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一心三観 Follow: 103 / No: 100
 投稿者:shamon  00/05/15 Mon 16:01:04

報身には、応身・法身をも具足します。応身には、法身・報身をも具足
するのです。正しい見方は、三身即一ですね。ですから、天台大師、宗
祖が述べる「お逢いする」ということは、単に智慧が顕れるという意味
のみではありません。

>菩薩行によってどんな人間でも成仏できます。
それを大乗仏教というのです。創価学会の専売特許ではありませんし、
凡夫本仏論でもありません。

>人間・釈尊
これも学会の影響ですね。応身・釈尊ならば理解できます。凡夫には
本仏の名称を与え、応身の釈尊には人間の名称を与える。それでは、
一般の無知な方は、釈尊の教えを貴ぶことは出来ません。Libraさんは,
成仏の可能性を主張したいがため、応身の釈尊が生身であることを強調
したいでしょうけれども、それは法華経の常識であり前提です。衆生の
成仏の可能性を明らかにするため、報身・法身を具足する本仏が、慈悲
をもって生身の人間として垂迹し、自らその過程を示されたとする古典
的な理解においても、言わんとすることは同じです。

>人間・釈尊の前に仏教があったとは思いません。

一切のものは、明かされるか特定されるかして、初めて名前が付きま
すね。仏性は衆生本有ものであり、因縁化合によるものに仮設された
ものではないとするのが、大乗のスタンスですね。ですから、応身の
釈尊は、それを明かし特定するため、教えとするために応現された
「本仏の慈悲の姿」とする古典的な解釈も同じことです。仏教の原点
は、歴史上実在した釈尊であることは、史実上、大変大事なことです。
しかし、これを単に、歴史上の釈尊の新たなる思想であったと片づけ
てしまえば、衆生成仏の根拠も無くなります。宗祖の批判する有始有
終の「小釈迦」です。




釈尊の教えを貴ぶことは出来ないでしょう。

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shamon さんへ Prev: 98 / No: 99
 投稿者:Libra  00/05/15 Mon 14:07:00

> すぐにお帰りになったのか見つけることが出来ませんでした。
> お会いできなくて残念です。

 仏舎利塔から出たら急に雨がふってきましたので、そのまま駅までダッシ
ュしました(傘を持ってきてなかったので)。

> しかしながら、今は研鑽されることもなくなった顕本の宗義には、本来大
> 変素晴らしいものがあるのです。開祖が天台の学匠あったこともあり、大
> 乗、中観派、”狭義”は作らず、釈尊>天台>日蓮の系譜を「経巻相承(
> 顕)」するものであり、「直授法水(密)」を伝えるものです。

 本堂に飾ってあった紙芝居風の説明を見せて頂きました。

>法華経も
> 宗祖も、釈尊の実在を説き、お逢いになれると述べておるのに、まやかし
> ものであるならば、宗祖も我々も詐欺師になってしまいますからね。

 釈尊の報身は『法華経』の中に実在しているし、『法華経』を介してお逢
いできると理解しています。そしてこの身を『法華経』にするために勇猛精
進していきたいと思います。

  経巻所住の処にも皆、応に七宝の塔を起てて、極めて高く広くして厳
  飾あらしむべし。また、舎利を安んずべからず。所以は何ん。この中
  には、已に如来の全身有せばなり。この塔をば一切の華・香・瓔珞・
  蓋・幢幡・妓楽・歌頌をもって、供養し、恭敬し、尊重し、讃歎す
  べし。若し人ありて、この塔を見ることを得、礼拝し供養せば、当に
  知るべし、これ等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近づけるなり。
  (法師品、岩波版『法華経(中)』、p. 154)

> >少し説明していただけないでしょうか
>
> 盛んに松戸氏「凡夫本仏論」の正当性を主張されていますが、Libraさん
> の考えとは違うものだからです。また、本来の己心本仏論を誤って解釈す
> れば、信仰の主客を失い、遂には宗教そのものを否定してしまう可能性が
> 強いからです。

 具体的に松戸氏の言葉を引用して頂ければ幸いです。僕はいろんな人に
松戸氏の本をすすめてしまいましたので、松戸氏の「凡夫本仏論」を批判
的に検討する義務が僕にはあります。僕の印象としては、「報身」の実在
性を強調しない点は松戸氏の論の大きな問題点であろうと思います。『法
華経』の法体と、「南無妙法蓮華経」の法体は違うというような主張にも
問題はあるでしょう。

> >「本仏」という言葉の定義ですれ違っている
>
> 皆さん、そう言いますね。そう歪曲させたのは、創価学会でしょう。
> 仏に真も嘘もあるのですか。他の信仰をする者は「嘘の仏」であり、
> 「法華経の行者」は「真の仏」ですか。仏と人間を同義に於けば、
> 「真の人間」と「嘘の人間」の差別、人間としての価値の差別を生
> じますよ。

 他の信仰をする人を含めて、すべての凡夫(人間)は三因仏性を潜在的
に持っていますから、「真の人間」と「嘘の人間」の差別はありません。
菩薩行によってどんな人間でも成仏できます。それが常不軽菩薩の精神だ
と理解しています。

> 「仏」と「凡夫」には、本質は不二なれども迷悟の差別のあるもので
> あり、「本仏」と「他仏」は本質は不二なれども、本地と垂迹の差別
> ありとする宗祖の主意に立ち返って下さらないと思います。創価学会
> の定義に基づいて、仏教は語られるものではありませんから。

 僕は、「本地と垂迹の差別」という意味で凡夫(人間)を「本仏」と
言っているわけではありません。「人間・釈尊の智慧」が仏教の原点で
あるということを忘れたら仏教ではなくなるでしょう。しかし、僕は
人間・釈尊の前に仏教があったとも考えていません。

> 凡夫が仏になることを「凡夫本仏論」と云うのであれば、大乗仏教の
> 目指す当たり前のことであり、改めて造語を作って差別化や優位性を
> 唱える必要はありません。

 たしかにおっしゃる通りかもしれません。

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お詫び Follow: 99 / No: 98
 投稿者:shamon  00/05/15 Mon 13:22:18

法要の見学に来ていただいたようですね。どうですか、泡沫集団の印象は。
連絡を受けて「少し長髪で眼鏡をかけた頭の良さそうな若い方」を探した
のですが、すぐにお帰りになったのか見つけることが出来ませんでした。
お会いできなくて残念です。

顕本は、それまでの形骸化した仏教を現代の論理からも矛盾無く解き明か
して、明治から戦前にかけて勢力を持ち、全国に天晴会、統一団、日蓮主
義青年同盟、婦人会などを結成していました。それを率いていた本多猊下
等は、日興門流をも含む門下の統合を推進していましたので、統合後の立
正大学学長は顕本の管長が務めていた程です。ですから、小樽問答の際の
長谷川義一も、顕本法華宗ではなく、日蓮宗の籍としてでした。戦後、再
分派した折には勢力は3分の1に、さらに今は半分となり、斯様な泡沫状
態にあります。

しかしながら、今は研鑽されることもなくなった顕本の宗義には、本来大
変素晴らしいものがあるのです。開祖が天台の学匠あったこともあり、大
乗、中観派、”狭義”は作らず、釈尊>天台>日蓮の系譜を「経巻相承(
顕)」するものであり、「直授法水(密)」を伝えるものです。法華経も
宗祖も、釈尊の実在を説き、お逢いになれると述べておるのに、まやかし
ものであるならば、宗祖も我々も詐欺師になってしまいますからね。

>少し説明していただけないでしょうか

盛んに松戸氏「凡夫本仏論」の正当性を主張されていますが、Libraさん
の考えとは違うものだからです。また、本来の己心本仏論を誤って解釈す
れば、信仰の主客を失い、遂には宗教そのものを否定してしまう可能性が
強いからです。

>「本仏」という言葉の定義ですれ違っている

皆さん、そう言いますね。そう歪曲させたのは、創価学会でしょう。
仏に真も嘘もあるのですか。他の信仰をする者は「嘘の仏」であり、
「法華経の行者」は「真の仏」ですか。仏と人間を同義に於けば、
「真の人間」と「嘘の人間」の差別、人間としての価値の差別を生
じますよ。

「仏」と「凡夫」には、本質は不二なれども迷悟の差別のあるもので
あり、「本仏」と「他仏」は本質は不二なれども、本地と垂迹の差別
ありとする宗祖の主意に立ち返って下さらないと思います。創価学会
の定義に基づいて、仏教は語られるものではありませんから。

凡夫が仏になることを「凡夫本仏論」と云うのであれば、大乗仏教の
目指す当たり前のことであり、改めて造語を作って差別化や優位性を
唱える必要はありません。

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『法華経』は釈尊の智慧の結晶(Re: SF研からの続き) Follow: 105 / Prev: 95 / No: 97
 投稿者:Libra  00/05/15 Mon 10:55:23

 おはようございまず、一男子部部長さん。

> 私が「それを用いるのが当然だと思います」といったのは、「大聖人の立場
>を用いるのが当然だ」と言う意味です。

 「釈尊の出世の本懐経は法華経である」という立場が「大聖人の立場」でし
ょう。

> そういう意味で
>
> >現在は、少なくとも文献学的には、「法華経」も
> >「浄土三部経」もどちらも「釈迦の金口」とは言
> >えないわけです(もちろん原始仏典も同様です)。
> >その意味では、「法華経」と「浄土三部経」のうち、
> >どちらを「出世の本懐経」と見るかは「主観的判断」
> >の域を出ないわけです。
>
> ↑これに大変な違和感を感じるということです。
> Libraさんが私のまわりにあまりいないタイプなので、よけいにそう感じるの
>かもしれませんが、「法華経も浄土三部経もどちらも「釈迦の金口」とは言え
>ない。」という考え方は、拒絶反応を起こしちゃいますね。「生き方の違い」
>なのかもしれません。
> Libraさんは「文献学」を離れて、「釈尊の八万法蔵」をどうとらえていらっしゃるのでしょうか。

 「釈迦の金口」とは「釈迦が説いたそのままの言葉」という意味です。
 僕は法華経は「釈迦の真意」を伝えていると考えています。田村博士の説に
賛成です。

  原始経典に帰ってみたところが、仏説を探し出すことは至難であり、不可
  能なことがわかり、大乗非仏説というなら、原始仏教もまた非仏説となり
  かねず、ひいては仏教全体がシャカの教えではないという一種の絶望感に
  おちいるにもいたった。しかし近年は、仏説の意味を解釈しなおすことに
  よって、あらためて仏教にたいする信念を再確認しようとする傾向が見え
  だした。仏説をシャカの直説と解する必要はなく、シャカの真意と考えれ
  ばよいということである。
  (田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、p. 19)

  宗教も結局は思想の結晶であり、思想は、客観的視野に立ちながらも、最
  後は自分の信念によって選びとるしかないものである。仏教にしても仏教
  の経典にしても、そうである。ただ、それが主観的・恣意的なものに終わ
  らないよう、できるだけ客観的視野に立ち、客観的な場に照らして見なけ
  ればならない。これが、ひいてはセクトをこえて話しあい、語りあい、と
  きに交わりあうことにもなり、また現代的立場からの仏教の再評価ともな
  るのである。
   ともあれ、諸仏教・諸経典は、すべて発展的産物であることが自明の理
  となった以上、それをありのままに受けいれつつ、発展のあとを客観的に
  たどり、その上で、それぞれの思想の特色を浮きぼりにし、選びとること
  が残された唯一の道である。
  (同上、pp. 21-22)

 例えば、ゆきぞさんの掲示板での昼行燈さんとのやりとりを御覧になってい
ただければ僕の立場を分かって頂けるかもしれません。

  ゆきぞさんの掲示板
  http://www.alles.or.jp/~maruzo21/think/bbs/20000206.htm
   「Libraさん 投稿者:昼行燈  投稿日:02月16日(水)15時41分29秒 」〜

 大乗非仏説論については、去年の『大白蓮華』の10月号(No. 592)の「仏
教入門[40]〜大乗仏教の興起1」(88頁〜)で解説されていましたが、その中
でも、

  あれほど豊かな内容をもった膨大な大乗経典が、この時期に突如として
  創作されたというより、釈尊滅後、時間をかけて熟成された後に登場し
  てきたと考える方が自然かもしれない。

と解説されていました。「釈迦が説いたそのままの言葉」ではないということ
ですね。『法華経』とは、「釈尊滅後、時間をかけて熟成された」、釈尊の智
慧の結晶ということでしょう。

> >「法勝人劣」
> >「経勝仏劣」
> >「経は生命ではない」
> >「生命論的会通」
> >「人は軽く法は重きなり」
> >「人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり」
>
> この辺の議論は、私自身もう少し勉強(松戸氏の考えも含めて)してみます。

 よろしくお願いします。

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レリジョンと信仰(Re: レリジョン化した仏教) Prev: 94 / No: 96
 投稿者:Libra  00/05/15 Mon 09:52:22

 おはようございます、顕正居士 。

> 根本仏教(縁起)と原始中観(空・無自性)を両方「元来の仏教」と考えます。
> 佐倉哲氏の見解にほぼ同じです。
> http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html

 「縁起」や「空」の考えが「元来の仏教」であるというお考えに異論
はありませんが、なぜ、「日蓮法華宗は元来の仏教でない(=レリジョ
ンである)」ということになるのでしょうか。日蓮法華宗には「縁起」
も「空」も受け継がれていないということでしょうか?「如来蔵思想批
判の批判的検討」でも述べたように、僕自身は、釈尊→龍樹→天台→日
蓮という法脈で「縁起・空の思想」はきちんと受け継がれていると考え
ています。

> 「逸脱」は釈尊、龍樹の在世からだとおもいます。日蓮教や親鸞教は純然たる
> レリジョンです。
 
 「法」を“信仰する”という意味では「元来の仏教」も「レリジョン」
なのではないのでしょうか?

>そのためにも
> 「無神論・無霊魂論」の真仏教に回帰すべき段階で、そうでなければ滅亡する
> か、単に有害な存在として社会の周辺に残存するかでしょう。批判仏教もこの
> コンテキストの中にあります。

 僕もそういう問題意識を持って発言しているつもりですが、なかなか
受け入れてもらえません。しかし、これも「方便」として「三世説」が
“有効に機能してきた”一つの証拠だと言えるのでしょうね。

>「無神論・無霊魂論」は過去には少数者にしか
> 受け容れられない説で、一神教を経て近代社会に到達するほうが現実的であり、
> それゆえ、世界思想史の幾つかの局面で、全く異なる伝統から酷似した宗教が
> 発生したとおもう。日蓮教、親鸞教はプロテスタンティズムに相当します。

 宗祖は「一生成仏」とか「即身成仏」を言われますので「三世説=方
便」という「転回」も可能かと考えています。その場合、「久成の釈尊」
が「報身(智慧)」であって、「意志や自意識を持った永遠の生命」の
ことではない(釈迦滅後の如来は実際には『法華経』である)という理解
がキーになると考えています。
 こういうことを言うと、shamon さんや川蝉さん、それに学会員のみ
なさんからもまた怒られると思うのですが、あせらずに丁寧に議論して
いこうと思っています。

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SF研からの続き Follow: 97 / No: 95
 投稿者:一男子部部長  00/05/13 Sat 17:31:47

Libra様

SF研からの続きです。

>僕は「用いるな」とは言っていません。

>僕自身は法華経を「出世の本懐経」と見ているのです。
>例えば、三吉さんの掲示板を参照して頂ければ幸いです。

>繰り返しになりますが、僕は法華経を「出世の本懐経」
>と見ていますし、一貫してそう主張しています。

このLibraさんの「釈迦の八万法蔵を用いることは否定しない」「釈尊の出世の本懐経は法華経である」という立場は、もともと十分に認識しています。前回のレスで私がLibraさんの言葉を引用した部分が長すぎて、ポイントがぼやけてしまったように思います。お詫び申し上げます。
私が「それを用いるのが当然だと思います」といったのは、「大聖人の立場を用いるのが当然だ」と言う意味です。

そういう意味で

>現在は、少なくとも文献学的には、「法華経」も
>「浄土三部経」もどちらも「釈迦の金口」とは言
>えないわけです(もちろん原始仏典も同様です)。
>その意味では、「法華経」と「浄土三部経」のうち、
>どちらを「出世の本懐経」と見るかは「主観的判断」
>の域を出ないわけです。

↑これに大変な違和感を感じるということです。

Libraさんが私のまわりにあまりいないタイプなので、よけいにそう感じるのかもしれませんが、「法華経も浄土三部経もどちらも「釈迦の金口」とは言えない。」という考え方は、拒絶反応を起こしちゃいますね。「生き方の違い」なのかもしれません。
Libraさんは「文献学」を離れて、「釈尊の八万法蔵」をどうとらえていらっしゃるのでしょうか。

>「法勝人劣」
>「経勝仏劣」
>「経は生命ではない」
>「生命論的会通」
>「人は軽く法は重きなり」
>「人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり」

この辺の議論は、私自身もう少し勉強(松戸氏の考えも含めて)してみます。

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レリジョン化した仏教 Follow: 96 / No: 94
 投稿者:顕正居士  00/05/13 Sat 15:22:00

>顕正居士にとっては、日蓮法華宗は「宗教」であって「元来の仏教」から
>逸脱しているということになるのでしょうか?だとすれば、どこまでが元来
>の仏教で、どの時点で元来の仏教からの逸脱が始まったのでしょうか?
>中観派は「元来の仏教」ではないのでしょうか?

根本仏教(縁起)と原始中観(空・無自性)を両方「元来の仏教」と考えます。
佐倉哲氏の見解にほぼ同じです。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html
「逸脱」は釈尊、龍樹の在世からだとおもいます。日蓮教や親鸞教は純然たる
レリジョンです。日本の仏教でも南都時代は違うでしょうが。しかし、「逸脱」
したからサヴァイヴァル出来たと云えます。またレリジョンは過去には学問、
文化の総体に近く有用でした。宗教化した仏教に存在する豊富なイメージは、
真理だとか史実だとか誤解しなければ、今でも有用と考えます。そのためにも
「無神論・無霊魂論」の真仏教に回帰すべき段階で、そうでなければ滅亡する
か、単に有害な存在として社会の周辺に残存するかでしょう。批判仏教もこの
コンテキストの中にあります。「無神論・無霊魂論」は過去には少数者にしか
受け容れられない説で、一神教を経て近代社会に到達するほうが現実的であり、
それゆえ、世界思想史の幾つかの局面で、全く異なる伝統から酷似した宗教が
発生したとおもう。日蓮教、親鸞教はプロテスタンティズムに相当します。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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顕正居士 へ(「元来の仏教」とは何でしょうか?) Prev: 92 / No: 93
 投稿者:Libra  00/05/12 Fri 18:06:43

> >「日蓮正宗系の在家信者」には僕も入っていると思うのですが
> 上は全称命題ぢゃないです。「ある(some)〜」を補って読んで下さい。

 そうですか。誤解しました。すいませんでした。

> >他の方も同じ
> わたしの名と関連のある某教団まで含めますか?

 ウワサはよく聞きますが、実際のところがどうなのかよく知りません。

> >信心
> わたしの云っているのはアイテムにこだわりがあるような意識の意味です。

 これも誤解でした。すいませんでした。
 正本堂が破壊されたと聞いた時には僕も悲しかったので、おっしゃること
はよく分かります。

> >顕正居士から「宗教はもう終ってる」等と言われた時〜
> 信教自由とは宗教を信じる自由、布教する自由、宗教を信じない自由、宗教を
> 信じないことを布教する自由です。しかしいきなり誰にでも云っても効果は
> ありませんから、Libraさんのように根性ありそうな方にしか云わないです。

 そうだったのですか。それなら「根性を見せる」ことによって恩返しする
しかありませんね。

> またわたしは元来の仏教は宗教(Religion)ではなく、一切の宗教を否定する
> 思想であると考えています。

 なるほど。「宗教」というの言葉の定義が問題になりそうですね。
 単刀直入にお聞きします。顕正居士にとっては、日蓮法華宗は「宗教」であ
って「元来の仏教」から逸脱しているということになるのでしょうか?だとす
れば、どこまでが元来の仏教で、どの時点で元来の仏教からの逸脱が始まった
のでしょうか?中観派は「元来の仏教」ではないのでしょうか?

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全称命題ぢゃないです Follow: 93 / No: 92
 投稿者:顕正居士  00/05/12 Fri 17:33:36

>「日蓮正宗系の在家信者」には僕も入っていると思うのですが
上は全称命題ぢゃないです。「ある(some)〜」を補って読んで下さい。
>他の方も同じ
わたしの名と関連のある某教団まで含めますか?
>信心
わたしの云っているのはアイテムにこだわりがあるような意識の意味です。
>顕正居士から「宗教はもう終ってる」等と言われた時〜
信教自由とは宗教を信じる自由、布教する自由、宗教を信じない自由、宗教を
信じないことを布教する自由です。しかしいきなり誰にでも云っても効果は
ありませんから、Libraさんのように根性ありそうな方にしか云わないです。
またわたしは元来の仏教は宗教(Religion)ではなく、一切の宗教を否定する
思想であると考えています。

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顕正居士へ(Re: 御戒壇様) Prev: 89 / No: 91
 投稿者:Libra  00/05/12 Fri 12:12:01

> 寺宝や聖遺物の多くは捏造ですが、崇拝されて幾百年も経ったアイテムには
> 敬虔な信者の想いがこもっていないでしょうか?したがってこういう話題は
> ウェッブでは避けたほうが好いんでないでしょうか?

 うーん。なかなか難しい問題ですね。ご忠告ありがとうございます。

> ○御戒壇様を本門戒壇の正本尊としてあらかじめ蓮祖大聖人が現されたという
> 教義は三秘中枢の戒壇法門に関係しますから、この点は議論の対象になるべき
> ですが、上記の理由により避けておられる方が日蓮宗の学者には大多数です。

 「三秘中枢の戒壇法門」については、広宣流布が実現するまでは

  受持即受戒也、経云是名持戒、(…)持経之処即戒壇也、法界道場云云
  (「三大秘法口訣(裏書)」、日蓮宗宗学全書第二巻、p.14)

という理解でいいのではないのでしょうか。本門寺をどこに建立すべきである
かとか、そこに御安置される御本尊がどの御本尊であるべきかというようなこ
とは後で考えればいいと僕は思います。

> ○時々、日蓮正宗系の在家信者には敬虔の情緒、信心というのは皆無であろうか
> と恐怖致します。

 「日蓮正宗系の在家信者」には僕も入っていると思うのですが、たとえ顕正
居士から見てどのように見えようが、僕は釈尊や宗祖に対して「敬虔の情緒、
信心」を持っています。日蓮の弟子になりとおす覚悟もあります。他の方も同
じではないでしょうか?
 顕正居士の上のような発言は、「他人の信心を土足で踏みにじるような行為」
には該当しないのでしょうか?前に顕正居士から「宗教はもう終ってる」等と
言われた時には正直言って「信心を土足で踏みにじ」られたような痛みを覚え
ました(僕がナイーブ過ぎる故の被害妄想なのでしょうけど)。

> 愚かな人が偽者の顕正居士と云う可能性があるから、ではないと云っておきます。

 意味がよく分かりません。 

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shamon さんへ(Re: 凡夫本仏論) Prev: 88 / No: 90
 投稿者:Libra  00/05/12 Fri 11:20:16

 shamon さん、おはようございます。

> 問答にならなく拡散しないように答えて下さいね。松戸氏の主張なら
> 松戸、貴方独自の解釈ならLibraと区別して下さい。

 shamon さんの求めておられる「問答」というのがいまいち理解でき
ていません。松戸氏の意見を問題視されているのか、これまでの僕の主張
を問題視されているのかがよく分かりません。少し説明して頂けないでし
ょうか。

> 松戸氏ならば、衆生本有の妙理=南無妙法蓮華経(経典ではない)です。

 松戸氏の議論にはあいまいな点も多く、確かに問題もありましょう。

> Libraさんは、衆生本有の妙理=法身、妙法蓮華経=報身と分けて考えて
> いると言うことで宜しいですか。

 『法華経』の智慧は「報身」です。物体として存在し、人々を教化する
物質的存在としては「応身」です。能観としての「智慧(報身)」は所観
の「真理」(法身)を包含しています(境智冥合)。従って、『法華経』
は「釈迦滅後の応身(釈迦)」であり、「三身如来」であり、「釈迦滅後
の本仏」ということです。

  妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ
  (「諸法実相抄」、全集、p.1358)

  応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真
  の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人も
  あり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり
  (「御衣並単衣御書」、全集、p.971、ご真筆は中山法華寺に
   完存)

 「衆生本有の妙理」については、「本有」という言葉のとらえ方にもよ
ります。「潜在能力として本有」と言う意味ならば、三因仏性は「本有」
です(「如来蔵思想批判の批判的検討」参照)。
 しかし、実際には「法華経を受持」してはじめて三因仏性が「現実にあ
らわれる」わけです。「境(法身)」と冥合した「釈尊(応身)」の「智
慧(報身)」を「釈尊滅後の応身」である『法華経』から「経力」により
授かって、自分のものにして「如説修行」する「法華経の行者(人間)」
の身体はそのまま『法華経』であり、「本仏」であるということです。
 
  此の法華経には我等が身をば法身如来我等が心をば報身如来我等がふ
  るまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ず
  る人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈
  にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候、南無妙法蓮華経と唱
  うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候一部の肝要八軸
  の骨髄にて候。
  (「妙法尼御前御返事」、全集、p.1402)

  我等衆生悪業煩悩生死果縛の身が、正了縁の三仏性の因によりて即法
  報応の三身と顕われん事疑ひなかるべし、妙法経力即身成仏と伝教大
  師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏
  したりと申す事なり御疑候べからず
  (同上、全集、p.1403)

  法身とは法身如来般若とは報身如来解脱とは応身如来なり我等衆生無
  始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となる
  なり。
  (「始聞仏乗義」、全集、p.983、ご真筆は中山法華寺に完存)

  付法蔵の第十三天台大師の高祖竜樹菩薩妙法の妙の一字を釈して譬え
  ば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我
  等が煩悩業苦の三道なり薬とは何物ぞ法身般若解脱なり、能く毒を以
  て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、天台云く妙は不
  可思議と名づく等云云、又云く一心乃至不可思議境意此に在り等云云、
  即身成仏と申すは此れ是なり(…)
  問う是くの如し之を聞いて何の益有るや、答えて云く始めて法華経を
  聞くなり、妙楽云く若し三道即是れ三徳と信ぜば尚能く二死の河を渡
  る況や三界をやと云云、末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成
  仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり
  (同上、全集、p.984)

  釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座
  候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身に
  して本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三
  身にして本仏ぞかし
  (「諸法実相抄」、全集、p.1358)

 曼陀羅にからめて言えば、釈迦は「応身」を、多宝は「法身」を、中尊
の「南無妙法蓮華経」は「報身」をあらわしているのではないのですか?

> 如来使は、仏身を保つ者でなく、本仏ですか。

 おそらく「本仏」という言葉の定義ですれ違っているのでしょう。僕は
「本仏」という言葉を「真の仏」という意味で使っています。
 釈尊が「本仏」なら「末法の法華経の行者」も「本仏」なのではないで
しょうか?

  我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故
  なり、経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉
  等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母
  の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王となら
  ず、師子王の子は師子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経
  の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊の
  ごとく法王とならん事難かるべからず、但し不孝の者は父母の跡をつ
  がず尭王には丹朱と云う太子あり舜王には商均と申す王子あり、二人
  共に不孝の者なれば父の王にすてられて現身に民となる、重華と禹と
  は共に民の子なり孝養の心ふかかりしかば尭舜の二王召して位をゆづ
  り給いき、民の身忽ち玉体にならせ給いき、民の現身に王となると凡
  夫の忽に仏となると同じ事なるべし、一念三千の肝心と申すはこれな
  り
  (「日妙聖人御書」、全集、pp.1215〜1216)

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御戒壇様 No: 89
 投稿者:顕正居士  00/05/11 Thu 20:27:29

>どなたか詳しい方おられませんでしょうか?

釈尊の舎利はあらゆる処にあります。釈尊入滅の際、分骨して仏塔に納め、
その後も分骨されたのは史実ですが、こんなにあるわけはありません。
寺宝や聖遺物の多くは捏造ですが、崇拝されて幾百年も経ったアイテムには
敬虔な信者の想いがこもっていないでしょうか?したがってこういう話題は
ウェッブでは避けたほうが好いんでないでしょうか?

でも、いちおう御戒壇様について少し云いますと、

○板曼荼羅の真偽の意味は分からない。御戒壇様は蓮祖大聖人が御みづから
楠の板に彫刻された伝説もあるのですが、富士派には認められない日法上人
系統の荒唐無稽の伝承です。それで紙幅の曼荼羅があったはずと、松本佐一郎
さんすら信じておられた。
○板曼荼羅に真筆、偽筆は論理上あり得ません。
○御戒壇様を本門戒壇の正本尊としてあらかじめ蓮祖大聖人が現されたという
教義は三秘中枢の戒壇法門に関係しますから、この点は議論の対象になるべき
ですが、上記の理由により避けておられる方が日蓮宗の学者には大多数です。
○時々、日蓮正宗系の在家信者には敬虔の情緒、信心というのは皆無であろうか
と恐怖致します。

愚かな人が偽者の顕正居士と云う可能性があるから、ではないと云っておきます。
わたしは I do not believe in anythig(クリシュナムルティのある著書の名です)
をモットーとしておりますが、他人の信心を土足で踏みにじるような行為は嫌い
です。御質問の方の趣意はむしろ敬虔な意図から出たか知れませんが。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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凡夫本仏論 No: 88
 投稿者:shamon  00/05/11 Thu 11:54:04

Libraさん

問答にならなく拡散しないように答えて下さいね。松戸氏の主張なら
松戸、貴方独自の解釈ならLibraと区別して下さい。

松戸氏ならば、衆生本有の妙理=南無妙法蓮華経(経典ではない)です。
Libraさんは、衆生本有の妙理=法身、妙法蓮華経=報身と分けて考えて
いると言うことで宜しいですか。

如来使は、仏身を保つ者でなく、本仏ですか。

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みなさまへのレス Prev: 86 / No: 87
 投稿者:Libra  00/05/11 Thu 10:46:10

=====================================
青葉さんへ

 はじめまして、青葉さん。よろしくお願いいたします。

>戒壇の大御本尊は真とする意見(正宗・学会)と偽とする意見(日蓮宗等)に分か
>れますが 真実のところはどうなんでしょうか。Libraさんにお尋ねします。
 
 さて、その場合の「真・偽」の定義はどうなりますでしょうか?日興上人が日目
上人に相伝したと伝わっている「弘安二年」の曼陀羅が、現在の「板曼陀羅」かど
うかということでしょうか。僕はその点については全く無知なのでお答えする資格
を持ちません。どなたか詳しい方おられませんでしょうか?

 僕の「曼陀羅」についての考えは以下のようなものです。

  >  だいたい、「曼荼羅」っていうのはその物自体に
  > 霊力がやどっているようなモノではないでしょう。
  > 宗祖が、命をかけて表現された「法華経の肝要(エ
  > スプリ、エッセンス)」でしょう。もちろんエッセ
  > ンス中のエッセンスは「題目」なわけですが。
  >
  >  そう考えれば、「曼荼羅」に優劣があるなどとい
  > う発想自体がナンセンスです。いかなる「曼荼羅」
  > であっても、そこに表現されている「法体」は同じ
  > ものです。
  >  また、「真筆」か「書写」かという違いも決定的
  > ではないでしょう。例えば、写本の『妙法蓮華経』
  > と、羅什(の門下)の直筆の『妙法蓮華経』とで
  > 「法体」が異なるでしょうか?宗祖直筆の諸御書
  > と現在本の形で発行されている御書とで「法体」が
  > 異なるでしょうか?
  (ゆきぞさんの掲示板、02月15日(火)22時58分46秒)

=====================================
山口 さんへ

 はじめまして、山口さん。よろしくお願いいたします。

> 日寛上人の六巻抄は正しい教えなのでしょうか。

 松戸行雄氏は「日寛教学を止揚すべき」という意味のことを言われてますね。
 教学の発展には「時代の要請」というファクターも大きいので、単純に「間
違った教え」と言うことは出来ないと思いますが、僕は松戸氏の意見に大筋で
賛成です。

> 松本修明さんは、三重秘伝抄は種脱相対でなく、三種の教相の師弟の遠近をいった
> ものであり、日寛師はホウボウであるとしているようです。
> この点について、Libraさんはどう思われますか。

 不勉強なので、松本修明さんという方を存じ上げません。しかし、「種脱相
対」というのが「釈迦仏法は末法には何の功徳もない」という意味であるとす
るならば、「ホウボウ」と言わざるを得ませんね。
=====================================
shamonさんへ
 
 おはようございます、shamonさん。

> 本覚思想>己心本尊論(興門徒)>凡夫本仏論
>
> Libraさん、少し問答してもらえますか。

 よろしくお願いいたします。

> 衆生本有の妙理を妙法蓮華経の法体とし、妙法蓮華経の題目を信受することに
> より、法体が凡夫の身に顕れ、顕れた身が本仏という主張で宜しいですか。
 
 ちょっと時間がないので、「図式的表現」になることをご容赦下さい。

 ○衆生本有の妙理=「空性」=「縁起の法」=「法身」

 ○妙法蓮華経  =「縁起の法」(法身)を覚った釈尊(応身)の智慧(報身)
           の結晶たる経典(仏滅後の応身)。但し、報身が正意。
          
 ○妙法蓮華経の題目を信受する = 妙法蓮華経の受持(自行・化他)
                    ↑題目は「法華経の神(たましい)」
                     だから
              
 ○妙法蓮華経を“能く受持する”人間は「応身」
   →あくまでも“能く受持する”ことが必要条件

    ●法華経の行者とならせ給へば仏とをがませ給うべし、(…)法華経
     の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」
     (「上野殿後家尼御返事」、全集、1504頁)
 
    ●吾が滅後の悪世に 能く是の経を持たん者をば
     当に合掌して礼敬して 世尊に供養するが如くすべし
     (法師品第十)

> 問う、衆生本有の妙理、妙法蓮華経の法体とは如何なるものですか。

 ○衆生本有の妙理=「縁起の法」=「法身」

 ○妙法蓮華経の法体 = 妙法蓮華経に説かれている智慧
             (釈尊の智慧の結晶=報身)

 ○「妙法蓮華経の法体」を“能く受持する”ことによって、人間は「応身」
  の「如来使」となる。

#「如来蔵思想批判の批判的検討」も御覧になって頂ければ幸いです。
=====================================

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目に余る凡夫本仏論 Follow: 87 / No: 86
 投稿者:shamon  00/05/10 Wed 21:58:21

本覚思想>己心本尊論(興門徒)>凡夫本仏論

Libraさん、少し問答してもらえますか。

衆生本有の妙理を妙法蓮華経の法体とし、妙法蓮華経の題目を信受することに
より、法体が凡夫の身に顕れ、顕れた身が本仏という主張で宜しいですか。

問う、衆生本有の妙理、妙法蓮華経の法体とは如何なるものですか。

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日寛上人の教えについて No: 85
 投稿者:山口  00/05/10 Wed 17:34:42

日寛上人の六巻抄は正しい教えなのでしょうか。
松本修明さんは、三重秘伝抄は種脱相対でなく、三種の教相の師弟の遠近をいった
ものであり、日寛師はホウボウであるとしているようです。
この点について、Libraさんはどう思われますか。

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戒壇の大御本尊について No: 84
 投稿者:青葉  00/05/10 Wed 17:27:33

戒壇の大御本尊は真とする意見(正宗・学会)と偽とする意見(日蓮宗等)に分かれますが
真実のところはどうなんでしょうか。Libraさんにお尋ねします。

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一男子部部長 さんへ(Re: Libraさんってこういう方だったんですね) Prev: 82 / No: 83
 投稿者:Libra  00/05/07 Sun 11:47:06

> SF研では、大変に失礼をいたしました。

いえいえ、とんでもありません。これからもよろしくお願いいたしま
す。

> 論文、「如来蔵思想〜」を読ませていただきました。
> 大変な勉強量ですね。こういう研究をされている方とも知らずに、SF
>研では偉そうに御書を引いて講釈まで述べてしまいました。

 論文というのは本人が勝手にそう言ってるだけで、きちんとした雑誌
にのったものではありません(汗)。

>無礼ついで
>に私なりの感想等も述べたいと思いますが、なにぶん多忙につきいつに
>なるか・・・。あまり期待せずにお待ちいただければ幸いです。

期待して気長にお待ちします(^_^)。

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Libraさんってこういう方だったんですね No: 82
 投稿者:一男子部部長  00/05/06 Sat 23:54:12

Libra様

SF研では、大変に失礼をいたしました。

論文、「如来蔵思想〜」を読ませていただきました。
大変な勉強量ですね。こういう研究をされている方とも知らずに、SF研では偉そうに御書を引いて講釈まで述べてしまいました。無礼ついでに私なりの感想等も述べたいと思いますが、なにぶん多忙につきいつになるか・・・。あまり期待せずにお待ちいただければ幸いです。

とりあえずご挨拶まで。

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かわちさんへのご返事2 No: 81
 投稿者:いっくん  00/05/05 Fri 01:19:13

池田先生はどこまでも善人でひとがいい方、悪くいえばだまされやすい方。
組織利用のよこしまな人々がそれらの正体をあらわすまでは、先生は彼らの信心と
可能性のほうを暖かく見つめ成長を期待されるような方だと思います。
だからこそ組織の長として学会のいろんな人材をここまで育成され組織発展の原動
力とさせてきたんじゃないのかなぁ。

以前の諸問題について。
1.言論問題      
広く社会一般に対しても「政教分離」を表明。人事・財政・政策決定での分離へと展開されました。
「今後は仏法者としてのみ行動する」っていう趣旨の有名な表明がありますね。
むろん現在に照らしても、政治との関わりについては活用されてます。
なお一部の乱暴な論「学会は選挙での支援活動しちゃならん」については明確な違憲。上記とは
根本的に違ったレベルの低次元な話です。

2.第一次山崎問題
僧俗和合路線や日達元法主を守るために、悪意や斜に構えた見方でみれば誤解とも
受け止められうる行為等(後に反逆した幹部の突飛な言動も大きく含まれます。)を
背景に池田先生は会長職を辞しておられます。(辞す必要なかったのだけど残念ながら
当時は今ほど民度は高くなかったていう環境も考慮にいれる必要あり)
今の現実に照らしても現在、会長は秋谷さんであり団体の運営・実務などからは先生は
手をひかれています。

>公明党で砂利汚職で有罪になった田代議員、リクルート事件で有罪 になった池田議員、彼らは二人とも熱心な学会員であったはずです。

表面で熱心な信者のふりは誰でもできます。ご指摘の犯罪行為をした時点で彼らの仮面は既にはがれています。
この二人のような人物にとりあう必要はありません。ただし彼らが反省し懺悔し新たに信仰心を復活させる気概
があるなら話は別です。罪は罪として憎んだ上で、蘇生を誓う一市民として暖かく見守ってあげるっていうのが
人道だと思います。
除名や聖教での追撃がなかったっていうのは多分そのあたりのところじゃない。

>その反面、創価学会にたてついた者については容赦のない批判(部外者からみて見るに耐
>えない表現)が機関誌において延々と続く・・・ このような組織のあり方については疑
>問を呈せざるを得ません。

公人で学会を愚かなこじつけなどで容赦なく誹謗する輩に対しては、誤解を防ぐ意味でも
徹底して機関紙が反撃するのはものの道理だよ。デマなどにだまされてしまう方々がでても
かわいそうだしね。

かわちさんも脱会されたっていうことだけど、形式的に言えば、会員には戻れないかも
しれないけど会友として僕ら学会員と実質まったく同じ内容で信心や活動できる道が
待ってるよ。きっと地域の方々も喜んで暖かくお迎えしてくださるよ。
さあ、やろうよ。 ねっ^^

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いっくんさんへ No: 80
 投稿者:かわち  00/05/04 Thu 06:42:26

横レスです。

>学会も人の集まり。誇りある凡夫の集団であるからこそ仏意仏勅の団体といえども
>、運営面、判断、幹部への人物評価などに時として過ちはあると思います。
>古くは言論問題や第一次山崎問題などでも自己批判はしてます。

本当に自己批判しているでしょうか? どのような自己批判をしたかご存じでしょうか?
それが、いまの現実に照らしてどうなのでしょうか? 私はこのことについては創価学会
に対し不信感をもっています。

>ただ幹部が個人的に学会や学会員を利用して行なった事例等に対しては学会そのものが
>団体としての責任は問われるべきではありません。むろん「人を見る目がなかった」
>とのご批判派甘んじて受けてると思うし本部内部ではそれなりの指導は関係者等厳しく
>受けたものと推察します。

全くおっしゃっていることに同感です。しかし、果たしてそれがちゃんとできている
でしょうか。たとえば公明党で砂利汚職で有罪になった田代議員、リクルート事件で有罪
になった池田議員、彼らは二人とも熱心な学会員であったはずです。しかし彼らが有罪に
なったあといったい創価学会は何をしたのか? 公明党も離党を認めただけですし(本来的
には除名をすべきでしょう)、聖教新聞の中で彼らを批判する文書も見たことがありません。

その反面、創価学会にたてついた者については容赦のない批判(部外者からみて見るに耐
えない表現)が機関誌において延々と続く・・・ このような組織のあり方については疑
問を呈せざるを得ません。

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The speedy response No: 79
 投稿者:いっくん  00/05/01 Mon 23:28:47

学会も人の集まり。誇りある凡夫の集団であるからこそ仏意仏勅の団体といえども
、運営面、判断、幹部への人物評価などに時として過ちはあると思います。
古くは言論問題や第一次山崎問題などでも自己批判はしてます。

ただ幹部が個人的に学会や学会員を利用して行なった事例等に対しては学会そのものが
団体としての責任は問われるべきではありません。むろん「人を見る目がなかった」
とのご批判派甘んじて受けてると思うし本部内部ではそれなりの指導は関係者等厳しく
受けたものと推察します。

ただね、ここからが一番言いたいこと^^
大聖人の宗教批判の原理を土台として学会が展開した、信仰論を機軸とした議論に
かぎっていうと間違いはないものと考えています。

じゃあね(^◇^)

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いっくんさんへ Prev: 75 / No: 78
 投稿者:Libra  00/05/01 Mon 19:55:13

> 学会は別に昔書いてたことを撤回してるわけではないしその必要はまったくありません。

 学会だって間違うことはあるでしょう。間違いに気付いたらきちんと謝
る必要があるのではないでしょうか?

> 信仰論を機軸とした議論に妥協は不要でありましょう。

 間違いに気付いて謝ることは「妥協」とは違うのではないでしょうか?

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かわちさんへ Prev: 74 / No: 77
 投稿者:Libra  00/05/01 Mon 19:49:15

 横レス失礼です。

> はじめまして、かわちと申します。「元」学会員ですが、現在は無所属です。

 そうだったんですか。某掲示板では「かわちさんよりは法華経を読んでる」な
どと言ってしまいましたが、謹んで撤回させて頂きます(汗)。
 

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ギンバエさんへ Prev: 71 / No: 76
 投稿者:Libra  00/05/01 Mon 19:44:23

 はじめまして、ギンバエさん。

> セントラルステーション、この前ビデオで観た。
> おすすめできる。
> ただのあったかい映画じゃないのは、確か。

 僕はまだ見てないです、いいなぁ。


> 映画、好きなんだよ。俺も。

 「ボビーフィッシャーを探して」っていう映画知ってます?
僕が一番好きな映画なんですけど。

 

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かわちさんへのご返事 Follow: 78 / No: 75
 投稿者:いっくん  00/04/29 Sat 00:38:45

はじめまして、かわちさん。こちらこそよろしくね!

>昔の聖教新聞には、いまの宗門に対するような調子で「見延」に限らず他宗教のことを批
>判していました。

おっ、いいじゃん。なんか教えていただいたそれらと今を比較すると後者は他宗派・他宗教への
批判が影をひそめてるよね。
ただね、それは宗門っていう潜聖増上慢が具体的に姿をあらわし策謀&拙い学会攻撃を続けてる今、聖教の論陣の矛先が「邪宗中の邪宗」である現宗門や脱会及び除名になった特定の元幹部たちに集中するっていうのは自然なことだと考えてるよ。

学会は別に昔書いてたことを撤回してるわけではないしその必要はまったくありません。
信仰論を機軸とした議論に妥協は不要でありましょう。
もし僕そこに書かれてる宗教団体などから現実にお金を巻き上げられている親友がいるなら同じこと言うと思うよ。
何でも話せる先祖代々某関東系既成仏教の信者の友人には今まで何度もかなりドギツイこと言っています。ごめんね、人権的にもここではその内容は書けません。本人は「へ-、そうなん」程度で残念ながらまだ入会には至ってないけど^^:


>あわせて、五重相対(内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、教観相対)ということ
>からいえば、キリスト教やイスラム教はもっとも「低レベル」の教えになるかと思うのです
>が、どうして、そのような宗教と「対話」が成立するのかもよくわかりません。

まず、相対は相対に過ぎず価値の格付けとは別物であるような気がするけど..まぁ、いいや、ここでは書きません。突っ込まれても僕困るし^^

また教観相対って初耳です。種脱相対のことかなぁ。あっ、これもパスね^^

キリスト教やイスラム教などと話し合うのは宗教論争や教義論を交わせっていう意味ではなく例えばこの混迷の世界の中で人道的に宗教者として何かできうることがないか具体事例に即した上での語り合いは有意義なことだっていう意味で書いたのです。
だから、宗教上の自派の持論はこの場合たいして意味は持たなくなります。
又それは少なくとも身延などと話し合うこととの比較想定が前提です。

じゃあね(^◇^)

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 Follow: 77 / No: 74
 投稿者:かわち  00/04/28 Fri 04:41:43

いっくんさんへ

はじめまして、かわちと申します。「元」学会員ですが、現在は無所属です。
昔の聖教新聞には、いまの宗門に対するような調子で「見延」に限らず他宗教のことを批判していました。

「亡国の邪教天理教」「立正校正会を撃て!!」「私は念仏が憎い」
「無間地獄の宗教念仏宗」「これが墓言宗ー、一家を滅ぼす教え」
「宗教を利用し、庶民の宗教的無知につけ込んだ金もうけ手段」
「いろいろな仏具や物品を売りつける」 「性格判断、水子供養で金をとる」
「保険代理業で会員を利用して金もうけ」「ゴルフ場や出版で収益」
「戒名による金もうけ」「墓地商売による金もうけ」「国然話や祈祷、御利益話で信者から
 金をまきあげる」「団体参拝者対象の旅館業」「結婚式や葬式ビジネス」「有名寺院の観光業」
「罰やタタリで信者をこわがらせ、お払いや魔除け名目で金をとる」

このあたりは是非、年輩の学会員の方にお聞き下さい。ですから「見延」を邪宗教だと批判していたとすれば、別に日顕氏云々ではありません。
あわせて、五重相対(内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、教観相対)ということからいえば、キリスト教やイスラム教はもっとも「低レベル」の教えになるかと思うのですが、どうして、そのような宗教と「対話」が成立するのかもよくわかりません。

「対話」そのものは否定はしないのですが、昔の学会を知る者としては、どうも現在の学会はご都合主義的な感があります。まあ昔が良かったというわけではありませんが・・

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あっ映画ね^^ No: 73
 投稿者:いっくん  00/04/25 Tue 02:05:40

セントラルステーション? あっ映画ね^^

グラハムセントラルステーションって黒人バンドがあったんだよ。
E・ベ-スのスラッピング奏法(年くった人はチョッパ-って呼んでる)を初めて
開発したベ-シスト、ラリ-・グラハムがスライのバンドを脱退した後作ったバンド
です。じゃあね^^

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Libraさん、コメント感謝なり^^ No: 72
 投稿者:いっくん  00/04/25 Tue 01:45:55

>聖教新聞等において「身延」=「邪宗」というような言い方をするのは早くやめて欲しいです。

むかしの聖教はよく知りません。今、創価新報等で「身延」=「邪宗」というような表現があると
するなら(ごめんね、身延のこと意識して読んでませんので)多分日顕の坊さんたちのよこしまな
ふるまいをわかりやすく読者に示すためにそう表現してるのでは。

単独で身延派や真宗などを名指しで言及&仏法的に批判を加える記事は僕は読んだことありません。
したがってその範疇内での「邪宗」との表現もみたことありません。
ごめんね。Libraさんと比べれば教学や哲学上での問題意識や聖教等の熟読度は僕薄いと思うんだ。
歴史となれば話は別だけど..

>伝統的な創価学会の教学(もちろんそれは基本的には「日蓮正宗の教学」を意味するわけですが)にはやはりいろいろ問題
>があるのではないでしょうか?そういう問題をさしおいてキリスト教やイスラム教と対話するというのはいかがなものかと
>思います。
>世界に目を向けること自体は決して悪いことではありません。しかし、まずは自分たちの足もとをしっかりかためる必要が
>あるのではないでしょうか?

足元を固めるのにこしたことはありません。だけど世界では戦争や核開発・飢餓などものすごい不条理などが渦巻いています。
時間や労力は効率的に使うのが価値ある判断基準です。
相対的に葬式仏教・伽藍仏教の形態を取り民衆への影響力も薄い組織体を相手にするひまがあれば、やはり海外のいろんな
事象に目を向けたほうがいいと思います。(上記の形態の仏教でも中には少数ながら尊い利他の実践や民衆の中に溶け込む
努力をされてる人々はいます。だから「相対的」と書きました。

足元を固めてからじゃないと海外との対話などは砂上の楼閣っていうふうにも聞こえるけどそうじゃないよね。
矛盾はどんな世界でも必ずあります。だけど、それにとらわれすぎるのは疑問。
なぜって足元を固めるためには「時」だって必要だし古い既存の概念の払拭って結構気も遠くなるような労作業
だと思うから。その間も海外では
Some people are being forced to die day by day,especially chirdren,women,sick persons and so on,who
aren't strong relatively.Let me see, Excited with writing,I tend to be a foreigner naturally^^

場を変えたとこ(この場合海外)での真摯な取り組みが場合によっては内在する矛盾を消すんじゃなくていい方向に
持っていけることもありえるしね。客観性はその過程で自然とついてくると期待するよ。

大聖人がこの世に出られた目的は一言で言えば「民衆救済」だと思います。その意味でも昨日僕が書きこんだことは
わかってもらえればなぁと思ってるよ。じゃあね。

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Libraさんへ Follow: 76 / No: 71
 投稿者:ギンバエ  00/04/24 Mon 18:55:03

セントラルステーション、この前ビデオで観た。
おすすめできる。
ただのあったかい映画じゃないのは、確か。

映画、好きなんだよ。俺も。

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いっくんさんへのレス Prev: 67 / No: 70
 投稿者:Libra  00/04/24 Mon 14:53:19

 こんにちは、いっくんさん。

> 論文はいつか必ず読むから^^

 それはもう、読んで頂けるというだけで幸せです。

> 創価学会と日蓮宗は現段階では本部同士での対話よりまずやるべき対話
>はあるのではと考えます。
> 個人間ではやりたい人がやるのは大変いいことだと思います。

 個人でやることは止められないですね。でも、聖教新聞等において「身
延」=「邪宗」というような言い方をするのは早くやめて欲しいです。

> ただし本部同士については向こうから申し出てくれば別です。(ありえ
>ないけど^^)

 たとえこちらから申し出たとしても「相手にしてもらえない」可能があ
ります。もちろんそれは法華経の精神に反するわけですが。

> 今それをする労力・時間があればむしろ外国のいろんな
> 宗教(詣縦教、イスラム教など)と対話をするほうがベタ-だと思います。

 その理由をお聞きしたいです。

 例えば、宗門問題を通じて、松戸行雄氏のような考えも学会内では芽生
えているわけでしょう。伝統的な創価学会の教学(もちろんそれは基本的
には「日蓮正宗の教学」を意味するわけですが)にはやはりいろいろ問題
があるのではないでしょうか?そういう問題をさしおいてキリスト教やイ
スラム教と対話するというのはいかがなものかと思います。

> また世界で起こっているいろんな困難な問題について組織として状況を
>詳細かつ体験的に感得する観点からも海外の多くの民衆の心をつかんで
>いるそれらの宗教と対話をする方が先決では..

 世界に目を向けること自体は決して悪いことではありません。しかし、
まずは自分たちの足もとをしっかりかためる必要があるのではないでしょ
うか?

  総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成し
  て異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大
  事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是
  なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日
  蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城
  を破るが如し
  (生死一大事血脈抄、全集1337頁)       
 
  日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を
  成じて一定法華経ひろまりなんと覚へ候
  (異体同心事、全集1463頁)

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顕正居士へのレス Prev: 66 / No: 69
 投稿者:Libra  00/04/24 Mon 14:26:38

 顕正居士 こんにちは。ご意見ありがとうございます。無

> 「創価学会と日蓮宗」だから団体間の外交交渉みたいですが。たとえば、
> ○葬儀及び華僑圏布教への協力(華僑圏では在家仏教は相手にされない)

 そうなんですか。そういう現実的な問題もあるんですね。

> ○創価大学及び教学部への協力(創価学会には専門家がほぼ皆無です)

 これは僕も痛切に感じます。この間「東洋哲学研究所」の研究員の数を
見て涙が出ました。僕を研究員にしてくれたらバリバリ研究してバリバリ
論文書くのになぁ。結構お買い得だと思うんですけど(←増上慢 ^_^;)。
 
> 「一致派・勝劣派」について
>
> 本門14品、8品、1品2半等の違いがあっても日蓮法華宗は皆本門立ちです
> から、「一致派」ってのはありません。

 もちろん基本的にはそうですね。ただ、「一応は勝劣、再往は一致」な
どと言われると、「イヤイヤ、一応は一致、再往は勝劣でしょう」とか言
いたくなるんですよ(^_^;)。それは別の視点から同じ事を言ってるんだから
「議論になってない」のはよく分かってますが。

>「勝劣派」は興門、八品派などの
> 自称ですが。教義的にはほとんど意味なく思います。なぜなら「勝劣」を
> 強調すると、「二経論」(法華経は二経の合本)になってしまうから、
> 「勝劣派」も法華経のひとまとまりは否定しない。「一致」はそういう意味。
 
 天目の「方便品不読論」とか、そういう誤った「勝劣」観に対する正論
としての「一致」ということですね。「本門立ち」そのものを否定してい
るわけではないと。

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打ち込みミス訂正 No: 68
 投稿者:いっくん  00/04/24 Mon 00:42:43

最後から4行目の>詣縦教 はキリスト教です。 打ち込みミスです。ごめんなさい。

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ひさしぶりです、Libraさん Follow: 70 / No: 67
 投稿者:いっくん  00/04/24 Mon 00:39:27

論文読まずに書いてます。だからLibraさんや皆さん、僕のこの書きこみを相手にしたり深く考えたりしないでね^^
論文はいつか必ず読むから^^

創価学会と日蓮宗は現段階では本部同士での対話よりまずやるべき対話はあるのではと
考えます。
個人間ではやりたい人がやるのは大変いいことだと思います。

ただし本部同士については向こうから申し出てくれば別です。(ありえないけど^^)

今それをする労力・時間があればむしろ外国のいろんな
宗教(詣縦教、イスラム教など)と対話をするほうがベタ-だと思います。
また世界で起こっているいろんな困難な問題について組織として状況を詳細かつ体験的に
感得する観点からも海外の多くの民衆の心をつかんでいるそれらの宗教と対話をする
方が先決では..

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ところで Follow: 69 / No: 66
 投稿者:顕正居士  00/04/23 Sun 14:58:02

「一致派・勝劣派」について

本門14品、8品、1品2半等の違いがあっても日蓮法華宗は皆本門立ちです
から、「一致派」ってのはありません。「勝劣派」は興門、八品派などの
自称ですが。教義的にはほとんど意味なく思います。なぜなら「勝劣」を
強調すると、「二経論」(法華経は二経の合本)になってしまうから、
「勝劣派」も法華経のひとまとまりは否定しない。「一致」はそういう意味。
実際は大石寺日有と行学日朝の宗学なんか、ほとんど差がないのです。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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ご返事は・・・ No: 65
 投稿者:三吉  00/04/23 Sun 12:04:06

Libraさん

長文になりましたので、別の掲示板にアップしました。
実はあなたのここを見よう見真似で掲示板を作っていたのです。
それではよろしく。

http://www.aaacafe.ne.jp/free/sankichi/main.bbs

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拝見しました No: 64
 投稿者:顕正居士  00/04/23 Sun 10:55:30

>創価学会と日蓮宗が「冷静に話し合える関係」になるためには
>どうすればよいのでしょうか?
「何をどのように話し合えばいい」?(のび太さん)
「創価学会と日蓮宗」だから団体間の外交交渉みたいですが。たとえば、
○葬儀及び華僑圏布教への協力(華僑圏では在家仏教は相手にされない)
○創価大学及び教学部への協力(創価学会には専門家がほぼ皆無です)
○真蹟曼荼羅の影印の許諾
等でしょうか?

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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創価学会と日蓮宗の「対話」の可能性について(3) No: 63
 投稿者:Libra  00/04/23 Sun 05:50:53

「創価学会批判」とその心理(1)
  ↑僕は( Date: 1999年 12月 04日 土曜日 17:48:18)から参加しました。
「創価学会批判」とその心理(2)
================================
創価学会の教えている謗法とは(再)(1)
  ↑僕は( Date: 1999年 12月 23日 木曜日 3:52:25)から参加しました。
創価学会の教えている謗法とは(再)(2)
================================
悪について(1)
  ↑僕は( Date: 1999年 12月 18日 土曜日 11:50:02)から参加しました。
悪について(2)
悪について(3)
================================

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創価学会と日蓮宗の「対話」の可能性について(2) No: 62
 投稿者:Libra  00/04/23 Sun 05:50:05

観心本尊抄について〜教学論議(1)
   ↑僕は( Date: 1999年 12月 15日 水曜日 12:46:34)から参加しました。
観心本尊抄について〜教学論議(2)
観心本尊抄について〜教学論議(3)
観心本尊抄について〜教学論議(4)
観心本尊抄について〜教学論議(5)
観心本尊抄について〜教学論議(6)
観心本尊抄について〜教学論議(7)
観心本尊抄について〜教学論議(8)
観心本尊抄について〜教学論議(9)
観心本尊抄について〜教学論議(10)
観心本尊抄について〜教学論議(11)
観心本尊抄について〜教学論議(12)
観心本尊抄について〜教学論議(13)
観心本尊抄について〜教学論議(14)
観心本尊抄について〜教学論議(15)

#(13)以降のURLの「room_01」はいずれは「R_room_20」に変更される
#でしょう。
================================
どなたか、詳しい方いませんか?(1)
  ↑僕は( Date: 2000年 1月 11日 火曜日 14:50:19)から参加しました。
どなたか、詳しい方いませんか?(2)
どなたか、詳しい方いませんか?(3)
どなたか、詳しい方いませんか?(4)
どなたか、詳しい方いませんか?(5)
どなたか、詳しい方いませんか?(6)
================================

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創価学会と日蓮宗の「対話」の可能性について(1) No: 61
 投稿者:Libra  00/04/23 Sun 05:49:08

 SF研で、創価学会と日蓮宗の「対話」の可能性についての議論を始め
ました。

 以下は、過去に僕が参加したSF研の議論です。

================================
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(1)
  ↑僕は( Date: 1999年 12月 02日 木曜日 10:46:23)から参加しました。
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(2)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(3)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(4)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(5)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(6)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(7)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(8)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(9)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(10)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(11)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(12)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(13)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(14)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(15)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(16)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(17)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(18)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(19)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(20)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(21)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(22)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(23)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(24)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(25)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(26)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(27)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(28)
聖教新聞に見られる"誹謗中傷悪口"について(29)
================================

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所詮、水と油であった No: 60
 投稿者:通りすがりの者  00/04/23 Sun 02:05:03

ここにうっかり書き込んでしまったのは、全くの不覚であった。
以後、書き込むことも無ければ、ROMすることもないでしょう。

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三吉さんへのレス(2) No: 59
 投稿者:Libra  00/04/20 Thu 17:11:27

>>1.『法華経』の「陀羅尼思想」
>
>なるほど。陀羅尼から日蓮さんが題目を見出したするならば、何故経にある
>「安爾 曼爾 摩禰 摩摩禰 旨隷 遮梨第 ・・ ・」ではなく、「南無妙法蓮
>華経」なのでしようか?これは呪文ですし、長いものです。なぜ短くしえたか?
>それとこれは法華の行者を守護するためと言う目的で、成仏のための「行」という
>思想性ではなく、補助的なものでしょう。

 陀羅尼品を読めば分かりますが、陀羅尼(呪文)は行者が唱えるものではなく、
法華経の行者を守護する菩薩や羅刹女等が唱えるものです。したがって、陀羅尼
自体は「行」ではありません。「行」は、基本的には「法華経の一詩頌でも心に
とどめ、読誦し、理解し、他人に語る」ことでしょうが、究極的には「題目」で
あるというのが『法華経』の「陀羅尼思想」でしょう。
 題目は「陀羅尼を短くした」ものではありません。題目を唱えるだけの行者
(「法華の名を受持する者」)であっても、諸天は呪文を駆使してその行者を擁
護すると説くのが陀羅尼品です。

   仏は諸の羅刹女に告げたもう「善い哉、善い哉。汝等よ、但、能く
  法華の名を受持する者を擁護るすら、福は量るべからず。何に況んや、
  具足して受持し、経巻に華・香(…)を供養し、種種の燈たる蘇燈・
  油燈・(…)を燃す。かくの如き等の百千種をもって供養する者を擁
  護らんをや。コウ諦よ、汝等及び眷属は応当にかくの如きの法師を擁
  護るべし」と。
  (岩波版『法華経(下)』、pp.284-286)

>ただ確かに日蓮さんの曼荼羅は諸天や鬼子母神とか出てますし、これの影響はある
>ように思います。ただ私はそれを「迷い」だと思います。
>題目一つに絞れきれてないと。(専修という思想性からすると)

 たしかに宗祖は「鬼子母神」等を実在視していたかもしれませんが、それは
別に「迷い」でもなんでもないでしょう。経典のキャラクターを実在視するこ
と自体が「迷い」になるのなら、「阿弥陀仏」の実在視もまた「迷い」でしょ
う。
 それはさておくとしても、「易行」は「題目」に絞られています。そして、
行・学に結びつくような立体的な行のシステム(題目→曼荼羅→法華経)の根
本・中心となっているわけです。

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三吉さんへのレス Prev: 52 / No: 58
 投稿者:Libra  00/04/19 Wed 10:55:05

 三吉さんのご意見の一部に対してレスします。

> それと自力・他力の問題は信とは何かということと絡みます。
> 仏教は出発点から教えに出遭い、共感し参画するというところから、つまり信から
> はじまります。真の意味の自力ならば、教えはいろうはずもありません。
> 自力とは自分でそう思っているだけで、勘違いしているだけではないでしょうか?
> 我々が仏教に惹かれ学ぶのも求めるのもつまりは、影響をうけてのことです。
> 日蓮さんも法華経がなければ日蓮さんはありえません。法華経に影響され、促され
> 自ずとそういう生き様をしたのであれば、それは他力ではないでしょうか?

 果たして「自力」と「他力」は二者択一なのでしょうか?どちかか一
方だけに偏るのは本来の仏教の考えではないように思います。
 「不立文字」を言う禅系は「自力」偏重に見えるし、「絶対他力」を
言う浄土系は「他力」偏重ではないでしょうか。

> それと救っていただくとのことですが、曇鸞において還相回向が説かれてます。
> こちらに戻ってくるわけです。行ったきりではありません。

 曇鸞の言う「還相回向」とは、具体的にはどういうことなのですか?
一旦「浄土」に往生した人が、衆生を救うためにまた「娑婆」に生まれ
変わるということなのですか?過去にその「還相」を現実にやってのけ
た人がもしいるなら教えて下さい。例えば親鸞はどうなのでしょうか?
親鸞はこの娑婆に「還相」したのですか?

> >「易行」とは、あくまでも、「“行”“学”によって自分も成仏し、一切衆生も
> >成仏するように努力する」ための「易行」でなければならないはずです。
>
> そんなことは伝竜樹の十住毘婆沙論にかかれてありますか?
> 行学ではなく、「信」で行くのでは?日蓮さんはそのことを「信慧」と言われてい
> るのでは?

 「信は慧の因」というのが宗祖の立場です。

> >ただ「他土仏による救済」を“信”じるだけでいいとしてしまっては、もはや
> >“信”・“行”・“学”がそろわないので仏教とは言えないのではないでしょうか
>
> 信・行・学が揃うとは、四種三昧のような高度な修業です。誰もが可能ではない。
> そこに宗教的な能力が要請されるものです。それは出家偏重の能力差別的なものに
> 結果するのではないでしょうか?つまりは部派や初期になされた比丘は解脱、在家
> は生天という思想です。それが信だけで飛び越えられるという超越の思想性、差別
> 克服を目指した菩薩主義が大乗の生命線では?

 確かに「信」は重要です。しかし、やはり「信は慧の因」でしょう。
行・学を否定してしまったら、何のための「信」か分からなくなって
しまうでしょう。そもそも、行・学には別に「宗教的な能力が要請さ
れ」たりしないでしょう。目が見えて、耳が聞こえて、考えることが
できて、言葉がしゃべれれば、誰でも「行・学」に励むことはできる
でしょう(やる気さえあれば)。その「やる気」を起こさせるための
「方便」であってはじめて仏教の「易行」たりえるのではないでしょ
うか?

> >日蓮が命がけで否定したのは、念仏の「形式」で
> >はなくて、むしろ「思想的な意味」なのではないでしょうか。
>
> うんうん。命懸けというのはよくわります。
> ただ、念仏の思想性こそを日蓮さんは批判しきれてないと思うのです。
> 批判できているのは表面的な部分だけと。思想面については影響されていると。
> 阿弥陀仏というところに幻惑され、阿弥陀の思想性にまでに深く踏み込めていない
> と。もう一つ言えば、日蓮さんの批判は先行する興福寺や明恵の批判を超えるもの
> ではないと。

 「阿弥陀の思想性」の深さとは何ですか?法蔵菩薩の「プラニダー
ナ」を見本として、自ら「仏国土の建設」に参画しようという思想で
あれば、まさに「菩薩道」の本道だと思いますが、それと「阿弥陀の
本願力による浄土往生を信じる思想」とは正反対のような気がします。

> もう一つ言えば、念仏の系譜に属する親鸞の思想性を日蓮門下は思想的に批判し得
> てない。そこまで批判し得てはじめて日蓮さんの批判の思想的意義が明確になるの
> では?と思います。

 これは少なくとも僕自身についてはあてはまります。これからがん
ばって親鸞の思想も勉強していきたいと思います。

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ごあいさつ No: 57
 投稿者:ぱんどら  00/04/10 Mon 18:38:00

Libraさんこんにちわ。
Libraさんの論文解読して、おあいてしてもらおうかなとおもいましたが、
どうもドラキュラと千手観音を合体した化け物を見ているようで、とりつくしまが
ありませんでした。
顕正さんのもそうですが、どうも仏教関連の理屈は次元が違っているようです。
Libraさんも顕正さんも水陸両用戦闘車両でうらやましいです。
また、たまにおあいてしてください。

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如来蔵思想批判に関して No: 56
 投稿者:無徳  00/04/09 Sun 13:49:14

 袴谷憲昭氏と松本史朗氏による、大乗起信論から来る如来蔵思想批判ならびにその流れから起きたと言われる天台本覚論思想批判は、センセイショナルとも言える反響を日本仏教界にもたらしました。

 当然と言えば当然で、如来蔵思想は仏教に非ずと言う衝撃とも言えるテーゼ
は、今まで大乗仏教に思い入れをしていたであろう仏教徒や仏教学者にすれば
そこまで言い切るのかね!と言った思いに駆られと事でありましょう。
 
 そのテーゼの当否は兎も角として、最近では、これと言って事件的問題に直面せずに来た日本仏教界にとって、(オーム真理教事件を置いて)衝撃的とも言える問題提起になったことは間違いないようです。

 ただし、私から言わせれば日本仏教界が今まで眠った状態に居た故であり、創価学会や所謂新興宗教と言われる教団以外には、活発に布教活動を行ったり
大衆に対し教化を実践した既成仏教教団が皆無だったと故であり、したがって、生きた教学(実践教学)と言えるような教義理解もなく、死んだ教理にしがみついたような坊さんばかりと言った観が拭えません。

 そこに、如来蔵思想は仏教に非ずといった問題提起が成されたために、久々に日本仏教界も論争の機会が到来したと言えます。特に松本氏に批判のターゲットとされた津田真一氏から、(アーラヤ的世界とその神)反論が提出された訳です。

 しかし、それでも我々庶民レベルから見れば無縁の世界に思われる出来事であり、学者レベルの論争にすぎない観を拭えません。仏教の根本思想がどこにあるかは重要な事であるには違い有りませんが、具体的生活レベルで仏教が生きた思想として実戦可能なものでない限り、その教学・教理が学者や僧侶の世界で完結してしまっていては、何のための仏教でありましょう。

 松本氏や袴谷氏は、しきりに言語の重要性を説くわけですが、「諸法無我」や「空」が仏教に於ける根本思想であることを疑う人は少ないでしょう、しかし、無我や空に執着拘泥することは、無我や空の理念に反するという自己矛盾に逢着せざるを得ません。仏教に於ける言語の重要性も解りますが、それよりも、仏教の仏教たる所以は成仏する処にあるで有りましょう。はたして、全ての存在が「諸法無我」や「空」で有ることを知ったことだけでは、成仏とは言えないでしょう。あらゆる仏教教典は頻りに成仏すべき事を訴えております。
 成仏とは如何なる事かを明確にすべき事こそ、仏教学者や僧侶と言われる方々の使命ではありましょう。 無徳



 

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BAYSIDE SHAKEDOWNくんへ(Re: はじめまして。) Prev: 46 / No: 55
 投稿者:Libra  00/04/09 Sun 08:22:03

>  Libraさん、もぅ僕には全くわからないディープな世界になって
> 来てますねぇ〜。

 まぁ、人間いろんな引出しをもってる方がいいんじゃない
かな(^_^;)。

>  何だか、僕は場違いな様な気がするのですが・・・・・

 いやいやそんなことはないですよ。今はなりゆきで仏教オン
リーになっちゃってるけど、映画とかの話もまたしたいんです
よ。「セントラル・ステーション」を観たいんですけど、まだ
みてません。みました?

>  と言う訳で、ずーっと、お流れになっている飲み会、ホントにし
> ましょうね。

 もういつでもオッケーっすよ。

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ご意見ありがとうございました No: 53
 投稿者:Libra  00/04/09 Sun 08:09:36

 みなさま、おはようございます。

 様々なご意見、ありがとうございました。どなたのご意見も
とてもハイレベルなものなので、もう少し時間をかけてじっく
りとかみ締めさせて頂いてからレスを書かせて頂きたいと思い
ます。僕みたいな人間の論文でも、ちゃんと真剣に読んでくれ
る人がいることを、今は素直に喜びたいと思います。

 今回、自説を論文形式にまとめてみて、いい感触を感じたの
で、この形は今後も続けていこうと思っています。これからも
よろしくお願い致します。

 先日、論文を松本氏本人に郵送致しました。もしかしたら返
事がくるかもしれません。もし来たらここにあっぷします。あ
と、みなさまのご意見も、HPの方にアップしていきたいと考え
ているのですが、マズイでしょうか?また、アップするにして
も、どういう形がいいのかよく分からないので、その点につい
てもアドバイスが頂ければ幸いです。とにかく、「論文」のペ
ージが、単なる「自説のたれながし」になってしまわないよう
になんらかの仕組みを考えたいと思っています。

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Libraさん Follow: 58 / No: 52
 投稿者:三吉  00/04/09 Sun 04:49:21

随分と遅くなりましたが・・・

>一乗思想”を説く『法華経』
>を否定するなどということはありえないのではないでしょうか。

法然は確か、法華経を聖道門における釈尊の出世の本懐の経といっていたと思い
ます。
法華経を捨て去る思想的な意義は、法華経ではいまだ行が混乱しているしている
からだと私は解釈してます。経の受持は説いてますが、行に関しては、なんでも
よいんだ信が大切なんだと説かれてます。
それゆえ天台は別に四種三昧という高度な行を説きましたし、それは万人に開かれ
た行ではありませんでした。
日蓮さんですら、これを理の一念三千と批判し、万人に開かれた事の一念三千とし
て「題目」を文底から見出さなければならなかった。つまり文上には書かれてなか
ったのです。
法華経の文底に注目しえたのは先行する専修念仏の「万人に開かれた行」としての
「念仏」という思想性に触れ得たからこそだと私は思ってます。
思想的には日蓮さんは法然の後塵をかぶっているだけで超えていると私には今のと
ころ思えません。
ある意味、日蓮さんも法華経をそのまま読むと言うところを捨て去り、超えている
わけです。それが文底の思想的意義ですし、しかもそれは法然さんの流儀です。

>少なくとも法然までの「称名念仏」は、他者である“阿弥陀仏(他土仏)”に
>救っていただくという意味での「他力本願」の積極的表明なのではないでしょう
>か

これについては伝竜樹作の十住毘婆沙論の解釈で申し上げたはずです。
それと自力・他力の問題は信とは何かということと絡みます。
仏教は出発点から教えに出遭い、共感し参画するというところから、つまり信から
はじまります。真の意味の自力ならば、教えはいろうはずもありません。
自力とは自分でそう思っているだけで、勘違いしているだけではないでしょうか?
我々が仏教に惹かれ学ぶのも求めるのもつまりは、影響をうけてのことです。
日蓮さんも法華経がなければ日蓮さんはありえません。法華経に影響され、促され
自ずとそういう生き様をしたのであれば、それは他力ではないでしょうか?

それと救っていただくとのことですが、曇鸞において還相回向が説かれてます。
こちらに戻ってくるわけです。行ったきりではありません。

>「易行」とは、あくまでも、「“行”“学”によって自分も成仏し、一切衆生も
>成仏するように努力する」ための「易行」でなければならないはずです。

そんなことは伝竜樹の十住毘婆沙論にかかれてありますか?
行学ではなく、「信」で行くのでは?日蓮さんはそのことを「信慧」と言われてい
るのでは?

>ただ「他土仏による救済」を“信”じるだけでいいとしてしまっては、もはや
>“信”・“行”・“学”がそろわないので仏教とは言えないのではないでしょうか

信・行・学が揃うとは、四種三昧のような高度な修業です。誰もが可能ではない。
そこに宗教的な能力が要請されるものです。それは出家偏重の能力差別的なものに
結果するのではないでしょうか?つまりは部派や初期になされた比丘は解脱、在家
は生天という思想です。それが信だけで飛び越えられるという超越の思想性、差別
克服を目指した菩薩主義が大乗の生命線では?

>1.『法華経』の「陀羅尼思想」

なるほど。陀羅尼から日蓮さんが題目を見出したするならば、何故経にある
「安爾 曼爾 摩禰 摩摩禰 旨隷 遮梨第 ・・ ・」ではなく、「南無妙法蓮
華経」なのでしようか?これは呪文ですし、長いものです。なぜ短くしえたか?
それとこれは法華の行者を守護するためと言う目的で、成仏のための「行」という
思想性ではなく、補助的なものでしょう。
ただ確かに日蓮さんの曼荼羅は諸天や鬼子母神とか出てますし、これの影響はある
ように思います。ただ私はそれを「迷い」だと思います。
題目一つに絞れきれてないと。(専修という思想性からすると)

>日蓮は「曇鸞以降の『十住毘婆沙論』理解」を否定したのであって、『十住毘婆
>沙論』の「信方便易行」そのものを否定したわけではないでしょう。

とすると、曇鸞のどういう理解を具体的に批判し、正しい理解はどうなると言われ
たのですか?

>日蓮が命がけで否定したのは、念仏の「形式」で
>はなくて、むしろ「思想的な意味」なのではないでしょうか。

うんうん。命懸けというのはよくわります。
ただ、念仏の思想性こそを日蓮さんは批判しきれてないと思うのです。
批判できているのは表面的な部分だけと。思想面については影響されていると。
阿弥陀仏というところに幻惑され、阿弥陀の思想性にまでに深く踏み込めていない
と。もう一つ言えば、日蓮さんの批判は先行する興福寺や明恵の批判を超えるもの
ではないと。
もう一つ言えば、念仏の系譜に属する親鸞の思想性を日蓮門下は思想的に批判し得
てない。そこまで批判し得てはじめて日蓮さんの批判の思想的意義が明確になるの
では?と思います。

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三因仏性 No: 51
 投稿者:顕正居士  00/04/08 Sat 17:44:43

やんとさん。

>偽日蓮の「胸中の肉団」って、臨済の「赤肉団上一無位の真人」に一見似て
>ますね。

密教と禅は両方華厳哲学が土台で、天台顕教はいちおう中観系統(羅什が遠祖
だから・但し四論思想)です。対比して華厳学は唯識系統といえますが、
後期印度仏教は瑜伽中観ですから、「原人」思想はシナ独自みたいに見えます。

無位真人さん。

>三因仏性

湛然が華厳的天台学(山外)を発生させ、日本天台はこの系統。「金剛へい論」
なんかを無位真人さん、Libraさんで論議されるのを期待します。

シナでは四明知礼が山家・山外論争を収束し、江戸時代には四明学が日本にも
輸入されて天台・日蓮両法華宗は四明しかけになります。日蓮は大日経七重の
劣(唐判と全同)を主張したから、山家的ですが、「超八法華」も唱えるので
これは山外的。日蓮自身に矛盾があったように思う。

*超八法華〜法華経は八教を超越するという湛然の説。「部教混乱」(証真)。
凝然真如的。天台学破壊的。日蓮は真蹟遺文でいつもこの説を援用する。

シナ〜四明、日本〜日蓮が法華学を復興したと云えるが、日蓮の説には矛盾が
あり、江戸時代以降四明しかけで日蓮学を補強した(堅樹寛師等)が山外的は
未だ大衆的に受けるようだ。創価学会は梵我一如(「宇宙即我」)と云うよう
に仏教の外側に飛翔してますが、理論的用意は国柱会です。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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結構むずかしいぞ No: 50
 投稿者:ぐっちゃん  00/04/08 Sat 12:57:30

ぐっちゃんです。はじめまして。
うちのページまで来てくださってありがとう。

おいおい感想ここで書いていきたいですので、またよろしくおねがいします。

http://www2.plala.or.jp/kkatu/

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無位真人さんへ No: 49
 投稿者:やんと  00/04/08 Sat 07:29:45

なんか板主さんお忙しそうですね、まぁ私も来週後半は出張でしばらく留守になりますが…。
良ければ当方の板へお越し下さい。菩提心のお話しお聞きしたいです。

http://www.niji.or.jp/home/yanto/

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Libraさんの論文へのコメント No: 48
 投稿者:無位真人  00/04/06 Thu 22:59:02

Libraさんの論文へのコメント

論文について全般的な感想は既に申し上げましたので、個別な問題点を
論じてみます。といっても一度にさまざまなことを論じるのではなく、
個別的にです。
今日は、「属性的仏性論」に対する批判です。
(貴論文に対する評価は、前に述べた通りです。あなたは、批判のほうをお望みだ
と思いますので)

>以下では、そのような"モノ的仏性観"に根本的な修正をせまる意味で、三因仏性論(4)
>を取り上げ、"コト的(属性論的)仏性観"の必要性を示したい。

"モノ的仏性観"でいうところの「モノ」が、主語的な基体(=実体)であるなら
ば、それを仏教が否定するのは当然のことであるが、それに代わるべき
"コト的(属性論的)仏性観"の内容が明らかでないと思いました。

そもそも、コト的=属性論的 という等値が成立するとは思われない。
なぜなら、属性とは、常に「実体の属性」で有り、実体の概念を前提するもので
あるから。
しかるに、そのような実体概念を否定することが、
仏教の根本にあるのではないか。

正因仏性=本質 (一切の衆生に本来備わっている必然的性質)
了因・縁因仏性=付帯的属性 (偶然的な性質で一切の衆生にあるとは限らない)
とすれば、たしかに、「論理的には」分かりやすい教説になるが、
却って、修道論としては、インパクトのない机上の議論とならないだろうか。

更に言えば、仏性について真剣なる思索をおこなった日本の仏教者たち
の議論の多くは、かかる「属性的仏性論」では説明が付かない。

たとえば、「衆生が仏性を持つ」という考えは、道元によって否定されている。
正法眼蔵 「仏性」では、「一切の衆生は悉く仏性をもつ」 という言い方を
斥けて、「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生と言ふ。正当恁麼時は衆生の内外
すなはち仏性の悉有なり」と言っている。

それゆえに、Libraさんのいう「コト的仏性論」は、日本仏教における仏性論の
伝統を適切に考慮するならば、決して「属性的仏性論」と等値すべきではないと
思いますが、如何でしょうか。

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Re: 対立仮説:如来蔵、仏性=真如、菩提心  Prev: 45 / No: 47
 投稿者:やんと  00/04/05 Wed 19:55:46

> 私は、門外漢の素人ですが、よろしかったら議論に参加させて下さい。
はじめまして無位真人さん。
> >やんとさんの説について
> 対立仮説:如来蔵、仏性=真如、菩提心 を立ててみます。

折角対立する仮説を立てて頂いたのですが、私には十分その意を咀嚼する力が
ありませんので、色々とご教授頂きたいと思います。

> 補足:上の等式は、あくまでも日本の本覚思想の文脈で考える。
>
> 議論:アラヤ識の縁起は、唯識で説かれるが、日本の本覚思想の原点である
> 大乗起信論では、真如縁起が説かれる。すなわち、本覚あるがゆえに始覚
> もまた生まれる、菩提心が成仏を求めるという考えは、
> 唯識よりも、それを一歩進めた起信論の真如縁起に相応しい考えである。
> 天台智の摩訶止観の「發大心章」では
> 菩提心を四諦、四弘誓願、六即にわけて詳論。智では仏性論は菩提心論として
> 展開されている。

ただ逆説的ながら、件の松本氏や袴谷氏も如来蔵思想と唯識思想が同じくLocus
を認める思想として、中観派と対立させていますので、真如を立てる如来蔵思想は
寧ろ唯識思想の後継と見ているようです。

> 華厳宗、法蔵の「起信論義記」の菩提心釈をふまえ
> 源信は「往生要集」の菩提心論で、三因仏性について論じているが、そこでは、
> 正因仏性−法身因
> 縁因仏性ー応身因
> 了因仏性ー報身因
> のように、三身と関連づけている。
> これらは、四弘誓願という修道論の文脈で論じられている。

なるほど

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はじめまして。 Follow: 55 / No: 46
 投稿者:BAYSIDE SHAKEDOWN  00/04/05 Wed 13:40:13

 Libraさん、こちらの方では初めましてですね。

 皆さんも初めまして。

 Libraさん、もぅ僕には全くわからないディープな世界になって
来てますねぇ〜。

 何だか、僕は場違いな様な気がするのですが・・・・・

 と言う訳で、ずーっと、お流れになっている飲み会、ホントにし
ましょうね。

 では。

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対立仮説:如来蔵、仏性=真如、菩提心  Follow: 47 / No: 45
 投稿者:無位真人  00/04/05 Wed 12:42:31

Libraさん、やんとさん、顕正居士さん
面白そうな掲示板ですね。
私は、門外漢の素人ですが、よろしかったら議論に参加させて下さい。

>やんとさんの説について

対立仮説:如来蔵、仏性=真如、菩提心 を立ててみます。

補足:上の等式は、あくまでも日本の本覚思想の文脈で考える。

議論:アラヤ識の縁起は、唯識で説かれるが、日本の本覚思想の原点である
大乗起信論では、真如縁起が説かれる。すなわち、本覚あるがゆえに始覚
もまた生まれる、菩提心が成仏を求めるという考えは、
唯識よりも、それを一歩進めた起信論の真如縁起に相応しい考えである。
天台智の摩訶止観の「發大心章」では
菩提心を四諦、四弘誓願、六即にわけて詳論。智では仏性論は菩提心論として
展開されている。

華厳宗、法蔵の「起信論義記」の菩提心釈をふまえ
源信は「往生要集」の菩提心論で、三因仏性について論じているが、そこでは、
正因仏性−法身因
縁因仏性ー応身因
了因仏性ー報身因
のように、三身と関連づけている。
これらは、四弘誓願という修道論の文脈で論じられている。

>Libraさん
−−「如来蔵思想批判」の批判的検討−−downloadさせていただきました。
批判すべき相手(松本。袴田)と共有できる前提−−批判仏教の立場ーー
を確認しつつ、そこに立ちながら、相手の結論のいくつかに同意できない
理由が明示されている。 論旨明快な「颯爽とした」論文ですね。
ご活躍を祈ります。

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仮説:如来蔵、仏性=阿頼耶識 No: 44
 投稿者:やんと  00/04/05 Wed 09:58:20

顕正居士さん>
お久しぶりです、実は昨日顕正会館へ行こうとしたらリンク切れてたみたいでした。
ところで何時もながらありがとうございます。
>日本では如来蔵=カリダ心(心臓)
これは以前にもどこかで居士よりお聞きした事を思い出しました。そう捕らえられ
る事が多い、という事ですね?
偽日蓮の「胸中の肉団」って、臨済の「赤肉団上一無位の真人」に一見似てますね。
(道元が批判したアレです。でもそれは道元の誤解だと思います。)
さて居士ご紹介の『註本覚讃』にも「心法もとより形なし、内外處處にあらねども
胸の間の方寸に、阿頼耶識と名ずけたる」とありますが、私は表題の様に考えています。
そう考えれば、仏性、如来蔵や本覚思想等も決して<我的>実在では無いと言える
と思います。
『白隠禅師坐禅和讃』の中に「自性即ち無性にて、既に戯論を離れたり」という
一説がありますが、この無性である自性、つまり良くも悪くもどうにでも染まる所
の自性(属性が中立)こそが仏性であり、阿頼耶識ではないかと思うのです。

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日本では如来蔵=カリダ心(心臓) No: 43
 投稿者:顕正居士  00/04/04 Tue 22:44:00

>ドイセンとニーチェ
二人ともショーペンハウアーの愛読者で、ドイセンはドイツ・印度学の創始者
です。そういえば二人は友達でもあったんです。ドイセンの学問の詳しいこと
は知りません。
>十二巻本『正法眼蔵』
『正法眼蔵』には幾種類かあるのは知っていますが。これも詳しいことは知り
ません。ところで本題の「如来蔵思想」について。

○「如来蔵思想」の根本テキストは堅慧菩薩・「究竟一乗宝性論」です。
冒頭の偈で如来蔵が三宝出生の基体であることが説かれていると思います。
チベットの疏ではダルマリンチェンのが代表的みたいです。
○中古天台(天台密教)では「如来蔵」は「物体」です。
註本覚讃参照。
日蓮聖人の(偽)遺文に「胸中の肉団」の語があります。天台密教では如来蔵は
心臓を指します。八葉の蓮華の形をしており、男は開いているが、女は閉じて
いる。偽日興の口伝・御義口伝にもあります。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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私的感想 No: 42
 投稿者:やんと  00/04/04 Tue 13:26:52

>手厳しいご批判を切望いたします。よろしくお願い致します。

とんでもない!私なぞ批判できるような学は持ち合わせておりません。
ただLibraさんのご成果に対し「感想を述べよ」と言われるならば、
お断りするのも失礼なので、思いつくまま2〜3述べさせて頂きます。

先ず基本的に
>「存在論的仏性観」の立場を放棄し、上述のような「属性論的仏性観」
>の立場に立ちさえすれば、「仏性修現論」は十分論理的に成立するのである。
>つまり、「正因仏性(空性)は“属性”として一切諸法に具わっている=“一切皆空”」
>という意味での「正因仏性顕在論」と、「修行する意志を持つことによってはじめて
>“了・縁因仏性”が現実に現れる(発現する)」という意味での「了・縁因仏性修現論」
>は十分論理的に両立するのである。
>むしろ私はこのような「仏性修現論」こそ仏教の本道であると考える。
と言う氏のご意見に同感です。
顕在しつつも修していかなければならないという基本的スタンスは同じですし、
Libraさんの今回の研究で、私も理解に整理がついた気がします。ありがとうございました。

ただ三因仏性を
>ア)正因仏性=空性・無自性
>イ)了因仏性=(“縁起・一切皆空”を考えるための)思考力
>ウ)縁因仏性=(“縁起・一切皆空”を考えるために)虚心に仏説を聞く力
と定義する事は、私達が仏性を理解する上で大変論理的かつ有効であるとは思いますが、
無情と動物、人間の仏性を図の様に限定してしまう事はどうかな?と思いました。
私見ですが、三因仏性も三宝、三性、三身とそれぞれ対応すると思いました。

また私はLibra氏や袴谷氏が言うように<山川草木悉皆成仏>がただちに反佛教である、
とは考えませんし、梅原氏の様に「日本独自のもの」とも考えていません。
※もしも仏性を松本氏の言うような<基体>に限定するならば、(『縁起と空』)
Libra氏の三因仏性理解も成り立たない事にはなりませんか?

「我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云うなり」と言う日蓮聖人の言葉は初めて
知りましたが、大変興味深くご紹介ありがとうございました。
思わず死刑囚だった歌人、島秋人の次のような歌を思い出しました。
「この澄める心ありとは知らず来て 刑死の明日にせまる夜温し」
余談ながら始覚・本覚について、敢えて言うならば臨済は始覚、曹洞は本覚の立場にあると
言われます。この辺りもう少し私自身整理したいところです。

不二についても異論がありませんが、禅門には唯心とか一心と言った言葉がありますが、
<一>を直ちに基体とみなすのは、余りに松本氏に振り回されている感がします。
私は「如来蔵思想」自体、本来は「空性の内在性」を説くものだと理解しております。
※とは言えどもモノ的実在論に陥りやすく、又そうした結果、業論などにより差別を助長した
歴史的事実がある事は認めますが。
以上思いつくまま感想を述べさせて頂きました。

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やんとさんへ(Re: おじゃまします) Prev: 40 / No: 41
 投稿者:Libra  00/04/03 Mon 08:06:20

> 「『如来蔵思想批判』の批判的検討」ご苦労様です。まだ読んでいませんが、近日中
> に読ませて頂きたいと思います。

 手厳しいご批判を切望いたします。よろしくお願い致します。

> 私もここ1〜2年松本・袴谷両氏のご意見には色々と考えさせられました。
> 当初は、一瞬「禅は佛教で無いのか?」と疑ったりもしましたが、最近『摂大乗論』
> 等に触れて、ようやく解決が着いたところです。(自分的に)

 その「決着」の中身をご教示頂きたく思います。

 「禅定」とはおそらく、「慧」に到るための「手段」として
は意味があるのでしょうね。「思考」のために「心を落ち着け
る技術」というか。しかし、それが「目的」になってしまって
はやはり仏教ではなくなってしまうのではないでしょうか。今
のところ、僕はそんなふうに考えています。
 あと、十二巻本『正法眼蔵』の意味についてはどのようにお
考えでしょうか?

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おじゃまします Follow: 41 / No: 40
 投稿者:やんと  00/04/03 Mon 07:48:26

「『如来蔵思想批判』の批判的検討」ご苦労様です。まだ読んでいませんが、近日中
に読ませて頂きたいと思います。
私もここ1〜2年松本・袴谷両氏のご意見には色々と考えさせられました。
当初は、一瞬「禅は佛教で無いのか?」と疑ったりもしましたが、最近『摂大乗論』
等に触れて、ようやく解決が着いたところです。(自分的に)

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五姓格別 No: 39
 投稿者:顕正居士  00/04/03 Mon 03:24:46

>> *「仏性」思想は歴史的には敗北しています。これは万人が仏教(無神論と
>>縁起の思想)を受け容れる意味ですが、受け容れない決意の堅さを一闡提と
>>護法菩薩は定義したんでないでしょうか?

>上記の「これ」とは「仏性思想」のことでしょうか?それとも、
>その「敗北」のことでしょうか?文脈から、前者と読みましたが間
>違っていたら訂正をお願い致します。

「仏性思想」及びその敗退の意味です。「仏性思想」(最澄・日蓮的)は、
*「一乗思想」〜一乗真実・三乗方便。法華経。実践的。
*(狭い)「仏性思想」〜涅槃経。理論的。上の根拠。
の総合で、あらゆる衆生が菩薩の行によって仏になる、即ちインド人その他が
皆、やがて一乗仏教徒になる意味です。歴史はこの期待に反して、
○「声聞仏教徒」は大乗に廻心しなかった。
○「印度教徒」はジャイナ教、仏教、順世派を括って邪教徒と見なし、今日に
至った。
○護法菩薩(Dharmapâla)は現実に即して、「五姓格別」を唱えた。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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顕正居士へ(Re: 『如来蔵思想批判』の批判的検討) Prev: 35 / No: 38
 投稿者:Libra  00/04/02 Sun 23:50:22

> 一読感心。論理的に整理されています。

 ありがとうございます。顕正居士にそのように言っていただける
なんて光栄です。

> 鈴木隆泰さん http://www.info.ioc.u-tokyo.ac.jp/suzuki/ は
> 法華経、涅槃経が専門のようで掲示板があります。氏の意見など聴かれたら
> 如何かと思います。

 ご紹介ありがとうございます。実は、手当たり次第に宣伝して回
っているのですが、その中に偶然、上のHPも入っていたみたいです。
またいろいろ教えて頂ければ幸いです。

> *「仏性」思想は歴史的には敗北しています。これは万人が仏教(無神論と
> 縁起の思想)を受け容れる意味ですが、受け容れない決意の堅さを一闡提と
> 護法菩薩は定義したんでないでしょうか?

 上記の「これ」とは「仏性思想」のことでしょうか?それとも、
その「敗北」のことでしょうか?文脈から、前者と読みましたが間
違っていたら訂正をお願い致します。

>そして有神論と実体の思想に立つ
> 文明のほうが科学や経済を今日まで発達させて来ました。このことは如何
> お考えですか?

 そういう点については、ニーチェ、後期フッサール、メルロ=ポ
ンティなどの思想を通してもう少し深くつっこんで考えていきたい
と思っています。
 以前、仏教とニーチェとの関係について顕正居士にお伺いし、
「直接の関係はないが、縁はある」というようなお答えを頂いたよ
うに記憶しているのですが、少し前に、姉崎正治『法華経の行者日
蓮』(講談社学術文、1983年)を読んでいて、その解説(田村
芳朗「姉崎正治の日蓮研究と高山樗牛」)の中に以下のような記述
をみつけました。この点についてはどのように考えればよいのでし
ょうか。顕正居士のご意見をお伺いしたいです。

  姉崎博士はドイツでパウル・ドイッセンについた。そのドイッ
  センは、ニーチェと友達関係であった。ニーチェは、ドイッセ
  ンを通じてインド哲学ないし仏教を知るようになり、その結果、
  自分の考えが百八十度、転換するにいたったことをドイッセン
  に手紙で書き送ったが、ドイッセンもまた、『ニーチェの思い
  出』の中で、ニーチェがなかったら自分もなかったと述懐して
  いる。
   ニーチェは、こうしてドイッセンを介して仏教を知り、その
  仏教を西洋哲学にとりこんでニヒリズム(虚無主義)を唱える
  にいたった。ところが、そのニヒリズムが極端な方向に走って
  いったために、ドイッセンは心を痛めるようになる。姉崎博士
  は、そのあたりの状況を目の前に見たことを樗牛に報告した。

 「田村論文目録」(『大崎学報』、第146号、pp.7−15)
の中に、ニーチェと仏教の関係について論じた論文が挙げられてい
たのですが、京大の付属図書館になかったので入手をあきらめてし
まいました。いずれ取り寄せたいとは思っています。
 袴谷氏もニーチェと仏教の関係についてふれられています(『批
判仏教』pp.50−51、『道元と仏教−十二巻本『正法眼蔵』
の道元−』pp.177註11)が氏の見解についてはどのように
お考えでしょうか。

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三吉さんへ(Re: 質問) Prev: 34 / No: 36
 投稿者:Libra  00/04/02 Sun 22:59:28

 さっそくのレス、感謝致します。

> 称名念仏と唱題は外見は似てます。
> 思想的な意味は違うとして事実として外見は似てます。

 確かに、「形式(外見)として似ている」というのは認めますが、
それはむしろ当然ではないでしょうか。問題は「思想的な意味」に
あると考えます。日蓮が命がけで否定したのは、念仏の「形式」で
はなくて、むしろ「思想的な意味」なのではないでしょうか。

> 日蓮さんが独自に考えたとするならば、それは何を根拠にしてなのかということを
> 論じる必要があるのでは?と思います。

 1.『法華経』の「陀羅尼思想」
 2.竜樹造『十住毘婆沙論』の「信方便易行」

をその根拠とすることは可能だと思います。日蓮は「曇鸞以降の
『十住毘婆沙論』理解」を否定したのであって、『十住毘婆沙論』
の「信方便易行」そのものを否定したわけではないでしょう。そう
考えれば、「唱題」は「初期仏教に潜在し大乗仏教にて顕勢化する
陀羅尼(ダーラニー)思想・受持思想の系譜に所属する」(伊藤瑞
叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p.141)と言
えるのではないでしょうか。

> そしてその命懸けの批判は「称名念仏」何を批判したのか、しえたのか。
> 末代幼稚に題目を指導したという時、称名念仏の思想性といかなる差異があるのか

 思想的には、念仏の「他土仏(“架空の仏”)思想」を否定した
ということでしょう。そして、なによりも、『法華経』の“一乗思
想(すべての衆生に成仏の可能性が保証されている)”を否定し、
「成仏」をあきらめ、他土への「往生」を願う思想が許せなかった
のではないでしょうか。

> 哲理的には一念三千の実践は四種三昧であつた、天台では。それを理と批判し、
> 事の一念三千は題目だと日蓮さんをして言い切らしたのは、先行する念仏の隆盛に
> 影響をまったく受けなかったと断定できるのであろうか。

 反面教師的な意味での影響はもちろんあったでしょう。

> 念仏に対抗し広宣流布を進展するための「易行」としての題目であつたとするなら
> ば、「称名念仏」という通常一番レベル低い「行」を観念など高度な念仏から、切
> り離し絶対化した法然の影響下にあったとするほうが客観的なのでは。
> 日蓮さんの主観はともかくとしてです。
> 思想的には簡単だから最高の行という思想を考え付いたのは善導でしよう。
> その善導ひとりに帰依するといった法然、善導一人が仏の本当の心を明らかにした
> と歌った親鸞。そういう易行の絶対化の系譜に日蓮さんは属するのでは?

 「易行の絶対化の系譜」という点だけで論じればたしかにそのよ
うに言えるのかもしれませんが、「易行」であれば何でもいいとい
うわけではないでしょう。問題は、それが「仏教の正統的易行」と
言えるかどうかということになるでしょう。親鸞においてはどうな
のかわかりませんが、少なくとも法然までの「称名念仏」は、他者
である“阿弥陀仏(他土仏)”に救っていただくという意味での
「他力本願」の積極的表明なのではないでしょうか。これは、基本
的には“自利”を表とする思想であって、本来の陀羅尼(ダーラニ
ー)思想とは異質なものなのではないでしょうか。「易行」とは、
あくまでも、「“行”“学”によって自分も成仏し、一切衆生も成
仏するように努力する」ための「易行」でなければならないはずで
す。このことをあきらめて、ただ「他土仏による救済」を“信”じ
るだけでいいとしてしまっては、もはや“信”・“行”・“学”が
そろわないので仏教とは言えないのではないでしょうか。

   大乗の菩薩行の基本は、実際のところ端的には法師(ダルマ・
  バーナカ)の行、すなわち法(保持されるべき理念的真理内容)
  を自己に保持しつつ、他に説示(ニルデーシャ)する主体的人
  格を成就するための行でもある。そして法の受持(ダーラニー
  の精神)すなわち如来の法蔵(ダルマ・コーシャ、真理の宝庫)
  の守護こそは法師の主要行目なのである。
  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、
   p.141)

 しかし、前回の顕正会館における議論の中でもすでに言いました
ように、“阿弥陀仏”の背後に“法蔵菩薩”を見て「自分がこの世
を浄土に変えていくのだ」という主体的な“誓願”を起こすための
「称名念仏」なのであれば、それもまた「正統な易行」であると言
い得ると思います(それが『無量寿経』の精神でしょう)。もし実
際にそのような立場に立つならば、“一乗思想”を説く『法華経』
を否定するなどということはありえないのではないでしょうか。

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『如来蔵思想批判』の批判的検討 Follow: 38 / No: 35
 投稿者:顕正居士  00/04/02 Sun 04:06:37

一読感心。論理的に整理されています。
鈴木隆泰さん http://www.info.ioc.u-tokyo.ac.jp/suzuki/ は
法華経、涅槃経が専門のようで掲示板があります。氏の意見など聴かれたら
如何かと思います。

チベットに伝わった後期インド仏教と漢訳仏教との北伝二種相違は大乗教学の
最重要問題と思いますが、チベット語は字の読み方が分かる程度なのです。
わたしも漢訳仏教で多様される「不二」には悩みます。"advaita"とは違う感じ
です。ここら辺の哲学的解明を印度学界に期待したいです。
Libraさんの提題は批評する学力がほぼありません。必要な知識が我々の寿命
で修得可能な域を越えています。然し、こういう問題の立て方はユーザーと
しては良いんでないでしょうか?わたしも自分で解明が不可能な大きい枠組
に興味があります。知識の集積と延命術とのアンバランスは現代人の悩みと
考えます。

*「仏性」思想は歴史的には敗北しています。これは万人が仏教(無神論と
縁起の思想)を受け容れる意味ですが、受け容れない決意の堅さを一闡提と
護法菩薩は定義したんでないでしょうか?そして有神論と実体の思想に立つ
文明のほうが科学や経済を今日まで発達させて来ました。このことは如何
お考えですか?

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

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質問 Follow: 36 / No: 34
 投稿者:三吉  00/04/02 Sun 01:40:39

念仏は日蓮にとってのいわば幼児体験でもある。彼の説く唱題が、南無阿弥陀仏の
六字を称える念仏と原理的に似てくるのは、いかんともしがたいであろう。(p.
207)
と述べられているが、命をかけて念仏を批判した日蓮の唱題を、“念仏称名思想の
エピゴーネン”と見るのはあまりにも軽薄と言わざるを得ない。


称名念仏と唱題は外見は似てます。
思想的な意味は違うとして事実として外見は似てます。
日蓮さんが独自に考えたとするならば、それは何を根拠にしてなのかということを
論じる必要があるのでは?と思います。
更に、命懸けで批判したのも事実。しかし批判相手に影響されるというのは、
ありえます。
そしてその命懸けの批判は「称名念仏」何を批判したのか、しえたのか。
末代幼稚に題目を指導したという時、称名念仏の思想性といかなる差異があるのか
哲理的には一念三千の実践は四種三昧であつた、天台では。それを理と批判し、
事の一念三千は題目だと日蓮さんをして言い切らしたのは、先行する念仏の隆盛に
影響をまったく受けなかったと断定できるのであろうか。
念仏に対抗し広宣流布を進展するための「易行」としての題目であつたとするなら
ば、「称名念仏」という通常一番レベル低い「行」を観念など高度な念仏から、切
り離し絶対化した法然の影響下にあったとするほうが客観的なのでは。
日蓮さんの主観はともかくとしてです。
思想的には簡単だから最高の行という思想を考え付いたのは善導でしよう。
その善導ひとりに帰依するといった法然、善導一人が仏の本当の心を明らかにした
と歌った親鸞。そういう易行の絶対化の系譜に日蓮さんは属するのでは?

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京都@369さんへ No: 33
 投稿者:Libra  00/04/02 Sun 01:25:12

 メールありがとうございました。

 「論文」のページを作りましたのでよかったらご覧になって下さい。

#「創価学会」の教義を正面から批判する論文も用意しています。近日
#中にアップする予定です。

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循環型の最新哲学について No: 32
 投稿者:パラ革大王  00/03/28 Tue 07:28:53

哲学好きなアナタをたった2分で哲学マスターにします!
 このURL
http://www2.yk.speed.co.jp/hshs/2-3P.htm
をご覧ください。もし受信できなければ、
http://www2.yk.speed.co.jp/hshs/2-2=P.htm
を開いた後、右の「動画」をクリック。
心の双方向への作用がよくわかることでしょう。
 根本的に新しいので馴染みにくい方もいるでしょうが、
概念の組み方の完璧さに気付けば、21世紀が待ち望む
新しいパラダイムになり得ると確信できるはず!?

http://www2.yk.speed.co.jp/hshs/2-3P.htm

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たぶん、ROMでしょうというのは No: 31
 投稿者:いとう  00/03/22 Wed 01:35:58

Libraさんの「専門」である仏教については門外漢
であることによりますね。

ただヨーガ哲学や神智学については興味を持っていますが。
神智学では、A.E.パウエルのものがお勧めです。
何度も書いているので知っているとは思いますが。
でもあまり売れないのか、絶版になったようです。
#買っておいて良かった。

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「虎」はもう飽きた No: 30
 投稿者:Dr.G  00/03/21 Tue 09:57:47

>あいかわらず「猪突猛進」の議論をやってます(^_^;)。

L君はイノシシ年でしたっけ?

ワタシは虎の穴では虎のごとく吠えて恫喝する議論に
終始しましたが、これからはヘビのごとくまとわり
ついてジワジワ締め付ける議論を追求しようかと思って
おります?え?すでに十分ヘビのようにしつこい?
ああ、ヘビ年ですからねえ。私(^^;)

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Re: お久しぶり Prev: 20 / No: 29
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 23:51:36

 師匠へ

> 元気でやってますか。

 元気です。あいかわらず「猪突猛進」の議論をやって
ます(^_^;)。

 師匠のHPにも行きましたよ。僕のHPもリンクして頂け
たら幸いです。「弟子のHP」とか「虎の穴門下のHP」と
して頂ければすごく嬉しいです。僕もリンクページ作っ
たらリンクしてもいいですか?

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Re: おひさしぶりです Prev: 19 / No: 28
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 23:45:40

 貴晃さんへ

> Libraさん。おひさしぶりです。

 お久しぶりです(^_^)。

> ともに修行頑張りましょう。^^)

 「修行」の意味によりますね(^_^;)。
 他人さんのところでもさんざん言いましたが、僕は「無分
別知」を目指す「禅」とか「瞑想」が仏教であるとはとうて
い思えないのです。貴晃さんとはもう一度そのあたりをきち
んと議論してみたいと考えています。

> 狭い京大構内にいるわけですから、
> 私を見かけたら、声でもかけてください。

 僕は「京大生」じゃないですよ(^_^)。図書館はよく利用
させてもらってますが。松本史朗の『縁起と空』、『禅思
想の批判的研究』、袴谷憲昭の『本覚思想批判』、『批判
仏教』はあったように記憶していますが貴晃さんは読まれ
ましたか?あと、松本の『チベット仏教哲学』はまだない
みたいですが、これも貴晃さんには是非読んで頂きたい本
です。

 あと、オウム真理教については現在どのようにお考えな
のでしょうか?あれもやはり「仏教」だとお考えでしょう
か?

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Re: おめでとうございます。 Prev: 18 / No: 27
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 23:23:57

 いちりんさんへ

 こんばんは。ご活躍、いつも、拝見しています。

 突然ですが、いちりんさんは「禅」をどう思われますか?
僕は「禅は“思考の停止”を目的とするものであるが故に、
当然のことながら、“思考によって智慧の獲得を目指す”と
ころの仏教とは相反するものである」と考えているのですが、
いちりんさんはどのようにお考えでしょうか?

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Re: 本当は暇でない暇人の感想 Prev: 21 / No: 26
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 23:14:54

 考える他人さんへ

> Libraさん独自の本尊論や、縁起の法解釈を、その前提となる
> 公理を明確にした形で行われることを期待しています。

 そうですね。いずれ、きちんと体系的に論じる必要があるか
もしれませんね。

> しかし、ゆきぞさんにしても、Libraさんにしても、よく
> 某宗の方達と議論をする気力が湧くなあと感心します。

 「某宗」というのが正確にはよく分からないのですが、僕は
相手を見て議論したりしなかったりするというのはどうかと思
います。

> ところで、京都辺りで、今度、花見オフ?でもしませんか?
> 貴ちゃんや、ゆきぞさんも来れれば良いですね ^^

 いいですね(^_^)。

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Re: HP開設おめでとう Prev: 16 / No: 25
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 23:04:54

 かわちさんへ

> HP開設おめでとうございます。

 ありがとうございます。

>貴方と私とでは立場は全く違いますが、これからも
>建設的な対話をしていきましょう

 立場が違うからこそ面白い対話になるということ
はありますね。これからもよろしくお願い致します。

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Re: レッド・ツェッペリン Prev: 15 / No: 24
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 23:02:02

 いとうさんへ

> なら、Wがお勧めですね。

 そうですか、今度ためしに聴いてみます。 

> とりあえず、開設のご挨拶まで。
> #ま、ほとんど書くこともないでしょうから、ご
>心配なく。

 そんなことを言われると、「もう書いてくれない
のではないか」と心配してしまいます。

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Re: 開設おめでとう Prev: 14 / No: 23
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 22:57:49

 三吉さんへ

> ご活躍、期待しております。

 三吉さんの期待にこたえるだけのことができるかどうか
は分かりませんが、僕なりに精一杯がんばります。これか
らも、僕の説のおかしいところをどんどん突っ込んで頂け
れば幸いです。

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Re: 期待してます。 Prev: 13 / No: 22
 投稿者:Libra  00/03/18 Sat 22:53:48

S4323@勉強中さんへ

> HP開設おめでとう。

 ありがとうございます。

> これから、いろいろ教えて下さい。
> 永く続けてられる事を期待します。

 どこまでできるかは分かりませんが精一杯がんばり
ます。

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本当は暇でない暇人の感想 Follow: 26 / No: 21
 投稿者:考える他人  00/03/17 Fri 13:17:00

しかし、ゆきぞさんにしても、Libraさんにしても、よく
某宗の方達と議論をする気力が湧くなあと感心します。
ところで、京都辺りで、今度、花見オフ?でもしませんか?
貴ちゃんや、ゆきぞさんも来れれば良いですね ^^

http://yokohama.cool.ne.jp/lucifers

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お久しぶり No: 20
 投稿者:Dr.G  00/03/16 Thu 14:30:40

元気でやってますか。
ワタシは元気です。(^^;)
今後ともよろしく

http://osaka.cool.ne.jp/gaikotsu/

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おひさしぶりです No: 19
 投稿者:貴晃  00/03/16 Thu 05:57:10

Libraさん。おひさしぶりです。
Libraさんの精進ぶりとても励みになってます。
ともに修行頑張りましょう。^^)

狭い京大構内にいるわけですから、
私を見かけたら、声でもかけてください。
私のHPには、私の顔写真もあります。
今後ともよろしく。

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/9918/

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おめでとうございます。 No: 18
 投稿者:いちりん  00/03/15 Wed 21:47:46

あちこちと、掲示板ができて楽しいですね。
それぞれ表現の幅が広がっていって、、、ひとつの文化運動みたいですねえ。
私も、昨日から、今日にかけてふたつ、掲示板はじめました。
ひとつは、「インドラの網」インドの宗教、旅、芸術、もろもろ。
http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/india/bbs/wforum.cgi

それから「なんでも宗教探求会」
新宗教やニューエイジ、瞑想なども含めた論議。というか、体験の分かち合いの場。
http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/religion/bbs/wforum.cgi

それから「法華サーフィン」では、題目論の、体験、エッセイ、論文を募集中。

http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/hokke/bbs/wforum.cgi

http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/hokke/bbs/wforum.cgi

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開設おめでとうございます^^ No: 17
 投稿者:考える他人  00/03/14 Tue 19:27:22

Libraさん独自の本尊論や、縁起の法解釈を、その前提となる
公理を明確にした形で行われることを期待しています。

http://yokohama.cool.ne.jp/lucifers

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HP開設おめでとう No: 16
 投稿者:かわち  00/03/14 Tue 10:37:26

HP開設おめでとうございます。貴方と私とでは立場は全く違いますが、これからも建設的な対話をしていきましょう

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レッド・ツェッペリン No: 15
 投稿者:いとう  00/03/14 Tue 00:02:26

なら、Wがお勧めですね。
まぁ、ロックはあまり聴かれないでしょうから、
関係ないか。でも、これはなかなか良いですよ。

とりあえず、開設のご挨拶まで。
#ま、ほとんど書くこともないでしょうから、ご心配なく。

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開設おめでとう No: 14
 投稿者:三吉  00/03/13 Mon 23:38:36

ご活躍、期待しております。

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期待してます。 No: 13
 投稿者:S4323@勉強中  00/03/13 Mon 23:23:02

HP開設おめでとう。
これから、いろいろ教えて下さい。
永く続けてられる事を期待します。

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Re: 開設お祝申し上げます Prev: 7 / No: 12
 投稿者:Libra  00/03/13 Mon 16:36:14

 近藤 貴夫 さんへ

> とりあえず寄せていただきました。
> 今後とも宜しくお願い申し上げます。

 こちらこそよろしくお願い致します。

 サンスクリット語の件でまたお世話になるかと思います。
でも、この分じゃ当分先のことになりそうですが…。

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Re: HP開設おめでとうございます。 Prev: 6 / No: 10
 投稿者:Libra  00/03/13 Mon 16:29:57

 ゆきぞさんへ

> Libraさん、HP開設おめでとうございます。

 ありがとうございます。

> ここは、言葉の真の意味での、牙城となりそうですね。

 「牙城」ですか(^_^;)。
 まぁ、「のんびり、精一杯」やるだけです。飛行船の
ように、フワフワとユラユラと少しずつ前進していけれ
ばいいと思っています。かっちりと決まりきらずに柔軟
にやっていきたいですね。

> 今からすごく楽しみです。
> 純粋に学ぶ場としても得るものは大きくなりそうです。
> 発展を期待しております。

 お互い、切磋琢磨でまいりましょう。

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Re: ロムだけですが Prev: 5 / No: 9
 投稿者:Libra  00/03/13 Mon 16:22:28

 ヤッホさん、はじめまして。

> 青空に白い気球、レッドツェッペリンとか無関係ですよね。少しだけ連想
> しました。難しい話は分かりませんが、勉強させていただきます。

 残念ながら、レッドツェッペリンは聴いたことありません。
 でも「空」っていいですよね。大乗仏教でもそう説かれているんです
よ(ウソ)。

 これからも、よろしくお願い致します。

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Re: 掲示板の開設をお祝い致します。 Prev: 4 / No: 8
 投稿者:Libra  00/03/13 Mon 16:18:51

 昼行燈さんへ

> 開設おめでとうございます。

 ありがとうございます。

> 互いの立場は異なりますが、これからもご指導・ご鞭撻を宜しくお願いいたします。

 「ご指導・ご鞭撻」をお願いするのはこちらの方です。
 これからもよろしくお願い致します。

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開設お祝申し上げます Follow: 12 / No: 7
 投稿者:近藤 貴夫  00/03/13 Mon 08:55:19

とりあえず寄せていただきました。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

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HP開設おめでとうございます。 Follow: 10 / No: 6
 投稿者:ゆきぞ  00/03/13 Mon 08:36:36

Libraさん、HP開設おめでとうございます。
ここは、言葉の真の意味での、牙城となりそうですね。
今からすごく楽しみです。
純粋に学ぶ場としても得るものは大きくなりそうです。
発展を期待しております。

http://www.alles.or.jp/~maruzo21/think/index.htm

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ロムだけですが Follow: 9 / No: 5
 投稿者:ヤッホ  00/03/13 Mon 06:36:17

青空に白い気球、レッドツェッペリンとか無関係ですよね。少しだけ連想
しました。難しい話は分かりませんが、勉強させていただきます。

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掲示板の開設をお祝い致します。 Follow: 8 / No: 4
 投稿者:昼行燈  00/03/13 Mon 04:29:36

Libraさんへ

開設おめでとうございます。
互いの立場は異なりますが、これからもご指導・ご鞭撻を宜しくお願いいたします。

末永い発展をお祈りいたします。

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よろしくお願い致します No: 3
 投稿者:Libra  00/03/13 Mon 02:10:19

 2000年3月13日、掲示板開設。

 どうか有意義な掲示板になりますように…。

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