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高尾17 No: 200
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 16:02:11

松本佐一郎氏「富士門徒の沿革と教義」より抜粋

「身延文庫「本尊資料」に諸派諸山の口伝法門を集めている。これだけ見ると口伝法門は日蓮宗の大切な法門だと思われるが、開目抄の「伝教大師云依憑仏説莫信口伝」を盾として、聖人の法門に口伝など有るべきではないという説が有力な学者によって述べられている。なるほど、この文だけを見れば聖人はすべて文章にあらわされたものをもって諸門を立てよといっていられるようにみえるが、さて仔細に御書を検索してみると、口伝に関するもの少なしとしないのである。
・口伝相承のことはこの弁公(昭師)にくわしく申しふくめて候
・この義最上の難義なり、口伝あり云々
・問曰要法の経文如何。答曰口伝をもってこれを伝えん
・これらは相承の法門なるべし
・日蓮己心相承秘法此答顕わすべきなり、いわゆる南無妙法蓮華経これなりー今日蓮塔中 相承の南無妙法蓮華経の七字・末法の時日本国に弘通すー当体蓮華相承等・日蓮の己証 の法門等は前々に書を進するがごとく・くわしくは修禅寺相伝日記のごとく・天台宗の 奥義これに過ぐべからずか・一心三観一念三千の極理妙法蓮華経の一言をいださず(十八円満抄)
これは、表には天台宗と云っておられるが、内容は一心三観一念三千を五字に約しておられる点、すでに天台の凡夫己心の三千でなく、本因妙抄と同一の思想を、天台宗と義を隠して説いておいてになるものである。また修禅寺決を天台の奥義と云っておられる点、今の天台学者がいわゆる中古口伝法門を途中発生の法門としているのとは、全然違った観点に立ってこれを用いておられるが、それは天台宗が当時口伝法門を正しく伝えそこなったのに、日蓮は本物を伝えられているという自負から出発する。
・天台(智者)己証の法はこれなり・当世の(天台宗の)学者血脈相承を習い失うがゆえ にこれを知らざるなり・ゆえにあいかまえあいかまえて秘すべき法門なり・しかりとい えども汝が志し神妙なればその名を出すなり・一言の法これなり・伝教大師の一心三観 一言に伝うと書きたまうこれなり(十八円満抄)」
・問う・天台のこの一言の妙法・これを証得したまう証拠これありや・答う・このこと天 台一家の秘事なり・世流布の学者これを知らず・灌頂玄旨の血脈とて・天台大師自筆の 血脈一紙これあり・天台御入滅の後・石塔の中にこれあり・伝教大師御入唐の時・八舌 の鍵をもってこれを開き・道随和尚より伝授したまう血脈とはこれなり・この書にいわ く・一言の妙旨・一教の玄義ーしかれども・当世天台宗の学者・天台の石塔の血脈を秘 し失うがゆえに・天台の血脈相承の秘法を習い失いて・我が一心三観の血脈を我が意に まかせて・つくり書き・錦の袋に入れて頸にかけ・箱底に埋めて高直に売るゆえに邪義 国中に流布し・天台の仏法破失するなり・天台の本意を失い・釈尊の妙法を下す・これ ひとえに達磨の教訓・善無畏の勧めなり(十八円満抄)
この線では聖人の意見は今の天台史学者と重なってしまう。聖人も中古でっち上げの口伝法門が存在したことを云っておられるので、ただその他に真相承ありとするところが聖人の主張なのである。
・この経は相伝にあらずば知りがたし
・この法華経は知らずして習い談ずるものは・ただ爾前の経の利益なり
・この三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上主として・日蓮たしかに教主大覚世尊よ り・口決相承せしなり(三大秘法抄)
最後の三大秘法抄にいたっては完全な観心釈だが、聖人が釈尊から・これを口決相承したという自覚の上に立って法門を説かれたという線は動かない。さらに御義口伝にいたっては、普賢品の御義に、
・秘すべし秘すべし・唯受一人の相承なり・口外すべからず
とまで、だめが押されているのである。
これほどまでに口決相承を重んぜられた聖人が、開目抄に口伝を信ずるなかれと云われたのは自語相違のようにも思われるが、それはこの文だけを切り離してあつかうから誤解を生ずるのであって、その少し前から分析して拝すればすべて疑問は氷解してしまう。中略
教相門において諸経の勝劣を判釈するとき、経の文を用いて、経に示されてない口伝を用うべからざることは当然である。しかし、観心門に入ってまで、経の文上のみから論じようとすると逆に教相からさえ外れてくる。何となれば法華経方便品に「仏の成就したまえるところは第一希有難解の法なり。ただ仏と仏とのみ・いましよく諸法の実相を究めつくしたまえり」。神力品に「諸仏の神力はかくのごとく無量無辺不可思議なり。もし我れこの神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祇劫において、嘱累のためのゆえに・この経の功徳を説くとも・なお・尽くすことあたわず」と説いて、この経は仏力をもってしても凡夫に分からせることはできぬ、わからぬ者に嘱累のために説くことはできぬ。中略
そこで、上行応化の日蓮聖人から教われば経文の意味が分かるという義文が生ずるので、この関係を日向記に、
・末代の当今の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎたまうべき仏勅 使の上行菩薩なり云々・取次ぎとは、取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取りたまう。さ て上行菩薩また末法当今の衆生に取次ぎたまえり。
と示されたのである。日蓮宗に口決相承は当然なくてはならないものである。 続き

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川蝉さんへ(Re: Libra さんへ。) Prev: 197 / No: 199
 投稿者:Libra  00/06/16 Fri 16:01:25

 こんにちは、川蝉さん。

> 「中古天台的凡夫論」とは、すべてそのまま仏であると云う「中古
> 天台的修行不要論」の凡夫観のことです。
> 浅井教授の使われた「報仏智常論」とは伝教大師の「守護章巻下」
> の「報仏智常章第三」(567〜573頁)の論旨のことです。
(…)
> 要は、寿量品で明かす法・応を具足の報身如来は常住仏である事を
> 主張しているようですね。

 「報中論三」の立場から仏の常住を主張しているということでよろ
しいでしょうか?

 「無作三身考」を読んだ時のメモを昨日読み返してみました。
 浅井教授は、「宗祖の思想には中古天台的修行不要論などはない」
という、ある意味「自明」なことを論証なさっているだけのような
気がします。御書に「無作三身」という言葉があったとして、それ
が必ず「中古天台的修行不要論」を意味するいうことは何ら論証さ
れていません。「三大秘法抄」にも「無作三身」の語がありますが、
これは明らかに「中古天台的修行不要論」を主張するものではあり
ません。

  問て云く寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢
  を加う可らず然りと雖も三大秘法其の体如何、答て云く予が己
  心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に
  建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有
  無作三身の教主釈尊是れなり
  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1022)

> 浅井教授の解説は次の通りです。
> 「この章には寿量品の通明三身正在報身に関する問答がのべてあり、
> 徳一が智報身は従因生であるから『相続常』『依止常』にすぎない
> と批判するに対し、最澄が真如随縁の真如観と倶体倶用の仏陀論と
> の両面から天台宗を弁護する趣旨であって、凡夫が実仏であるか否
> かという類の凡夫論とは無関係である」(日蓮聖人と天台宗・273頁)
> と説明してあります。

 「法華経を受持する凡夫」(=「法華経の行者」)は「真の仏子」
であり、仏の智慧・慈悲(報身)(=『法華経』)にあって(=智
慧の全体を授かって)、自らも三身如来と開かれるのであると主張
する場合には、「(法華経を受持する)凡夫が実仏であるか否かと
いう類の凡夫論」と関係してくると思われます。

> 天台大師の云う「三因仏性」は仏性を詳しく表した言葉ですから伝
> 教大師の「守護国界章巻上之中」の本覚の概念と同じと見て良いで
> すね。だから「本覚思想」と云っても良いと思います。
> ただし、御存知の通り、必ず修証に依って顕れるものと云う立場で
> すね。
> 凡夫もその当位を改めないで、修証を借らずそのままが無作本覚の
> 覚体であると観念する所の中古天台の本覚観と明らかに違いますね。

 「仏性修現論」ということですね。

> 同じ浅井でも浅井要麟教授ですが「日蓮聖人教学の研究」に
> 「支那天台に在っては、塵点に即して報身常住を説きたるに
> 対し、中古天台では寿量顕本の仏は無始無終の本覚三身如来と説く
> のであるが、その仏の法体内容に於いては、大日本地身と何ら異な
> る所もない自然本覚の素法身に外ならぬ(取意)」(229〜230頁)
> との論述も、違いの参考になると思います。

 上の「塵点に即して報身常住」の「塵点に即して」は「有始」と
いう意味でしょうか。「無始無終の本覚三身如来」と対比されてい
るようですが。

 話は変わりますが、高尾様がご紹介下さった様々な「御義口伝偽作
論に対する反論」についてはどのようにお考えでしょうか?特に最初
の三宅氏の説に対してはどのようにお考えでしょうか。

 いつもご丁寧にコメントして頂いてありがとうございます。

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高尾16 No: 198
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 13:56:43

「日淳上人全集」の「御義口伝の講義」551頁より抜粋

南無妙法蓮華経如来壽量品の事
「御義口伝にいわく、この品の題目は・日蓮が身にあたる大事なり。神力品の付属これなり。如来とは釈尊、惣じて十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は惣じては一切衆生なり。別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは・末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を・南無妙法蓮華経というなり。壽量品の事の三大事とはこれなり。」

「この御文は、法華経壽量品の題号を御説き明かしあそばされたのでありますが、この御文こそ、容易ならない御法門の奥義を御示しあそばされておるのであります。拝するものは、心を沈めてよくよく熟読したてまつるべきであります。
まず初めに「この品の題目は・日蓮が身にあたる大事なり。神力品の付属これなり。」までは、壽量品が大聖人のために説かれたことを明かされたのであります。
釈尊は神力品において・南無妙法蓮華経を付属したまうておりますが・その妙法は壽量品に説かれてあるのであります。すなわち、壽量品に・南無妙法蓮華経を説いて・神力品において付属したまうたのであります。しかして、この妙法は・事の一念三千自受用無作の三身であります。
ここに注意すべきは・世間では・法華経を読んで・その本門における虚空会の儀式や、壽量品における釈尊の久遠開顕ということのみ心をおいて・その文底を見ないのでありますが、この文底の一念三千・ということが最も肝心であります。大聖人は開目抄に「一念三千の法門は・壽量品の・文の底に沈めたり」と仰せあそばされております。
御文の中の・この品の題目は云々・と仰せられるは、壽量品の題号は、事の一念三千自受用無作の三身を一言に・南無妙法蓮華経と称したまうたのでありまして、この名号こそ・大聖人の御身にあたる大事であると仰せたまうのであります。
大聖人は・霊山会に上行菩薩として御出現になられておりますが、この上行菩薩の立ち会いたまう会座において・壽量品を説かせられしは・真の十界互具一念三千を証したまわんがためであり、また末法に出現したまう上行ー日蓮大聖人の御事を説きたまうのであります。そのことを「身にあたる大事なり」と仰せたまうのであります。
次に「如来とは釈尊、惣じて十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。」とは、壽量品の題号の如来といわれた・その如来というのは・一往釈尊のことであるが・惣じていえば・十方三世の諸仏のことである。しかし、取り分けていうならば・本地無作の三身をいうのであると仰せられるのであります。
釈尊の久遠開顕の辺に申せば、題号の如来といわれしは・釈尊のことであり、もし如来という通号からいえば・三世十方の諸仏のことを指したまうのであります。しかし、いずれの如来かといえば・本地無作の三身を指すのであるとの仰せであります。
次にまた、「今日蓮等の類の意は惣じては一切衆生なり。別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは・末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を・南無妙法蓮華経というなり。壽量品の事の三大事とはこれなり。」は、大聖人の御身にあたる壽量品の意であります。しかして、これが壽量品の三つの大事であると仰せられるのであります。「惣じては一切衆生なり」とは、一切衆生が如来であるとの御言葉でありますが、これには・重々の義・がありまして・一途にのみ拝解できませんが、今・一義をもっていえば、一切衆生の久遠本地を指して仰せられたのであります。一切衆生は皆・妙法十界互具三千の当体であるからであります。
しかしながら、凡夫は・これに迷うて知らないのであります。このゆえに「別しては日蓮の弟子檀那なり。」と仰せたまいて、妙法蓮華経を信じて・行ずるものをお挙げあそばされたのでありまして、このものを・無作の三身といい、その宝号を・南無妙法蓮華経と申すのであると仰せられたのであります。ここにまた注意すべきは、「日蓮が弟子檀那」と仰せられたからといって、題目を少く信行して・自分は法華経の行者であるとして思い上がることは禁物で、やはり、総別ということを忘れてはなりません。
総じていえば・弟子檀那は・法華経の行者でありますが、別していえば・大聖人御一人であらせられ、他は御化導によりそのうちに入り得るかどうかというところであります。
しかして、末法の法華経の行者とは・大聖人の三大秘法を信受して自行化他にわたることであります。
「無作の三身」とは、無作は有作に対する言葉で・本有といっても、もとからあるそのままのところ・をいうのであります。三身とは法報応の三身であります。
「壽量品の三大事とは、三とは戒定慧の三でありまして・壽量品の戒定慧こそ・重大の中の重大でありまして、これが・三大秘法であらせられるのであります。」 続く

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Libra さんへ。 Follow: 199 / No: 197
 投稿者:川蝉  00/06/16 Fri 13:46:49

Libra さん今日は。
 
>宗祖が「中古天台的修行不要論」を主張したとも思っていませ
>ん。

Libra さんがこの理解で有ることは、すでに納得していますのでご
安心を。


>「報仏智常論」と「中古天台的凡夫論」の定義を明確にして頂き
>たく思います。

浅井教授の「日蓮聖人と天台宗」は「>その時に論文は参照させて
頂きました」との事ですが、再度。「無作三身考」の項を読まれれ
ば分かると思います。
「中古天台的凡夫論」とは、すべてそのまま仏であると云う「中古
天台的修行不要論」の凡夫観のことです。
浅井教授の使われた「報仏智常論」とは伝教大師の「守護章巻下」
の「報仏智常章第三」(567〜573頁)の論旨のことです。

浅井教授の解説は次の通りです。
「この章には寿量品の通明三身正在報身に関する問答がのべてあり、
徳一が智報身は従因生であるから『相続常』『依止常』にすぎない
と批判するに対し、最澄が真如随縁の真如観と倶体倶用の仏陀論と
の両面から天台宗を弁護する趣旨であって、凡夫が実仏であるか否
かという類の凡夫論とは無関係である」(日蓮聖人と天台宗・273頁)
と説明してあります。
要は、寿量品で明かす法・応を具足の報身如来は常住仏である事を
主張しているようですね。

浅井教授は「無作三身の覚前の実仏」の句は、「事仏は虚仏であり、
理仏の凡夫こそ実仏であると観ずる理本覚思想と異なる言葉である
(取意)」と論証しているのですね。

浅井教授によると、「無作三身の術語は天台大師や六祖のものにも
無い。ただし、修得三身に対する性得三身、本地三仏、実教三身等
とは云うが無作三身ちは呼んでない。最澄が初めて使用した名目で
あると考えられる。(取意)」
とのことです。


>伝教大師も「守護国界章巻上之中」で「本覚」の語を使っておら
>れます(伝全第二巻、二三一頁)が、伝教大師が主張される「本
>来の本覚思想」と「中古天台」のそれとのちがいについても明確
>に説明して頂きたく思います。

「守護国界章巻上之中」(伝全第二巻、二三一頁)に
「法華の中の開仏知見なり、自身の中の清浄本覚真如の智体を説く
を仏知と名づく・・本覚猶隠る、障を除き尽くし已るを名つけて出
纏と為す。本覚すでに顕わるるを名づけて法身と為す」
とありますね。
本覚は衆生自身の中の清浄本覚真如の智体を指し、障を除き尽くす
行(修行)によって、その本覚は顕在化すると云う趣旨ですね。

仏性(清浄本覚真如の智体)は修行によって顕在化するものと云う
考えです。
「起信論」の「本覚に依るが故に、不覚有りて、不覚に依るが故に、
始覚有りと説く」(心生滅門)と云う立場と同じと云えますね。

凡夫もその当位を改めないで、修証を借らずそのままが無作本覚の
覚体であると観念する所の中古天台の本覚観と明らかに違いますね。


>また天台大師は「三因仏性」を言われます。直接的には「本覚」
>という言葉は用いられていませんが、これも「本覚思想」と言え
>るでしょう。この点についても明確にお答え頂きたく思います。

天台大師の云う「三因仏性」は仏性を詳しく表した言葉ですから伝
教大師の「守護国界章巻上之中」の本覚の概念と同じと見て良いで
すね。だから「本覚思想」と云っても良いと思います。
ただし、御存知の通り、必ず修証に依って顕れるものと云う立場で
すね。
凡夫もその当位を改めないで、修証を借らずそのままが無作本覚の
覚体であると観念する所の中古天台の本覚観と明らかに違いますね。

同じ浅井でも浅井要麟教授ですが「日蓮聖人教学の研究」に
「支那天台に在っては、塵点に即して報身常住を説きたるに
対し、中古天台では寿量顕本の仏は無始無終の本覚三身如来と説く
のであるが、その仏の法体内容に於いては、大日本地身と何ら異な
る所もない自然本覚の素法身に外ならぬ(取意)」(229〜230頁)
との論述も、違いの参考になると思います。

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高尾15 No: 196
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 11:34:14

「日淳上人全集」の「興尊雪冤録の妄説を破す」1438頁から抜粋
「田中智学氏の「日蓮聖人の教義」なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明らかである。 中略
他門流では、本宗の教義が日寛上人によって作成されたといって、とんだ批評をしているが、日寛上人は、日蓮門下と称し諸方面に異説が出尽くした時代に出現なされ、これらの異説を破しゃくなされ、大聖人の御正意を御門弟方に御教示あそばされたのであって、その御教示は、本宗の教義を一大体系の上に御説き明かされたのであるが、それは、相伝御法門の敷衍であらせられることは上人の明確に仰せあそばされておるところである。」続く

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高尾14 No: 195
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 11:26:41

「日淳上人全集」の「教行証について」1430頁から抜粋
「御義口伝に、釈尊・法華経・日蓮が父であると仰せられたのは、法華経の経文における一往の御解釈で、その重点は「日蓮等の類・南無妙法蓮華経と唱えたてまつる者は・一切衆生の父なり」にあるのである。ゆえに、主師親を定めることは衆生との縁をもって選ぶべきで、さすれば、聖祖御一人が末法の主師親であらせられ、釈尊はそうでないことが領解せられるのである。それを御示しなさるのが聖祖の御法門である。元来、御義口伝は聖祖が妙法を具有あそばされ、その境智冥合のところを法華経の文において説き顕わしたまうたのであるから、それを無視して一文一文を解釈すると、正意を拝することはできない。」続く

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高尾13 No: 194
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 11:06:39

「日淳上人全集」の「法窓夜話」861頁から抜粋
「相伝書は、法門上時に重要なる役割をする場合もあるから、一概にその価値を云為することはできないが、大概は、一宗一派に都合よくできておるから、公論上の証文にはできないといってこれを非難しておる。しかも、その相伝書には、後人の添加や偽作などあるとして、本宗依用の相伝書に疑いをはさみ、それを否定するがごとき態度をとっている。これは、中谷君が仏書に対する考えの足りないことを語るものである。
由来仏教学は、訓古学的であって文字や言葉を解剖して意義を明確にしていくという行き方であるから、したがって、仏書が何代か伝わるにつれて、段々注釈が加えられていくのは当然のことになっておる。相伝書においても同じことである。それを添加だ偽作だといって、相伝書をそんな風に見られたのでは、たまったものではない。相伝書は、本来、それだけの眼識の具わった士が見るべきもので、相当な域に達しておる士が見てはじめて、その価値もあり、その文の性質を呑み込むこともできるのである。」 続く

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高尾12 No: 193
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 10:52:57

高祖の御義等の文
「さらにまた、前記に引き続いて、次のような奥書がある。
「本伝にいわく、御義口伝という事、いずれも高祖の御義なり。御流れなる間、口伝というなり。本末師等の疏釈その外見合わせ、御義をもって法門を荘厳したてまつるべきなり。初心の行者の及ぶべからざる法門なり。これは註法華経を置かせたまいて、六老僧のために身延山において御談あるなり。この已然甲州の日春日法の所望によって御談ありき、提婆品の時、蛇きたりて聴聞せり。八歳の竜女なりとおおせらる。この書授与の末代の亀鏡はこの御法門なり。その時の執筆日興なり云々。弘安元年正月一日 執筆日興花押。六老僧花押」(大正蔵経による)
以上の文も、明らかに後世に付加された文である。それゆえ、これをもとにして、御義口伝そのものを疑うことは決してできないのである。」 続く

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高尾11 No: 192
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 10:39:14

老僧の所望等の文
「本文の最後の「……法とは上行所伝の題目なり」の次に、次のような奥書が載っている本がある。「六老僧の所望によって老後たりといえども、日蓮が本意の一端、講談せしめおわんぬ。これしかしながら私集最要文を読じゅせしむるところなり。しかるあいだ法華一部の諸要文書き付けおわんぬ。この意はあるいは文を隠して義をとり、あるいは義を隠して文をとり、あるいは文義ともに顕わし、あるいは文義ともに隠して講談するなり。くわしくは註法華経を見らるべきなり。しかりといえども文義深遠なるあいだ、愚昧におよぶべからざるなり。広宣流布の要法あにこの註法華経に過ぎんや。就註法華経御義口伝巻下日蓮御判 日興これを記す」(大正蔵経による)
この文に六老僧とあるところから、弘安元年に六老僧はなかった。本弟子六人と定められたのは弘安五年御入滅直前のことである等と論難するものがある。
確かにそのとおりであって、この文もまた、後世の者の付加した文である。ゆえに、ただ「老僧の所望」とでもあればよいところを、後世の者が「六老僧」としたまでである。
創価学会版にはこの文が削除されている」 続く

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高尾10 No: 191
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 10:25:38

後人の加筆に対する疑難
当体蓮華抄の文
「最初の南無妙法蓮華経の事の終わりの文「……八葉九尊の仏体なりよくよくこれを思うべし已上」の次に「そもそもこの蓮華所所のところをたずねそうらえば、いかなる河地に開け、いかなるところ、いかなる境に生きる華とやせん。もし霊山の北か、うずいの南無熱池という池に大白蓮華開け不思議のベラ華を備えたり、もって彼を妙法蓮華と号すべきか。また法伽はら王の池に千葉の蓮華開く。しかるに人中の蓮華は十余葉、天上の蓮華は百葉、仏菩薩の蓮華は千葉なり。これをもって妙法蓮華というべきか。また白鷺池……功能かくのごとし。」という長文がある(要法寺版等)。しかもその文は録外二十三の当体蓮華抄と同じ文が引かれていることになるところから、論難するものがあった。
しかし創価学会版御書全集には削除されているように、この文は「……已上」で終わった後に、後人の付加した文である。ゆえに当体蓮華抄と同文があったからといって、御義口伝そのものを疑う理由とはならない。」 続く

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高尾9 No: 190
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 10:11:40

弘安元年正月の日付について
「御義口伝は上下巻とも最後の日付が、弘安元年正月一日となっている。建治四年は二月に弘安と改元されているのであって、正月一日から弘安を使うわけがないという。
御義口伝は日蓮大聖人の講義を、日興上人が加筆されたものであって、その講義も、必ずしも建治三年の年末までで終わったとはいいきれない。講義は弘安年間にはいっても続けられたことが御抄に見られるので、この時代のものも、御義口伝の中に、はいっているといえる。
ただ弘安元年正月一日が、講義の一往の終了の時期であったか、ほかにまたなにかの原因があって、こういう日付となされたか。日付を後から入れる場合には、建治を使わずに、正月一日から弘安を使うような例は、他にもよく……… (この後は後日入力する予定)」 続く

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Libra様 No: 189
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 10:01:12

東洋哲学研究所に入りたいとのご希望のよし、慶賀にたえません。
是非実現するといいですね。
すきなことで飯が食えるというのは人間として最高ですね。
立派なご研究ができますよう願っております。
ただ、近年の学会教学はあまり感心できるものとも思えませんので
日蓮のみこころに沿った公正な研究をされますよう。
是非実現を祈っています。                敬具

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高尾8 No: 188
 投稿者:高尾  00/06/16 Fri 09:56:35

池田大作氏「御義口伝講義」より抜粋

「次の文が補註の文か、科註の文か。もし科註の文とすれば、時代の相違があるという論難がある。
 第十如却関やく開大城門の事
 補註の四にいわくこの開塔見仏はけだし所表あるなり、何となればすなわち開塔は即開 権なり見仏は即顕実なり、これまた前を証しまたまさに後をお起さんとするのみ、如却 関けんとは却は除なり障除こり機動くことを表すいわく法身の大士惑を破し理を顕わし 道を増し生を損するなりと。
大石寺の堀日享上人は、古写本たる元亀の本に、ここが補註となつているところから、補註となされたものとみえるが、そのほかの御義口伝の各本は科註となっている。宋の住義の補註四は文句一の下から二の下までを註記したものである。しかして宝塔品は補註の九になっており、その文も御義口伝の引用の文とは大分違う。科註四には御義口伝に引用の文と同じ文がある。
ところで科註四の文が引用されているとなれば、この科註は日蓮大聖人の滅後十三年、元の徐行善が集めたものであり、いかに日蓮大聖人といえども、滅後十三年にできあがった本の内容を、あらかじめ引用されるわけがない。したがって御義口伝は偽書であるなどというのが、立正大学の執行海秀氏らの論法である。
法華経科註とは、主として天台の文句および文句記を、科をかかげ註を加えたものである。これに三種ありとされ
  宋の守倫の註
  元の徐行善の徐氏註
  明の法済が訂正した倫註
現在では守倫の註は失われてしまい、現存するものは徐氏註と倫註である。ここで想像できるのは、
宋の守倫の註が早くから日本に渡ってきていて、日蓮大聖人は、これを見て引用なされたのであろう。
次に想像できることは、祖滅十三年に成立した徐氏の註が、まもなく日本へ渡ってきて、おそらく日興上人が、宝塔品第十一のところへ付加されたものであろう。
いずれにしても本講義は、それらを究明するのが目的でないから、詳しい論述は省略するが、元亀本、創価学会版のとおり補註とするのにも、相当の根拠があってのことであるし、補註なら時代の相違は問題ない。科註にしても前述のような想像が可能であってみれば、ただこの一箇の案をもって偽書扱いするなどというのは」いかがかと思う。
続く

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高尾様へ No: 187
 投稿者:Libra  00/06/16 Fri 09:29:41

 おはようございます、高尾様。
 
 三宅重也氏の『御義口伝の研究』に関する投稿はとても参考に
なりました(印刷してじっくり読ませて頂きました)。貴重な時
間と労力を使ってわざわざ御紹介頂き本当にありがとうございま
した。御苦労様でした。
 
 三宅重也という人は日蓮宗の方だそうですがどういった方なの
でしょうか?有名な方なのでしょうか?
 あと、『御義口伝の研究』は何年にどこから発行されたものな
のかも教えて頂ければ幸いです。

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高尾7 No: 186
 投稿者:高尾  00/06/15 Thu 16:55:04

「「文は教相にして義は観心なり、所説の文字を心地に沙汰するを義というなり」(御義口伝・無量義)とあり、すなわち文字に現れたとおりに解釈していくのが教相であり、さらに法華経全般を貫く根本精神をよく我が心に移して、それはすべて我が身、我が心を説いてあるのだと解釈するのが観心であり義であるというのである、つまり、経文の文字にのみ膠着して、かえって法華経の本旨を忘れては真実の義にはならない。ゆえに涅槃経二巻哀歓品に「酔人、たとえばただ文字を知るも、いまだその義に達せず」とあり、これは酒に酔った人は、いたずらに文字のみを知っているけれども、本当の実義に達しないということである、そこで章安大師はこれを解釈して、「ただ文字を知りてその義を知らずとは、文はこれ語言なり、義はこれ理趣なり、酔人もまた語を聞けども語の意をさとらず」といわれている。すなわち文はその意味を表現ための語言であるけれども、肝心なのは、その中に含んでいる義である、そこで酔人にたとえて、酒に酔った人は、ただ経文の言葉を聞くのみで、本当の言葉が果たして何を意味するのであるかを理解しないようなものであるというのである。
だから釈尊滅後の四依の菩薩といわれる法華弘通の四大行者も「義によって、語によらざれ」とあるように観心の義によって解釈すべく、決して経文上の語言にとらわれてはならぬことを指示せられている。ただしここには「語によらざれ」とあるけれども、それは絶対に経文を相手にしてはならぬというのではない、ただ教相に現れた語にのみとらわれて文底に流れる義を忘れてはならぬと戒められたのである。 中略
つまり、経文の表面に現れているのは、いわゆる文上であり、教相である。これに対し義は文底に流れる真意であって、それが観心である。開目抄に文底の文字を用いられたのは、すなわちこれである。 中略
おもうに日蓮聖人は単に印度や、支那から輸入せられた経文の固定的な、そしてまた形式的な字句の解釈に満足せられないで、深く文底にひそむ根本精神をさぐって、これを自己の体験に照らして解釈し、もって法華経に対する清新の気を吹き込むとともに、新日本仏法を建設せられたのである。この意味において、御義口伝は誠に重要なる文献である。要するに観心の法門として聖人の御本意を最も明確に表現せられたものは観心本尊抄と、御義口伝と日向記とである。なかんずく、御義口伝はその最高峰をいくものである。日蓮聖人はこの観心の法門によって経文上にいまだその名さえも見られない三大秘法を打ち立てられたのである。観心なくして、三大秘法も娑婆即寂光も、煩悩即菩提も立正安国もついに理解し得ないのである。もって御義口伝がいかに重要なるかを思うべきである。」
(補記:三宅重也氏は、日蓮宗の方である。) 続く

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高尾6 No: 185
 投稿者:高尾  00/06/15 Thu 16:15:58

「御義口伝の特色は、何といっても、法華経の観心釈である。観心とはあるいはこれを証道観心とも熟字して、法華経の悟りは、ただちに我が心を説明したと考えて我が心にあてはめて、これを考察することである、おもうに一切万物はすべて心より出でたものとみるのが法華経である。 中略
観心というのは、経文をそのままうのみにする教相上の解釈ではなく、むしろ自分の心の説明であることを知らせるのが真の義であって、これを観心の解釈というのである。心地とは我が心のことである、すなわち我が心こそ一切法の根元であって、その心から一切の物象を生ずるとみるから、これを色心不二というのである。 中略
観心の法門は、もとより文上に顕れた文意にのみとらわれるべきではなく、むしろ法華経全体を流れる真意を探り出して、これを我が心にあてはめて解するのであるから、世にこれを文底の玄意(奥深い意のこと)というのである。」 続く

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高尾5 No: 184
 投稿者:高尾  00/06/15 Thu 16:03:42

「御義口伝の特色、性格を最もよく表しているのは、末尾に付記された日興の奥書である。
それによれば、(御義口伝は)「あるいは文を隠して義をとり、あるいは義を隠して文をとり、あるいは文義ともに顕わし、あるいは文義ともに隠して講談するなり」とあり、一語真に言い尽くし得て妙を極めている、この奥書は聖人の御許可を得たもので、聖人御入滅の一両日前に御義口伝の上下両巻ともに「就註法華経、御義口伝」の文字を入れて聖人の御署名御加判までも戴いている、しかし最後にある日付の年月日は執毫日興もしくは執筆日興といえる文字とともに聖人の御署名後に興師が記入したことを現している、すなわち奥書の中にある六老僧の文字は聖人の御許可を得ているけれども、弘安元年正月一日という日付は興師の一存から記入したものである。
御義口伝は聖人みずから法華経の最要文を抜粋せられてこれを口演せられたものであるから、最もよく聖人の御意のあるところを明にし、真に御義口伝なればこその感禁ずるあたわざるものがある、おそらく聖人法門の面目をこれほどよく活躍された御書は他にないであろう、御義口伝を知らずしてついに日蓮法門を語るべからずである、むべなるかな古来大多数の学者は御義口伝をもって、日向記とともに、日蓮法門解釈上の金科玉条の最高指針とせられているのである。」 続く

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高尾4 No: 183
 投稿者:高尾  00/06/15 Thu 15:43:42

「明治大正時代の日蓮学者として、盛名高き顕本派の本多日生師は、御義口伝排斥論者として喧伝せられているが、何ぞ知らん、同師の名著といわれる法華経講義上巻の凡例の部第三頁には参考書目として堂々と御義口伝の名を掲げてある。もしも本多師にして御義口伝の真作を疑うとすれば、あえてこれを参考とすべき理由はない、これらの点よりみても同師の御義口伝軽視の根拠も頗る浅薄なるものであることを疑わせる。
また、江戸時代には三代将軍家光の当時宗門最大の論争として江戸城内に酒井雅楽頭、土井大炊助等の面前において上野の天海大僧正、京都南禅寺の本光国師等を判者として、池上本門寺の日樹、中山の日賢、平賀の日弘等を始め当時の高僧連と不受不施派の日奥師とが対論した時にも、盛んに御義口伝の一節(御義口伝壽量品第八条)を引用して対論したことが、今日文献に残っていることが、その席にいた名僧達も誰一人として御義口伝そのものの成立について疑義をはさむものはない。
なお田中智学師の日蓮聖人の教義にある年表にも富谷日震師の編集する日宗年表や山田日真師編集の日宗龍華年表やその他大部分の年表等には、皆正安二年九月の重須における日興師の御義口伝の講義のことが書いてある。 中略
また御義口伝の原本は、その後も日興上人の座右に置かれ、同上人が重須の本門寺に転住後もるるこれを講演せられたことは、前記日尊上人の逸事によっても明白である。惜しいかな、その後天正年間、武田勝頼の臣下たる穴山梅雪等が、重須の本門寺を襲い、霊宝を奪い去ったことは隠れもない事実であって、各年表に記載する所である。その際、御義口伝の原本も持ち去られたと伝えられている。」 続く

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高尾3 No: 182
 投稿者:高尾  00/06/15 Thu 15:04:55

「(宝塔品の御義口伝に科註を引用せられていること)
異説として多少、注意すべきものは御義口伝の宝塔品の部に科註を引用せられてあることである、元来科註というのは詳しくは妙法蓮華経科註と称し天台の疏にのっとりて法華経の註釈をしたものである。ただし世に科註と称する書物は宋の守倫という人の科註以来今日までに合計十六種の多きに達している。
その中で特に有名なるものは、上述の宋の守倫の科註と元の徐行善の科註(徐註)と明の一如という人の科註との三つがある。しかるに一部の学者はこの多数の科註のうち、御義口伝に引用せられてある科註を何らの理由もなしに、かつてに第二番目にある元の徐行善の科註であると思いこみ、その徐註が元の時代の作であることを奇貨として御義口伝をもって聖人滅後の作たる科註を混同しているものとし、それによって御義口伝が聖人の真作でないことの証拠であるというに至っては誠に驚き入る外はない。おそらく守倫の科註が今日なかなか手に入らない稀書であるからこんな間違った判断を下したのであろうけれども、現に余が見た千葉県の成田図書館には守倫科註抄妙法蓮華経という書物が蔵され、この本の第四巻第四十二枚の裏一行より六行までに、御義口伝引用の「この宝塔見仏云々」より最終の「惑を破し理を顕わし道を増し生を損する也」に至るまでの全文がそのまま載せられている。この本は宝永三年正月京都平楽寺で重刻されたものでそれ以前にも盛んに我が国に行われていたことは明白であって、現に東京池袋の常在寺にある細井上人所蔵の書庫内にもこれと同様の倫註がある。この書も前示成田図書館所蔵の本も同じであるが慶安二年林鐘書林豊興堂刊行とあり、その内容は前記成田図書館の倫註と同じであるけれども、ただその表題に新校科註妙法蓮華経とあるのみにて別段倫註とも徐註ともないから、どっちだか一見判明しないように思われる点がある。それがためにある一部の学者はこれをもって軽率にも徐註なりと速断したのではないかと思う。
そこでよくよく同書を検するにこの書を最初に校訂した四明海慧教院住持たる必昇という人の序文がある。それによれば、
 倫法師ありて嘗てこの経(法華経)を註す。今、習善徐居士深く仏乗を信じて教法を好 楽す。ここの印版(倫註のこと)のいん没せんことを嘆き(実は徐氏が)悉く(倫氏の 文章をそのままに)その経を取って科によって註を分かち倫師己堕の書を起こして後学 易入の径を開く。ただし珂山(倫氏のこと)の述註というと雖も、実は天台の疏の文也 科を上に標し註を下に顕わす。一覧して周知の衆議、悉く現す。
とありて、この倫註は、「科を上に標し註を下に顕わして頗る後人易入の便を計りたるものである。そこでこの書には偶々徐氏が私見を述べる場合が一個所程あれども(第八巻の二十一枚目裏側第二行)それには、「私に謂う」という文字を挿入してその私見たることを明にしているのである、斯く徐氏みずからの意見を特に「私に謂う」と書いてあることは、偶々その本が倫註の複製であって徐註でないことを物語るものである。また同書(常在寺本)の第一巻十一枚目には「徐行善が本を書いて(書いたので著したのではない)註をもって科経に入れ縁を募って刊す」とあり、それは縁故者の資金を募って倫註を刊行したという意味である。まさか自分の徐註を出すために麗々しく縁を募って刊すなぞと広告する必要もあるまい。それならば勿論その出資者の人名を書くべきである。それのみならず、前述のように本を書くというのは本を写すことで敢えて本を著作する意味ではない。蓋し本を著す場合なら特に本を書くというわけはないからである。また同書にある終南山釈道宣という人の妙法蓮華経弘伝序(同本第一巻第十枚目裏)には、(漢より唐に至るまで六百余載(歳の意味)の群籍」とありて宋代のことを記載していないことは、それが宋時代の守倫の註であることを間接に証明するものと見なければならぬ、もしもそれが元の徐註とすれば宋時代の弘経の事実までも記すべきであるからである。
要するに常在寺所蔵の科註も全く成田図書館の倫語と同じである。加之、現時大蔵経に収録せる徐註には御義口伝引用の文章が存在し無いのである。徐註というのは、徐氏は一度上述のごとく倫註を校正出版した後において別に徐註を新作刊行したものである。
そはともかくとして仏書は奈良朝以来盛んに我が国に輸入せられ、聖徳太子もこれにより特に三経義疏を作られ、さらに平安朝、鎌倉時代を通じて盛んに我が国に流布せられ我が国の高僧知識も随・唐・宋に往返して日本文化の発達を助け仏教を益々興隆せしめたのである。したがって聖人在世当時にも倫註の支那本または写本があったろうことは当然である。当時聖人が閲覧せられた天台妙楽等の著書を初めとし、多数の書物を入手せられたことは現存の玉沢法華経寺のいわゆる昭師仮名の註法華経その他の御遺書によっても明白である。しかるに二、三の好事者流が勝手に御義口伝引用の科註を徐註なりと盲断して御義口伝の成立までも否認せんとする暴論は誠に軽率なりといわざるを得ない。」
続く

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shamonさんへ Prev: 173 / No: 181
 投稿者:Libra  00/06/15 Thu 14:00:44

> 完結しているものなのですから、一つでも明らかに時代矛盾の記述があれば、
> すべてが疑うべき対象となるのは当然です。

 天台大師の『摩訶止観』等は「すべてが疑うべき対象」になるのでしょうか?

> Libraさんも、最初に創価学会ありきであり、あくまでも創価学会のために、
> あわよくば東洋哲学研究所にと考えているくらいですから、日寛教学を否定
> しようとしまいと、それは組織のためということです。

 いくら言ってもムダのようですね。残念です。

 「あわよくば東洋哲学研究所に」と考えているというのは事実ですが、
「僕なんかでは無理だろう」とも思っています。しかし、僕だって人間
ですから夢の一つくらい持っててもいいでしょ?
 仮に、shamonさんが新しい研究所を作られたとすれば、「あわよく
ばshamon研究所に」と考えるでしょう(これもやはり「門前ばらい」
でしょうが ^_^;)。つまり、「組織のため」などではなく、「どうせ研
究者として一生を過ごすのなら、仏法の研究者として一生をかけてみた
い」という「夢」を持っているということです。

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川蝉さんへ Prev: 174 / No: 180
 投稿者:Libra  00/06/15 Thu 13:38:27

 川蝉さん、こんにちは。

> 「無作三身の造語者は最澄であり、造語したところに無作三身観の
> 将来の発展に貢献するところはあったとしても、その内容は報仏智
> 常論にとどまり、中古天台的凡夫論ではなかったのである」
> と論証し述べています。

 川蝉さんに以前SF研で教えて頂きましたので、その時に論文は参
照させて頂きました。

 「報仏智常論」と「中古天台的凡夫論」の定義を明確にして頂き
たく思います。僕は「法華経を受持」することによって「凡夫も仏
になれる」と言っているのであって、「中古天台的修行不要論」は
主張していません。もちろん、宗祖が「中古天台的修行不要論」を
主張したとも思っていません。

 また、伝教大師も「守護国界章巻上之中」で「本覚」の語を使っ
ておられます(伝全第二巻、二三一頁)が、伝教大師が主張される
「本来の本覚思想」と「中古天台」のそれとのちがいについても明
確に説明して頂きたく思います。また天台大師は「三因仏性」を言
われます。直接的には「本覚」という言葉は用いられていませんが、
これも「本覚思想」と言えるでしょう。この点についても明確にお
答え頂きたく思います。
 (「本覚思想」についての僕の立場は「如来蔵思想批判の批判的
   検討」を参照して頂きたく思います。)

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高尾様へ(2/2) No: 179
 投稿者:Libra  00/06/15 Thu 13:21:58

> 大聖人様の正統な御法門をLibra様はすでに持っているのですから、御本尊様
> に真摯にお題目を唱えて、松本佐一郎氏の著書や福重照平師の日蓮本仏論、三重秘
> 伝抄等の六巻抄をお読み下さい。

 福重照平師の「日蓮本仏論」は近いうちに読みたいと思っています。
松本佐一郎氏の著書も是非読んでみたいのですが、読むてだてが見つ
かりません(注文して手に入るようなものではないと推測します)。

> Libra様を見ていると、御本尊様から心が離れているのではと思います。
> 本当にすばらしい御本尊様をお持ちなのですから、信仰に真摯になってください。
 
 そのようにご心配して頂き、とてもありがたく思っています。これ
からもよろしくご指導下さい。

> 信心というのは単に教学をどれだけ理解しているかという智解ではないはずです。
> 御本尊様を仏様として本当にありがたいというまごころだけが、信だけが仏になる
> 道ではないでしょうか。

 「信が根本である」というのはその通りだと思います。

  行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、
  我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力
  あらば一文一句なりともかたらせ給うべし
  (「諸法実相抄」、全集。p. 1361)

  日蓮が弟子等の中になかなか法門しりたりげに候人人はあしく
  候げに候
  (「上野殿御返事」、全集、p. 1546)

 ですが、

  仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり
  (「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)

ということも重要だと思います。

> 「日淳上人全集」を是非お読み下さい。必ず得るところがあります。
> 少し難しいですが、石田次男氏の「現代諸学と仏法」をお読み下さい。

 読むてだてが見つかれば読ませて頂きたいと思います。御紹介あ
りがとうございました。

> 信心とは我々が今まで学会や正宗から教わってきたことと抜本的に違うのです。
> 大聖人様の仏法は天台や釈尊を凌駕した独一本門なのです。学べば学ぶほど大聖人様
> のありがたさに仏法の深さに感動するものなのです。

 仏法が「時代とともに発展している」ということは言えるかもし
れませんが、それは「釈尊」をルーツとする「仏教」という思想運
動の発展史ということだと思います。もちろん僕は「日蓮法華宗」
がその最先端を行っていると思っているわけです。

> 剣豪の修行を思わせるほどの修行が学会伝統の教学精神ではないですか。
> 最後は自分だけです。悟るのも自分、迷うのも自分です。共々にがんばろうでは
> ありませんか。

 はい。がんばります。これからもよろしくご指導下さい。

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高尾様へ(1/2) No: 178
 投稿者:Libra  00/06/15 Thu 13:21:29

 おはようございます。高尾様。
 ご丁寧なレスありがとうございます。

> 少なくとも「御義口伝」においては「釈尊本仏」の立場だと僕は理解しています。
>
> とありますが、松本佐一郎氏の「富士門徒の沿革と教義」81〜85ページにかけ
> て、末法の仏は日蓮大聖人様であるとしています。

 僕は、宗祖は「父」で、釈尊は「おじいちゃん」だと思っています。
宗祖と釈尊と比較してどちらが偉いかというような議論にはとてもつ
いていけません。両者はともに「偉大な仏」だと思っています(この
件については以前にSF研で論じました)。

 『法華経』では「父子の義」が明確に説かれており、父は子に対し
て「今我と汝と便ち為れ異らず」(信解品)と明言しています。
 また、『法華経』では

  舎利弗よ、当に知るべし われ、本、誓願を立て
  一切の衆をして われの如く等しくして、異ることなからし
   めんと欲せり。
  わが昔の所願の如きは いま、已に満足し
  一切衆生を化して 皆、仏道に入らしめたり。
  (「方便品」、岩波版『法華経(上)』、p.108)

と説かれていますし、宗祖は

  経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉
  等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全
  体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ
  師子王とならず、師子王の子は師子王となるいまだ人王天王等
  とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈
  尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべから
  ず
  (「日妙聖人御書」、全集、p.1216)

と言われています。その上で、ありがたくも

  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差
  別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈と
  は云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持
  つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  (同上、p.1338)

と言いきられています。
 宗祖が釈尊の「弟子」であることは歴史的事実です。ですが、宗
祖は「真の仏子」です。法華経の「父子の義」によれば、釈尊と宗
祖とは「全く差別無し」です。この「信心の血脈無くんば法華経を
持つとも無益なり」だと思います。

> そして、御義口伝は最も根幹的
> な教義を述べられたものだとしています。

 「御義口伝」のメインテーマは「父子の義」だと思いますし、こ
れ以上「根幹的な教義」はないのではないかと思います。

> 池田会長の「御義口伝講義」においても御義口伝は釈尊本仏ではなく日蓮本仏であ
> る旨述べています。

 上に述べた「父子の義」を参照された上で、僕の言う「釈尊本仏」
の意味をご理解頂きたく思います。

> どうか正信に帰って下さい。他門流の方に何を聞こうというのでしょうか。

 「他門流の方だから」という理由で「意見を聞かない」ということ
は僕にはできません。僕はshamonさんや川蝉さんを尊敬しています
し、故田村芳朗博士や伊藤瑞叡氏を尊敬しています。他にも数え上げ
ればきりがありません。

  本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずいづれ
  も仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等に
  はよるべからず専ら経文を詮とせん
  (「破良観等御書」、全集、p. 1293)

  過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏す
  べし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝の行を
  ば立てさせ給いしなり、法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせ
  んずらん仏性ありとてかくの 如く礼拝し給う何に況や持てる在家
  出家の者をや、此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家
  にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の
  罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と
  見へたり、或は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之
  れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、
  其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。
  (「松野殿御返事」、全集、p. 1382)

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 No: 177
 投稿者:shamon  00/06/15 Thu 12:02:46

日向上人筆録とされていた「御講聞書」というものがある。これも
また後世の成立であり、一致派によるものとされている。

明らかになった真実を真実と認めさせない、そういう教育をする宗
教姿勢こそ、問題とされるべきであり、けっして真理にたどりつく
ことはない。過去の事実を歪曲されて伝えられても、そのような信
者は決して疑うことなく、従ってしまうのである。

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高尾2 No: 176
 投稿者:高尾  00/06/15 Thu 11:25:51

「御義口伝の成立を否認せんとする者は往古にはこれなく、いずれも近世の好事者流の屁理屈であってとるにたるべきものはない、今上述の異説の外の根拠をあぐれば、まず御義口伝の奥書にある高祖あるいは六老僧の文字は聖人御在世中には存在しなかったのみならず、特に御義口伝に「弘安元年正月」という日付を使用せられておることはすこぶる不合理であるというのである、(弘安というのは同年二月下旬から改元したものでその以前は建治の年号を用いていたのだから正月に弘安元年正月ということは不合理であるというのである)、ただし奥書といえば、その書物の内容や由来を記して読者の参考に供するものであって、普通に跋文と称するものである御義口伝下巻にある奥書は二つありてその第一の奥書には六老僧の文字があり、第二の奥書に高祖という文字が使用されていることは、まさに論者の説のとおりである。
論者の主張によれば、六老僧ということは日蓮聖人御入滅の数日前たる弘安五年十月八日に定められたものであるから、それよりも数年前たる御義口伝御口授当時はいまだ六老僧の御指定がなかったのである。したがって弘安元年の日付をもってこれを記入した奥書はもとより信ずべからずというのである。しかしながら奥書は上述のごとく跋文として御義口伝成立の由来を記したものであって、その記入はもとより後日のことであるから、これあればとて、さかのぼりて御義口伝の内容までも疑うことは意味をなさないのである。また六老僧の名義は聖人御入滅の直前にきめられたけれども、それは決してやぶからぼうに、突然に御指定になったわけではなく、僧侶たる最高の御弟子としての六人の存在は早くより知られており、現にこの御義口伝の御口授も右の六人の高弟を相手として相伝せられているのである。ゆえに門下の人々もよく六人の高弟の存在を承知しているのだから、六老僧としての形式上の御指定は御入滅の直前であったけれども、それはただ既定の事実をそのままに御指定になったまでであって、決して出し抜けの御指定ではない、それなればこそ、当時有力なる門下たる大名のひとびとの間にも(富木殿等)別段驚きもなく、また問題にもならなかったのである。ことに日興師は御指定の直後、御入滅までの間に急いでこの第一の奥書をしたためて聖人の御加判までもいただいているのであるから、この六老僧の名義を用いたればとて何の不思議もない。
次に第二の奥書にある高祖という文字は、必ずしも聖人に対する固有名詞として解さなくとも、一般の敬称として前古未曽有の三大秘法たる本尊や題目を授けられたる聖人のことであるから、早くより高祖の敬称のあったことは想像にかたからず、いわんや第二の奥書は御入滅後に興師がそれを弘安元年、正月講了の意味をもって日付を記入せられたのであってみれば、実に御入滅後の一般の慣例にしたがい、高祖の敬称を用いられたのであるからこの点何の変哲もない。
もしそれ、弘安元年正月という日付に至っては、議論として、弘安の年号は弘安元年二月下旬から始まっており、したがって一月には建治の年号であるにかかわらず、弘安元年正月と記入されてあることは、この奥書が後人の作たることを示すものであるとの異説を立てるものもある。
なるほど、弘安の年号は弘安元年二月下旬から始まったのであって、正月にはまだ弘安の年号がなかったことも事実であるけれども、弘安に改元されて以来、既に数年を経過しているから、実際には何人も弘安の年号を呼び習わしており、その風習にしたがって、つい過去をかえりみて弘安元年正月と呼ぶことは、極めて普通にあり得ることである。すなわち一度改元されてみればその年を通じて弘安元年というようになり、あえてその年の二月下旬までは建治の年号に属し、その以後は弘安であるというがごとき杓子定規の形式論はかえって実情にそわないものがある。この意味において日興上人が後日に至って弘安元年正月という日付を用いられたことは何の不思議もないのである。」
続く

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高尾1 No: 175
 投稿者:高尾  00/06/15 Thu 10:23:30

三宅重也氏「御義口伝の研究」から抜粋
序には、「本書は特に身延山第八十五世増田日遠猊下の厳密なる御校閲を頂いたとあります。」

凡例には、「特に、御義口伝に科註とあるのを元の徐行善の科註なりと独断して、それが偶々聖人滅後に出版せられたのを見て、徐註が入っているのは、多分御義口伝が後人の手になつたものに違いないと、一部の学者の思い違いを、そのままに受け継ぎたる学者もあり、さらに甚だしきに至っては御義口伝の奥書に高祖又は六老僧の文字があるからとて、それに借口して成立までも疑がわんとする者さえあれども、そのいずれもがいわれなき妄説であることは、本書序論に述べたところである。」

序論には、「御義口伝は、日蓮聖人が法華経文の中から、その最要文と認められた要句を引き抜かれてみずからこれを私集最要文と名付けられ、これを身延山の山中において、最高の門弟たる六人の僧侶の御弟子に、講じたのを、当時六老僧の一人として、その席に陪つた日興上人がこれを筆録し、特に日蓮聖人の御加判を得たる上、六老僧も全部これに加判して、後世に残されたものである。聖人はこれを注法華経と命名せられたもので、誠に聖人の法華経観を知るためには唯一最高の文献である。」

「正安二年(聖人滅後十九年)に日興師が御義口伝を講じられたことを田中智学師や山田日真師編纂の日宗年報に出ているのをみてもわかる。」

「御義口伝成立に関して、今日疑義ありとして伝えられているものは、第一にその原本が、今、失われていることである。しかしながら、七百年の昔の原本が失われたとて、それがため今日まで多数の教徒に尊信されてきたものを、ただちにその成立を疑うがごときは、あまりにも非常識にしてむしろ不能を強ゆゆるものである。原本は失われたれども、吾人がさきに示すごとく、天文写本によりそれ以前から既に久しく存在したることを知られる、また日興上人はみずからこの御義口伝抄を講義せられたことは、田中智学師や、山田日真師をはじめとし、多くの年表に記載されてあるごとく、偶偶その門下の日尊師がうっかり庭前を眺めていたからというので、これを叱責して破門にせられたという有名な事実があり、よく這般の事情を想見せいめるものがある。また日蓮聖人御入滅の直後に、したためられた日興上人の御遷化記録にも経の文字の直下に、私集最要文注法華経と細字をもって割り注せられてあるより見ても、この御義口伝の最要文が聖人御在世当時から存在していたことを明らかにしている。あるいはまた、御義口伝とは、その名の示せるごとく、口伝の御義であるから、いまさら文書による口伝の如何を調べる必要もない。」




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高尾さんへ追加です。 Follow: 180 / No: 174
 投稿者:川蝉  00/06/14 Wed 17:55:21

高尾さんへ。追加です。

>ただ弘安元年正月一日が講義の一往の終了の時期であったか。日
>付を後から入れる場合には、建治を使わずに、正月一日から弘安
>を使うような例は他にもよくみられる。

建治四年正月一日を弘安元年正月一日と使う例は他にもよくあると
ありますが、実例が幾つもあるのですか?。
宗祖の「実相寺御書」(興師写本)の日付は「建治四年正月十六日」
とあり、
「始聞仏乗義」(真蹟)の日付は「建治四年二月二十八日」となっ
ています。
宗祖の場合は正確に日付を書かれていたようです。
重要な講義記録であるなら余計に日付を正確に記したはずとおもう
のです。

ついでに、
Libraさんへ。

伝教大師の「守護国界章」にある「無作三身」の概念について、浅
井円道教授が「日蓮聖人と天台宗」の「無作三身考」(271頁〜)
で、
「最澄は円教三身を無作三身と呼んだのである。故に無作三身とは
法華経寿量品で開顕された倶体倶用の実教三身の換え言葉にすぎな
いのであって、これを無作本覚の凡夫の意味に解することは、考え
すぎである」
「中古天台のいわゆる無作三身観とは似ても似つかぬ意味内容であ
り、また上古の日本天台では全く無作三身の名目を採用していない」
「無作三身の造語者は最澄であり、造語したところに無作三身観の
将来の発展に貢献するところはあったとしても、その内容は報仏智
常論にとどまり、中古天台的凡夫論ではなかったのである」
と論証し述べています。
ご参考までに。

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偽書の有用性 Follow: 181 / No: 173
 投稿者:shamon  00/06/14 Wed 17:04:00

完結しているものなのですから、一つでも明らかに時代矛盾の記述があれば、
すべてが疑うべき対象となるのは当然です。また、どの部分が本意であるか
を考えるには、他の真筆の御書を使うことになりますから、御義口伝自体を
中心にして教学を展開することに、意味はありません。興門徒だからすべて
を真書と信じるべきとか、真書だと正当化することに固執するのは、いよい
よ偏狭になるばかりであります。正宗が、何が何でも御義口伝を真書としな
ければならないのは、日興上人のみが宗祖より口決相承したのだと主張せん
がためです。時代矛盾の記述は決定的なもので、それ以外のことをあれこれ
反論しても意味がありません。

宗教学としては、御義口伝が偽書である前提で、他の真筆と附合しない部分
を見ることにより、あるいは他の偽書とされる御遺文と附合する部分を見る
ことにより、興門流の思想の流れを探ることはできるため、そのような意味
では、御義口伝を研究することは大変有意義で貴重なものであります。

Libraさんも、最初に創価学会ありきであり、あくまでも創価学会のために、
あわよくば東洋哲学研究所にと考えているくらいですから、日寛教学を否定
しようとしまいと、それは組織のためということです。

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Libra様 No: 172
 投稿者:高尾  00/06/14 Wed 16:54:55

石田次男氏のいわく「身をもって修習していないという一点に集中すると思います。
仏法の三学の学は修習です。これに身が入っていないからです。修行への態度が
さかさまなのです。修行で実存を得ずしてどうして事法の真が得られますか。所詮
この人は無反省で・自分自身と戦っていないのです。年がわかかろうが何だろうが
真に法が解るのは、正しい修行を正しく真実真剣に実践して・なにがしかの実存を
得ているからです。これが「剣豪の修行を思わせる厳格なる鍛錬」というものです。
我々でも誰でもそうです。竜樹・天台みなしかりです。」と。

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高尾さんへ。3の3. No: 171
 投稿者:川蝉  00/06/14 Wed 16:54:41

高尾さんへ。続きです。

高尾さんが列挙された「御義口伝」の諸文についての私の解釈を正
当でないとし、高尾さんの解釈を述べてありますが、その一つずつ
に対する私の見解がありますが、ひどく長文になってしますので、
最初のものだけについて書きます。

「御義口伝」の「第一南無妙法蓮華経寿量品第十六 」(752頁)
の文の意味は「妙法受持し弘通する弟子檀那は末法の法華経の行者
であるから如来であるとし、無作の三身であると称えている文であ
って、宗祖のみを如来としてる文ではない。」と云う趣旨であると
云う私の見解に対して、
高尾さんは
>日寛上人は法華取要抄文段において、本地無作の三身について、
>「両重の総別」があると述べておられる。それによれば、本地無
>作三身とは、一には、総じてこれを論ずれば一切衆生であり、別
>してこれをいえば、日蓮大聖人の弟子檀那である。
>二には、総じてこれをいえば日蓮大聖人の弟子檀那、別してこれ
>を論ずれば、ただ日蓮大聖人のみが真実究境の本地無作の三身で
>ある。曾谷殿御返事にいわく「総別の二義少しも相そむけば成仏
>思いもよらず輪廻生死のもといたらん」と。
と解釈すべきだと書かれました。

しかし、「法華取要抄」には日蓮本仏思想なんて全くありません。
日寛上人の勝手な解釈と云わざるを得ません。

また上掲の「御義口伝」の文には「ただ日蓮大聖人のみが真実究境
の本地無作の三身である。」などと云う意はありません。
「曾谷殿御返事」の「総別の二義少しも相そむけば成仏思いもよら
ず輪廻生死のもといたらん」の文も「ただ日蓮大聖人のみが真実究
境の本地無作の三身である。」と言う事の文証に全くなっていませ
ん。

「曾谷殿御返事」の終わり部分に(1056頁)
「また云はく『初め此の仏菩薩に従って結縁し還此の仏菩薩に於い
て成就す』云々、返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべ
し、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備え給う、此の
法門を日蓮申す故に忠言耳に逆らう道理なるが故に流罪せられ命に
も及びしなり」
と明確に、釈尊こそ本従の師で有るとあります。 むしろ「曾谷殿
御返事」は「日蓮本仏論」の反証となるものです。

「曾谷殿御返事」に云う「総別の二義」を大石寺教学は特殊に解釈
して、日蓮本仏論に持っていくようですね。
上掲の「曾谷殿御返事」の終わり部分の教示を無視してはならない
ものです。

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高尾さんへ。3の2。 No: 170
 投稿者:川蝉  00/06/14 Wed 16:50:48

高尾さんへ。続きです。

>その講義も建治三年の年末までで終わったとは言い切れない。た
>だ弘安元年正月一日が講義の一往の終了の時期であったか。日付
>を後から入れる場合には、建治を使わずに、正月一日から弘安を
>使うような例は他にもよくみられる。

日本史年表を見れば分かりますが、「弘安元年正月一日」と云う年
月日は歴史上、無いのです。
「弘安」は「二月二十九日」になって改元されたのです。「二月二
十九日」以降に「弘安」となったのです。

さらに奥書には年月日の直ぐ前に「提婆品の時、蛇来たりて聴聞せ
り。八歳の龍女と仰せらる」と云う文がありますが、蛇の聴聞の件
は「日蓮聖人註画讃」(1601年刊行・関ヶ原の合戦の直後)に
描かれた「七面天女示現図」の以前の記録には無いもとのことです。
「御義口伝」の奥書はどうもいい加減なもののようですね。「奥書
のみが後代の偽作であるが本文は真作である」などと弁明する者が
居るそうですが、最重要相伝書として重んじられ来た「御義口伝」
だけに、一句一文も正確に伝えなければならないと云う意識の下に
伝えられてきたはずですから、奥書は後人が付加したと云う見解に
は、すぐと首肯できないですね。

次に、中古天台の文献を少し挙げておきますが、「御義口伝」の文
に、極めて中古天台思想に酷似しているものがあるか分かるでしょ
う。こうした理由で中古天台思想が混入していると指摘されている
のです。
「所依の文、正しく本地の三仏の功徳を詮量すと釈する故に、本地
無作の理本を、此の品の顕本正意と為すと見えたり」
                     (等海口伝)
「塵点の当所の事成仏とは、迹化の近情を破せん為、譬えを塵点に
借る、故に彼は能顕の方便なり。此の外に所顕の仏体之有るべきな
り。その仏と云うは住本顕本の内証無作本覚の如来なり」
                     (玄義私類聚)
「円教の三身は無作三身なり。我等身・口・意の三業、本来無作と
して三身円満の体なるを無作三身と云うなり」
                   (等海口伝)
「無作の仏とは云うは何物ぞ、只実迷の凡夫なり。是を覚前の実仏
と云う」
                (文句略大綱私見聞)
「自我得仏来の我を一具に習う時、凡そ我に於いて実我仮我あり、
凡夫の我を実我と云い仏の我を仮我と云うなり。
今の我は釈尊の顕本を説く故に仮我なり、」
                  (文句略大綱私見聞)
「所詮顕本と云うは何事ぞと云うに、衆生成仏の本仏を顕す名なり。
その成仏とは自受用本覚の智体を名づけたり」
                   (二帖抄見聞)
「久遠の文点を久遠(もとのまま)とも久遠(つくろはず)とも読
むなり」
                   (文句略大綱私見聞)
特に最後の文献は「御義口伝」の「寿量品の第二十三久遠の事」と同じですね。(続く)

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高尾さんへ。3の1. No: 169
 投稿者:川蝉  00/06/14 Wed 16:45:11

高尾さん今日は。

>「仏説に合わず、経文とちがったことを云っているものは用いる
>な」と云われたもので、重点は「依彪仏説」にあり、ここでいう
>口伝とは人師の「荘厳己義の法門」を指されたものである。
>大聖人様の相伝書はそのようなたぐいのものではないのである。

「依彪仏説」の精神を酌み取れば、現在では、法華経と宗祖の正文
すなわち五大部・偽書論の無い御書を根拠とすべしと云う事になり
ます。
偽書或いは中古天台の本覚思想が強く混入していると指摘されてい
る所の「御義口伝」は、間違いのない相伝書とは率爾に云えないの
です。
我が宗門先師でも「御義口伝」を重用している先師がいますが、本
尊抄開目抄とうの教示に基づいて解釈し用いています。
だから、大石寺教学のように「御義口伝」から、荘厳己義の法門と
いわざるを得ない日蓮本仏論など構築する先師は出ませんでした。
「御義口伝」が文献上現れたのは要法寺日辰師(1508〜157
6)の「負薪記」が初出とされています。
「法華啓運抄」は祖滅210年に完成されたもの、「高祖年譜」は
祖滅499年に刊行されたものです。
「高祖年譜」に、仮に「延山蟄居の後御弟子衆の請いにより法華
経の御講釈あり、日興度々の聞を集め部帙を成して御義口伝と名づ
く・・正安二年九月(祖滅八年)日興上人重須大坊で御義口伝を講
ず。」と記述があったとしても、興門派の伝承をそのまま採用した
に過ぎないと云う事も推測できるのです。

だから祖滅226年以前に「御義口伝」が存在したと云う証拠には
ならないのです。
清水梁山先生は「本門の本尊は日本の天皇」などと主張したアブナ
イ先生で、異端視された学者です。
昭和定本は「御義口伝」や「御講聞書」も載せていますが真書とし
て居るわけではありません。
先師の内には什門の日鑑や清水龍山師のように、第二次的、補助的
に扱うべきとした人達も居ります。
田中智学居士や近世の大学匠優陀那日輝師等は重要祖典としていた
ものの「日蓮本仏論」を徹底批判しています。(続く)

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Libra様 No: 168
 投稿者:高尾  00/06/14 Wed 16:38:02

「日淳上人全集」を是非お読み下さい。必ず得るところがあります。
少し難しいですが、石田次男氏の「現代諸学と仏法」をお読み下さい。
信心とは我々が今まで学会や正宗から教わってきたことと抜本的に違うのです。
大聖人様の仏法は天台や釈尊を凌駕した独一本門なのです。学べば学ぶほど大聖人様
のありがたさに仏法の深さに感動するものなのです。

石田次男氏は「修行し、自分の信心の体験の上に根を生やしてやるべきです。
それで信行学の学が大事になるわけです。学は智慧と相い呼応した相応法なのです。
智慧の修行です。ですから、仏法の学というのは学ぶということではないのです。
習うということで、正確には実践で「修習」することです。」と。

大聖人様を末法の仏と仰ぐ最高の教えが他門流の方々にわかるわけがないのです。
是非「日淳上人全集」を読んで下さい。
そして、六巻抄を暗記するまで読んでから松戸氏の所論が正しいと云って下さい。
日寛上人は見事な成仏の相でお亡くなりになっているではありませんか。
人に教わろうとする教学ではだめです。御本尊様にお題目を唱えるとわからない
ことがわかるようになるのです。石田次男氏は自分の回りには教学をわかっている
人が戸田先生が亡くなってからはだれもいなかった。教学のわからないところに
なるとわかるまで御本尊様のもとで題目を唱えてねばった。そのうちにわかるよう
になったと。教学とは知識ではありません。信心のまなこを開くためにするもので
す。喝!。どうかご自分の信心を再度見直してください。人に頼ろう、教えてもら
おうという姿勢ではいつまでたっても大聖人様の御法門はわかりません。
剣豪の修行を思わせるほどの修行が学会伝統の教学精神ではないですか。
最後は自分だけです。悟るのも自分、迷うのも自分です。共々にがんばろうでは
ありませんか。

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Libra様 No: 167
 投稿者:高尾  00/06/14 Wed 14:59:50

少なくとも「御義口伝」においては「釈尊本仏」の立場だと僕は理解しています。

とありますが、松本佐一郎氏の「富士門徒の沿革と教義」81〜85ページにかけ
て、末法の仏は日蓮大聖人様であるとしています。そして、御義口伝は最も根幹的
な教義を述べられたものだとしています。
池田会長の「御義口伝講義」においても御義口伝は釈尊本仏ではなく日蓮本仏であ
る旨述べています。
どうか正信に帰って下さい。他門流の方に何を聞こうというのでしょうか。
大聖人様の正統な御法門をLibra様はすでに持っているのですから、御本尊様
に真摯にお題目を唱えて、松本佐一郎氏の著書や福重照平師の日蓮本仏論、三重秘
伝抄等の六巻抄をお読み下さい。
Libra様を見ていると、御本尊様から心が離れているのではと思います。
本当にすばらしい御本尊様をお持ちなのですから、信仰に真摯になってください。
信心というのは単に教学をどれだけ理解しているかという智解ではないはずです。
御本尊様を仏様として本当にありがたいというまごころだけが、信だけが仏になる
道ではないでしょうか。
日寛上人の六巻抄を軽視されておりますが、Libra様の教学でどれだけわかる
というのでしょうか。大学匠であられる日淳上人様でさえ何度も何度も読んではじ
めてわかったと云っています。本当の信心にめざめてください。お願い申し上げま
す。                                 敬具

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梵文を読める方へのお願い No: 166
 投稿者:Libra  00/06/14 Wed 11:30:33

 伊藤瑞叡氏は、『法華経』は

  正・像に続くsaddarma-pratiru ̄paka … antarhita という末法に
  相当する時期の観念をもっている。さらに他品では五濁悪世の時代意
  識を表わしてもいる。したがって法華経はそれらの意義において末法
  意識を抱くものであり、正像末三時を明確にシステム化しなかったと
  しても、三時の観念を有するものであるということが出来よう。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 229)

と言われていますが、氏の主張は成立しているのでしょうか?僕は梵文を
読めないので確認できません。果たして、「saddarma-pratiru ̄paka
… antarhita」(伊藤氏によれば「萩原本三一九頁・二三行」らしいで
す)という文は『法華経』が「正・像に続く」(法滅にいたるまでの)期
間(末法)の観念を持っていることを意味しているのでしょうか?
 
 梵文を読める方に教えて頂きたく思います。

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偽書判定の正統な手続きとは(Re: 偽書) Prev: 162 / No: 165
 投稿者:Libra  00/06/14 Wed 10:50:11

 おはようございます、shamonさん。

> 御義口伝は、宗祖講談を日興筆受とされていたが、興門徒による偽書若
> しくは加筆されたものである。「人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは
> 法華経に帰命し奉るなり」の部分は、正意であろう。

 shamonさんから見て、「御義口伝」の「正意でない」部分とは具体的
にはどのような箇所なのでしょうか?「御義口伝」で強調される「父子の
義」についてはどのように理解されるのでしょうか?

 あと、偽作論一般について言えば、「無作三身」という用語があるだけ
で短絡的に偽作だと決めつける「極端な偽作論」がありますが、この点に
ついてはどのように思われますか?「中古天台」を警戒する心情は理解で
きますが、いくらなんでも「あつものにこりてなますをふく」ではないで
しょうか。伝教大師も「守護国界章巻下之中」で「無作三身」という用語
を使われているわけですし。
 また、「三法相配釈」が論拠にされる場合もありますが、「三法相配釈」
もすでに中国でおきていますので、論拠たりえませんね。

  三道・三識・三仏性・三般若・三菩提・三大乗・三身・三涅槃・三宝・
  三徳・諸三法無量
  (「法華玄義巻第五下」、大正33、p.744)

  三密・三軌・三身・三仏性・三般若・三涅槃・三智・三徳等無量三法
  門
  (「金光明経文句巻第一」、大正39、p. 50)

> 1御義口伝は弘安元年戌寅正月一日、執筆日興在判とあるも、建治四年
>  二月二十九日に弘安に改元した故、日付からおかしい。
>
> 2御義口伝に宗祖滅後、シナで成立した徐氏の科註が引用されている故
>  に全くの時代矛盾である。

 高尾様の反論にはどのようにお答えになられますか?

#現在、メールのやりとりがストップしていますが、僕はもう「見捨てら
#れた」ということでしょうか?

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高尾様へ Prev: 163 / No: 164
 投稿者:Libra  00/06/14 Wed 10:19:22

 高尾様、おはようございます。

 高尾様がこの掲示板に参加して下さったこと、大変感謝しています。
これからもよろしくご指導下さい。

> 南無妙法蓮華経についての大聖人様の観心釈ですから、文義意をこころえて拝読
> しなければならないかと思います。

 「文義意をこころえて拝読しなければならない」というのはその通
りだと思います。
 「御義口伝」を素直に読む限りにおいてはやはり「釈尊」は文字通
り「釈尊」を指すと思われます。宗祖はご自分のことを言われる場合
にはきちんと「日蓮」あるいは「末法の導師」と表現されています。

  御義口伝に云く父に於て三之れ有り法華経釈尊日蓮是なり、法華
  経は一切衆生の父なり此の父に背く故に流転の凡夫となる、釈尊
  は一切衆生の父なり此の仏に背く故に備さに諸道を輪ぐるなり、
  今日蓮は日本国の一切衆生の父なり
  (「御義口伝」、全集、p. 726)

  慧日とは末法当今日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に
  約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊と申すなり法華経を又
  如日天子能除諸闇と説かれたり、末法の導師を如日月光明等と説
  かれたり
  (同上、p. 786)

  子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり世界とは日本国なり益とは
  成仏なり法とは南無妙法蓮華経なり、今又以て此くの如し父とは
  日蓮なり子とは日蓮が弟子檀那なり世界とは日本国なり益とは受
  持成仏なり法とは上行所伝の題目なり
  (同上、p. 803)

 その上で、

  御義口伝に云く世尊とは釈尊大恩とは南無妙法蓮華経なり、釈尊
  の大恩を報ぜんと思わば法華経を受持す可き者なり是れ即ち釈尊
  の御恩を奉じ奉るなり、大恩を題目と云う事は次下に以稀有事と
  説く、希有の事とは題目なり
  (同上、p. 727)

  人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経な
  り
  (同上、p. 761)

と言われています。
 確かに「百六箇抄」や「本因妙抄」では「宗祖本仏・釈尊脱仏」が
言われていますが、少なくとも「御義口伝」においては「釈尊本仏」
の立場だと僕は理解しています。

> 池田会長の「御義口伝講義」によれば、釈尊とは六種類あり、ここでは法華経本門
> 文底の釈尊すなわち日蓮大聖人様のことを仰せであり、法華経には三種の法華経が
> あり、末法の三大秘法の南無妙法蓮華経をいうとあります。

 池田名誉会長や戸田第二代会長は日寛教学を素直に信受される立場
だということでしょう。僕は松戸行雄氏のように、「日寛教学は止揚
されるべき」という問題意識をもっています。

> 御義口伝が偽書だという見解については、池田会長の「御義口伝講義」中に偽書に
> 関する疑難を破しているのでご覧願います。

 僕は「御義口伝」は偽書ではないと思っています。ただし、高尾様
と同じく、「後代の加添がないとは言えない」とも思っています。

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 Follow: 164 / No: 163
 投稿者:高尾  00/06/14 Wed 09:30:01

下記によりご判断を願いたい。

御義口伝が偽書だという見解については、池田会長の「御義口伝講義」中に偽書に
関する疑難を破しているのでご覧願います。御義口伝については、日蓮正宗だけで
なく、日蓮宗の大教学者であらせられます清水梁山先生も京都平楽寺版を校訂され
ております。また立正大学編纂の日蓮聖人遺文にも記載されております。そのほか、
不受不施派日正の金川妙覚寺版等があります。執行海秀氏の疑難により今でも一部
の者が疑難していると思います。科註四の文は大聖人滅後13年であり偽書である
と執行氏は言っていますが、堀日享上人は後の人の補註であると言われており、ま
た御義口伝は日付が弘安元年正月一日となっている。建治四年は二月に弘安と改元
されているのであって、正月一日から弘安を使うわけがないと疑難しているが、御
義口伝は大聖人様の講義を日興上人が加筆されたものであって、その講義も建治三
年の年末までで終わったとは言い切れない。ただ弘安元年正月一日が講義の一往の
終了の時期であったか。日付を後から入れる場合には、建治を使わずに、正月一日
から弘安を使うような例は他にもよくみられる。
御義口伝がいつごろから文献に引用等されているかをみると、日蓮聖人年譜「延山
蟄居の後御弟子衆の請いにより法華経の御講釈あり、日興度々の聞を集め部帙を成
して御義口伝と名づく」。正安二年九月(祖滅八年)日興上人重須大坊で御義口伝
を講ず。法華経啓運抄に「高祖御義にいわく云々」、本門法華宗本迹智論に「問う
御義口伝にいわく云々」等がみえる

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偽書 Follow: 165 / No: 162
 投稿者:shamon  00/06/13 Tue 21:44:14

御義口伝は、宗祖講談を日興筆受とされていたが、興門徒による偽書若
しくは加筆されたものである。「人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは
法華経に帰命し奉るなり」の部分は、正意であろう。

1御義口伝は弘安元年戌寅正月一日、執筆日興在判とあるも、建治四年
 二月二十九日に弘安に改元した故、日付からおかしい。

2御義口伝に宗祖滅後、シナで成立した徐氏の科註が引用されている故
 に全くの時代矛盾である。

ちなみに、清水梁山上人は、顕本法華宗の本多日生上人に折伏され、当
宗に籍を置いていた方でもある。

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口伝書 No: 161
 投稿者:高尾  00/06/13 Tue 16:04:52

開目抄の「伝教大師云依彪仏説莫信口伝」については、大聖人の御書を仔細に検索
してみると、口伝に関するもの少なしとしない。これほどまで口決相承を重んぜら
れた大聖人が、開目抄に口伝を信ずるなかれと云われたのは自語相違のようにも思
われるが、それはこの文だけを切り離して扱うから誤解を生ずるのであって、その
少し前から拝すればすべて氷解してしまう。
それはその前に華厳宗の杜順等が華厳法華の理同、法相の玄奘等が深密法華の法門
同、三論宗吉蔵等の般若法華体同、真言宗善無畏の大日法華理同、弘法の大日経第
一又ある人の華厳第一などの説をあげ、これに対して涅槃経の依法不依人の文によ
って「等覚の菩薩法門を説きたまうとも、経を手ににぎらざらんをば用うべからず」
と、いかなる智者学匠の云うことでも「仏説に合わず、経文とちがったことを云っ
ているものは用いるな」と云われたもので、重点は「依彪仏説」にあり、ここでい
う口伝とは人師の「荘厳己義の法門」を指されたものである。
大聖人様の相伝書はそのようなたぐいのものではないのである。
                   (「富士門徒の沿革と教義」より抜粋)

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日本の仏法 No: 160
 投稿者:高尾  00/06/13 Tue 15:40:44

1.御義口伝の文意
>「如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日
蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、さ
れば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と
云うなり」

「如来とは日蓮の弟子檀那なりとあるように、宗祖のみを如来としていません。妙
法受持し弘通する弟子檀那は末法の法華経の行者であるから如来であるとし、無作
の三身であると称えている文であって、宗祖のみを如来としてる文ではない。」

日寛上人は法華取要抄文段において、本地無作の三身について、「両重の総別」が
あると述べておられる。それによれば、本地無作三身とは、一には、総じてこれを
論ずれば一切衆生であり、別してこれをいえば、日蓮大聖人の弟子檀那である。
二には、総じてこれをいえば日蓮大聖人の弟子檀那、別してこれを論ずれば、ただ
日蓮大聖人のみが真実究境の本地無作の三身である。曾谷殿御返事にいわく「総別
の二義少しも相そむけば成仏思いもよらず輪廻生死のもといたらん」と。



>「御義口伝に云く過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり、
寿量品の教主とは、我等法華経の行者なり」

「寿量品の教主とは我等法華経の行者また我等が事とあって、妙法受持信行者一般
をさして寿量品の教主としている文です。宗祖のみを寿量品の教主と特定している
文ではありません。」

初めの釈尊は、一往、文上教相に約して「壽量品の教主」といい、次の「壽量品の
教主」は、再往、文底観心に約して「法華経の行者」といわれたのである。すなわ
ち法華経の行者とは日蓮大聖人であり、総じては、我等大聖人の弟子檀那もと言わ
れているのである。



>「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」

「この文も、末法の仏とは宗祖のみに限定している文ではありません。」

種脱相対して、末法下種の人本尊を明かした御文であり、即日蓮大聖人の御身をさ
す。外用と内証の二意に約さなければならない。「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧な
り」との仰せは、外用の上からかくいわれたもので、末法の仏は、姿の上からいえ
ば、決して色相荘厳ではなく、凡夫であり、凡夫僧の姿をしているのである、との
意である。しかるに、いかに身は示同凡夫の姿をしているとはいえ、内証をもって
いえば、久遠の自受用身である。



「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」とあって、妙
法受持弘宣する宗祖ならびに弟子檀那を総じて寿量品の本主と云っている文であっ
て、宗祖のみを寿量品の本主と限定している文ではない。

壽量品の教主。壽量文底の仏。印度の釈尊は「妙法五字」を悟って壽量品第十六を
説き明かしたのであり、根底はあくまでも「南無妙法蓮華経」である。したがって、
真実の壽量品の本主とは南無妙法蓮華経を説かれた文底の釈尊である日蓮大聖人の
ことである。また総じて南無妙法蓮華経と唱える大聖人の弟子檀那も壽量品の本主
とあらわれると仰せくださっている。



「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか、其の故は、此の品は在世の脱益な
り、題目の五字計り当今の下種なり、然れば、在世は脱益、滅後は下種なり、仍て
下種を以て末法の詮と為す云云。」の文は種脱相対を明確に仰せられたものである。
この御文を拝するならば、いま末法においては、釈迦仏法に力無く、ただ文底下種
の仏法こそ、一切衆生の皆成仏道である。



「御義口伝に云く、此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり、既に此の品の時
上行菩薩に付属し給う故なり」

この妙法蓮華経は、上行菩薩に付属された三大秘法の南無妙法蓮華経であって、釈
尊の法華経二十八品ではない。総じて、法華経自体、その正意は、まったく滅後末
法の三大秘法をあらわさんがためのものである。



「御義口伝に云く、如来とは本法不思議の如来なればこの法華経の行者を指す可き
なり、大施主の施とは末法当今流布の南無妙法蓮華経、主とは上行菩薩の事と心得
可きなり」

如来とは、本法不思議の如来、すなわち文底下種の南無妙法蓮華経の仏であるから、
末法出現の法華経の行者、日蓮大聖人をさすのである。大施主の主とは、外用にお
いては上行菩薩、内証は末法の御本仏たる日蓮大聖人である。



2.相伝書
一代聖教大意「この法華経は知らずして習い談ずる者は、ただ爾前の経の利益なり」
と。
また「この経は、相伝に有らざれば知り難し」と。正しく法華経を研究しようと思
うなら大聖人の相伝書である「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」等によって読
むべきである(戸田先生)。
百六箇抄「われらが内証の壽量品とは脱益壽量の文底の本因妙のことなり、その教
主はそれがしなり」「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり」と。

日蓮大聖人が、御義口伝に壽量品第十六の説法をされるのは、なにもこれらの文上
の壽量品の説明ではなくして、文底の壽量品、内証の壽量品を説くためである。
釈尊は、自分が南無妙法蓮華経によって仏になったことは内に秘し、外には菩薩道
(「我本行菩薩道」)を行じて仏になったと説いたのである(以上、池田会長「御
義口伝講義」より抜粋)。






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御義口伝 No: 159
 投稿者:高尾  00/06/13 Tue 10:12:42

御義口伝が偽書だという見解については、池田会長の「御義口伝講義」中に偽書に
関する疑難を破しているのでご覧願います。御義口伝については、日蓮正宗だけで
なく、日蓮宗の大教学者であらせられます清水梁山先生も京都平楽寺版を校訂され
ております。また立正大学編纂の日蓮聖人遺文にも記載されております。そのほか、
不受不施派日正の金川妙覚寺版等があります。執行海秀氏の疑難により今でも一部
の者が疑難していると思います。科註四の文は大聖人滅後13年であり偽書である
と執行氏は言っていますが、堀日享上人は後の人の補註であると言われており、ま
た御義口伝は日付が弘安元年正月一日となっている。建治四年は二月に弘安と改元
されているのであって、正月一日から弘安を使うわけがないと疑難しているが、御
義口伝は大聖人様の講義を日興上人が加筆されたものであって、その講義も建治三
年の年末までで終わったとは言い切れない。ただ弘安元年正月一日が講義の一往の
終了の時期であったか。日付を後から入れる場合には、建治を使わずに、正月一日
から弘安を使うような例は他にもよくみられる。
御義口伝がいつごろから文献に引用等されているかをみると、日蓮聖人年譜「延山
蟄居の後御弟子衆の請いにより法華経の御講釈あり、日興度々の聞を集め部帙を成
して御義口伝と名づく」。正安二年九月(祖滅八年)日興上人重須大坊で御義口伝
を講ず。法華経啓運抄に「高祖御義にいわく云々」、本門法華宗本迹智論に「問う
御義口伝にいわく云々」等がみえる。

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Libra様 No: 158
 投稿者:高尾  00/06/13 Tue 09:33:04

南無妙法蓮華経についての大聖人様の観心釈ですから、文義意をこころえて拝読
しなければならないかと思います。通途の釈尊、法華経なら何も大聖人様が今更
申し上げなくてもお弟子方は知っているわけです。
池田会長の「御義口伝講義」によれば、釈尊とは六種類あり、ここでは法華経本門
文底の釈尊すなわち日蓮大聖人様のことを仰せであり、法華経には三種の法華経が
あり、末法の三大秘法の南無妙法蓮華経をいうとあります。

蛇足ですが、末法の凡夫が法華経を拝読する心構えは、大聖人様の御相伝でありま
す御義口伝、百六箇抄、本因妙抄を踏まえた上で拝読しないと法華経は読めないと
戸田先生は仰せです。

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高尾様へ Prev: 152 / No: 157
 投稿者:Libra  00/06/12 Mon 09:26:39

 高尾様、おはようございます。

 高尾様は「御義口伝」を論拠にして「宗祖本仏」を主張されて
おられますが、「御義口伝」では冒頭で

  御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之
  れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉
  るなり
  (「御義口伝」、全集、p. 708)

と言い切られています。上の文を高尾様はどのように解釈されて
おられるのかご教示頂けないでしょうか。

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川蝉さんへ Prev: 153 / No: 156
 投稿者:Libra  00/06/12 Mon 09:17:18

 川蝉さんおはようございます。

> Libraさんは
> 日蓮聖人が、ご自分を釈尊の遣使還告の上行再誕であると意識され
> ていたとことは認識されていないのですか?。
> 遣使還告の上行再誕であるとすれば「国王」と「国王の任命を受け
> た全権大使」という比喩は少しも不適当でないですね。

 ええ。僕がお聞きしたかったのは、仮に「国王」と「国王の任命
を受けた全権大使」と表現する場合、その表現には「その三徳には
差がある」という意味が含まれているのかどうかという点でした。
前にSF研ですでに述べましたように、僕は、「宗祖は釈尊の弟子で
ある」ということは論証するまでもない自明のことと考えています。
その上で、「真の仏子」であられた宗祖の「三徳」とその父であら
れる釈尊の「三徳」に果たして差があるのでしょうかと確認の意味
で質問させて頂きました。

> 以前にも書いたと思いますが、「下山抄」に日蓮聖人ご自身が釈尊
> に順じた三徳者であるとされているのですから、そのままに受け取
> ったら良いとおもいます。

 明解なお答えありがとうございました。

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高尾さんへ。続きです。 No: 155
 投稿者:川蝉  00/06/11 Sun 14:19:17

続きです。

>「御義口伝に云く此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既
>に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣じて妙法蓮華経を
>上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り寿量品の時事顕れ神
>力属累の時事竟るなり」

>妙法は釈尊のものではなくなっているということ、末法は上行の
>世であることを言っているのではないでしょうか。

事の一念三千の証悟を他の者に教えたからと云って釈尊の証悟が空
っぽになって仏としての資格が無くなると云うようなものではない
です。
この文は、末法に於ける妙法弘通の全権を上行菩薩に任せたと云う
意味に受け取るべきです。
「本尊抄」に
「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を
以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(250頁)
とも、また「新尼御前御返事」にも
「上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて法華経本門の肝心たる妙
法蓮華経の五字をゆずらせ給いて」(905頁)
とあるように、上行菩薩等は無始の古仏釈尊の弟子であるから、
「召して」とか「召し出させ給いて」と表現してあるのです。

「曽谷入道等許御書」には上行菩薩等に末法弘通を命じた理由とし

「而るに地涌千界の大菩薩は・・二には釈尊に従って久遠より已来
初発心の弟子なり」(1032頁)
とあります。
「本尊抄」にも
「今の遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用
教の南無妙法蓮華経是なり」(251頁)
とあるように、宗祖はご自身を無始の古仏釈尊の使いとされていま。

たとえば助手に代講させたからといって教授が教授の地位や資格、
知識能力が無くなってしまうことはないように、必要に応じて弟子
の菩薩に弘通を命じたのであるから無始の古仏釈尊が本仏で無くな
ると云うような事はありません。
たとえば国王が全権大使を派遣しても、国王は国王であり、全権を
附せられても大使は大使であるように、上行菩薩に末法弘教を任せ
ても無始の古仏釈尊が本仏で、上行菩薩は弟子であり仏使でありま
す。


>「御義口伝に云く、如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経
>の行者を指す可きなり、大施主の施とは末法当今流布の南無妙法
>蓮華経、主とは上行菩薩の事と心得可きなり」

>末法の如来とは上行菩薩=日蓮を指すとのことです。

法華経の十界互具平等の経旨から云えば、釈尊や宗祖の、また一切
衆生の本質は無作三身如来いえます。妙法受持弘通者はその体たる
無作三身如来の用(働き)を分分に現している者です。その点を強
調し讃え励ます言葉が、「如来とは本法不思議の如来なれば此の法
華経の行者を指す可きなり、」等の文と理解すべきです。
宗祖の願行を手伝う弟子檀那も当然、南無妙法蓮華経の施を施す者
であり、特に宗祖はその先導・指導者であるから「主とは上行菩薩
の事と心得可きなり」とあるのです。

宗祖が無始の古仏釈尊に取って代わる本仏などと主張している文な
どと理解する事は「本尊抄」等に教示に背く大変な誤りです。

長くなり疲れましたので文章を推敲してませんが、よろしく御判読
ください。御書頁は創価学会版のものにしておきました。

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高尾さんへ No: 154
 投稿者:川蝉  00/06/11 Sun 14:14:51

高尾さん今日は。

>ご指摘のように法華経の文上でみますと釈尊本仏でありますが、
>注法華経は大聖人様の真言と思います。

「等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎざらんをば用ゆべ
からず。・・天台大師云はく『修多羅と合う者は録して之を用いよ
文無く義無きは信受すべからず』等云々、伝教大師云はく『仏説に
依憑して口伝を信ずること莫れ』等云云」(開目抄・219頁)

「法華経何れの文・人師の釈を本として仏教を捨てよと見えたるや
設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用
ゆ可からざるなり、」(立正観抄・528〜529頁)
と宗祖の戒めがありますね。
この厳戒に従わず法華経本門の文を無視し、偽作の疑い極めて強い
と指摘されている、また中古天台の観心づり解釈が混入していると
指摘されている「御義口伝」を一方的に根拠として、宗祖の正義を
求めようとする方針は首肯できません。

本尊抄等の五大部ならびに真蹟存や偽書論のない御書の教示は、法
華経本門の文が教示してあると同じく無始の古仏釈尊を本仏と教示
してあります。

>如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三
>身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別
>しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経
>の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」

>上文によれば、末法の法華経の行者すなわち日蓮大聖人を末法の
>仏という意です。

如来とは日蓮の弟子檀那なりとあるように、宗祖のみを如来として
いませんね。妙法受持し弘通する弟子檀那は末法の法華経の行者で
あるから如来であるとし、無作の三身であると称えている文であっ
て、宗祖のみを如来としてる文ではないですね。


>「御義口伝に云く過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量
>品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、
>さては我等が事なり今日蓮等の類いは不軽なり云云」
>上文も釈尊=寿量品の教主=法華経の行者=日蓮と、釈尊日蓮一
>体不二と理解します。

寿量品の教主とは我等法華経の行者また我等が事とあって、妙法受
持信行者一般をさして寿量品の教主としている文ですね。宗祖のみ
を寿量品の教主と特定している文ではありません。


>「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等
>行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」

>上文の凡夫とはほかならぬ大聖人様です。特に「末法の仏とは」
>が極めて重要視されます。

この文も、上記の文から推すれば、末法の仏とは宗祖のみに限定し
ている文ではありませんね。

次に引証として挙げられた「御義口伝」の文にも
「然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我
と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり、今日蓮等の類い
南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、」
とあって、妙法受持弘宣する宗祖ならびに弟子檀那を総じて寿量品
の本主と云っている文であって、宗祖のみを寿量品の本主と限定し
ている文ではないですね。
            続く

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Libraさんへ Follow: 156 / No: 153
 投稿者:川蝉  00/06/09 Fri 21:09:48


Libraさん今晩は。

> 「教授」と「助手」、あるいは 「国王」と「国王の任命を受け
>た全権大使」という比喩が用いられていますが、「釈尊が備える
>三徳」と「(法華経を色読され如説修行された)宗祖の備える三
>徳」に差があると考えるべきなのでしょうか?宗祖は「教主釈尊
>のごとく法王」になられたと考えてはいけないのでしょうか?

Libraさんは
日蓮聖人が、ご自分を釈尊の遣使還告の上行再誕であると意識され
ていたとことは認識されていないのですか?。
遣使還告の上行再誕であるとすれば「国王」と「国王の任命を受け
た全権大使」という比喩は少しも不適当でないですね。

「悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ」
(顕仏未来記509頁)
「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」
(本尊抄253頁)
「令初発道心とて幼稚のものども・なりしを教化して弟子となりな
んど」(開目抄212頁)
等とあるように、ご自身を釈尊の弟子として位置づけられています。

内証は釈尊と同等でも、本有の菩薩として永遠に菩薩という因位の
姿を採る菩薩なのです。すなわち本有の菩薩界の菩薩です。もっと
も初住位の菩薩でさえ必要有れば、時には仏身を現じることが出来
るとされていますから(たとえば観音菩薩の三十三身の中に仏身が
有るようなものです)、まして最高位の本化菩薩ですから、仏身を
現じることも出来るわけです。

以前にも書いたと思いますが、「下山抄」に日蓮聖人ご自身が釈尊
に順じた三徳者であるとされているのですから、そのままに受け取
ったら良いとおもいます。

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 No: 152
 投稿者:高尾  00/06/09 Fri 15:43:01

川蝉様、ご返事ありがとうございます。

法華経の注釈書である大聖人口伝、日興上人述の御義口伝をもとに考えてみます。御義口伝については、真偽の問題がありますが、
私は真という立場で使用させていただきます。真の理由は松本佐一郎氏の「富士門徒の沿革と教義」に基づいております。

「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事 文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり別しては本地
三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世二仏三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。御義口伝に云く此の品の題目
は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮
等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作
の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」

上文によれば、末法の法華経の行者すなわち日蓮大聖人を末法の仏という意です。


「御義口伝に云く過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、
さては我等が事なり今日蓮等の類いは不軽なり云云」

上文も釈尊=寿量品の教主=法華経の行者=日蓮と、釈尊日蓮一体不二と理解します。


「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」

上文の凡夫とはほかならぬ大聖人様です。特に「末法の仏とは」が極めて重要視されます。


「第三 我実成仏已来無量無辺等の事 御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり
十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、惣じては迹化の菩
薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり、彼は迹表本裏此れは本面迹裏然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり
題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す云云。」

「在世は脱益、滅後は下種なり、下種を以て末法の詮と為す」と在世の利益と末法下種の利益は異なることを述べています。


「御義口伝に云く此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣じて妙法蓮華
経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り寿量品の時事顕れ神力属累の時事竟るなり」

妙法は釈尊のものではなくなっているということ、末法は上行の世であることを言っているのではないでしょうか。


「御義口伝に云く、如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり、大施主の施とは末法当今流布の
南無妙法蓮華経、主とは上行菩薩の事と心得可きなり」

末法の如来とは上行菩薩=日蓮を指すとのことです。


類文は他にもありますが省略いたします。
注法華経である大聖人様直々の口伝によりますなれば、末法の仏は日蓮なりという
ことではないかと拝察いたします。
ご指摘のように法華経の文上でみますと釈尊本仏でありますが、注法華経は大聖人様
の真言と思います。

駄文を要しまして大変失礼申し上げます。ご叱正の程よろしくお願い申し上げます。
                                   敬具        

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川蝉さんへ(横レスです) Prev: 150 / No: 151
 投稿者:Libra  00/06/09 Fri 11:35:32

 横レス失礼します。

> 譬えれば、教授(本仏釈尊を譬える)と代講する助手(本化菩薩)の
> 関係とか、
> 国王(本仏釈尊を譬える)と国王の任命を受けた全権大使(本化菩薩)
> の関係です。

 「教授」と「助手」、あるいは 「国王」と「国王の任命を受けた
全権大使」という比喩が用いられていますが、「釈尊が備える三徳」
と「(法華経を色読され如説修行された)宗祖の備える三徳」に差
があると考えるべきなのでしょうか?宗祖は「教主釈尊のごとく法
王」になられたと考えてはいけないのでしょうか?

  舎利弗よ、当に知るべし われ、本、誓願を立て
  一切の衆をして われの如く等しくして、異ることなからし
   めんと欲せり。
  わが昔の所願の如きは いま、已に満足し
  一切衆生を化して 皆、仏道に入らしめたり。
  (「方便品」、岩波版『法華経(上)』、p.108)

  経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉
  等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全
  体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ
  師 子王とならず、師子王の子は師子王となるいまだ人王天王等
  とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈
  尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべから
  ず
  (「日妙聖人御書」、全集、p.1216)

 我々衆生も、法華経を色読し如説修行することによって「教主釈
尊のごとく法王」になれると信じて「南無妙法蓮華経」と唱えるこ
とが「生死一大事の血脈」ではないのでしょうか?

  久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差
  別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈と
  は云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持
  つとは是なり
  (「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)

  信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
  (同上、p.1338)

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高尾さん初めまして。 Follow: 151 / No: 150
 投稿者:川蝉  00/06/09 Fri 09:49:10

高尾さん初めまして。
横から失礼します。

>釈尊本仏論が正しいというお考えにつきまして教えて頂けないで
>しょうか。(高尾さん 06/07 投稿)

「仏教には経論にはなれたるをば外道と云う」
                (蓮盛抄・昭定19・真無)
「但、真実の依文判義は本門に限るべし」
                (十章抄・昭定489真蹟)
とありますので、本門に基づいて、述べてみます。

寿量品に至って釈尊の正体は久遠本仏であると明かされました。久
成釈尊の他に、さらに以前の別仏としての本仏が存在するなどとは
説かれていません。
自我偈にも説いてある通り、釈尊を通してと云うか、釈尊に重ねて
仰ぐ本仏は常住不滅の仏であるとされています。永遠に本仏として
衆生の化導救済の活動をして行く仏ですから、末法になったら本仏
でなくなると云うような道理はありません。

涌出品には明確に本化の菩薩はこの本仏の弟子であると説かれてい
ます。
神力品に於いて、釈尊は本化の菩薩に要法五字を末法に弘通する事
を命じています。
譬えれば、教授(本仏釈尊を譬える)と代講する助手(本化菩薩)の
関係とか、
国王(本仏釈尊を譬える)と国王の任命を受けた全権大使(本化菩薩)
の関係です。

助手や全権大使が、その役目を果たしだしたら、教授や国王が消失
してしまうとか、地位を失なうことはありません。

ですから末法になって本化の菩薩が妙法五字を広めるようになって
も本仏釈尊が本仏で無くなるとか、本仏の資格が無くなるとか云う
事はあり得ません。

上行菩薩(最初の仏)の教化をうけて、釈尊は仏になったなどとい
う事は法華経の何処にも説かれていません。
もし、
「教導を受けなければ成仏できないのであるから、釈尊を教導した
仏が居たはずである。それが本因妙の上行菩薩(最初の仏)である」
と云うなら、ではその最初の仏(本因妙の上行)を教導した仏を、
さらに想定しなければならず無窮に遡らなければならなくなりまし
ょう。

五百塵点劫以前よりさらに百千万億那由佗阿僧祇劫の昔であると、
本仏釈尊の成道の時を説いていますが、「たとえば」と有るように、
譬えようのない昔とか無始と語るだけでは象徴的すぎるので、五百
塵点劫以前と云う数量をもって、想像せしめているものと思います。

大石寺教学では
「いかほど無限の数量であっても、理論的には初めがある。成仏す
る為の修行期を想定しなければならない。その修行期が久遠元初の
本因妙の上行菩薩なのである。因によって果があるのだから、本果
の釈尊より、本因妙の上行菩薩の方が根本・元である。
で、日蓮大聖人はその本因妙の上行菩薩の再誕であるから、末法の
御本仏なのである」
と云うような事を主張するようですね。
しかし、考えてみると、
因行の時の者と果位を得たものと別な者と分けることは出来ません。
たとえば私の子供時代を因とし、現在の私を果とすれば、現在の私
の外に子供時代の私は居ません。
果位の釈尊の中に修業時代の釈尊は内含されています。果位の釈尊
を崇める事は同時に修業時代の釈尊をも崇めることでもありましょ
う。

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置時計様へ(Re: Libra様、お元気そうでなによりです) Prev: 147 / No: 149
 投稿者:Libra  00/06/08 Thu 17:11:50

 置時計様、こんにちは。貴重なコメントありがとうございまし
た。

 さきほど、置時計様の掲示板をはじめてのぞかせて頂きました。

  >半可通が教学をふりまわすのが、当たり前になっています。
  >これは、学会教学の悪しき影響だと思います。

との言葉が胸に深く突き刺さりました。僕みたいな人間を「教学
をふりまわす半可通」と言うのでしょう。もっと勉強しなければ
いけないと思いました。みなさまにご挨拶をとも思いましたが、
僕のような人間が書き込む場所ではないような気がしましたので
やめました。「沈黙の小部屋」というところの「共有フォルダ」
の資料をこれから読ませて頂こうと思っています。

 置時計様は大変な研究家だと推測しています。僕の主張の問題
点等を僕のレベルでも分かるように具体的に指摘して頂ければあ
りがたく思います。

> 福重照平『日蓮本仏論』は、当代になってから増刷の許可がお
> りていないようです。古本屋でも万を越す価格で売られていま
> すし、『日蓮本仏論辞典』付は、もっと高くなっています。
> 戒壇に関する記述などで問題があったようにも聞いております。

 幸い、福重照平著『日蓮本仏論』も京大にあるようです。たぶ
ん浅学の僕などにはとても読みこなせない研究書だろうと推測し
ますが、一度ながめてみようと思います。

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高尾様へ Prev: 146 / No: 148
 投稿者:Libra  00/06/08 Thu 16:36:55

> お読みください
> おのずから判断できるかと思います

 わざわざご返答ありがとうございました。

 ところで、高尾様は日蓮正宗の方なのでしょうか。だとす
れば、僕の「日寛教学を否定」等の言葉に対してお怒りかと
思います。にもかかわらずこのように丁寧の応接して頂いた
こと、心より感謝いたします。

 僕の主張には不勉強故の様々な誤りがあると思います。誤
りをご指摘頂ければ幸いです。

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Libra様、お元気そうでなによりです Follow: 149 / No: 147
 投稿者:置時計  00/06/08 Thu 14:39:32

横レス失礼いたします。
福重照平『日蓮本仏論』は、当代になってから増刷の許可がおりていないようです。
古本屋でも万を越す価格で売られていますし、『日蓮本仏論辞典』付は、もっと高くなっています。
戒壇に関する記述などで問題があったようにも聞いております。 合掌

http://www63.tcup.com/6330/okidokei.html

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 Follow: 148 / No: 146
 投稿者:高尾  00/06/08 Thu 11:57:48

お読みください
おのずから判断できるかと思います

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Re: 牧口、村上両氏の引用は Prev: 143 / No: 145
 投稿者:Libra  00/06/08 Thu 11:36:58

> 「現代日本思想大系」(築摩書房)7巻「仏教」からです。
> 「価値論」には昭和6年、同28年の両版あり、この本所収のは28年版です。
> 引用箇所は第6章第4節です。

 ありがとうございました。幸い上記『仏教』は京大にあるようなので早速
読みにいきたいと思います。第三文明社の『牧口常三郎全集』に入ってない
かどうかも探してみます。

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高尾様 Prev: 142 / No: 144
 投稿者:Libra  00/06/08 Thu 11:23:27

> 福重照平師は日蓮正宗の戦前の御僧侶です。日蓮本仏論という著書を
>
> 著しました。

 そうだったのですか。ご教示ありがとうございました。高尾様ご自身
は「日蓮本仏論」をどのように評価されておられるのでしょうか?

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牧口、村上両氏の引用は Follow: 145 / No: 143
 投稿者:顕正居士  00/06/07 Wed 16:23:49

「現代日本思想大系」(築摩書房)7巻「仏教」からです。
「価値論」には昭和6年、同28年の両版あり、この本所収のは28年版です。
引用箇所は第6章第4節です。

「現代日本思想大系」・「仏教」(初版・昭和40年)は古書店で発見したら
値段を気にせず買ってよい本です。収録内容が(抄録ですが)凄いのです。
便利です。但し、抄録の上、漢字仮名を改め、更に難読字をかな書きして
いるので、論文に引用は出来ません。

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 Follow: 144 / No: 142
 投稿者:高尾  00/06/07 Wed 16:21:57

福重照平師は日蓮正宗の戦前の御僧侶です。日蓮本仏論という著書を

著しました。

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横レスです(Re: 高尾さんへ) Prev: 137 / No: 141
 投稿者:Libra  00/06/07 Wed 13:11:14

 shamonさんへの横レスです。

> 凡夫こそが「真の仏」だと屁理屈をこねて、えさったところで何になる
> と言うのでしょうか。凡夫が仏なるように努めるのが大乗仏教です。

 修行が必要なのは当然です。僕は修行が不要だとは一言も言ってませ
ん。

> 凡夫本仏論は、大乗仏教では当たり前などと云うLibra
> さんには、いつ権威ある仏教学者になったのだと、鉄槌を加えたいぐら
> いです。(笑)

 どんな凡夫でも菩薩行によって仏になれることを説くのが大乗仏教でし
ょう。

> 「大般涅槃経四十巻其の他の法華経前後の諸大乗経、一字一句もなく法
> 身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」開目抄

 報身は法身と不二而二の関係にある(境智冥合)し、応身は報身と不
二而二の関係にある(色心不二)わけです。ですが、だからと言って、
応身も報身も「無始無終」ということにはならないでしょう。

> 法身は真理(人格身ではない)そのものであり無始無終は当たり前で、
> それまで報身は有始無終、応身は有始有終とされていたものを、何故
> 天台大師や宗祖は、法華経では報身応身も無始無終であると説かれて
> いると云われるのか理解しようとしないから、上記のような混乱から
> 抜け出ることがないのでしょうね。

 「無始以来存在する人格的存在」は明らかに人間ではないでしょう。
そこでは釈尊は完全に神格化されています。それがいわゆる「神」と
どうちがうのか教えて頂きたく思います。

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顕正居士へ(Re: 報身仏の否定) Prev: 136 / No: 140
 投稿者:Libra  00/06/07 Wed 12:51:49

 こんにちは、顕正居士。
 いろいろ生意気なことを言ってしまったので嫌われてしまった
かと思っていました。

> −世間には「神も仏もない」といっている人がいる。これに対してわれわれも
> 権教方便の神や仏はいないと主張する。(略)われわれの生活は肉体と精神
> の他に霊とか魂とか名づけるものがあって、現実の生活を支配したり、死後
> も天に昇って不滅であるという考えは科学的に実証されないから誤りである−
> (牧口常三郎「生活指導原理としての価値論」)
>
> 第二代戸田城聖の時代に宗教化が行なわれ、第三代池田大作の時代以降、
> 再び非宗教化しつつあるように見える創価学会であるが、初代会長の牧口は
> 無神論・無霊魂論を標榜していたようだ。

 初代牧口会長は「無神論・無霊魂論」だったのですね。御紹介あ
りがとうございました。上の引用はどの文献からなのか教えて頂け
ないでしょうか。

> 報身仏の存在を正面から否定したのは村上専精である。
> −釈迦を論じて人間なりとし、また仏身を論じてこの釈迦以外に具体的なる
> ものあることなし、いわゆる報身仏なるものは、畢竟理想界の抽象的形容に
> 過ぎざるものと断定せり−「仏教統一論」
> *村上専精 1851〜1929 東京帝国大学教授。大谷大学長。

 別に「報身仏」そのものを否定する必要はないと僕は思います。
「報身」とは「仏智」であるときちんと位置づけさえすれば「無神
論・無霊魂論」に抵触することはないという考えです。

 興師は題目を「仏智」と位置づけられていたと理解しています。
 
               ┌─虚空不動慧
  一 本門寿量(ノ)妙法蓮華経─┼─名(二)自受用(ノ)本分(一)
               └─無作円慧
  (「三大秘法口決」、日蓮宗宗学全書第二巻、p.46)

  題目ヲ書ク事ハ釈迦ノ智慧ヲ顕ス也
  (「引導秘決」、同上、P. 67)

> 村上専精の仏教統一思想に関する文章を発見。
> 「仏教一貫論の系譜」
> http://www.1134.com/matsuoka/ikkanron.html
> 著者は創価学会員のようである。

 これから見に行ってみます。学会員もがんばってますね。

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高尾様へ(Re: お礼) Prev: 135 / No: 139
 投稿者:Libra  00/06/07 Wed 11:47:45

 高尾様、こんにちは。

> 福重師等は日蓮本仏論を述べています。

 誠に不勉強なもので、福重師を存じ上げません。どのような方
なのでしょうか。また、高尾様ご自身はどのようなお立場の方な
のでしょうか、差し支えなければお聞かせ頂けませんでしょうか?

> 宗門及び学会の公式見解は、日蓮久遠本仏論であると思います。

 そうですね。少なくとも学会は現在も日寛教学に立脚していま
す。松戸氏は明確に日寛教学を否定していますが、そのような立
場はいわば「黙殺」されているようです。

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shamon様へ No: 138
 投稿者:高尾  00/06/07 Wed 10:56:50

shamon様
ご懇切なご返事ありがとうございます。

釈尊本仏論が正しいというお考えにつきまして教えて頂けないでしょうか。


それから、「法身は真理(人格身ではない)そのものであり無始無終は当たり前で
、それまで報身は有始無終、応身は有始有終とされていたものを、何故天台大師や
宗祖は、法華経では報身応身も無始無終であると説かれていると云われるのか」
につきまして、

報身も応身も無始無終であるというのはどういう論理展開からそういえるのでしょ
うか。教えて下さい。

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高尾さんへ Follow: 141 / No: 137
 投稿者:shamon  00/06/07 Wed 00:50:53

日蓮本仏論

世界宗教であるところの仏教に於いて、日蓮聖人こそが釈尊など及びも
しない久遠元初の本仏などという奇想天外な教義を持ち出すこと事態、
ナンセンスとであると気が付かないところがカルトなる故でありましょ
うね。それを正当化せんがための経典や御遺文の歪曲に至っては、日蓮
聖人の教えをカルトに貶める許せない行為であり、我田引水の子供の屁
理屈以上の何物でもないと言えます。ややさがって、紀元前六世紀の仏
は釈迦であったが、釈迦はもう死んだのであって、末法の仏は日蓮聖人
だというのも、釈迦は滅するが日蓮は永遠であるという、仏教として論
議するのも馬鹿馬鹿しい矛盾に基づくものでありましょう。

凡夫本仏論

日蓮を本仏とし、その弟子創価学会の信者は、釈迦よりも偉い「地涌の
菩薩だ」と誤れる自尊心を植えていたものです。現学会は正宗の権威を
疎んじ、これを攻撃する立場から、凡夫と本仏の差別を認める正宗の日
蓮本仏を否定するために、創価学会の信者は、釈迦よりも偉い「真の仏」
日蓮聖人も「真の仏」、人間は「真の仏」という御都合主義を唱えてい
るに過ぎません。

凡夫こそが「真の仏」だと屁理屈をこねて、えさったところで何になる
と言うのでしょうか。凡夫が仏なるように努めるのが大乗仏教です。
「真の仏」なら、何を努める必要もなく、心が裕に変わることもなく、
それによって人生が開けるわけでもなく、世の中が良くなるわけでもあ
りません。釈尊の教えを無益化することに、全く気が付いていない戯論
でありましょう。凡夫本仏論は、大乗仏教では当たり前などと云うLibra
さんには、いつ権威ある仏教学者になったのだと、鉄槌を加えたいぐら
いです。(笑)

松戸氏が言うような「有神論的人格」という仏の実在、無知なる故の勝
手な解釈に基づく釈尊を、法華経や宗祖が説いているわけではありませ
ん。また、Libraさんが言うような「有始無終」の報身(彼は宗祖の取
る報身を人格的実在と認めながら、人格的実在ではない智慧の結晶とい
う)のみを釈尊というのでもありません。

「大般涅槃経四十巻其の他の法華経前後の諸大乗経、一字一句もなく法
身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」開目抄

法身は真理(人格身ではない)そのものであり無始無終は当たり前で、
それまで報身は有始無終、応身は有始有終とされていたものを、何故
天台大師や宗祖は、法華経では報身応身も無始無終であると説かれて
いると云われるのか理解しようとしないから、上記のような混乱から
抜け出ることがないのでしょうね。

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報身仏の否定 Follow: 140 / No: 136
 投稿者:顕正居士  00/06/06 Tue 22:59:40

−世間には「神も仏もない」といっている人がいる。これに対してわれわれも
権教方便の神や仏はいないと主張する。(略)われわれの生活は肉体と精神
の他に霊とか魂とか名づけるものがあって、現実の生活を支配したり、死後
も天に昇って不滅であるという考えは科学的に実証されないから誤りである−
(牧口常三郎「生活指導原理としての価値論」)

第二代戸田城聖の時代に宗教化が行なわれ、第三代池田大作の時代以降、
再び非宗教化しつつあるように見える創価学会であるが、初代会長の牧口は
無神論・無霊魂論を標榜していたようだ。

報身仏の存在を正面から否定したのは村上専精である。
−釈迦を論じて人間なりとし、また仏身を論じてこの釈迦以外に具体的なる
ものあることなし、いわゆる報身仏なるものは、畢竟理想界の抽象的形容に
過ぎざるものと断定せり−「仏教統一論」
*村上専精 1851〜1929 東京帝国大学教授。大谷大学長。

村上専精の仏教統一思想に関する文章を発見。
「仏教一貫論の系譜」
http://www.1134.com/matsuoka/ikkanron.html
著者は創価学会員のようである。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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お礼 Follow: 139 / No: 135
 投稿者:高尾  00/06/06 Tue 17:29:36

Libra様
ご懇切なるレス大変ありがとうございました。

福重師等は日蓮本仏論を述べています。

宗門及び学会の公式見解は、日蓮久遠本仏論であると思います。

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久遠本仏は否定します(Re: 釈尊本仏か日蓮本仏か) Prev: 133 / No: 134
 投稿者:Libra  00/06/06 Tue 13:54:01

 はじめまして、高尾さん。

> Libraさんとshamonさんとの、釈尊本仏か日蓮本仏かは
> 結局のところ、どうなのでしょうか。
> 学識がないので迷っています。教えて下さい。

 僕の説明がまずかったせいで誤解させてしまったようですね。申し
訳ありませんでした。

 僕自身は「宗祖本仏」とは主張していません。僕がこれまで主張し
てきたのは、「本仏=真の仏」という意味での「凡夫本仏論(=人間
真仏論)」です。これは大乗仏教である以上はあたりまえのことです
から、本来はあえて明確に主張するまでもないことなのですが、「有
神論的立場」に対抗するためにあえて強調しています。

 「本仏」という言葉を「最初の(根本の)仏」と言う「本来の意味」
で使うならば、釈尊が「本仏」です。興師も

  題目ヲ書ク事ハ釈迦ノ智慧ヲ顕ス也
  (「引導秘決」、日蓮宗宗学全書第二巻、P. 67)

と言い切っておられます。

 日寛教学は「宗祖久遠本仏」の立場に立ちますが、松戸氏の「凡夫
本仏論(=人間真仏論)」は日寛教学の「宗祖久遠本仏論」を明確に
否定しています。というよりは、「久遠本仏」そのものを否定してい
ると言った方がいいでしょう。

   さて、この「既に常に同時に完成された人格的実在性」・「永
  遠なる実在」たる「久遠元初の三身円満の報身」だが、これは絶
  対に理解できない事柄なのである。私は叫びたい。理解できない
  のが当然である、否、理解する必要はない、と。なぜなら、この
  久遠本仏は単なる想像の所産であり、「神学」の領域の議論であ
  り、「仏教」を否定しているからである。これこそ知性を否定す
  る玄妙な禅的境地にほかならない。
   このような永遠の仏が久遠元初に想定されてしまう限り、そし
  てそれが仏教思想だと思惟される限り、大聖人が末法に人間とし
  て人間のために生き抜いた偉大な凡夫であったという主張は許さ
  れないのであろう。
  (松戸行雄『日蓮思想の革新』、論創社、1994年、p.127)

   どう考えても、久遠の昔に人格、すなわち「有神論的人格」と
  しての仏が実在したとは想像できないし、仏教に反すると思って
  いる。一歩譲って、日蓮大聖人が、当時の科学知識の限界から、
  久遠実成を比喩とか虚構ではなく、事実として起こった出来事と
  して把握していたとしても、人格が面になるのは矛盾である。大
  聖人は文上の久遠実成の釈尊に即して、そこに普遍的な法を観て
  いるからである。ましてや、大日如来や阿弥陀仏を批判する大聖
  人が自分自身を久遠本仏に祭り上げることはありえない。
  (同上、p.160)

 僕自身は、人本尊としては基本的には「釈尊本仏」の立場ですが、
その場合の釈尊とは「インド生誕の人間・釈尊」です。従って、
「釈尊久遠本仏論」は否定します。しかし、宗祖の立場は「報身正意」
です。報身とは「釈尊の智慧」である以上、「人格的実在」であると
も言えると思います(この点は松戸氏の立場とは少し違うようです)。
ただし、「人格的実在」と言っても「意志や自意識をもって存在し続
ける霊魂」のようなものではなく、あくまでも、『法華経』という経
典のなかに残された「釈尊の智慧・経験」の結晶ということです。
 ただし、宗祖も三徳を備えられています。よって、宗祖を「末法の
御本仏」と仰ぎます。

 shamonさんは「報身」も「無始無終」だと言われますが、僕
は、「報身」は「インド生誕の釈尊の智慧」であり、「有始無終」だ
と考えます。

  四世紀ごろまでは右のような二身説がつづくが、ヴァスバンド
  ゥ(Vasubandhu 世親 約三二〇ー四〇〇)の『法華経論』
  には、三身説が見えてくる。応身(ニルマーナ・カーヤ
  nirma[ ̄]na-ka[ ̄]ya)・法身(ダルマ・カーヤ
  darma-ka[ ̄]ya)・報身(サンボーガ・カーヤ
  sam[.]bhoga-ka[ ̄]ya)の三つである。応身は具体性をおび
  ているが有始有終、法身は無始無終の普遍性にとむが抽象的、
  そこで両者の長短をおぎなうべく報身が立てられるに至ったの
  である。報身は、いわば普遍的にして具体的なるものである。
  因行果徳身といわれるゆえんである。仏身論は、三身説が出る
  にいたって、いちおうの完成を見たといえよう。
  (田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、
   pp. 93-94) ※故田村博士は立正大学の教授でした。

 宗祖にとって御本尊は題目であり、題目は「インド生誕の釈尊」が
「説きおかせ」られたものです。実際、曼陀羅には「仏滅後五百塵点
劫」とは書かれていません。

  此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間一閻
  浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほ
  ぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給
  うべき時にあたりて候へ
  (「本尊問答抄」、全集、p.373)

#shamonさんのお立場については直接shamonさんから
#お聞きになられた方がよいと思います。
#shamonさんは御僧侶ですから、きちんと教えて下さいます。
#メールアドレスを公開されていますのでメールで質問されてはど
#うでしょうか?→shamon@mvj.biglobe.ne.jp

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釈尊本仏か日蓮本仏か Follow: 134 / No: 133
 投稿者:高尾  00/06/06 Tue 10:23:32

Libraさんとshamonさんとの、釈尊本仏か日蓮本仏かは
結局のところ、どうなのでしょうか。
学識がないので迷っています。教えて下さい。

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批判仏教(Re: 元気そうでなによりです) Prev: 131 / No: 132
 投稿者:Libra  00/06/05 Mon 10:15:44

 貴晃さん、おはようございます。お久しぶりですね(^_^)。

 最近はどうされてますか?

> Beat Me !頑張るぞ!
> という投稿をしたのは、私です。

 そうでしたか(^_^;)。

> 声援のつもりだったのですが、
> お気を悪くされましたか?申し訳ない。

 アラシの仕業かと思って速攻削除してしました。掲示板
ではよくあることなので別に気にしてませんでした(^_^)。

 ところで、貴晃さんはチベット系の仏教に興味を持たれ
ていると推測しますが、一度、きちんと松本氏や袴谷氏の
著作を真剣に勉強されてはどうでしょうか。

   ところで、知性や言葉による「あれかこれか」の決
  着の場で分が悪くなるとすぐ「宗教体験」に訴えたが
  る人の多いのが世の常かもしれないが、中沢新一氏が
  流行るのも、彼の発言の基盤がチベット僧ケツン・サ
  ンポ師について実修されたゾクチェンの瞑想体験にあ
  ると世に一般受けしているせいなのかもしれない。そ
  こで、正邪の決着に絡めて、仏教の瞑想である「定
  (sama[ ̄]dhi、三昧)」や「禅(dhya[ ̄]na)」に
  ついて一言しておけば、いかに「定」や「禅」に耽っ
  たからとて、それ自体によって仏教の正邪もしくは真
  偽を決することは決してできないということを銘記し
  ておくべきである。正邪を決するのは必ず「慧(
  prain[~]a[ ̄]、知性)」でなければならないのであっ
  て、その逆であることは決してありえない。仏教の整
  備されたある実践体系においては、以上の二つに「戒
  (s[’]i[ ̄]la)」を加えた「三学
  (s[’]iks[.]a[ ̄]-traya)」の中で、「定」と「慧」
  とが並存するかのように言われる場合もあるが、額縁
  の大きさが決ったからといってそこに入る絵はただ一
  つではなく幾通りもあるように、「定」によって心が
  調えられたからといってそこに正しい一つの「慧」だ
  けが自ずと住み着くわけのものではなく、邪見ですら
  いつでも取り着くのである。正しく知らんがためには、
  正しい仏教の教え(saddharma、妙法)だけを聞いて
  正邪を決する「慧」を錬成すべく日々努めねばならぬ
  ことは言うまでもあるまい。
  (袴谷憲昭『批判仏教』大蔵出版、1990年、
   pp. 314-315)

  「一なる本覚」の離念の世界に踏ん反りかえって得意
  になり、そこで体得された「真如」は言葉によっては
  表現できないとする本覚思想は、「信仰(sadda[ ̄]、
  s[’]raddha[ ̄])」や「知性(pan[~]n[~]a[ ̄]、
  prajn[~]a[ ̄])」を全く軽視して言葉を無視するが、
  仏教は、釈尊の「知性」によって考え抜かれた「縁起」
  の教えが始めて説かれたことに由来するのであり、
  『律蔵』「大品」に見るように、その当初より、「お
  よそ耳もてしものたちすべてに甘露の門は開かれたり、
  信仰を向けよ。」と言葉を信じて考え抜くよう釈尊に
  よって呼びかけられていたのである。従って、仏教は、
  「信仰」と「知性」によって「縁起」を考えていく知
  性主義にほかならないが、本覚思想は、それとは全く
  逆に、無為自然を尚ぶ、「得意忘言」の悟りの体験主
  義であるにすぎない。
  (袴谷憲昭『本覚思想批判』大蔵出版、1989年、
   pp. 9-10)

  仏教が戒・定・慧の「三学」を説いて、定の上に慧を
  立てるのは、禅定だけでは真理は発見できないことを
  示すものである。禅定は心理的な心の鍛錬であるから、
  それ自身は盲目的なものである。それに智慧の眼が加
  わってこそ真理を実現するものとなりうる。
  (平川彰『インド仏教史 上巻』春秋社、1974年、
   p.37)

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元気そうでなによりです Follow: 132 / No: 131
 投稿者:貴晃  00/06/03 Sat 02:27:32

Beat Me !頑張るぞ!
という投稿をしたのは、私です。
声援のつもりだったのですが、
お気を悪くされましたか?申し訳ない。

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/9919/

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近況報告 No: 130
 投稿者:Libra  00/06/02 Fri 20:26:15

 現在、shamonさんとメールで意見交換しています。

 本業の研究の方をがんばってます。

 掲示板での議論は現在ストップしていますが、僕の考えに対する
批判等はいつでも大歓迎です。ここに書いて頂いても、メールで送
って頂いても大感謝です。よろしくお願い致します。

 _Libra@excite.co.jp

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デカルトのように No: 129
 投稿者:Libra  00/05/30 Tue 10:11:22

 くらくらさん、置時計さん、川蝉さん、S4323さん、shamonさん、
コメントありがとうございました。

 僕は自分の言いたいことをほぼ言い尽くしました。議論の過程で有益な
ご批判をたくさん頂きましたので、このへんで少し自分の考えを見つめ直
し、鍛え直そうと思っています。デカルトのように。

  私は、ただひとり闇の中を歩む者のようにゆっくりと行こう、すべて
  に細心の注意をはらおう、と決心した。そしてそうすれば、たとえ少
  ししか進めなくとも、せめて倒れることだけはまぬがれるだろう、と
  考えた。

  もしも、その時私があることを是認したからといって、後になって、
  そのことが多分正しいことではなくなったり、あるいは自分がそれを
  正しいと評価しなくなったというのに、なおもまだそれを正しいこと
  だとせざるをえないとしたなら、私は正しい判断力に対して大きな誤
  ちを犯すことになると考えた。

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上求菩提・下化衆生 No: 127
 投稿者:shamon  00/05/23 Tue 09:47:46

菩薩道の基本ですね。反論や批判するためのもの、知識や理論を競って
勝ち誇るためのものは無益です。しかしながら、自らも釈尊の指し示し
た智慧を求め、人々に釈尊の教えを伝えるため議論は、とても有益です。
Libraさんも、そういう想いであったと思います。

自らが苦しみより救われていないのに、人を教えによって救おうとする
ことは、なかなか無理があります。そういう類のものは、自尊心を満足
させるためのエゴとなりやすいのです。自らが本当に教えによって救わ
れてこそ、報恩の想いから、その教えを自ら実践し、かつ人々に伝える
ことが出来ると考えます。けっして焦らず、怠らず。Libraさんは、それ
が出来る筈の方です。shamon@mvj.biglobe.ne.jp









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同じ学会員として。 No: 125
 投稿者:S4323  00/05/22 Mon 22:04:13

Libraさん今晩は。

私は教義の理解が未熟なので議論には参加できませんでしたが、いつもROMさせてもらいました。
特に「個人の生命は、常住か否か?」についての議論は非常に勉強になりました。

またの活躍をたのしみにしております。

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Libraさん寂しくなりますね。 No: 124
 投稿者:川蝉  00/05/22 Mon 18:10:50

Libraさん今日は。

Libraさんが引いてしまうと、他の掲示板も寂しくなってしまいま
すね。
不毛な議論になってしまうと感じられたのでしょうね。
またここの所、込み入った長文の遣り取りが続いていましたので、
そうとう疲れも感じられたのではと推測します。
どうしても教理的な議論は互いに批判的になり、平行線に成りやす
いですね。
たしかに議論が始まると、労力と時間を注がなくてはなりませんね。
今後も度々この掲示板を覗かせていただきます。

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残念ですね No: 123
 投稿者:置時計  00/05/21 Sun 20:23:30

小生は教理については苦手なもので、みなさんの発言を読ませていただく
ばかりでありましたが、以前からロムさせていただいておりました。

いろいろな事情があるのでしょうが、これからもネット上でお目にかかれ
ればと存じます。 合掌

http://www63.tcup.com/6330/okidokei.html

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それはそれは No: 122
 投稿者:くらくら  00/05/21 Sun 00:23:45

ロムばかりでしたが、色々と参考にさせていただいてました。
何があったか存じませんが、機会があれば、また宗教もどうぞ。

                  くらくら こと 菱村正敏

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議論にお付き合いくださった皆様へ No: 121
 投稿者:Libra  00/05/20 Sat 21:24:43

 いろいろ思うところがあって、ネットで宗教の議論を
するのはやめようと思います。

 ここでは、顕正居士、shamon さん、川蝉さんをはじ
め多くの方がたにご丁寧なご教示を頂き、大変感謝の気
持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

 日蓮法華宗の方がた(創価学会を含む)にとって不愉
快な発言等があったとすれば、すべて僕の信心に問題が
ありますのでご容赦下さい。

#この掲示板自体はふつうの掲示板として細々とやって
#いきたいと思います。

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信は慧の因 No: 119
 投稿者:shamon  00/05/19 Fri 17:43:18

>そうとしか考えられないのかも
>現時点の僕の限界

「仏道に入る根本は信を以て本とす」大乗仏教に於いて信は、能入の門
ですね。信なくして、智慧は開かれない。信じられないからといって、
他の解釈へ逃げることは、智慧から遠ざかるのです。一体どういう事だ
ろうと、信じるがために疑う姿勢とは別のものです。

>衆生本有の識、集合的無意識

仏界は、己心にあり、本有ですね。集合的無意識は、ユングが仏教から得
て理論体系化したものです。法華経の思想が大きく影響しているようです。
現在は、キリスト教の理論構築にも取り入れられているようですが。まず、
寿量品を信じることです。

>我々の色心がもともと「法身」ではないでしょうか。
色心は無常です。法身は常住不滅です。Libraさんは、すでに前提から
”凡夫本仏”ですね。

>それを正因仏性というのではないでしょうか。
正因仏性とは、仏となるべき先天的な素質です。

>そのことに気が付いていくのが成仏なのではないでしょうか。
>それを気が付かせてくれるのが法華経の智慧なのではないでしょうか。

我々衆生の本地が、地涌の菩薩(三十二相の仏身を保つ)、つまり本仏・
釈尊の久遠の弟子であることを覚ることです。

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Re: 五字 Prev: 116 / No: 118
 投稿者:Libra  00/05/19 Fri 12:04:13

> >文字の意味を解読すること意味があるのか
>
> Libraさん、天台大師や宗祖の真意を考えることです。妙法蓮華経の五字に
> 釈尊の説かれた仏教の神髄を含蓄して、受持しなさいということです。

 僕は「妙法蓮華経」という言葉に「釈尊の説かれた仏教の神髄の神髄」が
修まっていることは否定していません。

> 宗祖
> ならびに天台大師の教えを鼻から否定して、我流の解釈を述べる。彼が「池
> 田教」ならば、貴方は「Libra教」の教祖にでもなりますか。

 経題釈については僕の発明ではありません。本田義英博士の『法華経に関
する諸問題』(日蓮宗宗務院、昭和11)及び『法華経論』(弘文堂書房、
昭19)でも同様の経題釈が提示されていませんか?静谷正雄・勝呂信静両
氏執筆の『アジア仏教史、インド編III・大乗仏教』でも同様の経題釈がなさ
れているのではありませんか?

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shamonさんへ(つづき) No: 117
 投稿者:Libra  00/05/19 Fri 11:53:12

> 歴史上の釈尊の慈悲・人格にふれるだけならば、釈尊を想うだけならば
> 阿含部・原始仏教の方が適切ですし、十分です。

 そんなことはないのではないでしょうか。大乗には大乗の思想がある
のではないでしょうか?

>私も、20代の頃は
> 「仏を観る」などと言うことは、例え見たとしても幻覚ではないかと考
> えておりました。

 僕はまだ20代なのでそうとしか考えられないのかもしれません。

> 私たちは、現実に目や耳という器官を通じて、見た聞いた経験を「識」
> というデータに変換して、映像として再度思い浮かべることもできます
> ね。と言うことは、もし、衆生本有の「識」があり、その識を引き出す
> ことが出来るならば、まのあたりに観ることも出来るのです。これは、
> 物語を読んでイメージされた世界(新たに植えられた「識」)を思い浮
> かべるものとは、全く違うものです。

 <衆生本有の「識」>というものが理解できないでいます。「集合的
無意識」と言われるようなものでしょうか。と言っても、その「集合的
無意識」自体を理解しているわけでもありませんが。

> >仏塔と経典
> 法身はどうでも良いと言うことではありません。

 僕は「法身はどうでも良い」とは言ってません。「法身」=「縁起の法」
「空性」という意味で言うなら、我々の色心がもともと「法身」ではない
のでしょうか。それを「正因仏性」と言うのではないのでしょうか。その
ことに気付いていくのが成仏なのではないでしょうか。それを気付かせて
くれるのが「法華経の智慧(報身)」なのではないでしょうか?そうでな
いのならば、「法華経に値つて三道即三徳となる」とはどういう意味なの
でしょうか?

  法身とは法身如来般若とは報身如来解脱とは応身如来なり我等衆生無
  始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となる
  なり。
  (「始聞仏乗義」、全集、p.983、ご真筆は中山法華寺に完存)

> >経巻を安置すれば、舎利を祀ることになる
> 見宝塔品にも、法華経の説かれるところあれば、仏塔はどこへでも出現
> すると記されていますね。つまり、報身即法身の故です。

 『法華経』が三身如来である観点からも「報身即法身」です。また、
「法華経に値つて三道即三徳とな」った「法華経の行者」も三身如来です
から「報身即法身」です。

> >法華経は即ち釈迦牟尼仏 
> 報身即応身の故です。経典は文字であり、人格的釈尊ではありません。
> 法華経を信じる者は、応身の釈尊にお逢いすることが出来ます。

 僕にとっては「応身の釈尊」とは「法華経」です。これは現時点での
僕の限界なのでしょう。

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五字 Follow: 118 / No: 116
 投稿者:shamon  00/05/19 Fri 11:28:12

>文字の意味を解読すること意味があるのか

Libraさん、天台大師や宗祖の真意を考えることです。妙法蓮華経の五字に
釈尊の説かれた仏教の神髄を含蓄して、受持しなさいということです。宗祖
ならびに天台大師の教えを鼻から否定して、我流の解釈を述べる。彼が「池
田教」ならば、貴方は「Libra教」の教祖にでもなりますか。

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shamonさんへ(Re: 固執) Prev: 113 / No: 115
 投稿者:Libra  00/05/19 Fri 10:55:41

> LIbraさんは、若い人生の大半を創価中学・高校に置いてしまっているが
> 為に、どうしても創価学会の中に(例えば松戸氏の論など)真実を見出そ
> うと藻掻いているようです。

 そんなことはありません。と何回も言ってるのですが信じもらえないよう
ですね。

>例え、創価学会の教えを否定することになっても、これまでの人生を
> 否定することにはなりません。

 事実、僕は「創価学会の教え」をかなり否定しています。最初は「創価
学会教学部」に質問をしたのですが無視されました。はっきり言って、僕
自身には「創価学会のみが唯一正しい」という意識は微塵もありません。

> 正しい、釈尊、法華経、宗祖の教えに出会
> うための縁だったと、これを肯定すればよいのです。

 これは肯定しています。このご縁によって、現時点の僕の考えのオカシ
イところが今後修正されていくならば、たとえそれが「根本的修正」に
なったとしても大歓迎です。むしろ僕はそれを望みます。

>仏教用語の定義に基づかず、創価
> 学会が勝手に作り出した或いはLibraさんが独自に考える本仏、応・報・
> 法身の定義のままでは、他の皆さんの言わんとすること、まして天台大
> 師や宗祖の教えを正しく理解することは永遠に出来ません。

 「報身」は「智慧」ではないのでしょうか?

> 法華経を信じる者は、仏界を顕わし釈尊を見奉るのです。でなければ、宗
> 祖が釈尊から、妙法蓮華経の五字を「口決相承」したことなど夢の戯言に
> なってしまいますよ。

 その場合の「釈尊」とは「釈尊の智慧・慈悲」ということではないのでし
ょうか。

> 霊的存在というのは、幽霊のようなものを言っ
> ているのではありません。精神世界と現象世界の共時的実在を言うのです。

 たとえば、ニーチェはもう死んでしまってこの世にいないわけですが、彼
の本を読めば“ニーチェ”を感じることはできます。この“ニーチェ”も
「精神世界と現象世界の共時的実在」には違いないと思うのですが、これは
「霊的存在」でしょうか?

>まるで、教育のない人間に
> は、良心や理性なる意識が本来的に潜在的に備わっていないかのように。

 教育のあるなしは関係ないでしょう。例えば、死んだおばぁちゃんは僕の
中に生きてると思いますが、これは教育のあるなしとは関係ないでしょう。
「智慧」という言い方がそういう誤解を招いてしまうのかもしれませんが。

> 法身(真理)も報身(智慧)も、表象として捉えられる人格身ではありま
> せん。現実の世界に応現されたときも、仏界を顕わしてお逢いする釈尊も
> 三身即一なる応身(功徳・慈悲)の姿であります。

 正直言ってそういうことはまだ僕には理解できません。現時点の僕の限界
だと思います。shamonさんのおっしゃるように「永遠に出来」ないのかも
しれません。

> >妙法蓮華経の五字
>
> 五重玄義に基づく五字は、経典そのものではありません。前にも説明した
> ように、神力品の四句の要法、法華経の肝心です。開けば、法華経です。
> 「妙」は、一切は仏法>仏の教えをもって、一切を肯定。(所有法)
> 「法」は、実相は空。(秘要蔵)
> 「蓮」は、因果(甚深事)
> 「華」は、通達無礙八自在(自在神力)
> 「経」は、一切経における位置
> 一心に受持・読誦・書写・解説、説の如く修行すべし。

 題目の五字を各文字に分解してそれぞれの文字の意味を解読しようとする
ことに果たして意味があるのかどうか疑問を感じます。それでは漢訳の妙法
華だけにしか通用しないので無理があるのではないでしょうか。やはり、経
題は「妙法・蓮華・経」という3つの単位に分割してそれぞれの意味を考え
るべきだと僕は思います。題目についての僕の考えはすでにゆきぞさんのと
ころでの昼行燈さんとの議論で述べましたし、「如来蔵思想批判の批判的検
討」でもふれましたので繰り返しませんが、「弘経の三軌」も題目も対応す
るのではないかと最近思っています。

 妙法=如来の座(一切法空)=縁起の法・空性
 蓮華=如来の室(大慈悲心)・衣(柔和忍辱)=菩薩(行)
 経 =四衆の為に広く是の法華経を説くべし 

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三身 No: 114
 投稿者:shamon  00/05/19 Fri 10:55:23

>法華経を通じて「釈尊の慈悲・人格」にふれることができる。

歴史上の釈尊の慈悲・人格にふれるだけならば、釈尊を想うだけならば
阿含部・原始仏教の方が適切ですし、十分です。私も、20代の頃は
「仏を観る」などと言うことは、例え見たとしても幻覚ではないかと考
えておりました。当時、天台宗で常行三昧を達成したという僧侶を追究
したことがあります。常行三昧では、仏をまのあたりに観なければ、こ
れを、90日の修行を終えることが出来ないからです。(この場合、釈
尊が阿弥陀の姿で現れると理解して下さい)その僧侶も側近も、その時
の様子をもごもごと誤魔化していたことを今思えば、観てないものを観
たとして三昧堂から出たのか、よくて幻覚を見たと言うところでしょう。

私たちは、現実に目や耳という器官を通じて、見た聞いた経験を「識」
というデータに変換して、映像として再度思い浮かべることもできます
ね。と言うことは、もし、衆生本有の「識」があり、その識を引き出す
ことが出来るならば、まのあたりに観ることも出来るのです。これは、
物語を読んでイメージされた世界(新たに植えられた「識」)を思い浮
かべるものとは、全く違うものです。

>仏塔と経典

釈尊は涅槃に入られる際、こう言われました。「我が身、滅すると言え
ども法身いませり」その後、舎利を安置した仏塔は、釈尊の「法身」の
象徴として信仰されました。経典は、釈尊の智慧を文字にしたものです
から、報身の象徴になります。川蝉さんが引用して説明して下さった部
分は、まさに仏塔信仰から、経典重視に移らんとする歴史を物語ってい
ます。だからといって、法身はどうでも良いと言うことではありません。

>経巻を安置すれば、舎利を祀ることになる
見宝塔品にも、法華経の説かれるところあれば、仏塔はどこへでも出現
すると記されていますね。つまり、報身即法身の故です。

>法華経は即ち釈迦牟尼仏 
報身即応身の故です。経典は文字であり、人格的釈尊ではありません。
法華経を信じる者は、応身の釈尊にお逢いすることが出来ます。

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固執 Follow: 115 / No: 113
 投稿者:shamon  00/05/19 Fri 01:45:53

Libraさん 

LIbraさんは、若い人生の大半を創価中学・高校に置いてしまっているが
為に、どうしても創価学会の中に(例えば松戸氏の論など)真実を見出そ
うと藻掻いているようです。自らの人生を否定するようで不安なのでしょ
う。例え、創価学会の教えを否定することになっても、これまでの人生を
否定することにはなりません。正しい、釈尊、法華経、宗祖の教えに出会
うための縁だったと、これを肯定すればよいのです。すべての求道者が経
験することです。実際に、Libraさんは、他の創価学会信者の方と違って、
こうして顕正居士さんや川蝉さん、私などとも御縁が出来たのですから。
すべて釈尊、宗祖の御導きなのです。仏教用語の定義に基づかず、創価
学会が勝手に作り出した或いはLibraさんが独自に考える本仏、応・報・
法身の定義のままでは、他の皆さんの言わんとすること、まして天台大
師や宗祖の教えを正しく理解することは永遠に出来ません。

>法華経を真に受持する人間の心の中にあると

「霊鷲山」は、仏界なる識の表象です。宗祖が、己心の仏界を顕わすと云
われているように、仏界は心の中にあります。従って、霊鷲山で説法され
ている釈尊も心の中にいらっしゃるのです。だから、「観心」なのです。
法華経を信じる者は、仏界を顕わし釈尊を見奉るのです。でなければ、宗
祖が釈尊から、妙法蓮華経の五字を「口決相承」したことなど夢の戯言に
なってしまいますよ。仏教の「密」は、精神世界・深層心理に入っていく
ものであり、けっして仮想の世界に遊戯するような低劣なものではありま
せん。そして、精神界と現象世界が相即していることを覚るが故に、衆生
が共有する心の常住不滅なる釈尊が、現実の世界においても実在して教導
されていることを覚知するのです。その釈尊が、時に現実の世界に応現さ
れたのが生身の釈尊です。霊的存在というのは、幽霊のようなものを言っ
ているのではありません。精神世界と現象世界の共時的実在を言うのです。
インテリを気取る学者は、自分の見えるもの、聞こえるものだけで構成さ
れるものが意識のすべてであり、その範疇に押さえようとするため、本有
の意識の存在を否定して理解しようとします。まるで、教育のない人間に
は、良心や理性なる意識が本来的に潜在的に備わっていないかのように。

>「釈尊の応身」にお逢いになられたのでしょうか。

法身(真理)も報身(智慧)も、表象として捉えられる人格身ではありま
せん。現実の世界に応現されたときも、仏界を顕わしてお逢いする釈尊も
三身即一なる応身(功徳・慈悲)の姿であります。

>妙法蓮華経の五字

五重玄義に基づく五字は、経典そのものではありません。前にも説明した
ように、神力品の四句の要法、法華経の肝心です。開けば、法華経です。
「妙」は、一切は仏法>仏の教えをもって、一切を肯定。(所有法)
「法」は、実相は空。(秘要蔵)
「蓮」は、因果(甚深事)
「華」は、通達無礙八自在(自在神力)
「経」は、一切経における位置
一心に受持・読誦・書写・解説、説の如く修行すべし。

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Libraさんへ No: 112
 投稿者:川蝉  00/05/18 Thu 22:25:12

Libraさん今晩は。

>ちょっと三吉さんのところで時間を使ってしまいました

拝見していますが、議題が多すぎ、込み入りすぎて来たので、必然
的に長文の遣り取りとなり、双方とも労力が大変だと思います。

>つまり、「霊鷲山」とは『法華経』の中にあると。あるいは、法
>華経を真に受持する人間の心の中にあると。

法華経に説かれていると思いますが、「霊鷲山は法華経の中にある」
とはうなずきかねます。

ただし、「十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界
を知らざれば外の諸仏も顕はれず」(守護国家論・昭定124)
とありますので、
「>法華経を真に受持する人間の心の中にあると」
との義は有るでしょうね

>また、舎利を 安んずべからず。所以は何ん。この中には、已に
>如来の全身有せばなり。
  (「法師品」、岩波版『法華経(中)』、p.154)

古来、「また、舎利を 安んずべからず」の部分は
「復舎利を安ずることを須ひず。」
と読まれています。
「経巻を安置すれば、法身の舎利が祀ることになるので、必ずしも
身骨を安置する必要はない」
と云う意味と受け取るべきと思います。
この文には、法華経を釈尊と同様に尊崇する意識があり、また、身
骨より釈尊の妙証が説かれ籠もっている法華経を尊崇する方が釈尊
を真に尊ぶことになると云う意識もあるのでしょう。

しかし、凡眼には認識できないが人格的釈尊は存在すると云う事を
否定する文ではないと思います。
その証拠に、同じく「法師品」に
「我異国に在りと雖も、時々に説法者をして我が身を見ることを得
せしめん」とも
また、
「我千万億の土に 浄堅固の身を現じて 無量億劫に於いて 衆生
の為に法を説く」とも
また
「此の経典を読誦せば 我その時に為に 清浄光明の身を現ぜん」
ともあります。


また、Libraさんが引証された「本尊問答抄(全集、p.366)」
の文も、凡眼には認識できないが釈尊は存在すると云う事を否定す
る文ではないでしょう。


>法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟
>尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在
>世なり。
> (「守護国家論」、全集、p.66)

この文より前の方に
「仏の入滅は既に二千余年を経たり。然りと雖も 法華経を信ずる
者の許に 仏の音声を留めて時々刻々念々に我死せざる由を聞かし
むるなり」(昭定・111)
とあります。法華経を留めて、凡眼には認識できないが人格的仏と
して存在すると云う事を教えていると云う意味でしょう。

また、Libraさんが引証された部分の後の方に、
「本地久成の円仏は此の世界にましませり」
ともあります。

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川蝉さんへ(Re: Libraさん追加です) Prev: 110 / No: 111
 投稿者:Libra  00/05/18 Thu 14:30:56

 こんにちは、川蝉さん。ご丁寧なレス、ありがとうございます。

 ちょっと三吉さんのところで時間を使ってしまいましたのであまり
時間がないのですが、少しだけコメントさせて頂きます。

> Libraさん自身が「霊的な存在としての常住不滅の釈尊の存在など
> 認められない」と考えることは自由です。
> ただし、それが法華経の教説であると主張するので有れば、首肯し
> かねます。

 僕は『法華経』が「常住不滅の釈尊」だと考えているのです。そし
てそれは「霊的な存在としての常住不滅」ではないと。『法華経』の
外に釈尊がいるとは思わないということです。つまり、「霊鷲山」と
は『法華経』の中にあると。あるいは、法華経を真に受持する人間の
心の中にあると。

  薬王よ、在在処処に、若しくは説き、若しくは読み、若しくは誦
  し、若しくは書き、若しくは経巻所住の処にも皆、応に七宝の塔
  を起てて、極めて高く広くして厳飾あらしむべし。また、舎利を
  安んずべからず。所以は何ん。この中には、已に如来の全身有せ
  ばなり。
  (「法師品」、岩波版『法華経(中)』、p.154)

  問うて云く日本国に十宗あり(…)何ぞ天台宗に独り法華経を本
  尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の
  義あるべし、問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答え
  て云く本尊とは勝れたるを用うべし(…)問うて云く然らば汝云
  何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答
  う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台
  とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如
  く法華経を以て本尊とするなり
  (「本尊問答抄」、全集、p.366)

  法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟
  尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在
  世なり。
  (「守護国家論」、全集、p.66)

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Libraさん追加です Follow: 111 / No: 110
 投稿者:川蝉  00/05/17 Wed 20:00:49

Libraさん今晩は。

前回の追加です。

法華経は、妙音菩薩、観音菩薩、普賢菩薩が、凡眼には認識できな
い存在だけど、存在して救済活動をしていることを説いています。
妙音菩薩は「種々の身を現じて、処処にもろもろの衆生のためにこ
の経典を説く」とあります。
観音菩薩も「種々の形をもってもろもろの国土に遊んで、衆生を度
脱す」とあります。
普賢菩薩も「我れまさに之を教えてともに読誦し、還って通利せし
むべし」とあり、「法華経を受持することあらん者は、この念をな
すべし、みなこれ普賢威神の力なりと」と語っています。

菩薩が出来ることは仏ならば当然出来ると云えますね。
だから、菩薩力を語っていますが、そもまま仏力を語る教説と受け
取っても良いわけです。
故に、三身具足の釈尊も、凡眼には認識できない存在だけど、現に
在って、衆生教導しいると法華経は主張していると言い得ますね。

寿量品に、釈尊の「六或示現」が説かれています。仏身の外、九界
の姿をもっても衆生教導活動すると云う事ですね。

私を益し、教えてくれる人は、釈尊がそうさせているのかも知れな
いと云う事を説いているのですね。

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Libraさんへ No: 109
 投稿者:川蝉  00/05/17 Wed 15:04:44

Libraさん今日は。

Libraさんが
経典としての法華経が三身如来であるとし、霊的な存在としての常
住不滅の釈尊の存在を否定する立場のようですね。

Libraさん自身が「霊的な存在としての常住不滅の釈尊の存在など
認められない」と考えることは自由です。
ただし、それが法華経の教説であると主張するので有れば、首肯し
かねます。

寿量品偈文には
「法華経を説き終わって入滅を示すが実には滅しない、余国に信楽
する者が有れば、また彼の中で法を説く」旨を説いています。
法華経を説き残した後は、存在しなくなるなどとは説いていません。
法華教学(天台・伝教・日蓮の法華経解釈)では、釈尊は三身即一
の仏です。報身仏として存在していれば、いつでも応身を現せるの
です。
故に、肉体としての釈尊が亡くなっても、応身格まで消滅したので
はないのです。

「法華経が三身如来である」
と云う理解は、一般に読まれている開経偈にもある解釈ですから、
そう解釈することも許されましょう。
ただし、「経典としての法華経の外には三身具足の釈尊など存在し
ない」と云う考えが付属していない事が条件です。

「近しと雖も而も見ざらしむ」であり、見仏出来る功徳のない者は、
仏を見奉り直接に教えを聞く事は出来ないので、経典としての法華
経を通さなければ、釈尊やその教えに触れて行く方法がありません。

そこから、法華経を釈尊として仰ぎ、尊崇する意識が生じます。
ゆえに、法華経の諸処に経典崇拝を説き、経典を仏として尊ぶこと
が説かれているのです。
しかし、法華経経典より外に釈尊は存在しないと理解することは行
き過ぎでしょう。

自力・仏力・法力の三力和合して衆生は成仏出来るとされています
ね。
辞書に
「大日経疏」の「此の三縁を以ての故に、則ち能く不可思議業を成
就するなり」の文を引証しています。
法華経的立場では、「修禅寺相伝私注(ただし伝教の著述に非らず
との見解有り)」に、
「法力とは、妙法を唱えるとき諸仏の自利利他の功徳、来入し行者
の身内に成就す。仏力とは、法華称念の輩の前に来現し加護し、特
に速やかに天命を開かしむ。是を仏力と云う。信力とは、信心の力
なり(取意)」
とあるそうです。

三力和合して、初めて衆生は仏道を成じる事ができると云う考えは
仏教共通の考えですね。

法師品にも
「此の法華経は最も難信難解なり。・・如来則ち衣を以て之を覆い
給うべし。また他方の現在の諸仏に護念せらるることを得ん。・・
是の人は大信力及び志願力・諸善根力あらん」
と三力和合が説かれていますね。

妙法を信行する時には、凡眼に見えなくとも、釈尊が現前し加持を
加えてくれていることを忘失してはならないと思います。
「法華経経典より外に三身如来は居ない」と云う理解は、三力和合
によって仏道を成就できると言う仏教共通の考えに反するのではな
いでしょうか。

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顕正居士へ(Re: ところで) Prev: 107 / No: 108
 投稿者:Libra  00/05/17 Wed 11:33:26

> >「仏陀の教法を依処とする」とは「信は慧の因」という意味で「信」じると
> >いうことではないのでしょうか?
> 「神様の存在を信じる」はあっても、「神様の非存在を信じる」といわない
> でしょう。仏教語の「信」は「信仰」(浄土教語の「仰信」がもと?)とは
> ニュアンスが異なりますね。「慧の因」であり得るような何かですから。

 宗祖は「信は慧の因」と言われています。ということは、日蓮法華宗の「信」
は「元来の仏教」の「信」であって、日蓮法華宗は「元来の仏教」であるとい
うことになりませんか。

> >実質的には「無霊魂論」
> 日本仏教の実態は近いです。

 だったら「元来の仏教」だと思います。

> >「種熟脱」と「霊魂論」とがどのような関係にあるのでしょうか?
> 「種熟脱」は生まれ変わりを前提しないと成り立たないでしょう。

 「種熟脱」というのは「生まれ変わり」を前提しなくてもよいのではないで
しょうか。宗祖の場合は「一生成仏」なわけですから。

> ところで教法は「報身」ではありません。それは「法身」です。「報身」は
> なんらかの霊的実在者です。

 僕はそうはとらえません。「報身」は『法華経』に説かれている「智慧」だ
と思います。寿量品で説かれる「大良薬」は「法華経の智慧」だと理解します。
我々は『法華経』を通して「釈尊の慈悲・人格」にふれることが出来るという
ことであって、その際の「釈尊の慈悲・人格」は「霊的実在者」ではないでし
ょう。ニーチェやフッサールの思想(智慧)が「霊的実在者」ではないのと同
じです。ただ釈尊の智慧や慈悲がケタはずれに偉大であるということでしょう。

> 理解が困難になったので質問します。

 すいません。僕の説明が悪いのでしょうね。

> ○「生身」(しょうじん)と「応身」は全く同じ意味です。三十二相を備えた
> 仏身です。報身は応身とは比較を絶する尊特相を備えた仏身です。Libraさんの
> いう「凡夫」は応身でもなく報身でもない凡身の意味でしょうか。

 心と肉体を持つ「人間」ということです。法華経の智慧(報身)を体現・色
読・如説修行する人間(法華経の行者)の身体(ふるまい)が「応身」だとい
うことです。ようするに、「法華経になった人間」が仏であるということです。

  応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真
  の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人も
  あり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり
  (「御衣並単衣御書」、全集、p.971、ご真筆は中山法華寺に
 完存)

> ○「本仏」がたくさんある意味はわからないので単に「仏」と理解してみます。

 これは僕の用語の使い方に問題があるのでしょう。阿弥陀如来とか大日如来
等は人間ではなく「架空の仏」、「想像上の仏」に過ぎないということです。

> ○阿弥陀仏や大日如来等は仏でないというのは、報身、法身の存在を否定する
> 意味ですか。

 単報身、単法身は「架空の仏」だと言うことです。それに対して、釈尊は三身
具足の「真の仏」だということです。

> ○仏身論を全部否定、あるいは、いちばん初期の応身(肉身)、法身(教法)
> の論のみ認めるのでしょうか。そういう釈尊観は理解はできますが。天台や
> 日蓮との関連がわからなくなります。

 世親の『法華論』でも、天台でも「報身正意」です。当然宗祖もそうです。
この「報身」は「智慧」でしょう。

  この品の詮量は通じて三身を明かす。もし別意に従はば正しく報身に在り。
  何を以ての故に、義便に文会す。義便とは、報身の智慧は上に冥し下に契
  して三身宛足す。故に義便と言う。文会とは、我れ成仏してより已来、甚
  だ大いに久遠なるが故に、能く三世に衆生を利益すと。所成は即ち法身、
  能成は即ち報身、法と報と合するが故に能く物を益す。故に文会と言ふ。
  これを以てこれを推すに、正意はこれ報身仏の功徳を論ずるなり
  (天台「法華文句巻九下」、大正34巻、129頁上)

 寿量品の「大良薬」とは「法華経の智慧」=「報身」のことだというのが僕
の理解です。
 「法身」は「縁起の法」とか「空性」とかいうことだと理解しています。
「報身」はその真理の「釈尊の理解」あるいは「釈尊の智慧」であり、実際に
それを教説として人々に伝える「釈尊の肉体」が「応身」ということになりま
す。ただし、「応身」は「有始有終」ですから、「経典」が釈尊滅後の「応身」
となるのだと思います。

> ○人間はすべて、修学を要せず、あるいは妙名を口唱すれば、それでもう仏と
> いうことでしょうか。

 「法華経を如説修行する人間」=「歩く『法華経』」であり、それが「仏」
ということです。そして、その道はすべての人間に開かれているということ
です。

>なぜ人間に限定するのですか。仏教ではつねに「衆生」
> (生きもの)といいますが。またそれは「凡夫」に仏の名をつけただけとどう
> 違います。

 なんらかの意味で『法華経』になることができるのであれば、動物でも仏で
あると言えるでしょう。経典(無情)である『法華経』や曼陀羅が仏であるの
と同じような意味においては。

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ところで Follow: 108 / No: 107
 投稿者:顕正居士  00/05/16 Tue 20:44:12

>「凡夫」とは「生身の人間」です。応身の釈尊も人間であり「本仏」です。
>阿弥陀仏や大日如来等は「本仏」ではありません。人間本仏論ということです。

理解が困難になったので質問します。

○「生身」(しょうじん)と「応身」は全く同じ意味です。三十二相を備えた
仏身です。報身は応身とは比較を絶する尊特相を備えた仏身です。Libraさんの
いう「凡夫」は応身でもなく報身でもない凡身の意味でしょうか。
○「本仏」がたくさんある意味はわからないので単に「仏」と理解してみます。
○阿弥陀仏や大日如来等は仏でないというのは、報身、法身の存在を否定する
意味ですか。
○仏身論を全部否定、あるいは、いちばん初期の応身(肉身)、法身(教法)
の論のみ認めるのでしょうか。そういう釈尊観は理解はできますが。天台や
日蓮との関連がわからなくなります。
○人間はすべて、修学を要せず、あるいは妙名を口唱すれば、それでもう仏と
いうことでしょうか。なぜ人間に限定するのですか。仏教ではつねに「衆生」
(生きもの)といいますが。またそれは「凡夫」に仏の名をつけただけとどう
違います。

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「報身」など No: 106
 投稿者:顕正居士  00/05/16 Tue 17:25:38

>「仏陀の教法を依処とする」とは「信は慧の因」という意味で「信」じると
>いうことではないのでしょうか?
「神様の存在を信じる」はあっても、「神様の非存在を信じる」といわない
でしょう。仏教語の「信」は「信仰」(浄土教語の「仰信」がもと?)とは
ニュアンスが異なりますね。「慧の因」であり得るような何かですから。
>実質的には「無霊魂論」
日本仏教の実態は近いです。
>「種熟脱」と「霊魂論」とがどのような関係にあるのでしょうか?
「種熟脱」は生まれ変わりを前提しないと成り立たないでしょう。
>「オリジナル」とは何でしょうか?
オリジナルの反本地垂迹思想です。
>「凡夫」とは「生身の人間」です。
「凡夫」は単に聖者(十地以上の菩薩等)でない意味もあります。松戸氏が
「小人本仏論」を唱えているというのではありません。そう聞える意味です。
おそらく氏は十地以上の菩薩等を空想の存在といいたいのでしょう。これは
これで宗教の完全な否定ですが。

ところで教法は「報身」ではありません。それは「法身」です。「報身」は
なんらかの霊的実在者です。

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一男子部部長さんへ(訂正です) Prev: 97 / No: 105
 投稿者:Libra  00/05/16 Tue 14:53:50

>  大乗非仏説論については、去年の『大白蓮華』の10月号(No. 592)の「仏
> 教入門[40]〜大乗仏教の興起1」(88頁〜)で解説されていましたが、

 11月号(No. 593)の「仏教入門[41]〜大乗仏教の興起2」(88頁〜)に訂正
致します。引用箇所はp. 91です。

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顕正居士へ(Re: 有神論・霊魂不滅論) Prev: 102 / No: 104
 投稿者:Libra  00/05/16 Tue 14:49:35

> >なぜ、「日蓮法華宗は元来の仏教でない(=レリジョンである)」ということ
> >になるのでしょうか。
> 「有神論・霊魂不滅論」だからです。「レリジョン」はそういう意味です。

 「有神論・霊魂不滅論」ではないのではありませんか?「報身」は智慧であっ
て「霊魂」ではないと思います。

> >日蓮法華宗には「縁起」も「空」も受け継がれていないということでしょうか?
> 大陸天台ですでに神学化し、日本天台や日蓮では、空・苦・無常・無我は方便、
> 常・楽・我・常は真実と反転します。報恩抄など参照。

 しっかりと参照してから御返事させて頂きます。

> 「無神論・無霊魂論」はレリジョンに対立するものです。仏教が、仏陀の教法
> を依処とするのは三帰の一つであり当然ですが、「信仰」したりするものでは
> ないはずです。進んで、大乗仏教は「聖教量」を否定するから、レリジョンに
> おけるような意味での聖典はありません。

 「仏陀の教法を依処とする」とは「信は慧の因」という意味で「信」じるとい
うことではないのでしょうか?

> >「一生成仏」とか「即身成仏」
> 中国人や日本人は元来が一世説なので仏教徒も輪廻転生を排除する傾向です。

 伝教大師は「二生成仏・三生成仏」を言われますが、宗祖は「一生成仏」で
す。どんどん「霊魂論」から遠ざかっているとは言えませんか?「一生成仏」
して「生死を離れる」なら実質的には「無霊魂論」なのではないでしょうか。

> チベットにはインド仏教がそのまま伝わったから中観の理解は正統であるが、
> 輪廻転生説がたいへん強い。

 ならばチベット仏教の方が「霊魂論」で「レリジョン」でしょう。

> >こういうことを言うと、
> 霊的釈尊と種熟脱が教義ですから。禅>浄土>日蓮の順に合理化が困難です。

 報身は経典や人間を介して保存されている「釈尊の智慧」であって「釈尊の
霊魂」ではないでしょう。
 「種熟脱」と「霊魂論」とがどのような関係にあるのでしょうか?

> >凡夫には本仏の名称を与え、応身の釈尊には人間の名称を与える−shamonさん
> それでは宗教も道徳も成り立たないので、凡夫の本当の意味は日本の神々です。

 「凡夫」とは「生身の人間」です。応身の釈尊も人間であり「本仏」です。
阿弥陀仏や大日如来等は「本仏」ではありません。人間本仏論ということで
す。

> 反本地垂迹或いは神本仏迹といいます。中国にも釈迦は老子の垂迹があります。
> 室町期成立の思想です。神々でもなく荒凡夫が本というならオリジナルとは
> 違います。

 「オリジナル」とは何でしょうか?

>犯罪者の人権は犠牲者の人権に優越するような思想です。凡夫とは
> 倫理を弁えない意味ですから。

 「凡夫」とは「生身の人間」です。「生身の人間」だけが、三因仏性を有し、
三身如来(真の仏)となる可能性を有しているということです。ただし、宗祖
においては、“無情である『法華経』も「三身如来」である”という観点から
「草木成仏」も言われます(「草木成仏口決」参照)。この点では妙楽大師の
流れを受け継がれているのでしょうね。

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shamon さんへ(Re: 一心三観) Prev: 100 / No: 103
 投稿者:Libra  00/05/16 Tue 14:10:23

 こんにちは、shamon さん。

> 報身には、応身・法身をも具足します。応身には、法身・報身をも具足
> するのです。正しい見方は、三身即一ですね。

 おっしゃる通りです。ですが、人間の体としての「応身」は「有始有終」
ではないのでしょうか。それで、釈迦滅後の「応身」として『法華経』と
いう「大良薬」を留め置かれたのではないのですか?
 もちろん、

  要をもって之を言わば、如来の一切の所有る法と如来の一切の自在
  の神力と如来の一切の秘要の蔵と如来の一切の甚深の事とは、皆こ
  の経において、宣べ示し顕に説けり。この故に、汝等よ、如来の滅
  後において、応に一心に受持し読誦し解説し書写して、説の如く修
  行すべし
  (「如来神力品」、岩波版『法華経(下)』、p. 158)

ですから、『法華経』は「三身如来」です。

>天台大師、宗
> 祖が述べる「お逢いする」ということは、単に智慧が顕れるという意味
> のみではありません。

 shamon さんは『法華経』以外の「釈尊の応身」にお逢いになられた
のでしょうか。応身はちゃんと身体を持っていると思うのですが違うの
でしょうか?

> >菩薩行によってどんな人間でも成仏できます。
> それを大乗仏教というのです。創価学会の専売特許ではありませんし、
> 凡夫本仏論でもありません。

 僕自身は別に「創価学会の専売特許」と主張するつもりはありません。
また、松戸氏の本は学会員にほとんど読まれていないというのが現状で
す。

> >人間・釈尊
> これも学会の影響ですね。応身・釈尊ならば理解できます。凡夫には
> 本仏の名称を与え、応身の釈尊には人間の名称を与える。それでは、
> 一般の無知な方は、釈尊の教えを貴ぶことは出来ません。

 なぜでしょうか。凡夫とは「人間」という意味です。これは僕の言葉
の使い方に問題があるのでしょうが。釈尊も人間ですから「本仏」です。
しかも、最初の「本仏」ですから、「根本仏」です。それとも、もしか
したら釈尊は人間ではないのでしょうか?

  もう一度誤解を避けるために強調しておくと、凡夫とは人間であると
  いうことを意味している。ただし、人間には愚かな人も賢い人も、地
  獄界の人も菩薩界の人もいる
  (松戸行雄『日蓮思想の革新』、論創社、p. 48、1994年)

>仏教の原点
> は、歴史上実在した釈尊であることは、史実上、大変大事なことです。
> しかし、これを単に、歴史上の釈尊の新たなる思想であったと片づけ
> てしまえば、衆生成仏の根拠も無くなります。

 「歴史上の釈尊の新たなる思想」ではないと言われるのでしょうか?
また、なぜその場合に「衆生成仏の根拠も無くな」るのでしょうか?

>宗祖の批判する有始有
> 終の「小釈迦」です。

 「応身」は「有始有終」でしょう。ですが、僕は「報身」が正意だと
言っています。「報身」は「有始」ではありますが、「無終」です。
『法華経』が釈迦滅後の「三身具足の如来」だとも言っています。

  この『正しい教えの白連』という経説は、偉大な志を持つ求法者の
  乗法に乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来である。
  (岩波版『法華経(下)』、p. 201、※薬王菩薩本事品相当部分の
   梵本からの和訳(岩本)、

> 釈尊の教えを貴ぶことは出来ないでしょう。

 なぜそうなるのでしょうか。もう少し説明して頂きたく思います。

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有神論・霊魂不滅論 Follow: 104 / No: 102
 投稿者:shamon  00/05/16 Tue 01:21:37

顕正居士さんに、宗祖の義を誤解の無いように顕本法華宗の理解を示して
おきます。

>有神論・霊魂不滅論
日蓮・法華宗の本義と断定すべきではありません。中観の論理からすれば、
絶対否定は絶対肯定をも意味します。真理としては仮を否定し空を主張す
る一方で、現実としての仮をも肯定し、これを認める。空観・仮観の見方
が出来た上でどちらにも偏しない、固執しない正観です。これが天台大師
の解説した中観であり、さらに互具の論理から三諦円融・一心三観と展開
されます。

この哲理は、宗祖の御遺文にも明確です。例えば、八幡大菩薩など神を釈
尊の垂迹とすることは、神とは仮設されたものと捉えてながら、尚かつそ
の存在の有意義性を認めることなどです。釈尊が、すべてを決定する神の
存在を否定する一方で、すでに人々が存在として認めている神の存在を否
定せず、その教えに取り入れているのと同じことです。また、日本の神と
は魂を奉ったものであり、宗祖も”たましい”に神の字を充てていること
も、霊魂不滅論に偏していないことの参考になればと考えます。通常、霊
魂とは自我なる魂を言い、本有なるものとは区別されます。ただし、これ
を便宜上、魂と言っている場合もあります。

>無常・苦・無我・不浄は方便、常・楽・我・淨は真実。(少し勝手に
訂正させて頂きました。)

これは、一切の事相は相反する二法によって成立している中観の論理よ
り成り立っています。故に、これを転じることが可能だと言うことです。
現実を無常・苦・無我・不浄と正しく見極めた上で、涅槃を示した釈尊
と、法華経で三界は火宅の如しとし、娑婆即淨寂光土の浄土なりと転じ
るのも同じ中観の論理なのです。宗祖が法華経によって、惑・業・苦を
法身・般若・解脱と転じる得るのだと主張するのも同じことです。

>一生成仏と即身成仏

仏と凡夫の違いは、迷悟の差です。相反する迷悟も、不二なる故に転じ
ることが可能です。前提としては、自らを迷いの凡夫だと達観すること
が必要です。釈尊が、「われ愚かなりと思うは賢きなり、われ賢きと思
うは愚かなり」と法句経に分かり易く真理を説かれているのと変わらな
いと考えます。

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凡夫本仏? No: 101
 投稿者:顕正居士  00/05/15 Mon 18:31:16

>なぜ、「日蓮法華宗は元来の仏教でない(=レリジョンである)」ということ
>になるのでしょうか。
「有神論・霊魂不滅論」だからです。「レリジョン」はそういう意味です。
>日蓮法華宗には「縁起」も「空」も受け継がれていないということでしょうか?
大陸天台ですでに神学化し、日本天台や日蓮では、空・苦・無常・無我は方便、
常・楽・我・常は真実と反転します。報恩抄など参照。
>「法」を“信仰する”という意味では「元来の仏教」も「レリジョン」なの
>ではないのでしょうか?
「無神論・無霊魂論」はレリジョンに対立するものです。仏教が、仏陀の教法
を依処とするのは三帰の一つであり当然ですが、「信仰」したりするものでは
ないはずです。進んで、大乗仏教は「聖教量」を否定するから、レリジョンに
おけるような意味での聖典はありません。
>「一生成仏」とか「即身成仏」
中国人や日本人は元来が一世説なので仏教徒も輪廻転生を排除する傾向です。
チベットにはインド仏教がそのまま伝わったから中観の理解は正統であるが、
輪廻転生説がたいへん強い。
>こういうことを言うと、
霊的釈尊と種熟脱が教義ですから。禅>浄土>日蓮の順に合理化が困難です。
>凡夫には本仏の名称を与え、応身の釈尊には人間の名称を与える−shamonさん
それでは宗教も道徳も成り立たないので、凡夫の本当の意味は日本の神々です。
反本地垂迹或いは神本仏迹といいます。中国にも釈迦は老子の垂迹があります。
室町期成立の思想です。神々でもなく荒凡夫が本というならオリジナルとは
違います。犯罪者の人権は犠牲者の人権に優越するような思想です。凡夫とは
倫理を弁えない意味ですから。神々でなく君子でも分かります。伝教大師は、
西には菩薩といい、東には君子というと述べています。聖・賢・君子・士太夫
・小人の中で小人が本はないでしょう。

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