これから元気でBLOGの記録

にっし〜さんの これから元気で BLOGにおけるLibraの発言の記録です。



 にっし〜さん、はじめまして。

 少しの間だけここに参加させて頂こうとおもいます。
以下に述べるわたしの考え(3.は質問です)について
コメント(3.については回答)していただければさい
わいです。


1.「師弟不二」について

 わたしは、三代会長だろうと誰であろうと、仏説に反
することをおっしゃっているとおもうときには、ありの
ままにそのように申し上げます。もし、それが「師弟不
二」に反するといわれるのであれば、そのような「師弟
不二」は日蓮の考えに反するとおもいます[*01]。逆に、
師に対する自由な批判が許されるような「師弟不二」な
らば賛成します。弟子は、「教え授けられたことにもと
づいてそれを発展し、師をのりこえて進まなければなら
ない」[*02]し、「師なりとも誤ある者をば捨つべし」[*03]
ですから。

  [*01]「仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべ
     し論師訳者人師等にはよるべからず専ら経文
     を詮とせん、又法門によりては設い王のせめ
     なりともはばかるべからず何に況や其の已下
     の人をや、父母師兄等の教訓なりとも用ゆべ
     からず、人の信不信はしらずありのままに申
     すべしと誓状を立てしゆへに」(「破良観等
     御書」、堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』
     〔以下、「全集」と略記〕、創価学会、1952年、
     p. 1293)

  [*02] 仏教の師弟関係(中村元)
     http://fallibilism.web.fc2.com/044.html

  [*03]「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる
     義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」
     (「曾谷殿御返事」、全集、pp. 1055-1056)

Posted by:Libra  at 2006年07月30日(日) 11:41


2.『折伏教典』はよかったのか?

 わたしには、『折伏教典』の以下のような表現が、
「あの時代の表現方法としてはよかった」などとはとて
もおもえません。

  ───────────────────────
  俗にいう日蓮宗を代々やつていると家族に不具者が
  できたり、頭脳のたりない子供が生れたり、はては
  発狂する者ができたりして、四代法華、五代法華と
  誇つている家ほど悲惨な生活をしているのである。

  (戸田城聖監修・創価学会教学部編纂『折伏教典』、
   創価学会、1961年〔校訂三版〕、p. 332)
  ───────────────────────


3.「法華経入門」は「日蓮仏法とは関係ありません」?

 「自行化他にわたる唱題行が全て」であるがゆえに
「法華経入門」は「必ずしも日蓮仏法とは関係ありませ
ん」というのはどのような意味なのでしょうか。

Posted by:Libra  at 2006年07月30日(日) 11:43


4.組織批判と組織を守るということ

 組織批判の一般論として、わたしは、蔭山泰之さんの
以下のようなご意見に賛成です。

  ───────────────────────
   組織が全体として誤った方向に突き進んでいると
  きに、内外からのあらゆる批判、反駁を避けること
  ができれば、当面は、たしかに組織の体面は保たれ
  るだろう。しかしそれは、沈みつつある船の中で安
  全な個室を確保しようとするようなものである。と
  いうよりもむしろ、船底の板をはがして個室を補強
  しようとするような、組織の危険性をさらに増す可
  能性さえある。
  
  (蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点か
    ら見た日本的組織の諸問題−」、日本ポパー哲
    学研究会機関誌、Vol. 10、No. 1 、1998年6月、
     http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html
  ───────────────────────

  ───────────────────────
   本来、批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指
  摘することにより、批判される対象と現実を直面さ
  せる試みである。そしてその目的は、その批判対象
  をよりよきものにすることにある。この意味では、
  批判はその対象に対する真剣な関心の現れである。
  それは批判の対象を改善するきっかけ、チャンスな
  のである。だから、批判や反駁を受け入れることは
  改良への一ステップである。

  (同上)
  ───────────────────────

 組織の誹謗ではなく、組織の批判であれば、組織を守
ることになるとおもいます。したがいまして、組織批判
というのは、創価学会員であろうとなかろうと、ネット
であろうとどこであろうと、自由にやってよいとおもい
ますし、むしろ、創価学会としては歓迎すべきことだと
おもいます。

                     以上

Posted by:Libra  at 2006年07月30日(日) 11:47


以下は、にっし〜さんに対するレスです。

1.仏説に反するか否かの判断基準は経文

 ある人の説が仏説に反するか否かの判断は、「経文を
先きと」して判断すべきだとおもいます。

  ──────────────────────
  仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先
  きとすべし身の賤をもって其の法を軽んずる事なか
  れ

  (「聖愚問答抄」、全集、p. 481)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年07月30日(日) 17:54


2.『折伏教典』は本当によかったのか?

 わたしが引用した『折伏教典』の表現を「正邪を正す
意味では、当時としては妥当だった」とおっしゃる感覚
にはとてもついていけませんが、にっし〜さんの感覚が
明確になったという意味では有意義なやりとりだったと
おもいます。

 わたしの感覚では、あのような表現は、友岡さんの本
にある「『あなた達がこういう病になったのはあなた達
自身の過去の悪業の因縁。…』などと説いていたという、
とてつもない非道の痕跡」」[*01]と同じにしかみえま
せん。

 もっとも、曹洞宗は、自己批判を徹底して行い、明確
に反省の意を表明している[*02]のに対して、創価学会
は全くそのようなことをしていないという差は決定的だ
とおもいます。

 あと、周知のとおり、『折伏教典』には法華経を否定
する記述があったわけですが[*03]、これも「正邪を正す
意味では、当時としては妥当だった」とお考えなのでし
ょうか。

  [*01] ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
     http://fallibilism.web.fc2.com/080.html

  [*02] ハンセン病 謝罪決議文の要旨(曹洞宗宗議会)
     http://fallibilism.web.fc2.com/092.html
     
  [*03] しられざるデタラメな「創価学会の教義」
     http://www.kempon.net/newpage3.htm

Posted by:Libra  at 2006年07月30日(日) 17:56


3.八正道の「正語」と日蓮思想との関係
     
 八正道の「正語」(悪口などを離れること)と日蓮思
想が「無関係」ということはないでしょう。
 
 日蓮はたしかに法華経中心主義者ですが、法華経以前
の経を全否定しているわけではありません。日蓮の考え
は、「八正道は仏説にあるので、法華経のために説かれ
たものである」というものでしょう。

  ──────────────────────
  総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは承り候
  はねども

  (「月水御書」、全集、p. 2000)
  ──────────────────────

  ──────────────────────  
  法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心
  を得ること莫きなり、〔中略〕法華経に云く「種種
  の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種
  種の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の為とは法
  華経の為に一切の経を説くと申す文なり。

  (「一代聖教大意」、全集、p. 397-398)
  ──────────────────────

 また、雑言(悪口)についていえば、以下のような
考えを日蓮はもっています。

  ──────────────────────
  公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・
  自賛気なる体・人目に見すべからず浅ましき事なる
  べき、弥身口意を整え謹んで主人に向うべし主人に
  向うべし

  (「教行証御書」、全集、p. 1283)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年07月30日(日) 18:04


4.「批判」と「悪く言う」こととは異なる

 「たとえ、本当のことであっても、同志を悪く云って
はいけない」とのことですが、「悪く言う」ということ
と「批判する」ということとは違うとおもいます。

 にっし〜さんが「一般論としては、僕も当然だと思い
ます」といわれた蔭山さんのご説明からしてもそうなる
とおもいます。

 にっし〜さんはこの点を混同されているのではないで
しょうか。わたしは、「同志を悪く言ってもいい」など
というような話は全くしていません。

 また、「批判」をネットで発表することと、「誹謗を
招き寄せることになる」ということは、論理的には全く
つながらないとおもいます。「批判」と「誹謗」を混同
されているのではないでしょうか。

 「批判」によって「仏罰の現証」が出るというのも全
く根拠がないとおもいます。

 あと、同志の誤りを知っていて放置するというのは、
あまりにも「大無慈悲」だとわたしはおもいます。

                    以上

Posted by:Libra  at 2006年07月30日(日) 18:08


以下、にっし〜さんへのレスです。

1.経文の解釈について

 もちろん経文の解釈には一定の幅がありえるとはおも
います。しかし、無制限にどのような解釈でも可能とい
うわけではないとおもいます。

2.『折伏教典』で否定されている法華経

 「法華経の否定とはどの法華経のことでしょう」との
ことですが、提示した資料から明らかなように、『折伏
教典』で否定されている法華経というのは、「釈尊出世
の本懐である法華経」でしょう。

3.日蓮は雑言を否定している

 にっし〜さんが「新池御書」を引用されることによっ
て何をいわれたいのか、わたしの頭ではよく理解ができ
なかったのですが、「教行証御書」を引用して示しまし
たとおり、日蓮は雑言を否定しています。これは八正道
の「正語」を肯定しているのと同じことなのではないで
しょうか。このことさえ確認できれば、今の議論ではも
う十分なのでは?

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 00:45


4.組織批判と組織を守るということ

 「批判」についての誤解がとけたところで、もう一度
以下のことを強調しておきたいとおもいます。

 組織の誹謗ではなく、組織の批判であれば、組織を守
ることになるとおもいます。したがいまして、組織批判という
のは、創価学会員であろうとなかろうと、ネット
であろうとどこであろうと、自由にやってよいとおもい
ますし、むしろ、創価学会としては歓迎すべきことだと
おもいます。

 「主観的に批判であっても、客観的には批判でない場
合もある」とのことですが、ある言説が「批判」たりえ
ているか否かというのは、すでに示しておいた蔭山泰之
さんのご意見にしたがって客観的に判断できるのではな
いでしょうか。

 「やり方が間違ってる」といわれていますが、どこが
どうまちがっているのでしょうか。

                     以上

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 00:48


以下は、にっし〜さんに対するレスです。

1.仏説に反するか否かの判断は必要

 ある人の説が仏説に反するか否かを判断するのは「簡
単ではない」というのはおっしゃるとおりでしょう。

 しかし、たとえ簡単でなくとも、仏教徒としてはやら
なければならないのではないでしょうか。

  ───────────────────────
  いかにいわうや仏教をならはん者父母師匠国恩をわ
  するべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をな
  らひきはめ智者とならで叶うべきか、譬へば衆盲を
  みちびかんには生盲の身にては橋河をわたしがたし
  方風を弁えざらん大舟は諸商を導きて宝山にいたる
  べしや、仏法を習い極めんとをもはばいとまあらず
  ば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母師匠国
  主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道
  をわきまへざらんほどは父母師匠等の心に随うべか
  らず

  (「報恩抄」、全集、p. 293)
  ───────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 14:58


2.五重の相対は『法華経』の否定を含意するのか?

 たとえば、遠藤孝紀さんは、「大聖人の仏法は法華経
と表裏一体」といわれています。そこでいわれている
「法華経」というのは「釈尊出世の本懐である法華経」
のことです。こういったご意見は、『折伏教典』の内容
と整合性があるのでしょうか。

  ──────────────────────
   今、池田名誉会長が機関紙・誌で法華経をテーマ
  とした論述に力を入れているのも、「人間のための
  宗教」の大道を更に深く大きく開くためであろうと
  改めて実感している。大聖人の仏法は法華経と表裏
  一体であり、法華経の精神を世界に広げていくこと
  は、大聖人仏法の「人間主義」の光で世界を、全人
  類を照らしゆく一大民衆運動となるに違いない。

  (遠藤孝紀「創価学会の思想と『法華経』」、
   『東洋学術研究』第34巻第2号、1995年11月、pp. 97-98)
  ──────────────────────

 そもそも、「五重の相対」が「釈尊出世の本懐である
法華経」の否定を含意するというのは本当なのでしょう
か。「釈尊出世の本懐である法華経」の「肝心」として
五字を選ぶというのが「五重の相対」の結論なのでは?

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 14:59


2.日蓮宗はいつ邪宗でなくなったのか?

 「現在であれば、日顕宗や顕正会を除いて邪宗といえ
るほどの存在はありません」とのことですが、たとえば、
日蓮宗はいつどの時点で邪宗でなくなったのでしょうか。

 日蓮宗は、最初から邪宗などではなかったとわたしは
おもいますが、創価学会は一貫して日蓮宗を邪宗といっ
てきました。「従来は邪宗であった」というのであれば、
その根拠をご教示ください。また、「現在はもう邪宗で
はない」というのであればその根拠をご教示ください。

3.日蓮は雑言を否定している

 まだ「八正道」にこだわっておられるようですが、日
蓮が「八正道」の「正語」と内容的に同じことをいって
いるということさえ確認できれば、今の議論では十分で
はないでしょうか。

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 15:01


4.ネット上での批判と当事者意識の欠如

 ネット上での組織批判が常に「当事者意識の欠如」を
ともなうとはいえないでしょう。

 たとえば、近所に住んでおられるAさんという一個人
の誤りを指摘するのにわざわざネットを経由する必要性
などはそもそもないとおもいます。しかし、組織の指導
者の考えの誤りとか、それに起因して多くの会員に蔓延
している誤りなどを指摘するような場合にはネットはた
いへんに有効だとおもいます。結果として、より多くの
「現場」において、自由な議論が生まれるということも
大いにありえますし、そのような「現場」における議論
がネット上での議論にフィードバックされて、さらに議
論が深まるということも期待できるのではないでしょう
か。

 指導者に直接手紙をかいてみるのもよいし、現場で議
論するのもよいでしょうが、だからといって、ネット上
で誤りを指摘してはならないということには全くならな
いとおもいます。
                     以上

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 15:02


1.仏説に反するか否かの判断は可能

 仏説に反するか否かの判断は簡単ではないが可能でし
ょう。にっし〜さんは不可能だとおっしゃりたいのでし
ょうか。

 法律家は、法文を解釈して、規範を定立し、事例にあ
てはめて結論を導くものだとおもいますが、法文の解釈
に一定の幅がありえるからといって、事例にあてはめて
結論を導くことが不可能ということにはならないでしょ
う。経文の解釈についても同じだとおもいます。

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 19:23


2.「文底下種仏法」を実践するとは?

 「文の底にしづめ」られているのは、「一念三千の法
門」でしょう。

  ──────────────────────
  一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に
  しづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいい
  ださず但我が天台智者のみこれをいだけり

  (「開目抄上」、全集、p. 189)
  ──────────────────────

 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内
に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観
心本尊抄」)ので、唱題が「一念三千の法門」の実践に
なるというのはわかります。

 にっし〜さんの理屈でいけば、「釈尊出世の本懐であ
る法華経」は唱題を「妨げる」ことになるから「否定す
るのが当然」ということなりそうですが、本当にそのよ
うにお考えなのでしょうか。

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 19:24


3.日蓮宗に「信心の血脈がない」という根拠は?

 「信心の血脈があるのは、学会のみ」であるという根
拠をご教示ください。

 創価学会が「邪宗と云わなくなった」ということが、
日蓮宗が「現在はもう邪宗ではない」という根拠である
とのことですが、これはぜんぜん根拠になっていません。
なぜ、創価学会は日蓮宗を「邪宗と云わなくなった」の
でしょうか。日蓮宗に「信心の血脈」がある時点で復活
したのでしょうか。だとすれば、「信心の血脈があるの
は、学会のみ」との発言との整合性もありませんが。

 創価学会が、論証もなく、「○○宗は邪宗だと思うん
だ」といえば、○○宗は邪宗であるということになるの
でしょうか。

  ──────────────────────
  本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は
  「言葉」。リングは万人普遍の「理性」。権威をも
  ちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。沈黙
  は「敗北」。論証もなく「私は、こう思うんだ」で
  は、観客から笑われるだけだ。

  (2000年11月12日『聖教新聞』「羅針盤」)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 19:25


4.わたしは誹謗中傷してよいとはいっていません

 もう一度だけもうしあげます。わたしは誹謗中傷して
よいなどとはいっていません。

 組織を批判することが、論理必然的に組織を誹謗する
ことになるということはありません。にっし〜さんは、
まだ批判と誹謗を混同されているのでは?

                     以上

Posted by:Libra  at 2006年07月31日(月) 19:25


1.仏説に反するか否かの判断は「経文を先きと」して
  判断できる

 仏説に反するか否かの判断は「経文を先きと」して判
断できるし、すべきであるという点はよろしいでしょう
か。

 「師よりよき弟子であることが前提になります」との
ことですが、これは発想が逆転しているとおもいます。
引用しておいた「報恩抄」を再読されてください。

 「経文を先きと」して、師の法門を判断した結果、師
の法門が正しいと確信できればそのとおりに実践すべき
だし、師の法門に誤りがあるとおもう場合にはそれを正
すのが弟子の使命だとおもいます。そのような使命をき
ちんと果たすことのできない弟子が「悪しき弟子」だと
おもいます。

Posted by:Libra  at 2006年08月01日(火) 00:22


2.法文の文言と許容される解釈の範囲

 たしかに法文を解釈するさいには、さまざまな解釈論
がありえるでしょう。しかし、法文の国語的意味に明ら
かに反するような解釈はできないでしょう(解釈によっ
て採用しうる国語的意味の範囲には一定の幅がありえる
としても)。それが大原則ではありませんか?

 「法律でさえも、事案によっては条文の文言には縛ら
れません」とのことですが、もし解釈者が法文の国語的
意味に明らかに反するような解釈を自由に採用できるの
であれば、解釈者が勝手に立法できるということと同じ
ことになるでしょう。そんなことは許されないというの
が法律解釈の大前提ではありませんか?

 しかし、この話はもうこれでおしまいにします。仏説
に反するか否かの判断は「経文を先きと」して判断でき
るし、すべきであるということさえ確認できればそれで
よいので。

Posted by:Libra  at 2006年08月01日(火) 00:24


3.「理の一念三千」と「事の一念三千」の違い

 たしかに「理の一念三千」と「事の一念三千」は違い
ますが、その違いが今の議論にどう関係してくるのでし
ょうか。違うからどうだとおっしゃりたいのでしょうか。


4.『折伏教典』は本当によかったのか?

 『折伏教典』が「釈尊出世の本懐である法華経」を否
定しているということはすでに確認しました。
 
 「妨げないなら、否定する必要はありません」とのこ
とですが、『折伏教典』は否定しています。にっし〜さ
んの理屈からすると、『折伏教典』の立場は、「釈尊出
世の本懐である法華経」は唱題を「妨げる」ことになる
というものだということになるとおもいます。

 あらためてお聞きします。このような『折伏教典』の
立場を、にっし〜さんは「正邪を正す意味では、当時と
しては妥当だった」とお考えなのでしょうか。

Posted by:Libra  at 2006年08月01日(火) 00:29


5.「法門をもて邪正をただすべし」では?

 ある宗派が邪宗かそうでないかは、その宗派の法門に
よって判断すべきだとわたしはおもいます(1.を参照)。

  ──────────────────────
  法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよ
  るべからず

  (「唱法華題目抄」、全集、p. 16)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心ある
  べからずいづれも仏説に証拠分明に道理現前なら
  んを用ゆべし

  (「破良観等御書」、全集、p.1293)
  ──────────────────────

 しかし、にっし〜さんはそうではないようです。

 ある宗が邪宗かそうでないかは、創価学会がその宗を
邪宗といっているか否かによってきまるというのが、に
っし〜さんのお考えだということは明らかになったとお
もいます。

 この件については、お互いの差異が確認できたという
ところで満足したいとおもいます。


6.組織批判について

 組織批判についての議論は、すでにおなじところをぐ
るぐる回りだしているとおもいます。したがいまして、
この点についての議論はおしまいにしたいとおもいます
(あとは読者の方々にご判断頂ければとおもいます)。

                     以上

Posted by:Libra  at 2006年08月01日(火) 00:33


1.民法の法文の場合には解釈論の限界をこえてもよい?

 「民法の法文の場合には解釈論の限界をこえてもよい」
とおっしゃっているように見えますが、一度、指導教官
なり、信頼できる先輩なりに、そのような説を主張され
て、感想をお聞きになられたほうがよろしいのではない
でしょうか。

2−1.題意外し?(1)

 「民事の場合は主張立証責任がありますから、当事者
次第では、客観的事実に反する事実認定もあり得ますけ
ど」といわれていますが、これは、「法文の文言と許容
される解釈の範囲」という今の議論とは関係のない話で
はないでしょうか。

 「法文の文言と許容される解釈の範囲」という問題は、
法律の文言を解釈して規範を定立する段階の問題であり、
法的三段論法でいうところの「大前提」を提示する段階
の話だとおもいます。

 一方、「事実認定」の問題というのは、法的三段論法
でいうところの「小前提」を証拠にもとづいて認定する
場面の問題だとおもいます。

 「民事の場合は主張立証責任がありますから、当事者
次第では、客観的事実に反する事実認定もあり得ますけ
ど」というご発言は、今の議論とどう関係するのか、わ
たしの頭では理解できませんでした。関係があるのでし
ょうか?

Posted by:Libra  at 2006年08月02日(水) 02:55


2−2.題意外し?(2)

 あと、「民事の場合は主張立証責任がありますから」
という部分は、「民事訴訟においては弁論主義が徹底さ
れているから」と書くべきではないでしょうか。刑事訴
訟においても「主張立証責任」じたいはあるでしょう?

 法律答案では、問題で全く問われていないことを書く
方がよくおられるとききます。「オレはこういうことも
知っているんだぞ!」ということをアピールしたい受験
生の心理がそうさせるのだそうです。しかしながら、採
点官は、問題で全く問われていないことが書かれている
のを発見したら、そこでどのような高度な議論が展開さ
れていようとも、題意を把握する能力がないと判断して
大幅に減点するそうです。

3.誤りのご指摘は大歓迎です

 「経文等に照らし、誤りだと思ったことが我見でない
という保証は、主観以外に何があるというのでしょうか」
とのことですが、もちろん、わたしの意見は誤っている
可能性があります。

 わたしは自分の誤りを他者に指摘してもらうために、
自分の考えをHPで公開したり、他人の掲示板等に書き
込んだりしてきましたが、いまのところはまだ他者から
の批判にたえているようにおもいます。

Posted by:Libra  at 2006年08月02日(水) 02:58


4.種脱相対と日蓮宗の法門

 『折伏教典』の時代から、日蓮宗も「自行化他の題目」
を実践しているとおもいますが、「既に種脱相対の時点
で、日蓮宗とは法門の上でも明確に判断されてます」と
はどういう意味なのでしょうか?

 「現在では、下種仏法における正邪の問題ですよ」と
いうのもまったく意味がわかりません。ご説明いただけ
ればさいわいです。

5.「文上の解釈なんて、暇なときにやればいい」?

 引用しておいた「報恩抄」における日蓮の主張とは正
反対のお考えのようですね。わたしとしては「では外道
といわれないようにがんばってください」というしかな
さそうです。

  ──────────────────────
  仏教には経論にはなれたるをば外道と云う

  (「蓮盛抄」、全集、p. 152)
  ──────────────────────

6.『折伏教典』と遠藤説は整合性があるか?

 にっし〜さんが『折伏教典』の主張を肯定されるとい
うことはよくわかりました。

 それでは、あらためてお聞きします。『折伏教典』の
主張とさきに引用した遠藤孝紀さんの主張は論理的に整
合性がありますでしょうか。法律家をめざしておられる
にっし〜さんのことですから、両者の主張に論理的な整
合性があるか否かの判断は簡単にできるだろうとおもい
ます。

Posted by:Libra  at 2006年08月02日(水) 03:06


7.『折伏教典』に出てくる「釈迦仏教」って何?

 仏教とは「釈迦の教え」でしょう。「釈迦仏教」とい
うのは「釈迦の釈迦の教え」ということになり、おかし
いとおもいます。にっし〜さんはどのようにおもわれま
すでしょうか。

 「日蓮仏法」というのは、「日蓮によって受容された
釈迦の教え」ということですから全然おかしくないとお
もいますが。

8.「宇宙生命」と日蓮仏法は関係があるのか?

 「仏説に反するか否かの判断は『経文を先きと』して
判断できるし、すべきである」ということが確認できた
ので、議論を次の段階にすすめたいとおもいます。

 創価学会においては、「宇宙生命」と日蓮仏法は関係
があるかのようにいわれています。その文証をご教示く
ださい。

                     以上

Posted by:Libra  at 2006年08月02日(水) 03:21


1.「発言の趣旨をねじ曲げ」?

 「法文の国語的意味に明らかに反するような解釈はで
きない」、「もし解釈者が法文の国語的意味に明らかに
反するような解釈を自由に採用できるのであれば、解釈
者が勝手に立法できるということと同じことになるでし
ょう。そんなことは許されないというのが法律解釈の大
前提」である、というわたしの発言に対して、にっし〜
さんは「刑事法では、基本的に許されません。しかし、
民事では別です」とコメントされたわけです。

 このコメントは、「民法の法文の場合には解釈論の限
界をこえてもよい」とおっしゃっているようにわたしに
は見えました。それが自然な解釈ではないでしょうか。
にっし〜さんの上記コメントから「民法の一般条項で修
正するということですよ」というご主張を読み取るのは
ほとんどの人にとって困難だとおもいます。わたしがに
っし〜さんの「発言の趣旨をねじ曲げ」たということは
ないのではありませんか?

 ためしに、発言者が誰であるかを伏せて、法律解釈に
ついてのわれわれのやりとりを、指導教官なり先輩なり
に読んでもらって、にっし〜さんの上記コメントから、
「民法の一般条項で修正するということですよ」という
ご主張を読み取ることができる方がどれだけおられるか
実験されてみてはいかがでしょうか。自信がおありなら
ぜひそうされて下さい。「現証」を重視されるのですか
ら。

Posted by:Libra  at 2006年08月03日(木) 01:28


2.「民法の一般条項で修正する」?

 これは今の議論とは何の関係もないのでは?

 「わたしはこんなことも知っているんだぞ!」と自慢
されたいのか、あるいは、親切心からわたしに法律マメ
知識を教えてくださろうとしているのか、わたしにはさ
っぱり想像がつきませんが、とにかく、今の議論に関係
のない単なる法律知識(わたしにとっては「ゴミ」でし
かありません)をわたしへのレスに混入させるのをやめ
ていただくわけにまいりませんか。

3.弁論主義が今の議論とどう関係するのか?

 「民事裁判では客観的事実と異なることが、事実とし
て認定されることもあるということを述べた」といわれ
ていますが、なぜ今の議論に関係のないことを、わたし
へのレスの中で述べられたのでしょうか。

4.Libra の信仰の実践

 唱題し、勤行し、仏典を読み、論書を読み、仏教学の
成果を学び、仏教について友人とかたりあっています。

 創価学会員だけが友人とは考えていませんが、友人の
中には創価学会員もいます。

 初代牧口会長の思想をすばらしいとおもっていますが、
その後の会長の思想はあまりすばらしいとはおもってい
ません。創価学会には原点(牧口思想)に帰ってもらい
たいとおもっています。したがいまして、現在の創価学
会の思想を広める活動は拒否いたしております。

 これがわたしの信仰の実践です。

Posted by:Libra  at 2006年08月03日(木) 01:37


5.日蓮宗の本尊

 「日蓮宗は、三大秘法の南無妙法蓮華経を本尊として
ません」といわれていますが、これは事実の誤認だとお
もいます。

 日蓮宗のご僧侶は以下のようにおっしゃっています。

  ──────────────────────
  本宗の本尊観は極めて明瞭であって、本門法華経の
  法体たる五字の題目が本尊なのである。

  (勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、
   1965年、p. 149)
  ──────────────────────
 
 「小樽問答でも明確になってます」とのことですが、
にっし〜さんは小樽問答の記録を読まれたのでしょうか。
どのような議論だったのかぜひご教示ください。

 本来、そういう問答の記録は、広く公開して、より多
くの人に内容の妥当性を検討してもらうべきだろうとお
もいます。にっし〜はそのようにおもわれませんか?

Posted by:Libra  at 2006年08月03日(木) 01:44


6.日興の説は正しいか?

 日興の説が仏説に反するか否かの判断は「経文を先き
と」して判断すべきでしょう。今までに確認したとおり
です。

 「血脈を受け継ぐ」ということは、「法門を正しく継
承して、それを実践する」ということでしょう。

 そういう意味においては、日興は血脈を受け継いでい
たとおもいます。日興の遺文からそのように判断するの
は妥当でしょう。しかし、だからといって、日興の後、
大石寺において、法門が正しく継承され、実践されてき
たということには必ずしもならないでしょう。どういう
ことを主張しているかを検証しなければそれはわからな
いでしょう。

 他の宗派についても同じことがいえます。法門を正し
く継承して、それを実践しているのであれば、血脈を受
け継いでいるといえるとおもいます。

 あらためてもう一度もうしあげます。ある宗派が邪宗
かそうでないかは、その宗派の法門によって判断すべき
だとわたしはおもいます(文証はすでに示しましたので
省略します)。

※ひとつ前の投稿で、一部、敬称が落ちてしまっていま
※した。もうしわけありませんでした。

Posted by:Libra  at 2006年08月03日(木) 01:49


7.『折伏教典』と遠藤説は整合性があるか?

 もし『折伏教典』の主張が「まず、表のことを理解し
てからでも遅くはない」というようなものであるなら、
遠藤説と整合性があるかもしれません。

 しかし、『折伏教典』の主張がそのようなものでない
ことはあきらかでしょう。『折伏教典』の主張は、題目
の方が「釈尊出世の本懐である法華経」よりも優先順位
が高いですよというようなものではないでしょう。「釈
尊出世の本懐である法華経」をはっきりと否定していま
す。少なくとも、中学生以上の国語力がありさえすれば、
それは理解できるのではないでしょうか。わたしには、
にっし〜さんが、『折伏教典』の「趣旨をねじ曲げ」て
おられるようにみえます。

Posted by:Libra  at 2006年08月03日(木) 01:50


8.題目は釈迦仏教

 「釈迦仏教は、釈迦が説いた仏教です」といわれるの
であれば、「妙法蓮華経の五字」は、釈迦が上行に授与
したものですから釈迦仏教ということになります。

  ──────────────────────
  日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の
  妙法蓮華経の五字なり、〔中略〕仏既に宝塔に入つ
  て二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取
  つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る
  可からず。

  (「法華取要抄」、全集、p. 336)
  ──────────────────────

 「釈迦仏法」「を使用するから生活に破綻を来す」と
いう『折伏教典』の主張はおかしくないのでしょうか。

  ──────────────────────
  釈迦仏法などを立てるのは去年の暦と同様で役に立
  たない代物である。これを使用するから生活に破綻
  を来すのは当然である。

  (戸田城聖監修・創価学会教学部編纂『折伏教典』、
   創価学会、1961年〔校訂三版〕、p. 308)
  ──────────────────────

9.「宇宙生命」は法華経や日蓮思想とは関係がない

 創価学会では「仏とは生命なり」とか「宇宙生命」
が強調されていますが、このようなことは『法華経』に
はまったくかかれていないとおもいます。日蓮思想とも
関係がないとおもいます。もし、関係があるといわれる
のであれば文証を挙げてご教示頂ければさいわいです。

  ──────────────────────
  ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わる
  といってよい。「仏とは生命なり」──戸田先生の
  悟達に、創価学会の原点があったのです。

  (池田大作他『法華経の智慧』第1巻、聖教新聞社、
   p. 40)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  宇宙全体が、一つの大生命体です。自分もその宇宙
  生命と一体だとわかった。

  (池田大作他『法華経の智慧』第5巻、聖教新聞社、
    1999年、p. 25)
  ──────────────────────

                     以上

Posted by:Libra  at 2006年08月03日(木) 01:53


1.法解釈学の存在意義(2.の前置き)

 法解釈学の存在意義は、自分なりの法解釈を提示し、
その正当性を主張することにより、究極的には裁判所の
法解釈に影響を与えることにあるとおもいます。

 「最高裁の法解釈だから正しい」というのは、法解釈
学としてはナンセンスです。そういう前提で、2.を書
きます。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 03:39


2−1.筑豊じん肺訴訟最高裁判決の検討(1)

 結論は妥当だとおもいますが、その結論を導く前提と
して、民法724条後段(改正前〔以下同様〕)所定の
「不法行為ノ時」の解釈について損害発生時説をとって
いるのには賛成できません。通説どおり加害行為時説を
とるべきだとおもいます。法文の解釈として損害発生時
説は無理があるとおもいます。

 民法724条後段の20年の期間の性質については、学説
上、時効説と除斥期間説の対立があります。

 本判決は、1989年の最高裁判決(1989年12月21日民集
43巻12号2209頁)〔以下、89年判決と略します〕にした
がって、除斥期間説をとっていますがこれにも賛成でき
ません。

 89年判決がとった除斥期間説は、「期間経過後は信義
則ないし権利濫用の法理は完全に排斥される」というも
のでした。

 この89年判決は、学会から激しく批判され、現在では
時効説が通説となっています。除斥期間説をとる人でも
期間経過後の信義則ないし権利濫用の法理の適用を肯定
しています。つまり、89年判決がとった除斥期間説をそ
のまま肯定している学者はほとんどいません。しかしな
がら、本判決はそれをそのまま肯定しています。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 03:44


2−2.筑豊じん肺訴訟最高裁判決の検討(2)

 わたしも時効説を支持します。論証は省きます。松本
先生のご論文[*1]を参照されてください。

  [*1] http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/05-6/new-matsumoto.pdf

 時効の援用に対しては信義則違反ないし権利濫用の抗
弁を認めてよい事案だとおもいます。

 以上の構成によっても本判決と同じ結論になるとおも
います。そういう意味で、本判決の結論じたいはよいと
おもいます。

 しかし、利益考量の観点から妥当な結論を導こうとす
るあまり、法文上無理な解釈をしてしまうというのは許
されないとおもいます。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 03:48


3.ゴミはゴメンです

 「民法の一般条項で修正する」だとか、弁論主義の話
だとかは、議論していた内容とは直接関係がない話でし
た。

 民法の一般条項も法文である以上、国語的意味に明ら
かに反するような解釈はできません。採用しうる国語的
意味の範囲が広いというだけの話です。

 弁論主義の話も議論していた内容とは関係がありませ
んでした。そのことは、法的三段論法にからめて、すで
にご説明いたしました。

 議論している内容に関係がない単なる法律知識をわた
しへのレスの中に混入されても、わたしにとってはゴミ
でしかありません。いくら、その法律知識が正しくても
です。

 わたしは、べつに、ここに法解釈の話をしにきている
わけではありませんので、その手のお話におつきあいす
るのはこれを最後といたします。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 03:54


4.折伏弘教とは?

 日蓮の折伏は「理性的批判」[*2]だとおもいます。そ
ういう意味での「折伏」なら、これまでも数多くやって
きましたし、いまもやっていますし[*3]、これからもや
っていくとおもいます。

 すでに申し上げましたように、わたしは、初代会長の
思想をすばらしいとおもっていますが、その後の会長の
思想はあまりすばらしいとはおもっていません。

 現在の創価学会の思想をすばらしいとは思っていませ
んので、それを広める活動は拒否いたしております。創
価学会が原点(牧口思想)に帰ることができるような努
力は地道に続けていきたいとおもっています。

 したがいまして、にっし〜さんのいわれる「折伏弘教」
というのが、「現在の創価学会の思想を広める活動」の
ことをさすのであれば、わたしはそれをいたしておりま
せん。拒否しています。

  [*2] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
     http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

  [*3] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha297.html

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 03:58


5.曼荼羅と五字

 曼荼羅の中尊は五字です。曼荼羅は立派に本尊です。

 日蓮宗でも曼荼羅という形式の本尊が多いのではない
かとおもいますが、他の形式の本尊もあるとおもいます。

 曼荼羅という形式でなければ本尊ではないということ
はありません。「本門の題目が本尊であるはずがありま
せん」とのことですが、「法華経の題目」が本尊です。

  ───────────────────────
  問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定む
  べきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべ
  し

  (「本尊問答抄」、全集、p. 365)
  ───────────────────────

 にっし〜さんは、曼荼羅に表現されている具体的な内
容を理解しておられますか?

 曼荼羅には、上行菩薩が釈尊・多宝如来と向かい合っ
ているシーンが表現されていますが、唱題されるとき、
それがおわかりになって唱題されてますか?

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 04:04


6.ある宗派が邪宗かそうでないかの判断基準

 この話もすでに同じところをぐるぐる回りだしていま
すので、お互いの差異を確認できたというところで満足
することにいたします。

7.『折伏教典』の評価

 『折伏教典』の初版はすでに著作権がきれているとお
もいます。わたしが所持している版についてもあと5年
くらいできれるはずです。そのうちどなたかが全文をア
ップされることになるとおもいます。『折伏教典』につ
いて十分な議論がなされ、評価がある程度固まってくる
のは10年後くらいなのかもしれません。

 『折伏教典』についての話はおしまいにしたいとおも
います。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 04:07


8.五字と七字

 五字・七字は、釈迦が上行に授与したものです。その
授与のシーンを表現したのが曼荼羅です。

  ──────────────────────
  此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶
  文殊薬王等にも之を付属し給わず

  (「観心本尊抄」、全集、p. 247)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字


  (「下山御消息」、全集、p. 346)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の
  妙法蓮華経の五字なり、〔中略〕仏既に宝塔に入つ
  て二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取
  つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る
  可からず。

  (「法華取要抄」、全集、p. 336)
  ──────────────────────

 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内
に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観
心本尊抄」、全集、p. 254)とありますが、「大慈悲を
起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ
給う」のは釈迦です。釈迦は、五字に一念三千をつつん
で上行に授与したのです。

 ですから、五字・七字は、釈迦仏法です。それを上行
として日蓮が広めたのです。すなわち、「日蓮によって
受容された釈迦仏法」が日蓮仏法です。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 04:10


9.「法華経もせんなし」?

 五字の内容、すなわち、一念三千をすっかり理解でき
て、題目をとなえるたびに思い出せるというような段階
までいった人でしたら、そのようにおっしゃられてもよ
いのかもしれません。

 しかし、中身を一切みることなく書物のタイトルだけ
をくりかえしとなえることによってその書物の内容がす
っかり理解できてしまうなどということがありえないよ
うに、『法華経』の中身を一切みることなく五字・七字
だけをくりかえしとなえることによってその内容(一念
三千)がすっかり理解できてしまうということはありえ
ないでしょう。

 にっし〜さんは、唱題によって一念三千を理解できま
したか?

 理解できないものは、実践のしようがありません。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 04:13


10.無量義経による悟達は外道の悟達と内容的に一致

 にっし〜さんのおっしゃるとおり、第二代会長の獄中
の悟達というのは『法華経』によるものではなく、『無
量義経』によるものです[*4]。

 『無量義経』というのは、インドで『法華経』が作ら
れた数百年後に中国で作られたものです[*5]。『法華経』
の開経などではありません。

 『無量義経』の内容は、外道の「我説」[*6]と同じな
ので、第二代会長の脳裡に「生命」という言葉がひらめ
いたのは必然だとおもいます。

 「アートマンには直接、『生命・いのち』の意味は見
出されないけれども、それに近似した意味を荷わされて
いることはいうまでもない」[*7]のです。「我説」に出
てくる「気息」という言葉は、「インドにおける『生命
・いのち』等に対応する諸語」の原義です[*8]。

 第二代会長の獄中の悟達というのは外道の悟達と内容
的に一致するとおもいます。

  [*4] 戸田城聖の悟達と『無量義経』の「三十四の否定」(池田大作)
     http://fallibilism.web.fc2.com/054.html

  [*5] 『無量義経』は中国で作られた偽経(菅野博史)
     http://fallibilism.web.fc2.com/050.html

  [*6] ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭)
     http://fallibilism.web.fc2.com/049.html

  [*7] 原始仏教における生命観(高橋審也)
     http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

  [*8] 同上。

Posted by:Libra  at 2006年08月04日(金) 04:21


1.わたしは最高裁の判例を無視も軽視もしていません

 わたしは最高裁の判例を無視も軽視もしていません。
批判しています。

 「今学んでる学問でも、通説や判例と違う見解であっ
ても、自分が正しいと思えばそれを採りますし」(「学
会員による学会批判?」、2006年07月18日(火)19:55)
というご発言は、にっし〜さんのご発言ではないのでし
ょうか。にっし〜さんはもしかして半狂人格者なのです
か?

  ──────────────────────
   何をもつて半狂人格というか。一方で肯定してお
  きながら他方では否定して平気でいる者は、人格に
  統一を欠くが故である。

  (戸田城聖監修・創価学会教学部編纂『折伏教典』、
   創価学会、1961年〔校訂三版〕、p. 70)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 00:04


2.「つまり、二乗ということですね」?

 『法華経』を読んでいないからそういう発言が出てく
るのでしょうね。

 わたしは法を語っています。「空」を語っています。
わたしは二乗ということになりますか?

  ──────────────────────
  「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となる
  ことによってではなく、「法を語る者」となること
  を主張する。そうすることによって、「法華経」は、
  呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経
  の宗教性」がある。

  (友岡雅弥「『法華経』の宗教性」『東洋学術研究』
    第34巻第2号、1995年11月、p. 108)
  ──────────────────────

3.「七字ではありませんかね。」?

  日蓮は「曼陀羅は文字は五字七字にて候へども」と
いってますがご存知ありませんか?

  ──────────────────────
  妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字
  は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女
  人の成仏の印文なり

  (「阿仏房御書」、全集、p. 1305)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 00:05


4.三大秘法は釈迦仏法

 三大秘法は釈迦が日蓮に授与したものです。

  ──────────────────────
  此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首とし
  て日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、、p. 1023)
  ──────────────────────

 久遠実成の釈迦が証得した一念三千の法門を広宣流布
するのが日蓮です。

  ──────────────────────
  寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、
  大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日
  蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり

  (同上、p. 1023)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 00:06


5.日蓮は曼荼羅を上行の立場で図している

 ある真蹟曼荼羅には以下のような讃文があります。

  ──────────────────────
  大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢
  日三ヶ国之間未有此大本尊 或知不弘之或不知之 
  我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時上行
  菩薩出現於世始弘宣之

  (『山中喜八著作選集T 日蓮聖人真蹟の世界 上』、
    雄山閣出版、1992年、pp. 58-59)
  ──────────────────────

 日蓮は「後ノ五百歳ノ時、上行菩薩、世ニ出現シテ、
始メテ之ヲ弘宣シタマフ」といっているわけです。

 後の五百歳の時に世に出現して曼荼羅を始めて弘宣し
た歴史上の人物ははたして誰でしょう?

 日蓮が上行菩薩の立場で曼荼羅を図しているのは明ら
かでしょう。だったら、曼荼羅の中の日蓮(=上行)も、
釈尊・多宝如来と向かい合っているのではありませんか?

 「頼基陳状」にも「日蓮聖人は御経にとかれてましま
すが如くば久成如来の御使・上行菩薩の垂迹・法華本門
の行者・五五百歳の大導師にて御座候」(全集、p. 1157)
とあります。

 上行再誕論が日蓮自身の立場であったということは明
白です。
 
 初代会長も「上行菩薩即日蓮聖人と云ふ事になります」
といわれています。

  上行菩薩即日蓮聖人(牧口常三郎) 
  http://fallibilism.web.fc2.com/065.html

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 00:08


6.久遠元初の自受用報身如来の位置づけは?

 「久遠元初の自受用報身如来」というのは何というお
経に登場する如来ですか?

  ──────────────────────
  天台大師の云く「修多羅と合する者は録して之を用
  いよ文無く義無きは信受す可からず」文、釈の意は
  経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよと
  なり
  
  (「聖愚問答抄上」、全集、p. 482)
  ──────────────────────

7.テレビを視聴するための Libra 理論とその実践

 理論:まずテレビを購入する。アンテナ線をつなぐ。
    コンセントをつなぐ。テレビの電源を入れる。
    リモコンに電池を入れる。リモコンで初期設定
    する(今はたぶん市外局番をいれるだけ)。試
    聴したいチャンネルにきりかえる。試聴する。
    うまくいかなかったらマニュアルを見る。それ
    でもダメならサポートセンターに電話する。

 実践:上記理論を実行する。

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 00:10


8.行学の二道をはげみ候べし

 信は必要ですがそれだけではダメでしょう。

   ─────────────────────
   行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法は
   あるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学
   は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なり
   ともかたらせ給うべし

   (「諸法実相抄」、全集、p. 1361)
   ─────────────────────

9.第二代会長の獄中の悟達は外道の悟達

 具体的な反論がないようでしたらこの件はおしまいに
しましょうか。聖教新聞では「沈黙は『敗北』」といわ
れていますが。

   ─────────────────────
   本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器
   は「言葉」。リングは万人普遍の「理性」。権威
   をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。
   沈黙は「敗北」。論証もなく「私は、こう思うん
   だ」では、観客から笑われるだけだ。

   (2000年11月12日『聖教新聞』、「羅針盤」)
  ──────────────────────

                    以上

#二重投稿もうしわけありませんでした。

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 00:12


 にっし〜さん、おたんじょうびおめでとうございます。

1.菩薩行とは?

 他人に法を語っていて、かつ、その法が「空」である
場合、その人の行いは「法施」という菩薩行なのです。

 おそらく、にっし〜さんは「法施」という言葉じたい
ご存知ないのでしょう。法華経を含めて仏説などほとん
どごらんになっていないようですね。「仏説によらずば
何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」(
「持妙法華問答抄」、全集、p. 462)と日蓮もいってい
ますので、どうかご注意を。

 理解されなかったようなので、もういちど友岡さんの
ご主張を引用しておきます。

  ──────────────────────
  「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となる
  ことによってではなく、「法を語る者」となること
  を主張する。そうすることによって、「法華経」は、
  呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経
  の宗教性」がある。

  (友岡雅弥「『法華経』の宗教性」『東洋学術研究』
    第34巻第2号、1995年11月、p. 108)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 07:38


3.「五字」オンリーでないから何なのか?

 「五字」オンリーでないからどうだとおっしゃりたい
のでしょうか。「五字」は釈迦仏法だけど、「七字」は
日蓮仏法だとでもいわれたいのでしょうか。日蓮が「南
無妙法蓮華教」を「五字」といっている例はすでに示し
ました。

 あと、にっし〜さんのお好きな「下種仏法」も「五字」
です。釈迦仏法です。

  ──────────────────────
  在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱
  此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。

  (「観心本尊抄」、全集、p. 249)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内
  に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う

  (同上、p. 254)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の
  妙法蓮華経の五字なり、〔中略〕仏既に宝塔に入つ
  て二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取
  つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る
  可からず。

  (「法華取要抄」、全集、p. 336)
  ──────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 07:41


2.折伏弘教とは?

 ぐるぐる回りだしましたね。すでにわたしは説明しま
した(2006年08月04日(金) 03:58)。ご記憶にありま
せんか?

4.三大秘法は釈迦が日蓮に授与したものです

 わたしがあげた文証は全部無視ですか(笑)。

 にっし〜さんが「百六箇抄」とか「御義口伝」を日蓮
の発言と関係があるとお考えなのであれば、救いようが
ないというか、そっとしておいたほうがよいのかなとも
おもいます。

 しかし、もし万が一、真偽論に興味がおありなら(
おそらくないでしょうけど)、からぐら文庫の魯の人
さん[*1]にご質問されてみてください。今は第三弾の書
籍をご執筆されているようなのでダメだとおもいますが、
それが発刊されてしばらくたった後だったら教えてくだ
さるとおもいます。

 ちなみに、わたしは、魯の人さんのご自宅で、「御
義口伝」は偽書であると教わりました。

  [*1] からぐら文庫
    http://www.ginpa.com/karagura/

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 07:45


5.五百塵点劫以前は真理だけあって仏はいなかった

 五百塵点劫以前は真理にぴったり対応する智慧を持つ
人(すなわち仏)は此土にあらわれていません。此土に
有縁深厚である仏がおられるのは「五百塵点の当初より
以来」です。

  ──────────────────────
  寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以
  来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1022)
  ──────────────────────

6.「本有無作三身」とは?

 真理にぴったり対応する智慧を持つ人があらわれます
と、真理を法身、その人の智慧を報身、その人の身体を
応身として三身相即が成立します。

 三身相即が成立しますと以下のようなことがいえると
いうのが天台教学です。

 まず法身は無条件に「本有無作」です。『法華玄義』
に「実相の境は、仏・天人の作す所に非ず。本と自ら之
れ有りて、今に適むるに非ざるなり。」[*2]とある通り
です。

 そして、「報身如来を詮量すれば、如如の智を以て如
如の境に契う。……境は既に無量無辺、常住不滅なれば、
智もまた是くの如し」(『法華文句』)ということがい
われます[*3]。ある時点で真理に対応した報身は、それ
自体では「本有無作」ではありえないわけですが、「本
有無作」の法身と「一如になったが故に常住性と普遍性
を身に具えた」[*4]ととらえることもできるというわけ
です。

 応身それじたいも「本有無作」ではありえないわけで
すが、法身・報身との関係からおなじようなことがいわ
れます。

 「法身は当体に不滅を明かす。報身に不滅を説くは、
必ず法身に約す。……応身に不滅を説くは須らく法報に
約すべし。法報常然なれば応用絶えず」(『法華文句』)
というわけです[*5]。

 そういうわけで、三身に「本有無作」という修飾語を
つけて「本有無作三身」といわれます。

  [*2] 智ギ(〔豈+頁〕)の三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道) 
     http://fallibilism.web.fc2.com/096.html
     
  [*3]〜[*5] 同上。

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 07:55


7.「上行が二人いることになりませんかね?」

 法華経の虚空会の儀式に登場する上行と鎌倉時代に再
誕した日蓮です。

 
8.上行再誕論が日蓮自身の立場であったということは
  明白

 直弟子の写本が存在する「頼基陳状」や真蹟曼荼羅の
記述から、上行再誕論が日蓮自身の立場であったという
ことは確実でしょう。

 ちなみに、「五人所破抄」でも上行再誕論は維持され
ていますし、日寛も「蓮祖はこれ本化の菩薩の再誕」と
いっています。

  ───────────────────────
  日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の
  大権なり

  (「五人所破抄」、全集、p. 1611)
  ───────────────────────

  ───────────────────────
   第一には、蓮祖はこれ本化の菩薩の再誕なるが故
  に。涌出品に本化の菩薩を説いて云く「此等は是れ
  我が子なり。是の世界に依止す」と文。妙楽云く
  「子、父の法を弘む。世界の益あり」云云。故に知
  んぬ、蓮祖は真実の釈子なることを。

  (創価学会教学部編『日寛上人文段集』、聖教新聞
    社、1980年、p. 219)
  ───────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 07:56


9.「これって、全部実践じゃないですか。」?

 「理論:〜」の部分は、作業を始める前に、わたしの
頭の中にあるであろう理論を書いたものです。

10.「信は必要です」といっています

 「しかし、信があることが大前提でしょう」などとお
っしゃっていただかなくとも、わたしは「信は必要です」
といっています。

11.「人間革命第4巻21頁〜」の引用について

 その部分を引用されることにどんな意味があるのかわ
たしには分かりかねます。第二代会長ご自身はもちろん
自らの悟達が「外道の悟達」であるなどとはお考えにな
っておられなかったでしょう。

 わたしの議論は、第二代会長の自己解釈に反して、第
二代会長の悟達は客観的には「外道の悟達」であるとい
うものです。

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 07:57


1.わたしは日蓮仏法を語っています

 すでに論証しましたように、「日蓮仏法」とは、「日
蓮によって受容された釈迦仏法」です。

 わたしは「日蓮仏法」を他人に語っています[*]。こ
のことは既に示しました。

  [*] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha297.html
  
2.「持妙法華問答抄」の該当箇所の「仏説」は「経」

 にっし〜さんに文脈を読みとる能力が欠如しているの
か、ただ単に文脈を確認しておられないだけなのか、よ
くわかりませんが、そこでいわれている「仏説」という
のは「経」とか「修多羅」です。

3.友岡さんのご主張について

 友岡さんのご主張を理解された上で肯定されるのであ
れば、わたしが二乗という発言はでてこないのではない
かとおもいます。

 友岡さんのご主張を理解された上で、その説を否定さ
れるというのであれば、きちんと批判されたほうがよろ
しいのではないでしょうか。法華経をよまずにそれがで
きるはずもありませんが。

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 16:48


4.五字も七字も下種仏法もすべて釈迦仏法

 このことはすでに論証しましたのでくりかえしません。

 「釈迦が脱で、日蓮仏法が種というのは既に百六箇抄
を引用してます」とのことですが、「百六箇抄」を文証
とするのはナンセンスでしょう。

 「偽書や付加が紛れ込んでいたとしても、依義判文の
立場から解釈をするので信仰生活の上で問題は起こらな
い」というのは、偽書でもないし付加が紛れ込んでもい
ないことが明らかな遺文(信頼できる遺文)から読み取
ることができる「義」に反しない範囲で用いるのはかま
わないということでしょう。
 偽書や付加が紛れ込んでいるものでも「文証」にして
よいということではありません。引用しようとする部分
が「偽書や付加」ではないという保証などはないのです
から。

 偽書でもないし付加が紛れ込んでもいないことが明ら
かな遺文から明白にいえることを覆そうとするために、
偽書であるかまたは付加が紛れ込んでいることが確実で
ある口伝書を「文証」として持ち出すことがいかにナン
センスかが理解できないのだとすれば、もう救いようが
ないといいますか、そっとしておいたほうがよいのかな
ともおもいます。

  以下は、わたしが魯の人さんから直接頂いた『から
ぐら日録』という小冊子に掲載されている魯の人さんの
ご発言です。

  ───────────────────────
  (SNGで「不思議一」で検索してみてください)
  例外として「百六箇抄」「本因妙抄」にはたくさん
  出て来ますが、これは日蓮大聖人の御書ではなく、
  口伝書ですから、後世の本迹論争の過程で挿入され
  たものであろうと推定されます。
  私なんかは、過激ですから、この文証が出て来るだ
  けで、その書が偽書だと判断したくなります。

  (『からぐら日録』、p. 40)
  ───────────────────────

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 16:49


5.御義口伝は日興筆録ではない

 魯の人さんのご自宅にうかがった当時のわたしは、御
義口伝には日興筆録の部分もあるのではないかと考えて
いました。そんなわたしの考えを完全に否定されたのが
魯の人さんだったのです。

6.日蓮は題目で「本門の教主釈尊」を表現している

 日蓮は、題目によって「本門の教主釈尊」を表現して
います。このことは、「報恩抄」と「報恩抄送文」から
明らかです。
 
 日蓮は「報恩抄」において以下のようにいっています。

  ───────────────────────
  日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とす
  べし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等
  の四菩薩脇士となるべし

  (「報恩抄」、全集、p. 328)
  ───────────────────────

 「報恩抄送文」では「御本尊図して進候」といってい
ますので、上記の「本門の教主釈尊」が「御本尊」とし
て図されて、すなわち曼荼羅としてあらわされていると
いえます。

  ───────────────────────
  御本尊図して進候

  (「報恩抄送文」、全集、p. 330)
  ───────────────────────

 で、実際には、曼荼羅において、「宝塔の内の釈迦多
宝外の諸仏並に上行等の四菩薩」を脇士とする中尊は題
目となっているわけです。

 以上から、日蓮は、題目によって「本門の教主釈尊」
を表現しているといえます。

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 16:50


7.曼荼羅は虚空会の儀式の表現

 曼荼羅は虚空会の儀式の表現であり、「私たちは上行
菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の
一員として」「釈尊・多宝如来」に向かって「合掌して
いる」ということさえおわかりなのであればそれでよい
とおもいます。

  ──────────────────────
  上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き、つ
  まり釈尊・多宝如来と向かい合っているのです。

  (中山英子「御本尊に認められた広布誓願の儀式」、
   『大白蓮華』第624号、2002年5月、p. 87)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にし
  て六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員として
  合掌しているのです。

  (同上)
  ──────────────────────

8.「五人所破抄」のお示しの点について

 四条金吾の主君に宛てたものだから日蓮本仏論は書け
ないという論理じたいよくわかりませんが 真蹟曼荼羅
に書けない理由などは全くないとおもいます。その点は
いかがでしょうか。

 「五人所破抄」の「迹化の教主既に益無し」というの
は、本化の菩薩の教主である本門の教主釈尊でなければ
だめですよという意味です。そのことは、「如来の本迹
は測り難し眷属を以て之を知る〔中略〕執する者尚強い
て帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし」とい
う文脈から明らかです。

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 16:51


9.日寛の日蓮本仏論では釈迦と日蓮は同一人物

 日寛の日蓮本仏論では「釈迦と日蓮は同一人物」とい
うことになります。以下で論証されています。ここでは
くりかえしません。

  《日蓮本仏論》再考
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html
  
10.テレビの理論の話

 「テレビを見る」という実践に、「テレビを作る」た
めの「物理学的な理論」が必要であるということはあり
ません。

 わたしは、「テレビを見る」ための理論を書きました。

 テレビの話はもういいでしょう。もう十分おつきあい
したとおもいます。

 もともとの質問をもういちどお尋ねします。本のタイ
トルをくりかえしとなえることによって、その本の中に
書かれている文をいっさい見ることもなく、その本に書
かれている内容をすっかり理解できるというようなこと
がありえるのですか?

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 16:52

11.慎重に判断した上で偽書は削除すべき

 魯の人さんのおっしゃるように、「雑な判定」は下す
べきではないとおもいます。しかし、慎重に判断した上
で明らかに偽書であると判断できるものは削除すべきで
しょう。

 実際、魯の人さんは、それを実行されています。

 信頼できる遺文に矛盾しない範囲でならば依義判文す
るのはかまわないとおもいますが、それを議論において
文証として使うのはナンセンスです。

12.75万世帯の弘教拡大

 流行の「新宗教における生命主義的救済観」によくな
じんだので、「75万世帯の弘教拡大を成し遂げた」とい
う側面もあるのではないでしょうか。

  新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
  http://fallibilism.web.fc2.com/041.html

                     以上

Posted by:Libra  at 2006年08月05日(土) 16:54


1.魯の人さんのご主張について

 魯の人さんのご主張についてのわたしの解釈は「国語
的な意味から逸脱した解釈」などではないでしょう。

 引用した『からぐら日録』の魯の人さんのご発言の公
開日時は「2000年2月6日」です。「2006年5月23日」よ
りはずっと前ではあります。

 しかし、信頼できる遺文と内容的に矛盾するようなも
のまで使用してよいなどと魯の人さんがどこでおっしゃ
っていますか?わたしはおっしゃっていないとおもいま
す。

 しかし、これ以上ここでこのことについて議論しても
しかたがないので、この件はおしまいにします。

Posted by:Libra  at 2006年08月06日(日) 01:19


2.二仏並座の真ん中にある中尊は題目です

 釈迦が上行に授与している題目が中尊になっているの
です。

 「釈迦・多宝如来」がこの中尊(題目)の脇士である
というのはおっしゃるとおりです。

 題目には「一念三千」がつつまれているということは
もう文証を挙げてもうしあげましたが、この一念三千と
いうのは、「久遠実成の当初証得の一念三千」です。

  ──────────────────────
  寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、
  大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日
  蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
  ──────────────────────

 「私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無
数の地涌の菩薩の一員として」「釈尊・多宝如来」に向
かって「合掌し」、題目を授かることによって「久遠実
成の当初証得の一念三千」をみることになります。

 「法を見る者は、われを見る」[*1]ので、われわれは
釈迦の本当の姿である「久遠実成の」「本門の教主釈尊」
を見ることになります。

 題目で「本門の教主釈尊」が表現されているというの
はそういう意味です。

  [*1] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

Posted by:Libra  at 2006年08月06日(日) 01:21


3.「南無妙法蓮華経 日蓮」となっていない曼荼羅

 すべての曼荼羅において中尊の真下に「日蓮」が書か
れてあるわけではありません。

 以下は、「南無妙法蓮華経 日蓮」となっていない曼
荼羅の一例です。もちろん真蹟です。

   万年救護御本尊の画像
  http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html


4.五字が釈迦仏法であることはすでに示しました

 五字が釈迦仏法であることはすでに文証を挙げて示し
ました。五字は、釈迦が「宝塔に入つて二仏座を並べ」
て、「地涌を召し出し」て、授与したものです。「当世
異義有る可からず」です。

  ──────────────────────
  日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の
  妙法蓮華経の五字なり、〔中略〕仏既に宝塔に入つ
  て二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取
  つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る
  可からず。

  (「法華取要抄」、全集、p. 336)
  ──────────────────────

 したがいまして、「彼は脱此れは種なり彼は一品二半
此れは但題目の五字なり」(観心本尊抄)の「五字」は
釈迦仏法です。ゆえに、下種仏法も釈迦仏法です。

 「本門の教主釈尊」が「日蓮大聖人のことを指す」な
どいう珍説は、「日蓮大聖人の御書ではなく、口伝書」
の中にしか存在しません。

Posted by:Libra  at 2006年08月06日(日) 01:23


5.偽書の判断基準

 「ご自分の立場と反するからといって、偽書とするの
はナンセンスでしょう」とのことですが、わたしがその
ような判断をしたと主張されるのはどの部分なのでしょ
うか。

 わたしは、信頼できる遺文と内容的に明らかに矛盾す
るような口伝書の記述などは日蓮自身の発言とは無関係
であるといっているにすぎません。

6.100万ではなく75万だったことの解釈

 にっし〜さんがどのように意味づけられようがご自由
ですが、そのような意味づけをわたしにもしろと強制さ
れても困ります。また、今している議論とも無関係でし
ょう。

                      以上

Posted by:Libra  at 2006年08月06日(日) 01:27


1.「先判後判の中には後判につくべし」(1)

 にっし〜さんがおっしゃる「一閻浮提総与の大御本尊」
というのはいつ図されたものなのでしょうか?

 以下は、弘安四年の真蹟曼荼羅です。これも、中尊の
真下に「日蓮」が書かれていません。

  http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/113.html

 「あとは、一機一縁の御本尊」という珍説も、すでに
敗北しています。

  同一理に支えられた同一相貌の御本尊は同質同体(浅井円道)
  http://fallibilism.web.fc2.com/099.html

Posted by:Libra  at 2006年08月06日(日) 14:01


2.「先判後判の中には後判につくべし」(2)

 にっし〜さんがお信じになられている口伝というのは、
どの時点で日蓮が発言したものなのですか?

 日蓮は「三大秘法禀承事」において、ズバリ以下のよ
うにいっています。

  ──────────────────────
  此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首とし
  て日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
  ──────────────────────

  ──────────────────────
  予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め
  置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加
  ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する
  間貴辺に対し書き遺し候。

  (同上)
  ──────────────────────

 「三大秘法禀承事」は「弘安四年卯月八日」の述作で
す。

 にっし〜さんがお信じになられている口伝は「弘安四
年卯月八日」より後の日蓮の発言なのですか?そのよう
な証拠があるのですか?証拠はないけどそう信じるとい
われるのでしたら、それはにっし〜さんの主観にすぎな
いので文証などにはなりません。

 そもそも、なぜ日蓮は、にっし〜さんがお信じになら
れている口伝にあらわれている「法門を書き付けて留め
置か」なかったのですか?日蓮は「書き付けて留め置か
ずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし」
といっています。おかしいとおもいます。

Posted by:Libra  at 2006年08月06日(日) 14:06


3.「五人所破抄」の件はどうなりましたか?

 「五人所破抄」が「迹化の教主既に益無し」といって
いるのは、本化の菩薩の教主である本門の教主釈尊でな
ければだめですよという意味です。「如来の本迹は測り
難し眷属を以て之を知る〔中略〕執する者尚強いて帰依
を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし」という文脈
から明らかです。にっし〜さんには文脈を読み取る能力
がないのですか?

 「迹化の教主既に益無し」の「迹化の教主」というの
は「迹化の菩薩の教主」という意味ですが、にっし〜さ
んはそれも理解されていないのでは?

 「五人所破抄」は「日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕
にして本門弘経の大権なり」といっています。

 本尊は「本化の菩薩の教主である本門の教主釈尊でな
ければだめですよ」といい、「日蓮は本化の菩薩である」
という「五人所破抄」の主張は、にっし〜さんの「本門
の教主釈尊とは、日蓮大聖人のこと」という主張とは明
らかに矛盾します。

 にっし〜さんは口伝書を信じておられるようです。し
かし、真蹟遺文も「五人所破抄」も信じておられないよ
うです。

 わたしは、真蹟遺文と口伝書の内容が明らかに矛盾す
るような場合には、そんな口伝書などは信じません。こ
のようなわたしの態度をにっし〜さんが「信のない人」
と言われるのであれば、いつまでもそのようにおっしゃ
り続ければよろしい。

Posted by:Libra  at 2006年08月06日(日) 14:08


にっし〜さん、おはこんばんちは。

 おたがいに議論はつくせたとおもいます。

 わたしのほうからは、あと2点だけ事実をご紹介して
おしまいにしたいとおもいます。

 2点とも「御遷化記録」に依拠します。「御遷化記録」
というのは、日興が書き、最終的には弘安六年正月日に
まとめらた記録です(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平
楽寺書店、1997年、pp. 180-185)。

 「御遷化記録」には、本弟子六人のうち欠席者をのぞ
く四人(日昭、日朗、日興、日持)が裏判として花押を
押しています。当初は六人全員がおなじ内容のものを持
っていたはずですが、そのうちの日興所持分が西山本門
寺に現存します。平成四年に重要文化財に指定されてい
ます。

 まず1つめの事実は、日蓮の遺言についてです。「御
遷化記録」には日蓮の遺言がしるされています。二つあ
りますが、そのうちのひとつは、「日蓮生涯の随身仏
(釈迦立像)を日蓮のお墓のあるところに安置してほし
い」というものです。

 2つめの事実は、日興が上記の釈迦立像を「御本尊一
体」と表記しているということです。「御遷化記録」に
は「御遺物の配分」という記録がありますが、その中で、
日興は、上記の釈迦立像を、「御本尊一体 [釈迦立像]」
と表記しています([]内は二段書)。

 おそらく、にっし〜さんにとってみれば、「だから何
なのですか?」ということになるとおもいますが、御本
尊とは一体何なのかということを考える際の資料として
有用だとわたしはおもいますので、ご紹介しておきます。

 これまで、わたしの稚拙な議論にながながとお付き合
いいただきまして、本当にありがとうございました。に
っし〜さんの創価学会に対する愛情は、ひしひしと伝わ
ってきました。その点はわたしも見習わなければいけな
いとおもいます。

 それでは。

Posted by:Libra  at 2006年08月07日(月) 15:56


2006.08.20

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