恥ずかしい一夏の霊体験(皆神龍太郎)


 とはいえ、以上のようなことをいっても、また最後まで本書を読まれても、「死後の世界や生まれ変わりなどありえない」とする意見には同調できない、と思っている読者も少なからずいるのではないかと思う。いくら理屈を並べられても、自分自身で霊を感じてしまったり、心霊写真を撮ったことがある、といった「心霊体験派」の多くの人が、そうした思いでいるのではないだろうか。そういった人のために、僕自身の「恥ずかしい一夏の霊体験」をお話ししておこうと思う。この本の監修作業を進めているうちに、霊に出会ってしまったのである……。
 ちょうど夏休みの期間中だったので、この仕事を一時投げだし、家族を連れて長野県のペンション村に一泊旅行に行った時のことだ。宿泊部屋として通されたのは、そう古くもないログハウスの二階の屋根裏部屋だった。クーラーも付いてない部屋だったが、場所が信州の高原ということで、そう寝苦しくはなかった。だがその夜、壁際に置いてあるベッドに横になったら、どうも変な感じがする。ひょっと気づいて目を開けてみると、小さな子供の手が壁から数十本生え出てきて、わさわさと僕の体を触ろうとしているではないか。だが、寝るのに邪魔だったので、それら手の(たば) を払いのけて、そのまま再び寝てしまった。ただ、触ってきた子供の手がまるで赤ちゃんのようなふわふわした手で、純粋に「遊びたい」と思って触ってきているという感じがした。だから、恐怖心など何も感じず、かえって手を振り払ってしまって、何か可哀相なことをしたような気分になったことを覚えている。
 翌朝、寝る前に泊まった部屋の中で撮っておいたデジカメの写真を再生してみた。すると、一枚だけ、そこにはなかったはずの白くて丸い、直径三〇センチほどの球体が写っている写真が見つかった。心霊写真としてよく紹介されている白い球体に似たような写真だった。

 以上が、この夏の僕の「霊体験」である。
 読まれて、どのように思われただろうか。懐疑派(スケプティック)を自認しているのに、こんなものを「見てしまって」恥ずかしい奴だといわれれば、返す言葉がない。だが僕は、たしかに変な手を見はしたが、それが霊現象だったなどと信じていない。いや、「信じていない」というより、正確にいえば、霊現象と解釈するには無理があるのである。
 なぜか。わさわさと壁から生えてきた手が、自分の体を後ろから触ろうとしていたシーンを思い出してみると、そのシーンを眺めていた自分の視点の位置は、体の斜め後ろ上方にあったことが思い出された。つまり、自分の頭よりも視点の位置がさらに後ろだったのである。だがら、あのシーンを本当に自分で見ていたとしたら、僕は幽体離脱をしていたはずである。その上、壁(ぎわ)に背中を付けて寝ていたはずなので、その「斜め後ろの上方」というと、視点は完全に壁の中にめり込んでしまっていたはずだ。だから、幽体離脱をして壁の中にめり込みながら、壁を透視して数十本の子供の手に自分の体が触られるを斜め後ろから見ていた、と解釈するよりも、夢だったと考える方がずっと素直な解釈だということに、皆さんもきっと同意してくれることと思う。元々、枕が変わるだけで寝付きが悪くなるような体質なので、旅の疲れも出て、いわゆるところの「金縛り」に近いような現象が起きたのではないかと思っている。金縛り状態では、自分のことを「寝ていない」と思っているので、寝る直前に見ていた自分の寝ている部屋の景色がそのままそっくり夢の中に現れてくるのは、よくあることなのだ。
 そして旅行から帰って一ヶ月ほどたったある日、今度は自宅のベッドで寝ているときに、ペンションで触られた子どもの手と同じ手が脇の下に入ってきて、ギュッと後ろに引っ張られるという目にあった。今度は、引っ張られた途端にはっきり目が覚めたので、自分がなんでこんな奇妙な夢をたびたびみなければならなかったのか、その理由が判明した。実は、この夏からパジャマは暑苦しいのでやめて、旅館などでよく出されるねまき浴衣(ゆかた)を着て寝るようにしていたのだ。だが、寝ているうちに浴衣の(そで)がまくれ上がって脇の下へと()まってしまい、それがふかふかして、まるで子どもの小さな手が脇の下に入り込んでいるかのような感触を作り出していたのだ。そしてそのまま寝返りを打とうとすると、浴衣がベッドとこすれて、脇の下に溜まっていた浴衣が後方にギュッと引っ張られ、その感覚が、子どもの手によって引っ張られる、という幻覚を夢の中で作り出していたのだった。
 デジカメに写っていた丸い「霊体」らしき物も、カメラによく写り込むハレーションの一種だろう。画面にひとつだけ白い球体が写っているのなどはまだ可愛い方で、一月ほど前には、知人から「お化け屋敷を撮ったらこんなものが……」と言って、画面一面に白くて丸い正体不明の光点が数百個も写っているデジカメの写真を見せられた。知人はすっかり心霊写真と思い込んでいるようだったが、暑くて汗ばむ日だったというので、僕は知人の汗ばんだ肌がレンズについてしまい、その汗が画面に映り込んだものではないかと推測している。
 自分自身、こういった壁から生える子供の手などというものをたまに夢見てしまう人間なので、なんらかの霊体験や生まれ変わりの記憶を持っているといわれても、それだけでその人をバカにするつもりなど毛頭ない。ただ、「霊感が強い」と思っている人でも、自分が見たり、体験したと思っている現象が、本当に自分が解釈している通りの霊現象だったのかどうか、冷静に問い直す余裕を持ってほしいと願っているだけだ。僕がこの夏出会った「霊体験」のように、冷静に考えると実はありえない霊現象というのも、けっこう多いのではなかろうか。
 それでも、霊はある、生まれ変わりもあると思う人は、それはそれでもう仕方ない。ただ、(たた)りだとか怨念だとか騒いで、他人を(おど)すような行為だけはやめてほしいものだ。百歩譲って、霊が実在して、祟りで人を呪い殺せるような存在だとしても、それで一度殺されてしまえば自分だって同じ霊になるだけのこと。同様に呪い返すことができる、ということが保証されるにすぎない。霊はたとえ実在したとしても、たかが元は同じ人間同士。死んでしまえばあの世ではまた霊として対等になると思えば、別に恐れるに足りない。
 もしあなたがどうしても本気で霊の存在を信じているのなら、自分が特殊な存在だと威張ったり、他人を怖がらせたり、新興宗教に巻き込むような下らないマネはせずに、何をいつまでも迷っているのかと、出てきた霊の愚痴を聞いてカウンセリングをしてあげられるような、余裕のある存在を目指してほしい。その方が、世のため人のため、霊のためである。

(皆神龍太郎「監修者あとがき」、ポール・エドワーズ『輪廻体験─神話の検証─』〔皆神龍太郎監修/福岡洋一訳〕、太田出版、2000年、pp. 421-424)


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