蓮華不染喩のパドマと経題のプンダリーカについて


 前回発表した拙文「題目論メモ」(http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html註3の中で、「蓮華」という語と「菩薩行」の関係について少し触れたが、今回はこの問題に関して少し詳しく補足しておきたいと思う。

 この問題を考える際に、まず最初に確認しておかなければならないのは、「蓮華」という語の原語が何であるかということである。
 『法華経』のタイトルは羅什によって「妙法蓮華経」と訳されたが、その原語(サンスクリット語)は「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」である。つまり、『法華経』のタイトル(経題)に含まれている「蓮華」という語の原語は「プンダリーカ(白蓮華)」である。
 これに対して、涌出品で「如蓮華在水」と言われている際の「蓮華」の原語は「パドマ(1)」である。
 以上のことから、涌出品の「蓮華不染喩」を経題釈に結びつけること(2)に困難を感じる方がおられるかもしれない。しかし、短絡的にそのように考えることはできないであろう。というのも、経題中の「プンダリーカ」という語の意味は、『法華経』のどの部分にも()()()()()説明されていないからである。実際、「プンダリーカ」という語が経題の中以外で使われているのは、『法華経』の中ではただの一箇所だけである。しかもその箇所では、四種類の蓮華を列挙する中で「プンダリーカ」という語が使われているだけであって、特にその語に重要な意味が担わされているわけではない(3)。つまり、『法華経』においては、経題の「プンダリーカ」という語の意味は、()()()()()()()()()()()()示されているのである。そうである以上、ただちに、涌出品の「蓮華(パドマ)不染喩」を経題の「蓮華(プンダリーカ)」と結び付けることはできない≠ニ結論するわけにはいかないであろう。涌出品の「蓮華不染喩」の「パドマ」は、本来は「プンダリーカ」であるべきであったが、韻律の制約で「パドマ」と表現されたという可能性もあるし(4)、「プンダリーカ」という語を惜しむが故にわざと暗示的に「パドマ」と表記したとも考えられる(5)

 松山俊太郎氏は「プンダリーカ(白蓮華)=永遠に生き続ける釈尊」と理解されている(6)が、私もそのように考える。菅野博史氏も次のように言われている。


 プンダリーカは白蓮華であり、白蓮華のごときサッダルマというように、白蓮華の清浄さが譬喩としてサッダルマを形容すると解釈する説が有力であるが、涅槃に完全に入って活動を停止してしまうのではなく、霊鷲山に常にあって衆生を救済する釈尊、つまり永遠の菩薩道を貫く釈尊自身を象徴するという説も出されている。サッダルマが、釈尊における真理と智慧を意味することが正しいならば、プンダリーカも釈尊自身を象徴するという説の方が私には興味深く思われる。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 84)


 そもそも、「永遠に生き続ける釈尊」というテーマは『法華経』の中で最も重要なものなのだから、それが経題に表現されていないはずはないであろう。そして、「永遠に生き続ける釈尊」とは具体的には「霊鷲山に常にあって衆生を救済する釈尊、つまり永遠の菩薩道を貫く釈尊」である(7)から、この意味でも、「プンダリーカ」は「菩薩行」と結びつく。また、「永遠に生き続ける釈尊」の手となり足となって実際に「菩薩行」を行なうのは「地涌の菩薩」なのであるから、「地涌の菩薩」も「プンダリーカ」と言うべきであろう(8)。このように、経題の「プンダリーカ」には「永遠に生き続ける釈尊」と「地涌の菩薩」という二重の意味が込められていると見るべきであろうが、いずれにしても、その本質は「菩薩行」であろう。

(1) 「パドマ」という語は、時に「赤蓮華」を意味するものとして使われる語であるが、その色を限定せずに「蓮華の総称」という意味でも使われる。本田義英『法華経論─印度学方法論より観たる一試論─』、弘文堂書房、1944年、pp. 46-47 を参照。松山俊太郎氏も以下のように言われている。


「プシュカラ」は、時代が下ると「青睡蓮」であることが確定しますが、古い時代の色は判りません。インドで一番古い文献である「リグ・ヴェーダ」に現れる蓮類は、ごく稀な「プンダリーカ」を除けば、後はすべて「プシュカラ」ですから、後にパドマがそうなったように、「蓮類の総称」であった可能性も考えられます

(松山俊太郎「法華経と蓮〈第ニ回〉」、『第三文明』第168号、1975年2月、p. 98、傍線 Libra)



(2) 本田前掲書(註1)、pp. 47-48 を参照。拙文「題目論メモ」(http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html註3で紹介した田村芳朗氏の説は本田説を継承したものであろう。

(3) 松山俊太郎「法華経と蓮〈第一回〉」、『第三文明』第167号(1975年1月)、p. 100 を参照。

(4) 本田義英氏はそのように考えておられたが、松山俊太郎氏はその本田説を否定して以下のように述べておられた。


Eさらに、本田博士の主張のように、「従地涌出品」の「蓮華不染喩」における「パドマ」は、本来「プンダリーカ」であるべきなのだが、韻律の制約でそうならなかったということは、全くあり得ない。「スッタニパータ」以来「プンダリーカ」は用いられており、いやしくも経の「本質」にかかわる一偈に「プンダリーカ」を詠み込めないと考えることは、「法華経の本質」と「法華経作者の非凡な能力」に盲目なものの二重の錯誤である。

(松山俊太郎「法華経と蓮〈第十回〉」、『第三文明』第176号、1975年10月、p. 115)


 しかしながら、松山氏は、「法華経と蓮」の最終回に至って、次のように自説を修正された。

最後に、「不染世間法 如蓮華在水 従地而涌出(あたかも蓮華〈パドマ〉が水に汚されないごとく、かれら《菩薩》も汚れをもたず、大地を裂いて今日ここにやって来た。)」〔梵本・四六〕という偈の中で、「菩薩」が「パドマ」に喩えられていますが、「従地涌出品」は「長行」が先に成立して「偈」は後からの付加と考えられ、しかも、韻文には「プンダリーカ」という語を用いにくいので、やはり、「地涌の菩薩」も「白蓮」であると考えてよいでしょう。

(松山俊太郎「法華経と蓮〈最終回〉」、『第三文明』第188号、1976年10月、p. 92)


(5) 松山俊太郎氏は以下のように言われている。


 Fしかも、この態度は、あながち羅什の専断ともいえない。法華経そのものが、むしろ極端に蓮華とくに「白蓮華」を惜しむ経典なのである。すなわち、経題以外で「プンダリーカ」が使われるのは、さきの「白蓮華香」ただ一つである。(他の「蓮華」についても、後に詳しく論じたい。)

(松山俊太郎「法華経と蓮〈第一回〉」、『第三文明』第167号(1975年1月)、p. 100)


(6) 松山氏が雑誌『第三文明』第167号(1975年1月)から第188号(1976年10月)までに連載された「法華経と蓮」、及び、同氏の『蓮と法華経─その精神と形成史を語る』(第三文明社、2000年)を参照されたい。

(7) 「永遠に生き続ける釈尊」については、拙文「仏身論メモ」(http://fallibilism.web.fc2.com/z014.htmlを参照されたい。

(8) 前註4、及び、松山前掲書(前註6)の pp. 66-67 を参照。

2001.11.22
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