釈尊は輪廻転生説を否定した(小川一乗)


 さて、阿毘達磨仏教において形成された業論に対する龍樹の批判は、『根本中論偈』の第十七章「観業果品」にまとめて論究されているが、そもそも、インドにおける「業」の思想とはどのようなものであろうか。その点について略説すれば、インドにおいては、釈尊の時代になって、バラモン教の教義として、業の思想に基づく輪廻転生説が説かれるようになり、カースト制度(階層的身分差別)が確立されていくのである。業の思想とは、人間がこの世の生を終えた後、次の世でいかなる生を受けるかは、この世で為した行為、すなわち、業(karman)によって定まるという考え方であり、また、輪廻転生説とは、人間は単にこの世のみで滅びるのではなく、肉体の滅後において、この世でのそれぞれの行為(業)に従って次の世に生まれ変わるという考え方であり、そこには輪廻転生する主体としての我(a(_)tman)が実体として考えられている。このようなバラモン教における業の思想による実体論的な輪廻転生説は、現在の人生を来世のための仮の世と考え、ひたすらより良き来世を請い願う生き方となり、一方では、現在世も過去世の業によるものであるとの諦めを生み、次第にカースト制度を定着させ固定化させていった。
 このような実体論的発想に基づく業思想に対して、釈尊は、「縁起」の思想によって、輪廻転生する主体としての「我」の実体性を否定し、輪廻転生説を否定して、

解脱は不動であり、これが最後の生存である。もはや、生まれ変わること(輪廻の苦しみを受けること)はない、という智見が生まれたB。」
と、その初転法輪を終えるにあたって語ったと伝えられている。ここには、実体的に考えられる、生存の継続としての輪廻に流転する自己存在は成立しないという智見こそが、「縁起」における解脱の内実であることが示されている。そして、その「業」についても、
生まれによって卑しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって卑しい人ともなり、行為によってバラモンともなるのであるC
と説き、実体論的な輪廻転生説に基づく業思想を否定している。このように、釈尊は「縁起」において、過去世における業の結果としての現在世への生まれを否定し、われわれの行為そのものの上に、行為者としてのわれわれの業の結果(業報)を見ていたのである。すなわち、過去世の業の結果としての現在世という実体論的発想は何ら根拠のない構想(分別)でしかないと、「縁起」という智見によって確信した釈尊は、自らの行為の上に、そのようにしか行為せざるをえない自らの行為者としての責任を持ち、自らの現前の行為のただ中にあって自らの過去に目を向けるという、他律的でない自律的な業の思想に立っていたと考えられる。このような釈尊の業思想を、龍樹は、先の第二例に説かれているように、「業」を行為と行為者との相互の関係性(相依相待)によって説明しつつ、「業」が実体的発想によって把握されることを否定しているのである。
 釈尊は、「縁起」によって実体論的な業思想を批判したが、釈尊亡き後の仏教は、次第にインド宗教において一般的であった実体論的な輪廻転生説を受け入れ、輪廻転生する主体としての「我」を否定した仏教の「無我」の立場を取りながらも、輪廻転生を可能にする「業」についての解釈を、それぞれの学説に基づいた独自の実体論によって構築していったのである。それが龍樹によって批判されている阿毘達磨仏教における業論である。

(小川一乗「業論に対する龍樹の批判」、『仏教学セミナー』第52号、1990年10月、pp. 4-6)


 われわれは、「縁起」であり「空」であるという本来性の上に成立している存在であるにも拘わらず、しかも、現に存在しているが故に、その本来的な自己存在性を見失い、自らの現実の存在を確実なものとして固執し、そこに非本来的な自己存在を作り出し、それを本来的な自己存在と錯覚して生きているのである〔引用者註1〕。そのようなわれわれの錯覚によって、そこに作り出された非本来的な自己存在を、龍樹は「化人」としてここに語っているのである。実体化されたこの非本来的な自己存在は、あたかも「化人」のようなものであり、その化人の行為(業)を実体化し、そこに輪廻転生を構想することの愚行は、釈尊の「縁起」によって否定されたはずであるのに、しかも、いつの間にかその愚行が仏教の中に取り込まれていることに対して厳しい批判をしているのが龍樹の「空」である。そして、龍樹は、この真実としての本来的な自己存在に目覚めることなく、いかに非本来的な自己存在を純化してみても、それは真の仏道とはなりえないこと、すなわち、阿毘達磨仏教の実体論的発想における仏道は、釈尊が無駄であると捨て去った修定主義か苦行主義かに陥らざるをえないものであり、精神や肉体の安定を計る程度のヨーガ的な役割しか果たし得ないことを指摘しているのである。いうまでもなく、龍樹にとっての真の仏道とは、本来的な自己存在に目覚める人間成就の道である。本来的な自己存在に目覚めるとき、われわれの生死していく非本来的な自己存在そのままで、しかも、そこにのみ仏道が開かれている事実を、龍樹は「空」において発見し、それによって釈尊の仏教を再確認し、そこに「生死即涅槃」という大乗仏教の原点を明らかにしたのである。

(同上、pp. 12-13)


B Majjhima-nika(_)ya I, p. 173 ; Samyuta-nika(_)ya V, p. 423.

C Suttanipa(_)ta, 136。etc. この偈に代表される釈尊の業論に関する最近の論文としては、奈良康明「『スッタニパータ』における業論(上)──文化史の立場から──」(藤田宏達博士還暦記念論集『インド哲学と仏教』、平楽寺書店、一九八九)がある。

(同上、pp. 13-14)


〔01.05.27 引用者註〕

(1) この表現は少し分かりにくいかもしれない。要するに、自性として存在しているわけではないのに、自性として存在(故に「常住」)しているかのように錯覚するということであろう。このようなことが錯覚に過ぎないということを実感できる時間を松本史朗氏は「宗教的時間」と表現されている(『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、pp. 179-181)。有身見と五蘊無我説についての小川氏の所説(『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 153-157)も参考にされたい。


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