「批判的合理主義」と「無批判的合理主義」(カール・ポパー)


 「理性」や「合理主義」という用語は曖昧なので、それらがこの章でどのように用いられるのかを、概略的にせよ、説明しておく必要があろう。第一に、それらは広い意味で用いられる。すなわち、それらは知的活動のみならず、観察や実験も含むように用いられる。 〔中略〕第二に私は「合理主義」という用語を大略次のような態度、すなわち、感情や情熱に訴える代りに、むしろ理性、つまり明瞭な思考と経験に拠ることで可能な限り多数の問題を解決しようとする態度を示すために用いている。言うまでもなく、この説明は決して満足のゆくものではない。〔中略〕それゆえ、もう少し正確を期すためには、実践上の態度もしくは行動の観点から、合理主義を説明するのがよいであろう。この時、合理主義とは喜んで批判的議論を傾聴し経験から学習する態度である、ということができよう。合理主義とは基本的には、「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」ということを承認する態度である。

(K.R.ポパー著・小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』第二十四章、未來社、1980年、pp. 207-208)


 「合理主義」という用語の私なりの用い方は、おそらく、真実の合理主義と偽の或いは擬似合理主義とが区別されるならば、幾分か明瞭になろう。私が「真の合理主義」と呼ぶのは、ソクラテスの合理主義である。この合理主義を成立させているのは、自分が様々に制約されていることの意識であり、自分たちがしばしば誤りを犯すということ、ならびに、誤ったということを知るのにさえ他人に大きく依存していることを知っている者の知的謙虚さである。それはまた、われわれが理性に過度の期待を抱くべきではないこと、ならびに、論証が学習の唯一の手段──鮮明に見てとる手段ではなく、以前よりは鮮明に見てとるための手段──であるにせよ、論証が問題を最終的に解決することはほとんどないということ、これらの点の自覚である。
 私が「擬似合理主義」と呼ぶのは、プラトンの知的直観主義である。それは、自己の卓越した知的才能への不遜極まる信仰であり、秘伝を伝授されているし、確定的にそして権威づきで知っているという主張である。〔中略〕この権威主義的な主知主義、発見の不可謬の道具あるいは不可謬の方法を所有しているというこの信仰〔中略〕、この擬似合理主義、これらがしばしば「合理主義」と呼ばれているのだが、しかし、それは、われわれがこの名称で呼ぶところのものとは正反対のものである。

(同上、pp. 209-210)


私は行き過ぎた合理主義の主張を詳細に吟味し、ある種の制限を承認する、穏健で自分自身に批判的な合理主義を擁護しようと思う。それゆえ、私は、以下で、私が「批判的合理主義」と、「無批判的合理主義」〔中略〕と名付ける二つの合理主義の立場を区別しよう(この区別は、「真の」合理主義と「偽の」合理主義という先の区別とは無関係である。もっとも、私の意味での「真の」合理主義はほとんど批判的合理主義にほかならないのではあるが)。
 無批判的〔中略〕合理主義は、「私には、論証あるいは経験という手段によって弁護されえないような考えや仮定を受け入れる用意はない」と言う人の態度として表現できよう。これはまた、論証によっても経験によっても支持されえない仮定は放棄されるべきである、という原則の形で表現できよう。こうしてみれば、無批判的合理主義のこの原則が、整合的でないことは容易に見てとれる。なぜなら、この原則は、これはこれで、論証によっても経験によっても支持されえないのだから、この原則自体が放棄されるべきであるということになるからである(この点は、嘘つきのパラドックス、つまり、それ自身が偽であることを主張する言明に類似している)。それゆえ、無批判的合理主義は論理的に支持できないのであり、しかもこのことが純粋に論理的な論証によって証明されるのであるから、無批判的合理主義は、自らが選んだ武器、論証によって敗北させられることになる。

(同上、p. 212)

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開かれた社会とその敵 第2部


〔05.09.30 引用者付記〕
 上に引用したように、ポパーは、『開かれた社会とその敵』第二十四章において、自らが支持する立場は「ソクラテスの合理主義」であり、「批判的合理主義」であるといって、その内容を説明しています。このポパーの立場は、「偽の或いは擬似合理主義」や「無批判的合理主義」とは異なるともいっています。小河原誠先生の『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕(講談社、1997年)第四章第4節「合理主義の根本問題」にこの部分のわかりやすい解説がありますので、参照されることをお勧めします。
 なお、上記引用では、註は省略しました。


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