「みんなで歩こう菩薩の道」での発言[ 2 ]

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スレッド「信心のあり方について〜乞食信心を批判する」より
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76 名前: Lさん 投稿日: 2001/06/03(日) 11:36
 またまた横レス失礼します。

 本尊について論じる際には、本尊の“形式”と“思想”を区別して論
じるべきでしょう(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、
1965年、pp.144-167を参照)。

 形式に関して言えば、曼荼羅正意でしょうから、その点では学会は正
しいと思います(日蓮法華宗の立場として)。しかし、学会はそれを密
教的に(宇宙生命論的・“宇宙即我”的に)解釈していますから、思想
的には全く正しくないでしょう。ただし、曼荼羅正意を飛び越して、
「弘安二年の板曼荼羅(およびその書写)だけしか本尊と認めない」な
どと言うのであれば、それはもう「形式的にも思想的にも間違っている」
と言わざるを得ませんね。

 それと、立正佼成会がまだ日蓮法華宗(の一員)を自称されているの
かどうかもハッキリしませんね(立正佼成会では題目は唱えられるので
しょうか?それとも南無釈迦牟尼仏と唱えられるのでしょうか?)。
 つまり、ROCKさんが言われる「本尊」というのは、果して、“日蓮が
提唱した「本尊」”ということなのか、それとも“立正佼成会が『法華
経』によって独自に立てた「本尊」”のことなのか。まずそこをハッキ
リさせてほしいところです。前者であれば、日蓮の「法主仏従」の思想
との関係が問題になるでしょうし、後者の場合には『法華経』の文証に
もとづいての論証が要求されるでしょう(『法華経』は経典崇拝をかな
り前面に押し出している経典ですから、自然に読めば法本尊の立場でし
ょう)。

  法仏一体・人法一体という点からすれば、法本尊と仏本尊の相違は
  問題とするに足りないというべきかも知れない。けれども両者が対
  立するものであるかのように感ぜられるのは、御書の各処に、「釈
  尊より法華経の方が中心である」という法主仏従の思想が認められ
  るからである。
   すなわち、「釈尊は法華経から生じたものである」・「法華経は
  釈尊にまさる」・「釈尊はじめ諸仏は法華経の中に収まる」・「法
  華経の光に照されて釈尊は本尊となる」・「法華経の文字が仏であ
  る」というような教えがたびたび説かれる。これは佐後の御書に多
  いのであるが、佐前にも認められる。とくに本尊問答鈔(弘安元年)
  においては、はじめに「法華経の題目を以て本尊とすべし」と定め
  られ、ついで「法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」
  といって、はっきり仏本尊を否定されているのである。
  (勝呂前掲書、p. 150)

  天台云く「人は軽く法は重きなり」……人軽しと申すは仏を人と申
  す法重しと申すは法華経なり……此の法華経は経の功徳をほめたり
  仏の父母のごとし
  (「宝軽法重事」、弘安二年五月、真蹟存、学会版全集、p. 1475)
   ※昭定ではpp. 1178-1179。


79 名前: Libra 投稿日: 2001/06/03(日) 22:30
 こんばんは、ROCKさん。

> 返答は別スレッドに致します。

 了解しました。明快な回答を期待しています。最初にボタンを掛け間違
うと三色旗さんがきっと暴走しますよ(^_^;)。

> PS.
> 何て呼びましょう?
> Libraさん?Lさん?

 どちらでも構いません。お好きな方で結構です。


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