大小乗の意味(平川彰)


  大乗教徒が「小乗」と呼んだ相手が、部派仏教の全体であったか、あるいはその一部分であったかは明らかでない。『大智度論』などによってみると、そこで破折されているのは、もっぱら毘婆沙師、すなわち説一切有部であったようである。すなわち有部が小乗の代表と目されていたことは確かなようである。そのことは広く大乗経典からも確かめうる。しかし大衆部や上座部までも「小乗」の中にふくまれていたか否かは、明らかでない。

(平川彰『インド仏教史 上』、春秋社、1974年、p. 326)


 大乗・小乗の「乗」(yAna)とは、教理のことである。教えを実践することによって、迷いの岸から悟りの彼岸に渡ることができるので、教義を乗物にたとえたのである。大乗仏教と部派仏教との教理的相違は少なくないが、これが大・小と対立的に呼ばれる根本的理由は、自利と利他の違いであろう。大乗仏教は「他を救うことによって自らも救われる」という、自利利他円満の教えである。大乗で説く六波羅蜜の修行は、利他なしに自利が成立しないことを示している。これが相依ることによって成り立っている縁起の世界の道理である。これに対して有部や上座部の教理では、煩悩を断じて自己の解脱を得ることが修行の目的とされている。しかも解脱を得れば「なすべきことは終わった」として、涅槃に入ることだけが考えられている。他を救済することは、修行の完成の必要条件とはなっていない。自己が解脱を得たあとにも、他を救済することは出てこない。これは声聞乗が「弟子仏教」であり、他から学ぶことに徹していたからである。学ぶ立場から教える立場への転換がない。声聞とは「学ぶ人」の意味である。同時に、部派仏教の縁起の解釈では、相依る法を、固定的、孤立的(有自性)に理解することに関係する。
 実際には声聞乗でも、師から弟子への教法の伝授は行なわれており、教えることや法を説くこともなされていた。しかし教理には、利他が必然的条件となっていない。この点が小乗と呼ばれた根本的理由であろう。小乗が弟子仏教であったのに対し、大乗は自ら教師となることを理想とする仏教である。声聞の師である仏陀そのものを理想とする「成仏」の教えである。ここに自ら学びつつも、他を教える立場の仏教が成立する。これが大乗である。成仏の教えの根底には、仏陀になりうる素質が、自己に備わっていることを信ずることが前提されている。「仏陀となりうる素質」が自己に備わることを自覚する人を「菩薩」(bodhisattva)と呼んだ。これは、仏伝文学で釈迦仏の前身を菩薩と呼んでいたのをモデルにしたのである。その意味で大乗は菩薩の教え(菩薩乗)である。しかも自己のみでなく、すべての人に成仏の素質があると信ずるとき、他の人にもこの自覚を呼びさましたいという願いが起こる。ここに大乗の教理に「利他」が必然的な契機として入ってくる。ここから「一切衆生に悉く仏性あり」という教理が発展する。小乗仏教が隠遁的な僧院仏教となったのに対し、大乗仏教が世間に密着した在家仏教であったことも、かかる点から理解することができる。

(同上、pp. 328-329)


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