ウィトゲンシュタインの神秘主義(鬼界彰夫)


 今触れた「ムーアノート」の思考の背後には、「人間の言語はどれだけの表現力を持つのか、そしてそれはなぜか」という重要な問題が存在している。

(鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた──哲学的思考の全軌跡 1912−1951』〔講談社現代新書 1675〕、講談社、2003年、p. 64)


 このようにして様々な言語について、それぞれの構造によって決定されている内在的表現力の大小という問題について考えるなら、可能な最大の表現力を持つ言語というものを想定することができる。もしそんな言語が存在すれば、それは「語ることが可能な全てのことを語りうる言語」であるはずであり、それによって思考する生き物は「考えうる全てのことが思考できる存在者」であろう。こうした言語を表現力極大言語、あるいは単に極大言語、と呼ぶことにしよう。そしてある言語を極大言語たらしめる構造的性質を言語の極大性条件と呼ぼう。こうした言葉を用いて表現するなら、「ムーアノート」の根本問題とは「我々人間の言語は果たして極大言語か」ということに他ならない。これに対するウィトゲンシュタインの最終的な答えは、「然り」というものである。

(同上、pp. 65-66)


問題は、ある命題に示された論理的性質を、他の命題によって語ることも本当にできないのか、ということである。上記の引用〔引用者註:『論考』4.121〕が示すように、『論考』のウィトゲンシュタインはこの可能性をきっぱりと否定している。論理はどのようにしても語りえないものと考えられている。他方、論理学をはじめとする様々な場で、我々は現実に論理について語っている(ように思われる)。一体どちらが正しいのだろうか。本当に論理は、ウィトゲンシュタインの言うように語りえないものなのか考えてみよう。

(同上、p. 78)


 何にでも名をつけ、何についても語れること、これが「極大言語」としての人間の言語が持つ、強大な表現力のもう一つの秘密なのである。同時に我々の言語はこの力のために、存在しないものは言うに及ばず、存在するはずのないものにまで名を与えてしまい、様々な問題を抱え込むことにもなる。「ラッセルのパラドックス」をはじめとする論理的パラドックスの多くは、人間言語がこうした強大な表現力を持っているがために生じる事態である。こうした問題に対処すべくラッセルらが行なったように、人工的言語を構成し、そこでその表現力を制限することは自由であるし、場合によっては有益であろう。しかしそれは人間言語がこうした強力な表現力を持っているという事実を寸分たりとも変化させはしない。自然言語そのままでは、『論考』3.333が言うようにラッセルのパラドックスが「片付く」わけではないのである。
 『論考』3.333で一見パラドックスが片付いたかに見えるのは、自然言語の表現力に対する恣意的な制限、すなわち関数に名を与えることを禁止するという制限が、こっそりと密輸入されているからにすぎない(事態と命題の命名を禁止するという同様の恣意的制限は3.144, 5.54で密輸入されている)。論理は語りえない、と主張することによって、ウィトゲンシュタインは自然言語が極めて大きな表現力を持つという事実から眼をそむけているにすぎないのである。こうした態度は、本当は言語によって語りうることがらを語りえないものであるかのように振舞うことにより、神秘的なものの領域を不当に拡大することでもある。その意味で安易な神秘主義と呼ぶことができよう。『論考』のウィトゲンシュタインは、一体どのような背景から、かくも安易な神秘化に身を委ねてしまったのだろうか。ここでウィトゲンシュタインの思考の神秘主義的要素について考えてみよう。
 古今東西の様々な神秘主義を見てもわかるように、人間の言葉を超え、人間から絶対的に隠されている神秘的なものに対する衝動は、人間の中に普遍的に存在している。それは言葉によってすべてを明るみに出そうとすることに対する原初的な反発であるし、人間性以前の場所に人間性の根源を求める衝動であると言ってもよい。この衝動は今日さらに大きな意味を帯びている。それは我々の時代がすべてを言葉と数と計算によって明るみに出そうとする時代であり、文化と制度の不可逆的均質化を背景として、際限なく普遍言語を求める時代だからである。こうした際限なき言語化という自己の時代に対する根本的反発として、我々の中にも神秘的衝動が広く存在している。我々は隠されたものを密かに求めているのである。ウィトゲンシュタインもこうした時代の一員として、時代の神秘的衝動を自己の内部に敏感に感じ、表現している。たとえば一九一五年五月二五日の草稿で彼は、「神秘的なものへの衝動は、科学によって我々の願望が満足されないことから生じる」(『草稿』、p.214)と記している。「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」という『論考』7の最終命題は、まさにこの「神秘的なものへの衝動」の主体的表現にほかならない。
 こうした時代にあってウィトゲンシュタインの神秘主義を他と区別している大きな特徴は、彼が論理的思考と神秘主義を結合しようとしていることである。もし我々が自己の神秘的衝動に無条件に身を委ねるなら、多くの場合、我々は言語化の可能性に目をつむり、実際には語りうるものを(それが語りえないものであってほしいがために)語りえぬ神秘的なものとみなしてしまう。これが右で述べた安易な神秘主義である。それは恣意的な神秘主義であり、闇の深みを求めるあまり、自らの目を覆うことにほかならない。それに対して『論考』のウィトゲンシュタインの目的は、言語(つまり論理的思考)の内部原理に即してその限界を確定し、それによって語りえぬもの(神秘的なもの)の領域を確定しようということである。もしこの目的が首尾よく達成されたなら、結果として確定された「神秘的な領域」は、我々が神秘的であってほしいと思っているものではなく、事実絶対的に神秘的なものとなるだろう。それは本来の意味での神秘的なものである。論理的思考を前提として神秘的なものの存在を示そうとするこうした思考を論理的神秘主義と呼ぼう。論理的思考と科学を前提とせざるをえない我々の時代が、ウィトゲンシュタインの思考に惹きつけられる大きな要因がこの論理的神秘主義なのである。

(同上、pp. 80-83)


 こうした観点から見るなら、右に示した論理に対するウィトゲンシュタインの安易な神秘主義は、自己の哲学的目標に対する重大な背信だと言わねばならない。

(同上、p. 83)


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