■ 「学会員の対話能力 」スレッド


4 名前: Libra@ちょこっとよってみました 投稿日: 2003/07/28(月) 19:21

>>1 GOLGODAさんへ

 はじめまして。わたしにも似たような経験がありますので少しだけ書かせて頂きます。

 「jonathanの生命哲学探究の部屋」ってまだあったんですね。また同じことを繰り返し
ておられるのでしょうか(わたしは状況を直接確認していませんので実際のところはよく
わかりませんが)。

  GOLGODA さんがおっしゃっておられる意味での「学会員の対話能力」の欠落の根本原
因は、《自らの可謬性に絶望的に無自覚である》ということに尽きるとわたしは思ってい
ます[注1]。《わたしは真理を所有している》と思い込んでいるひとに対話などは不可能
でしょう。

  [注1] 対話主義と可謬主義(Libra)
      http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html

 「可謬性を自覚したうえで討論をおこなおうと思えば寛容が必要であ」り、「真理を求
めて討論しようとするときには、相手を潜在的に同等な者として承認しなければな」りま
せん。「そうではなく、自らの方こそ知者であると思っていれば、討論ではなく、教化の
試みしか生じ」ないでしょう[注2]。このような意味での「教化」は、常識的にいっても、
対話とは言えないだろうと思います。少なくとも、釈尊がおこなった対話とは異質だと思
います[注3]。

  [注2] ポパーの倫理思想(小河原誠)
      http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

  [注3] 『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
      http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

      ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
      http://fallibilism.web.fc2.com/048.html


6 名前: Libra@ちょこっとよってみました 投稿日: 2003/07/28(月) 19:50

《わたしは宇宙生命と一体化している》と思い込んでいる人は、おそらく、
《わたしは宇宙の真理を所有している》というようにどこかで思っていて、自
分が「神のごとき存在ではないことを」忘れておられるのだろうとおもいます。

 そういう人は「幸福げにひとりごとをいい続けることはできるかもしれ」ま
せんが、他の人たちと「ともに語る」ということはしないのでしょう。

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  もし他の人々が現に考えていること、あるいは過去に考えたことをわれわ
  れが顧みないならば、各人は幸福げにひとりごとをいい続けることはでき
  るかもしれないが、合理的議論は終りにならざるをえない。ある哲学者た
  ちは、独白をもってよしとした。多分、彼らは語りあうに価するいかなる
  他人もいはしないと思ったからであろう。このいささか高尚な次元で哲学
  することが、合理的議論の衰退の徴候であろうと、私はおそれる。もちろ
  ん、神はおもに自分とだけ語る。なぜなら、神はともに語るにたる人をも
  たぬからである。しかし哲学者たちは、自分たちが他の人たちと同様に神
  のごとき存在ではないことを知るべきである。

  (カール・R・ポパー『科学的発見の論理〔上〕』〔大内義一・森博訳〕、
    恒星社厚生閣、1971年、p. 139)
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2003.8.28

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