事でないのでしょうが・・・・)が入り、具体的、客観的論証を求めてしまうのです。
ただ、「我見」はあくまで「我見」ですので、具体的、客観的論証
(文献的解釈や論理的証明法)が大筋で納得すれば、
余り細かい事象に拘る気持ちはありません。

「化城喩品」に付いての定義付けも勉強になりました、ただ、私のような人間は、
川蝉さんが述べた、3つの命題以外にも種々の意義が読み取れそうで、
自分自身のこの性格が嫌になってしまいます。

何れにしましても川蝉さんの具体的文献の一説を駆使されての御説明は、
私のような人間には、大変参考になりますし、川蝉さんの真摯的対応に感謝し尊敬いたします。
以上僭越ではありますが、私見を述べさせて頂きました。

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補足(自己レス)&文底さんへ Prev: 363 / No: 365
 投稿者:Libra  00/07/26 Wed 15:56:01

>   迹の説に約せば即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し寂滅道
>   場を以て妙悟と為す若し本門に約せば我本行菩薩道の時を指して以
>   て積劫と為し本成仏の時を以て妙悟と為す
>   (「八宗違目抄」、全集、p. 160)

 上記見解は妙楽大師の釈です(『弘決』)。

#文底さん、詳しい自己紹介ありがとうございました。今時間が無くて詳しく
#レスを書けませんが、僕は西洋哲学では後期フッサール→メルロ=ポンティ
#の路線(現象学)に注目しています。
# あと勝劣派ですか?ということですが、実際には「次第勝劣」といいまし
#ょうかそんな感じです。確かそのあたりのことはこの掲示板でもかなり初期
#のころに少し話題にした記憶があります。また改めて書きます。僕の立場は
#川蝉さんからみれば「観心主義偏向」となるのかもしれません。
#今ちょっと時間がないので今日はこのへんで失礼します。

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今回は自己紹介です。 No: 364
 投稿者:文底  00/07/26 Wed 13:45:37

Libraさん初めまして
此方こそ宜しくお願い致します。

川蝉さん
もう暫くお待ち下さい。

いきなり、この掲示板に御邪魔したのにも関わらず、川蝉さん、Libraさんの御丁寧なレス、
本当に感謝しております。
この掲示板は、文献学的教義解釈において、真摯的克つ、誠実な論議のやり取りが
多岐に渡って行われておりますので、時々、ROMさせて頂いておりました。

此処で、順序が逆にはなりましたが、現在の私のスタンスを述べさせて頂きます。

私は、宗教の必要性を感じながらも現在無信論者で、もっぱら雑学的好奇心から、
哲学・倫理学等に手を出し、その延長線上にて「宗教」と言う命題における、
仏教的の価値の定義付けを愚考するようになりました。
何故、哲学において、仏教的命題を求めたかと言えば、その共通的論理傾向にあります。
特に日蓮仏法においては、知人に「創価学会」「法華講」の両者がおりましたので、
否応なくと言いますか・・(彼らにとっては慈悲の心ですね)折伏を受けた経緯において
「創宗問題」や「日蓮教学」を討論・検証させて頂いたので、
若干の教学的知識はもっております。(日興門流的教義です)
そして、その中の「仏」に対する解釈において、哲学における「生命論」と近似値的な
非常に似通った傾向性を感じました。
哲学の分野においても多種の思想がありますが「新プラトン主義やベルクソンの思想」は
かなり仏教的思想と共通の認識が見られます。
仏教に「因・縁・果」という言葉がありますが、
川蝉さん、Libraさんは「フィヒテ」と言う哲学者を御存知でしょうか?
彼もまた、ベルクソンに影響を与えた一人であり、彼の思想には、二つの時期があり
第一期は自我を中心にして述べられ、第二期は神(キリストではありません、
人間が根本的に拠り所する「何か」を神と定義しているのです)へと
思想が変遷するのです。
デカルト(コギトと存在論的証明との二重の位置づけの証明)の思想からカント
(普遍妥当的認識の先験的可能性)へ移行し、そして、フィヒテは
「もし概念が統覚の一性から導出されることが証明されるとしたら、
われわれは直観の質料そのものが形相の創造であると主張することに至るであろう」
と意志主義的・理想主義的哲学を展開しました。
その延長線上にベルクソンの哲学は見出されたのです。
何れにせよ、彼らの哲学思想のいたる所に「神」と「人間」との位置付けが模索されているのは、
カントが述べた「我思う」処の本質的命題であり、私がその延長線上の哲学的命題を「直感」
に基づいて導き出したのが所謂「哲学上の神=宗教上の仏=生命」です。
「フィヒテ」は自身の哲学的命題を論証する上で、因果性(非我が自我を規定する)
に付いて述べている所があり、仏教の定義に「フィヒテ」「ベルクソン」の哲学に
非常に近い志向性を感じたので、私は、宗教における論理的証明法によって私自身の
「生命論」(生き方)を確立できればと思っているのです。
しかし、未だ、その全称命題において論理的説明付けのある「教義」に出合った事がありません。
そこで、前述いたしました、”2ch”と言う掲示板の「続・日蓮って」と言うスレッドにおいて、
色々な、お立場の方と、論議をしているのです。
その論議の中で、創価学会員の方と釈尊と日蓮の教義的定義付けの論議になり、
その論議の推移から大通智勝仏の位置付けが良く分からない事になってしまったのです。
そこで、大変博学な方がいらっしゃるこの板にて、問題定義させていただきました。

今回は、自己紹介的内容で終わってしまいましたので、川蝉さん、Libraさんに対する
具体的レスは、もう暫くお待ちください。

尚、私はその立場上「日蓮上人」「日蓮聖人」「日蓮大聖人」と呼称出来ませんので、
「日蓮」と敬称を略させて頂きますが、その御立場の方々の、宗教的内容を傷つける事が
目的ではありませんの予め御了承ください。

最後に川蝉さん、Libraさんの御立場の確認なのですが、
川蝉さんは日蓮宗の方(一致派)
Libraさんは創価学会の方(勝劣派)との認識で宜しいでしょうか?
以上、長文・駄文失礼致しました。

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文底さんへ Follow: 365 / Prev: 362 / No: 363
 投稿者:Libra  00/07/26 Wed 10:35:24

 文底さんはじめまして。これからもよろしくお願い致します。

> 処で、このスレでの論議の推移にて、大通智勝仏の第十六番目の王子は、
> 三千塵点劫の昔に出現して法華経を説いた大通智勝仏が、説いた法華経を、
> 再び十六の王子が教えを説き大衆に結縁したとされている「大通覆講」上
> での定義付けが問題になっております。

 川蝉さんがすでに「伝統的宗学」の立場から完璧に解説して下さってい
ますので、今更僕が言うべきことは何もないかとも思いますが、僕と川蝉
さんとでは「久遠仏」の解釈が異なりますので、僕の立場からも少しだけ
コメントを試みます。

 釈尊が「大通智勝仏の第十六番目の王子」として描かれているのは、迹
門の立場で「釈尊の因位」を描いているということでしょう。つまり、歴
劫修行(因果異時)の因位です。

  迹の説に約せば即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し寂滅道
  場を以て妙悟と為す若し本門に約せば我本行菩薩道の時を指して以
  て積劫と為し本成仏の時を以て妙悟と為す
  (「八宗違目抄」、全集、p. 160)

 宗祖の立場は当然のことながら、基本的には

  爾前は迹門の依義判文迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判
  義は本門に限るべし
  (「十章抄」、全集、p. 1274)

です(三重配当)から、本門によって、一切の諸仏は久遠本仏の分身仏
であるとされます。ここまでは僕と川蝉さんとで意見は対立しないはず
です。問題はこのときの「久遠本仏」の意味になります。
 僕の立場では、上の三重配当の立場をさらに止揚し、「文上を廃して
文底を興」す「四重興廃」の立場から見れば、

  仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり
  (「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」、全集、p. 247)

ということになり、以下のような主張になります。

  > 『法華経』になった人間の系譜が現実に「衆生教導の活動をする」の
  >であり、その「異体同心の永遠の系譜の全体」こそが「生々活々として
  >いる能動的な仏身」であり「久成釈尊」だと言うことです。このことを
  >知らない人は「法華経を持つとも無益」だと言わざるを得ません。
  >
  >  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無
  >  しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うな
  >  り、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
  >  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)
  >
  >  総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同
  >  心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云う
  >  なり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり
  >  (同上、p.1337) 
  >
  >  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  >  (同上、p.1338)
  (本掲示板、00/07/20 Thu 12:53:00)

 本尊抄の「所化以て同体なり」という表現を上のように解釈すること
には、川蝉さんの立場からは異論があると思います。また、「四重興廃」
については伊藤瑞叡教授を見解を紹介しておきます。

   配当とは各時代の人々の資質に各宗教の諸教法を配当して、その
  適否を論じ如何なる経の如何なる法が末法を救済する真の原理であ
  るかを明かすことである。それは信にもとづく行を導く学に正しい
  観点と方法を与える。本宗においては爾前(法華経以前の説法)・
  法華経の迹門(方便品を中心とする前十四品)・本門(寿量品を中
  心とする後十四品)の三重を正法・像法・末法の三時の衆生の機根
  (教法を受けて教化を被る資質)に配当する。この三重配当をもっ
  て法華本門の教法こそ末法応時の要法であると見る。さらに本門に
  おいて一重を加えて文上を廃して文底を興し文底の観心として妙法
  五字を明かす。これを四重興廃という。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 196)

  



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有り難う御座いました。 Follow: 363 / No: 362
 投稿者:文底  00/07/25 Tue 23:15:09


川蝉さん初めまして

早速の御丁寧なレス有り難う御座いました。
概要は拝見させて頂きましたが、まだ詳細な部分を検証しておりませんので、
川蝉さんに対してのレスは後日述べさせて頂きます。
先ずは、川蝉さんの御好意に対し深く感謝致します。

他の皆さんも、もしNo359の「大通智勝仏」定義付けにおきまして、
何か御意見等ありましたら、御遠慮無く御書込み下さい。
宜しくお願い致します。

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文底さんへ。 No: 361
 投稿者:川蝉  00/07/25 Tue 18:06:03

文底 さん初めまして。
質問の意をはずしているかも知れませんが。

「化城喩品」では、諸仏はそれぞれ別の仏であり、釈尊も伽耶始成の始覚仏とされていています。これは諸経・迹門の仏陀観の特色ですね。
寿量品では、諸仏が各修各別の仏であることや釈尊の伽耶始成を、仮説であったと否定して、釈尊は久遠本仏であり、諸仏は分身であると説いたのですね。久遠本仏の元に諸仏を統一するのですね。
すると、三千塵点劫の昔に釈尊が大通智勝仏の教化を受けたと云う話しや、伽耶始成は、ことごとく仮説であったと云う事になりますね。
仮説である以上、「>大通智勝仏の現世(歴史上現存していた人間)における定義付けは誰になるのでしょうか?」と云う事を問う必要は無いのではと思います。

天台大師は「玄義巻第七下 」に
「普賢観に云はく、東方に仏有り、名付けて善徳という。彼の仏に亦分身の諸仏あり、ともししからば、亦諸仏有り、諸仏にまた分身有らん」
と云っていて、有始報身の釈尊とその分身仏の他に、外の仏とその分身が有るとしているようですが、日蓮聖人の場合は、
「開目抄」に
「此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり、爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり」(学会版214頁)とあり、また「法華取要抄」にも
「尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり、天月の万水に浮かぶ是なり」(学会版333頁)
とあるように、久遠実成釈尊を三身具足の無始の古仏すなわち久遠本仏とするので、釈尊は三世に亘り、十方に遍して法界の統一主であり、諸仏はすべて本仏釈尊の分身であると云うお考えです。

「撰時抄」の冒頭は、大通智勝仏が「十小劫を過ぎおわって仏道を成ずる事が出来た。そこで十六の子達等が説法を請うたが、時いまだ来らずと知って、しばらくの間、黙然としていた(取意)」との経文を受けて、仏法は時を撰んで説かれるものであることを提示している箇所ですね。
>「過去の大通智勝仏」との下りから、複数の人間・仏・菩薩・如
>来等が想像できますし、鎌倉時代以降にも「大通智勝仏」に相当
>する人間・仏・菩薩・如来等が顕れるとも受け取れます
と云うのは少し深読みでは、と思います。

「化城喩品」には種々の意義がくみ取れると思いますが、
釈尊ならびに諸仏の本願は「常に楽って是の妙法蓮華経を説く」事であること。
娑婆世界の衆生は、遙かな過去より、釈尊と深い教縁が有ること。釈尊説法の目的は法華経を説くにあること。
種・熟・脱の教化のあること。
等を知らしめる事を主目的とした品であると受け止めて置けば良いのではと、思われます。

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申し訳ありません。 No: 360
 投稿者:文底  00/07/25 Tue 05:15:49

下記論議のスレッドのアドレスが違っておりました。
謹んで訂正させて頂きます。

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=koumei&key=960174403&ls=100

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初めまして No: 359
 投稿者:文底  00/07/25 Tue 05:11:35


みなさん初めまして
文底と申します、宜しくお願い致します。
私は、あの悪名高き”2ch”と言う掲示板の「続・日蓮って」と言うスレッドにて、
色々皆さんに日蓮仏法の教学に付いて、教えて頂いております「愚者」です。
処で、このスレでの論議の推移にて、大通智勝仏の第十六番目の王子は、
三千塵点劫の昔に出現して法華経を説いた大通智勝仏が、説いた法華経を、
再び十六の王子が教えを説き大衆に結縁したとされている「大通覆講」上での定義付けが
問題になっております。
この定義上であれば「覆講」上は第十六番目の王子は釈尊の過去世
(始成正覚の迹仏の釈迦の過去世)となりますが「大通」上の定義である
「三千塵点劫の昔に出現して法華経を説いた大通智勝仏」は
釈尊の過去世とは別の人間(仏)と類推できます。
一体この「大通智勝仏」の現世(歴史上現存していた人間)における定義付けは
誰になるのでしょうか?
ちなみに、撰時抄では「過去の大通智勝仏は出世し給ひて十小劫が間一経も説き給はず」
と書いてあります。
「過去の大通智勝仏」との下りから、複数の人間・仏・菩薩・如来等が想像できますし、
鎌倉時代以降にも「大通智勝仏」に相当する人間・仏・菩薩・如来等が顕れるとも
受け取れます。
この掲示板の方々は、大変教学にお詳しい博学な方が多いと御見受け致しましたので、
全くの恥ずかしい愚問とは知りながら質問させて頂きました。

http://mentai.2=koumei&key=960174403&ls=100ch.net/test/read.cgi?bbs

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生駒おろしさんへ Prev: 354 / No: 358
 投稿者:Libra  00/07/24 Mon 09:53:17

 生駒おろしさんおはようございます。

> こんにちは。お久しぶりです。

 SF研ではお世話になりました。またいろいろ教えて頂ければ幸いで
す。

> 都合がつくようになりましたら、是非いろいろ意見や情報交換したいですね。

 よろしくご批判下さい。

> 私は天台の報中論三は面白い思考だなあと思っています。
> 一方で、仏寿無量とし、一方で有限の表現をとる解釈に対し漁夫の利
> を得ようと思うと言っていると思います。
> 通常は、法身の常住だけでなく、三身常住を示せる妙味があるとしま
> すが、私はこれは通図の時間論としての「常見」と「断見」にとらわ
> れないという釈迦の態度と同様の態度を感じたりしています。
> 教相の釈迦の久遠成道の時間性をも活かしながら、通図の時間論を超
> えたものを指し示そうとしようとするかのように。
> 「無作三身」や「久遠元初」への繋がりを思ったりします。

 不勉強なので「通図の時間論」という言葉がよく分かりません。その
あたりをまず解説して頂けたら幸いです。あせらずにじっくりと時間を
かけて議論させて頂ければと思います。

> あっつい日が続いてますね。健康に留意されてください。

 お気づかいありがとうございます。生駒おろしさんもお元気で。

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shamonさんへ Prev: 356 / No: 357
 投稿者:Libra  00/07/24 Mon 09:39:19

> 貴方が主張した「仏性をみ
> て〜」に対し、どのようにみえますか?という私の質問を答えら
> れないようですが、大変関連性のある重要な事項です。

 拙論「如来蔵思想批判の批判的検討」が僕の答えです。すでにそ
う申し上げました。批判があれば具体的に行って頂きたく思います。

> Libraさんの論述態度は、今後社会に出た上で大きな障害となる
> のではと危惧します。その時、またお話ししましょう。

 ご忠告ありがとうございます。shamonさんの言葉は忘れないよう
に胸に刻んでおきます。

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Libraさん Follow: 357 / No: 356
 投稿者:shamon  00/07/23 Sun 12:03:06

仏教用語について、良く理解してから「のぼせる」ことです。
「差別なしと解りて」の差別とは、具足の上に成り立つ「差別
なし」であり、通俗的な意味の差別ではありません。

衆生から見れば、我等衆生の心中に釈尊はおわし、はたまたその
釈尊の心中に我等衆生はあるということ。釈尊よりこれを見れば、
釈尊の心中に我等衆生はあり、はたまたその我等衆生の心中に釈
尊はおわすという関係、十界具足に基づく差別なしのことです。

伊藤瑞叡上人の「一切の衆生は心中に本具している正・了・縁の
三因仏性を一心に発現せしめ、一身に報・法・応の三身如来を発
動せしねばならない。」とは、妙法の色心業である釈尊の実在な
くして語れるものではありませんよ。貴方が主張した「仏性をみ
て〜」に対し、どのようにみえますか?という私の質問を答えら
れないようですが、大変関連性のある重要な事項です。

Libraさんの論述態度は、今後社会に出た上で大きな障害となる
のではと危惧します。その時、またお話ししましょう。

南無妙法蓮華経

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Libra さん No: 355
 投稿者:三吉  00/07/20 Thu 19:13:42

>「真に信じてないということだと思います」とのことですが、なぜそう思われ
>るのかご説明頂きたく思います。

「自分の行為」も「成仏の因」です、とのことですが、その「自分の行為」が、
まったく仏教に基づくところであれば、それは自分の行為であっても、
「我がはからい」ではなく「教法の命ずる」ところを私は「うながされ」させられ
るだけだからです。
仏教から独立した自分の行為ではないのに、自分の行為と思ってしまうところに、
思い込みによる顛倒があるからだと思います。

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とりあえず御挨拶。 Follow: 358 / No: 354
 投稿者:生駒おろし  00/07/20 Thu 16:58:22

こんにちは。お久しぶりです。
魯の人さんから教えていただき、覗きに来ました。
まだざっとしか見ていないのですが、頑張っておられますね。
都合がつくようになりましたら、是非いろいろ意見や情報交換したいですね。

私は天台の報中論三は面白い思考だなあと思っています。
一方で、仏寿無量とし、一方で有限の表現をとる解釈に対し漁夫の利を得ようと思うと言っていると思います。
通常は、法身の常住だけでなく、三身常住を示せる妙味があるとしますが、私はこれは通図の時間論としての「常見」と「断見」にとらわれないという釈迦の態度と同様の態度を感じたりしています。
教相の釈迦の久遠成道の時間性をも活かしながら、通図の時間論を超えたものを指し示そうとしようとするかのように。
「無作三身」や「久遠元初」への繋がりを思ったりします。

また後日に、宜しく下さい。
あっつい日が続いてますね。健康に留意されてください。

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三吉さんへ No: 353
 投稿者:Libra  00/07/20 Thu 14:35:53

 三吉さんこんにちは。

 自分の方の議論が落ち着きそうなので、三吉さんのコメントの方にちょっと
横レスです(ずっと気になってました)。

  >他力とは、理屈ではなく宗教的な実感から来た論理だと私は思います。
  >教法に触れ、自力でがんばろうとする作善主義は自然な感情です。起こら
  >ないものはいないほどでしよう。
  >で、問題になるのは、そのがんばろう、頑張っていると思う自分の思いが、
  >顛倒するという問題です。その辺に他力思想の根幹があるのです。

 宗祖は

  然りと云えども如来滅後二千二百余年に及んで五濁さかりになりて年久し事
  にふれて善なる事ありがたし、設ひ善を作人も一の善に十の悪を造り重ねて
  結句は小善につけて大悪を造り心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世と
  なれり
  (「月水御書」、全集、p. 1119)

と言われています。「頑張っていると思う自分の思いが、顛倒する」=「慢心を
起す」のが末法であるという認識です。つまり末法の衆生である我々は「十悪
五逆」を造る者であると言うことです。その上で

  十悪五逆を造れる者なれども法華経に背く事なければ往生成仏は疑なき事に
  侍り、一切経をたもち諸仏菩薩を信じたる持戒の人なれども法華経を用る事
  無ければ悪道に堕つる事疑なしと見えたり。予が愚見をもつて近来の世間を
  見るに多くは在家出家誹謗の者のみあり
  (同上、p. 1201)

と言われています。

  >日蓮さんが批判するとして、日蓮さんは釈迦の教法が成仏の因なのか、自
  >分の行為が成仏の因なのか、その両者というのは、真に信じてないという
  >ことだと思います
 
 法華経を信じることが根本です。その意味では「釈迦の教法が成仏の因」です。
「命を法華経にまいらせて仏になり給う」ということです。「各各思い切り給へ
此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり」とも言われていま
す。

  堂塔つくらず布施まいらせずらん、をしき物は命ばかりなり、これを法華経
  にまいらせんとをもし、三世の仏 は皆凡夫にてをはせし時命を法華経にまい
  らせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す南無と申すは月
  氏の語此の土にては帰命と申すなり、帰命と申すは天台の釈に云く「命を以
  て自ら帰す」等云云、命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う、日蓮今度
  命を法華経にまいらせて。
  (「南無御書」、全集、p. 1299)

  各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををも
  ひめこををもひ所領をかへりみることなかれ、無量劫よりこのかたをやこの
  ため所領のために命すてたる事は大地微塵よりもをほし、法華経のゆへには
  いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかどもかかる事出来せしか
  ば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがご
  とし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をか
  うるなり。
  (「種種御振舞御書」、全集、p. 910)

 しかし、実際に、“法華経になる”ためには“頑張る”必要があります。その
意味では「自分の行為」も「成仏の因」です。「行学たへなば仏法はあるべから
ず」です。

  あひかまへてあひかまへて信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、
  行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし
  人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりとも
  かたらせ給うべし
  (「諸法実相抄」、全集、p. 1361)

 「真に信じてないということだと思います」とのことですが、なぜそう思われ
るのかご説明頂きたく思います。

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川蝉さんへ(4/4) No: 352
 投稿者:Libra  00/07/20 Thu 12:53:00

>  尊ぶ点から仏と見る事は信じる者のごく自然の心理でしょう。しかし、能
>動的でない経典を直ちに報身仏と名付け、その上、久遠本仏の常住不滅を否
>定するLibraさんの考えは、仏教の定格を破り、宗祖の教示にまったく反する
>ものと云わざるを得ません。

 僕は『法華経』を「文字としての経典」だけに限定して論じているわけでは
ありません。このことももう何度も言いました。宗祖は『法華経』になられま
した。そして、我々にも「各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金
をかへ糞に米をかうるなり」と言われています。

  各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやをを
  もひめこををもひ所領をかへりみることなかれ、無量劫よりこのかたをや
  このため所領のために命すてたる事は大地微塵よりもをほし、法華経のゆ
  へにはいまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかどもかかる事出
  来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにと
  げざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をか
  へ糞に米をかうるなり。
  (「種種御振舞御書」、全集、p. 910)

 『法華経』になった人間の系譜が現実に「衆生教導の活動をする」のであり、
その「異体同心の永遠の系譜の全体」こそが「生々活々としている能動的な仏
身」であり「久成釈尊」だと言うことです。このことを知らない人は「法華経
を持つとも無益」だと言わざるを得ません。

  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解
  りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但
  日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

  総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にし
  て南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今
  日蓮が弘通する処の所詮是なり
  (同上、p.1337) 

  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  (同上、p.1338)

>「> 文証はすでに提示しています。」との事ですが、 文証にならないものば
>かりだったですね。

 これも読者の方々や後世の方々に判断を委ねましょう。川蝉さんもご自分の
論理展開に自信がおありなのであれば是非そうしましょう。

> 「そのようなことがで きる人は、仏のほかには、この世に誰もいないのだ」と
>ありますね。

 川蝉さんは仏になることをあきらめておられるのですか?

>経に基づいて「実には滅せず 常に此に住して法を説く」 「顛倒
>の衆生をして近しと雖も而も見ざらしむ」 と云う存在ですと云う外ないのです
>よ。

 「〜と云う存在ですと云う外ないのですよ」と「思考停止」なさるのであれば
仏になるのをあきらめたととられても仕方ないでしょう。

>まだ成仏してないし、信解未熟ですから、示すことが出来ないのですよ。
>それがどうして「>本化の菩薩となり、仏となることを放棄されるおつもりな
>のでしょうか?」と云う事に成るのですか不思議です。

 なるほど。そうですか。でもいつかは「示すことが出来」ると信じておられる
わけですね。宗祖の法門は「一生成仏」の法門ですから。「示すことが出来」る
ようになったら、是非、僕に示して下さい。そのときまた改めて議論しましょう。

> そろそろ繰り返しの議論が面倒になってきました。Libraさんのコメントによ
>っては、再コメントをしないかも知れません。(以上)

 随分前から「繰り返しの議論」になっています。僕もこのあたりで一端議論を
終了した方がいいと思います。川蝉さんが「示すことが出来」るようになったら
また改めて議論させて頂きたく思います。(以上)

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川蝉さんへ(3/4) No: 351
 投稿者:Libra  00/07/20 Thu 12:52:39

>  ついでに申しておきますが、「無常説」や 「色心不二論」は、かえって、
>私どもは死後に滅無にならないで、後報を受けると云う主張の論拠になるも
>のですよ。

 ならないでしょう。我々の思想・精神は「死後も生き続ける」でしょうが、
それは「霊魂の不滅」を意味しないでしょう。

> Libraさんのこうした解釈では、釈尊はおおよそ二千五百年前にインドに於
>いて初めて悟ったところの始成正覚の仏と云うことになりますよ。

 法華経の寿量品には「始覚即本覚」を顕わす意味があります。「縁起の法」
あるいは「一切皆空」は「永遠の真理」ですから、二千五百年前に釈尊が作り
出したわけではありません。「縁起の法」は「正因仏性」だということをご
理解下さい。

> 「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。 仏は、ただ法華経経典 とし
>ての形と法脈=如来使の系譜だけとしてか存在しない」と主張しているでは
>ないですか。

 ですから「法脈=如来使(法華経になった人間)の系譜」が「久成釈尊」だ
と言っているのです。法脈として「久成釈尊」は“存在する(消滅していない)”
と言っています。

>  寿量品の仏陀観が程度の低い輪廻思想などに根拠を置いていると思ってい
>るのですか。大乗の空思想を徹底深化したものですよ。

 寿量品が「始成」を五百塵点劫まで遡って描いていることの理由については
以前に示しましたので繰り返しません。

>  早とちりしないで下さい。釈尊の内証、智慧を説いたもの、釈尊の心、慈
>悲の結晶と想い、法華経の背後に釈尊を想います。そういう意味で、法華経
>を釈尊とも見ると云っても良いです。

 早とちりもなにも、「釈尊の内証、智慧を説いたもの、釈尊の心、慈悲の結
晶と想い、法華経の背後に釈尊を想」うのは僕も同じです。ですが、そのこと
は別に、「現在も釈尊が“意志や自意識をもちつつ”生き続け」ていることを
必要条件としません。

>  開経偈にも有るように、応用的に文字は応身、能詮は報身、所詮は法身と
>言い得るとも思っています。ただし、宗祖の考えは、厳密に云えば、「三身
>具足の久遠仏がインドに受肉受生され、説いた経が法華経であり、法華経と
>云う経典の他に、三身具足の久遠本仏は実在し続けている」と云う考えであ
>ると理解しているのが私の基本的立場です。

 法華経を「文字」あるいは「無量の法門」としてしか見れない者は「僻見の
行者」であるというのが僕の基本的立場です。

   方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、此
  の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と
  見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水
  は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、
  肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一
  一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども
  僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり
  (「曾谷入道殿御返事」、全集、p. 1025)

>  報身仏とは真如を悟って智慧を得て、衆生教導の活動をする生々活々とし
>ている能動的な仏身の事と云うのが仏教の定格です。

 『法華経』は、そして、『法華経』になった人間(釈尊→宗祖→…)は「衆
生教導の活動をする生々活々としている能動的な仏身」です。

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川蝉さんへ(2/4) No: 350
 投稿者:Libra  00/07/20 Thu 12:52:20

>  宗祖のお考えは、無始以来より積重した因行果徳の功徳を具足すると云
>うことです。
>ですので、Libraさんの考えは、宗祖の考えをなみするものと
>云わざるを得ません。

 以下を引用してコメントに代えさせて頂きます。

  > 宗祖は『法華経』という「教法」が永遠に衆生を教化するのだといわれ
  >ているのです。仏が何代にもわたって繰り返し『法華経』を説くという認
  >識です。これは『法華経』の教相の「輪廻思想」をそのまま素直に信受さ
  >れたものです。宗祖の時代にあっては当然の解釈だろうと思います。ちな
  >みに、中観派を正当に継承しているといわれる「チベット仏教」において
  >さえ、現在なお「輪廻思想」が信受されています。僕自身は「輪廻思想」
  >は「インドの土着思想」であり、「仏教起源の思想ではない」と判断して
  >いますので、『法華経』の教相の「輪廻思想」は、当時の衆生の機根に合
  >わせた「随宜所説・善巧方便」であると考えています。
  >
  >  釈尊が超人的なものであると考えられるとともに、インド人一般の輪
  >  廻の観念と結合して、過去世に釈尊は善根を積んだからこの世に仏と
  >  して現われ出たのだと考えた。そこでゴータマの前世についていろい
  >  ろな想像がなされる。釈尊は過去世にカッパ(Kappa)といい、バカ
  >  (Baka)梵天の弟子であったとか、過去世にカッサパ仏の世にジョ
  >  ーティパーラ(Jotipa ̄la)というものとして陶工の友であったとも
  >  いう。カッサパ仏と釈尊との関係はジャイナ教からとり入れたものら
  >  しい。ジャイナ教でもカーシャパ(Ka ̄s′yapa)はマハーヴィーラ
  >  にジャイナ教の真理を授けたということになっている。
  >  (中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教I』(中村元選集
  >   第11巻)、春秋社、1969年、pp. 514)
  (掲示板「法華サーフィン」、00/07/19(水) 14:05)

> >人間・釈尊の霊魂が、その肉体が滅した後も常住不滅であるわけ
> >ではありません
>
> Libraさんのこの考えはまさに、寿量品の「入滅すれども滅せず」の教説
>と宗祖の教示に反するものです。

 そんなことは絶対にありません。僕は、釈尊の精神(報身)は『法華経』と
して、法脈として厳然と生き続けているとずっと言っているではありませんか。
「入滅すれども滅せず」の教説に全然反していません。むしろ「反する」と言
われる人の方が「僻見の行者」でしょう。法華経を「文字」あるいは「無量の
法門」としてしか見れないのであれば「僻見の行者」だと言わざるを得ません。

  此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と
  見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべ
  きなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ
  給うを破し奉るなり
  (「曾谷入道殿御返事」、全集、p. 1025)

>  Libraさんのように浅解された「無常説」なんか問題になりません。

 浅解ですか(^_^;)。何と言われようが僕は全然構いませんよ。あとは読者の
方々に、そして、これから無数に生まれくるであろう未来の地涌の菩薩の方々
に判断を委ねましょう。

  一切の人はにくまばにくめ、釈迦仏多宝仏十方の諸仏乃至梵王帝釈日月
  等にだにもふびんとをもはれまいらせなばなにかくるしかるべき、法華
  経にだにもほめられたてまつりなばなにかくるしかるべき
  (「四条金吾殿女房御返事」、全集、p. 1135)

>真如実相観を深化して本有十界互具の実相観に到達し、その上に本有三身
>の古仏則ち久遠釈尊の実在をうたっているのが寿量品です。程度の低い
>「無常説」をもって久遠釈尊の実在を否定する者は

 「程度の低い」ですか(^_^;)。何度も言いますが、僕は「久遠釈尊の実在を
否定」してません。同じことを言われても同じように答えるしかありません。

> 「色心不二」について、Libraさん流の恣意的概念で扱わないでください。
>今は置いておきますが、釈尊が入滅したら空無になってしまうなどという
>主張の根拠になど全くなるものではないですよ。

 「恣意的概念」ですか(^_^;)。
 僕は「釈尊が入滅したら空無になってしまう」とは断じて言ってません。
『法華経』を受持する川蝉さんの心の中にも、僕の心の中にも実際におられ
るではないですか。

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川蝉さんへ(1/4) Prev: 348 / No: 349
 投稿者:Libra  00/07/20 Thu 12:52:00

 川蝉さん今日は。

> だから、Libraさんは最初から「法華経以外に、他者的存在の常住不滅の久
>遠釈尊など存続していない」と主張していると指摘しているのですよ。

 釈尊に始まり、宗祖へと受け継がれ、そして未来永劫流れていく「法脈」
が「久遠釈尊」だと僕は言っているのです。「法脈」=「法華経」と理解し
て頂けるのなら上のように言われても全然構いません。僕はそう確信してい
ますから。

> 「法華経を説き終わり入滅したが、釈尊の本体は常住不滅で、衆生を見守り、
>法界全体に於いて常説法教化をし続けている仏である」と云うのが寿量品の
>教示です。

 「釈尊の本体」とは釈尊の智慧(報身)であり『法華経』でしょう。『法華
経』は「常説法教化し続けてい」ます。

>  慈悲をもって衆生を見守り度すべき衆生有れば教導し続けている本仏は、
>まさに「意志や自意識(ただし救わんとする慈悲)をもちつつ生き続ける」
>仏と思いませんか。

 僕も「釈尊と宗祖の慈悲は生き続けている」と思っています。しかし、
「意志や自意識をもちつつ生き続け」ているとは思いません。昨日投稿した
「日蓮今度命を法華経にまいらせて〜佛身観私論〜」をご参照下さい。

>  宗祖が法界に本仏在すと理解していた事を示す文です。

 法界とはどこですか?法華経を受持する「我等が心の内に仏はをはしまし
ける」のではないのでしょうか?

  抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文
  もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が
  五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父を
  あなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、譬へば蓮のた
  ねの中に花と菓とのみゆるがごとし、仏と申す事も我等の心の内にをは
  します譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はま
  つげのちかきと 虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをは
  しましけるを知り候はざりけるぞ
  (「十字御書」、全集、p. 1491)

> Libraさんと同じように、「他者的存在としての久遠本仏
>と言う考えであったら、宗祖はこの文のようには教示しなかったでしょう。

 僕は「他者的存在としての久遠本仏など存在しない」とは“言っていない”
のです。“言っていない”ことに対して、いくら“言っている”と言われて
も、“言っていない”ものは“言っていない”と説明するしかありません。
僕の「他者的存在としての久遠本仏」についての考えは「日蓮今度命を法華
経にまいらせて〜佛身観私論〜」できちんと述べました。

>  Libraさんの考えるように、「インド受肉の釈尊は遠い過去世以来存在し
>続けている久遠仏の垂迹身でなく、また肉体が消滅した後は滅無してしまっ
>て、法界に存在しない」と云うのであれば、

 「インド以前に仏教があった」とは僕は思いませんが、インドの釈尊以来、
その法脈は生きているし、現実に衆生を救済し続けています。そしてこれか
らも未来永劫救済し続けます。

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Libraさんへ(3/3) Follow: 349 / No: 348
 投稿者:川蝉  00/07/20 Thu 09:58:37

(つづきです)
>ええ。教相ではその通りです。ですが、輪廻思想はインドの土着
>思想であって、仏教起源の思想ではありません。法華経の教相に
>ある輪廻思想は当時の衆生の機根に合わせた「随宜所説・善巧方
>便」ということです。

寿量品の仏陀観が程度の低い輪廻思想などに根拠を置いていると思っているのですか。大乗の空思想を徹底深化したものですよ。

>僕は「『法華経』が久成釈尊である」と主張しています。少なく
>ともそのことは川蝉さんもお認めになるわけですね。

早とちりしないで下さい。釈尊の内証、智慧を説いたもの、釈尊の心、慈悲の結晶と想い、法華経の背後に釈尊を想います。そういう意味で、法華経を釈尊とも見ると云っても良いです。
たとえば、宗祖の書かれた御書は宗祖の悟り智慧、慈悲から書かれたものですから、宗祖のお心、智慧の結晶と仰ぎ、御書を拝するときには宗祖の形見とし、宗祖の智慧・慈悲心そのものと想うようなものです。
開経偈にも有るように、応用的に文字は応身、能詮は報身、所詮は法身と言い得るとも思っています。ただし、宗祖の考えは、厳密に云えば、「三身具足の久遠仏がインドに受肉受生され、説いた経が法華経であり、法華経と云う経典の他に、三身具足の久遠本仏は実在し続けている」と云う考えであると理解しているのが私の基本的立場です。
報身仏とは真如を悟って智慧を得て、衆生教導の活動をする生々活々としている能動的な仏身の事と云うのが仏教の定格です。
尊ぶ点から仏と見る事は信じる者のごく自然の心理でしょう。しかし、能動的でない経典を直ちに報身仏と名付け、その上、久遠本仏の常住不滅を否定するLibraさんの考えは、仏教の定格を破り、宗祖の教示にまったく反するものと云わざるを得ません。

>僕は『法華経』以外に久成釈尊を求める必要性を全く感じませ
>ん。『法華経』こそが「釈尊滅後の釈尊」であると確信している
>からです。そして「命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う」
>との仰せを信じています。

ただただ、ヘーと云うしかありません。

私の「 明確に、法華経経典の形としてだけしか久成釈尊は存在しない 実在しない、と教示してある法華経・御書の文をLibraさんは文証として提示しする必要があるのです。」に対して、
「> 文証はすでに提示しています。」との事ですが、 文証にならないものばかりだったですね。

法華経が釈尊の本懐の経であり、釈尊の悟り、智慧、衆生成仏の方法を説いてある慈悲の結晶であるから、そのありがたさを強調し、 Libraさんが引用した「曾谷入道殿御返事」のように、法華経を釈尊と同視すべきとか、一々文々真仏であると云うような表現があるのです。だからといって、宗祖が「法界には三身具足の古仏すなわち久遠釈尊など実在しない」などとは、決して云っておりません。
だから繰り返し、 Libraさんの挙げる御書について「法界には三身具足の古仏すなわち久遠釈尊など実在しないと宗祖が教示している」と云う文証にはならないと私は指摘しているのです。

>「信力の意向をもちつづける求法者」は「教え示された教えを理
>解しうる」し、「仏」は「それを示すこと」ができるのです。川
>蝉さんは、「本化の菩薩」となり「仏」となることを放棄される
>おつもりなのでしょうか?

「そのようなことがで きる人は、仏のほかには、この世に誰もいないのだ」とありますね。
経に基づいて「実には滅せず 常に此に住して法を説く」 「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見ざらしむ」 と云う存在ですと云う外ないのですよ。
まだ成仏してないし、信解未熟ですから、示すことが出来ないのですよ。それがどうして「>本化の菩薩となり、仏となることを放棄されるおつもりなのでしょうか?」と云う事に成るのですか不思議です。
そろそろ繰り返しの議論が面倒になってきました。Libraさんのコメントによっては、再コメントをしないかも知れません。(以上)

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Libraさんへ。(2/3) No: 347
 投稿者:川蝉  00/07/20 Thu 09:55:27

(続きです。)
>人間・釈尊の霊魂が、その肉体が滅した後も常住不滅であるわけ
>ではありません(これは明らかに「無常説」や「色心不二」に反
>します)。
Libraさんのように浅解された「無常説」なんか問題になりません。真如実相観を深化して本有十界互具の実相観に到達し、その上に本有三身の古仏則ち久遠釈尊の実在をうたっているのが寿量品です。
程度の低い「無常説」をもって久遠釈尊の実在を否定する者は
「開目抄 」に「倶舎、成実、律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし。」と批判されていますよ。Libraさんと同様に釈尊は死後滅無になると考えた彼らを宗祖は批判しているのですよ。
「色心不二」について、Libraさん流の恣意的概念で扱わないでください。今は置いておきますが、釈尊が入滅したら空無になってしまうなどという主張の根拠になど全くなるものではないですよ。
ついでに申しておきますが、「無常説」や 「色心不二論」は、かえって、私どもは死後に滅無にならないで、後報を受けると云う主張の論拠になるものですよ。

>人間・釈尊は自分の己心に「精神的時間の意味での無始の仏界=
>妙法」を見たのであり、それを法華経の中では「久成の釈尊」と
>して描いたということです。

まあまあ珍妙な解釈ですね。開目抄・本尊抄をよく読んでくださいと云うほかありません。
Libraさんのこうした解釈では、釈尊はおおよそ二千五百年前にインドに於いて初めて悟ったところの始成正覚の仏と云うことになりますよ。そうすると
「華厳、乃至、般若、大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給へり」(開目抄197頁)と有りますが、「華厳、乃至、般若、大日経等」の経と同程度と云うことになり、続いて、「此等の二つの大法は一代の綱骨、一切経の心髄なり 」とありますが、「 一代の綱骨、一切経の心髄 」を抜き取ってしまうことになりますよ。

私の「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。 仏は、ただ法華経経典 としての形でしか存続していない」旨を主張していましたね。」と云う確かめに対し、Libraさんは
「> そんなことはありません。僕は「法脈=如来使の系譜」という解釈が成り立つということも一貫して言っています」
との答えですが、初めから「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。」旨を主張しているではないですか。
「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。 仏は、ただ法華経経典 としての形と法脈=如来使の系譜だけとしてか存在しない」と主張しているではないですか。
だから、私は「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。」と云う考えは、法華経や宗祖の教示に背くものだと、繰り返し幾度も批判しているのです。
「法界に、三身具足の古仏すなわち釈尊の本体である久遠釈尊は存在する。また法華経は釈尊の慈悲の結晶、妙法五字は釈尊の証悟、心。強調すれば法華経は釈尊とも云える。また妙法五字の信行によって所化同体の実を顕し、仏願仏行を実践できるようになる(Libraさんの云う法脈=如来使の系譜に相当するでしょう)」
と云う主張なら別に異議を挟む事は無いのです。

今回もまたまた伊藤教授の『日蓮精神の現代』の文を掲げていますが、見れば分かりますが、「私どもは高祖に三徳を認め、それを通して始めて、此土有縁深厚なる本仏の三徳に救護されるのであり、仏所護念の信心決定を得るのである。」とありますね。伊藤教授は法界に本仏が存在すると理解しているから、はっきりと「此土有縁深厚なる本仏の三徳に救護されるのであり」とあるではありませんか。
伊藤教授のこの文を証として、Libraさんは「>僕は「法脈=如来使の系譜」という解釈が成り立つ」と主張していますが、伊藤教授は、「法界に本仏が存在する」と云う前提の上に記述していることを無視しないでください。(つづく)

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Libraさんへ。(1/3) No: 346
 投稿者:川蝉  00/07/20 Thu 09:52:22

Libra さん今日は。 
私の「 他者的実在としての久遠本仏の存在を否定しているのではありません。」に対するLibraさんのコメントに
「>人間・釈尊は言うまでもなく「他者」ですから、「釈尊の報身」も他者でしょう。僕もそのこと自体(他者性)を否定しているわけではありません」
とありますが、Libraさんの意は「我々に対すれば他者である報身(ただし経典を指す)の存在を認めている」と云う応えのようですね。
だから、Libraさんは最初から「法華経以外に、他者的存在の常住不滅の久遠釈尊など存続していない」と主張していると指摘しているのですよ。

「法華経を説き終わり入滅したが、釈尊の本体は常住不滅で、衆生を見守り、法界全体に於いて常説法教化をし続けている仏である」と云うのが寿量品の教示です。
この寿量品の教示をLibraさんは、はなから否定している立場であることは明白です。
「顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり」(持妙法華問答抄465頁)
「法華経の文字は六万九千三百八十四字一字は一仏なり。此仏は再生敗種を心符(腑)とし、顕本遠寿を其の寿とし」(御衣並単衣御書971頁)
と有ります。寿量品の顕本遠寿すなわち「釈尊の本体は常住不滅で、衆生を見守り、法界全体に於いて常説法教化をし続けている仏である」との教説を否定する者は、法華経の命を絶つ者であり、法華経の独勝性をなみする者です。
宝塔涌現・十方諸仏の来集・地涌菩薩とうの教相を以て、釈尊の本体が常住不滅の仏であることを教示しているのです。

慈悲をもって衆生を見守り度すべき衆生有れば教導し続けている本仏は、まさに「意志や自意識(ただし救わんとする慈悲)をもちつつ生き続ける」仏と思いませんか。

「持妙法華問答抄」に
「譬へば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄ををろして、此縄にとりつかば我れ岸の上に引登さんと云はんに、引人の力を疑ひ縄のよはからん事をあやぶみて、手ををさめて是をとらざらんが如し。争か岸の上に登る事をうべき。若其詞に随ひて手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし。唯我一人能為救護の仏の御力を疑ひ以信得入の法華経の教への縄をあやぶみて、決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。菩提の岸に登る事かたかるべし。不信の者は堕在泥梨の根元なり。」(464頁)
とあります。岸の上の人とは本仏釈尊のことです。綱とは法華経・妙法五字のことです。崖下の人とは衆生のことです。
仏力・法力・信力の三が融妙和合するところに私どもの成仏があると云う教示です。
宗祖が法界に本仏在すと理解していた事を示す文です。
Libraさんと同じように、「他者的存在としての久遠本仏など存在しない」と言う考えであったら、宗祖はこの文のようには教示しなかったでしょう。

Libraさんの考えるように、「インド受肉の釈尊は遠い過去世以来存在し続けている久遠仏の垂迹身でなく、また肉体が消滅した後は滅無してしまって、法界に存在しない」と云うのであれば、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」(本尊抄246)とある「釈尊の因行果徳の二法」はインド受生の釈尊一代八十歳の間だけの因行果徳の功徳を具足するだけと云うことになります。
宗祖のお考えは、無始以来より積重した因行果徳の功徳を具足すると云うことです。
ですので、Libraさんの考えは、宗祖の考えをなみするものと云わざるを得ません。

>人間・釈尊の霊魂が、その肉体が滅した後も常住不滅であるわけ
>ではありません

Libraさんのこの考えはまさに、寿量品の「入滅すれども滅せず」の教説と宗祖の教示に反するものです。(つづく)

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shamonさん おはよ No: 345
 投稿者:三吉  00/07/20 Thu 06:12:34

私にうんざりされるのはあなたのご自由です。
ただね、人の云うことは正確に理解されて下さいね。

>>「絶対他力」の主意を誤り、自力を認めない他力を「絶対他力」と主張
>>する者を批判しているのですよ。宗祖もそうです。

>揚げ足取りと混同されては困りますが「絶対他力」という概念は明治以後の概念
>です。日蓮さんの時代にはありませんでした。
>大谷派の清沢満之の語だと思います。これは真宗の近代教学になります。

伝隆寛作の「後世物語聞書」ですか。
同書に「凡夫の真実にして行ずる念仏は、ひとえに自力にして弥陀の本願にたがえ
るこころなり。すでにみずからそのこころをきよむというならば、聖道門のこころ
なり、浄土門のこころにあらず。」

いいですか、凡夫にも煩悩があるゆえ顛倒しますが真実はあると抑えてます。

師のいわく、「まことにしかるべし、まず一心一向なる、これ至誠心の大意なり。
わが身の分をはからいて、自力をすてて他力につくこころのただひとすじなるを、
真実心なりというなり。他力をたのまぬこころを、虚仮のこころというなり。つぎ
に他力をたのみたるところのふかくなりて、うたがいなきを信心の本意とす。

真実というのは、至誠心の説明です。一心一向なる姿です。それが信心の本意とい
っているだけです。三心のひとつです。
ここにあるのは、自力と他力の対立だけです。
絶対他力の語はありません。

後世にこの至誠心を絶対他力と表現したということは可能でも、ここでは
「絶対他力」ではなく「他力」とはこういうものとして語られているのみです。

「自力を認めない他力を「絶対他力」」など語られておりません。

それと長楽寺隆寛律師作作に、「自力他力亊」というのもありますが、
絶対他力については語られてません。
あるのは「自力の念仏」と「他力の念仏」です。

逆に聞きますがあなたの考えている正しい「絶対他力」とはなんですか?
自力を認める「絶対他力」などあるのですか?

「また、本願他力・他力念仏については、知っておりますので」とのことですので
ご高説を承りたく思います。

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日蓮今度命を法華経にまいらせて〜佛身観私論〜(2/2)  No: 344
 投稿者:Libra  00/07/19 Wed 12:34:38

  法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあ
  らはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあ
  らはして文字と成つて衆生を利益するなり、人の声を出すに二つあり、
  一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は
  随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる
  意は心法声は色法心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が
  心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あ
  らはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば
  法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり
  (「木絵二像開眼之事」、全集、pp. 468-469)

  応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真
  の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人も
  あり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり
  (「御衣並単衣御書」、全集、p. 971)

   方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、
  此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば
  文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘
  露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼
  の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量
  の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持
  仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを
  破し奉るなり
  (「曾谷入道殿御返事」、全集、p. 1025)

 以上のことをしっかりと心に刻み込んだ上で「生死一大事血脈抄」を拝
するべきである。

  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し
  と解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
  此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  (同上、p.1338)

 我々はその身を『法華経』にかえることにより、「久遠実成の釈尊」の
「衆生教化・仏国土建設の活動」にありがたくも参画することができるの
である。このことを「解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈
とは云う」のであり、「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益」であ
ることを我々は決して忘れてはならない。

  各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をや
  ををもひめこををもひ所領をかへりみることなかれ、無量劫よりこの
  かたをやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりもをほし、
  法華経のゆへにはいまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしか
  どもかかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水
  に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華
  経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
  (「種種御振舞御書」、全集、p. 910)

  我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが法華経の行者となり
  て無始色心本是理性妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏に
  かわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは
  我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門常住此説法のふるまいな
  り、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。
   寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」と
  はこれなり
  (「船守弥三郎許御書」、全集、p. 1446)

 宗祖は何を思って題目を唱えられていたのか。ただ一心に「日蓮今度命
を法華経にまいらせて」と叫ばれていたのではなかったか。その一心を受
け継ぐからこそ、我々門下の心の中に「釈尊の精神」が厳然と存在するの
である。我々日蓮法華宗に流れる「法脈」こそが「久遠実成の釈尊」でな
のである。

  堂塔つくらず布施まいらせずらん、をしき物は命ばかりなり、これを
  法華経にまいらせんとをもし、三世の仏 は皆凡夫にてをはせし時命を
  法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と
  申す南無と申すは月氏の語此の土にては帰命と申すなり、帰命と申す
  は天台の釈に云く「命を以て自ら帰す」等云云、命を法華経にまいら
  せて仏にはならせ給う、日蓮今度命を法華経にまいらせて。
  (「南無御書」、全集、p. 1299)

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日蓮今度命を法華経にまいらせて〜佛身観私論〜(1/2) No: 343
 投稿者:Libra  00/07/19 Wed 12:32:15

 ある人間の思想・精神が“死後も生き続ける”ということは、その人間
の“霊魂”が不滅であるということとは異なる。

 人間は自分の「思想・精神」を“言葉”や“行動(ふるまい)”を通じ
て表現する生き物である。そのように表現された「思想・精神」こそがそ
の人物の「人格(キャラクター)」である。
 例えば、私は松戸行雄氏や伊藤瑞叡氏に直接お会いしたことはない。た
だ両氏の“言葉”に出会っただけである。しかし、私にとっては「松戸行
雄」という人間も、「伊藤瑞叡」という人間も厳然と存在している。逆に、
「田中一郎」という人間は、確率から言って、おそらく存在はしているだ
ろうと想像はするが、実際には、私はそういう名前の人物の“言葉”にも
“ふるまい”にも出会ったことがない。だから、「田中一郎」という人間
は、私にとっては実に“存在していない”のである。
 仮に、松戸氏が亡くなられたとして、その事実を私が随分後になって知
ったとしよう。さて、その場合、私にとって、松戸氏はいったい何時の時
点で死んだのだろうか?仮に私が、「松戸氏が亡くなった」ということを
知らないまま一生を終えるとすれば、その場合、少なくとも私にとっては、
「松戸氏はずっと生きていた」ということになりはしまいか。

 例えば、おそらく今モニターの前に座ってこの文章を読んでおられる読
者は、私のこの文章を読みながら、「“Libra”と名乗る人間が今現在こ
の世に厳然と存在している」ということを少しも疑ってはいないだろう。
しかし、実は、“そんな保証はどこにもない”のである。
 私はこれまでこの掲示板において川蝉氏と議論を続けてきたし、今後も
しばらくは続くであろうが、それすら、「“Libra”という人間が今現在
この世に厳然と存在している」ということの厳密な証拠にはなるまい。例
えば、私が川蝉氏との対論を綿密に分析してその展開を読み切り、「想定
問答集」を完成させて、それを知人に託した上ですでに死んでいるという
こともありえないことではない。その場合でも、川蝉氏は「“Libra”と
いう人間が今現在この世に厳然と存在している」と思い続けるのではある
まいか。

 少し話が脱線してしまったので話をもとに戻そう。問題は、「釈尊の人
格が“死後も生き続けている”」ということが具体的にどういうことなの
かということである。
 釈尊の在世においても、すべての仏弟子が釈尊に直接お会いして実際に
説法を聞くことができたわけではあるまい。しかし、直接お会いせずとも、
釈尊の“言葉”や“行動(ふるまい)”を伝え聞いた人々にとっては、
「釈尊の人格」は厳然と存在したであろうし、その「釈尊の人格」によっ
て救われたはずである。逆に、釈尊の在世に生まれながら、不幸にして釈
尊の“言葉”や“行動(ふるまい)”にふれる縁に恵まれなかった人々に
とっては、「釈尊の人格によって救われる」という事態はそもそも起こり
得ない。それどころか、彼らにとっては「釈尊の人格」そのものが“存在
していなかった”のである。原始仏典によれば、釈尊は次のように語った
といわれている。
 
  わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させえないであろう。
  ただ汝が最上の真理を知るならば、それによって汝はこの煩悩の流れ
  を渡るであろう。
  (Suttanipa[ ̄]ta 215)
  
  ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱
  心であれ。このわたくしの口から出る声を聞いて、自己のやすらぎを
  学べ。
  (Suttanipa[ ̄]ta 1062)
  
  法が正しく説かれたときに、法にしたがう人々は、彼岸に至るであろ
  う。
  (Dammapada 86)

 さて、我々は客観的事実として、釈尊在世に生きてはいない。しかし、
ありがたいことに我々は「経典」を通して、釈尊の“言葉”や“行動
(ふるまい)”を知ることができる。そして、事実として「釈尊の人格」
にふれることができるのである。我々にとっては「釈尊の人格」は厳然
と存在している。すべて「経典」のおかげである。なんとありがたいこ
とか。

 宗祖は「『法華経』は釈尊である」と言い切られている。我々はこの宗
祖の“言葉”を絶対に忘れてはならない。この言葉を軽視するものは「僻
見の行者」であることを思い知るべきである。
 
  法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏
  入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり
  (「守護国家論」、全集、p. 66)

  釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の
  文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめ
  すべし
  (「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1122)

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 No: 342
 投稿者:shamon  00/07/18 Tue 19:40:57

三吉さん

相変わらずうんざりさせらる根性をお持ちですね。「絶対他力」
については知恩院にでも行ってみなさい。その昔、法然さんに
重んじられた弟子に、隆寛さんと言うのがおられましてね。凡夫
は転倒した心のみで、真実心を起こすことが不可能だから、阿弥
陀の本願のみ真実(絶対)であると説いた方がいます。わざわざ、
えさって恥をかかなくても良いと思いますよ。また、本願他力・
他力念仏については、知っておりますのでここで御高説しなくと
も結構ですよ。

Libraさん

大概説明してます。貴方は自分の事ばかりで、それを理解しよう
しないだけです。川蝉さんも私も「個人的に勝手に解釈した仏教」
に基づいて話をしているのではありません。また、修正主義的な
正当化には謙虚さが必要であることも忘れずに。

1「己心の仏性」を貴方の解釈で「三因仏性」だとしても結構で
すから、それはどのようにみえますかと聞いているのですよ。

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川蝉さんへ(3/3) No: 341
 投稿者:Libra  00/07/18 Tue 15:06:10

> Libraさんが文証として挙げた法華経の「それを示すことはでき
> ないし、それを表現する言葉もない。また、そのようなことがで
> きる人は、仏のほかには、この世に誰もいないのだ。かの教えが
> 教え示されるべき人、また教え示された教えを理解しうる人は、
> 信力の意向をもちつづける求法者たちを除いては、他にはない」
> との部分を基に、私は。「唯仏与仏の境涯ですから、あれこれ想
> 像しても戯論に陥りやすい」と書いたのです。

 「信力の意向をもちつづける求法者」は「教え示された教えを理
解しうる」し、「仏」は「それを示すこと」ができるのです。川蝉
さんは、「本化の菩薩」となり「仏」となることを放棄されるおつ
もりなのでしょうか?

> Libraさんは、初めから「久遠実成釈尊が消滅してしまって存在
> しない」と主張しているではありませんか。

 してません。『法華経』として、「法脈」として存在していると
一貫して主張しています。ただ、「意志や自意識をもちつつ生き続
ける」ような「霊魂」のようなものではないと言っているのです。

> 題目は釈尊の神(たましい)ですから、釈尊でもあるわけです。

 僕は「釈尊の報身」と言っています。

> 天台・宗祖の教示では久遠釈尊は三身即一の如来ですので、三身
>を各別に考えて「報身だけが本尊に成り得るが、応身や法身は本尊
>となり得ない」などと云うトンチンカンな教示などあり得ません。

 僕は「報中論三」ということを言っているのであって、「報身だ
けが本尊に成り得る」などとは言っていません。あくまでも中心は
「報身」だと言っているのです。いうまでもなく、「釈尊」も『法
華経』も「法華経の行者」も三身如来ですが、あくまでも「報身正
意」ということです。

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川蝉さんへ(2/3) No: 340
 投稿者:Libra  00/07/18 Tue 15:05:45

> > ではどういう形で存在しているのですか?
> 「実には滅せず 常に此に住して法を説く」
> 「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見ざらしむ」
> と云う存在です。

 それは具体的には『法華経』であり、『法華経』になった人間の
系譜(=法脈)なのではありませんか?

> Libraさんがいくら久遠釈尊の常住不滅を嫌っても、寿量品には
> 法華経や他の教法を説く久遠釈尊の常住不滅で有ることを教示し
> てあるのです。

 ええ。教相ではその通りです。ですが、輪廻思想はインドの土着
思想であって、仏教起源の思想ではありません。法華経の教相にあ
る輪廻思想は当時の衆生の機根に合わせた「随宜所説・善巧方便」
ということです。

  釈尊が超人的なものであると考えられるとともに、インド人一
  般の輪廻の観念と結合して、過去世に釈尊は善根を積んだから
  この世に仏として現われ出たのだと考えた。そこでゴータマの
  前世についていろいろな想像がなされる。釈尊は過去世にカッ
  パ(Kappa)といい、バカ(Baka)梵天の弟子であったとか、
  過去世にカッサパ仏の世にジョーティパーラ(Jotipa ̄la)と
  いうものとして陶工の友であったともいう。カッサパ仏と釈尊
  との関係はジャイナ教からとり入れたものらしい。ジャイナ教
  でもカーシャパ(Ka ̄s′yapa)はマハーヴィーラにジャイナ
  教の真理を授けたということになっている。
  (中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教I』(中村
   元選集第11巻)、春秋社、1969年、pp. 514)

> 私が
> 「久成仏が人格的実在であると云っても、・・あれこれ想像して
> も戯論に陥りやすいですね。」と云ったことは誤魔化しではあり
> ません。
> 人間の霊の中有の状態如何でさえ、仏典の説明を読んでも、不可解
> なものです。況や久遠釈尊の人格的実在如何に於いておやです。

 「色心不二」である以上、「霊魂」なんてありえないでしょう。

> だから、法華経・題目を釈尊とする類文をいかほど挙げても、
> Libraさんの「法華経経典の形としてだけしか久成釈尊は存在し
> ない実在しない」と云う主張の正当性を証することにならないし、
> 私の「他者的存在としても存在する」と云う主張を否定すること
> も出来ないのです。

 僕は「『法華経』が久成釈尊である」と主張しています。少なく
ともそのことは川蝉さんもお認めになるわけですね。
 僕は『法華経』以外に久成釈尊を求める必要性を全く感じません。
『法華経』こそが「釈尊滅後の釈尊」であると確信しているからで
す。そして「命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う」との仰せ
を信じています。

   方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みた
  まうべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れど
  も我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火
  と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に
  随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼
  の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、
  仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身と
  は是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給う
  を破し奉るなり
  (「曾谷入道殿御返事」、全集、p. 1025)

  堂塔つくらず布施まいらせずらん、をしき物は命ばかりなり、
  これを法華経にまいらせんとをもし、三世の仏 は皆凡夫にて
  をはせし時命を法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に
  一切の仏の始には南無と申す南無と申すは月氏の語此の土に
  ては帰命と申すなり、帰命と申すは天台の釈に云く「命を以
  て自ら帰す」等云云、命を法華経にまいらせて仏にはならせ
  給う、日蓮今度命を法華経にまいらせて。
  (「南無御書」、全集、p. 1299)

> 明確に「法華経経典の形としてだけしか久成釈尊は存在しない
> 実在しない」と教示してある法華経・御書の文をLibraさんは文
>証として提示しする必要があるのです。ただし、いくら探しても
>無いでしょう。

 文証はすでに提示しています。

  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く
  差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血
  脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華
  経を持つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

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川蝉さんへ(1/3) Prev: 338 / No: 339
 投稿者:Libra  00/07/18 Tue 15:05:17

 川蝉さんこんにちは。

> 他者的実在としての久遠本仏の存在を否定しているのではありません。

 人間・釈尊は言うまでもなく「他者」ですから、「釈尊の報身」も他
者でしょう。僕もそのこと自体(他者性)を否定しているわけではあり
ません。しかし、何度も言いますが、たとえ「他者」であるとしてもそ
れは「意志や自意識をもちつつ生き続ける」ような「霊魂」のようなも
のではありません。以前、SF研の「観心本尊抄について〜教学論議」の
スレッドで川蝉さんと議論したときにもそう申し上げました。

  >>「己心の釈尊」と云うことは、釈尊の無始久成があかされた時点で、
  >>衆生所具の仏界は無始の古仏の釈尊であると、具体化されたと云う
  >>ことで、他者としての釈尊は居ないと云う意味ではありません。
  >
  > 人間・釈尊(の教えを正しく受け継いだ弟子たち)が、自らが悟
  >った「妙法」を表現して衆生に悟りを得させるために編んだところ
  >の「法華経という物語」(因果倶時・本因本果・始覚即本覚の法門)
  >の登場人物(キャラクター)としての「釈尊」が「己心の釈尊」と
  >いうことでしょう。
  > 「己心の釈尊」は物語の登場人物としては「他者」です。また、
  >われわれを仏にしてくれるためにそのような物語(経・法門)を説
  >いて残してくれた、大慈悲心の存在としての人間・釈尊も間違いな
  >く「他者」です。
  > しかし、人間・釈尊は「現実世界の客観時空間」の意味での「久
  >遠仏」ではありえませんし、人間・釈尊の霊魂が、その肉体が滅し
  >た後も常住不滅であるわけではありません(これは明らかに「無常
  >説」や「色心不二」に反します)。あの巨大な「宝塔」が現実にこ
  >の世界に出現したなどということがありえないのと同じです。です
  >が、人間・釈尊は自分の己心に「精神的時間の意味での無始の仏界
  >=妙法」を見たのであり、それを法華経の中では「久成の釈尊」と
  >して描いたということです。
  (Date: 2000年 1月 13日 木曜日 16:51:18)

> Libraさんの立場は、初めから、
> 「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。 仏は、ただ法華経経典
> としての形でしか存続していない」旨を主張していましたね。

 そんなことはありません。僕は「法脈=如来使の系譜」という解釈が成
り立つということも一貫して言っています。以下はSF研の過去ログです。

  >3.「如来使」の思想
  > 如来寿量品には「如来使」の思想もあります。
  >
  >  「 如来寿量品によると、父なる久成の釈尊は、
  >   主(ナータ)・師(アヌカンパカ)・親(ピト
  >   リ)の三徳を有して、子なる衆生をして菩提に
  >   導き仏法を得せしめるために、衆生の心行を知
  >   って常住此説法する。その法は如来が今留在此
  >   し如来使が失本心の衆生に還告服用せしめる色・
  >   香・美味を具足する大良薬の妙法である。如来
  >   神力品で、久成釈尊が上行菩薩に別付嘱したと
  >   ころの、自在神力・秘要之蔵・甚深之事を功徳
  >   として完具する所有之法たる妙法である。三秘
  >   総在の妙法五字の要法を上行に別付し、その応
  >   現として高祖を如来使せしめ、私どもに還告服
  >   用せしめるに至ったことこそ、本仏の三徳の史
  >   的発現に外ならない。三徳の偈文は迹門にある
  >   も義趣は本門にあるのだ。『下山鈔』に「予は
  >   日本国の人々には…三の故あり。一には父母な
  >   り、二には師匠なり、三には主君の御使なり」
  >   とある。私どもは高祖に三徳を認め、それを通
  >   して始めて、此土有縁深厚なる本仏の三徳に救
  >   護されるのであり、仏所護念の信心決定を得る
  >   のである。」
  >   (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、
  >    p.175)
  >
  > 従って、「久成の釈尊」をその「実質的意味」(常
  >住此説法)から「法脈=如来使の系譜」と見る解釈も
  >成り立つでしょう。
  ( Date: 2000年 1月 13日 木曜日 14:33:22)

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Libraさんへ。(4/4) Follow: 339 / No: 338
 投稿者:川蝉  00/07/18 Tue 13:41:06

Libraさんへ。つづきです。
「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり」(守護国家論、全集、p. 66)
の文意は「法華経は釈迦牟尼仏の真実本懐を説かれたものであるから、法華経は即ち釈迦牟尼仏なりといえる。久遠釈尊の常住不滅を語る法華経の教説を信じない者には、釈迦牟尼仏はすでに入滅してしまって、衆生教導をしていないと想うであろうが、法華経の教説を信じる者には、仏は実在であることが信じられるだろうから、今でも仏の在す御在世と云う事になる」と云う事です。
「守護国家論」のこの文も、「法華経以外に釈尊は実在しない」事を教示する文などではありません。

>また、宗祖が『法華経』の「題目」を本尊とされたことを忘れて
>はなりません。

本尊論に入ってしまうと、論議の主題から離れてしまうし、ますます紛糾してしまうので、
Libra さんが引用した伊藤瑞叡教授の「本尊そのものは本仏己心の観心証得の一念三千であり、本仏の法体(実在的な本体)だからである」を掲げておきます。伊藤教授の文の意味は、すでに書いて置きました。 
それと、「本尊問答抄」の
「仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」
と有るのを見落とさないでください。
題目は釈尊の神(たましい)ですから、釈尊でもあるわけです。
もちろん正式本尊は曼陀羅御本尊です。しかし、だからといって「法華経と言う形でしか釈尊は実在しない」と云う主張の根拠には全くなりません。

>「釈迦多宝を以て法華経の本尊」とするのは「法華経の正意には
>あらず」と言われています。これは応身や法身を本尊とするのは
>法華経の正意ではないと言う意味でしょう。

天台・宗祖の教示では久遠釈尊は三身即一の如来ですので、三身を各別に考えて「報身だけが本尊に成り得るが、応身や法身は本尊となり得ない」などと云うトンチンカンな教示などあり得ません。

上の引用の文は「不空三蔵の法華儀軌の宝塔品の文によったものであるから、釈尊の内証・神たる題目が顕されていない、故に法華経の正意ではない。能生・神であるところの法華経・題目を本尊とすべきである」との趣旨です。
題目は釈尊の神(たましい)ですから、釈尊でもあるわけです。
古来 「本尊問答抄」の此の文をもって、法本尊を主張する学者もいましたが、妙法五字は釈尊の内証・神・釈尊の心と云う教示もあるので、妙法五字の裏に釈尊あり、釈尊の裏には妙法五字が有りと云う関係で法仏一体と見ることに成っています。
もちろん正式本尊は曼陀羅御本尊です。しかし、だからといって「法華経と言う形でしか釈尊は実在しない」と云う主張の根拠には全くなりません。
曼陀羅御本尊は釈尊の内証・悟界を顕したものです。

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Libraさんへ。(3/4) No: 337
 投稿者:川蝉  00/07/18 Tue 13:38:06

Libraさんへ。つづきです。
> 何度も言いますが、僕は「久遠実成釈尊が消滅してしまって存
>在しない」とは言ってません。『法華経』が「久遠実成釈尊」で
>あると言っているのです。『法華経』が「釈尊滅後の釈尊(久遠
>実成釈尊)」であることを「凡夫はしる事なし」なので、「三宝
>一体を語る必要性」が厳然とあるのです。

Libraさんは、初めから「久遠実成釈尊が消滅してしまって存在しない」と主張しているではありませんか。
だから、もし宗祖が「久遠実成釈尊が消滅してしまって存在しない」と考えていたのなら、仏宝(久遠実成釈尊)、法宝(法華経)、僧宝(信行の衆生)の三宝 一体を語る事はなく、法宝(法華経)、僧宝(信行の衆生)との二宝一体を語ったはずであると書いたのです。
二宝一体と云わず三宝 一体を教示している宗祖は Libraさんと反対に「久遠実成釈尊」の実在を信じていたことになると云う事を私は書いて置いたのです。
「三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と仏宝として明確に「久遠実成の釈尊」と有る事は、仏宝として久遠実成の釈尊が存在すると考えて居られたことを示しています。
>「三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大
>事の血脈とは云うなり」という部分を直視して頂きたく思いま
>す。
ですです。

Libraさん引用の「船守弥三郎許御書」(全集、p. 1446)の文は、「汝の本質は『無始色心本是理性妙境妙智金剛不滅の仏身』である尊い身であるぞ、それを顕現すれば『かの仏』即ち釈尊と変わりないのだ。だから『唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事』とも云えるのだ。妙法五字信唱によって、我々は釈尊の等流身・支分になり、釈尊の一念三千の一員となり、釈尊の『常住此説法』の振る舞いを為す尊き者になるのだ。」との意に受け取るべきでしょう。
「久遠実成釈尊が消滅してしまって存在しない」と云う主張の文証には全くなりません。


Libraさんへ

> 宗祖にとっては法華経が「実在の釈尊」だったのです。

「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし」(四条金吾殿御返事、全集、p. 1122)

「法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり」(木絵二像開眼之事、全集、pp. 468-469)
と法華経を尊び見ていますが、「法華経以外に釈尊は実在しない」などと云う事は説いていません。

「応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり 」(御衣並単衣御書、全集、p. 971)
の文も、「煎じ詰めて云えば三十二相八十種好の仏形を表しても、内証に法華経の悟りを懐いてなければ真仏の価値がない。釈尊の真実の内証と衆生成仏の法が説かれている法華経こそ、真の仏であると云える。」と云う趣旨です。
ただし、その法華経の中に、「法華経以外に釈尊は実在しない」などとは説かれていないのです。
「法華経以外に釈尊は実在しない」事を教示する文でなく、法華経の尊さを強調している御書と受け取るべきです。(つづく)

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Libraさんへ(2/4) No: 336
 投稿者:川蝉  00/07/18 Tue 13:33:34

Libraさんへ。つづきです。
私が
「久成仏が人格的実在であると云っても、・・あれこれ想像しても戯論に陥りやすいですね。」
と云ったことは誤魔化しではありません。
人間の霊の中有の状態如何でさえ、仏典の説明を読んでも、不可解なものです。況や久遠釈尊の人格的実在如何に於いておやです。

私の基本的立場を誤解しているようなので、断っておきます。  「法華経の文字は・・滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり」(木絵二像開眼之事)
等の類文の教示は何ら否定したり無視したりしていませんよ。
Libraさんの「法華経経典の形としてだけしか久成釈尊は存在しない実在しない」と云う主張が、法華経や宗祖の教示を無視し否定しているとう点を間違いであると指摘しているのです。
だから、法華経・題目を釈尊とする類文をいかほど挙げても、Libraさんの「法華経経典の形としてだけしか久成釈尊は存在しない実在しない」と云う主張の正当性を証することにならないし、私の「他者的存在としても存在する」と云う主張を否定することも出来ないのです。
明確に「法華経経典の形としてだけしか久成釈尊は存在しない実在しない」と教示してある法華経・御書の文をLibraさんは文証として提示しする必要があるのです。ただし、いくら探しても無いでしょう。

Libraさんが文証として挙げた法華経の「それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない。また、そのようなことができる人は、仏のほかには、この世に誰もいないのだ。かの教えが教え示されるべき人、また教え示された教えを理解しうる人は、信力の意向をもちつづける求法者たちを除いては、他にはない」との部分を基に、私は。「唯仏与仏の境涯ですから、あれこれ想像しても戯論に陥りやすい」と書いたのです。
(つづく)

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Libraさんへ。(1/4) No: 335
 投稿者:川蝉  00/07/18 Tue 13:27:59

Libra さん今日は。 
>「本尊そのものは本仏己心の観心証得の一念三千であり、本仏の
>法体(実在的な本体)だからである。(伊藤瑞叡『日蓮精神の現
>代』)

伊藤瑞叡教授は、己心本尊義の面も述べていますが、この部分は、本尊は久遠本仏の内証を顕したものであり、実在的な久遠本仏の本体を顕していると云う意味の文です。
己心内在の久遠本仏であり、同時に他者的実在としての久遠本仏であるから、このような説明をしているのです。
他者的実在としての久遠本仏の存在を否定しているのではありません。

己心内在の久遠本仏を顕現する事が目的であることを強調しているのが「日女御前御返事」ですから、「全く余処に求ムる事なかれ」と強調されているのだと理解すべきです。
「日女御前の御身の内心に宝塔品まします凡夫は見ずといへども釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり」(1250頁)
とあります。「釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり」とあるは、他者的存在として久遠釈尊の実在を語っている文です。

> 僕は「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない」とは言って>ません。法華経経典(法華経になった人間を含む)としての形
>で、“事として”存在していると言っているのです。

Libraさんの立場は、初めから、
「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。 仏は、ただ法華経経典としての形でしか存続していない」旨を主張していましたね。だから、法華経・宗祖の教示に反していると私は批判しているのです。

>望月教授はもしかしたら「縁起の法」そのものを「久遠本仏」と
>見ようとされているのかもしれません。
「縁起の法」則ち真如を証悟しているのが「久遠本仏」と見ています。是は宗学を学んだ者の常識です。三身即一ですが法身は、悟られたところの「縁起の法」則ち真如の理と言い得ましょう。

> ではどういう形で存在しているのですか?
「実には滅せず 常に此に住して法を説く」
「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見ざらしむ」
と云う存在です。

>「いつでも、この世に住して教えを説いているのだ、とはっきり
>と示されております」と言うのは、「永遠の生命を持つ本仏」に
>よって、インド出現の釈尊以前にすでに教え(法)が説かれてい
>たということを意味しないのでしょうか?

望月教授が「いつでも、この世に住して教えを説いているのだ、とはっきりと示されております」との記述は「実には滅せず 常に此に住して法を説く」や「我常に衆生の・・度すべき所に随って 為に種々の法を説く 毎に自ら是の念を作す」の趣旨を語っているのです。
寿量品長行には、過去にも燃灯仏等と現れて法を説いてきたとあります。インド受肉の釈尊として法を説いているが、また他所に赴いても法を説いていると教示しているのが自我偈です。
過去にも燃灯仏等と現れて法を説いてきたと云う事は、釈尊の本体が過去より存在しいること、この過去常は同時に未来常住であるという事でもあるのです。
Libraさんがいくら久遠釈尊の常住不滅を嫌っても、寿量品には法華経や他の教法を説く久遠釈尊の常住不滅で有ることを教示してあるのです。(つづく)

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キキさん&ぴーぷるさん&nbさん&中村俊基さんへ No: 334
 投稿者:Libra  00/07/17 Mon 14:49:29

================================
中村俊基さんへ

 よくいらして下さいました。ありがとうございます。中村さんの名前
はいろんなところで目にしていましたので、一度きちんとお話したいと
思っていました。どうぞよろしくお願い致します。

>なんかよう解りませんが、エスヨコでLibraさんが紹介されてました
>ので、来てみました。落ちついたら、そろそろと書かせていただきま
>す。

 松戸行雄氏の試論についてどう思われるのかをまずお聞かせ頂ければ
幸いです。

================================
nbさんへ

 ご訪問ありがとうございます。

>それと、私の掲示板教変わりました。

 またおじゃまします。これからもよろしくお願い致します。
================================
ぴーぷるさんへ

>私も2世学会員で、東京創価学園・創大の出身です。

 そうですか(^_^)。ぴーぷるさんの「学園魂」を是非見せて頂きたく思
います。

>松戸行雄さんの本は、いま出版社がつぶれたかなにかの関係で手に入ら
>ないですよね。

 「論創社」の方もダメなんでしょうか?「みくに書房」がダメなのは
確認しているのですが。

>ある図書館で一冊しか読んだことがありませんが、とて
>も共感できる内容でした。題名は正確には忘れてしまいしたが、カウン
>セリングという言葉が入ってました。

 ぴーぷるさんと同じく創大の出身のJonathanさんも

  > 私は松戸さんの著作としては「現代に生きる仏法―自分を見つめるカ
  >ウンセリングのために―」が一番好きです。あの本は全国の各会館の店
  >頭に並んでいて欲しいくらいです。そうすれば、あの本によって救われ
  >る人がたくさん出てくるのではないでしょうか。
  (本掲示版、00/07/06 Thu 22:13:57 )

と言われていました。僕は読んでないんですが、いい本のようですね。
僕も読んでみたいです。

>みくに書房という所から出ていたものですが、ここがいま連絡とれない
>ようです。

 「みくに書房」が復活するのを祈るしかないのでしょうか。

================================
キキさんへ

>創価学会に疑問を持つ人はたくさん居ると思います

 承知しています。ですが、誤解も多いですよ。
 
 「創価学会」も組織ですし、人の集まりです。ですから全く問題がな
いということはありえません。常に反省しつつ問題があれば直していく
という姿勢が必要でしょう。つまり「自己折伏」です。

>そこで提案です正しい仏法を探して見てください
>絶対に見つかります

 僕は「日蓮法華宗」が「正しい仏法」だと確信しています。
================================

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川蝉さんへ(3/3) No: 333
 投稿者:Libra  00/07/17 Mon 13:19:57

> 同抄に
> 「過去の宿縁追来て、今度日蓮が弟子と成り給うか。釈迦多宝こそ、御存
> 知候らめ」(1338頁)
> とありますが、宗祖が釈尊を実在的に想っていた事を示す文ですね。
 
 宗祖にとっては法華経が「実在の釈尊」だったのです。

  釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の
  文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめ
  すべし
  (「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1122)

  法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあ
  らはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあ
  らはして文字と成つて衆生を利益するなり、人の声を出すに二つあり、
  一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は
  随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる
  意は心法声は色法心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が
  心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あ
  らはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば
  法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり
  (「木絵二像開眼之事」、全集、pp. 468-469)

  応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真
  の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人も
  あり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり
  (「御衣並単衣御書」、全集、p. 971)

  法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏
  入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり
  (「守護国家論」、全集、p. 66)

 また、宗祖が『法華経』の「題目」を本尊とされたことを忘れてはなり
ません。

   問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて
  云く法華経の題目を以て本尊とすべし(…)
   疑つて云く(…)不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て
  法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや、答えて云く(…)
  不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本
  尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方
  の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり。
  (「本尊問答抄」、全集、p. 365)

   問うて云く日本国に十宗あり所謂倶舎成実律法相三論華厳真言浄土
  禅法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり(…)何ぞ天台宗に独り
  法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊と
  す其の義あるべし、問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答
  えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用
  いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
   問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目
  を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあ
  らず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と
  天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の
  父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給
  へり故に今能生を以て本尊とするなり
  (同上、p. 366)

 「釈迦多宝を以て法華経の本尊」とするのは「法華経の正意にはあらず」
と言われています。これは応身や法身を本尊とするのは法華経の正意では
ないと言う意味でしょう。その上で「法華経の題目を以て本尊とす」るの
が「法華経の行者の正意なり」と言われています。
 「報身正意」であり、「報身」とは総じては『法華経』であり、別して
はその肝心たる「題目」だと言うことでしょう。

 言うまでもなく、日蓮法華宗の御本尊とは曼陀羅です。

   さて日蓮法華宗の本尊には二種あります。一つには木像の本尊で
  す。二つには画像の本尊です。これを木画二像の本尊と申します。
   ただしわが宗の画像の本尊というのは文字をもって書かれた曼茶
  羅のことであります。そして木像の本尊よりも文字の本尊がすぐれ
  ております。(…)また寺院の本尊がすべて木像であるのには、別
  に特別な理由があるのです。
   高祖日蓮大聖人が佐渡の国において始めてお書きになられた十界
  勧請紙墨の曼陀羅が、宗門の正当な意義を担う正本尊であるとここ
  ろえるならば、祖師日蓮大聖人の御本意にかなうでありましょう。
  (伊藤瑞叡『新時代の布教精神』、隆文館、1991年、p. 13)

 宗祖は「釈迦多宝十方の諸仏の御本尊」であるところの「題目」を曼
陀羅の中尊とされたのです。その上で、

  此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて
  南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心
  王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあ
  るなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名
  なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信
  心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。
  (「日女御前御返事」、全集、p. 1244)

と言われています。「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生
の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
と言われているのに「余所に求」めてはいけないのではないでしょうか?

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川蝉さんへ(2/3) No: 332
 投稿者:Libra  00/07/17 Mon 13:19:14

 「唯仏与仏の境涯ですから、あれこれ想像しても戯論に陥りやすい」か
ら“考えるのを止めるべきである”というような「思考停止」的態度はお
よそ「本化の菩薩」のとる態度ではないように思います。

  「さとり」の壇上において、それがなんであるかを見たのは、余の得
  た果報である。(四)
  そして、余はそれを知っており、また他の仏たちも知っている。
  それが、どのようであり、いかなるものであり、また、その特徴がい
  かなるものかを。(五)
  それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない。
  また、そのようなことができる人は、仏のほかには、この世に誰もい
  ないのだ。(六)
  かの教えが教え示されるべき人、また教え示された教えを理解しうる
  人は、信力の意向をもちつづける求法者たちを除いては、他にはない。
  (七)
  (岩波版『法華経(上)』、p. 71)

  『法華経』でも、信仰は各所に強調されている。しかしそこでの原語
  は、シュラッダー(信)か、アディムクティ(信解)である。他にプ
  ラサーダ(澄浄)が一つか二つ使われている。これら三語とも、バク
  ティのような絶対者にたいする絶対信を意味しない。仏道への入門に
  さいし、心をあらため、心を決め、心を浄めることをいう。その上で
  修行にはげみ、智慧をみがいて悟りに達するのである。
   右のごとき信仰の観念は仏教を一貫して流れるもので、ナーガール
  ジュナ(竜樹)の『大智度論』巻第一に、「仏法の大海には信を能入
  と為し、智を能度と為す」と説かれているところである。『法華経』
  でもこの基本線は保たれているので、たとえば、分別功徳品第十六
  (第十七)で一念の信あるいは信解を強調しながら、それらは五波羅
  蜜をこえるが、「般若波羅蜜は除く」と説かれている。つまり、悟り
  にいたる(パーラミター)六つの実践行為(六波羅蜜、六度)のうち、
  智慧(プラジュニャー 般若)のみは最後的なものとして信の上に置
  かれたのである。
  (田村前掲書、p.92)

> 文は、仏宝(久遠実成釈尊)、法宝(法華経)、僧宝(信行の衆生)の三宝
> 一体を示しています。もし、久遠実成釈尊が消滅してしまって存在しない
> とすると三宝一体を語る必要性がありません。法宝(法華経)、僧宝(信行
> の衆生)の二法一体を語るだけで、事足りるはずでしょう。

 何度も言いますが、僕は「久遠実成釈尊が消滅してしまって存在しない」
とは言ってません。『法華経』が「久遠実成釈尊」であると言っているの
です。『法華経』が「釈尊滅後の釈尊(久遠実成釈尊)」であることを
「凡夫はしる事なし」なので、「三宝一体を語る必要性」が厳然とあるの
です。

  我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが法華経の行者となり
  て無始色心本是理性妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏に
  かわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは
  我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門常住此説法のふるまいな
  り、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。
   寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」と
  はこれなり
  (「船守弥三郎許御書」、全集、p. 1446)

> 「生死一大事血脈抄」の文に「久遠実成の釈尊と」と、わざわざ記述されてい
> ることに注意して頂きたいものです。

 「三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血
脈とは云うなり」という部分を直視して頂きたく思います。

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川蝉さんへ(1/3) No: 331
 投稿者:Libra  00/07/17 Mon 13:18:39

 川蝉さん今日は。レスが遅れて申し訳ありませんでした。

> いかにも観心主義的宗学の系譜の伊藤教授の表現ですね。ただし「対象と
> してではなく」と云う言葉の意味には 「久成釈尊は消滅してしま って、
> 存在しない。ただ法華経経典としての形でしか存続していない」などと云
> う意味はないはずですよ。

 伊藤教授は次のように言われています。

   しからば日蓮聖人の仏身観は如何というに、それはマンダラ本尊と
  の関係で示される。マンダラとは絶対的真理たる本尊そのものの本質
  的意義を示す用語であると共に、本尊そのものの現実化を保証するそ
  の実在的な表顕をも意味する。
   本尊そのものはそのものの根本所与である南無妙法蓮華経の実践的
  行程を修習する衆生の精神の内面的現実性に内在的直接性として実現
  即体認されるもの(『此の御本尊全く余処に求ムる事なかれ。只我等
  衆生ノ法華経を持チて、南無妙法蓮華経と唱フる胸中の肉団におはし
  ますなり」)であり、心においてその本質的主体性たる明浄性として
  の真如の具体的充足性が実践的に実現されている当相(「是を九識心
  王真如の都とは申ス也」)である。そして本尊そのものにとって固有
  の必然性であるものが本仏である。本尊そのものは本仏己心の観心証
  得の一念三千であり、本仏の法体(実在的な本体)だからである。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 262)

 ややこしい書き方ですが、「本尊そのものは本仏の実在的な本体」で
あると言われています。その上で、「此の御本尊全く余処に求ムる事なか
れ。只我等衆生ノ法華経を持チて、南無妙法蓮華経と唱フる胸中の肉団に
おはしますなり」の御文をひかれた上で、「本尊そのもの(本仏の実在的
な本体)」は「衆生の精神の内面的現実性に実現即体認されるもの」であ
ると言われています。「本仏の実在的な本体」を「全く余処に求ムる事な
かれ」と言われていることになりませんでしょうか?
 また、「本尊そのもの(本仏の実在的な本体)」は「心において真如の
具体的充足性が実践的に実現されている当相」だと言われています。「真
如の具体的充足性」という言葉の意味は正直難しくて僕にはよく解りませ
んが、少なくともそれが「心において実現されている当相」が「本仏の実
在的な本体」と言われています。「心において」です。

>Libraさんが「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。
> 仏は、ただ法華経経典としての形でしか存続していない」旨を主張するか
> ら、私は法華経や宗祖の教示に反すると批判しているのです。

 僕は「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない」とは言ってません。
法華経経典(法華経になった人間を含む)としての形で、“事として”存
在していると言っているのです。

> 「久遠本仏は経典の形としてしか存在しない」と云う主張は望月教授には無
> いはずです。

 望月教授はもしかしたら「縁起の法」そのものを「久遠本仏」と見よ
うとされているのかもしれません。

> 「久遠本仏は経典の形としてしか存在しない」と云う意味など含んでないで
> す。

 ではどういう形で存在しているのですか?

> 私が掲示した「法華経の話」の文段をどう読んだら、望月教授が「法が、
> ンド出現の釈尊によって説かれたのではない」などと書いていると理解でき
> るのでしょう。摩訶不可思議です。

 「いつでも、この世に住して教えを説いているのだ、とはっきりと示さ
れております」と言うのは、「永遠の生命を持つ本仏」によって、インド
出現の釈尊以前にすでに教え(法)が説かれていたということを意味しな
いのでしょうか?

>久成仏が人格的実在であると云っても、いわゆる人間の霊魂のような存在
>形式ではないでしょう。唯仏与仏の境涯ですから、あれこれ想像しても戯
>論に陥りやすいですね。

 ここをごまかしてはいけないと思います。

  法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあ
  らはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあ
  らはして文字と成つて衆生を利益するなり
  (「木絵二像開眼之事」、全集、pp. 468-469)

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shamonさんへ Prev: 321 / No: 330
 投稿者:Libra  00/07/17 Mon 10:37:00

 おはようございます、shamon さん。

 次から次へと質問されるのは結構ですが、まず僕の質問にきちんとお答
え下さい。

  > > 指摘されるような言い回しがないか、自分の文章を読み返してみる
  > > ことです。自覚のない方が指摘されても、腹を立てるだけですから。
  >
  >  “事実として”そういう意図で文章を書いた覚えは僕にはありませ
  > ん。ですから、是非具体的にご指摘下さい。その上でこちらに非があ
  > ると納得できれば態度を改めます。僕のためを思って下さるなら、是
  > 非ともビシッとご指摘下さい。
  >
  > > >僕は創価学会員です。
  > > そう言うところです。
  >
  >  僕が「創価学会員」であるからどうだと言われるのでしょうか?何
  > をおっしゃりたいのか不明です。分かるように説明して頂けないでし
  > ょうか?
  (00/07/14 Fri 13:00:35)

> 貴方には、まず宗教に必要な仏陀観が欠如している。というより仏陀観
> そのものを持つことを否定しているようです。

 僕が「shamon さんと違う仏陀観」を持っているからと言って直ちに
「宗教に必要な仏陀観が欠如している」ということにはならないでしょう。

> 貴方の「法華経には釈尊の魂が生きているから」というのは、「御遺文に
> 日蓮聖人の魂が生きているから」のレベルです。間違いではないにしても、
> 仏教本来の「実在」には至ることはありません。

 “仏教本来の「実在」”という概念をきちんと言葉でご説明下さい。

>「釈尊の魂は、我々の心
> に生きなければなりません」そのための法華経です。

 僕もずっとそう言っています。

> 1.己心の仏性とは?どのようにみえますか?
> 2.仏とは?仏のふるまいとは?

 1.「己心の仏性」とは「空性(縁起)」(正因仏性)を含む三因仏性。
 2.「仏」とは「三因仏性」が実際に発現した人間。「仏のふるまい」は
   その人間の「不自惜身命」の「真の菩薩行(妙覚・等覚)」。

詳しくは「如来蔵思想批判の批判的検討」をご覧下さい。その上でご批判は
必ず“具体的に”行って下さい。

  > 「真の菩薩」というのは「自分を捨てきる」ことが出来る人のことを言
  >うのだと僕は思います。「不自惜身命」です。自らの本性を「空性」と見
  >たとき、人は「真の菩薩」になることができるのではないのでしょうか。
  >
  >  今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり、(…)
  >  下方を以て住処とす下方とは真理なり、(…)此の理の住処より顕れ
  >  出づるを事と云うなり
  >  (「御義口伝上」、全集、p. 751)
  >
  > 言うまでもなく「空性」の真理は誰にとっても「本有」です。ただそれ
  >に気付いているかどうかの違いしかありません。それを衆生に気付かせる
  >ために仏は『法華経』を残されたのだと僕は思います。
  (00/07/10 Mon 11:46:24 )

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Libraさんへ。 No: 329
 投稿者:川蝉  00/07/16 Sun 14:58:12

Libra さん今日は。
> また「観心主義的宗学」の烙印を押されること必死ですが、あ
>えて伊藤教授の論をもう一つ紹介しておきます。

Libra さんが掲示された伊藤教授の 「妙法受持と自然譲与 」の趣旨に就
いては、別に観心主義偏向だなどと思いません。日蓮宗教学として、至って、
正当な論旨だと思います。

>川蝉さんにとっては、我が身が「三身即一の久成仏となる」とは
>どういう意味になるのか教えて頂きたいからです。

掲示の伊藤教授の 文に
「彼の因果の功徳を受得して、三道(惑・業・苦)は三徳(法身・般若・
解脱)と転じ住処娑婆は常寂光土と開かれて、我が身は即ち三身即一の久
成仏となる」
とあるように、三業受持の度合いに応じて、三道は三徳と転じ、住処は常
寂光土と開かれる境地が実感できるのでしょう。

常住不滅の久遠本仏が実在するのであるから、久遠本仏を中心にすれば、
私どもは、その久遠本仏の一念三千の中の者であると云う事になります。
久遠本仏の体内(所具)の一員であることを自覚し、本仏の衆生救済の願
行を果たしていけば、本仏の従果向因の因行を行う者と成ることが出来ま
す。それが当位を改めないで即身成仏すると云うことであろうと了解して
います。

Libra さんへのshamon のコメントに
「釈尊に代わって、体たる釈尊の用たること、即ち釈尊の心中にあること、
即ち自らが妙法の働きであること、即ち法華経の説く統一・一元論なるこ
と、即ち体用不二なること、即ち互具なること、用たる実現は即ち体なる
実在の証であること、即ち実相の在り方であることなど、伊藤上人の言わ
れることも全く同じ基本にあるものでありましょう。」
とある成仏観と同じです。

>仮に「久成仏」が「意志や自意識をもちつつ生き続ける」ような
>「霊魂」のようなものであるとすれば、我々衆生がそのようなも
>のに“なる”という論理が果たして成立するでしょうか?
久成仏が人格的実在であると云っても、いわゆる人間の霊魂のような存在
形式ではないでしょう。唯仏与仏の境涯ですから、あれこれ想像しても戯
論に陥りやすいですね。

久遠本仏の実在を認める所に、上に書いた事の一念三千の成仏観が成立す
ることを忘れないでください。

Libraさんは度々「生死一大事血脈抄」の
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと・・」
の文を引かれますが、前にも指摘しましたが、この文に「久遠実成の釈尊と」
とありますね。宗祖が「久遠実成の釈尊」を常住不滅の仏と理解されてい
たことは明らかなことです。だから、この文を「仏はすでに消滅していて、
仏は法華経経典と云う形だけでしか存在しない」と云うLibraさんの主張の
根拠にすることは無理が有るのです。
文は、仏宝(久遠実成釈尊)、法宝(法華経)、僧宝(信行の衆生)の三宝
一体を示しています。もし、久遠実成釈尊が消滅してしまって存在しないと
すると三宝一体を語る必要性がありません。法宝(法華経)、僧宝(信行の
衆生)の二法一体を語るだけで、事足りるはずでしょう。
「生死一大事血脈抄」の文に「久遠実成の釈尊と」とわざわざ記述されて
いることに注意して頂きたいものです。

同抄に
「過去の宿縁追来て、今度日蓮が弟子と成り給うか。釈迦多宝こそ、御存
知候らめ」(1338頁)
とありますが、宗祖が釈尊を実在的に想っていた事を示す文ですね。

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shamonさん どうも No: 327
 投稿者:三吉  00/07/16 Sun 14:08:02

>「絶対他力」の主意を誤り、自力を認めない他力を「絶対他力」と主張
>する者を批判しているのですよ。宗祖もそうです。

揚げ足取りと混同されては困りますが「絶対他力」という概念は明治以後の概念で
す。日蓮さんの時代にはありませんでした。
大谷派の清沢満之の語だと思います。これは真宗の近代教学になります。

あなたの用語のに対するファジーな感覚に、仏教を他宗をしらんなといつも思う次
第であります。

親鸞において、自力で念仏することは、本願に願われていることです。

「 ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万
行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入し
て、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択
の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。」

善本・徳本の真門は、20願の「二十 たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が
名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して
我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。」

万行・諸善の仮門は「十九 たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、も
ろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終わる
時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。」

この両者とも自力です。その自力は本願に願われているところです。
しかし、王本願である18願からすれば「願われた逸脱」にすぎません。

十八 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲
うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんを
ば除く。

至心信楽ならば、私の徳本や善行が往生の因ではない、往生の因は弥陀の本願だと
わかるということです。
日蓮さんが批判するとして、日蓮さんは釈迦の教法が成仏の因なのか、自分の行為
が成仏の因なのか、その両者というのは、真に信じてないということだと思います

>創価学会の指導

いや、学会のみならず誰もが、あなたも私もそうなのです。
そこを自覚できるかできないかだけの違いでしかありません。

>いわゆる機根に応じた、末法の機根を限定的に捉えた教えです。

うんそうですが、もっと深いです。誰もがそうだということです。
例外はない。それを自覚できるのが、目覚めです。
それと親鸞の末法というのは聖道門です。浄土門はますます輝き証道盛りなりです


>自行化他

念仏では自信教人信となります。しかしながら、化他は私の手柄なのでしょうか?
それは教法の手柄では?私が偉いのではない、偉いのは教法なのだ。私は教法に促
されるままに行為しているにすぎないというのが、真の化他では?
あるいは他者が私の行為に菩薩や仏を見ることが化他です。自分がそう宣言するこ
とではないと思います。

>本仏釈尊への絶対帰依を前提として

一つ疑問です。本仏釈尊を本当に信じているならば、なぜ、末法という概念が成立
しうるのか?本仏ならば末法などないのでは?本仏思想の未徹底を感じます。

>私は、釈尊の実在を確証している

それはあなたがそう思い込んでいるだけで、あなたのふるまいは確証してないこと
を証明してます。(と私には見えます)
私は「疑い」の立場に立ってますが、それを自覚してます。あなたは「疑い」の立
場に立ちながら、それにきずいてないだけです。
つまりあなたの信は十全ではありません。十全ならば、すべての方に仏性を見るは
ずです。日蓮さんが憧れた不軽菩薩のごとくです。

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疑問 No: 326
 投稿者:キキ  00/07/15 Sat 14:03:37

創価学会に疑問を持つ人はたくさん居ると思います
そこで提案です正しい仏法を探して見てください
絶対に見つかります

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はじめまして No: 325
 投稿者:ぴーぷる  00/07/15 Sat 12:20:38

私も2世学会員で、東京創価学園・創大の出身です。
松戸行雄さんの本は、いま出版社がつぶれたかなにかの関係で手に入らないですよね。
ある図書館で一冊しか読んだことがありませんが、とても共感できる内容でした。
題名は正確には忘れてしまいしたが、カウンセリングという言葉が入ってました。
みくに書房という所から出ていたものですが、ここがいま連絡とれないようです。

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 No: 324
 投稿者:shamon  00/07/15 Sat 11:51:54

Libraさん

貴方には、まず宗教に必要な仏陀観が欠如している。というより仏陀観
そのものを持つことを否定しているようです。

>法華経を釈尊だと思っている
貴方の「法華経には釈尊の魂が生きているから」というのは、「御遺文に
日蓮聖人の魂が生きているから」のレベルです。間違いではないにしても、
仏教本来の「実在」には至ることはありません。「釈尊の魂は、我々の心
に生きなければなりません」そのための法華経です。

>法華経になるということ
寿量品は、本仏・釈尊の永遠なる教導を説かれたものですが、これを貴
方は、永遠に教導する釈尊など実在せず、釈迦という人間が法華経を修
行して仏になったことを明かしたものだとします。故に凡夫が法華経を
修行すれば、即ち仏になるとするものですね。

>法華経になる>仏になる>「己心の仏性をみて仏のふるまいをすること」
では少し考えて見ましょうか。己心の仏性をみれば、仏のふるまいが分かる
と言うことですね。

1.己心の仏性とは?どのようにみえますか?
2.仏とは?仏のふるまいとは?

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初めまして。 No: 323
 投稿者:nb  00/07/14 Fri 22:42:59

Libraさん私の掲示板に投稿有り難うございます。

中村俊基様久しぶりです。

たまに私の掲示板にも書き込んでみてください。

それと、私の掲示板教変わりました。

結構、自由に編集できるようになりました。

http://kanazawa.cool.ne.jp/bn/index.html

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おじゃまします No: 322
 投稿者:中村 俊基  00/07/14 Fri 21:39:54

なんかよう解りませんが、エスヨコでLibraさんが紹介されてましたので、来てみました。落ちついたら、そろそろと書かせていただきます。
懐かしい方々が多数参加されておられるようで....

ではでは

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shamonさんへ Follow: 330 / Prev: 320 / No: 321
 投稿者:Libra  00/07/14 Fri 13:00:35

 shamonさん、こんにちは。

> 指摘されるような言い回しがないか、自分の文章を読み返してみる
> ことです。自覚のない方が指摘されても、腹を立てるだけですから。

 “事実として”そういう意図で文章を書いた覚えは僕にはありませ
ん。ですから、是非具体的にご指摘下さい。その上でこちらに非があ
ると納得できれば態度を改めます。僕のためを思って下さるなら、是
非ともビシッとご指摘下さい。

  智者と申すは国のあやうきをいさめ人の邪見を申しとどむるこそ
  智者にては候なれ
  (「頼基陳状」、全集、p. 1156)

> 例えば宗祖、釈尊の実在を主張される。例えば伊藤上人、日蓮・法
> 華宗の僧侶でもある立場で、釈尊の実在を主張される。それと、相
> 反する主張を、抜き出した文章を引用して主張する。我執なければ
> 根本の誤りに気が付くはずです。

 僕は「釈尊の実在」を主張しています。ただ、霊魂のようなものと
して「実在」しているのではなく、『法華経』(『法華経』になった
人を含む)として、「法脈」として“現実に(事として)”「実在」
していると言っているのです。真面目に“本気で”『法華経』を釈尊
だと思っているのです。

> >僕は創価学会員です。
> そう言うところです。

 僕が「創価学会員」であるからどうだと言われるのでしょうか?何
をおっしゃりたいのか不明です。分かるように説明して頂けないでし
ょうか?

  総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体
  同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは
  云うなり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p. 1337)

> 釈尊も、宗祖も法華経は難信難解と前置きしています。釈尊も宗祖も、
> 柔和質直なる者のみが、釈尊に逢えるとしています。

 『法華経』になるということが「仏になる」ということでしょう。
「仏になる」とは、「己心の仏性をみて仏のふるまいをする」という
ことでしょう。「釈尊にお逢いする」ということは『法華経』を通し
てそういうことが分かる(釈尊のメッセージを受け取る)ことを言う
のだと僕は思います。

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 Follow: 321 / No: 320
 投稿者:shamon  00/07/14 Fri 11:41:08

おはようございます。

Libraさん
>自覚がない
指摘されるような言い回しがないか、自分の文章を読み返してみる
ことです。自覚のない方が指摘されても、腹を立てるだけですから。

>読者の方々に判断
例えば宗祖、釈尊の実在を主張される。例えば伊藤上人、日蓮・法
華宗の僧侶でもある立場で、釈尊の実在を主張される。それと、相
反する主張を、抜き出した文章を引用して主張する。我執なければ
根本の誤りに気が付くはずです。

>僕は創価学会員です。
そう言うところです。

釈尊も、宗祖も法華経は難信難解と前置きしています。釈尊も宗祖も、
柔和質直なる者のみが、釈尊に逢えるとしています。それを、クリア
しないことには、貴方の思う釈尊の智慧が開かれることはありません。

三吉さん

>他力を批判する
「絶対他力」の主意を誤り、自力を認めない他力を「絶対他力」と主張
する者を批判しているのですよ。宗祖もそうです。

>頑張っていると思う気持ちが転倒する
いわゆる自我膨張というものです。創価学会の指導は、そういう結果を
生じさせるものであるが故に批判の対象なのです。仏教を良く理解する
こともない末法の凡夫にありがちな、そういう転倒した傾向に陥らない
ために「絶対他力」は説かれたものでしょう。いわゆる機根に応じた、
末法の機根を限定的に捉えた教えです。そう、宗祖は主張しているので
す。法華経も宗祖も自我膨張に陥らないために、本仏釈尊への絶対帰依
を前提として、自行化他を主張しているのですよ。

>貴方と私に差はありません
貴方は釈尊の実在を疑っている。私は、釈尊の実在を確証している。決
定的な差です。(本質を言っているのではありませんよ。)上記文章と
合わせて、御自分の発言態度をお考えになることです。

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shamonさんへ No: 319
 投稿者:Libra  00/07/14 Fri 09:56:08

 おはようございます、shamonさん。

>昨今の貴方の発言には、驕りの言葉が散見します。

 具体的な箇所をご指摘下さい。そして、それが「驕りの言葉」であ
るという理由を僕に分かるように説明して頂きたく思います。僕自身
にはそういう自覚がありませんので、そうして頂かないと改めようが
ありません。よろしくお願い致します。

>権威あるとされる
>人物の引用を持って、相手をやり込めようというやり方も感心しませ
>ん。

 僕は「相手をやり込めよう」と思って引用しているわけではありま
せん。「権威あるとされる人物」の主張だから信じろというつもりも
ありません。ただ共感できる主張を引用しているだけです。いくら
「権威あるとされる人物」の主張であっても、「間違っている」と思
う場合にはちゃんと「間違っている」と言うべきだと僕は思います。

>著者の真意を、貴方独自の偏狭な解釈によるものでは尚更です。

 僕の立場が「独自の偏狭な解釈」かどうかについては読者の方々に
判断を委ねたいと思います。

>典型的な創価学会の影響を受けた傾向であると受け止めています。

 僕は創価学会員です。

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shamon さん おはよ No: 318
 投稿者:三吉  00/07/14 Fri 07:47:45

レスありがとう。おっしゃっている意味はよくわかります。

>他力あるに係わらず自力には務めない、
>或いは自力に務めるが他力あるを認めない。

私の申し上げているのは、他力概念。他力思想をきちんと捉えず他力を批判されい
る点にあります。
あなたの言う、自力に勤めない他力だけが待つのが「他力」ではありません。
歴上の念仏者を見てご覧なさい。法華の行者とその自力において遜色があるでしょ
うか?
他力とは、理屈ではなく宗教的な実感から来た論理だと私は思います。
教法に触れ、自力でがんばろうとする作善主義は自然な感情です。起こらないもの
はいないほどでしよう。
で、問題になるのは、そのがんばろう、頑張っていると思う自分の思いが、顛倒す
るという問題です。その辺に他力思想の根幹があるのです。

>えさった態度で説いて見ろという姿勢にも、
>実相は顕著でしょうね。

なるほど。ではあなたの実相も私と同じです。
あなたと私にそれほど差はありません。両者とも凡夫ですから。

しかしながら実相は真如であり、真如は仏性であり、仏性はつまり如来です。
あなたと私が実相を如実にみえているわけはないと思います。

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 No: 317
 投稿者:shamon  00/07/14 Fri 01:14:17

Libraさん

昨今の貴方の発言には、驕りの言葉が散見します。権威あるとされる
人物の引用を持って、相手をやり込めようというやり方も感心しませ
ん。著者の真意を、貴方独自の偏狭な解釈によるものでは尚更です。
典型的な創価学会の影響を受けた傾向であると受け止めています。

用については、前にも何度か説明しました。「法華経を弘むれば釈迦
仏の御使いぞかし(種種御振舞)」「地涌の菩薩に定まりなば釈尊の
久遠の弟子たること疑わんや(諸法実相抄)」釈尊に代わって、体た
る釈尊の用たること、即ち釈尊の心中にあること、即ち自らが妙法の
働きであること、即ち法華経の説く統一・一元論なること、即ち体用
不二なること、即ち互具なること、用たる実現は即ち体なる実在の証
であること、即ち実相の在り方であることなど、伊藤上人の言われる
ことも全く同じ基本にあるものでありましょう。ちなみに、私などは
私の浅はかな知恵によって解釈しようとするより、今は故、祖父や御
先師に問うことによって理解しようと努めます。心中に入るとは、そ
のようなことであると考えます。

三吉さん

自力・他力も同じです。我々にとっては、自力だ、他力だと屁理屈を
持って拘ること自体がナンセンスなのです。如来が救いの手を差し伸
べているからこそ、その手に救われんと努め、我等が救われんとする
手を掲げるからこそ、如来はこれを救わんとして教導するのです。光
あるは影あり、影あるは光あり、それが実相です。他力あるに係わら
ず自力には務めない、或いは自力に務めるが他力あるを認めない。そ
う言うことは、即ち実相を理解しないことだと言っているに過ぎませ
ん。簡単に言えばです。えさった態度で説いて見ろという姿勢にも、
実相は顕著でしょうね。

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石田4 No: 316
 投稿者:遺弟  00/07/13 Thu 16:37:48

信心の究極は、自身の成仏にこそあります。
これから紹介します石田次男氏は平成4年に、見事な成仏の相でご逝去されました。
戸田先生の弟子として石田次男氏は「現代諸学と仏法」を私どもに与えられ、信心の重要性について
語られました。私は遺弟にも入らない末席の者でありますが、日蓮大聖人の仏法を深く体得されました
石田次男氏の言行をここに掲載させていただくことによりまして、一人でも多くの方が信心倍増となりますことを
祈念申し上げます。
文章上の間違い等は一切私にありますことを申し添えます。
参考に供してください。                                 敬具

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石田3 No: 315
 投稿者:遺弟  00/07/13 Thu 16:25:44

○天台大師・伝教大師でも、「久遠元初」まで遡ってみれば、我々と同じである。なんで我々と脳味噌や人格等のできが違うのかと云ったら、永い生死の流転の中で、仏法を求めて精進してきたかどうか、仏法に賛成したか反対したかで差ができてしまったのである。天台大師や伝教大師は良いカルマ(善業)を作り、我々は悪いカルマ(悪業)を作っただけである。仏法は馬鹿を利口にする薬である。

○鎌倉時代に生きた生の大聖人様でなく、日蓮大聖人様の内証を本仏とするという考えは、中古天台の本覚論でありまちがいである。「久遠元初」の自受用報身如来をさがせるわけがない。地球ができて46億年、どこに本仏がいたのか。地球自体が三千塵点劫、五百塵点劫にもなっていない。「釈尊の出世の本懐は人の振る舞いに候らいけるぞ」と事実に即しておっしゃっているわけで、大聖人様の700年前の振る舞いに即して以外には御本仏はいない。
だが、そこでにわかにできたものでなく、本然のものだといわんがために、「久遠元初」といっている。「久遠元初」をさがしてみろといってもありえない。地球はたかだか46億年、三千塵点劫にもなっていない。

○五百塵点劫とは、仏の己心の法門のひとつとして云われたものである。宇宙そのものができて130億年程度であるから五百塵点劫はそれよりもずっと長いことになる。五百塵点劫と久遠元初とどちらが長いかと物理的に問うても意味がない。
久遠元初は「聞法下種」の位、五百塵点劫は「発心下種」の位である。聞法下種と発心下種の違いがある。

○釈尊と日蓮大聖人様とは同じか違うかと論ずれば、根元の下種の悟りは同じなのだが、仏の位において「勝劣」がある。内証の悟りという点では龍樹も天台も釈尊も大聖人様もみな同じである。どういうふうに同じかと云うと、久遠名字の妙法を悟ったという、下種の一法を悟ったという事について同じである。
ただ、龍樹も天台も釈尊も「久遠元初」では無作三身如来から下種を受けた側なのである。これは大事な点である。
日蓮大聖人様は下種益の位、釈尊は脱益の位、龍樹、天台は熟益の位である。下種仏法以外は帯権の法である。「勝劣」があるのである。

○阿含部の連中は法門の上からいうと、阿含部という非常にレベルの低いところを一生懸命修行し、低いけれどもそれを縁として久遠元初の悟りに到達した。
龍樹の場合は、般若経の「空」の教えを縁として久遠元初の悟りに到達した。
天台の場合は、法華経迹門方便品の諸法実相(十如)の理を縁として久遠元初の悟りに到達した。
しかし末法の我々は機根が違うのでそれでは悟ることができない。御本尊様という妙縁に依り南無妙法蓮華経と唱えるしか悟ることができないのである。


○天台は常に下種の南無妙法蓮華経を頭において十界十如一念三千を云っている、口に出せない分だけ大聖人様より劣っている。釈尊も南無妙法蓮華経だと判っている。だから判っている頭で法(法華経)を説いている。龍樹も南無妙法蓮華経を判っている頭で権教である空ばかり云っている。

○我々は凡夫であるが、勤行唱題の時に凡夫であるか、あるい地涌の菩薩かを簡単に決めつける訳にはいかない。地涌の菩薩であると強硬に云えばそれで通るともいえる。「地涌の菩薩の出現にあらずんば唱え難き題目なり」と御書に書いてあるではないかとそういうふうにちゃんと勤行唱題しているではないか、だから凡夫ではないのだと言い張ったらそれはそれでいいともいえるのである。

○御本仏大聖人様の一念から離れた南無妙法蓮華経ならば、「覚者」である仏はいらない。「人法一箇」で大聖人様と南無妙法蓮華経は一体なのである。宇宙に妙法はなかったのである。

○勤行唱題するのは自分の心を菩薩界、仏界に落ち着ける訓練をしているのである。すなわち、心を三悪、四悪から離れる訓練をしているのである。勤行唱題は地獄、餓鬼、畜生、修羅の三悪、四悪を離れて菩薩界、仏界につく訓練をしているのである。
 自分自身の人生訓練が勤行唱題である。

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石田2 No: 314
 投稿者:遺弟  00/07/13 Thu 16:24:30

○大聖人様の御書では、御在世当時における天台大師以下の仏法の基礎知識(縁起・苦・無常・無我・無自性・因縁・己心等)というものは、どんどん省略されている。縁起・無我の説明なども省略されている。釈尊、龍樹、天台大師等の昔に済んでしまった話で、これは、御在世当時の僧侶には常識であったためでもあるし、一般民衆には理走りした説明では通用しにくかったためでもある(「無我」については、「一代聖教大意」に「外道は一切衆生に我有りと云い、仏は無我と説き給う」と書かれている)。

○大聖人様の法門には縁起の法門、己心の法門はあたりまえすぎて説いていないが、これが大前提となって、32歳から61歳の御入滅までたくさんの御書があるが、観心本尊抄なら本尊抄だけを切り文でみてはいけない。御書すべてで「一経」となっているのである。

○四諦(苦集滅道)についていえば、我々は人生の無常苦・無情苦(なんとなくもの寂しい)に日々苦しんでいる(「苦」も縁起に依り成り立っている)。なぜ苦しむのか。なぜ人生とは、かくもはかなく悲しいのか。それは他ならぬ苦しみ憂い悲しんでいる自分自身が「集」めた結果(「業」)である。それではこの苦を「滅」するにはどうしたらいいのか。南無妙法蓮華経と唱えるしかないと仏(大聖人様)は説かれている(「仏道」)。

○勤行唱題してああ良い気持ちになったという状態が増えればよいのである。
勤行唱題には大聖人様の代理者として法界の万霊に対して只今説法しているのだという一面がある、法界に対して聞法下種しているわけである。もう一面は大聖人様から観心釈をうけたまわることである。
南無妙法蓮華経と唱える因縁によってすーっと心が軽くなるという感じがでてこなければだめである。

○「三世諸仏総勘文抄」の「己心と仏心と一なり」という文は本覚論になっているので、仏道修行の面(因位の立場)から云えば、自分の心を御本尊様の方に合わせる。自分の心を格上げにするのである。どうすればいいかといえばただ南無妙法蓮華経と唱えることにより自然に(じねんに)我が己心が仏心になるのである。

○御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えることにより御本尊様=大聖人様の仏心を我が己心に建立湧現するのである。

○戒壇の大御本尊様ばかりでなく、我々の頂いている紙幅の御本尊様は「仏身」である。
700年前に大聖人様が入滅されて今はいらっしゃらないのだから、紙幅の御本尊様を通じて、生身の大聖人様を拝しなければだめである。人法、人法というふうに「人法一箇」と心得て信心していく。所詮、戒壇の大御本尊様につながっていない限りは成仏できないのである。

○南無妙法蓮華経の本体は何かといえば、日蓮大聖人様の御智慧・大般若そのものである。

○ちゃんと信心すれば大きく変わるのがあたりまえで、変わらないのはちゃんと信心していないからである。
勤行唱題に身がはいらない、なかなか題目があがらないというのは、心理的に改革を恐れているからである。本当に勤行唱題をやると今までの生活が変わらざるを得なくなる。「行解すでに勤むれば三障四魔紛然として競い起こる」のである。
題目をあげないと絶対に「成仏」できない。しんしんと題目をあげて一瞬でもいいから「あっ御本尊様と一緒になった」という気分になればいいのである。
すべては題目に依るのである。題目を唱えることも縁起の法である。題目を常に切らせないようにして、全身にしみ込むようにしておかないとだめである。
仏法は、題目があがっていれば必ず判ってくるものなのである。判らないのは題目があがっていないからである。
御本尊様に本当に勤行唱題していくと自然と人間が変わらざるを得なくなる(人間革命)。毎日勤行唱題していくのはおのれの煩悩・業・苦の塵を掃除するためでもある。

○「成仏」は勤行唱題を真面目にやっていれば必ず得ることができる。「今現在の自分は十界の何界か」と自分に問い、「判った、何界だ、南無妙法蓮華経」と唱える。これを煩悩即菩提という。これをやっていれば必ず「成仏」が得られる。

○自分の心を振り返って、自分の心は温かく、おだやかで、落ち着いて、心が軽いという、そういう心がでてきたら仏界である。心が落ち着いて、非常に軽くなってくる。毎日の生活の中にも余残というか余韻というか習慣というか、非常に明るくて軽い状態が出てこなければならない。

○南無妙法蓮華経というものは大聖人様のもので我々のものではない。元来「実体」のない自分が「苦界」すなわち「六道」を、勤行唱題しているかぎりにおいては止めている、勤行唱題している瞬間だけは凡夫の生活を止めている、南無妙法蓮華経の生活になっているのである。
 元来「我」は無い(「無我」)のだから、勤行唱題している自分は自分なのか大聖人様なのか無分別である。「不二」(二ではない)という側面から見ると大聖人様と自分と差別がないという無分別であるが、「而二」(二である)という側面から見ると差別がある、「勝劣」がある、大聖人様が「勝」で自分が「劣」である、大聖人様が「本果」で自分が「本因」であるということである。
中古天台の本覚論も「勝劣論」がうやむやになってしまって一致論になり、「而二不二」(二にして二にあらず)が理解できず「不二一体論」になってしまった結果である。仏と衆生、大聖人様と我々は「而二不二」でなくてはいけない。「教える」仏と「教えられる」我々衆生はどこまでいっても「勝劣」である。「万物について本迹勝劣を弁ずべし」と御相伝にあるのはそのためである。

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石田1 No: 313
 投稿者:遺弟  00/07/13 Thu 14:52:16

仮題 日蓮大聖人の仏法について

○仏法で法を説く元意は、「苦」を抜くということである。理屈ではなくて事実として苦を抜く法である。地獄の苦、餓鬼の苦、畜生の苦、天界も迷苦(天界の楽は迷っている苦である)だという。では「苦」を抜くにはどうしたらよいかといえば、仏様は法門がわかってもわからなくて、ともかく余事をまじえずひたすら南無妙法蓮華経と唱えよと教えているのである。南無妙法蓮華経とまごころこめて純真に唱えれば必ず成仏する。教学をやればりょうりょうとして仏法の深みまでわかるということである。

○日蓮大聖人様が南無妙法蓮華経と立宗宣言された32歳の御歳には、仏法の肝要をすべて会得(理解ではない)されていた。すべてを会得されていたがゆえに末法の大白法を威風堂々と述べることができたのである。
御書を読むと、経に云わく・釈に云わく・論に云わくと、釈尊の一切経、天台大師の法華玄義・法華文句・摩可止観、妙楽大師の釈撰等、伝教大師の法華秀句等を縦横無尽に引用なされているが、一般の人はそれを誤解して、大聖人が人師・論師・仏の説に賛成しているように思っているが、実はまったく逆なのである。
 経に云わくと引用されている時には、釈尊も南無妙法蓮華経に賛成されているではないかと用いられているのである。止観に云わくと引用されている時には、天台大師も南無妙法蓮華経に賛成されているではないかと用いられているのである。妙楽しかり、伝教しかりである。このように御書を拝読するのを「文底」から読むという。本仏だからできるのである。

○大聖人様がきょうは説法が終わったと安心してご飯を召し上がっている時の大聖人様と戒壇の大御本尊様とどっちが上か、戒壇の大御本尊様の方が上である。
32歳の立教開宗の時の大聖人様と戒壇の大御本尊様では、戒壇の大御本尊様の方が上である。
戒壇の大御本尊様と戒壇の大御本尊様を御書写あそばされた時の大聖人様とはまったく同じである。
熱原の法難の時に末代を達観あそばして、それこそ法界全体に響けとばかりにお力を蓄えて御書写あそばされた大聖人様と戒壇の大御本尊様が一緒であって、それ以外は一緒ではない。大聖人様ご自身においても「勝劣」があるのである。
龍の口の法難の時は「発迹顕本」で「出世の本懐」ではない。
壽量品の説法で「我本行菩薩道」と述べた時が釈尊の出世の本懐である。
摩可止観の第五の巻「正観章」を説いた時が天台大師の出世の本懐である。
「万物について本迹勝劣を弁ずべし」と御相伝にあるのはそのためである。大聖人様ご自身においても本迹勝劣があるのである。

○戒壇の大御本尊様というのは、大聖人様のお身代わりなのである。生身の大聖人様の生きている続きなのである。戒壇の大御本尊様から離れれば法華の血脈、信心の血脈を失うことになり成仏できない。

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川蝉さんへ No: 312
 投稿者:Libra  00/07/13 Thu 10:03:19

 おはようございます、川蝉さん。

 ちょっと時間がとれませんので、No.310,311の川蝉さんのレスに対
しては時間があるときにじっくりと読ませていただき、改めてレスを書
かせて頂きます。大変申し訳ありません。

 また「観心主義的宗学」の烙印を押されること必死ですが、あえて伊
藤教授の論をもう一つ紹介しておきます。川蝉さんにとっては、我が身
が「三身即一の久成仏となる」とはどういう意味になるのか教えて頂き
たいからです。仮に「久成仏」が「意志や自意識をもちつつ生き続ける」
ような「霊魂」のようなものであるとすれば、我々衆生がそのようなも
のに“なる”という論理が果たして成立するでしょうか?

   妙法受持と自然譲与
   しからば法華の信心の信の基調は何か。綱要導師の所論によると、
  こうである。世の人々は唱題・誦経を懈らない者や仏閣に参詣する
  者を信者と思っている。しかし信者とは言っても、その人が妙宗の
  信心のあるべき相貌(すがたふるまい)を正しく弁えること無くし
  て、心地において自身の成仏に猶予を抱き狐疑を生じているならば、
  実は生疑不信の者でしかないのであって、真の法華の信者ではない。
  真の法華の行者にして信者は、妙法の功徳・力用とは何かを見聞し
  て、あるべき正しい信心の真の相貌を弁えて、「妙法を受持すれば
  必ずや即身成仏(=受持の身に即して仏徳を成就)する」という心
  地を決定して狐疑を無からしめるべきである。「久成釈尊と妙法五
  字と我等衆生との三つ全く差別なく一法なり」と得意して、「因行
  果徳を具足する五字を受持すれば、自然に(=自らの功用を仮らず
  に妙法功力の自ずから然らしむるところに自らを任せることになっ
  て)彼の因果の功徳を受得して、三道(惑・業・苦)は三徳(法身・
  般若・解脱)と転じ住処娑婆は常寂光土と開かれて、我が身は即ち
  三身即一の久成仏となる」と信じて、唱題読誦して生死に於て恐れ
  ること無く臨終に至るまで疑わないことが、事の即身成仏を可能に
  する本化の信なのである。そしてこれが自然譲与段三十三字の趣旨
  でもあるという。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、
   pp. 198-199)


  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無
  しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うな
  り、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  (同上、p.1338)

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Libraさんへ。(2/2) No: 311
 投稿者:川蝉  00/07/12 Wed 13:35:25

Libraさんへ。 続きです。
>インドに出現した釈尊それ自身が、それだけでは三世にわたるよ
>うな広大無辺な仏身とはなりえない。(p. 208)

>しかしてインドに出現した釈尊が、そのままで六或示現を示す
>というようなことはありえないことであろう。(p. 208)

釈尊の仏格を、我々と同様の肉身を持った釈尊だけとしてか見なかったら、
三世に渡って教導を続けている仏だとか、六或示現の教化をし続けている仏
であると云う事など云えないのは当たり前です。望月教授は、だから、寿量
品は、釈尊の仏格を久遠本仏で常住不滅の仏と説き、三世に渡る教導や六或
示現するであると見たのであると、云う事をいわんとしているはずですよ。
よく論文全体の趣旨から個々の文段の意味を掴んでください。
このように、望月教授の趣旨を掴まないから、Libra さんは、
> 「常住に存在しているこの世の仕組み・法(真理)との合一に
>おいて」という点を無視されては困ります。それを無視して川蝉
>さんのように解釈すると、以下の論旨と接続しません。
と、思うのです。
「久遠本仏は経典の形としてしか存在しない」と云う主張は望月教授には無
いはずです。
望月教授の
「仏の出世未出世にかかわらず、この法は常住なり、とする仏教の基本理念
たる縁起の理法にたいするありようであろう。(p. 210)」
とあるのが、「久遠本仏は経典の形としてしか存在しない」との意を述べて
いると思うのですか。
そんな意趣は全くありませんね。
「仏の出世未出世にかかわらず、この法(真如の理・縁起の理法の事ー川蝉注)
は常住なり」とは、当たり前のことです。
「久遠本仏は経典の形としてしか存在しない」と云う意味など含んでないで
す。
涅槃経では「法常を以ての故に、諸仏も亦常なり」(四相品第七上)と有っ
て、 この法は常住であるから、常住の法を悟り一如した仏は常住の存在で
あると語り、法常住を以て仏常住の根拠にしているくらいですよ。
望月教授が「常住に存在しているこの世の仕組み・法(真理)との合一に
おいて」と述べているのは、この涅槃経の「法常を以ての故に、諸仏も亦
常なり」と同意趣でしょう。

だから私の前のコメントに紹介した「法華経の話」にあるように、望月教
授は、釈尊の本体は常住不滅の久遠本仏であるとの趣旨を語るのです。
望月教授が
>これは生身の釈尊にかわって、法・教えが登場して来たこと
>を示しているであろう。(p.215)
と書いているから、望月教授は「久遠本仏は経典の形としてしか存在しない」
と主張する立場だと思うのですか。
生身の釈尊から進んで法・教えの方に重点を置くようになったと云う事で、
そうした仏陀観さらに深化して寿量品の仏陀観に至ったものです。だから
望月教授はその仏陀観進展の途中を述べて「生身の釈尊にかわって、法・
教えが登場して来た」と書いているのでしょう。法華経の仏陀観が「久遠
本仏は経典の形としてしか存在しない」と云うものであるなどと思って望
月教授が書いた文節では無いはずです。

> なるほど。もし望月氏が真面目にそう言っているのならば、
>「法が、ンド出現の釈尊によって説かれたのではない」というこ
>とを認めることになり、「それは仏教ではなくなってしまう」で
>しょう。
私が掲示した「法華経の話」の文段をどう読んだら、望月教授が「法が、
ンド出現の釈尊によって説かれたのではない」などと書いていると理解でき
るのでしょう。摩訶不可思議です。

>「常住に存在しているこの世の仕組み・法(真理)との合一にお
>いて」というのが望月氏の提示した「論理的な根拠」だと僕は理
>解しているのですが、そうではないと川蝉さんが主張されるので
>あれば、望月氏の「論理的な根拠」とは一体何なのか教えて頂
>たく思います。
すでに上にコメントしたように、Libraさん自身が望月教授の「常住に存在
しているこの世の仕組み・法(真理)との合一において」の文意を誤って
「仏は経典としてしか存在しない」と云う意味を含んでいると誤解してい
るのです。

ご参考に
「法華経の仏は寿命無量・常住不滅の仏なり、禅宗は滅度の仏と見るが故
に外道の無の見なり、是法住法位・世間相常住の金言に背く僻見なり」
(立正観抄533頁)
とあります。仏は滅無消滅してしまったと見るのは「是の差別の法は真如
の法位に住して、世の変化無常の当相そのまま普遍常住の法となす仏の金
言に背く僻見である」と云う教示です。
「是法住法位・世間相常住の金言」とは涅槃経の「法常を以ての故に、諸
仏も亦常なり」と共通性があるようですね。

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Libraさんへ。(1/2) No: 310
 投稿者:川蝉  00/07/12 Wed 13:29:06

Libra 今日は。

> 「本門の本尊と戒壇と題目とは、いずれも正法である」と言わ
>れてますから、「本門の本尊」は「正法」ということでしょう。

「本門の本尊」は、釈尊が残された正法即ち三大秘法の一つと云うこと
ですね。その事がどうして「常住不滅の仏は経典としてしか存在しない」
と云う主張の根拠になると言うのですか。
Libraさんは「『常住不滅の仏』=『仏法』」と表現したのは「常住不滅
の仏は経典としてしか存在しない」と云う意味でしょう。
だから私は、伊藤教授の「報恩抄」の文の解説には「常住不滅の仏は経典
としてしか存在しない」と云う趣旨などないから、「伊藤教授のスタン ス
が『常住不滅の仏』=『仏法』であ る」と云うLibraさん理解は正鵠を得
ていないもではと指摘したのです。

> 伊藤教授は「信とは法華経の如来寿量品の教主釈尊の実在を対
>象としてではなく自らの態度において主体性として確信してゆく
>こと」であると言われています。「対象としてではなく」です。
「対象として無い」とは云っていませんね。
いかにも観心主義的宗学の系譜の伊藤教授の表現ですね。ただし「対象と
してではなく」と云う言葉の意味には 「久成釈尊は消滅してしま って、
存在しない。ただ法華経経典としての形でしか存続していない」などと云
う意味はないはずですよ。
法華経は成仏を目指すものです。この点を強調すれば、ずっと仏の救済力
に頼りぱなしでなく、自ら仏になり自立を求める信仰だと云う表現になり
ます。
ただし修道は仏力・法力・信力和合して成就するものと言う基本的な面の
説明が少々不足している解説だと思います。

> 再三述べてきたとおり、「久成釈尊が法華経として存続してい
>る」ということは、「法華経になった人間(法華経の行者)」が
>「久成釈尊」の当体であるという意味を含んでいるのです。そう
>いう意味で「法脈」が「久成釈尊」だと言っているのです。この
>点を無視して議論されても困ります。

観心釈を強調すれば、そのように理解する事は可能ですし、あえて反対し
ません。ただしLibraさんが「久成釈尊は消滅してしま って、存在しない。
仏は、ただ法華経経典としての形でしか存続していない」旨を主張するか
ら、私は法華経や宗祖の教示に反すると批判しているのです。
(つづく)

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川蝉さんへ(2/2) No: 309
 投稿者:Libra  00/07/11 Tue 17:02:17

> この文では、明らかに釈尊が久遠の昔より、ずっと、この世界に留まる
> (存在し続けているという意味ですね。ー川蝉注)ものであり、さらに法
> 華経を説き残すことによって、法華経に依っても人々とつながり得ている。
> それを「永遠の未来にまでわたる釈尊の生命の流れが展開されて来た、と
> いいうるのだと思われる」と表現しているのですね。  

 「常住に存在しているこの世の仕組み・法(真理)との合一におい
て」という点を無視されては困ります。それを無視して川蝉さんのよ
うに解釈すると、以下の論旨と接続しません。

   インドに出現した釈尊それ自身が、それだけでは三世にわたる
  ような広大無辺な仏身とはなりえない。それは、インドにおいて
  釈尊は八十年の生涯を終えて、涅槃に入られているからである。
  (p. 208)

   しかしてインドに出現した釈尊が、そのままで六或示現を示す
  というようなことはありえないことであろう。もしも、そのよう
  なことを考えたとするならば、それは近頃はやりの教祖や拝みや
  のようなものになってしまうだろう。
  (p. 208)

  しかし法が、インド出現の釈尊によって説かれたのではないとい
  うならば、それは仏教ではなくなってしまうであろう。そこに釈
  尊と法華経とのあらたな関係が展開されてくることになる。それ
  を知るためにも、法華経が釈尊以外の仏によっても説かれたとす
  るならば、法華経によって説かれた教え・法とは何であるのかに
  ついて考えておかなければならない。そしてこの法がすでにかっ
  て説かれたものであるとするならば、法・教えというものは永遠
  の昔から存在するものでなければならない。
   かかる理念の出発点となるものは、仏の出世未出世にかかわら
  ず、この法は常住なり、とする仏教の基本理念たる縁起の理法に
  たいするありようであろう。
  (p. 210)

  本来、釈尊はインドに出現して悟りを開き、覚者となられ教えを
  説かれた。しかし釈尊が滅度を示され姿を消されると、人々は拠
  りどころを失うことになってしまう。見えなくなってしまわれた
  釈尊にかわるものとして、法(教え)という問題があらたに生ま
  れてくる。迦葉によってすすめられた仏典結集は、釈尊が見えな
  くなってしまったので、その教えがばらばらになったり、くい違
  いを生じたりしないようにという立場からなされたといわれてい
  る。これは生身の釈尊にかわって、法・教えが登場して来たこと
  を示しているであろう。
  (p.215)

> 「サンスクリットの『さとりの境地』というのは涅槃(かくなること)の
> ことであります。お釈迦さまがクシナガラで涅槃に入られたのは、人々を
> 救ってあげようという深い慈悲のために、方便をもってなされたことであ
> ったので、実際にはなくなったのではなく、いつでも、この世に住して教
> えを説いているのだ、とはっきりと示されております。いいかえますと、
> インドに出現なさった お釈迦さまは、永遠の生命を持つ本仏が、人々を
> 救うという慈悲の心で仮にご誕生になり、涅槃に入って見せてのだ、とい
> うことであって、それはお釈迦さまの本体そのものではない、ということ
> であります。そこで、そのような自在なお力を持つ本体のお釈迦さまのこ
> とを、『本仏釈尊』というようにお呼びするようになって来ました。
> この本仏釈尊は、永遠でありますから、いつでも、どこにでもお出でにな
> るのであります。今日はいない、ここにはいないというのであれば、永遠
> でなどあろう筈はありません。」(156頁)

 なるほど。もし望月氏が真面目にそう言っているのならば、「法が、
インド出現の釈尊によって説かれたのではない」ということを認める
ことになり、「それは仏教ではなくなってしまう」でしょう。もしそ
うならば僕は望月氏の主張を評価しません。
 望月氏は

  真実を語る言葉として釈尊が、六或示現を展開したのだとするな
  らば、何故に一仏が六或示現できるのか、そこに論理的な根拠が
  厳として存在しなければならない。
  (p. 209)

と言われています。「常住に存在しているこの世の仕組み・法(真理)
との合一において」というのが望月氏の提示した「論理的な根拠」だ
と僕は理解しているのですが、そうではないと川蝉さんが主張される
のであれば、望月氏の「論理的な根拠」とは一体何なのか教えて頂き
たく思います。

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川蝉さんへ(1/2) No: 308
 投稿者:Libra  00/07/11 Tue 17:01:34

 川蝉さん、今日は。

> > そんなことはないと思います。
> と言って、伊藤教授の「報恩抄」の文の解説を挙げ、「伊藤教授のスタン
> スが『常住不滅の仏』=『仏法』であ る」と云う理解が正鵠を得ていると
> 主張していますが、

 「本門の本尊と戒壇と題目とは、いずれも正法である」と言われてますか
ら、「本門の本尊」は「正法」ということでしょう。

> 伊藤教授の解説を読んでも「久成釈尊は消滅してしま
> って、存在しない。ただ法華経経典としての形でしか存続していない」な
> どと言う趣旨など微塵もないですね。

 伊藤教授は「信とは法華経の如来寿量品の教主釈尊の実在を対象としてで
はなく自らの態度において主体性として確信してゆくこと」であると言われ
ています。「対象としてではなく」です。

   仏教において一般に疑は信ということに対立している。日蓮において
  信とは不動相のものであり、また発心を依拠として歓喜・法悦に充てる
  ものであった。このことは日蓮の生涯を通しての不自惜身命の実践生活
  の記録をひもどくとき容易にうかがい知られる。
   また信とは法華経の如来寿量品の教主釈尊の実在を対象としてではな
  く自らの態度において主体性として確信してゆくことであり、自己の全
  人格を賭してそういう久遠の本仏を何ものにも還元できない世界根拠あ
  るいは根本所与として経験のうちに明らかにすることであった。あるい
  は自己が現実には互具(=仏の主体性が自らに遍在し自らが仏の主体性
  を本質として孕む)という宗教的事実の外にはありえないことを身をも
  って体認即実現することでもあった。このことは日蓮の基本的な著作の
  各方面から容易に知られる。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、pp. 105-106)

 再三述べてきたとおり、「久成釈尊が法華経として存続している」という
ことは、「法華経になった人間(法華経の行者)」が「久成釈尊」の当体で
あるという意味を含んでいるのです。そういう意味で「法脈」が「久成釈尊」
だと言っているのです。この点を無視して議論されても困ります。

> Libraさんは上掲の中村教授の文をもって、釈尊の不滅性をも否定する文と
> 思いこんだようですが、そんな意趣はないですね。   

 中村博士の文は、(初期)仏教は「例外なく世の中のものはすべて無常
である」と考えたと言う意味でしょう。「釈尊だけが例外的に常住不変な
ものである」ということはありません。博士が次のように言われているこ
とはすでに紹介しておきました。釈尊は「超人」ではなく「単にすぐれた
人間として考えられていた」と言われています。

   教団が発展して変容すると、仰がれる開祖のすがたも発展し変容
  する。釈尊ゴータマは、永遠の真理(dharma)をさとったが故に、
  覚者(Buddha)と呼ばれる。しからば、真理をさとった人はみな
  覚者であるといわなければならぬ。その人は何ら超自然的な存在で
  もなければ、神秘的な人物でもない。いわんや超越神のごとき存在
  でもないはずである。
   原始仏教聖典をみると、古い層と新しい層とでは、非常に思想の
  相違があるが、その古い層についてみると、仏教の開創者ゴータマ
  はどこまでも単にすぐれた人間として考えられていた。
  (中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教I』(中村元
   選集第11巻)、春秋社、1969年、pp. 487)

> もはや、開目抄や本尊抄をよく読んでくださいと云う外有りません。

 僕は僕なりによく読んだ上で語っています(もちろんさらによく読む
ように努力はしますが)。あとは読者の方々に判断を委ねましょう。

(2へ続く)

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Libraさんへ。(2/2) No: 307
 投稿者:川蝉  00/07/11 Tue 15:31:27

Libraさんへ。つづきです。
33章47句「前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ばし
つくすに至って、直観智を確立した聖者、苦しみの終末を明らかに知った人、
 かれをわれはバラモンと呼ぶ」
と云う句があります。
こうした仏に就いての更なる追求開明の精華が寿量品にある常住不滅・常
説法教化の久遠本仏釈尊と思いませんか。

「開目抄」に
「いまだ発迹顕本せざればまこと(実)の一念三千もあらはれず、二乗作
仏も定まらず、」とあるように、本仏や本有の菩薩の無始常住不滅を認め
なければ真の一念三千の法門は成立しない旨を書いておきましたが、どう
も理解してもらえないようですね、ずれたコメントなので、それに対する
コメントは置いておきます。

> 宗祖にとっては『法華経』が「三身具足の常住不滅の本有の古
>仏」だったということでしょう。

もはや、開目抄や本尊抄をよく読んでくださいと云う外有りません。

望月海淑教授の「法華経に見られる佛身観私論」よりの抄出の文について、
一々のコメントは面倒なので、最後の、
「かくて常住に存在しているこの世の仕組み・法(真理)との合一におい
て、釈尊の生命が久遠の昔からこの世にとどまれるものであり、さらに法
華経を説くという点において、現世の人々とも未来世の人々とも繋がりえ
ているということになり、永遠の未来にまでわたる釈尊の生命の流れが展
開されて来た、といいうるのだと思われる。  (p. 218) 」
について一言。
この文では、明らかに釈尊が久遠の昔より、ずっと、この世界に留まる
(存在し続けているという意味ですね。ー川蝉注)ものであり、さらに法
華経を説き残すことによって、法華経に依っても人々とつながり得ている。
それを「永遠の未来にまでわたる釈尊の生命の流れが展開されて来た、と
いいうるのだと思われる」と表現しているのですね。  
だから、「本仏釈尊と云う者など存在しない、法華経と云う形でしか存在
しない 」と云うLibraさんの主張の援助にはまったくならない趣旨の文で
す。

で、望月海淑教授著「法華経の話」(発行所 桶沢坊)の文を挙げておき
ます。
「サンスクリットの『さとりの境地』というのは涅槃(かくなること)の
ことであります。お釈迦さまがクシナガラで涅槃に入られたのは、人々を
救ってあげようという深い慈悲のために、方便をもってなされたことであ
ったので、実際にはなくなったのではなく、いつでも、この世に住して教
えを説いているのだ、とはっきりと示されております。いいかえますと、
インドに出現なさった お釈迦さまは、永遠の生命を持つ本仏が、人々を
救うという慈悲の心で仮にご誕生になり、涅槃に入って見せてのだ、とい
うことであって、それはお釈迦さまの本体そのものではない、ということ
であります。そこで、そのような自在なお力を持つ本体のお釈迦さまのこ
とを、『本仏釈尊』というようにお呼びするようになって来ました。
この本仏釈尊は、永遠でありますから、いつでも、どこにでもお出でにな
るのであります。今日はいない、ここにはいないというのであれば、永遠
でなどあろう筈はありません。」(156頁)

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ちょっと留守にします No: 306
 投稿者:Libra  00/07/11 Tue 15:25:43

 今週はちょっと忙しいので、なかなか掲示板に書き込めない
と思います。また来週には復活します。

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Libraさんへ。(1/2) No: 305
 投稿者:川蝉  00/07/11 Tue 15:24:43

Libraさん今日は。

> そんなことはないと思います。
と言って、伊藤教授の「報恩抄」の文の解説を挙げ、「伊藤教授のスタン
スが『常住不滅の仏』=『仏法』であ る」と云う理解が正鵠を得ていると
主張していますが、伊藤教授の解説を読んでも「久成釈尊は消滅してしま
って、存在しない。ただ法華経経典としての形でしか存続していない」な
どと言う趣旨など微塵もないですね。
>「常住不滅の仏」とは「正法であり、正法の形貌であり、形貌あ
>る正法」(同書、p.89)という意味で「認めている」ということ
>でしょう。
と云う了解は恣意的であると云わざるを得ません。

伊藤教授が高く評価している一妙日導師は観心偏重との批判を受けていま
すが、それでも「綱要9・25」に於いて、「四十余年以前は迷凡の悉達
太子と謂ひし之時、本来三身円満一分不迷の如来なりと、彰れて三世常住
無作三身顕るるなり」と釈尊の本体を三世常住無作三身の仏としています。
日導師を高く評価している伊藤教授ですから、当然、釈尊の本体を「三世
常住無作三身の仏」と見ている筈です。
伊藤教授が記述してある
「本尊という実在のその人格的な本体は「根本の仏陀」であり、これを本
仏と称します。その本仏は抽象的な存在ではなくして、私どものこの世界
に実際に出生したところの釈迦牟尼仏の直接的な本体でもあります。」
(隆文館刊「法華経の真実と救済」237頁)の箇所にある「釈迦牟尼仏
の直接的な本体」を、 Libra さんのように、「教法(仏法)」の事と
了解するのは無理です。
伊藤教授には「本仏釈尊は経典の形としてしか存在しない」などという考
えは全くないはずです。
伊藤教授の所論は「本仏釈尊は経典の形としてしか存在しない」と云う主
張の裏付けには成りませんでしょう。

> もし伊藤教授が川蝉さんが言われるような意味で「霊魂の不
>滅」を語っているのであれば、

「霊魂の不滅」は今の論題と違うのでコメントは置いておきます。しかし、
一寸一言。
>ブラフマンあるいは最高の神と諸の霊魂は常住不変なものである
>と考えていた。ところが、仏教はそれらの説をも否認したのであ
>る。  (中村元『原始仏教 その思想と生活』
全く文証になりませんね。
仏教では梵天を初め諸天(神)も迷いの存在で、ついには、神の状態で居
続ける事は出来ない、生死流転を免れていない者と断じていたと云う意趣
の文でしょう。
Libraさんは上掲の中村教授の文をもって、釈尊の不滅性をも否定する文と
思いこんだようですが、そんな意趣はないですね。   
中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教I』の文を挙げています
が、
たとへば、岩波文庫中村元訳「感興のことば」に
33章46句「神々も天の伎楽神たちも人間どももあおの行方を知り得な
い人、無限の智をもっている人、 かれをわれらはバラモンと呼ぶ」(つづく)

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三吉さんへ。(3/3) No: 304
 投稿者:川蝉  00/07/10 Mon 11:47:11

三吉さんへ。続きです。
>無我=空性=仏性ならば、その主体的行為は、般羅密のごとくな
>はずです。般羅密とは「自」を意識しないで主体的な行為を取る
>点にあるのでは?
本来はそうあるべきですね。しかし、それは第一義諦としての面でして、
俗諦的には、主体的な自の自覚を欠如してはならないものでしょう。
「大智度論巻第一」に
「仏弟子の輩は、無我を知るといえども、俗法に随いて我と説く、実我に
は非らざるなり。・・無我の法の中に於いて我と説くは、世俗の法に随う
故に難ずべからず」
とあります。
天台で云えば
「五衆和合するが故に人有り、別の人有ること無し。もし人無くんば、仏
は是れ実語の人なるに、云何ぞ我六道の衆生を見ると言わん。当に知るべ
し、人有ることを。・・人等は第一義(悉檀)の故に無く、世界(悉檀)
の故に有り」(玄義巻第一上)
と言うことですね。
自力と云う言葉を使っても無我空性でない自力を指す言葉では有りません。
上に書いた世間の言語習慣の立場で、自力と云う言葉を使っても良いわけ
ですね。
無自性でありながらも、自己責任と云うか自意識的な自覚を持つ事も大事
なのでしょう。

>その「促し」を因と見るならば「他力」です。自分の努力を
>「因」と見るならば、「自力」です。何を因と見るのが、真に仏
>教と相応するとお考えか?

ご参考に先学の中川日史上人の「体系的法華経概観」にある解説を以下に
挙げておきます。

三力相応の修行という事がいわれてあるのです。三力とは一に「本仏の本
願力」、二に「妙法の本済力」、三に「行者の信念力」の三つであって、
この三つの力が一つになって私たちは涅槃の境地に到達することを得るの
であります。本仏の本願力とは、私たち迷える衆生をどうにかして転迷開
悟させようと、「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に
入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん」との釈迦牟尼仏の悲願
をいうのであります。
妙法の本済力とは、妙法蓮華経は、私たちの煩悩を断じ迷妄を去る大良薬
であって、この五字の中に具わっている大功徳力をいうのであります。
行者の信念力とは、本仏の本願の力に帰依し、妙法の本済の力を信じ、今
生において無始以来の迷妄を去り、苦悩をことごとく消滅しなければなら
ない、と努力する私たちの信仰と修養の力をいうのであります。この三つ
の力が一つになって、初めて法華経の修行は完成するのであります。
この点より考えても、私たちの修行は、他力といっても他力のみでなく、
自力といっても自力のみでない。いずれの一方に偏しても、それは法華経
の修行ではないので、三力相応しての妙力でなくては、迷いを転じて悟り
を開くことはでき得ないのであります。

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川蝉さんへ(3/3) No: 303
 投稿者:Libra  00/07/10 Mon 11:46:45

  法華経が説くところの教え・法は、実はインドに出現した釈尊一人に
  帰せられるものではないことを意味するであろう。何故ならば、イン
  ド出現の釈尊以前に法華経が説かれたとなされているからである。し
  かし法が、インド出現の釈尊によって説かれたのではないというなら
  ば、それは仏教ではなくなってしまうであろう。そこに釈尊と法華経
  とのあらたな関係が展開されてくることになる。それを知るためにも、
  法華経が釈尊以外の仏によっても説かれたとするならば、法華経によ
  って説かれた教え・法とは何であるのかについて考えておかなければ
  ならない。そしてこの法がすでにかって説かれたものであるとするな
  らば、法・教えというものは永遠の昔から存在するものでなければな
  らない。
   かかる理念の出発点となるものは、仏の出世未出世にかかわらず、
  この法は常住なり、とする仏教の基本理念たる縁起の理法にたいする
  ありようであろう。縁起というと、あれは阿含経が説いたものだとい
  い、空は般若経が説いたもので、法華経は諸法実相を説いたものだ、
  と単略的にいう人がいるだろう。しかし空といい無我というも、何か
  の物や物ごとに実態があると思うと、人はそれに執着するので、空と
  いい無我といったものに外ならない。ただ空というとニヒリズムのよ
  うな印象を抱く人があるから、今の人には縁起を説いたほうがいい、
  というのは中村元氏の意見でもあった。かかる指摘からみても、仏教
  思想の基本は縁起にあるといっても、大きな誤りはないであろう。
   この縁起に関してはSamyutta-nikaya(この経は北伝では漢訳の
  雑阿含経に比定されている)の中に「比丘等よ、縁起とは何ぞや。比
  丘等よ、生に縁りて老死あり。如来(世に)出づるも、若しは如来(
  世に)出でざるも、このことは定まり、法として定まり、法として確
  立し、則ち相依性なり。如来はこれを證り、(これを)知る。(これ
  を)證り、(これを)知りて、教へ示し宣布し、詳説し、開顕し、分
  別し、明らかにし、(然して)『汝等、見よ』といふ」と、有名な言
  葉が示されている。
   この言葉は縁起の基本姿勢を示したものであるといわれている、が
  同時に法というものについての姿勢もここには見られる。即ちこの言
  葉は、仏の出世・未出世にかかわらずこの法は常住なり、と表現され
  るものなのであるが、この言葉は法というものは釈尊が創造したもの
  ではなく、この世に常に存在している様々なもののありようを、釈尊
  がありのままに見て、そのつながりあっている真の姿を縁起の理法と
  して、説いて教えて見せたものだということを意味しているであろう。
  (pp. 210-211)

  本来、釈尊はインドに出現して悟りを開き、覚者となられ教えを説か
  れた。しかし釈尊が滅度を示され姿を消されると、人々は拠りどころ
  を失うことになってしまう。見えなくなってしまわれた釈尊にかわる
  ものとして、法(教え)という問題があらたに生まれてくる。迦葉に
  よってすすめられた仏典結集は、釈尊が見えなくなってしまったので、
  その教えがばらばらになったり、くい違いを生じたりしないようにと
  いう立場からなされたといわれている。これは生身の釈尊にかわって、
  法・教えが登場して来たことを示しているであろう。
  (p.215)

   地下をどのように掘って見たところで虚空などはありはしない。な
  いのにあるというのは、何かを象徴的に表現しようとしたものに外な
  らない。(…)
   この娑婆世界から次々と生まれ出てくるもの、それは未来世の中に
  おいて生まれ出てくる人々のことではなかろうか。上行・無辺行・浄
  行・安立行菩薩というのは、法華経以外の経典においては現れてはい
  ないという。しかもその名前は法華経の為の故に、行うべき理想のあ
  りようとして示されている。するとこの地涌の菩薩とは未来世におい
  て法華経に縁をもち、(…)この世に出現したのだとの思いにおいて
  生きようとしている人々のことではなかろうか。
  (p. 217)
  
   かくて常住に存在しているこの世の仕組み・法(真理)との合一に
  おいて、釈尊の生命が久遠の昔からこの世にとどまれるものであり、
  さらに法華経を説くという点において、現世の人々とも未来世の人々
  とも繋がりえているということになり、永遠の未来にまでわたる釈尊
  の生命の流れが展開されて来た、といいうるのだと思われる。
  (p. 218)

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川蝉さんへ(2/3) No: 302
 投稿者:Libra  00/07/10 Mon 11:46:24

> 私は、普賢品の四法成就の文と玄義を文証として、仏道成就の為には外護
> としての仏神菩薩の応援導きが必要であると述べたのです。四法成就の文
> や玄義の文の教示を否定されるのですか?。

 「随宜所説・善巧方便」と見るということです。

> > 私も単純ですから「観音菩薩等(の神的存在)は実在しない」
> >と信じています。
>
> 仏菩薩や諸天の存在は証明が出来ませんので、それぞれの信にまかせま
> しょう。

 そうですね。僕もそれがいいと思います。

> 宗祖の本地身としての上行菩薩の存在を架空のものとする立場のようで
> すから、本有の菩薩界の存在も架空のものと考えるのですね。
> 本有の菩薩界や本有の本仏の存在を認めないと十界互具平等の理が成立
> しないのです。宗祖は十界互具平等の理こそ永遠の真理と理解されている
> のです。

 「真の菩薩」というのは「自分を捨てきる」ことが出来る人のことを言
うのだと僕は思います。「不自惜身命」です。自らの本性を「空性」と見
たとき、人は「真の菩薩」になることができるのではないのでしょうか。

  今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり、(…)
  下方を以て住処とす下方とは真理なり、(…)此の理の住処より顕れ
  出づるを事と云うなり
  (「御義口伝上」、全集、p. 751)

 言うまでもなく「空性」の真理は誰にとっても「本有」です。ただそれ
に気付いているかどうかの違いしかありません。それを衆生に気付かせる
ために仏は『法華経』を残されたのだと僕は思います。

> この開目抄の文を読んだら、とうてい「>そんなことは絶対にありません。」
> などとは云えないはずです。

 宗祖にとっては『法華経』が「三身具足の常住不滅の本有の古仏」だった
ということでしょう。

> だいぶ見解の相違が明確になってきましたが、そろそろ堂々巡りの意見交
> 換になってきたようですね。(以上)

 そうですね。あとは読者の方々に判断を委ねることに致しましょう。

 最後に、望月海淑という人の「法華経に見られる佛身観私論」という論文
(『大崎学報』第150号、pp. 205-221)の一部を紹介したいと思います。
僕自身は望月氏の主張に必ずしも全面的に賛成するわけではありませんので、
賛成できる主張のみをとりあげます。

  インドに出現した釈尊それ自身が、それだけでは三世にわたるような
  広大無辺な仏身とはなりえない。それは、インドにおいて釈尊は八十
  年の生涯を終えて、涅槃に入られているからである。
  (p. 208)

   しかしてインドに出現した釈尊が、そのままで六或示現を示すとい
  うようなことはありえないことであろう。もしも、そのようなことを
  考えたとするならば、それは近頃はやりの教祖や拝みやのようなもの
  になってしまうだろう。
  (p. 208)

(3に続く)

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川蝉さんへ(1/3) Prev: 298 / No: 301
 投稿者:Libra  00/07/10 Mon 11:46:02

 川蝉さん今日は。

> 伊藤教授のスタンスが「常住不滅の仏」=「仏法」であ
> るという理解は正鵠を得ていないのでは。

 そんなことはないと思います。
 伊藤教授は、「報恩抄」の

  問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求め
  て云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉
  阿難等馬鳴竜樹等天台伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云
  く其の形貌如何、答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主
  釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四
  菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻
  浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経
  と唱うべし、此の事いまだひろまらず一閻浮提の内に仏滅後二千二百二
  十五年が間一人も唱えず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声
  もをしまず唱うるなり
  (「報恩抄」、全集、p. 328)

という文を引かれて、次のように言われています。

   ここでは、末法のために仏が留め置き給うところの正法とは、一には
  本門の本尊(=教主釈尊)であり、二には本門の戒壇であり、三には南
  無妙法蓮華経(=本門の題目)であると言われています。すなわち本門
  の本尊と戒壇と題目とは、いずれも正法であるというのです。コンテク
  ストを形式論理の上から見るならば、正法は本尊・戒壇・題目の三に対
  して、それらを包括する上位概念(Superordinate concept)の関係
  にあり、本尊・戒壇・題目の三は正法に対して包括される下位概念(
  Subordinate concept)の関係にあるということができましょう。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 89)

> 伊藤教授は、間違いなく「法華経は常住不滅の仏の存在を説いている」と
> 認めています。

 「常住不滅の仏」とは「正法であり、正法の形貌であり、形貌ある正法」
(同書、p.89)という意味で「認めている」ということでしょう。

> 「本尊という実在のその人格的な本体は「根本の仏陀」であり、これを本
> 仏と称します。その本仏は抽象的な存在ではなくして、私どものこの世界
> に実際に出生したところの釈迦牟尼仏の直接的な本体でもあります。」
> と論じています。本仏を単なる法華経経典としていないことも分かります。

 「直接的な本体」とは「教法(仏法)」ということではないでしょうか?

>「意志や自意識をもちつつ生き続ける」というような意
> 味がなければ、 「共にこの地にあって共に今の時にあって、娑婆を寂光
> にする任を担うのである」とは云えないと思われませんか?。また、人
> 々の霊魂の不滅を語っていると受け取れませんか?。
> とLibraさんの読みとりが伊藤教授の文を正当に理解していないのでは?と
> 疑問を呈したのです。

 もし伊藤教授が川蝉さんが言われるような意味で「霊魂の不滅」を語って
いるのであれば、僕はそのような伊藤教授の見解を支持しません。

   『これらすべてのものは無常であり、苦しみであり、変滅する本性の
   ものである。』
   無常説は必ずしも仏教のみの説いたところではなかった。「ウパニシ
  ャッド」や「バガヴァッド・ギーター」にも説かれている。ただバラモ
  ン教の哲人は、世の中のものはすべて無常であるが、ブラフマンあるい
  は最高の神と諸の霊魂は常住不変なものであると考えていた。ところが、
  仏教はそれらの説をも否認したのである。
  (中村元『原始仏教 その思想と生活』(NHKブックス111)、日本放
   送出版協会、1970年、p. 73)

   釈尊が超人的なものであると考えられるとともに、インド人一般の輪
  廻の観念と結合して、過去世に釈尊は善根を積んだからこの世に仏とし
  て現われ出たのだと考えた。そこでゴータマの前世についていろいろな
  想像がなされる。釈尊は過去世にカッパ(Kappa)といい、バカ(Baka)
  梵天の弟子であったとか、過去世にカッサパ仏の世にジョーティパーラ
  (Jotipa ̄la)というものとして陶工の友であったともいう。カッサパ
  仏と釈尊との関係はジャイナ教からとり入れたものらしい。ジャイナ教
  でもカーシャパ(Ka ̄s′yapa)はマハーヴィーラにジャイナ教の真理
  を授けたということになっている。
  (中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教I』(中村元
   選集第11巻)、春秋社、1969年、pp. 514)

(2に続く)

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