反創価連盟さんの置き土産


序文
 今回、私は九月三日に中国に留学するのだが、出発するまでの短い期間に私は(現場での)創価学会に対する根本的な問題を取り上げたい。
 これは私の体験・考察していることであり、直ちに『創価学会すべてこうだ!』という様な帰納法的な事は書かない。実例の一つとお考え頂ければ幸いである。


非民主的組織


 私はある日、友人2人に誘われて古本屋へ行く事にした。そこである本が私の眼にとまった。それは朝日文庫の『創価学会解剖』である。早速購入し、その日の夜に読み始めた。その中での第二章信濃町の65頁から66頁の文に注目した。
壮年部で座談会に出るのは役職就いている人ばかり。『副』がつく役職が増える一方だ。」  西日本のある県で草創期から創価学会づくりに携わった中堅幹部、そう語りながら、ため息ついた。−−−略ーーーーー 手帳を書き留めた年表を見ながらそう語る初老の男性は、一九七〇年代以降について 「学会の専従職員以外がなれる役職は副県長どまり。歴代の県長はみんな転勤組。私たちが苦労してつくった組織に、ポンと乗っかった官僚ですよ。
 結構合っていると言わざる得ない。
 これは私の体験から受けた個人的印象にすぎず、それを直ちに一般化することはできないであろうが、一例として参考にして頂ければ幸いである。

 去年に私の所属する学生部の会合で『外国人参政権』をさせるために署名活動を実施する事になった。私個人としては素晴らしい事だと思ったので大いに活動した。しかし、納得出来ない部分があった。それは

一、署名活動にノルマが課されていた。また、会合で署名した人数を報告するのだが、署名活動に反対したり、署名活動を拒否したりする空気を作らせない。押し付けに近い状況になっていた。

二、これは一学生部員が決めた事で無く、組織つまり上の本部職員の指導・命令により実施されたものである。
例えば、学生部と非学会員との交流日などの取り決めにしても、日はあらかじめ上から決められており、その限られた自由から学生部が決める事になっているなど非民主的な側面が多い。

 こういう事があり、複雑だが内容には賛同出来るが、その行動・指導には賛同出来なかったのである。

 創価学会の組織図・機構図はあたかも民主的な組織であると見せ付けているが、

http://www.sokagakkai.or.jp/html6/Syoukai/Sosiki/kikouzu.html
http://www.sokagakkai.or.jp/html6/Syoukai/Sosiki/sosikizu.html
 私の経験のなかでは官僚学会員以外が一度もそういう会議に出席したなど聞いた事が無い。会長決めるにしても人事を決めるにしても、決めてから公の場で公表するだけで、それを決めるまでの過程とか何故決めるのかが全く説明されていない。
 何にしても、秘密裏に決めるのだ。

 また、これは私個人の思いであるが、タイムカプセルを2001年に届ける事について、私は非常に楽しみにしていたが、「タイムカプセルは池田先生と私達との話しあいの結果、永遠に保存する事にしました」と勝手に幹部達で取り決めていたので本当に非民主性を感じ、不信感が絶えなかった。

 今の本部職員以外に役職ついている学会員は、ある事を命令されて、その命令に従って、その中での話し合いが常である。
 その上、私の周りの学会員は幹部に不満をこぼすが、組織・池田名誉会長に関しては殆ど無批判である点が本当に解せない。

 私は本当にそれで良いのかと思っている・・・・


続・非民主的組織
 私としては非常に問題視しているのだが、残念ながら今の組織が継続されている以上、多くの創価学会員は今の制度に賛同しているのであろう。勿論、中には組織に対して不満がある人間もいるだろう。しかし、それは言うなれば枝葉の部分が多く、組織全体主義・官僚専制主義という根本から変えようとする動きは無に等しい。何故なら、創価学会員が一丸となって行動を起こせば成功を収めるのは容易だからである。例えるなら歴史において多くの人間が変えようと動いて失敗した例が少ないからだ。(勿論、革命などの運動は問題があるが・・)つまり、創価学会内部において、“変えようと言う人間が多く存在するが”根本的な解決になっておらず、場当たり的な対応になっている。

 しかも、この“変えようと言う人間”自体、本気で考えている人間なのか疑わしい。理由は確かに多くの創価学会員は“変えよう”“変えよう”と普段から言っているが、それは故戸田城聖氏の『伸一、お前が変えたいなら、好きな学会にしなさい』、(本当に言ったかどうかは定かでないが)という発言の影響であって、本当に考えているのでなくスローガンの如く使っているのに過ぎないとそう推測している。


現場)創価学会に対して無批判・反対者に対する押し付けについて


 これについてだが何故この様な状況に陥っているのか考えてみたいと思う。今の創価学会の現場・若しくは学生部の近畿全体としては『専制主義・官僚主義・全体主義』と思っている。
 私の推測だが、何故そうなっているのか考えてみよう。
 『専制主義・官僚主義・全体主義』つまり、上から命令されて行動することがある意味で合理的であるからだと思う。要は考えなくて良いし、その上からの命令により行動する事によって成功を収めるなら非常に楽であるからだ。しかも、多くの創価学会員はそれを組織からの束縛と捉えていないし、寧ろその限りある自由から行動出来るから、現場においては自由だと感じるからだ。いや、自由権を取るより創価学会員としては創価学会教義による実践論を取り、(上からの命令による)達成主義・実証主義・充実感を味わう為に今の制度を良いと思っている傾向が大きいかもしれない。つまり、先ほど申した通り、創価学会組織が目標を掲げてくれる為に、その為の行動を取らせてくれる為に目標を達成させ、実証させ、充実感を与えてくれる。それをする事で大きな成長があると信じているからこそ今の制度に無批判に近いのだと思う。
 この考えを変えない限り、創価学会における変革の時はないのかもしれない。
 (無論、皆様は分かっておられると思うが)先ほど挙げた創価学会による官僚・押し付け指導制度の欠点は、自立性を抑えさせ、少数派の意見を全く聞き入れない・或いは叩き潰すという問題点がある。
 皆様の周知の通り私は創価学会に批判的であり、散々抗議しずいぶんやる事はやったと思う。それでも、一意見として上へいくどころか、多数派により現場で叩き潰す・或いは上に届かせない状況に陥っているのが現場における現状である。しかも、議論ではなく議論以前であり、話しを聞かず、ただマニュアル化された発言を繰り返すだけである。これは力の行使による言論弾圧に他ならない。この現場での論争の間、オルテガの次の言葉が私の頭の中を常によぎっていた。
大衆とはほかでもなく、自分よりすぐれた審判をいっさい認めない閉鎖的な人間だからである。
(大衆の反逆、P35 オルテガ 桑名一博訳 白水社)
 正直、今のままでは(現場)創価学会員は良い様に扱われても、何の不満も憶えないだろう。何故なら、創価学会員の多くは組織・池田名誉会長に対して無批判であるが故に、創価学会の専制化がさらに進んでもそれに気付かない状況があり得るからである。創価学会組織・池田名誉会長に対して批判がないとすれば、小河原誠氏のホームページに書かれているプラトン的国家に近い状態ではないだろうか?
ポパーとプラトン
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kogawara/plato.htm
 さて、誤解が無いように先に説明しておくが、私は多くの創価学会員(大衆)を否定しているのでない。目標を掲げるのも特に悪くないと思っている。しかし、その目標における達成主義・実証主義・充実感を少数派(反対している者)に対して押し付ける事やその目標を上からの命令により実施する事を批判しているのである。つまり、目標は組織の公で決める事で異論はないが、その目標は“それに賛成する者の自立性であり、”上からの目標の命令だとか押し付けは止めるべきであり、たとえ全員が賛同していても、命令・指導は止めるべきであろうと考えている。

 また、私の発言は多くの創価学会員(大衆)を馬鹿にした表現だと思われるかもしれないがそれは誤解である。その理由については、次のオルテガの一文を参照して頂ければ理解して頂けると信じる。

 大衆人がばかだといっているのでない。それどころか、今日の大衆人は以前のいかなる時代の大衆人より利口であり、より多くの知的能力をそなえている。だがその能力も、彼らのためになんの役にも立っていない。厳密にいうと、能力をそなえているという漠然とした意識は、彼が自分のなかに閉じこもり、能力を使わないことに役立っているだけである。大衆人は偶然が彼の内部に堆積したきまり文句、偏見、思想のきれはし、あるいは無意味な言葉の在庫品を断固として神聖化し、それを大胆にもあらゆるところで他人に押しつけているが、その大胆たるや、彼らが単純だからというほかには説明のしようがない。
(大衆の反逆、P115 オルテガ 桑名一博訳 白水社)


私の提案
 私としては、今の創価学会制度は前々回から何度も申し上げているように問題点が多いので今の制度を変革し、より一層の開かれた組織にさせるのが私の目的であり切実なる願いである。

 ではどの様にまた何処から変革すれば良いのだろうか。

 その前に経緯を話さねばなるまい。
 以前にある方からこの様な提案があった。『池田名誉会長は「首相公選制導入」を提案しているので、だったら率先して学会が「会長公選制」を導入すべき』だと。

 私としては大賛成だ。今の制度は自民党の森氏の総裁選びと同じで密室で執り行われているのが現状だからだ。しかし、現状の状態から見ると創価学会がその様な急激な変革をするとは思えない。私としては「会長公選制にする」というのをステップ1の最終点と考えている。ステップ1の最終点に行きたいところだが今の創価学会の組織制度に関してはスタートすらしていない。それでステップ1のスタートを切る為の提案をここで言いたい。勿論、そのステップ1のスタートを切ったところで、直ちに民主性組織になるわけないだろうし、それをする事によって多くの問題にも直面するだろう。それでもする必要があるのは、過去、創価学会において様々な分野で変革があったが創価学会の組織の制度そのものが変わったわけでない。つまり、今の創価学会は他の分野においては多少のスタートを切っているかもしれないが、この組織制度に至っては全く行なっていないのである。その証拠に創価学会の指導・選挙のあり方・折伏・人事・という分野に関してこの何十年間で何が変わったのか?何も変わっていないと言っても過言ではないだろう。普通、民主組織においては様々な意見が飛び交い、制度が変わっているはず、、しかし、何十年という歳月にも関わらず変わっているのが見受けられないので、スタートを切っていない証拠であろう。そもそも、スタートからゴールはない、民主組織においては完成された状態は無いと思う。常に話し合って、変わり続けるそれが民主制と思えるものである。

 ではスタートとは何だろうか?散々、回りくどい事を言い続けて申し訳ないが、私見で答えてみたい。それは

壱、今の様に完全な密室で人事やイベントを決めるのではなく、説明のある公開された人事にして頂きたい。新聞の報道においても決定事項ではなく、何時、どの様に、何故という様な5W1Hの報道をすべきである。

 壱について
 例えば創価学会が民主制と豪語する中央会議において、(多くの人によって決めるそうなので、おそらく多数決と思う。)『賛成が何票・反対が何票で人事が決定した』というような報道などを明記すべきだと思う。 要は決定事項“だけ”を知らせるのではなく、その過程を細かく報道するのが、最低限必要である。

弐、今の創価学会における選挙活動などの『何らかの活動への参加』の位置では押し付けが生じるので、会合と『何らかの活動への参加』と別にすべき(例えば、会合におけるF報告会)であり、その様なものへの参加については自分から賛同する者だけがすればよいとする。こうすれば、会合に参加できるし、また押し付けも少しはマシになると思う。

 弐について
 私の体験だが、この提案に至った経緯を説明しよう。
 私は選挙活動をしない事を学内とは別に学生部において認められたのだが、やはり学内の会合などに参加すると仲間外れの様な印象を受けるのである。これは先輩方が悪いわけでは無く、原因は、選挙期間中の会合の実態にある。研鑚などの活動より選挙についてなどの報告会が色濃くなり、その間の会合で選挙活動しない人間にとっては話す事や相談する事がなくなり存在価値を失うのである。(それは創価学会員は否定されると思が・・・)現に一例だが選挙活動が嫌でその間の活動を離れていた後輩がいる。その様な摩擦をなくす為に、会合の後や前に選挙活動する人のみを集めて報告会をすべきである。

 さて、色々言いたい事を言わせて頂いたが、賢明なる読者の方々から御感想・御批判を頂ければ幸いである。

2001年9月2日      反創価連盟

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