宇宙生命論を破す(Leo)


 Libraさん との、現行の学会教学が日寛教学と戸田先生の生命論から成るという認識に基づく対話の中で、 からぐらねっと の「コラム からぐら」の山中さんの 「縁起説と外道云云について」 についてコメント頂いたので紹介する。

(下記水色部分がLibraさんの論 黄色部分がからぐらねっとの山中さんの論 である)

 最近、「法華経の智慧」などで展開される「宇宙生命」の言葉について、外道義だと主張される議論があります。たしかに「宇宙生命」という言葉そのものには、誤解を呼びやすいきらいがありますが、それに代わる言葉も見つからないし、今日的には、むしろ分りやすい表現ではないかと私は思っています。

 以下、山中さんの論に対してコメントしておきます。

>  まず、仏法と外道の判定基準として、縁起説に基づいているか否かを用いて
> いるのは、あまりにも乱暴な議論でしょう。


 「仏法と外道の判定基準として、縁起説に基づいているか否かを用」いるのは
仏教学の常識と言ってもいいと思う。縁起説に反するものを仏教だと強弁する以
上に「乱暴な議論」などないだろう。


> それでは、縁起説が仏法の根本原理ということになってしまいます。

 なってよし!

>  特に、縁起説は認識論としては、卓越した力を発揮しますが、実践論の分野
> では全く無力といっても過言ではありません。


 縁起説を正しく理解することから、本当の意味での菩薩行が始まるのだと私は
思う。


>  ところが法華経において、この縁起説はみごとに止揚され、その位置付けを
> 与えられています。それが皆さま、ご存じの「十如是」の法なのです。


 梵本『法華経』に「十如是」はない。しかも、「十如是」というのは、羅什が
龍樹の思想(『大智度論』の縁起・空の思想)を参考にして補ったもの。


> 繰り返しになりますが、縁起説はこの一念三千の部分観にすぎません。ですか
> ら縁起説でもって一念三千を説明することはできないと思います。

 智ギの思想は「如来蔵思想」とは両立しない。智ギにとって「如来蔵思想」
は「外道」であった。従って、「如来蔵思想」でもって一念三千を説明するこ
とこそが不可能なのである。

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  智ギ(豈+頁)の思想が吉蔵の「有の思想」と相対立するものであったこと
  は、弟子の灌頂の『観心論疏』巻二の次の言葉からも明らかであろう。

    もし定んで、一念の心に万法を具含するをこれ如来蔵と謂ふ者は、即
    ち迦毘羅外道の因中にまづ果ありと計するに同ず

  (拙文「『如来蔵思想批判』の批判的検討」、
    
  http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html)
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   本覚思想とは、基本的には『大乗起信論』に説かれる思想である。智ギ
  (豈+頁)はこの本覚思想をどのように見ていたであろうか。智ギ(豈+頁)
  には『起信論』の引用例が一箇所もないが、地論師の真識縁起説を批判し
  ていることから、地論教学の基盤となった『起信論』の思想は当然知って
  いたであろう。智ギ(豈+頁)は地論教学を批判して次のように述べる。
  「或は言わく、阿黎耶は是れ真識にして一切法を出だすと。……若し定ん
  で性実に執せば、冥初は覚を生じ、覚より我心を生ずる過に堕せん」(
  『法華玄義』六九九c)。智ギ(豈+頁)は地論教学を真識縁起説として批
  判しているが、それは『起信論』に説かれる真如縁起説に他ならない。
  『起信論』に説かれる真如縁起説は、真如(真識・真心)に無明(妄識・
  妄心)が熏習して、生滅の万法を生ずというものであり、智ギ(豈+頁)は
  このような真如縁起説を評して、性(真如・真識)を実体視して執着する
  のは、根本原質たる冥初より覚を生じ、覚より我心を生ずとする外道の誤
  ちに堕す、と批判しているのである。

  (花野充道「智ギ(豈+頁)と本覚思想」、
    『印度学仏教学研究』第48巻第1号、1999年12月、p. 153)
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   智ギ(豈+頁)は『摩訶止観』その他に、如来蔵思想の説かれる堅慧造の
  『宝性論』(勒那摩提訳)を引用しているので、如来蔵思想は当然知って
  いたと思われる。しかし智ギ(豈+頁)の思想的基盤は竜樹の空思想にあり、
  直接的には羅什の諸法実相の思想を承けているので、如来蔵思想の用語も
  諸法実相の立場から改変して用いている。

  (同上)
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  智ギの三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道)
  http://fallibilism.web.fc2.com/096.html


>  南無妙法蓮華経を縁起説で説明しきることはできないでしょう。

 私は可能だと思っている。

  拙文「題目論メモ」
  http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html

 縁起説以外で説明できると言うのなら、是非とも具体的に説明して頂きたい
ものだ。もしも「いかなる説によっても説明できない」と言うのなら、ますま
す仏教ではなくなる。

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  私は昨日、「縁起の理法」が単なる「理法」にならないうちはまだしもだ
  と述べた。「縁起の理法」から単なる無内容な「理法」への展開は何を意
  味するか。それは“言葉の消失”を意味する。“無内容な”とは、“言葉
  による明確な表現を欠いた”という意味だ。すると「理法」は最早言葉で
  説くことはできない。それは「実在」であり、不可説である。ここに至っ
  て、実在論と神秘主義は完成する。仏教の否定は、完結する。

  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 56)
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  異論が起こったときには、道理によってよく説き伏せて(『大パリニッバーナ経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/006.html


>  南無妙法蓮華経という一元的な法を宇宙法界の根源とみる発想は、一見、外
> 道の「梵我一如」の発想に非常に似ています。しかし、その実質は全く別のも
> のです。


 私は全く違わないと思う。もしも違うと言うのなら、どこがどう違うのかを
具体的に論じて頂きたいものである。「似てるけど違う」というだけで違うこ
とになるのならば誰も苦労しない。重要なのは論証である。


>  この縁起説とは、ヒンドゥー教の「アートマン」(a ̄tman 我)〔霊魂〕の
> 思想を根底から否定したものなのである。従って、“仏教”としての縁起説か
> らは、「無我・無常」の説が導出され、これが仏教の旗印ともなる。


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  人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏よ
  り前の一切の人天・外道は二天・三仙の弟子なり、九十五種まで流派した
  りしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子に
  て・ましませしが苦行・楽行・十二年の時・苦・空・無常・無我の理をさ
  とり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給
  いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか、

  (「開目抄」、全集、p. 208)
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>  まさに日蓮大聖人は、元来外道義たる「常楽我浄」を、ここに仏法の極説と
> して捉え直されていることが明らかです。


 大聖人にとっては『涅槃経』等も「釈尊の金口」であったのだから、「常楽
我浄」を「開会」の上で「捉え直されている」のは当然。「常楽我浄」に対し
ての私の理解は以下の通り。

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  > ところがだ、Libra氏は、仏性思想支持派であるぞ。仏性思想を
  > 明確に説く大乗の涅槃経は「我=アートマン」肯定だぞ(笑)。
  
   涅槃経は前半と後半とで仏性の扱い方が違います。
  
    大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)
    http://fallibilism.web.fc2.com/047.html

  (「創価学会関連リンク集」掲示板での発言、
    「私への言及にちょっと補足」、
    「投稿者:Libra 投稿日:2001/04/04(Wed) 18:24」、
    http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html
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  > 「法華の諸法実相の上にあるのが『涅槃経』の仏性思想で
  > あるといってよい」とのことだが、逆ではないのかな。史
  > 的には、法華経の思想を継いで、大乗の涅槃経が説かれた
  > のである。
  
   「般若中観の空思想と法華の諸法実相とがその基盤にあり」
  というのは、〔般若中観の空思想と〕「法華経の思想を継い
  で」、〔その基盤の上に〕「大乗の涅槃経が説かれた」とい
  う意味だと思いますが、そうは読めませんか?
   もっとも、私はそのような“継承”の部分ではなく“逸脱”
  の部分を問題視するわけですが。

  〔中略〕

  > 涅槃経の「我」とは、サーンキヤ哲学のプルシャ(神我・
  > 純粋精神・霊我)でもなく、固定的実体的な自我でもなく、
  > 法は常住がテーマです。

   「法(永遠の真理)」がいつどこでも普遍的に妥当すると
  しても、それが、「一切皆空(無我)」という具体的内容を
  もったものとして人々に示されなければ実質的には何の意味
  もありません。仏の言葉によって始めて“真理”は“智慧”
  になり、仏教が誕生したのです。
  
  > その法が永遠に我々に働きかけ
  
   我々に永遠に働きかけるのは「仏の言葉(教法)」であっ
  て、真理そのものではありません。真理は文字を書かないし、
  口もありません。

  (同上、
    「真理に口はない」、
    「投稿者:Libra 投稿日:2001/04/05(Thu) 11:30」、
    http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html
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  > 「我」論を否定し「無我」を説いた意義を「実体」批判と
  > 肯定し、法華経の如来常住の論理的展開として、つまり
  > 「法」の「はたらき」の主体的力用として「我」を説いて
  > いるのである。 つまり、「仏説は常に衆生に働きかけつづ
  > けているはたらき」としての「我」であって、換言すれば、
  > 教法の常住性が「我」なのである。
  
   働きかけるのが具体的内容を持つ「教法(仏説)」である
  うちはまだしも、六巻本の新層でもアートマンは“無内容”
  な内在原理に転落しているのでは?その転落の原因は「教法
  の常住性」を「アートマン」と表現したからでは?

  (同上、
    「三吉さんの」、
    「投稿者:Libra 投稿日:2001/04/06(Fri) 05:23」、
    http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html
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 2002.01.14 Libra 拝



引用者コメント

山中さんは「縁起説と外道云云について」で下記のように述べている。
「元聖教新聞論説主幹の石田次男氏もそんなことを言っていました。しかし、氏の著作「現代諸学と仏法」だったと思いますが、そんなことを縷縷述べていたと思います。しかし、私の感想としては、単なる観念論、衒学の世界ですね。そんなところからは何も生れてはこないと思います。」

石田次男氏が富士門流の宗学的立場(言わば閉じた立場)で論じていたのに対し、Libraさんは上記のように歴史批判(高等批判)に基づく批判的立場(言わば開いた立場)で論じている。後者は単なる観念論、衒学ではあるまい。むしろ宗学的に閉じた論に固執することこそ観念論、衒学的とは言えまいか。そもそも宗祖(日蓮大聖人)は宗学的立場におられたのか、鎌倉時代の既存各宗派に対し批判的立場におられたのではあるまいか。

「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」
(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)
  

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