Beat Me ! 過去ログ[501-521]

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これにて「おしまい」 No: 521
 投稿者:Libra  00/09/06 Wed 17:57:40

 みなさんこんにちは。

 さて、川蝉さんとの宗論も一段落したようです。
 
 議論そのものは、予想どおり「平行線」に終始してしまいましたが、
読者の方々には両者の主張の内容および争点は十分に伝わったのではな
いでしょうか。もしそうだとすれば、僕的にはおっけーです。

 そもそも、僕のような考え方は誰にも理解されないのかもしれません。
理解されるとしてもそれまでにはまだまだ時間がかかるでしょう。

 とにかく、僕は言うべきことを言わせて頂きましたし、同じ事を繰り
返し何度も説明することにも、孤独と付き合うのにも、少し疲れました。
だから、このへんでこの掲示板もお開きということにさせてください。
こういうことを言うと、急に「応援してたのに残念」とか仰って下さる
方がおられますが、そういうのは今回は結構です(^_^;)。

 議論に付き合って下さったみなさま、どうもありがとうございました。
といっても、ネットからいなくなるということではありませんので、ま
たどこかでお会いすることもあるでしょう。そのときはまたよろしくお
願いします。

p.s.
 過去ログはすでに流れてしまった分も含めて、近日中にトップページ
にアップするようにします。


グット No: 520
 投稿者:こん  00/09/06 Wed 12:18:23

グットなHP

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/2739/

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Libraさんへ。(4/4) No: 519
 投稿者:川蝉  00/09/05 Tue 11:01:51


田村芳朗『法華経』(中公新書196)の文を引用していますが、、「仏道修行には仏菩薩の応援や加護・加持、導きは必要ないとするのが仏教本来の基本的立場であるし、智慧が一番重要視されている。故に、智慧すなわち経典という報身だけを重要視しなければならない」と云わんとしているのですか?。

田村博士の文は、人格的な三身具足の仏の存在を否定する文証にはなりませんよ。

>その上で、実にさらっと「久遠実成も善巧方便」と説かれている
>のです。分別功徳品の「般若波羅蜜は除く」も実にさらっと説か
>れています。

岩本博士の件の部分の訳はおかしな訳と思いますので、寿量品には「実にさらっと、久遠実成も善巧方便と説かれている」などと、まったく解釈しません。
分別功徳品の「般若波羅蜜は除く」の文が「久遠実成も善巧方便」とさらっと教示していると解釈するのですか?。こじつけ論理としか思えません。

> 僕は「報身」は「消滅してしまって存在しない」とは言ってい
>ません。「報身は有始無終」と言っています。このことはもう何
>度も指摘しました。

Libraさんは、釈尊入滅後は、人格的・霊在的・客体的存在としての釈尊(三身具足の古仏)は存在していないと云っているでは有りませんか。

>それこそ「宗祖の教示の否定」でしょう。

「開目抄」の文に「本門にいたりて始成正覚をやぶれば・・九界も無始の仏界に具 し・・」
と有りますね。「五百塵点劫以前の実成」を無始の仏界と表現していますね。だから宗祖は「五百塵点劫以前の実成」を無始と云う外ない遠い昔と把握されていたことは確かです。
また伽耶始成の仏でないと明言しています。
「無始より常住不滅の仏に非らず、伽耶始成の仏である。仏は経典として、また弘通者としてしか存続していない」と云う立場であるLibraさんの方が「宗祖の教示の否定」と私には思われます。

>「無始無終性が顕れる」とは「報身も応身も有始」という事実が
>“消えて無くなる”ということではありませんよ。

もちろん、本覚無作三身をを始覚する時点を仮定するわけですね。本覚顕現の時点に於いて、無始の無作三身仏となるのです。
(終わり)

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Libraさんへ。(3/4) No: 518
 投稿者:川蝉  00/09/05 Tue 11:00:22

此の文より三頁目(253頁)に「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」とありますね。
山川智応師は「地涌千界(の大菩薩)は、教主釈尊が(久遠の昔)初めて発心せしめたまえる弟子である」
と意訳しています。
「開目抄」に
「定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを令初発道心とて幼稚のものども・なりしを教化して弟子となせりなんど・をほせあれば・大いなる疑なるべし」(212頁)
とあるので、上掲の「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」との意味は山川智応師の意訳通りとすべきでしょう。
とすると、「迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり 」との意味も山川智応師の意訳を正とすべきでしょう。
岩波書店日本思想大系「日蓮」も、「久遠実成の釈尊に従って初めて発心した」と注記しています。

>釈尊が「本覚を始覚」して仏教は始まったのであり、釈尊が「本
>覚を始覚」する前には「仏の教化」はなかったのです。「仏の教
>化」は「有始無終」です。

当たり前の事ですね。ただ、それが無始と云える程の昔であって、伽耶始成に始まる「有始無終」では無いと宗祖は把握されていたと云う事です。

>「宗学上」と言われますが、一体誰がどのような根拠に基づいて
>そのようなことを言われているのでしょうか?具体的にお示し下
>さい。
> それに、そもそも僕は宗学の殻に閉じこもるつもりはありませ
>ん。

「>宗学の殻に閉じこもるつもりはない」との事ですが、それはご自由です。
「我本菩薩道」の解釈は極めて宗学的です。議論が広がりすぎるので、山川智応博士の高弟の高橋智遍居士が「高橋智遍全集第八巻の78〜81頁」で「本仏がご自身の所具している九界を悟化して、それを以て久遠己来衆生界を教化する化他行を説かれた経文になるのです」等と解説してあると指摘しておくだけにします。

>「法身正意でも応身正意でもなんでもよい」とお考えの人には、
>「報身(釈迦の智恵)」の意味も、『分別功徳品』の「般若波羅
>蜜は除く」の意味も理解できないということのようですね。残念
>ですが。

『日蓮宗事典』の解説は知っていますので、軽々しく「法身正意でも応身正意でもよい」などと云いませんよ。
私は、
「三身即一身、一身即三身にして不従不横の関係」であるから、法華経の仏身観では、何れの身を取っても、その中に他の二身があるとされる。
さらに、上に冥し下に契うと云う義の便からは、報身中心を便とし、もし衆生に近く知りやすいと云う面から云えば応身中心を正意とすると云う事が宗学者のほぼ共通の考えであると云う事を述べたのでした。

上に冥し下に契うと云う義の便からは、報身中心を便とされています。天台が「応(身)は是れ法(身)報(身)の用なり。体すでに滅なければ用 あに窮まりあらん。すなわち応身の不滅なり」(文句九下)との教示がある通り、応身も不滅ですから、加護教導の働きしていてくれる点を強調すれば、すなわち、もし衆生に近く知りやすいと云う面から云えば応身正意も成立すると云えましょう。
「開目抄」に「応身・報身の顕本はとかれず」(198頁)とあるので、私は「応身・報身の両方の顕本」に寿量品の特色があると宗祖は理解されていたであろうと考えています。

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Libraさんへ(2/4) No: 517
 投稿者:川蝉  00/09/05 Tue 10:57:43

>川蝉さんの主張される通りであれば、田村博士の説明も伊藤教授
>の説明も「ダブル・スタンダード」のインチキということになり
>ますね。

田村博士の説明や伊藤教授の説明の真意が、私が理解した通りであっても、「ダブル・スタンダード」のインチキということになりませんでしょう。上記のコメントを良く読んでください。

> 「不従不横の関係」というのを、現代に生きる普通の人間にも
>分かる言葉できちんと説明して下さい。難解な仏教用語をただ持
>ち出しただけでは何の説明にもなっていません。

三身具足の状態を説明したものです。
法身の中に報身・応身がある。報身の中に法身・応身がある。三身が別々に有るのでは無く、また、法身の横に報身や応身が並んであるわけではない。と云うような事でしょう。
一仏の三面と云う事ですね。

> 僕は“経典としての『法華経』(「法華経になった人間の身
>体」を含む)”こそが「釈尊滅後の応身」であると何度も申し上
>げました。

法華経を尊ぶことには異論はないのです。前から幾度も申していますが、開経偈にも法華経を法身・報身・応身と讃えていますので、「釈尊滅後の応身」と尊ぶことは強いて否定もしません。
ただ、三身具足の無始久遠の古仏の常住不滅を否定する点を「Libraさん の解釈は、Libra さん独自のもので、 宗祖の見解とは大きな違いがあると指摘しているだけです。

Libraさんが今度も文証として挙げた「守護国家論」(全集、p. 66)や「曾谷入道殿御返事」(全集、p. 1025)は、人格的霊在的な存在としての三身具足の無始久遠の古仏の常住不滅を否定する文証にはならないものです。 

>なぜ「報身も応身も無始」だと言えるのかご説明下さい。道理を
>無視して「宗祖が言っているから」というのは無しですよ。「道
>理現前ならんを用ゆべし」です。  

始覚即本覚と云う面から考えると宗祖が「三身即一の仏」「久成の三身」「五百塵点乃至所顕の仏」「無始の古仏」等と表現された事が理解しやすいと思っています。始覚即本覚と云う面からの簡単な説明は上に述べてあります。

> やはり『日蓮宗辞典』を読む必要があるのは川蝉さんのようで
>す。法身正意とする学者、応身正意とする学者がいると言われる
>なら、それらの学者は間違っています。是非、お名前と具体的文
>献名を教えて下さい。

法身正意、すなわち法身顕本とする学者は身延日朝上人、一妙院日導上人です。
報身正意、すなわち報身顕本とする学者は慶林坊日隆上人です。
応身正意、すなわち応身顕本とする学者は日什門流の合掌院日受上人です。
詳しくは『日蓮宗事典』の82頁をご覧下さい。

> 迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり
>   (「観心本尊抄」、全集、p. 250)

紀野氏のように読めないこともないですが、山川智応師は
「迹化の大(菩薩)衆は釈尊に初めて発心せしめられた弟子でないからである」(観心本尊抄講話519頁))
と云う意味に読んでいます。(つづく)

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Libraさんへ(1/4) No: 516
 投稿者:川蝉  00/09/05 Tue 10:55:55

Libraさん今日は。 

「岩波仏教辞典」に、もし「宗祖の寿量仏観」を解説する項があるとしたら「日蓮は無始久遠の三身具足の仏としている」等と解説していると推測します。
「岩波仏教辞典」に、「日蓮は寿量品の仏を、伽耶始成の仏と見ている。常住不滅の三身具足の仏と見ていない」と云う記述しているならば、反証となりますが、そうではないので「何の反証にもなりません。」と書いたのです。

>あまりにも昔なので宗祖はあえてわかりやすく「無始」と形容さ
>れているのです。宗祖も“五百塵点は「有始」か「無始」か?”
>と問われれば「有始」とお答えになるでしょう。

その通りと思いますよ。
だから、宗祖が「久遠の昔に実成した仏でない」と教示していると、私は云っていませんよ。
宗祖が無始の古仏と表現しているから、それに従って同じく無始久遠と云っているのですよ。
始覚即本覚と云う事は、始覚の点を云えば有始ですね。ただし五百塵点劫以前すなわち無始と云う外無い遠い昔の実成であるし、もともと本覚であったと云う点を強調すれば無作三身とか無始の古仏と云う表現になるのです。

私は、Libraさんの主張を「報身は初めがある。その初めはインドに於ける成道時を指す。応身としての活動は入滅をもって終わる。だから応身としての釈尊は存在しないし、報身も人格的霊在的な存在として存在しない。ただ法華経経典と弘通者と言う形でしか存在しない」
と云う主張と把握しています。
それに対して、私は「宗祖が無始久遠の三身具足の仏と明言している。伽耶始成の始覚仏でなく、無始と云う外無い遠い昔から存在し続け、インドに於いて入滅した後も、人格的霊在的な三身具足の仏として存在し続けている仏であると云うのが宗祖の寿量仏観である。だからLibraさんの主張は宗祖のそれとまったく異なる」
と従来述べているのです。

> 「一般的な三身観」と「川蝉さんの三身観」は明らかに矛盾し
>ますが、川蝉さんは「一般的な三身観」は間違っていると考えて
>おられるということでよろしいでしょうか?

上部のコメントを良く理解して貰えば、宗祖の三身観は決して三身の概念に外れていませんよ。ただし、久遠成道の仏と見る宗祖の立場と伽耶始成の始覚仏と見る場合の三身観・仏陀観とは違いがある事は当前ですね。

> 川蝉さんと違って伊藤教授ご自身は、報身も応身も「有始」で
>あることを否定されていません。

私も、報身も応身も「有始」であることを否定しませんよ。
ただ、その有始が久遠成道時と云うことですね。
もともと三身如来であったことを始覚した、顕現したと云うことは、本有無作三身に成りきったと云う事になりますね。だからその時点で、無始の仏となったと云うことだと理解しています。

>その必要があるのは僕ではなく川蝉さんの方でしょう。
>「一般的な三身」と「宗祖の三身」とが矛盾することを認めた上
>でそれらを使い分けるというような「ダブル・スタンダード」の
>どこに説得力がありましょうか?

上部の私の記述を理解して貰えば、「ダブル・スタンダード」で無いことがわかりましょう。
ただし、天台も「文句九」に
「今経は円に不従不横の三如来を説くなり。・・発迹顕本の三如来は永く諸経に異なれり」
と言明しているように、寿量品の仏身観は一般の経に基づく仏身観とは異なります。(つづく)

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法華経ってすばらしいな! No: 515
 投稿者:薬王菩薩  00/09/04 Mon 12:48:49

 法華経っていいよね! なんか感動しちゃうって感じかなー
 とキャラ作るのはこのへんにしといて、初めてここにカキコします。
 まだ、この場がどんなものか深めていませんが、とりあえず、思っていることを
 書こうかなー。
 方便についてですが、これはテクニックって意味ですよねー?
 テクニックの教えと、実技の教えは違うんだってことでしょ?
 仏陀の覚りは表現できない、しかも、それは智慧や分別を超えている、とすれば
 それを説く方法は言語では難しいということになります。
 すべての方便はそこから来ているのではないでしょうか?

 結局は仏陀の覚りは因であり、その因こそ法華経であり、その法華経に入るための
教えが、さまざまにあり、それが方便と言われているような気がします。

 法華経に入らせるためのすべての方法が方便であり、その方便によって、なんとか
密林から出られ、法華経をを理解できるだけの功徳や、誓願や、因が必要なのであり、
その必要なものがまた、方便なのであり、、、、。と方便と一乗仏これは切り離して
考えるものでもなく、切り離して考えないものでもなく、そのような空の境地に入らねば
論争することは、疑いないのでしょうか?

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Re: shamonさんへ Prev: 504 / No: 514
 投稿者:shamon  00/09/04 Mon 10:56:06

> 「根性見せる」つもりです。それが居士に対する報恩だと思ってます。

宗祖の「報恩」とは、正法に回帰させることです。批判そのものが、報恩
ではありませんよ。宗祖と同じ立場に立とうとしない根性は、我執となり
ますからね,よく心得て下さい。仏教の智慧とは、無分別智の上に成り立つ
分別智であることを理解するのならば、川蝉さんの説明も、宗祖の御遺文
も意を汲み取れるはずです。

従来あった旧日蓮宗の報身正意は、中古天台の教学を反映させた身延一致派
の人格的釈尊の存在を軽視した法本尊派の名残りだと理解しています。近代
教学において、顕本の本多猊下等の尽力にもより日蓮・法華宗は一旦統合さ
れ、所観の本尊は、本仏・久遠実成の釈迦牟尼仏、能観の本尊を十界曼陀羅
と正式に確立しました。現在の伊藤瑞叡上人の修正された報身正意とは、顕
本の主張していた応身正意とほぼ同じと考えています。参考まで。

>釈尊の精神を追体験するにはやはり、宗祖のように命をはって読まないといけ
ないんでしょう。

まず、観念を確立させる必要があります。概念的に仏身観を積めていく「学」と、
その存在を実感する実践的な「行」は、観念を確立するためのものです。誰にで
も出来る修行ではありませんね。しかしながら、質直柔軟な方ならば、不退の「信」によって人格的久遠釈尊の観念は、確立されます。観念の確立あって従因
向果とし、妙法(釈尊)からの従果向因と交差一致して顕現を得るのです。

> 釈尊や宗祖に対する僕の尊敬の念は「まだまだ信とは言えない」とい
> うことでしょうか?
>求法者や経典を離れて「客体的に存在する」とは思いません。

まず、貴方は自分の精神に釈尊を、観念より境智妙合させて「客体的に
存在」させねばなりません。それから、理象(理性)と事象(世間)の
妙合を果たさねばならないのです。つまりは、世間にも釈尊は「客体的
に存在」「実在」することをです。それをこれからの仏教においては、
インテリ層にも科学的にも説いていかなければならないのです。「信」
によって、同様に「客体的に存在」させえる人々の信仰を妨げることな
くです。

「表象の根本的な形式は、人格的なものへと統一され人格的な観念となりうる」
人格的な観念=心に顕れる表象形式と理解できますか。

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川蝉さんへ(4/4) No: 513
 投稿者:Libra  00/09/03 Sun 21:16:29

> 「 法華経寿量品の久遠の仏は、これらの乱立した諸仏を統一し
> て再 び本来の釈迦一仏の状態に復帰し、諸仏を釈尊の応化また
> は分身として包括する信仰的欲求から出た教説である
> (同上、p. 334)」
> とあるように「釈迦一仏の状態に復帰し、諸仏を釈尊の応化また
> は分身として包括する」見事な仏身観として、仰いでゆくべきだ
> と思いますよ。  

 仰いでいます(^_^)。

> 私の「> Libraさんは、客体的存在として釈尊(三身具足の古仏)
> は、存在しないと主張す る立場ですね。」に対し、「>その通
> りです」とのことですので、「Libraさんは 、仏身は消滅してし
> まって存在しないと云う見解である」と云わせて貰います。

 「報身は仏の能証の智恵」(『日蓮宗事典』)です。そして宗
祖の立場が「報身正意」であることは論をまちません(『日蓮宗
事典』を是非確認されたい)。
 僕は「報身」は「消滅してしまって存在しない」とは言ってい
ません。「報身は有始無終」と言っています。このことはもう何
度も指摘しました。にも関わらず、上のように繰り返されるので
「迷惑」だと言っているのです。さすがに読者の方々もこのこと
はもう十分理解されたと思いますが。

> 私の「 在他の釈尊(無始の古仏)が存在しなければ、己心の釈
> 尊と云う事は云えないのです。」
> に対して「> そんなことはありません。」との見解ですが、
> 「本門にいたりて始成正覚をやぶれば・・九界も無始の仏界に具
> し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具、百界千如、一念
> 三千なるべし(略抄)」(開目抄・197)
> との教示がありますね。久遠実成が説かれたので、初めて「仏界
> も無始の九界に備りて」「真の十界互具」が成立すると云う教示
> ですね。在他の釈尊が存在しなければ、「九界も無始の仏界に具
> す」とか「仏界も無始の九界に備り」と云う事も成立しないし、
> 「真の十界互具」も成立しないと云うことですね。
> Libraさんの「> そんなことはありません。」との見解は、宗
> 祖のこの教示を否定していることですよ。(以上)

 開目抄は「教相」を表にして説かれていますし、寿量品が教相
上「五百塵点によって始成正覚をやぶっている」ことは言うまで
もありませんね。ですが、そのことによって“宗祖は「五百塵点」
を「無始」であると主張していた”などとは言えないでしょう。
それこそ「宗祖の教示の否定」でしょう。

 宗祖は「当時の衆生」をいかにして『法華経』に導こうかという
ことを第一に考えて法を説かれていたのです。例えば、宗祖は大乗
経典も釈尊が直接説いたと言われ、華厳経が最初に(小乗経典より
も先に)説かれたと言われています。しかし、これは事実としては
間違いです。ですが、当時はそれでよかったのであり、そう説くべ
きだったのです。僕がこのように言うことも「宗祖の教示を否定し
ていること」になりましょうか?

> と云って、『日蓮宗辞典』の説明を挙げて証としていました。
> 『日蓮宗事典』(日蓮宗発行)と別な『日蓮宗辞典』と思い手元にな
> いと書きました。もしかしたら『日蓮宗事典』と思い127頁を開き
> ましたら、やはり、Libraさんの引用は『日蓮宗事典』の解説の一部
> のようですね。  

 変換ミスです。失礼しました。

> 『法華真言勝劣事』に「大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始
> 無終なり、三身の無始無終に非らず」(定308頁)、『開目抄』に
>「雙林最後の大般涅槃経四十巻、その外の法華前後の諸大乗経に一字一
> 句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」
>(定552頁)とあるのは、法身中心主義の否定である。応身の顕本
> とは慈悲救済の活動が本時以来反復されているということであり、報
> 身の顕本とは釈尊の成道は伽耶始成ではなくて久遠実成であるという
> ことであり、応身・報身が顕本されて無始無終性が顕れると、法身の
> 無始無終ばかりでなく、三身の無始無終が顕れることになる。

 ご心配は無用です。ちゃんと読みました(^_^)。
 で、「応身・報身が顕本されて無始無終性が顕れる」ということ
がどういうことか川蝉さんにきちんと説明できますか?「無始無終
性が顕れる」とは「報身も応身も有始」という事実が“消えて無く
なる”ということではありませんよ。“無始無終の法身との不二の
関係が明らかになる”ということです。もし違うと言われるならば
きちんとご説明ください。
 それと、『日蓮宗事典』では宗祖の立場を「報身正意」としてい
ますね。「法身正意でも応身正意でもよい」とされる川蝉さんの立
場とはずいぶん違います。このことについてはどう説明されますか?

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川蝉さんへ(3/4) No: 512
 投稿者:Libra  00/09/03 Sun 21:15:57

> 岩本訳だと、伽耶始成も久遠成道もともに真実でない方便であっ
> た明らかに説いている事になっていますね。「>“実は真実では
> ないのだが…”ということを前面に押し出しすこと」になってい
> ますよ。

 別に、「さらっと述べている」だけで、「前面に押し出している」
わけではありません。だからこそ結果的に岩本氏のような訳が少数
派なのでしょう。

> 再度「三誡三請・重誡重請の後、伽 耶始成を方便であった事を述
> べ、久遠成道をであると宣言し、続いての『分 別功徳品』に、仏
> の寿命長遠を信受する者の功徳の莫大なる事を語 っていますね。
> こうした経の起尽からしても、寿量品の中で久遠実成も 実は方便
> であったなどと語るわけはないでしょう。そう思いません か?」
> と申し上げておきます。

 何度言われても僕の答えは同じです。「法身正意でも応身正意で
もなんでもよい」とお考えの人には、「報身(釈迦の智恵)」の意
味も、『分別功徳品』の「般若波羅蜜は除く」の意味も理解できな
いということのようですね。残念ですが。

  『法華経』でも、信仰は各所に強調されている。しかしそこで
  の原語は、シュラッダー(信)か、アディムクティ(信解)で
  ある。他にプラサーダ(澄浄)が一つか二つ使われている。こ
  れら三語とも、バクティのような絶対者にたいする絶対信を意
  味しない。仏道への入門にさいし、心をあらため、心を決め、
  心を浄めることをいう。その上で修行にはげみ、智慧をみがい
  て悟りに達するのである。
   右のごとき信仰の観念は仏教を一貫して流れるもので、ナー
  ガールジュナ(竜樹)の『大智度論』巻第一に、「仏法の大海
  には信を能入と為し、智を能度と為す」と説かれているところ
  である『法華経』でもこの基本線は保たれているので、たとえ
  ば、分別功徳品第十六(第十七)で一念の信あるいは信解を強
  調しながら、それらは五波羅蜜をこえるが、「般若波羅蜜は除
  く」と説かれている。つまり、悟りにいたる(パーラミター)
  六つの実践行為(六波羅蜜、六度)のうち、智慧(プラジュニ
  ャー 般若)のみは最後的なものとして信の上に置かれたので
  ある。
  (田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、
   p.92、※原語表記は省略して引用した)

> 私の「 伽耶始成も久遠実成もともに方便であるとするな ら、で
> は何が真実説なのか?と云う疑問が出てきますね。」
> に対して、
> >「インド生誕の釈尊によって仏教は始まった」というのが真実説
> >です。
> とのコメントですが、伽耶始成とはインドに於いて成道したと云
> う事です。岩本訳では「伽耶始成も方便」と云う訳意です。岩本
> 訳を正とすると、「インド生誕の釈尊によって仏教は始まった」
> と云う事も方便説と云う訳意ですね。さてどうします?。

 別にどうもしませんよ(^_^)。

 寿量品の教相では「伽耶始成は方便」を前面に押し出して「久遠
実成」を説いています。その上で、実にさらっと「久遠実成も善巧
方便」と説かれているのです。分別功徳品の「般若波羅蜜は除く」
も実にさらっと説かれています。

 『法華経』の作者は、まずは「当時の衆生」の中にあった「聞く
側の論理」を意識して巧みに教説を構成しているわけです。でもそ
れだけではないのです。さらに、“その先もちゃんと考えていた”
ということです。『法華経』の作者はちゃんと末法の衆生のことも
想定して巧みに教説を構成していたということです。「多段式ロケ
ット」ならぬ「多段式方便」とでも言いましょうか(^_^;)。

> > これらの仏身論の出発点は、仏陀の入滅に際しての諸弟子達の
> >思索沈思にあるとされる。
>   (『日蓮宗辞典』、p. 334)
> 入滅後の仏教徒が思索沈思した結実が寿量品の仏身観ですね。

 ええ。過去仏思想は入滅後の仏教徒が作り上げたものです。

> Libraさんは、諸弟子達によって形成されたものだからその価値を
> 低く見る、あるいは釈尊本来の思想では無いと云いたいようです
> ね。

 それは「曲解」です。そのようなことは一言も言ってません。
 「善巧方便」であるということは「価値が低い」ということでも、
「釈尊本来の思想では無い」ということでもありませんよ。むしろ
逆です。そのことは理解されてますか?

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川蝉さんへ(2/4) No: 511
 投稿者:Libra  00/09/03 Sun 21:14:56

> > 逆に、単純に三身をすべて等号で結ぶような解釈では、「報中
> >論三」でも「法中論三」でもなんでも良いということになります。
>
> 名称が異なるのだから、三身それぞれ意味の違いがあることは常識
> です。その上で「三身即一身、一身即三身にして不従不横の関係」
> とするのが宗学の定格となっています。

 では「不従不横の関係」をきちんと分かる言葉で説明して下さい。
まさかご自身が正確に理解してもいない言葉を他人に向かって理解し
ろとは言えないでしょう。正確に理解しているのならばきちんと説明
できるはずです。その上で、なぜ「報身も応身も無始」だと言えるの
かご説明下さい。道理を無視して「宗祖が言っているから」というの
は無しですよ。「道理現前ならんを用ゆべし」です。  

> 日蓮門下には法身正意とする学者、報身正意とする学者、応身正意
> とする学者の三様があります。

 やはり『日蓮宗辞典』を読む必要があるのは川蝉さんのようです。
法身正意とする学者、応身正意とする学者がいると言われるなら、そ
れらの学者は間違っています。是非、お名前と具体的文献名を教えて
下さい。

> > 「五百塵点の当初より以来」というのは「久遠の昔から」とい
> >う意味ではありますが、「無始」ではありません。「無始」なら
> >「初発心」などはありえません。
> >迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり
>   (「観心本尊抄」、全集、p. 250)
>
> まさか、「迹化の大衆は釈尊が発心した時期に弟子に成った者でな
> い」などと読んでいるのでは無いでしょうね。

 では川蝉さんはどう読まれるのでしょうか?
 参考までに紀野氏の訳を引用しておきます。

  迹門で教化された菩薩は、釈尊が最初に発心されたときからの弟
  子ではないからである。
  (紀野一義『日蓮』(日本の名著8)、中央公論社、p. 228)

> 遠い遙かな昔に、本覚を始覚したと考えて置けばよいでしょう。
 
 釈尊が「本覚を始覚」して仏教は始まったのであり、釈尊が「本
覚を始覚」する前には「仏の教化」はなかったのです。「仏の教化」
は「有始無終」です。

> > 寿量品でもちゃんと「我本菩薩道」とあり、因位のあったこと
> >を説いています。
>
> 宗学上では、従果向因の菩薩行と解釈され、六或示現の衆生教導
> を「我本菩薩道」と云うとされています。仏になっていない前の
> 仏になるための因行とは見ないのです。いはば、常修常証と云っ
> て、ますます仏であることを証する因行と云う事です。

 「宗学上」と言われますが、一体誰がどのような根拠に基づいて
そのようなことを言われているのでしょうか?具体的にお示し下さ
い。
 それに、そもそも僕は宗学の殻に閉じこもるつもりはありません。

> > 宗祖は「五百塵点」を「無始」だとは主張されてないでしょう。
> 「本尊抄」に「五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」
> とも「一代五時鶏図(632頁)」には、久成の三身として応身・
> 報身・法身とも無始無終と図示しています。

 「三身相即の論理」を要約的にそのように表現されているという
ことです。川蝉さんが言われるようなことを主張されているわけで
ありません。まずは「不従不横の関係」をご説明下さい。

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川蝉さんへ(1/4) Prev: 509 / No: 510
 投稿者:Libra  00/09/03 Sun 21:14:24

 川蝉さん、こんばんは。

> 「岩波仏教辞典」の説明は、宗祖の寿量仏観を説明したものではあ
>りませんよ。ですから、何の反証にもなりません。

 「宗祖の寿量仏観」は“仏教学上は否定されるようなものである”と
川蝉さんは主張されるわけですか?驚きました。

> >「五百塵点の当初」は「無始」ではありませんよ
>
>  宗祖は「開目抄」に「九界も無始の仏界に具し」と云っているので、
> 宗祖が、五百塵点と云う数量を挙げて無数を譬えていると見て、五百
> 塵点が無始と云う外ない昔を語っているものと解釈していたことは確
> かです。

 あまりにも昔なので宗祖はあえてわかりやすく「無始」と形容されて
いるのです。宗祖も“五百塵点は「有始」か「無始」か?”と問われれ
ば「有始」とお答えになるでしょう。

> 伊藤教授が、修得の三身の次第を説明する場合や、一般的な三身観
> の説明の場合には、応身を「有始有終」と説明すると思います。

 「一般的な三身観」と「川蝉さんの三身観」は明らかに矛盾しますが、
川蝉さんは「一般的な三身観」は間違っていると考えておられるという
ことでよろしいでしょうか?

> Libraさんが引用した文に、伊藤教授は、「宗祖の把握した寿量品の
> 仏は、本有無作三身教主釈尊であり、法・報・応の三 身の即一にして
> 報身正意の仏である(取意)」と説明していますね。
> 本有無作三身教主釈尊とは報身応身も本有であるから無始の仏であ
> ると云う事です。一方に於いて、こうした伊藤教授の説明有ることを
> 忘れないでください。

 川蝉さんと違って伊藤教授ご自身は、報身も応身も「有始」であるこ
とを否定されていません。

> 『日蓮宗辞典』(p. 127)の説明も、一般的な三身の関係を説明し
> ているものですね。
> 『日蓮宗辞典』は手元にないので確かめられないですが、宗祖の寿
> 量仏観関係の説明(たとえば本仏とか無作三身の項)とかをさがして
> 読んでみてください。

 その必要があるのは僕ではなく川蝉さんの方でしょう。
 「一般的な三身」と「宗祖の三身」とが矛盾することを認めた上で
それらを使い分けるというような「ダブル・スタンダード」のどこに
説得力がありましょうか?

> 私の「 田村博士や伊藤教授も指摘しているように、宗祖は、寿量品
> の仏 を三身ともに無始の古仏と捉えていたことは確かです。」とのコ
> メントに対して、
> >「無始の古仏」の意味が全然違うと思います。
> との事ですが、Libra さんが引用した田村博士や伊藤教授の文を読め
> ば両先生ともに、「宗祖は寿量品の仏 を三身ともに無始の古仏と捉えて
> いる」と見ていることは間違いないですよ。

 川蝉さんの主張される通りであれば、田村博士の説明も伊藤教授の
説明も「ダブル・スタンダード」のインチキということになりますね。

> 「三身即一身、一身即三身にして不従不横の関係」とするのが「三身
> 相即の論理」の定格となっています。

 「不従不横の関係」というのを、現代に生きる普通の人間にも分か
る言葉できちんと説明して下さい。難解な仏教用語をただ持ち出した
だけでは何の説明にもなっていません。

> > 僕は“経典としての『法華経』(「法華経になった人間の身
> >体」を含む)”こそが「釈尊滅後の応身」であると何度も申し上
> >げました。
>
> ただ私はそうしたLibraさん の解釈は、Libra さん独自のもので、
> 宗祖の見解とは大きな違いがあると指摘しているだけです。

 そういう川蝉さんの見解こそ「宗祖の見解とは大きな違いがある」
と僕は思います。

  法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟
  尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在
  世なり
  (「守護国家論」、全集、p. 66)

   方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまう
  べし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は
  肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水
  と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、
  此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗
  は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の
  釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行
  者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり
  (「曾谷入道殿御返事」、全集、p. 1025)

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Libra さんへ。追加です。 Follow: 510 / No: 509
 投稿者:川蝉  00/09/03 Sun 14:28:32

追加です。
Libraさんは
>「五百塵点の当初」は「無始」ではありませんよ。川蝉さんはそ
>こをずっと誤解されています。伊藤教授が応身を「有始有終」と
>捉えておられることは理解されていますか?
> 伊藤教授の論述でも不足のようなので、『日蓮宗辞典』からも
>引用しておきます。
と云って、『日蓮宗辞典』の説明を挙げて証としていました。
『日蓮宗事典』(日蓮宗発行)と別な『日蓮宗辞典』と思い手元にないと書きました。もしかしたら『日蓮宗事典』と思い127頁を開きましたら、やはり、Libraさんの引用は『日蓮宗事典』の解説の一部のようですね。  

Libraさんは都合の良いところだけを引用していますね。
三身の解説の項の終わり部分を読まなかったのですか?。極めてLibraさんに都合の悪い解説ですね。
以下は『日蓮宗事典』のその部分の解説です。

『法華真言勝劣事』に「大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり、三身の無始無終に非らず」(定308頁)、
『開目抄』に「雙林最後の大般涅槃経四十巻、その外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(定552頁)とあるのは、法身中心主義の否定である。応身の顕本とは慈悲救済の活動が本時以来反復されているということであり、報身の顕本とは釈尊の成道は伽耶始成ではなくて久遠実成であるということであり、応身・報身が顕本されて無始無終性が顕れると、法身の無始無終ばかりでなく、三身の無始無終が顕れることになる。

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Libraさんへ。4/4。 No: 508
 投稿者:川蝉  00/09/03 Sun 09:25:02

私の「 伽耶始成も久遠実成もともに方便であるとするな ら、では何が真実説なのか?と云う疑問が出てきますね。」
に対して、
>「インド生誕の釈尊によって仏教は始まった」というのが真実説
>です。
とのコメントですが、伽耶始成とはインドに於いて成道したと云う事です。岩本訳では「伽耶始成も方便」と云う訳意です。岩本訳を正とすると、「インド生誕の釈尊によって仏教は始まった」と云う事も方便説と云う訳意ですね。さてどうします?。

> これらの仏身論の出発点は、仏陀の入滅に際しての諸弟子達の
>思索沈思にあるとされる。
  (『日蓮宗辞典』、p. 334)
入滅後の仏教徒が思索沈思した結実が寿量品の仏身観ですね。Libraさんは、諸弟子達によって形成されたものだからその価値を低く見る、あるいは釈尊本来の思想では無いと云いたいようですね。
「 法華経寿量品の久遠の仏は、これらの乱立した諸仏を統一して再 び本来の釈迦一仏の状態に復帰し、諸仏を釈尊の応化または分身として包括する信仰的欲求から出た教説である(同上、p. 334)」
とあるように「釈迦一仏の状態に復帰し、諸仏を釈尊の応化または分身として包括する」見事な仏身観として、仰いでゆくべきだと思いますよ。  
「>仏教の創始者としての「現実の人間・釈尊の生涯」から目をそらすことになってしまうでしょう。」
との危惧ですが、 何の心配もないですよ。インド受肉の釈尊は、和光同塵で、肉体的には我々と極めて同じかったと思っていますから。

私の「> Libraさんは、客体的存在として釈尊(三身具足の古仏)は、存在しないと主張す る立場ですね。」に対し、「>その通りです」とのことですので、「Libraさんは 、仏身は消滅してしまって存在しないと云う見解である」と云わせて貰います。

私の「 在他の釈尊(無始の古仏)が存在しなければ、己心の釈尊と云う事は云えないのです。」
に対して「> そんなことはありません。」との見解ですが、
「本門にいたりて始成正覚をやぶれば・・九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具、百界千如、一念三千なるべし(略抄)」(開目抄・197)
との教示がありますね。久遠実成が説かれたので、初めて「仏界も無始の九界に備りて」「真の十界互具」が成立すると云う教示ですね。在他の釈尊が存在しなければ、「九界も無始の仏界に具す」とか「仏界も無始の九界に備り」と云う事も成立しないし、「真の十界互具」も成立しないと云うことですね。
Libraさんの「> そんなことはありません。」との見解は、宗祖のこの教示を否定していることですよ。(以上)

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Libraさんへ。3/4. No: 507
 投稿者:川蝉  00/09/03 Sun 09:22:44

> 三身それぞれの差異を無視しないと言われるのならば、やは
>り、報身は「有始無終」で、応身は「有始有終」でしょう。

Shamonさんのコメントの
「Libraさん引用、伊藤上人の応身の説明は、あくまでも「三身即一の釈尊(無始無終)が、衆生の機根に応じて現れたのを応身という」基盤に立ち、あえて仏教学上、差別して解説したものです。したがって、三身即一の釈尊(無始無終)と応身は不二、つまり応身も、真理としては無始無終と言うことです。」
を再読してください。

> 「五百塵点の当初より以来」というのは「久遠の昔から」とい
>う意味ではありますが、「無始」ではありません。「無始」なら
>「初発心」などはありえません。
>迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり
  (「観心本尊抄」、全集、p. 250)

まさか、「迹化の大衆は釈尊が発心した時期に弟子に成った者でない」などと読んでいるのでは無いでしょうね。

無数を数で譬説しているものと解釈されています。無始と云うほか無い以前と考えたら良いのでは。遠い遙かな昔に、本覚を始覚したと考えて置けばよいでしょう。

> 寿量品でもちゃんと「我本菩薩道」とあり、因位のあったこと
>を説いています。

宗学上では、従果向因の菩薩行と解釈され、六或示現の衆生教導を「我本菩薩道」と云うとされています。仏になっていない前の仏になるための因行とは見ないのです。いはば、常修常証と云って、ますます仏であることを証する因行と云う事です。

> 宗祖は「五百塵点」を「無始」だとは主張されてないでしょう。
「本尊抄」に「五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」
とも「一代五時鶏図(632頁)」には、久成の三身として応身・報身・法身とも無始無終と図示しています。

>衆生を“真実に導くために”、“真実でないこと”をあえて“真
>実として”説くわけです。従って、“実は真実ではないのだが
>…”ということを前面に押し出すことはそもそもありえません。

「>前面に押し出すことはそもそもありえません」との事ですが、まったく反論理由になりません。
岩本訳だと、伽耶始成も久遠成道もともに真実でない方便であった明らかに説いている事になっていますね。「>“実は真実ではないのだが…”ということを前面に押し出しすこと」になっていますよ。

再度「三誡三請・重誡重請の後、伽 耶始成を方便であった事を述べ、久遠成道をであると宣言し、続いての『分 別功徳品』に、仏の寿命長遠を信受する者の功徳の莫大なる事を語 っていますね。こうした経の起尽からしても、寿量品の中で久遠実成も 実は方便であったなどと語るわけはないでしょう。そう思いません か?」と申し上げておきます。(つづく)

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Libraさんへ(2/4) No: 506
 投稿者:川蝉  00/09/03 Sun 09:20:04

> 応身が「有始有終」であることは仏教学の常識ではありません
> か?

文句九に
「性徳の三如来は是れ横、修徳の三如来は是れ従、先に法、次に報、後に応、亦是れ従。今経は円に不従不横の三如来を説くなり。・・発迹顕本の三如来は永く諸経に異なれり」
と有るように、寿量品の仏身観は一般の経のそれと異なります。
インド受肉の釈尊は有始有終ですが、寿量品に、入滅しても実には常住不滅で、必要あらば、説法する仏であると語られているので、応身格も無終の仏としていることがわかります。無始の昔に三身具足の仏となったと云うのですから、応身格は無始の昔より具えていたと云う事になっています。

私の「 田村博士や伊藤教授も指摘しているように、宗祖は、寿量品の仏 を三身ともに無始の古仏と捉えていたことは確かです。」とのコメントに対して、
>「無始の古仏」の意味が全然違うと思います。
との事ですが、Libra さんが引用した田村博士や伊藤教授の文を読めば両先生ともに、「宗祖は寿量品の仏 を三身ともに無始の古仏と捉えている」と見ていることは間違いないですよ。

>「三身相即の論理」は「三身がすべて等号で結ばれる」というこ
>とではありません。そのことは認識されておられるのでしょう
>か?

そんなことは常識でしょう。
「三身即一身、一身即三身にして不従不横の関係」とするのが「三身相即の論理」の定格となっています。

> 僕は“経典としての『法華経』(「法華経になった人間の身
>体」を含む)”こそが「釈尊滅後の応身」であると何度も申し上
>げました。

ただ私はそうしたLibraさん の解釈は、Libra さん独自のもので、宗祖の見解とは大きな違いがあると指摘しているだけです。

> 逆に、単純に三身をすべて等号で結ぶような解釈では、「報中
>論三」でも「法中論三」でもなんでも良いということになります。

名称が異なるのだから、三身それぞれ意味の違いがあることは常識です。その上で「三身即一身、一身即三身にして不従不横の関係」とするのが宗学の定格となっています。
さらに、上に冥し下に契うと云う義の便からは、報身中心を便とし、もし衆生に近く知りやすいと云う面から云えば応身中心を正意とすると云う事になっています。
日蓮門下には法身正意とする学者、報身正意とする学者、応身正意とする学者の三様があります。

> 僕はそうは思いません。田村博士の論述も、言わんとすること
>はほとんど変わらないのではないでしょうか。ただ、「人格的生
>命体」という表現は誤解をまねきやすいので止めた方がいいので
>はないかとは正直思いますが。

田村博士の論述についてのLibraさんの解釈は恣意的すぎます。よく読めば、 田村博士が説明している所の、宗祖の報身仏の定義は、Libraさんの云う 所の単なる「法脈」とは大きな違いがあることがわかりましょう。
(つづく)

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Libraさんへ(1/4) No: 505
 投稿者:川蝉  00/09/03 Sun 09:17:48

Libraさん今日は。

>「岩波仏教辞典」の321ページには、
>  応身は歴史的世界に現れたブッダの身体であって、人格性を
>持  つものではあるが無常な存在であるとあります。

もっと正確に私のコメントを把握してコメントしてください。
私が「田村博士の理解だと思いますよ」と云った内容は、通途の仏身観とか田村博士がどのような仏身観を持っているかとか、云うことでなく、田村博士は、「宗祖の寿量仏観は、三身具足の無始の古仏である」と理解していると云う事を書いたのです。「岩波仏教辞典」の説明は、宗祖の寿量仏観を説明したものではありませんよ。ですから、何の反証にもなりません。

>「五百塵点の当初」は「無始」ではありませんよ

宗祖は「開目抄」に「九界も無始の仏界に具し」と云っているので、宗祖が、五百塵点と云う数量を挙げて無数を譬えていると見て、五百塵点が無始と云う外ない昔を語っているものと解釈していたことは確かです。

>川蝉さんはそこをずっと誤解されています。伊藤教授が応身を
>「有始有終」と捉えておられることは理解されていますか?

自分では誤解していないと思っています。
伊藤教授が、修得の三身の次第を説明する場合や、一般的な三身観の説明の場合には、応身を「有始有終」と説明すると思います。

Libraさんが引用した文に、伊藤教授は、「宗祖の把握した寿量品の仏は、本有無作三身教主釈尊であり、法・報・応の三 身の即一にして報身正意の仏である(取意)」と説明していますね。
本有無作三身教主釈尊とは報身応身も本有であるから無始の仏であると云う事です。一方に於いて、こうした伊藤教授の説明有ることを忘れないでください。
『日蓮宗辞典』(p. 127)の説明も、一般的な三身の関係を説明しているものですね。
『日蓮宗辞典』は手元にないので確かめられないですが、宗祖の寿量仏観関係の説明(たとえば本仏とか無作三身の項)とかをさがして読んでみてください。

> 「三身相即の論理(無始無終の真理との不二の関係)」からで
>はなく、「報身」も「応身」も“それぞれが単独で素朴な意味で
>無始無終である”というような「無始三身の古仏」解釈は成り立
>たないでしょう。

だれが、「報身も応身も“それぞれが単独で素朴な意味で無始無終である」と云うような事を云いましたか?。
無始久遠に三身具足の仏となった(始覚即本覚です)「常住不滅、三身具足の古仏」と云う事です。

>する以前と以後とがあって元来は有始無終であるのです。因果を
>無視しては仏法では無くなります。

始覚即本覚の実成の仏ですから、決して「因果を無視して」いません。
(つづく)

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shamonさんへ Follow: 514 / No: 504
 投稿者:Libra  00/09/02 Sat 13:03:07

 shamonさん今日は。慈悲にあふれたコメントありがとうございます。

> 顕正居士さんが、仏格について喝破しましたのであえて言うこともない
> ようですが、参考まで。

 いくら喝破されてもそれだけでは別に痛くも痒くもありませんよ(^_^)。
論破されたわけではありませんので。居士に対してはまだまだこれから
「根性見せる」つもりです。それが居士に対する報恩だと思ってます。

> >具体的に実在するについて〜
> Libraさんの主張、次のようにまとめてみました。宜しいでしょうか。つまり、
>
> 1 教法は釈尊の魂であり、つまりは釈尊である。したがって、教法を護持す
> るということが、心の中に釈尊が実在することである。
> 2 したがって、客体的には存在しない。
> 1について
> 概念的には、間違っておりませんよ。というよりも、Libraさんは、釈尊を概念
> (論理的認識)として捉えようとしている、捉えている段階にあるということで
> す。概念より、観念(理性による表象的認識)に至っていないというところでし
> ょうか。

 僕としては、経典(教法)を介して人間・釈尊の精神にありありとふ
れるということ目指しているので、意図的に「論理的認識」として捉え
ようと思っているわけではないのですが、結果としてその認識が「まだ
まだ」だと言われれば確かにそうでしょうね(^_^)。釈尊の精神を追体
験するにはやはり、宗祖のように命をはって読まないといけないんでし
ょう。

> 厳しい言い方をすれば、宗教学の域を出ていない、宗教にはなっていま
> せん。

 釈尊や宗祖に対する僕の尊敬の念は「まだまだ信とは言えない」とい
うことでしょうか?

> したがって、2のように客体的に存在しないという、唯物論的な結論を安
> 易に導き出していると思われます。実は戦後、顕本の中川日史猊下もそのような
> ことを主張され(元来、日蓮宗身延派にもあった思想)、教学に混乱をきたしま
> した。
 
 2の「客体的には存在しない」というのは別に「唯物論的な結論」で
はないと思います。「経典(教法)を介して人間・釈尊(他者)の精神
にありありとふれたい(一心欲見仏)」というような発想は「唯物論的
な発想」とはむしろ異質なのではないでしょうか。

 それと、僕は1から2を導き出していません。むしろ逆です。「客体
的には存在しない」と思っているから、「釈尊を求める心」が素直にそ
のままストレートに「経典」に向いているんだと思います。『法華経』
を「釈尊滅後の釈尊」だと素直に思うことができるというか。それが若
干二十年の信心によって形成された僕の現在の率直な思いです。

  もろびとはわが滅度を見て 広く舎利を供養し
  ことごとく皆、恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず。
  衆生、既に信伏し すなおにしてこころなよらかとなり
  一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまざれば
  時にわれ及び衆僧は 倶に霊鷲山に出ずるなり。
  (「如来寿量品」)
  
> そこで、伊藤瑞叡上人の次の文章(日蓮精神の現代)は、どのように捉えますか。
> 「究極的実在としての絶対者に対する宗教的な表象の根本的な形式は、人格的な
> ものへと統一され人格的な観念となりうる。すなわちキリスト教においては、神
> 観となり、仏教においては仏身観となる。」

 僕にとっては釈尊も宗祖も求める対象として「究極的」です。
 本気で求める気持ちを持つ人にとっては、経典や御書の中に「実在す
る」とも思います。ですが、求法者や経典を離れて「客体的に存在する」
とは思いません。それが仏教の信であり、仏身観だと思っています。

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顕正居士へ No: 503
 投稿者:Libra  00/09/02 Sat 13:02:24

 お久しぶりですね。顕正居士。コメントありがとうございま
す。

> 天台宗、日蓮宗の仏格は無始より無終まで、三身を完備する
> 全智、全能、かつ具体の存在者であります。

 宗祖の真意をよく理解されていないのではありませんか?

> 川蝉さん−Libraさんの議論になっていない議論は(日蓮の
> 神学思想については川蝉さんの発言が100%正しい)、

 僕は川蝉さんとの議論はちゃんと「議論になっている」と思
います。「日蓮の神学思想については川蝉さんの発言が100%正
しい」という言葉を絶対に忘れないで下さいね(^_^)。

> 日蓮がどうをやめて、自在神への信仰が今日可能か否かの科
> 学的議論に移行するべきでしょう!

 僕は「科学的議論」をすでにしていると思ってます。顕正居
士は宗祖を殺したいようですが、僕がいるかぎり絶対にさせま
せんよ(^_^)。

> 「四箇格言」なんか云ったら、十重禁戒の自賛毀他を侵すか
> ら、その時点で日蓮は僧侶でなくなり、幕府は正当に処分で
> きる。日蓮への処分が合法的なものではなかったことは、彼
> が「自賛毀他戒」を侵していない意味であります。

 「四箇格言」はあくまでも「理性的批判」でしょう(過去ロ
グNo.381-383参照)。
 ただし、「幕府にみすみす正当に処分する口実を与えるよう
なことになってはマズイ」というような戦略的思考も宗祖には
あったでしょうね。

  今日の御出仕・公庭に望んでの後は設い知音為りと雖も傍
  輩に向つて雑言を止めらる可し両方召し合せの時・御奉行
  人・訴陳の状之を読むの尅何事に付けても御奉行人の御尋
  ね無からんの外一言を出す可からざるか、設い敵人等悪口
  を吐くと雖も各各当身の事・一二度までは聞かざるが如く
  すべし、三度に及ぶの時・顔貌を変ぜずソ言を出さずナン
  語を以て申す可し各各は一処の同輩なり私に於ては全く遺
  恨無きの由之を申さる可きか、又御供雑人等に能く能く禁
  止を加え喧嘩を出す可からざるか
  (「問注得意抄」、全集、p. 178)

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川蝉さんへ(3/3) No: 502
 投稿者:Libra  00/09/02 Sat 13:01:22

> 寿量品の長行部分をまとめた自我偈に久遠実成は方便であったなど
> と何処にも語っていないし、いわゆる三誡三請・重誡重請の後、伽
> 耶始成を方便であった事を述べ、「然るに善男子、我実に成仏して
> より己来無量無辺百千万億那由佗劫なり」と宣言し、続いての「分
> 別功徳品」に、仏の寿命長遠を信受する者の功徳の莫大なる事を語
> っていますね。こうした経の起尽からしても、寿量品に久遠実成も
> 実は方便であったなどと語るわけはないでしょう。そう思いません
> か?。

 思いません。
 仏の立場からすれば、「方便」というのは、「真実をそのまま説い
ても衆生に理解されない(通用しない)状況」が存在する場合に、衆
生を“真実に導くために”、“真実でないこと”をあえて“真実とし
て”説くわけです。従って、“実は真実ではないのだが…”というこ
とを前面に押し出すことはそもそもありえません。
 寿量品が「釈尊の成仏」を「五百塵点」まで遡って説いているのは、
過去仏思想が定着していた『法華経』成立当時の状況下において、な
んとか過去仏思想を止揚して、衆生を釈迦一仏に帰らしめるためでし
ょう。宗祖の時代にはまだ「大乗非仏説論」も「高等批評学」もなく、
過去仏思想がまだ現前と生きていました。よって、宗祖が『法華経』
の教相の「五百塵点」に立脚して法を説かれたことはむしろ当然であ
り、『法華経』の意図に沿うものです。

> 伽耶始成も久遠実成もともに方便であるとするな
> ら、では何が真実説なのか?と云う疑問が出てきますね。

 「インド生誕の釈尊によって仏教は始まった」というのが真実説で
す。

 仏身論は釈尊自身が言い出したものではありません。弟子達が言い
出したものです。

   これらの仏身論の出発点は、仏陀の入滅に際しての諸弟子達の
  思索沈思にあるとされる。
  (『日蓮宗辞典』、p. 334)

 それと同様に、寿量品の久遠仏の教説も釈尊自身が言い出したもの
ではありません。

  法華経寿量品の久遠の仏は、これらの乱立した諸仏を統一して再
  び本来の釈迦一仏の状態に復帰し、諸仏を釈尊の応化または分身
  として包括する信仰的欲求から出た教説である。
  (同上、p. 334)

 さて、ある学校の教室で、授業中に生徒たちがぺちゃくちゃおしゃ
べりをしているという状況(当然、うるさくて授業を集中して聞くこ
とは難しい)があったとしましょう。そこで、授業をちゃんと聞きた
いと思った一人の真面目な生徒が、教室の誰よりも(すなわち先生の
声よりも)大きな声で、「みんな静かにして下さい!先生の話が聞こ
えません!」と叫んだとしましょう。そして、彼が叫び続けることよ
って、ついに生徒達が静かになったとしましょう。その場合、彼はも
うそれ以上大声で叫び続けるべきではないでしょう。もし叫び続ける
とするならば彼自身が最悪の「授業の妨害者」となってしまうでしょ
う。
 仏教がインド生誕の釈迦によって説き始められたものであるという
真実がすでに常識と化した現代にあって、過去仏思想に固執して続け
るとすれば、それは、せっかく「釈迦一仏の状態に復帰し」たにも関
わらず、仏教の創始者としての「現実の人間・釈尊の生涯」から目を
そらすことになってしまうでしょう。

>  Libraさんは
> 「>だからと言って、釈尊が「客体的生命体」として今も存在し続
> けているということにはなりません」と書いているのですから、
> 客体的存在として釈尊(三身具足の古仏)は、存在しないと主張す
> る立場ですね。

 その通りです。

>「客体的存在として釈尊(三身具足の古仏)は、
> 存在しない」と云う見解は、「仏身は消滅してしまって存在しない」
> と云う主張と同じと私には受け取られます。

 それは、川蝉さんが「仏身(報身)」は「霊的人格的な存在の仏」で
なければならないと思いこまれているからでしょう。僕はそのような発
想をこそ問題にし批判しているのです。

> 在他の釈尊(無始の古仏)が存在しなければ「己心の釈尊」と云う
>事は云えないのです。

 そんなことはありません。
 例えば、ニーチェもフッサールもすでにこの世にいませんが、彼等
の残した言葉にふれることによって、彼等の智恵・人格・精神にふれ
ることは可能です。仏の残された言葉(教法)の力は彼等とは比較に
なりません。

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川蝉さんへ(2/3) No: 501
 投稿者:Libra  00/09/02 Sat 13:00:36

> 報中論三(報身を中心にした三身即一)も、肉体が消滅した
> 後でも「応身と云う仏格」は消滅しないから、報中論三と云う事
> が云えるのです。

 僕は“経典としての『法華経』(「法華経になった人間の身体」
を含む)”こそが「釈尊滅後の応身」であると何度も申し上げまし
た。言うまでもなく、各応身は「有始有終」です。このような解釈
でも充分「報中論三」は言えます。「釈尊の智恵(報身)」を体現
しているということが応身の応身たる所以ということです。
 逆に、単純に三身をすべて等号で結ぶような解釈では、「報中論
三」でも「法中論三」でもなんでも良いということになります。

> 田村博士は「因行果徳身といわれるゆえんである。」と云い「超
> 歴史的にして、しかも歴史的現実に活現し、躍動する永遠なる人
> 格的生命体なる存在」とか「久遠釈尊を仰ぎ」等と述べています
> ね。常住不滅の三身即一の仏を指しているものと理解します。
> 田村博士がここで云っている報身仏の定義は、Libraさんの云う
> 所の単なる「法脈」とは大きな違いがありますね。

 僕はそうは思いません。田村博士の論述も、言わんとすることは
ほとんど変わらないのではないでしょうか。ただ、「人格的生命体」
という表現は誤解をまねきやすいので止めた方がいいのではないか
とは正直思いますが。

> Libra さんが「>宗祖は釈尊を“客体的に”捉えられておられな
> かったのではないでしょうか?」と云っているし、Libra さんは
> 釈尊を客体的に仰ぐ事を否定している立場と理解していますので、
> 「宗祖が釈尊を客体的に仰いでいたのは、鎌倉時代の衆生に合わ
> せた方便であったという見解ですか?」と書いたわけです。私の
> 曲解でしたか?。

 僕が「曲解」と言っているのは、僕が「仏身は消滅してしまって
存在しないと主張している」という川蝉さんの勝手な解釈のことで
す。

> >「三身一体」とは一体どういう意味でしょうか?
> > 三身それぞれの差異を無視されるおつもりでしょうか?
>
>三身即一と云う意味ですよ。

 三身それぞれの差異を無視しないと言われるのならば、やはり、
報身は「有始無終」で、応身は「有始有終」でしょう。「一如する
べく因行を修するから、一如する以前と以後とがあって有始無終で
ある」という報身の本質的性質は「三身即一」という論理によって
なんら変質するものではありません。境智一如したからと言って
「一如する以前」が無かったことにはなりません。

> >川蝉さんは応身も報身も「無始」であると言われたいようです
> >が、そういう主張は成り立たないと思います。
>
> と云われていましたが、宗祖は、寿量品の仏を三身具足の無始の
> 古仏と捉えていたことは確かです。

 「五百塵点の当初より以来」というのは「久遠の昔から」という
意味ではありますが、「無始」ではありません。「無始」なら「初
発心」などはありえません。

  迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり
  (「観心本尊抄」、全集、p. 250)

我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり
  (同上、p. 253)

 寿量品でもちゃんと「我本菩薩道」とあり、因位のあったことを
説いています。

> Libraさんは宗祖の主張は成り立たないと批判されている事にな
> りますね。この点は如何ですか?再度おたずねします。

 僕は川蝉さんの「応身も報身も無始である」という主張を「成り
立たない」と批判しているのです。宗祖は「五百塵点」を「無始」
だとは主張されてないでしょう。

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