「みんなで歩こう菩薩の道」での発言[ 3 ]

[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ]

スレッド「本尊とは」より
  http://green.jbbs.net/study/bbs/read.cgi?BBS=339&KEY=991566193


10 名前: Libra 投稿日: 2001/06/05(火) 05:22
 おはようございます、ROCKさん。

 私への回答はどこに書かれたのでしょうか?出来たらここに書いて
くれませんか?私はすべてのスレッドをチェックしているわけではな
いので。

 私は本尊抄の文も報恩抄の文も曼荼羅の相貌と思いますが、前回の
質問に回答して頂けないと、議論できません。


33 名前: Libra 投稿日: 2001/06/05(火) 23:33
 こんばんは、ROCKさん。

> まず一つ質問します。
> 日蓮法華宗とは何のことでしょうか?

 「日蓮を宗祖と仰ぐ宗派の総称」とお考え下さい。

> 立正佼成会は題目も唱えますし南無釈迦牟尼仏とも唱えますね。
> 正式には南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊ですが。

 そうですか。「正式には南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」というのはど
ういう意味でしょうか?実際にそのように唱えられるということでしょうか?

> 本尊については>>5が根拠となっています。

 これではあまり「明快な回答」とは言えませんね。

 1)日蓮が提唱した「本尊」

 2)立正佼成会が『法華経』によって独自に立てた「本尊」

番号でお答え下さい(^_^)。


42 名前: Libra 投稿日: 2001/06/06(水) 11:20
 おはようございます、ROCKさん。

> あのねぇ...(…)キチンと説明して下さいね。

 あなたが「キチンと説明している」ようにはとても見えませんが…。

 あなたがご自分の立場をハッキリさせることなくこのまま一方的に
相手を批判され続けるのであれば、双方向的な「議論」にはならない
でしょう。

 それと、「大聖人が随身佛を死ぬまで持ち歩いてた」ということと、
「大聖人が門下に“仏像を本尊とせよ”と積極的に指導された」とい
うこととは全然別でしょう。

 もし日蓮の主張に従うと言われるのなら、日蓮の「法主仏従」の思
想をどのように受け止めておられるのでしょうか?

  問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何に
  てか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題
  目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又た
  へたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に
  之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつ
  くりかきたてまつるべし
  (「唱法華題目抄」、学会版、p. 12)

 あと、5で、本尊抄を「一尊四士」に結びつけておられましたが、
本尊抄には「其の本尊の為体」として、曼荼羅の相貌が述べられてい
ますね。あくまでも中尊は「妙法蓮華経」でしょう。

  其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経
  の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等
  は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民
  の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処
  し給う迹仏迹土を表する故なり
  (学会版、p. 247)

 また、報恩抄を「二尊四士」なるものと結びつけておられますが、
この場合の二尊とは何と何なのですか?
 報恩抄送文には

  御本尊図して進候
  (学会版、p. 330)

とありますから、報恩抄の

  日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂
  宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべ
  し
  (学会版、p. 328)

という御文は、曼荼羅に即して理解されなければならないでしょう。
で、実際、曼荼羅において「宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行
等の四菩薩」が何の脇士となっているかと言えば、「妙法蓮華経」
ですね。このことから、「本門の教主釈尊」とは「妙法蓮華経」を
指していることが分かります。従って、「本宗の本尊観は極めて明
瞭であって、本門法華経の法体たる五字の題目が本尊なのである。」
(勝呂前掲書、p. 149)と言えると思います。


43 名前: Libra 投稿日: 2001/06/06(水) 11:20
 以下、再掲。

===============================
  つまり、ROCKさんが言われる「本尊」というのは、果して、“日
蓮が提唱した「本尊」”ということなのか、それとも“立正佼成会が
『法華経』によって独自に立てた「本尊」”のことなのか。まずそこ
をハッキリさせてほしいところです。前者であれば、日蓮の「法主仏
従」の思想との関係が問題になるでしょうし、後者の場合には『法華
経』の文証にもとづいての論証が要求されるでしょう(『法華経』は
経典崇拝をかなり前面に押し出している経典ですから、自然に読めば
法本尊の立場でしょう)。

  法仏一体・人法一体という点からすれば、法本尊と仏本尊の相違
  は問題とするに足りないというべきかも知れない。けれども両者
  が対立するものであるかのように感ぜられるのは、御書の各処に、
  「釈尊より法華経の方が中心である」という法主仏従の思想が認
  められるからである。
   すなわち、「釈尊は法華経から生じたものである」・「法華経
  は釈尊にまさる」・「釈尊はじめ諸仏は法華経の中に収まる」・
  「法華経の光に照されて釈尊は本尊となる」・「法華経の文字が
  仏である」というような教えがたびたび説かれる。これは佐後の
  御書に多いのであるが、佐前にも認められる。とくに本尊問答鈔
  (弘安元年)においては、はじめに「法華経の題目を以て本尊と
  すべし」と定められ、ついで「法華経の教主を本尊とす、法華経
  の正意にはあらず」といって、はっきり仏本尊を否定されている
  のである。
  (勝呂前掲書、p. 150)

  天台云く「人は軽く法は重きなり」……人軽しと申すは仏を人と
  申す法重しと申すは法華経なり……此の法華経は経の功徳をほめ
  たり仏の父母のごとし
  (「宝軽法重事」、弘安二年五月、真蹟存、学会版全集、p. 1475)
   

スレッド「信心のあり方について〜乞食信心を批判する」
      76 名前: Lさん 投稿日: 2001/06/03(日) 11:36
===============================


50 名前: Libra 投稿日: 2001/06/08(金) 16:05
 こんにちは、川蝉さん。

 私と川蝉さんとでは決定的に前提が異なっていますから、ここで改めて議論
をしても何も得るものはないでしょう。川蝉さんは輪廻転生を認めておられる
し、霊的釈尊の実在も認めておられますが、私はそのような考えを仏教とは認
めません。

> ただし勝呂信静博士の所論は、宗祖佐前の立場は、法主仏従であるが、佐後
> の立場は、
> 「本門法体としての久遠実成の釈尊のばあいは、法仏同一義」(161頁)
> 「佐後においては、本門の釈尊とは、事の一念三千をとおしてじつげんされ
> るものとして、本門の法体を意味している。このばあいにおいては、釈尊と
> 法華経とは全く同一義であつて、主従の相違はないのである。」(162頁)
> と云う趣旨です。

 主従の相違がないのは「本門法体」をこそ「本門の釈尊」と見るからそうな
るのでしょう。

> 勝呂信静博士の解釈によれば、「本尊問答抄」を根拠にして、宗祖の立場が
> 「法主仏従」に限定されていると判断する事は皮相的解釈であると言い得ま
> しょう。

 これは「仏」をどうとらえるかと言う話でしょう。「本門法体」を仏と見る
立場に立てば、「主従の相違はない」ということだと思います。私の仏身観に
ついては川蝉さんはすでにご承知だと思いますので、改めて説明するまでもな
いと思いますが、読者の方々のために以下の拙文を提示しておきます。

  曽我逸郎さんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html#busshin

 上の拙文の註2にも引用したように、そもそも勝呂先生は、

  仏の入滅した後の衆生にとっては、仏はすでにこの世にないのであるから、
  現実に存在するものは、経典とそれを説く法師である。この二つのものが
  仏に代るはたらきをなすのであり、そこにおいてこそ仏の姿を認めねばな
  らぬというのが法華経の説かんとするところであろう。
  (勝呂信静「法華経の仏陀論」、渡辺宝陽編『法華仏教の仏陀論と衆生論』、
   平楽寺書店、1985年、p. 108)

というお立場なのでは?これが「本門法体としての久遠実成の釈尊」というこ
との意味なのでは?
 仮に勝呂先生が積極的に「霊的釈尊の実在」を認める発言をどこかでされて
おられるとしたら(もしそうだと言われるのなら是非その文献をご紹介頂きた
い)、それを私は仏教とは認めません。

> Libra さんの主張は「宗祖の立場は、法主仏従である」と云うものと思うの
> で、「本門の実義に立ったばあいは、釈尊と法華経とは全く同一義。主従の
> 相違はないと云うのが宗祖の思想である」と論じている勝呂信静博士の論文
> を、Libra さん自説の援引とすることは無理があります。

 私はそうは思いません。川蝉さんが私の仏身観(“『法華経』こそが釈尊滅
後の釈尊である”)をお認めにならないだけの話ではありませんか?


52 名前: Libra 投稿日: 2001/06/08(金) 22:57
 こんばんは、川蝉さん。

> もう少し、私の発言趣旨を正確に把握してコメントして貰いたいなと云う
> のが感想です。

 議論がかみ合わなかったのは“お互いの前提が異なっていた”からであっ
て、私が「発言趣旨を正確に把握してコメントして」いなかったからではな
いでしょう。勝手な解釈をしないで頂きたいものです。

> 御書には、法主仏従の立場の文もあるけれど、ぎりぎりの実義の場合は
> 「法仏同一義」が宗祖の立場であると云うのが勝呂信静博士の見解です。

 そもそも、「法主仏従」という場合の「仏」と、「法仏同一」という場合
の「仏」は、“別の意味で使われている”というのが勝呂信静博士の見解で
しょう。「仏本尊における久遠実成の釈尊の考え方について二通りの場合が
ある」(p. 161)といわれています。
 ぎりぎりの実義の場合は、「法主仏従」は間違いで、「法仏同一」が正し
いというようなことは勝呂先生の見解ではないでしょう。ですから、

> 「宗祖は法主仏従の立場である」と言い切るLibra さんの主張に反するの
> が勝呂信静博士の見解です。

というのはどう考えてもオカシイのです。勝呂先生は佐前・佐後を通じて
「法主仏従」の思想があると言われています。宗祖の立場は、ある意味では
「法主仏従」の立場であり、また別の意味では「法仏同一」だと言うべきで
しょう。

> どう考えても、Libra さんが勝呂信静博士の見解を自説主張の根拠にする
> ことはおかしいですね。

 これは川蝉さんが勝手に言いがかりをつけているだけです。

> 「>私はそうは思いません。」と云うには、Libra さんが勝呂信静博士が
> 「本尊論」に於いて「釈尊と 法華経とは全く同一義であつて、主従の相
> 違はないのである。」(162頁)との見解を述べていない事を証明しな
> ければならないのです。

 そのような義務はありません。

> 「>川蝉さんが私の仏身観(“『法華経』こそが釈尊滅後の釈尊である”)
> をお認めにならないだけの話ではありませんか? 」

 「法仏同一」という場合の「仏」をどう解釈するかというところで、私と
川蝉さんでは意見が分かれるだろうということを言ったまでです。

> Libra さんが常住不滅の釈尊の実在を否定することが宗祖の教示に反する
> と指摘しただけです。

 これはいくらやっても平行線でしょう。

> 今回は「宗祖の立場は法主仏従に限定される」と云うような意見のような
> ので

 それは川蝉さんの勝手な思い込みであって、私はそんなことまでは言って
ません。逆に、川蝉さんの方こそ、勝呂先生の論文を「宗祖の立場は法仏同
一に限定される」という自説の援引となさったように私には見えますが、こ
れこそ無理があるのではありませんか?

>「いやいや勝呂信静博士の所論は、佐後に於いては法仏同一義の立
> 場があると論じていますよ」と云う事を指摘しただけです。

 佐後に於いては法仏同一義の立場“も”、法主仏従の立場もあるというの
が勝呂先生の所論でしょう。

> 結論として「法華経の本仏は、法が永遠なるものであるという意味での法
> 身ではない。救済者(救世者)が常住不滅の存在であるという意味の本仏
> なのである。法華経の釈尊は何よりも救済者として考えられているのであ
> る。」(250頁)
> と論じています。

 ここで言われている「救済者」とは具体的には「説法者」という意味でし
ょう。

  曽我逸郎さんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html#busshin

の註に引用した勝呂先生の発言をよく読まれたい。

> 勝呂信静博士が「宗祖には法仏同一義はない」と云う見
> 解だとは言い得ません。

 私はそんな主張は最初からしていません。言いがかりです。

> 勝呂信静博士はまさか「不滅の滅に非らず。久遠本仏は空無になって、如
> 何なる形としても存在ないと宗祖や法華経は主張している」などと云って
> はいないでしょう。

 私は「仏弟子の心の中に存在する」と言っているのであって、「如何なる
形としても存在しない」などとは言ってません。これも言いがかりです。

> 議論がかみ合わないでしょうから、まあよろしいように考えてください。

 「上から下を見下すような態度」はあまり御僧侶にふさわしくないと思い
ます。


54 名前: Libra 投稿日: 2001/06/09(土) 12:17
 こんにちは、川蝉さん。

> どうも私の指摘がわかってもらえなかったようですので、再度申し上げます。

 ちゃんと理解してお答えしました。

> 私は、勝呂信静博士の見解は、「宗祖には、法主仏従と法仏同一との両説明
> がある。しかし、本門の法体(本門の義)に立てば宗祖は、法仏同一を面に
> している。」と云うものだと理解したわけです。

 「本門の法体(本門の義)に立てば」という部分に川蝉さんの主観的な読み
込みを感じます。「本門の法体」“を”「仏」とみれば、「法仏同一」である
というのが勝呂信静博士の見解ではありませんか?

> そこで、Libra さんがROCKさんのコメントに勝呂信静博士の見解が「宗祖の
> 立場は法主仏従に限定されている」と思わせるような文のみを引用している
> ので、

 前回のレスでも申し上げた通り、私は「宗祖の立場は法主仏従に限定されて
いる」とまでは論じていません。佐前・佐後を通じて「法主仏従」の立場が貫
かれているというのはウソではないでしょう?そこから議論を始めて何が悪い
のでしょうか?当然、「佐後には法仏同一義の表現もある」という反論が予想
されるわけですが、その場合には、「法主仏従」と両立するものとして解釈さ
れなければならず、従って、「法仏同一」という場合の「仏」と、「法主仏従」
という場合の「仏」とは別の意味で使われないといけないことになります。そ
こで、その場合の「仏」の意味が「問題化」してくるわけです。この時点で議
論が分かれるかもしれませんが、仮に共通了解が成立すれば、その後に、「果
して仏像というのは、その意味での仏を表現する形式として、ふさわしいもの
といえるのかどうか?」ということが「問題化」するでしょう。私はそういう
ステップを踏んで話を進めていこうと想定していたのです。それなのに、議論
が始まってもいない段階で、川蝉さんが横レスされたわけです。

> 勝呂信静博士独自の見解を述べる前提として、先に法主仏従を表す祖文を幾
> つか挙げている中の一文を、あたかも勝呂信静博士が「宗祖は一方的に法主
> 仏従の立場である」と思わしめるように引用している

 これは川蝉さんの思い込みに過ぎません。

> Libra さんが、最初から
> 「>勝呂先生は佐前・佐後を通じて「法主仏従」の思想があると言われてい
> ます。宗祖の立場は、ある意味では「法主仏従」の立場であり、また別の意
> 味では「法仏同一」だと言うべきでしょう。」
> と云う趣旨が、ROCKさんへのコメントにあったならば、私は、別に横からコ
> メントしませんでしたよ。

 それは過剰な要求というものではありませんか?
 私は、佐前・佐後を通じて貫かれているところの「法主仏従」の思想を、
ROCKさんがどのように認識されているのかいないのか、そこから確認する必要
性を感じました(川蝉さん相手ならそんな必要性は感じません)ので、上述の
ようなステップを想定して議論を切り出したまでのことです。私は「勝呂先生
の論文の権威をかりて、ROCKさんに自説を一方的に押し付けよう」などと言う
ような、そんなバカな考えで発言したわけではありません。相手を見て、その
相手と対話を進めていく際にふさわしいと思われるステップを想定して、それ
で発言しているわけです。

> 「ぎりぎりの実義の場合は、法主仏従としている」といっているのです。

 これは、おそらく「ぎりぎりの実義の場合は法仏同一義が宗祖の立場である」
の間違いでしょうが、それは川蝉さんの主観的な読み込みにすぎないのであっ
て、勝呂先生ご自身は、そんなことは言われていないように思いますがいかが
でしょうか?「本門の法体」“を”「仏」とみれば(「本門法体たる本仏」[p.
161])、「法仏同一」であるというのが勝呂信静博士の見解なのではありませ
んか?川蝉さんの「ぎりぎりの実義の場合は」というのは、勝呂先生のどの発
言に相当するのでしょうか?具体的にご指摘頂きたく思います。

> しかし、ROCKさんもLibra さんのコメントを読んで、「Libra さんが宗祖
> の立場は法主仏従に限定されると主張している」と受け取ったのではない
> かなと推測しますよ。

 ならば、ROCKさんが「佐後には法仏同一義の表現もある」という趣旨の反論
を提出されればよいわけでしょう。


56 名前: Libra 投稿日: 2001/06/09(土) 21:28
 こんばんは、川蝉さん。

> 私の思いこみとの事ですが、ROCKさんに、「Libra さんのコメントは、あ
> たかも『勝呂信静博士も宗祖は一方的に法主仏従の立場であると云ってい
> る』と思わしめるような引用の仕方であると、思わなかったですか」と聞
> いてみたいところです。

 私が「思い込み」と言ったのは、“「私の引用の意図」を川蝉さんが誤解
された”という意味で言ったのです。ROCKさんが実際にどう思われたかは関
係ありません。

> ROCKさんは「宗祖には、法仏同一の義もある」ことを御存知で有ろうけれ
> ど、失礼ながら、もしや知らない場合もあろうかと思い、勝呂信静博士は、
> 法仏同一の義も有ることを述べている事を知らせる為の目的もあって、横
> 入りしたのです。

 私はROCKさん“が”以下のことをどれくらい自覚された上でNo.5のような
発言をされたのかを知りたかったのです。それが私の“目的”だったのです。

 1.佐前・佐後を通じて「法主仏従」の立場は貫かれている。
 2.佐後には「法仏同義」もある。
 3.「法主仏従」という時の「仏」と、「法仏同義」という時の「仏」と
   では意味が異なる。

 実際に布教の経験を十分にお持ちであろう川蝉さんに、上の私の“目的”
が見えなかったということが私には信じられないくらいです。もし論者を私
と思わずに、先入観なしに読まれていれば、上の“目的”は見ぬかれていた
であろうと想像しますがいかがでしょうか?少なくとも、そういう“目的”
である可能性を認められて、もう少し議論の経過を見守られたのではないか
と想像します。少なくとも、“議論が始まってもいない”段階で介入するな
どということはなさらなかったのではないでしょうか?
 川蝉さんは私の発言だけを一方的に問題にされましたが、ROCKさんの発言
には何の問題もなかったのでしょうか?こちらの質問には正面から答えよう
とせず、そのくせ、他人に対しては「あのねぇ...(…)キチンと説明して
下さいね」などと、「上から下を見下すような発言」を平気ですることには
何の問題もないのでしょうか?

> 証悟(法)と仏陀の人格とが一体不離と云うのは宗学上の定格です。

 問題は「仏陀の人格」及び「一体不離」という言葉の意味でしょう。
 川蝉さんは“『法華経』を受持する仏弟子がいてもいなくてもそれとは独
立に自存する「霊的釈尊」というものが実在していて、それが『法華経』と
「一体不離」である”という意味で言われているのでしょう(誤解であれば
訂正をお願致します)。私は、“『法華経』を受持する仏弟子の心の中に生
き続ける釈尊であるからこそ、それは『法華経』と「一体不離」なのである”
と考えます。(読者の方々は以下を参考にされたい。)

  曽我逸郎さんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html#busshin

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

> 特に「この仏は入滅を超越して実在するものである」との語に注意を払っ
> て貰いたいと思います。(…)

 私は上の勝呂先生の御文章を“『法華経』を受持する仏弟子がいてもいな
くてもそれとは独立に自存する「霊的釈尊」というものが実在している”と
いうような意味に解釈しなければならないとは思いませんが、もし仮にその
ように解釈しなければならないとするならば、それは自性を認めることにな
り、「宗学上の定格」であろうがなんであろうが、そんなものは断じて仏教
ではないと考えます。この点(「霊的釈尊」なるものを認めるかどうかとい
う点)において私と川蝉さんとでは決定的に仏教理解が異なるわけで、これ
は前回の議論ですでにお互いがイヤというほど理解したことでありましょう。

  自性として空であるかのお方について「仏は入滅後に存在する」とか
  「存在しない」と考えることは合理的でない。
  (龍樹『根本中論頌』第二二章第一四偈。小川一乗『大乗仏教の根本思
   想』、法蔵館、1995年、p. 291を参照)


77 名前: Libra 投稿日: 2001/06/13(水) 19:40
 横レス失礼します。

> あのね......
> どうして意見がころころ変わるの?(No. 65、ROCK氏)

  学ぶためには、また、可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさに
  みずからの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをも
  み消すことは最大の知的犯罪である。
  http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

 「自分の誤りをごまかす人間」よりは、「他人の批判を真摯に受け止めてみずか
らの誤りから学ぶ人間」の方が偉大だと私は思います。


85 名前: Libra 投稿日: 2001/06/14(木) 01:49
 横レス失礼します。

> …と、会則では定めてありますね。

 会則が間違っているなら変えていけばよいだけのことでしょう。

  ここで詳論することは控えるが、私としては、正当化主義的合理性が、いわば天
  下り的合理性として権威主義と強い親縁性をもつのに対し、下からの合理性とし
  ての非正当化主義的合理性は制度の建前の論理に対するプロテストを支えるもの
  であるという点を強調しておきたい。
   シンポジュームの終わった後、NHKの番組(「新・日本人の条件」)を見ていた
  ら、山形県のある小さな町の町長がヒモつきの補助金(実に、一つの建物に二つ
  の玄関を設置しなければならないとか、一つの店からものをかっても提出先毎に
  領収書を書いてもらわねばならない、等々)の是正を求めて陳情している姿を伝
  えていたが、町長の行動は下からの合理性を体現するものであると思わざるをえ
  なかった。官僚たちは、補助金が国会の承認を受けたものであり、それを遂行す
  ることは正当であり、合理的であると考えているのであろう。彼らにとっては、
  国の政策が現場でテストされ、苦情を上申されてくることは煩わしく厄介なこと
  でしかないだろう。しかし、こうした場面で如何なる行動が合理的なのかという
  ことを考えた場合、この町長の行動に見られるように、欠陥をはっきりと指摘し、
  その除去を求める行為のみが合理的であると言わざるをえないであろう。正当化
  主義的合理性のみが合理的であるとされていたら、町長の行為は非合理な反逆行
  為となってしまうことであろう。
   下からの合理性の概念は、政策が遂行されるあらゆる局面で草の根民主主義を
  支援する合理性の概念になると私は考える。下からの合理性は、行為の合理性を
  評価する概念であるから、これを担う集団とか政党といったものを想定する必要
  はないであろう。合理性の概念はどのような行為にも、また行為の主体に対して
  も適用される概念である。
  http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v4n2kogawara2.html

  正当化主義と非正当化主義―汎批判的合理主義(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/018.html

> 日蓮正宗は富士門流ですね?

 「富士門流」の原点としての「初期興門流」には「大石寺流宗祖本仏思想」はあり
ません。

  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

> 「創価学会の教義」って何ですか?

  大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/067.html


88 名前: Libra 投稿日: 2001/06/14(木) 02:32
 こんばんは、ROCKさん。

> 創価学会としてのアイデンティティーはどうなります?

 どうなるとおっしゃりたいのでしょうか?
 例えば、実際に私と川蝉さんとでは立場が全く異なりますよ(^_^)。

> 僕は日蓮本仏論は誤りだとずっと言ってきましたが。

 それが一体どうしたというのでしょう?
 別にあなたが言い出したわけではないでしょうに。

> >大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄)
>
> 寸鉄を持ってこられても困りますが・・・。

 「寸鉄」は現実の指導と言ってもよいでしょう? 少なくとも「会則」
よりは(^_^;)。

 しかし、あなたのような「正当化主義者」にはこれ以上何を言っても
ムダなのかもしれませんね。


91 名前: Libra 投稿日: 2001/06/14(木) 10:13
 おはようございます、ROCKさん。

> >別にあなたが言い出したわけではないでしょうに。
>
> それはLibraさんも同じですね。

 少なくとも、私はあなたよりはまともな論証を提出していると思いま
す。ただ「言うだけ」でよいなら、九官鳥でも「言える」でしょう。重
要なのは論証です。

> >「寸鉄」は現実の指導と言ってもよいでしょう?
>
> では、聞きますけど、日顕氏や竹入氏などに対する
> 誹謗中傷も創価学会としての指導ということになりますね。

 ええ(^_^)。
 しかし、そういう指導は「間違っている」と私は最初からハッキリ言
っていますし、抗議もしております。

> 学会で優先的に通用・適用されるのは『寸鉄』と『創価学会会則』のどちらですか?
> 例.商法は民法に優先して適用される。

 われわれは別に『創価学会会則』を信仰しているわけではありません。
そのようなものは信仰の現場ではほとんど意味を持っていないでしょう。
現実の信仰にそぐわなくなれば、当然会則も改正されていくでしょう。
それだけのことです。

> >あなたのような「正当化主義者」
>
> 「俗流の相対主義者」の次は「正当化主義者」ですか。
> いろんなレッテルをありがとう。

 反論されないところを見ると図星でしたか。


94 名前: Libra 投稿日: 2001/06/14(木) 10:59
 おはようございます、ROCKさん。

> 学会の教義が間違っていると言いながら、創価学会員として信仰する
> という、あなたの態度はどうも分かりません。

 私は学会を“教義も含めて”改革しようとしているのです。

> 僕は、Libraさんの"ほりゃ、資料じゃ"論法にはウンザリしてます。

 そうですか(^_^)。

> まぁ、お好きなようにレッテルを貼ってくれたらよいですよ。

 あなたがそうやって他者の批判を受けつけず、ご自分の世界にとじこ
もりたいのであれば、仕方ないですね。

 前にも言いましたが、あなたはご自分の意見をただ相手に押し付けよ
うとなさるばかりで、他人の発言を“理解”しようとは全くなさらない
ようです(おまけにご自分の立場を積極的に批判にさらしていこうとい
う潔さは全くゼロ)。そういう方とお話しても、私には全く得るところ
がありませんし、私が言いたいことは、読者の方々にはもう十分に伝わ
ったとも思いますので、私はこれにて失礼します。

 お付き合い頂き、ありがとうございました。>読者のみなさん


95 名前: Libra 投稿日: 2001/06/14(木) 11:16
 おはようございます、MOMOさん。

> 寸鉄の「釈尊に還れ」って
> 釈尊の効力は、この末法でもちゃんとあるんだよって
> 言ってる事なのですか?

 そうとしか読めないでしょう(^_^;)。以下も参考にして頂ければ
幸いです。

  名誉会長: さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発
   迹顕本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経
   のメッセージが込められているのです。ここでは、この
   ことを少し考えてみよう。
  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻,聖教新聞社,1998年,
   p. 50)

  斉藤: 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。
   大日如来を崇める真言宗に対しても、「大日如来は、ど
   のような人を父母として、どのような国に出現して大日
   経をお説きになったのか」(御書一三五五n、趣意)と
   破折されています。
  (同上,pp. 68-69)

> 「釈尊は、末法での効力は無い」とするのが学会だと思っていましたので、
> なんだかわからなくなってきました〜(T_T)

 学会も変化してきているということです。以下の議論、拙文、
資料も参考にして頂ければ幸いです。

  「創価学会関連リンク集」掲示板での議論
  http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html#discussion001s

  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

  法華経を師匠と御憑み候へ
  http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html

  上行菩薩即日蓮聖人(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/065.html

  日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/062.html

 ご質問等がございましたら、お手数ですが、私の掲示板の方
までお願いいたします。もう私はここを去りますので。

  Pay It Forward
  http://www.be.wakwak.com/cgi-bin/menote.cgi?book=libra:payitforward


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