ブログ「創価学会の信仰に功徳はあるか?」の記録

そううそさんのブログ創価学会の信仰に功徳はあるか?の記事「日蓮の過激な言動と創価学会教義とその批判」のコメント欄での Libra の発言の記録です。


 
 
事実のねじまげは許されない (Libra)
2007-08-26 14:03:29
1.立正安国論は「首をはねよ」などとは主張していません
 「日蓮が立正安国論において『首をはねよ』と”考え書き顕した」というそううそさんの解釈は誤読だとおもいます。
 「末木文美士さんのの〔ママ〕意見箇所にだけは賛成できそうにありません」とのことですが、べつに「末木文美士さんの書籍を読」むまでもなく、立正安国論の第八問答の当該部分を素直に読みさえすれば、上のような解釈がたんなる誤読にすぎないことは明らかでしょう。これは、【思想解釈の問題ではなく、文章の読解(国語)の問題】です。以下に当該部分を引用しておきます。

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夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん。

(「立正安国論」、全集、p. 30)
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 この部分は、末木先生のように「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」と読むほかはないでしょう。もしその読みに賛成されないのだとすると、いったいどのように読まれるというのでしょうか。


2.日蓮の遺文に多数、「害す、殺す」という記述が見られる???
 具体的に遺文を指摘して頂かないと全く議論になりません。【釈迦以後でも、仏教では、謗法を禁断するための殺害を説いている】というような主張が、日蓮の遺文に多数あるというのでしょうか。そのような説を主張されるなら、具体的に遺文を引用して説明されるべきでしょう。

 さて、この「害す、殺す」という問題でよく話題にあがるのは、以下の「撰時抄」の文章です。

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去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ

(「撰時抄」、全集、p. 287)
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 たしかに、「彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべし」という発言だけを見れば過激です。しかしながら、この発言は、【頸をきられようとしている者の発言】であることをふまえて読まれるべきでしょう。以下に引用する山中さんの解釈がすぐれているとわたしはおもいます。

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 たしかにこの文だけ読むならば過激な文である。しかし、これがどういう時に誰に向かって言った言葉なのかを考えるべきであろう。「文永八年九月十二日申の時に、平左衛門尉に向つて」とあるように、日蓮を処刑するために来た平頼綱の軍勢の刃の下から、平頼綱に向かって叫んだ言葉である。
 逆なのである。常に刃とテロにさらされていたのは日蓮たちであった。刃を突きつけた人ではなく、またそれを画策した良観たちではなく、テロに遭っている人が、刃の下から叫んだ言葉でもって、その人をテロリスト呼ばわりするのは、どのように考えても理不尽であろう。
 日蓮学者たちは、自己の客観的立場にこだわるあまり、先の「行敏訴状御会通」の言葉を無視している。そこで日蓮は次のように述べている。
「但し良観上人等弘通する所の法、日蓮が難脱れ難きの間、既に露顕せしむべきか。故に彼の邪義を隠さんが為に、諸国の守護・地頭・雑人等を相い語らいて言く『日蓮並に弟子等は、阿弥陀仏を火に入れ水に流す、汝等が大怨敵なり』と云云。『頸を切れ、所領を追い出せ』等と勧進するが故に、日蓮の身に疵を被り、弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり。此れ偏えに良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり。心有らん人人は驚くべし、怖るべし云云」(御書一八二頁)。「頸を切れ」とテロを主張し、実行していたのは良観たちではなかったのであろうか。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 100)
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 前述のとおり、立正安国論では「首をはねよ」などとは主張されていません。そして、日蓮の最後の説法は、立正安国論の講義でした。この問題についての日蓮の公式見解は、立正安国論で示された「悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道である」(末木先生)ということに尽きるとおもいます。ここに関しては、「真蹟遺文を精査して読」まれている山中さんの意見にわたしは賛成します。

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 日蓮の説は「其の施を止む」に尽きるのである。ところが、「初期には立正安国論のような立場であったが、後には変化して殺すべきと主張するようになった」などと言う学者もいる。しかし、日蓮は、平頼綱に向かって「念仏者等の頸を由比ヶ浜にて切れ」と言い放った同じ日に、平左衛門尉に対して「立正安国論」を進呈[12]している。佐渡よりの帰還後、幕府で三度目の諫暁をした時も非常に厳しいことを言っているが、その後の建治の広本と言われる「立正安国論広本」では、若干の書き換えが見られるが、「其の施を止む」(昭和定本一四七四頁)という文言、立場は一貫して変わっていない。また日蓮の最後の説法は池上での「立正安国論」講義であった。日蓮の姿勢は「立正安国論」で終始している。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 109)
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(12) 「立正安国論」を進呈……平頼綱宛の「一昨日御書」に「御存知の為に立正安国論一巻之を進覧す」(御書一八三頁)とある。

(同上、p. 113)
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3.日蓮の他者批判は仏教徒として当然の姿勢
 「日蓮に他者批判」の「攻撃的な面」があったというのは間違いないとわたしも思いますし、その部分については、むしろ、弟子として見習いたいとわたしはおもっています(以下の資料を参照)。

  真の知性人とは(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

 もっとも、前述したとおり、日蓮の思想は「害す、殺す」などというものでは全くありませんから、「攻撃的な面」といっても、あくまでも討論のレベルです。【討論のレベルでの攻撃性】というのは、【初期仏教から一貫する、仏教徒として当然の姿勢】だとおもいます。たとえば、『ダンマパダ』では以下のように説かれています。

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七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれる。

(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 21)
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 しかし、このようなことは、すでに他のところでもさんざん議論したことがありますので、これ以上はくりかえしません。前々回のコメントでも引用しておいた以下の拙文を参照されてください。

  日蓮考察
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html


4.創価学会の教義と思想
 「日蓮の”良き”思想が悪用か誤解されている」という点については、おっしゃるとおりでしょう。しかし、わたしが今問題にしているのはそんなことでは全くありません。わたしが申し上げているのは、【誤解している人(創価学会)の解釈にもとづいて、オリジナル(日蓮)を評価するのは誤っている】ということです。このことも他のところですでに述べていますので、これ以上はくりかえしません。前々回のコメントでも引用しておいた以下の拙文を参照されてください。

  法華経について、No. 74〜
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html


5.いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々の件
 わたしも、「いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々としては『”現代の”創価学会が持つ日蓮〔誤解〕的カルト思想の危険性』(日蓮仏法の危険性ではない)を一般人、及び学会員の関係者に訴えることは当然のこと」だろうと思います。しかし、わたしが今問題にしているのはそんなことでは全くありません。わたしが申し上げているのは、【事実のねじまげは許されない】ということです。

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 【創価学会を批判するためであれば、たとえ事実をねじまげても許される】というような考えは、明らかに誤っているでしょう。

 「創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません」とのことですが、日蓮遺文の解釈として許容されうる範囲の中で、最も悪意に解釈するというのであれば、「創価学会に疑問を感じる」者の解釈の態度としてはごく自然な態度だろうとおもいます。しかし、文章の読解として許容される限度をこえてまで、悪意に解釈することは許されないでしょう。そんなのは【事実のねじまげ】です。

(「 地獄論、罰論、メモ(その1)」のコメント欄、2007-08-18 12:48:47、http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/1bcb282c40eb61349ba73d71e27046c0
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6.わたしは可謬主義者です
 わたしは可謬主義者ですから、「何らかを『絶対である』という思想は危険」というお考えにはもちろん賛成です。わたしも日蓮を「絶対である」とは考えていません。このことは、以下の拙文からも明らかでしょう。

  日蓮の罰論の問題点
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html
 

 
 
「能忍」とは釈迦のことです (Libra)
2007-08-27 19:07:07
 みれいさん、こんばんは。コメントありがとうございました。


1.「能忍」とは釈迦のことです

 「善無畏三蔵抄」に「釈迦如来の御名をば能忍と名けて」(全集、p. 885)とありますように、日蓮がいうところの「能忍」というのは、インドに生まれた釈迦のことです。


2.クールロジックとアイアンウィル
 クールロジックはアイアンウィルにささえられるものでしょう。クールロジックはアイアンウィルと全く矛盾しません。日蓮の折伏(クールロジック)はアイアンウィル(慈悲)にもとづいているとおもいます(以下の拙文を参照)。

  折伏は慈悲が根本(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html


3.日蓮は常不軽菩薩品を重視しています
 日蓮は「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」といっています。

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日蓮は『崇峻天皇御書』で、「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と述べ、『教行証御書』で、「彼(不軽菩薩)は像法、此(日蓮)は濁悪の末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十四字の下種、此は唯五字也。得道の時節異りと雖も、成仏の所詮は全体是れ同じかるべし」と述べ、常不軽菩薩の語りかけた二十四文字(「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道、当得作仏」)と「妙法蓮華経」の五字とを類比対照させたが、これは常不軽菩薩の授記の実践こそが『法華経』の核心であることを洞察したからではないか。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 130)
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4.『ダンマパダ』第76詩
 『ダンマパダ』第77詩についてのみれいさんのご心配は無用ではないでしょうか。第77詩の直前には以下のような詩があります。

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七六 (おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。──隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 21)
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 他人を批判するということは、自分も批判されるということです。そうやって、お互いを高めあっていくことができるわけです。

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誰かを批判するということは、その批判対象から反批判をうけるということでもあります。
ですから、批判〔の目的は、批判対象をよりよきものにすることにある〕のと同時に、反批判により自分自身をよりよきものにすることにもあるのです。
われわれは相互批判によってお互いを高めあっていくことができるのです。

(みれいさんの記事「日蓮と批判精神2」の中で引用して頂いた拙文、http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/01199c7a03c95081f92aaf8198f36e25
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 釈尊は「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」といっていますが(以下の資料を参照)、そうやって、お互いを高めあっていくことが「この道のすべて」なのではないでしょうか。

  「われを善き友として」(増谷文雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/012.html
 

 
 
「能忍」まめ知識など (Libra)
2007-08-28 00:36:33
 みれいさん、こんばんは。ご丁寧なレス、感謝いたします。

1.「能忍」まめ知識
 「能忍」という語については、goo辞書にも、「釈迦のこと」と出ています。日蓮の「四恩抄」には、「此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる」(全集、p. 935)とありますが、「裟婆」という語は、「忍耐」を意味するサンスクリット語「サハー(sahA)」の音写です。


2.「常不軽菩薩品」まめ知識
 わが創価学会が世界に誇る研究者・菅野博史先生は、以下のようにいわれています。

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私はこれまで『法華経』を読み、研究してきたが、『法華経』の思想を一言で表わせと求められたならば、どのように答えたらよいであろうか。この問いを前にして、私は『法華経』に登場するある不思議な人物を思い出さざるをえない。彼は、自分の出会う人すべてに「私は深くあなたたちを尊敬する。軽んじあなどろうとはしません。なぜならば、あなたたちはみな菩薩の修行を実践して、成仏することができるであろうからです」と語りかける。つまり、彼はすべての人を未来の仏として尊敬するという実践をしたのであった。ところが、周囲の人々は彼にきわめて冷淡であり、そればかりか石をぶつけたり、杖で打ち据えたりする。それにもかかわらず、彼はこの実践行を一生貫いたのである。この人物は常不軽菩薩という名の菩薩である。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に出る「デクノボー」は、この常不軽菩薩をモデルにしたとされ、宮沢賢治自身が彼のように生きたいと痛切に祈った人物である。
 この、あらゆる人々を未来の仏として尊敬するという、きわめてシンプルではあるけれども混迷する現代の諸問題を解決に導くための基本的な視点、人としての振舞いの原点を指し示した思想と実践が『法華経』の真実の核心であると思う。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、iii〜iv)
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3.日蓮のクールロジックとアイアンウィル
 【日蓮のクールロジック(折伏)はアイアンウィル(慈悲)にもとづく】ということは、「報恩抄」をお読みになるとよくわかるとおもいます。以下に、「報恩抄」(および藤井学先生の現代語訳)を引用しておきますので、参考にしてみてください。
 

 
 
「報恩抄」の引用 (Libra)
2007-08-28 00:38:20
【1】
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いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか、〔中略〕仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠・等の心に随うべからず

(「報恩抄」、全集、p. 293)
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【2】
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 かくのごとく存して父母師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に

(同上、p. 293)
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【3】
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我等凡夫はいづれの師師なりとも信ずるならば不足あるべからず仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし

(同上、p. 294)
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【4】
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十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ我れ八宗十宗に随はじ天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり

(同上、p. 294)
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【5】
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 されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは日輪の青天に出現せる時眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり

(同上、p. 295)
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【6】
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日蓮此れを知りながら人人を恐れて申さずは寧喪身命・不匿教者の仏陀の諌暁を用いぬ者となりぬ、いかんがせん・いはんとすれば世間をそろし止とすれば仏の諌暁のがれがたし進退此に谷り

(同上、p. 297)
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【7】
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古の人人も不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず、外道が或は恒河を耳に十二年留め或は大海をすひほし或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんど・せしかども・いよいよ大慢を・をこして生死の業とこそなりしか、此れをば天台云く「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ、光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも妙楽は「感応此の如くなれども猶理に称わず」とこそかかれて候へ、されば天台大師の法華経をよみて「須臾に甘雨を下せ」伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしておはせしも其をもつて仏意に叶うとは・をほせられず、弘法大師いかなる徳ましますとも法華経を戯論の法と定め釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふでは智慧かしこからん人は用ゆべからず

(同上、p. 319)
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【8】
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法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ涅槃経には「寧身命を喪うとも教を匿さざれ」といさめ給えり、今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・ひとへに・をもひ切りて申し始めしかば案にたがはず或は所をおひ或はのり或はうたれ或は疵を・かうふるほどに去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を・かうふりて伊豆の国伊東にながされぬ、又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。
 其の後弥菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし、〔中略〕日本六十六箇国・嶋二の中に一日・片時も何れの所に・すむべきやうもなし、古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう、いわうや世間の常の人人は犬のさるをみたるがごとく猟師が鹿を・こめたるににたり

(同上、pp. 321-322)
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【9】
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日本国の中に一人として故こそ・あるらめと・いう人なし道理なり、人ごとに念仏を申す人に向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに、人ごとに真言を尊む真言は国をほろぼす悪法という、国主は禅宗を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招ける・わざわひなれば人の・のるをも・とがめず・とがむとても一人ならず、打つをも・いたまず本より存ぜしがゆへに

(同上、p. 322)
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「報恩抄」(現代語訳)の引用 (Libra)
2007-08-28 00:39:27
【1】
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ましていわんや、仏教を学ぶ者が父母の恩、師匠の恩、国の恩を決して忘れてはいけないのである。
 これら三つの大恩に報いるためには、仏法を学び究めて智者となるほかには方法はない。〔中略〕
 仏法を学び究めようとするならば、〔修行の〕時間がなければできない。〔修行の〕時間を得ようとするならば、父母・師匠・国主らの心にいつも随っていてはいけない。出離の道をどうしても理解しようとするならば、ときには父母や師匠らの心に背を向けねばならないこともあるのである。

(藤井学訳『大乗仏典 中国・日本篇 第24巻 日蓮』、中央公論社、1993年、p. 171)
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【2】
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 私はこのように固い決心をして、父母や師匠等の心にもときには背く覚悟で仏法を究める道に入った。

(同上、p. 172)
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【3】
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 我ら凡人は、〔先に挙げた諸師であれば〕、どの師であろうと信じさえすれば不満はなく、仰ぎ尊べば信ずることができようが、日蓮だけは、それではかねがねいだいている疑問は容易にはとけない。

(同上、p. 173)
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【4】
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〔現実には仏教は〕十宗も七宗もあって、互いに自宗が第一だと言い争っていては、国に七人も十人もの大王がいて争っているようなもので、万民は穏やかな生活ができない。そこで、私はどうしたらよいものかと考え、一つの願を立てたのである。
 私は、既存の八宗十宗の宗派が説くところには随わない。天台大師智■〔豈+頁〕がひたぶるに経文を師として、一代聖教の勝劣を考えられたように、釈尊の本意が奈辺にあるのか、一切経を開きみることにしたのである。
 すると、『涅槃経』というお経に、「法に依って、人に依らざれ」という文言がある。依法というのは一切経のこと、不依人とは、仏を除いた普賢・文殊などの菩薩や先に挙げたいろいろの人師たちのことである。

(同上、pp. 173-174)
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【5】
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 よって、インドの論師や漢土の人師の説くところを捨てて、直接経文に立ち返って一切経の心をたずねると、『法華経』が『大日経』や『華厳経』等に勝れていることは、ちょうど太陽が青天に輝きわたったとき、天地の上下がはっきりと見えるように明白なことである。

(同上、p. 175)
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【6】
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 日蓮がこのことを知りながら、〔華厳や真言の〕大師を恐れてなにもいわないならば、「むしろ身命を失っても真実の仏教を匿すことをするな」という仏陀が説かれた諌暁の教えに背く者となる。どうすればよいのだろう。真実の教えをいおうとすると、世間の迫害が恐ろしく、口をとざせば仏の諌暁の教えに背くこととなる。どうすればよいか、私は途方にくれる。

(同上、p. 180)
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【7】
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昔の人びとにも不可思議な徳があったが、仏法の邪正をその徳によって決めることはなかった。〔『涅槃経』によると〕、外道の〔阿竭蛇仙は〕ガンジス川の水を耳に十二年留め、〔耆兔仙人は〕大海の水を飲みほし〔て大地を乾かし〕、〔世智外道は〕日月を手に握り、〔瞿曇仙人は〕釈迦一族を牛や羊にしたという。〔だが、かれらはこの不可思議な徳によって〕かえって慢心を起こして生死の業にとらわれることになったという。このことを、天台大師は、〔その著『法華玄義』で〕「世俗の名声と利益を求めると、見愛の煩悩を増す」と解釈された。また、光宅法師はたちまちに雨を降らしたり、瞬時にして花を咲かせることができたが、妙楽大師は、〔その著『法華玄義釈籖』で〕「このような神仏の感応〔による不思議〕は〔『法華経』の〕説く道理にはかなってはいない」と書いておられる。
 したがって、天台大師も『法華経』を読んで瞬時のうちに雨を降らせ、また伝教大師も〔祈雨の祈■[示+壽]で〕三日のうちに雨を降らせたが、この奇瑞をもって仏意にかなったと仰せられたことはない。
 弘法大師にいかなる徳があろうとも、『法華経』を無益な戯論の法と定め、釈迦仏を煩悩にしばられた無明の辺域におられる仏だと書かれているのだから、智慧のある人は用いるべきではない。

(同上、pp. 224-225)
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【8】
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『法華経』〔の観持品〕では、「自分の身と命を愛さないで、ただ無上道を惜しむ」と説かれ、また『涅槃経』〔の如来性品〕では、「むしろ身や命を失っても教えを匿すな」と諌められている。
 今まさに命を惜しんで〔真実をいわねば〕、いつの世に仏に成ることができるだろうか。また、いつの世に父母や師匠を〔悪業の世界から〕救うことができるだろうかと思い定めて、真実のことをいい始めたところ、案の定、この日蓮はあるいは住庵を追われ、あるいは罵られ、あるいは杖で打たれ、あるいは刀で疵つけられ、そして弘長元年(一二六一)辛酉五月十二日、〔鎌倉幕府の〕咎を受けて伊豆国の伊東に流されたのである。
 そして同弘長三年(一二六三)癸亥二月二十二日に赦免された。だが、日蓮はその後も仏道を求める菩提心はいっそう強く、〔謗法を責め、真実の仏法を〕申したので、大きな法難がつぎつぎと起こること、さながら大風によって大波が起こるようなものだった。〔中略〕
 こうして、日蓮は日本全国、六十六箇国と島二つの中では、一日片時も住むことができないような有様である。二百五十戒を守って迫害を耐えしのんだ羅云のような昔の聖人も、富楼那のような智者も、日蓮にあえば悪口を吐く。魏徴のような正直な人、忠仁公のような賢者等も、日蓮をみると道理をまげて非を行う。まして、世間の普通の人びとは、犬が猿をみたときのように、また猟師が鹿を追いつめたときのように、〔日蓮を〕責めたてるのである。

(同上、pp. 230-231)
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【9】
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 日本の国の中で、一人として「〔日蓮のいうことにも〕何か理由があるのかもしれない」という人はいない。だが、これも道理である。なぜなら、人はみな、念仏を唱えている。〔それなのに、日蓮は〕人にあうたびに「念仏を唱えると無間地獄に堕ちる」という。人はみな、真言を尊んでいる。〔それなのに、日蓮は〕「真言は亡国の悪法である」という。国主〔の北条得宗〕は禅宗を尊んでいる。〔それなのに、〕日蓮は「禅は天魔の所為だ」という。だから、〔日蓮にふりかかった法難は〕自分で招いた禍である。人が罵っても咎めることはしない。また咎めようにも〔罵る人は〕一人や二人ではない。棒杖で打たれても悲しいとは思わない。もとよりそれを承知で真実の仏法を説いているのだから。

(同上、p. 232)
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日蓮遺文は丁寧に読むべき (Libra)
2007-08-28 22:43:19
 みれいさん、こんばんは。

1.「事実のねじまげは許されない」と書いた経緯
 わたしが「事実のねじまげは許されない」と書いた経緯につきましては、以下の拙文の冒頭部分で説明してあります。

  『立正安国論』は正しく読みましょう
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-15.html


2.日蓮の遺文は「ざっと」ではなく丁寧に読むべき
 日蓮の遺文は、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分(文証)】から構成されています。日蓮は、【仏典の主張は正しい】という当時の常識の上に、自らの主張を組み立てています。

 日蓮の遺文を読むさいには、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら読んでいく必要があるとおもいます。とくに、【仏典の主張は正しい】ということが、すでに常識ではなくなっている今日においては、この区別はとても重要だとおもいます。日蓮の遺文を読むさいに問題にすべきなのは、あくまでも【日蓮自身の主張】の妥当性だとおもいます。

 現代のわれわれから見ますと、【仏典の主張が常に正しいとは限らない】わけですが、鎌倉時代に生きた日蓮が【仏典の主張は正しい】という当時の常識の上に、自らの主張を組み立てようとしたことじたいを責めるのはナンセンスでしょう。
 
 さて、「害す、殺す」という問題でよく話題にあがる日蓮の遺文としましては、先に挙げた「撰時抄」の文章のほかにも、「佐渡御書」の中にみられる以下の文章があります。

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 不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり、五戒の初めにも不殺生戒・八戒・十戒・二百五十戒・五百戒・梵網の十重禁戒・華厳の十無尽戒・瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり、儒家の三千の禁の中にも大辟こそ第一にて候へ、其の故は「■〔彳+扁〕満三千界・無有直身命」と申して三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし、蟻子を殺す者・尚地獄に堕つ況や魚鳥等をや青草を切る者・猶地獄に堕つ況や死骸を切る者をや、是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給うなり、況や供養を展ぶ可けんや、故に仙予国王は五百人の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の智者なり、仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の仁なり

(「秋元御書」、全集、p. 1075)
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 この文章も、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら丁寧に読んでいかないといけません。さもないと、【仏典の主張の部分】にひっぱられて、肝心の【日蓮自身の主張の部分】を読み誤ってしまうことになります。以下に引用する山中さんの解釈がとてもすぐれているとおもいます。

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「秋元御書」に「法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給うなり」とあるのは、語尾が「説き給うなり」とある通り、これは日蓮の主張ではなく『涅槃経』の見解である。日蓮の『涅槃経』読解においては、その経典で「正法」とされることを『法華経』と読み替えてしまうのでこのような表現になっている。しかし、すぐ後に「況や供養を展ぶ可けんや」とあって、供養しないのが日蓮の立場であることは明瞭である。ようするに正釈は、『涅槃経』の立場では謗法の悪人は殺してもよいとされているくらいであるから、日蓮の立場である「供養をしない」のはごく当然のことであるという意味になる。
 〔中略〕じっさい「秋元御書」の文脈では、その後に「故に仙予国王は五百人の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の智者なり、仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の仁なり」と『涅槃経』の説[11]が紹介されるのである。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 108)
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(11) 『涅槃経』の説……「仙予国王」の出典は〔中略〕『涅槃経巻十二』(大正一二巻、四三四頁)、『涅槃〔経巻〕十六』(大正一二巻、四五九頁)、「覚徳比丘」の出典は『涅槃経巻三』(大正一二巻、三八三頁)。

(同上、p. 113)
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 ただ、山中さんのご説明で1つだけ残念なのは、「阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき」の部分の出典が記されていないことです。この部分の出典は、『阿育王経』の「復有一国名分那婆陀那。…彼国一切信受外道。…時阿育王見已生大瞋心。於分那婆陀那国一切外道悉皆殺之。於一日中殺十万八千外道。」(大正蔵第50巻、p. 143b)だと思います。

 ようするに、日蓮は、【仏典の中のヒーローもの】を文証としてあげて、仏典の中には「謗法の悪人は殺してもよい」という話まであるくらいなのだから、「『供養をしない』のはごく当然のことである」と主張しているのです。そのように読まなければ、「況や供養を展ぶ可けんや」という表現がわざわざそこにおかれていることの説明がつきません。

 日蓮の遺文は、「ざっと」ではなく、丁寧に読まれるべきだとおもいます。粗雑な読解(誤読)にもとづいて、日蓮についておかしなことをおっしゃる方があまりにも多いのは残念なことです。


3.観世音菩薩普門品には注目してきませんでした
 観世音菩薩普門品にかぎらず、羅什訳でいうところの最後の六品については、これまでほとんど注目してきませんでした。『法華経』の中心思想は、最後の六品よりも前の部分にすでに説かれていると思ってきたからです。しかし、観世音菩薩普門品にも、もしかしたら注目すべき思想があるのかもしれませんね。

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 【最後の六品の意義】
 ここ〔引用者註:嘱累品のこと〕までの範囲において、すべての衆生を平等に成仏させる一仏乗を説き、釈尊滅後の『法華経』の受持・弘通の主体者が地涌の菩薩であることを説き、さらに釈尊の永遠の生命を説き、それを信受する者の功徳を説き、地涌の菩薩とその他すべての菩薩に『法華経』を付嘱するのであるから、『法華経』はここで終わっても何ら差し支えないと考えられる。そこで、多くの学者もこの後の六品は後代の付加であると推定した(ただし、近年、提婆達多品を除く二十七品の同時成立説が出された)。
 嘱累品までで『法華経』は一応完結したといってもよいのであるが、実際には薬王菩薩本事品第二十三から普賢菩薩勧発品第二十八までの六品が続き、陀羅尼品第二十六を除いて、偉大な菩薩や王の故事を取りあげ、彼らと『法華経』との密接な関係を説き示して、『法華経』の偉大さをたたえている。分量的にもかなり長く、興味深い物語も説かれるのであるが、『法華経』の中心思想はすでにこれ以前に説かれたと考えてよいだろう。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、 2001年、pp. 74-75。ただし、【】印は原文のゴシック体を表現するために Libra が補った。)
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動機は意見を正当化しません (Libra)
2007-08-29 19:47:24
 みれいさん、こんばんは。

 こちらこそ、いつもご意見ありがとうございます。


1.動機は意見を正当化しない
 たとえば、ある人がある動機にもとづいて、ある意見をいったとしましょう。この場合、その意見の真偽は、その動機には左右されません。その動機がいかに人道的で、すばらしいものであったとしても、そのことによってその意見が正しいということには必ずしもなりません。

 わたしが今問題にしているのは、そううそさんの動機ではなく、そううそさんが公にされた【立正安国論についてのご意見】です。


2.日蓮を否定したい人こそ、日蓮遺文を丁寧に読むべき
 「しっかり丁寧に読むことはできるだけ、日蓮信者の皆さんが中心に頑張っていただきたいと思います」とのことですが、少なくとも、【日蓮について否定的な意見を述べようとする人】には、丁寧に読んでいただきたいとおもいます。粗雑な読解(誤読)にもとづいて、否定的な意見を述べていただきたくありません。そんなのは、あまりにも無責任だとおもいます。


3.文章の解釈には限界がある
 文章というものは、【どのように解釈しても許される】というようなものではありません。その文章の解釈として許される範囲(限界)というものがあります。その範囲(限界)を明らかにこえるような読みを【誤読】といいます。

 他人の解釈を参考にするにしても、それらは【言語的な解釈として許容されうる範囲内】のものでなければならないでしょう。もちろん、その【許容されうる範囲】の中で、各人がいろんな解釈をとりうるというのは当然のことです(以下の拙文を参照)。

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 「創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません」とのことですが、日蓮遺文の解釈として許容されうる範囲の中で、最も悪意に解釈するというのであれば、「創価学会に疑問を感じる」者の解釈の態度としてはごく自然な態度だろうとおもいます。しかし、文章の読解として許容される限度をこえてまで、悪意に解釈することは許されないでしょう。そんなのは【事実のねじまげ】です。

(「地獄論、罰論、メモ(その1)」のコメント欄〔2007-08-18 12:48:47〕、http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/cmt/1bcb282c40eb61349ba73d71e27046c0
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4.自力を説く日蓮信仰者???
 そもそも、仏教というのは、【自力か他力かの二者択一ではない】とおもいます。

 人はみずからの行為によって、みずから汚れたり、浄まったりするのであって、誰も他人に自分を浄めてもらうことなどはできませんから、その点はたしかに【自力】ともいえます(以下の仏説を参照)。

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一六五 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p.33)
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一〇六四 「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 224)
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 しかしながら、【釈尊の口から出る声(教法)】をよく聞いて、最上の真理を知ることにより、「自己の安らぎ(ニルヴァーナ)」を学んで、煩悩の激流を渡ることを志すのが仏教ですから、その点では【他力】ともいえます。

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一〇六二 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 223)
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 また、「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」というのも【他力】といえるかもしれません。

 このように、仏教というのは、【釈尊におまかせで救ってもらえる】というような「他力主義」でもなく、また、【自分の力だけがたよりだ】というような「自力主義」でもないとおもいます(「釈尊は『まじない信仰』を否定」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-8.html)。


5.「人の信不信はしらず・ありのままに申すべし」
 わたしは観世音菩薩ではありませんので、「相手にとってふさわしい姿で法を説く」というような器用なことはとてもできそうにありません。ならば、せめて、「ありのままに申す」ということだけは、生涯貫いていきたいと考えています。

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本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず・いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし・論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん、又法門によりては設い王のせめなりとも・はばかるべからず・何に況や其の已下の人をや、父母・師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不信はしらず・ありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに

(「破良観等御書」、全集、p. 1293)
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推測と反駁 (Libra)
2007-08-30 00:58:24
 そううそさん、こんばんは。お仕事、おつかれさまです。

 「殺」や「害」を「学会版御書で検索」されるのも結構ですが、そのようなお時間があるのでしたら、今問題になっている『立正安国論』の第八問答をお読みになられてはいかがでしょうか。

 ちなみに、カール・ポパーは以下のように言っています。

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読んだことを解釈するのにはおそらく二つの仕方があるだろう。つまり読者は、自分の解釈について無批判であるか、批判的であるかだろう。しかし、読者が、読んだ内容についてのみずからの解釈や期待を不断に反駁しようとする時間と場所は、書き手の夢想のなかにしかないのだろうか。

(カール・R・ポパー『実在論と科学の目的(下)』〔小河原誠・蔭山泰之・篠崎研二訳〕、岩波書店、2002年、p. 63)
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 文章の読解という作業は、「推測と反駁」の実践であり、批判的合理主義の実践であるべきだとわたしはおもいます。
 

 
 
今日は短めに (Libra)
2007-08-30 19:30:27
 みれいさん、こんばんは。


1.動機は意見を正当化しない
 わたしの「動機は意見を正当化しない」という意見に対して、みれいさんは「この認識の違いがとても興味深いです」とおっしゃるわけですね。ということは、みれいさんは、「動機は意見を正当化する」とでもおっしゃるのでしょうか。


2.唯識には興味がありません
 「唯識はご存知ですか?」というご質問については、脈絡がまったくつかめません。唯識については、ほとんど何も知りませんが、唯識研究者の袴谷憲昭先生によりますと、【唯識は仏教ではない】んだとか。とはいえ、今のところ、個人的には、唯識には興味がありません。また、現在論じている問題に唯識が関係あるともおもえません。


3.自力を説く日蓮信仰者???
 「先日、日蓮宗ご僧侶に電話して確認したところ、『自力です』と見解をいただきました」とのことですが、そのご僧侶が間違っているのではないでしょうか。あるいは、「自力です」の意味にもよるのかもしれませんが。

 釈尊を父といい、娑婆世界をその所領であるとする日蓮の思想を「自力」といってしまうのはおかしいとおもいます。

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此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり

(「法華取要抄」、全集、p. 333)
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娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり、大地虚空山海草木一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、〔中略〕又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし〔中略〕此の国の人人は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし、〔中略〕国主父母明師たる釈迦仏を捨て乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず是れ豈不孝の者にあらずや

(「一谷入道御書」、全集、pp. 1327-1328)
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 とはいえ、これも、今回の話題とは全く関係がありませんから、この件についてはこれくらいでよろしいのではないでしょうか。


4.「破良観等御書」の件
 ご自分でお調べになっていただければありがたいです。
 

 
 
わけわかめ (Libra)
2007-08-31 01:33:18
 みれいさん、こんばんは。

1.「する⇔しないの話ではなくて、パラダイムシフトの話」???
 正直いいまして、わたしには全く意味がわかりません。


2.「あえて申しませぬ」???
 だったら、そんな話、最初からなさらなければよかったのでは?


3.真蹟がなくても真撰ということはあるでしょう
 真蹟がないからといって、偽書であるということには必ずしもなりません。念のため。
 

 
 
「常に軽んぜられた」という名前の菩薩 (Libra)
2007-08-31 19:42:45
 みれいさん、こんばんは。

1.「続けますか?」の件
 「パラダイムシフトの話」はもうよろしいのではないでしょうか。

 「自力です」の意味については、ぜひ、解説されてみてはいかがでしょうか。それで、その話は完結するでしょう。


2.常に軽んぜられた≠ニいう名の菩薩
 みれいさんが「日蓮は即ち不軽菩薩たるべし」という文章を引用されましたので、不軽菩薩について少し解説しておきたいとおもいます(解説の後に、法華経の該当部分を引用しておきます)。

 不軽菩薩というのは、正確には、【「常に軽んぜられた」という名前の菩薩】です。この菩薩は、その名前が示すとおり、常に、人びとから「非難され、侮辱され」た菩薩です。時には、「土くれや棒きれを投げつけ」られたりもしました。なぜ、そのようなことになったのかといいますと、それは、この菩薩が【人びとにとってはとても信じがたく、また望んでさえもいないこと】を言い続けたからなのです(人びとは、不軽菩薩の主張を「ほんとうでもなく、望んでもいない予言」といっています)。

 ようするに、この菩薩は、日蓮の言葉を使って表現してみるならば、【「人の信不信はしらず・ありのままに申」し続け、そのことによって人びとから非難されつづけた菩薩】ということになります。

 さて、その不軽菩薩の主張の中身は何かといいますと、それは、【どんな人でも菩薩行によって仏になれます】ということです(これは法華経の最も重要なテーマの1つです)。【仏になるはずの人をわたしは軽蔑しません】ともいっています。

 この不軽菩薩の物語は、おそらく、法華経成立当時に優勢であった部派仏教の考えを批判したものであるとおもわれます。そのことは、「その世尊〔引用者注:威音王如来のこと〕が完全な涅槃にはいられたあとで、正しい教えが消滅し、正しい教えに似た教えも消滅しつつあり、かの(世尊の)教誡が思いあがった比丘たちによって攻撃されたとき、常に軽んぜられた(常不軽)≠ニいう名の比丘である菩薩がいた」という文章から明らかだとおもいます。威音王如来の時代の話にしてありますが、そこでいわれている「思いあがった比丘たち」というのは、実質的には、法華経成立当時の部派仏教の比丘のことを指しているのだとおもいます。

 以下、法華経の該当部分を引用しておきます。

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その世尊〔引用者注:威音王如来のこと〕が完全な涅槃にはいられたあとで、正しい教えが消滅し、正しい教えに似た教えも消滅しつつあり、かの(世尊の)教誡が思いあがった比丘たちによって攻撃されたとき、常に軽んぜられた[3](常不軽)≠ニいう名の比丘である菩薩がいた。得大勢よ、どうして、その菩薩大士は常不軽と呼ばれるのであろうか。得大勢よ、実は、その菩薩大士は、比丘にせよ比丘尼にせよ、信男にせよ信女にせよ、だれを見ても近づいて、こう言うのである。
 『尊者がたよ、私はあなたがたを軽蔑いたしません。あなたがたは軽蔑されません。それはどうしてでしょうか。あなたがたはすべて、菩薩としての修行(菩薩道)を行ないなさい。そうすれば、将来、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるからであります』
 このようにして、得大勢よ、その菩薩大士は、比丘でありながら、講説もせず、読詠もしない。ただ、だれを見ても、たとえ遠くにいる人でも、すべて近づいて右のように告げるだけである。比丘にせよ比丘尼にせよ、信男にせよ信女にせよ、だれにでも近づいてこう言う。
 『ご婦人がたよ、私はあなたがたを軽蔑いたしません。あなたがたは軽蔑されません。それはどうしてでしょうか。あなたがたはすべて、菩薩としての修行を行ないなさい。そうすれば、将来、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるからであります』
 得大勢よ、その菩薩大士は、そのとき、比丘にせよ比丘尼にせよ、信男にせよ信女にせよ、だれにでも右のように告げるのである。(告げられたものは)ほとんどすべて、彼に対して腹を立て、悪意をいだき、不信感をいだき、非難し、侮辱する。
 『どうしてこの比丘は聞かれもしないのに、軽蔑の心をもたないなどとわれわれに吹聴するのであろう。この上ない正しい菩提を得るであろうと、ほんとうでもなく、望んでもいない予言をわれわれに与えるなどとは、(われわれに)自身を軽蔑させるものである』と。
 さて、得大勢よ、その菩薩大士がこのように非難され、侮辱されるうちに、多くの年月がたつが、彼はだれに対しても腹を立てず、悪意を起こさない。そして彼が例のごとく告げるとき、土くれや棒きれを投げつける人々に対して、彼は遠くから大声を出して、『私はあなたがたを軽蔑いたしません』と告げた。(彼からこのように)いつも告げられていた、かの思いあがった比丘・比丘尼、信男・信女たちが、彼に常不軽という名を与えたのである。

(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆『法華経U』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、pp. 166-168)
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3 「常に軽んぜられた」とは、原語の sadAparibhUta を、「常に」sadA と「軽んぜられた」paribhUta の複合語と理解した結果である。この理解は、チベット語の訳名 rtag-tu brn~as-pa、『正法華』の「常被軽慢」と一致する。ところが、羅什は「常不軽」(けっして軽んぜぬもの)と訳している。原語を「常に」sadA と「軽んぜられなかった」aparibhUta の複合語と理解するのは可能であるが、このばあいは「けっして軽んぜられなかった」と受動の意味になり、羅什の訳名とも、以下の話の内容とも一致しない。萩原本三一八ページの脚注に aparibhUta を羅什のように能動にとる可能性が種々検討されているが、古典サンスクリットにかぎれば能動にとることは不可能である。しかしながら、以下においてこの菩薩はけっして他人を軽蔑しないことから、かえって、他人から軽蔑されたものとして描かれている。それゆえ、チベット訳、『正法華』の訳名とともに、羅什訳のそれも、いまのばあい十分意味をもつといえよう。したがって、以下菩薩の名としては、これまでの慣例に従い、羅什訳を用いることにする。

(同上、訳注、p. 283)
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3.「不生瞋恚」
 ついでなので、常不軽菩薩品の「不生瞋恚」についても少し触れておきましょう。

 すでに述べたことから明らかなように、不軽菩薩の物語は【折伏の物語】なわけですが、折伏をするにあたってこの菩薩は「だれに対しても腹を立てず、悪意を起こさない」のです。羅什訳では、この部分は、「不生瞋恚」と訳されています。

 【折伏をするにあたっては、「腹を立てず、悪意を起こさない(不生瞋恚)」という態度を貫かなければいけない】ということが、ちゃんと法華経の経文にあるということなのです。

 「日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(「寺泊御書」、全集、p. 954)という日蓮は、「日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(「四菩薩造立抄」、全集、p. 989)といっているのですから、日蓮の弟子としては、当然、「腹を立てず、悪意を起こさない(不生瞋恚)」という態度で折伏をしなければなりません。

 ちなみに、法華経の行者を守らない諸天善神に対しては、「瞋恚は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」、全集、p. 584)といって、日蓮は怒ったりしていますが、それは、人びとを成仏へと導く【折伏の問題とは全く関係がありません】。

 折伏をするにあたっては、「腹を立てず、悪意を起こさない(不生瞋恚)」という態度を貫かなければならないということが法華経の経文にちゃんとありますので、「“怒りをあらわにして”仏敵をやっつけろ!やりこめろ!」というようなことをずっと言い続けている創価学会の人たちは、明らかに間違っているのです。また、日蓮の遺文を引用して、そのような誤った主張を正当化することもできません。「経文に分明ならば釈を尋ぬべからず」と日蓮じしんがいっています。

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経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何

(「撰時抄」、全集、p. 259)
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真偽未決御書の取り扱いなど (Libra)
2007-09-02 14:34:50
 みれいさん、こんにちは。

1.日蓮思想を「自力です」というのはやはり誤りでは?
 日蓮は、末法の衆生が救済される根拠を『法華経』においています。そして、日蓮にとっては、【『法華経』=釈尊】です(以下の資料を参照)。

  日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
  http://fallibilism.web.fc2.com/120.html

 日蓮が末法の衆生に期待したのは、『法華経』を如説修行することだけだったといっても過言ではないでしょう。

 日蓮は「自らを律する点に重点を置く」とのことですが、これは、(日蓮にとっては釈尊そのものであったところの)『法華経』の身読ということにほかならないでしょう。そういうのは、【(他力の対立概念としていうところの)自力】とはいわないとおもいます。

 たとえば、『法華経』には、【三車火宅の譬喩】や【良医病子の譬喩】というものが説かれているわけですが、これらを【子供の自力を説くもの】と理解する人はまずおられないでしょう。

 もっとも、良薬を飲まなければ子供は救われません。そして、良薬を飲むのは子供じしんです。ですから、『法華経』は、【父親(仏)の力だけで子供(衆生)は救われる】というような意味での【他力】を説くものでもありません。

 『法華経』に基づく日蓮の思想は、【自力か他力かの二者択一ではない】とおもいます。したがって、【日蓮思想は自力である】というのは誤りだとおもいます。


2.御書の真偽や真筆度
 御書の真偽についてのわたしの考えは以下のとおりです。

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 文献学的・書誌学的に明らかに偽書であると判断してよいものは問題ないとしても、内容から真偽を判断せざるをえないような場合には、〔中略〕グレーの領域が出て来ると思います。結局、真蹟(や信頼できる写本)が残っているものや五大部等の中心遺文を基本に置きながら、そして、どこまでグレーの領域をカバーできるかという点にも目を配りながら、日蓮思想について考えていくしかないだろうと私は思います(もちろん、日蓮思想そのものに対しても批判的視点を持ちながら)。

(スレッド「仏教の源流から」より、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html
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 御書の「真筆度」というのが、【真蹟(や信頼できる写本)が残っている度合い】という意味だとしますと、それは、わたしがどのようにみるかには依存しない【客観的な事実問題】ですから、それらに関する最新の研究成果を参照するほかはありません。個人的には、興風談所の「御書システム」の情報を参考にしています。ちなみに、興風談所は「日蓮正宗系」です。

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それからやはり正信会系の流れをくむ興風談所。興風談所は非常に純粋でまじめに学問研究をしている団体でございます。正信会ルートと申しまして、常勤で六、七人で取り組んでいますが、その中で研究者は百余名ほどでございます。細井日達師のときに川澄勲氏という神官の古文書学者をスカウトして、弟子たちに古文書学を教育させています。有名な古文書学者を通じ、大石寺と学会に対する批判的立場に立ちます。下手をするとわが宗がおびやかされるのではないかと思うくらい古文書の読める学者・研究者を集めているのが興風談所です。

(早坂鳳城「顕正会とは何か」、『現代宗教研究』第34号、2000年、日蓮宗宗務院、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_140.htm
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3.「四菩薩造立抄」は真偽未決
 「四菩薩造立抄」には偽書説もありますが、現在の学問的状況としては、【偽書であることがすでに確定している】とまではいえない状態だと認識しています。


4.真偽未決御書をどう取り扱うか
 【真偽未決御書をどう取り扱うか】という問題は、日蓮正宗系のみに固有の問題ではありません。

 日蓮宗系では、勝呂信靜先生が、1965年の時点ですでにこの問題について鋭いご意見を述べておられます(『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社)。最近も、『現代宗教研究』第32号(1998年)の中で、以下のように論じておられます。

  勝呂信靜「御遺文の真偽問題−その問題点への私見−」
  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.htm

 また、『現代宗教研究』第39号(2005年)には、松森孝雄という方の「真偽未決御書の取り扱いについて」(pp. 168-176)というご論考が掲載されています。


5.口伝書の問題
 【真偽未決御書をどう取り扱うか】という問題に関連して、特に、【日蓮正宗系のみに固有の問題】といえそうなのは、【口伝書の取り扱い】だとおもいます。

 【口伝書を引用して正文に対抗しようとされる方】が日蓮正宗系にはたしかに存在するようです。わたしもじっさいに遭遇したことがあります(以下の記録を参照)。

  これから元気でBLOGの記録
  http://fallibilism.web.fc2.com/nblog.html

 残念ながら、こういった方は、ほとんど救いようがないように思います。【口伝書を引用して正文に対抗してもよい】とすでに考えている人は、たとえ、【正文】に以下のように書いてあったとしても、平気で「正文に相違」する口伝書を引用して正文に対抗されることでしょう。そうなってしまいますと、もうほとんど救いようがないように思います。

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慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは親に値うての年あらそひ日天に値い奉りての目くらべにては候へども慈覚・智証の御かたふどを・せさせ給はん人人は分明なる証文をかまへさせ給うべし、詮ずるところは信をとらんがためなり

(「報恩抄」、全集、p. 307)
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設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん

(同上)
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蝿にすぎなくとも (Libra)
2007-09-04 01:32:01
 みれいさん、こんばんは。


1.浄土宗は他力では?
 真宗はよくわかりませんが、浄土宗は他力と理解しています。


2.日蓮宗に問い合わせる???
 わたしはべつに【日蓮宗の教え】を検討したいわけではありません。【日蓮宗の教え】を持ち出されたのはみれいさんです。

 わたしは、【日蓮は自力を説く】という説に疑問を持ち、そして、きちんと理由を示して、【日蓮は自力を説く】という説は誤りなのではないかと論じただけです。


3.蝿にすぎなくとも
 たしかに、わたしの「法華経認識、日蓮教学認識」は、いろんな人の成果の「集合体で出来ている」のかもしれません。しかし、だからといって、わたしの意見が誤りであるということにはならないでしょう。

 少なくとも、わたしは、きちんと理由を示して意見を述べているわけですから、もし、わたしの意見が誤っているとおっしゃりたいのであれば、きちんと具体的に理由を示していただきたいとおもいます。

 わたしは蝿にすぎないかもしれませんが、牛を見る目は少しはあるつもりです。ヘタな牛よりも、蝿のほうが遠くにいけるということもあるでしょう。

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蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧羅松頭に懸りて千尋を延ぶ

(「立正安国論」、全集、p. 26)
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4.桐と「御書システム」
 桐には体験版があります。「御書システム」にも「一度目を通してみてはいかがでしょうか」。ちなみに、わたしは、過去に定本のデータを使っていたことがあります。


5.「真筆度の低いもの」と「偽書」の関係
 みれいさんは、「真筆度の低いもの」と「偽書」の論理的関係を理解しておられないように見えます。

 【真蹟が現存する】というのは、【真撰である】ことの十分条件です。すなわち、【真蹟が現存する】ならば【真撰である】といえます。
 
 しかし、【真蹟が現存しない】ということは、【偽撰(偽書)である】ことの必要条件にすぎません。【偽撰(偽書)である】ならば【真蹟が現存しない】ことになります。しかしながら、【真蹟が現存しない】からといって、かならずしも【偽撰(偽書)である】ということにはなりません。

 【真蹟が現存しない】ということは、【偽撰(偽書)であると疑う余地が存在する】ということにすぎません。【偽撰(偽書)である】か否かは、内容等にもとづいて判断するほかはないでしょう。

 「真筆度の低いもの」というのは、【真蹟が存在した証拠の度合いが低いもの】という意味でしょう。この度合いが低いからといって、そのことによって【偽撰(偽書)である】という確からしさが増すわけではありません。じっさい、「諸人御返事」などは、もともとは「録外に属し、真蹟が存在しなかった」ので、かつては「真筆度の低いもの」だったわけですが、「大正時代に至って真蹟が発見された」のです。

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 しかし真蹟(断簡)が存在しないということは偽書説の消極的な理由にすぎない。実在したが失われたという可能性を否定することができないからである。さきに引用した『諸人御返事』は録外に属し、真蹟が存在しなかったのでやゝ信頼度が少ないもののように見られて来たが、大正時代に至って真蹟が発見されたものであるという。こういう例もあることであるから、真蹟の存在しないことは偽書説の積極的根拠とはならない。

(勝呂信靜「御遺文の真偽問題−その問題点への私見−」、『現代宗教研究』第32号、日蓮宗宗務院、1998年、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.htm
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6.「真蹟なのに日蓮正宗系では扱っていない遺文」とは?
 「真蹟なのに日蓮正宗系では扱っていない遺文」というのは具体的にはどの遺文のことをおっしゃっているのでしょうか。そのうち、「御書システム」に収録されていないものはいくつありますでしょうか。「興風談所だけですと、日蓮のすべての遺文の把握はできないでしょう」とおっしゃったからには、それくらいは確認されてみてはいかがでしょうか。


7.「からぐらデータ」
 全集未記載の遺文のデータとしては、以下もすぐれています。このデータも、みれいさんの分類では「日蓮正宗系」ということになるでしょう。

  からぐらデータ
  http://www.ginpa.com/karagura/system/kdata.html


8.誤りを改めることは恥ずかしいことではありません
 批判というのは、誤りを指摘することです。そして、誤りは誰でも犯すものです。批判されて、運良く誤りに気づくことができ、誤りを改めることができるということはとてもラッキーなことです。決して恥ずかしいことではありません。

 むしろ、恥ずべきなのは、【自分の誤りをごまかそうとしたり、隠そうとすること】でしょう。
 
 わたしは、自分の意見に誤りがあれば、どんどん指摘してもらいたいと考えています。
 

 
 
訂正です(「牛」→「馬」) (Libra)
2007-09-04 02:38:45
誤:「牛を見る目は少しはあるつもりです。ヘタな牛よりも」

正:「馬を見る目は少しはあるつもりです。ヘタな馬よりも」
 

 
 
みれいさんへの意見の続き (Libra)
2007-09-04 19:50:26
9.日蓮は自力にポイントを置いている?
 みれいさんがおっしゃるところの「自力です」の意味は、文脈からいって、【他力よりも自力にポイントを置いている】ということなのでしょう?
 だったら、【他力よりも自力にポイントを置いている】ことを示す日蓮遺文を引用するなどされればよいだけの話ではないのでしょうか。


10.「すべて独自に二分化」???
 この件について【二分化】しておられるのはみれいさんの方ではないでしょうか。わたしは、最初から【自力か他力かの二者択一ではない】といっていますので(このコメント欄、2007-08-29 19:47:24)、いってみれば、以下のように【三分化】しているわけです。

  A.【他力よりも自力にポイントを置いているタイプ(自力型)】
  B.【自力と他力のどちらにもかたよらないタイプ(バランス型)】
  C.【自力よりも他力にポイントを置いているタイプ(他力型)】

 【仏教というのは、もともと、タイプCであり、日蓮もタイプCである】というのが、わたしの一貫した主張です。


11.良医病子の譬喩は自力にポイントを置いている?
 前回の「育児は育自」なるコメントを読むかぎりでは、みれいさんが【三車火宅の譬喩】や【良医病子の譬喩】の内容をご存知であるようにはとても見えないのですが、みれいさんはこれらの譬喩の内容をご存知なのでしょうか。これらの譬喩の内容をふまえた上で、「育児は育自」なるコメントをお書きになったのであれば、譬喩の内容と「育児は育自」がどのように関係するのか説明していただけないでしょうか。

 わたしには、これらの譬喩が【他力よりも自力にポイントを置いている】とはとても思えません。


12.みれいさんは偽書説を1つでもご存知なのでしょうか?
 そもそも、みれいさんは、具体的な「疑書」について、1つでも「学術的に検討」されたことがおありなのでしょうか。

 偽書説というのは、研究者が論文や著作などの中で、具体的な【論証】という形で発表するものです。昭和定本をいくらながめてみても、【現在、どのような内容の偽書説があって、それに対して真撰説を支持する側がどのように反論しているのか】といった「学問的状況」はわかりません。わたしがいった「学問的状況」(このコメント欄、2007-09-02 14:34:50)というのはそういう意味です。「学術的に検討」するということは、このような「学問的状況」を検討するということでしょう。


13.正しくもなく間違いでもない???
 「Libraさんにとって正しいと思えるものを集めたとしても、かといって、それが仏教として唯一限りなく正しいものだとも思いません。かといって間違いと言うわけでもないでしょう。」とのことですが、わたしは、意見を述べるさいには、その意見を正しいと思う理由を具体的に示しています。それらの理由は、特定の立場の人にのみ通じるようなものとして示しているわけではありません。それらは、どのような立場の人からの批判にも開かれています。わたしの意見を正しくないと思われる人は、それらの理由に対して自由に異論を述べることができます。それが、【議論】であり、【討論】というものでしょう。

 【人類の知識】というのは、このような議論によって【進歩】していきます。ある人(Aさん)がきちんと理由を示した上で意見を述べているのに対して、「Aさんにとって正しいと思える意見を集めたとしても、かといって、それが唯一限りなく正しいものだとも思いません。かといって間違いと言うわけでもないでしょう」などといってしまっては、そこで議論はストップします。知識の進歩はストップします。したがって、そのような考え方(「姑息な相対主義」とでもいうべきか)は、【人類の知識の進歩】にとって大きな障害になるとわたしはおもいます。

 さて、日蓮の思想に関するわたしの意見は、【正しい】か【間違い】かのどちらかでしょう。日蓮という人は鎌倉時代に実在した一人の人間なのですから、その人の【実像は1つ】でしょう。日蓮という人は過去に一人いただけです。日蓮遺文の読者の数だけ日蓮が存在したわけではありません。

 もっとも、日蓮遺文の読者が思い描くさまざまな日蓮像のうち、どれが最も正しいかという【解答】は、【無限の議論のかなたにある】というほかはないでしょう。無限に続くであろう討論の過程においては、【厳しい批判に今のところ耐えている日蓮像】が【実像の候補】として生き残っていくわけですが、それは1つに絞られるとは限りません。よって、暫定的な解は常に多元的となりえます(多元主義)。

 論理的にいえば、【日蓮の思想に関するわたしの意見】は、【正しい】か【間違い】かのどちらかです。したがって、【正しい】か【間違い】かの「二分化は無意味」ということはないとおもいます。

 わたしの意見が【正しい】かどうかは、すでに討論の中に投げ込まれています。厳しい批判に耐えることができなければ【間違い】ということになるでしょう。その時、わたしの知識は、一歩前進できることになります。


14.「四菩薩造立抄」等は日蓮宗でも使っています
 「四菩薩造立抄」について、みれいさんは、「日蓮正宗の方はしばしば使われるようですね」(このコメント欄、2007-09-02 11:34:40)とおっしゃっていますが、日蓮宗「において日蓮聖人の宗教思想に関する最高の権威ある指南書」である「勧学院監修の『宗義大綱読本』」にも「四菩薩造立抄」は引用されています(前掲の勝呂先生の「御遺文の真偽問題」を参照)。

 また、みれいさんが「『平成新修遺文集』には収録すらしていない」(このコメント欄、2007-08-31 00:53:41)とおっしゃっておられる「破良観等御書」も『宗義大綱読本』に引用されています。
 

 
 
訂正です(「C」→「B」) (Libra)
2007-09-04 23:30:06
誤:【仏教というのは、もともと、タイプCであり、日蓮もタイプCである】というのが、わたしの一貫した主張です。

正:【仏教というのは、もともと、タイプBであり、日蓮もタイプBである】というのが、わたしの一貫した主張です。
 

 
 
ラスト (Libra)
2007-09-04 23:39:10
 そううそさん、こんばんは。

 もう十分に指摘しましたので、これを最後にいたしますが、日蓮は立正安国論においては「首をはねよ」などとは主張していません。それは、第八問答を読めば明らかです。
 

〔2007.09.08 当ホームページに収録〕

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