問答迷人さんとの対話

 先日、「日蓮法華 掲示板」にて、問答迷人さんと日蓮の曼荼羅について議論いたしました。

 その議論は、今後、引用したり参照したりする機会があるように思いますので、ここにも記録しておこうと思います。

 以下の記録では、原文における誤記等を訂正してあります。原文を参照されたい方は以下のURLからジャンプされて下さい。

スレッド「日蓮法華文字曼荼羅について」の No. 145-196
http://bbs.2ch.co.jp/user/nichirenhokke/test/read.php/bbs1/1261041023/145-196

 Libraと申します。

 ここには初めて投稿します。

 勝呂信静氏が言うように、本尊について論じるさいには、まず本尊の【形式】と【思想】を区別しなければならないと思います(↓)。

本尊の形式と思想を区別せよ(勝呂信静)
http://fallibilism.web.fc2.com/107.html
 日蓮の文字曼荼羅は、狭義の曼荼羅ではなく、霊山浄土変だとわたしは思います。変相図も広義の曼荼羅に含まれます(↓)。

日蓮の曼荼羅と密教
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-25.html
 曼荼羅と一尊四士とでは形式は異なるわけですが、そこに表現されている思想的な意味での本尊は、両者において差はないと考えます(↓)。

創価学会教義の形成の試み
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-26.html

145 :Libra、[投稿日時:2011/01/27(木) 06:58:20])



Libraさん

書き込み有難う御座います。

日蓮曼荼羅について、僕は次のように考えています。

本尊抄の『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹〔つつ〕み末代幼稚の頚〔くび〕に懸けさしめ給う』について。

これは、日蓮聖人の独創でしょうね。そして、ここに日蓮聖人の思想というか、考え方が端的に現れていると思います。

五字とは、題目の五文字のことですが、文字である以上、それは何かに書かれる事が前提にされており、あくまで、目に見え、手に触れることが出来る物質だと言う事です。言語という場合は、会話を含みますから、紙や木に書かれる必要は無い、しかし文字というからには、紙や木に書かれていなければ文字とは言えない訳です。

そのような、紙や木に書かれた物質的存在の文字に「一念三千」を裹〔つつ〕む事が出来る、というのが日蓮聖人の考えであり、日蓮聖人は釈尊が上行菩薩に授与した正体は、この一念三千が裹〔つつ〕まれた「妙法蓮華経の五字」だと言う訳です。

これは、法華思想の、極め付けの具現なのだと思います。

さらに、この、「五字に一念三千が裹〔つつ〕まれる」、という考えが、応用されて、日蓮文字曼荼羅の図顕に到達されたのだと思います。


146 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/27(木) 16:07:19])



 問答迷人さん

 コメントありがとうございました。

 わたしと問答迷人さんとでは、日蓮曼荼羅についての理解は近いのかもしれません。

 以下の点について、問答迷人さんはどのように考えられますか?

1.「報恩抄」の「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」の文

 報恩抄送文には「御本尊図して進候」とあるので、「報恩抄」の「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし」という文は曼荼羅に即して理解すべきだとわたしは思うのです。

 で、実際に、曼荼羅において「宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩」が何の脇士となっているかと言いいますと、どう見ても五字です。

 ということは、日蓮は、五字によって「本門の教主釈尊」を表現していることになります。

 これをわたしは以下のように理解します。

147 :Libra、[投稿日時:2011/01/27(木) 20:12:17])



 五字というのは、問答迷人さんがおっしゃるとおり、一念三千(法)をその内容とします。

 で、その一念三千を大昔にはじめて証得し、それ以来ずっと所持し、その智慧を衆生に授けようと常に活動を続けているのが「本門の教主釈尊(久遠実成の釈尊)」です。

 ところで、日蓮は「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」(「守護国家論」)と言って、『法華経』を釈尊と同一視する思想が最初からありました(↓)。

日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
http://fallibilism.web.fc2.com/120.html
 これは、初期仏教における「法を見る者は、われを見る」という考えに通じるものでしょう(↓)。

「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
 要するに、初期仏教の「法を見る者は、われを見る」という思想を『法華経』は継承していて(寿量品の「時我及衆僧倶出霊鷲山」にもそのような思想がにじみ出ていると思います)、その『法華経』に忠実であった日蓮もまたその思想を受け継いでいるということです(日蓮は普賢菩薩勧発品の文を根拠にしています)。

148 :Libra、[投稿日時:2011/01/27(木) 20:12:48])



 そうすると、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」という「守護国家論」の文は、本尊抄を踏まえて読むならば、「五字は即ち本門の教主釈尊なり」ということになるでしょう。

 わたしは「報恩抄」の「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」の文を以上のように理解します。

 日蓮は一貫して法主仏従(法勝人劣)の立場に立っていますが、この場合の主従(勝劣)関係というのは、数学の記号を借りて分かりやすく示すなら、「>(大なり)」ではなく「≧(大なりイコール)」だと思います。

149 :Libra、[投稿日時:2011/01/27(木) 20:13:15])



2.「サッダルマプンダリーカスートラ」を本尊としてもいいのか?

 「漢文なんて全く読めないけどサンスクリットならわかる」というような人にとっては、サンスクリットの『法華経』が「今の法華経」です。

 日蓮の考えからすれば、そういう人は「サッダルマプンダリーカスートラ」を本尊とすべきだということに当然なるでしょう。 このことは以下の拙文の最後の部分のところで詳しく論証しておきました。

日蓮の曼荼羅と密教
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-25.html
 真理の理解と伝達は言語的制約を超えて可能であるというのが仏教の開祖ゴータマの基本的立場でしょう。

 経をサンスクリットに統一すべきであるというような考えをゴータマははっきりと否定していますので(パーリ律蔵・漢訳五分律)。

150 :Libra、[投稿日時:2011/01/27(木) 20:13:49])



Libraさん

1のご設問について

>日蓮は、五字によって「本門の教主釈尊」を表現していることになります

本尊抄にもう一箇所「妙法蓮華経の五字」について述べられているところがありますね。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う

この文には『因行果徳の二法』と有りますから、寿量品の「我本行菩薩道」以下の文を前提にしておられると思います。そして、そうであればこの釈尊は「本門の教主釈尊」だと思われます。

本尊抄の結文が法(一念三千)について述べられているのに対して、この箇所は仏(本門教主釈尊)について述べられており、この二つの文は対比して考える事が出来ると考えています。

つまり、「妙法蓮華経の五字」は御本尊たる本門教主釈尊の因行果徳を具足し一念三千が裹まれている、という意味になろうかと思います。

又、唱法華題目抄では、「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」とあります。

つまり、これ等を総合すると、一念三千=妙法蓮華経の五字=法華経の題目=本尊=本門教主釈尊、と考えて良いのではないかと考えています。

妙法蓮華経の五字に裹まれる一念三千とは、寿量品の本門教主釈尊の一念三千であり、無始古仏の一念三千が妙法蓮華経の五字に裹まれるのであれば、妙法蓮華経の五字=本門教主釈尊というのは合理性が有ると考えます。

151 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/28(金) 09:19:32])



2.「サッダルマプンダリーカスートラ」を本尊としてもいいのか?

お考えに賛同します。日蓮聖人は言霊信仰の如き態度で、「妙法蓮華経の五字」に固執されたのではないと考えています。

例て言えば、「日本」と言う文字は、日本の、一都一道二府四十三県を指しており、同じ意味合いにおいて、妙法蓮華経という文字が法華経の二十八品を指しているわけです。この「日本」という文字を「Japan」と英語で言っても、同じく日本の一都一道二府四十三県を指している訳で、中身は何ら変わることは無いわけです。

ただ、行儀として、将来、インド等において「ナムサダルマプンダリーカソタラン」等と現地の言葉で唱えることを考えておられたかどうかは、僕には判断が付きません。

152 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/28(金) 09:31:50])



 問答迷人さん

 コメントありがとうございます。

 やはり、わたしと問答迷人さんとでは、日蓮曼荼羅についての理解は完全に一致するようですね。

 もっとも、両者ともに日蓮じしんの説明に基づいて日蓮曼荼羅を理解しているわけですから、一致しなければおかしいわけですけども(日蓮には十分な説明能力があり、説明した文章が十分に現在に伝わっているというのが大前提になりますが)。

 さて、日蓮曼荼羅の中尊(五字)については決着したと思いますので、曼荼羅全体についても考えてみましょう。

 日蓮曼荼羅は「曼荼羅」とはいうものの、厳密に言うなら、密教で言うところの狭義の曼荼羅とはいえないもので、正確に言うなら「霊山浄土変」でしょう。

 この点については、問答迷人さんはどう思われますか?

153 :Libra、[投稿日時:2011/01/28(金) 19:14:13])



Libraさん

>日蓮曼荼羅は「曼荼羅」とはいうものの、厳密に言うなら、密教で言うところの狭義の曼荼羅とはいえないもので、正確に言うなら「霊山浄土変」でしょう。

不勉強なので、密教曼荼羅と変相図の区別が付いていませんでした。

Wikipediaで、変相図の説明を見てみました。

密教の曼荼羅は幾何学的な構成をもち、すべての像は正面向きに表され、三次元的な風景や遠近感を表したものではない。しかし、全ての曼荼羅がそのような抽象的な空間を表しているのではなく、浄土曼荼羅には三次元的な空間が表現されているし、神道系の曼荼羅には、現実の神社境内の風景を表現したものも多い。

この定義に従えば、日蓮曼荼羅は、密教曼荼羅ではなく、広義の曼荼羅であり、「変相図」に相当すると言う事になりますね。つまりは「霊山浄土変相図」ですね。

日蓮曼荼羅の中尊が「妙法蓮華経の五字」ですから、神力品の付属の場面が認められている、と考えるのが自然ですね。

妙法蓮華経の五字」は本門教主釈尊の一念三千を裹むわけですから、「悟り」そのものですね。それに対して、その五字を拝する僕は、三惑未断の荒凡夫。この両者の落差は、ほぼ無限大です。そこに、僕が妙法蓮華経の五字を受持するとき、僕は、本門教主釈尊の因行果徳を譲り与えられる、即ち成仏が叶うという構造だと思います。

まあ、修行が大前提とされていることから、日蓮曼荼羅は密教的ではなくて、法華経的ですね。

変相図と曼荼羅の区別も分らずに、日蓮曼荼羅について、曼荼羅なんだから密教だろう、と漠然と考えていましたが、大変勉強になりました。有難う御座います。

154 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/28(金) 20:05:50])



 問答迷人さん

 日蓮の曼荼羅では、宝塔が西向きに開いていて、釈尊と上行は向き合っています。


月氏には教主釈尊宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、創価学会版全集、p. 310)



 曼荼羅では、我々から見て左が北で、右が南となっています。宝塔の中の北の上座に釈尊が、南の下座に多宝如来が西を向いています。北が上座で南が下座となっているのはインドの「右尊左卑」の考えによるものです(法華経はインドの霊鷲山で説かれたという設定になっていますので)。ちなみに、日寛の「三宝抄」にも「仏宝は月氏風に准ずる故に右尊左卑也」とあります。

 右尊左卑の考えからすれば、最上位の弟子である上行菩薩は、弟子の中でも最前列の右にいることになるでしょう。もし上行菩薩が釈尊や多宝如来と同じく西を向いているとすると、北の上座にいなければおかしく、我々から見て左にいなければなりません。しかし、曼荼羅では、我々から見て右に上行菩薩がいます。このことから、曼荼羅の中の上行菩薩は東を向いていることがわかります。

 上行菩薩が釈尊と向かい合っているということは、法華経のストーリーからすればあたりまえのことなので、上記説明は本来なら不要だろうと思うのですが、曼荼羅の構造それ自体からも明らかであるということを強調するためにあえて書いておくことにしました。

(「本尊論メモ」の〔05.09.24 補足2〕、http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html


 「すべての像は正面向きに表され」てなどいない日蓮曼荼羅は、密教で言うところの狭義の曼荼羅とはいえません。正確に言うなら変相です。

155 :Libra、[投稿日時:2011/01/28(金) 21:38:45])



>日蓮曼荼羅は密教的ではなくて、法華経的ですね。

 おっしゃる通りです。

 日蓮の曼荼羅では、密教の主尊である大日が多宝の「郎従」として描かれるわけですから(上に引用した「報恩抄」の文から明らか)、思想的には全く密教的ではなくて、むしろ密教の否定(開会)です。

 日蓮の曼荼羅は、その形式から言っても密教的ではなく(狭義の曼荼羅ではなくて変相なのですから)、そこに盛られている思想から言っても全く密教的ではありません。

156 :Libra、[投稿日時:2011/01/28(金) 21:39:36])



Libraさん

 >日蓮の曼荼羅は、その形式から言っても密教的ではなく(狭義の曼荼羅ではなくて変相なのですから)、そこに盛られている思想から言っても全く密教的ではありません。

この点に関して、一つ疑問があります。それは、日蓮聖人は曼荼羅に「未曾有大曼荼羅也」等と認められています。通例、「大曼荼羅」語は密教の四種曼荼羅の一つと考えられています。なぜ、敢えて、大曼荼羅と認められたのか、という疑問です。Libraさんは、どうお考えになられますか。

157 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/29(土) 06:32:29])



 問答迷人さん

 日蓮は、万年救護御本尊には「大本尊」と書いています。「未曾有大曼荼羅也」の「大曼荼羅」も同趣旨でしょう。

 「大曼荼羅」という密教の術語を意識して書いているわけではないと思います。

158 :Libra、[投稿日時:2011/01/29(土) 19:02:09])



Libraさん

了解です。もう一点、お伺いいたします。

佐渡流罪直前の、所謂「楊枝御本尊」には釈迦多宝は無く、唯、中央に南無妙法蓮華経と認められています。然るに、この段階から、愛染・不動の梵字が左右に大きく描かれています。釈迦多宝よりも愛染・不動の方が、日蓮曼荼羅にとっては重要な要素と考えるしかないかな、と思います、この点、如何お考えになられますか。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

159 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/29(土) 20:24:43])



 問答迷人さん

 曼荼羅の中の愛染・不動は、法華経の行者を、それぞれ弓と剣をもって守護する存在として描かれているのであろうとわたしは想像します。

 とはいえ、残念ながら、この点をきちんと説明した日蓮の確実な文章が残っていないので、あくまでも想像の域を出るものではありません。「不動愛染は南北の二方に陣を取り」(「日女御前御返事」)というような表現からそのように想像するのみです。

 曼荼羅の種字は、南(向かって右)に不動、北(向かって左)に愛染が配置されますので、「日女御前御返事」の表現は、実際の曼荼羅と整合性があります。

 もしも「日女御前御返事」が日蓮の真撰だとすると、その文脈からして、「釈迦多宝よりも愛染・不動の方がより上位の尊格である」だなんて日蓮が考えていないことは明らかです。

 法華経の陀羅尼品では、法華経の名字(題目)を受持する者を十羅刹女なんかが攻撃呪文を使って守るというようなことが書かれています。

 ご指摘の「楊枝御本尊」の形態というのは、「愛染・不動はただちに弓と剣をもって我並びに我が弟子を守護せよ」というその当時の日蓮の願望の投影として、法華経における陀羅尼品的な思想が強調されたものなのではないでしょうか。

 要するに、「楊枝御本尊」を書いた当時の日蓮の問題意識がそこに投影されているのであって、日蓮思想における尊格の上下関係がそこに表現されているわけではないだろうとわたしは考えます。

 もっとも、日蓮の真骨頂は、その先にある「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ我並びに我が弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ」(「開目抄」)にあるとわたしは思いますが。

160 :Libra、[投稿日時:2011/01/29(土) 22:41:56])



 問答迷人さん

 少し補足しておきます。

 >曼荼羅の中の愛染・不動は、法華経の行者を、それぞれ弓と剣をもって守護する存在として描かれているのであろうとわたしは想像します。

 「上野殿母御前御返事」は真跡が部分的に残っているので、真撰と考えて問題ないと思いますが、そこでは以下のように書かれています。


 此の法華経の始に無量義経と申す経おはします、…其の無量義経に云く「四十余年には未だ真実を顕さず」等云云、此れは将軍が大王に敵する者を大弓を以て射はらひ・又太刀を以て切りすつるが如し、華厳経を読む華厳宗・阿含経の律僧等・観経の念仏者等・大日経の真言師等の者共が法華経にしたがはぬを・せめなびかす利剣の勅宣なり、…無量義経の四十余年の文は不動明王の剣索・愛染明王の弓箭なり。

 故南条五郎殿の死出の山・三途の河を越し給わん時・煩悩の山賊・罪業の海賊を静めて・事故なく霊山浄土へ参らせ給うべき御供の兵者は無量義経の四十余年・未顕真実の文ぞかし。

(「上野殿母御前御返事」、学会版全集、p.1569)


 日蓮のイメージとしては、法華経の行者の「御供の兵者」の代表格といったところなのでしょうかね。

161 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 08:57:15])



>「釈迦多宝よりも愛染・不動の方がより上位の尊格である」だなんて日蓮が考えていないことは明らか

 日蓮は、曼荼羅において、真言宗の千二百余尊のうちの主尊である両界大日を多宝の「郎従」として描いていることは確実です(>>156)。

 不動愛染が大日よりも上位の尊格であるわけはありませんから、日蓮にとって、不動愛染は、多宝よりも下位の尊格であったことはまちがいありません。

 要するに、日蓮の考えでは、尊格の上下関係は以下のようになります。

      【釈迦>多宝>両界大日>不動愛染】

 不動や愛染は、日蓮にとっては、「法華経の行者」を「守護し給うべ」き「法華経の二処・三会の座にましましし」「諸天」のうちの代表格ということになるとおもいます。


法華経の諸仏・菩薩・十羅刹・日蓮を守護し給う上・浄土宗の六方の諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神・日蓮を守護し給うべし、…日蓮案じて云く法華経の二処・三会の座にましましし、日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく須臾に来つて行者に代り仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候に

(「開目抄下」、学会版全集、p. 217、【】による強調はLibra)


162 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 08:57:42])



 ちなみに、問答迷人さんが示された「楊枝御本尊」の形態とは逆のパターンの曼荼羅(不動愛染が無くて釈迦多宝がある曼荼羅)もけっこうありますね。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/019.html

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/021.html

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/022.html

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/023.html

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/047.html

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/066.html

163 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 09:03:01])



Libraさん

>不動や愛染は、日蓮にとっては、「法華経の行者」を「守護し給うべ」き「法華経の二処・三会の座にましましし」「諸天」のうちの代表格ということになるとおもいます。

有難う御座います。何か、不動・愛染が曼荼羅には必ず認められているものと思っていましたが、先入観による思い込みでした。ご説明、そういう事なのだろうと納得しました。

164 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/30(日) 10:44:16])



 問答迷人さん

 中尊についても、曼荼羅全体についても、なんとか決着したと思いますので、今度は仏像形式との関連を考えてみます。

 「五字は即ち本門の教主釈尊なり」(>>149)ということが理解できれば、釈迦一尊でも、形式的な意味での本尊として許容されるものであることはたしかでしょう(開眼の問題はおくとして)。


 日蓮の思想的意味での仏本尊(久遠実成の釈尊)を形式として仏像で表現しようとするならば、四菩薩を脇士とするのが分かりやすいのであろうが、虚空会の付嘱の儀式を忠実に再現しようとすれば、釈尊を西向きにして四菩薩を東向きに配置する必要があろう。

 これに対して、四菩薩を脇士としない釈迦立像というのは、日蓮の仏本尊の表現形式としてはもっとも分かりにくい形式ということになるであろう。

 しかしながら、日興は、「御遷化記録」において、日蓮が生涯持ち続けた釈迦立像を「御本尊一体」と書いている(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p.184)

 よって、本弟子六人の共通認識としては、釈迦一尊ですら形式的な意味での仏本尊として許容されていたものと思われる。

(Libra「創価学会教義の形成の試み」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-26.html


165 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 23:55:13])



「御遷化記録」の問題(1/2)】

 問答迷人さん

 問答迷人さんの以下のようなご発言を拝見しますと、問答迷人さんは「御遷化記録」についてもたいへんお詳しそうですね。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015573254/110
 なので、「御遷化記録」についてちょっと質問してもよろしいでしょうか?

 わたしは、実際に西山に調査に行かれた宮崎英修博士のご説明(『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、pp. 180-185)に基づいて「御遷化記録」を理解していますが、宮崎博士のご説明によれば、御遺物配分の記録(いわゆる「御遺物配分事」)は「御遷化記録」の一部ということです。

 「御遷化記録」の抄出であろうと思われる本覚寺蔵(宮崎博士が「海長寺蔵」と書いておられるのはどういうわけか?)の日位の記録(「大聖人御葬送日記」)は「御遺物配分事」を含んでいますので、「御遺物配分事」はたしかに「御遷化記録」の一部なのでしょう。

静岡県本覚寺 寺宝
http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-177.html

166 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 23:55:43])



「御遷化記録」の問題(2/2)】

 しかし、西山に現在格護されている日興所持分には「御遺物配分事」の部分は残っていないのですよね?

 遺物の配分を実際に受けた当事者である日位(治部公)の記録が本覚寺に現存していて、それが現行の「御遺物配分事」とほとんど一致する(「御きぬ一 かうし御家尼」が脱落しているのみ)ことから考えても、「御遺物配分事」の正本をその一部として含む日興筆「御遷化記録」がかつて存在したのはたしかであるようにわたしには思えるのですが、この点はどのように理解したらよろしいのでしょうか?

 ところで、問答迷人さんは、日位の「大聖人御葬送日記」(静岡県指定文化財)が展示されていた特別展「鎌倉の日蓮聖人−中世人の信仰世界−」には行かれましたか?わたしは行っていないのですが。

特別展「鎌倉の日蓮聖人−中世人の信仰世界−」の出品目録
http://ch.kanagawa-museum.jp/tenji/kako/toku/nichiren-list.html

167 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 23:56:31 ])



「五人所破抄」の「執者尚強欲帰依」の十八字の問題(1/2)】

 問答迷人さん

 日興が釈迦一尊を形式的な意味での仏本尊として許容していたことは、彼じしんが「御遷化記録」に、日蓮が生涯持ち続けた釈迦立像を「御本尊一体(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p. 184)と書いていることから明らかですが、富士門流では、ある時点から、釈迦一尊という形式を完全に否定します。

 そこで問題となるのが、「五人所破抄」にもともとあったと伝わる「執者尚強欲帰依」の十八字です。

 「五人所破抄」を清書したのが日代だとしますと、現存するその当の日代本において、現行本の「執者尚強欲帰依」の十八字に相当する部分が「抹消」されているという事実は重大だろうと思います(以下の資料を参照)。

執行海秀先生著「興門教学の研究」より抄出
http://www.homyou.hello-work.jp/siryou6.html
 執行が「この十八字は果たして原本に存していたものか、それとも後人の加筆によるものかの疑いもある」と言うのももっともだとわたしには思えますが、この点について、問答迷人さんはどのようにお考えになりますか?

168 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 23:56:53])



「五人所破抄」の「執者尚強欲帰依」の十八字の問題(2/2)】

 そもそも、抹消されているといいますが、現存する日代本はどのような状態になっているのでしょうか?

 そして、いったい誰が抹消したのでしょう?

 日興じしんが「五人所破抄」を印可したというのが本当だとすると、その一部を富士門流の誰かが抹消するなんてことがどうして起こりえたのでしょうか?


日順の『日順阿闍梨血脈』において、「汝先師の蹤跡を追ふて将に五一の相違を注せよと云云、忝くも厳訓を受けてに紙上に勒し粗ぼ高覧に及ぶ、」(『富要』2-24『宗全』2-337)とあり、日興の命によって五一の相対に関する著書を書き、日興に読んでもらって内容を印可されたとあることから、この著書が『五人所破抄』であると日蓮正宗は主張している。

(宮田幸一「日興の教学思想の諸問題(1)−3」、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper5-3.html


169 :Libra、[投稿日時:2011/01/30(日) 23:57:17])



Libraさん

内容が多岐に亘りますので、一つずつ考えさせていただくという事でよろしいでしょうか。

>「御遺物配分事」の正本をその一部として含む日興筆「御遷化記録」がかつて存在したのはたしかであるようにわたしには思えるのですが

まず、この点については、既に色々な方が異論を唱えて居られるようですね。御遺物配分事の冒頭に「註法華経一部十巻 弁阿闍梨、御本尊一体〈釈迦立像〉大国阿闍梨」とあるそうですが、それなら御遷化記録の中身と食い違いますね。この記載が事実なら、御遷化記録と一体とは到底考えることが出来ず、御遺物配分事は、日興筆は否定されますので、恐らくは偽書ではなかろうかと思います。

170 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/31(月) 18:59:17])



 問答迷人さん

> 御遷化記録の中身と食い違いますね

 とくに食い違うということはないと思います。

 所有と占有を混同されていませんか?

 所有権者はべつに所有物を占有しなければいけないわけではありません。

171 :Libra、[投稿日時:2011/01/31(月) 20:07:33])



Libra さん

>所有権者はべつに所有物を占有しなければいけないわけではありません。

申し訳ありませんが、意味が取れません。噛み砕いてご説明お願いできませんでしょうか。

例えば、釈迦立像については、所有権者は大国阿闍梨だけれども、墓所にずっと安置されていた、と言うことでしょうか。それを示す何らかの証拠が有るのでしょうか。

172 :問答迷人、 [投稿日時:2011/01/31(月) 20:22:31])



 以下の2つの事実AとBは【論理的には両立する】という意味です。

 A:「釈迦立像の所有権者は大国阿闍梨であった」

 B:「輪番制が存続している間、釈迦立像は墓所寺に置かれていた」

 Aを示す証拠としては、本覚寺蔵の日位「大聖人御葬送日記」(静岡県指定文化財)があります。

 Bを示す証拠としては、西山の「御遷化記録」があります。

173 :Libra、[投稿日時:2011/01/31(月) 20:36:14])



 問答迷人さん

 もう少し噛み砕いて補足説明してみます。

 日興が「御遷化記録」に記録している、釈迦立像についての日蓮の遺言の意味は、「釈迦立像は墓所の傍の墓所寺に置くように」ということです。これは、『注法華経』について、「同ジク墓所寺ニ籠メ置キ」と言っていることから明らかです。「同ジク」というのは、「(釈迦立像と)同ジク」という意味ですから。

 そもそも、ちょっと目を離したら鹿やなんかに荒らされてしまうような場所にある墓所に、日蓮生涯の随身仏である釈迦立像を雨ざらしで置いておけるわけがありません。

 さて、日蓮の遺言では、「六人香花当番ノ時」と言って、輪番制の存続が前提されています。日蓮の遺言は、輪番制の存続が不可能になるような事態を想定していません。よって、輪番制が廃止された場合の六人の行動を縛るものではありません。

 日興に対して、「輪番制を廃止するなんて、遺言に反するからアカンやろ!」と言うことは可能でしょう。

 日興が輪番制の廃止を言い出した時、日昭は、「輪番制を廃止するんやったら、わたし、『注法華経』は持って帰ります。これわたしのんやし、側に置いといてちょくちょく見たいから。君ら、見たかったら、いつでもわたしのとこに来たらええよ。いつでも見せたげるから。」的なことを言い出したのかもしれません。

 それを受けて、日朗も、「そしたら、わたしも、あの釈迦立像、持って帰るわ。君ら、見たかったら、わたしのとこに来たらええよ。いつでも見せてあげるから。」的なことを言い出したのかもしれません。

 日蓮の遺言が輪番制の存続を前提としたものである以上、輪番制が廃止された後に、日昭や日朗が自分の所有物である『注法華経』や釈迦立像を持って帰ったとしても、日蓮の遺言に反したことにはなりません。少なくとも論理的にはそうなります。

175 :Libra、[投稿日時:2011/01/31(月) 23:54:53])



Libraさん

>輪番制が廃止された後に、日昭や日朗が自分の所有物である『注法華経』や釈迦立像を持って帰ったとしても、日蓮の遺言に反したことにはなりません。

>日興が輪番制の廃止を言い出した時

輪番制が日興によって廃止された、と言うのは、いつのことなのでしょうか。まず、この点を確定することが先ではないかと思います。

177 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/01(火) 11:06:30])



Libraさん

もう少し、疑問点を挙げさせていただきます。

もし、御遺物配分事御遷化記録に含まれていたのなら、釈迦立像の所有権が日朗に有ると日興は知っていた事になります、原殿御返事の「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏」「大国阿闍梨の取り奉り候いぬ」という表現は極めて奇異であり、有り得ない表現だと僕は思います。

さらに、御遷化記録は、二紙からなり、初めの一紙は葬儀時に、葬送の次第を記録したものであり、第二紙は、翌年正月に、輪番の取り決めを書いたものです。そして、この二紙は張り合わせられており、継ぎ目には四老の署名がされています。もし、さらにもう一紙、御遺物配分事が含まれていたのなら、それも、継ぎ合わされて、裏書署名がされているはずなのに、その形跡は指摘されていません。

178 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/01(火) 13:04:00])



 問答迷人さん

 輪番制が廃止されて、日興が身延に常任することになったのは、先学の研究によれば、弘安八年末のようです(立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史上』、平楽寺書店、1973年、p.73)

>もし、御遺物配分事御遷化記録に含まれていたのなら、釈迦立像の所有権が日朗に有ると日興は知っていた事になります、原殿御返事の「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏」「大国阿闍梨の取り奉り候いぬ」という表現は極めて奇異であり、有り得ない表現

 以下の事実AとBは論理的には両立します。

 A:「釈迦立像の所有権は日朗に有ることを日興は知っていた」

 B:「釈迦立像の占有権は墓所寺の常任管理者たるじぶんに有ると日興は思い込んでいた」

 他人の所有物について、他人の所有物であると知りつつ、自分に占有権があると主張するということは、論理的にはぜんぜんありえます。

 ご指摘の原殿御返事の表現は、日興が「日蓮の遺言は輪番制廃止後にも効力を持つ」と思い込んでいたという事実を示しているにすぎません。ぜんぜんありえる表現です。

 つまり、日興は、輪番制が廃止されたとしても、日蓮の遺言によって日朗は釈迦立像を墓所寺にずっとおいておくべきであると考えていたのでしょう。

   要するに、釈迦立像の占有権は墓所寺の常任管理者であるじぶんにあるんだと日興は思い込んでいたわけですね。

 そもそも、日蓮の遺言の内容について後々に意見の食い違いが起こらないようにするために、日蓮の遺言を明文化して、みなで確認し承認した上でそれを記録に残したのです。それが「御遷化記録」の中の「御遺言」です。

 実際の日蓮の遺言の内容がどのようなものであったにせよ、これこそが日蓮の遺言であったとしてみなの承認を受け記録された文章による限りは、日蓮の遺言は「輪番制が廃止された場合の六人の行動を縛るものではありません」(>>175)。よって、日興の占有権の主張には無理があるわけですが、にもかかわらず、日興はじぶんに占有権があると思い込んでいた。それだけの話だと思います。

179 :Libra、[投稿日時:2011/02/01(火) 19:38:02])



 問答迷人さん

 実際に西山に調査に行かれた宮崎英修博士は、前掲書において、裏継目判の写真を掲載されつつ、以下のように述べておられます。


 この記録の記載の順序は

 一、宗祖の御一代略記

 一、本弟子六人の定  弘安五年十月八日

 一、御葬送次第

 一、御遺言      十月十六日

 一、輪番帳      弘安六年正月日

 一、御遺物配分    弘安五年十月日

以上が弘安六年正月日にまとめられ、本弟子たちが、継目々々にそれぞれの花押を裏判として押している(図13)。

(『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p. 181、【】による強調はLibra)


 実際に実物を調査して、写真まで撮ってこられた宮崎英修博士が上のように書かれているということは、実物の御遷化記録は、最後の部分に御遺物配分事を含んでいたと考えてさしつかえない形態をしているのだろうと想像できます。

 もっとも、宮崎博士が裏継目判を確認できたのも、『御遷化記録』の裏打ちがはがれていたからのようです(↓)。


かつて宮崎英修博士が西山本門寺の霊廟調査に趣いたとき日興の『御遷化記録』の裏打ちがはがれていて継ぎ目に押された花押を確認することが出来て「これらの花押は上から日昭、日朗、日興の順で他行・他行と不参であった日頂と日向のスペースを確保して最後に日持の花押があった。日位の記録には間違いがないよ。」と禅文献、やがては初期仏教に夢中になっていき日蓮教学にちっとも興味すら示さなかったのに大先輩の孫であるからとなんとかご辛抱頂けたと思われる私のような不肖の弟子を呆れずにご指導も頂き優しく語られもしましたが、いまとなって私は「署名の書式と花押は時代によって変化するから文献学には重要なポイントだよ、キミ。」というような宮崎博士の声が学恩となって聞こえてくるようで恥ずかしい限りではあります。

(くまりん「日蓮本仏論と二箇相承 日蓮宗富士門流にみる歴史・教義の改変と増広 」、http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050920/p1


 どの程度裏打ちがはがれていたのかわかりませんが、「日位の記録には間違いがないよ」というのは、もしかしたら、最後の部分にも裏継目判の形跡があったということなのかもしれません。

 今度、機会があれば、くまりんさんに質問してみようと思います。

180 :Libra、[投稿日時:2011/02/01(火) 20:25:10])



Libra さん

>輪番制が廃止されて、日興が身延に常任----弘安八年末

了解しました。

>日興は、輪番制が廃止されたとしても、日蓮の遺言によって日朗は釈迦立像を墓所寺にずっとおいておくべきであると考えていた

この点については、日蓮聖人滅後のどの段階で日朗が釈迦立像を持ち去ったか、これが問題になります。弘安八年末の輪番制廃止以降で有れば、Libraさんの仰る通り、原殿御返事の記述は日興の思い込みに過ぎないと判断できます。しかし、それ以前の、まだ輪番制が行われていた段階に持ち去ったのであれば、日興の非難には根拠があることになります。この点、日朗が持ち去った時期は、特定されているのでしょうか。ちなみに、富士日興上人詳伝(堀日亨著)では、「日昭・日朗は六年正月下山の時に墓所傍寺に残されたる立像仏註法華経を失敬して下山したままのようにみゆる。(163p)と述べられています。

>日位の記録には間違いがないよ」というのは、もしかしたら、最後の部分にも裏継目判の形跡があったということなのかもしれません。

もしそうなら、ご指摘の通り、御遺物配分が含まれていた可能性が高まりますね。

181 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/02(水) 08:42:59])



 仮に日朗が釈迦立像を「輪番制が行われていた段階に持ち去った」とすれば、それは、日蓮の遺言に明らかに反する行為ということになります。

 その場合には、問答迷人さんがおっしゃるとおり、日興が日朗を非難したのには十分な根拠があったということになります。たとえ「釈迦立像の所有権が日朗に有ると日興は知っていた」(>>178)としても、日興は「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏」「大国阿闍梨の取り奉り候いぬ」などと非難したにちがいありません。

 そうすると、原殿御返事のご指摘の表現は、「極めて奇異であり、有り得ない表現」(>>178)などでは全くなく、むしろ、【ますますありえる表現】ということになるでしょう。

 要するに、日興の非難に根拠があろうとなかろうと、問答迷人さんが、>>178のご投稿において、「御遺物配分事御遷化記録に含まれていた」という説に対する反証になりうるとして指摘された原殿御返事の表現は、残念ながら【反証にはならない】ということです。

 もっとも、わたしは、日朗が釈迦立像を「輪番制が行われていた段階に持ち去った」とは思いません。そんな人を本弟子六人に選んでしまうほど日蓮に人を見る目がなかったとはわたしは思いませんので。

 なるほど、堀日亨は「日昭・日朗は六年正月下山の時に墓所傍寺に残されたる立像仏註法華経を失敬して下山したままのようにみゆる」と言っているのですね。要するに、本弟子六人のうち二人までもがすぐに遺言に違反したと。それだと、【日蓮には人を見る目が全くなかった】ということになりますが、それでよろしいのでしょうか。堀日亨にとっては、日蓮は本仏なのですよね。本仏がそんなんでよろしいのでしょうか。

 しかしながら、そのことについてもし議論するのであれば、別のスレッドでやったほうがよいのではないかと思います。

182 :Libra、[投稿日時:2011/02/02(水) 21:44:53])



 問答迷人さん

 西山の御遷化記録は、実際には、五紙からなりますが、「御遺言」「輪番帳」の継ぎ目の裏にはたしかに四老の花押があります。

 問答迷人さんは「四老の署名がされています」(>>178)とおっしゃっていますが、実際には花押のみです。

 この裏継目判が弘安六年正月のものであることは疑いないでしょう。

 堀日亨の説が正しいとすると、日昭・日朗は「御遺言」の裏に花押を記したその弘安六年正月の下山の時に「御遺言」に違反したということになるわけですが、常識的に考えて、そんなことがありえますでしょうか?

183 :Libra、[投稿日時:2011/02/03(木) 06:47:57])



Libra さん

>日興の非難に根拠があろうとなかろうと原殿御返事は反証にはならない

了解しました。

>日昭・日朗は「御遺言」の裏に花押を記したその弘安六年正月の下山の時に「御遺言」に違反したということになるわけですが

これは、輪番制が正確には守られなかった、という事が根拠のようですね。

いづれにしても、「御遺物配分事」が、御遷化記録に含まれていた可能性は、原殿御返事の記述によって否定する事はできないと言う事、了解しました。

184 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/03(木) 10:13:55])



Libra さん

>日興は、「御遷化記録」において、日蓮が生涯持ち続けた釈迦立像を「御本尊一体」と書いている(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p.184)

前段の議論によって、この宮崎英修師の説の意味をやっと理解できました。

この「御本尊一体」という表現は、日蓮聖人が、この釈迦立像を本門教主釈尊として拝しておられた事実を反映しているのだろうと僕は思います。

185 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/03(木) 10:27:35])



Libra さん

五人所破抄の該当箇所を書き込んで見ます。

嘉暦三年七月

 日興が云はく、諸仏の荘厳同じと雖も印契(いんげい)に依って異を弁ず。如来の本迹は測り難きも眷属を以て之を知る。所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し、伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一体の形像豈(あに)頭陀の応身に非ずや。凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず。倩(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば、源(みなもと)権実已過の化導を改め、上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。図する所の本尊は亦(また)正像二千年の間(あいだ)一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり。今に当たっては迹化の教主既に益無し、況んやq々婆和(たたばわ)の拙仏をや。次に隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須(すべから)く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ云云。

186 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/03(木) 18:49:29])



Libra さん

執する者」とは文脈からすれば、『「一体仏」に、日蓮聖人の先例に倣って執着する者』という事だと思います。

尚強ひて帰依を致さんと欲せば」とは、「一体仏への帰依では頭陀の応身への帰依に過ぎない事になってしまう」という理屈は判っていても、尚、『どうしても執着を捨てきれない』という場合は、という意味だと思います。

そして、一尊四士なら、本門教主釈尊という事が明らかになるから、用いて良い、という文面「須(すべから)く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ云云。」に続くのだと思います。

文面的には流れは続いているように思えますし、論点も前部からの続きとして読めますので、文脈からすると、削除されなければならない理由は何ら無いかに見えます。

しかるに削除されているということは、当該箇所は、『仏像安置の容認』と読めますので、曼荼羅至上主義と成った富士門の有り方からすると、甚だ不都合なので削除されたのではないでしょうか。そして、たとえに日興上人に印可を戴いた内容であっても、その箇所が枝葉末節であり、本筋ではないと判断されたのでないでしょうか。

187 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/03(木) 19:12:15])



 問答迷人さん

>この「御本尊一体」という表現は、日蓮聖人が、この釈迦立像を本門教主釈尊として拝しておられた事実を反映している

 四菩薩を脇士としない釈迦立像であっても、日蓮の思想的な意味での仏本尊である【久遠実成の釈尊(本門の教主釈尊)】を表現する形式たりうるということです。

 四菩薩を脇士としない釈迦立像であっても、それに対して、南無妙法蓮華経と唱え、寿量品を読誦するのなら、久遠実成の釈尊として拝することになるのは明らかでしょう。

 そのようにして拝される釈迦立像であれば、そこに表現される思想は、曼荼羅によって表現される思想と何ら異なるものではありません。「五字は即ち本門の教主釈尊なり」(>>149)ですから。

 「聖人の御書に根拠がある」「本尊の形式」には「大曼荼羅・一尊四士・一塔両尊四士などいろいろの形式があ」りますが、「これらの形式によって意味されている思想は統一されて」おり、「その根底になる思想は一つ」なのです。

本尊の形式と思想を区別せよ(勝呂信静)
http://fallibilism.web.fc2.com/107.html
 以上で、曼荼羅形式の本尊と仏像の形式の本尊との関係についてもなんとか決着したと思います。

 だいたいの問題は解決したのではないでしょうか。残された問題が何かありますでしょうか。

188 :Libra、[投稿日時:2011/02/03(木) 19:33:29])



 問答迷人さん

>五人所破抄の該当箇所

 もとの文章は、「敢えて一仏を用いるのであれば、須く四菩薩を思うべし」的なものだったのではないかとわたしは想像しています。

 ま、削除されてしまった以上、議論してもしかたないのですけど。

189 :Libra、[投稿日時:2011/02/03(木) 19:49:19])



Libraさん

>残された問題が何かありますでしょうか

本尊は「本門教主釈尊」。

曼荼羅形式では「妙法蓮華経の五字」を中尊とし、仏像形式では「本門教主釈尊の仏像」を中尊とする一尊四士、或いは一塔両尊四士。

こういう纏めになるかと思います。

190 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/03(木) 19:51:39])



 問答迷人さん

 長々と議論にお付き合い下さり、ありがとうございました。

 大変勉強になりました。

 また何か別のテーマで議論できればいいですね。楽しみにしています。

191 :Libra、[投稿日時:2011/02/03(木) 20:17:58])



Libra さん

本尊思想と本尊形式、大変勉強になりました。

日蓮聖人の思想は、極めて単純化して捉えたとき、その有様が姿を顕わす、と言う事なのだなあと思いました。

日蓮聖人の言われるところの上行所伝の正法とは、本門教主釈尊=無始古仏=妙法蓮華経の五字。

又、機会があれば、ご教授賜りたく存じます。有難う御座いました。

193 :問答迷人、 [投稿日時:2011/02/03(木) 21:44:05])



 問答迷人さん

 ホームページへの掲載を快諾して下さいましたこと、まことにありがとうございました。お礼が遅れてもうしわけありません。

 日蓮が生まれる前から、日本では、変相が曼荼羅とよばれていたことを示す資料をアップいたしましたので参考にして頂ければ幸いです。

日本では変相も曼荼羅と称せられた(加藤善朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/136.html
 あと、以下の間違いに気がつきましたので、訂正しておきます。

×:不動や愛染は、日蓮にとっては、「法華経の行者」を「守護し給うべ」き「法華経の二処・三会の座にましましし」「諸天」のうちの代表格ということになるとおもいます。(>>162

 ↓

○:不動や愛染は、日蓮にとっては、三変土田によって法華経の虚空会に来集した「法華経の行者」を「守護し給うべ」き「兵者」の代表格ということになるとおもいます。

196 :Libra、[投稿日時:2011/02/20(日) 03:32:01])



2011.02.11
Copyright (C) Libra(藤重栄一)・問答迷人, All Rights Reserved.
http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html


〔11.02.20 付記〕

  わたしの最新の投稿文を本文に追加いたしました。それに伴い、導入部分のURLなども訂正いたしました。
  


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NOTHING TO YOU
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