生かして生かされて生きる BLOGの記録


みれいさんの 生かして生かされて生きる BLOGにおけるLibraの発言の記録です。



ここへははじめて書きます (Libra 2006-03-12 06:44:34
 
みなさん、おはようございます。

 あまりにもいい雰囲気なので、わたしも今日だけ参加しちゃうことにします。

 今の話題とは全く関係ないものを含めて、以下に、3点だけ書いてみます。


1.「反・権威主義」としての仏教

 ある経典によりますと、シャカは、「教典の権威によってとか、〔中略〕
『この人こそ私たちの先生だ』という考えによって導かれてはなりません。」
といっています[*1][*2]。

 「カリスマ性なるいかがわしいもの」によって導かれてはならないというの
が仏教の基本だといってよいとおもいます。創価学会の創立者である牧口も同
じようなことをいっています[*3]。

 しかしながら、創価学会の現状をみますと、残念ながら、「カリスマ性なる
いかがわしいもの」によって導かれてしまっているようにおもいます[*4]。


2.「日蓮は何の宗の元祖にもあらず」

 「日蓮さんだけは鎌倉仏教の中でも特殊な存在ですね。日蓮さんだけ宗派に
自分の名前つけてるし。法華経宗でいいのに。」というみれいさんのご発言に
ついて。

 日蓮のある遺文には「日蓮は何の宗の元祖にもあらず」[*5]とあります。日
蓮が「宗派に自分の名前をつけ」たということはありません。

 四条金吾に対して、「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と
鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」[*6]といってい
ますから、日蓮自身は、みれいさんがおっしゃるように「法華経宗でいい」と
おもっていたのだとおもいます。


3.「反・自文化中心主義」としての相対主義

 わたしは、小河原誠先生が批判対象とされているようなかたちの相対主義[*7]
が大嫌いです。しかし、同じ「相対主義」という名の下に語られる思想の中に
は、これとは正反対のものがあるようです[*8]。浜本満先生がいわれるような
「反・自文化中心主義」としての相対主義ならば、わたしもほとんど賛成でき
ます。

 もっとも、わたしは、浜本満先生とはちがって、「かなわない夢なら見ない
ほうがまし」などとはおもいません。

 夢には、人類的なレベルのものと、個人的なレベルのものがあるとおもいま
すが、人類的レベルの夢としてなら、「かなわない夢」を大いに見るべきだと
わたしはおもいます。

 「人類的レベルの夢」というのは、たとえば、フッサールの以下のような夢
のことです。

  ─────────────────────────────────
  たとえ学問が、最終的には自ら洞察せざる をえないように、「絶対的」な
  真理の体系の実現に事実上至ることがな く、その真理を繰り返し変更する
  よう強いられるとしても、学問はやはり絶 対的な真理または学問的に真正
  な真理という理念を追いかけ、それゆえ、 この理念に近似的に接近して行
  こうとする、無限の営みの地平のなかへ入 り込んでいくことになる。学問
  は、この近似的な接近とともに、日常的な 認識と自分自身とを無限に乗り
  越えていくことができる、と考えている。

  (フッサール著・浜渦辰二訳『デカルト的 省察』、岩波文庫、2001年、
    pp. 34-35)
   ─────────────────────────────────

 これに対して、「個人的レベルの夢」というのは、たとえば、アルブレヒト・
デューラーの以下のような夢のことです。

  ─────────────────────────────────
  しかし、わたしよりも有能な者が真実を推 察し、その仕事の中でわたしの
  間違いを証明して、論破できるようにする ために、わたしが学んだ僅かば
  かりのものを世に出そうと思います。ここ において、自分がその真実の明
  らかにされるに至る手段になったというこ とに、わたしは喜びを感じます。

  (カール・R・ポパー『確定性の世界』 〔田島裕訳、信山社、1998年〕の
    88ページから孫引き。)
   ─────────────────────────────────

 人類的レベルの夢としては、「かなわない夢」を大いに見つつ、個人的レベ
ルの夢としては「つつましやかな夢」を見ればよいとわたしはおもいます。そ
うすれば、「事を急ぎ過ぎる」こともありませんから。


 [註]

  [*1] ブッダと「汎批判的合理主義」 (小河原誠)
     http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

  [*2] アンベードカル 著 『ブッダとそのダンマ』 について(Leo)
     http://fallibilism.web.fc2.com/dhamma.html

  [*3] 信仰的模倣時代から理性の時代 へ(牧口常三郎)
     http://fallibilism.web.fc2.com/024.html

  [*4] 創価学会では教団内に権威主義 が保持されている(島薗進)
     http://fallibilism.web.fc2.com/056.html

  [*5] 「妙密上人御消息」、学会版、 p. 1239。

  [*6] 「四条金吾殿御返事」、学会 版、p. 1118。

  [*7] 相対主義批判(小河原誠)
     http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

  [*8] 差異のとらえかた--相対主義 と普遍主義--(浜本満)
     http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/published/relativism.html


日蓮は原理主義者か (Libra 2006-03-12 15:27:17

 日蓮は「文証」に加えて「理証」も「現証」[*1]もいいますか ら、原理主義
者とはいえないとおもいます。

 日蓮が原理主義者と間違われやすいは、おそらく、日蓮の折伏[*2]が誤解さ
れやすいからなのだとおもいます。

 みれいさんが、ヴェルナー・フートという方の「原理主義者〔中略〕は、他
者に対しても自分の中に浮かんでくる疑念に対しても、対話を拒む。」[*3]と
いう言葉を紹介されています。

 日蓮の遺文を読めば、日蓮が「他者に対しても自分の中に浮かんでくる疑念
に対しても、対話を拒む」ような人物ではないことは明らかだとおもいます。

 もちろん、日蓮が依拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、
今となってはもう通用しないものが少なからずあります。そのようなものにい
まだにしがみついている人は「狂人」[*4]というしかないでしょう。「狂人」
には「対話」は不可能だとおもいます[*5]。

 日蓮原理主義者というのはたしかに存在しているとおもいます。しかし、そ
のことによって、日蓮自身が原理主義者だったということには必ずしもなりま
せん。


 [註]

  [*1] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/97

  [*2] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/84

  [*3] http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/f0f917865456dc2c0ad624cc54b6766d

  [*4] 精神の健全さと病気の違い (カール・ポパー)
     http://fallibilism.web.fc2.com/112.html

  [*5] 対話主義と可謬主義 (Libra)
     http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html


2006.03.12



(2006 年7月8日掲載)
「い わゆる「五重の相対」の問題について」

(1) この問題でまず最初に確認しておかないといけないのは、「日 蓮が依拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今ではもう通用しないものが少なからずある」という「ことを素直に認 めることができない人がもしいるとすれば、そのような方は『狂人』であるといわざるをえない」[*1]という点です。
 本当なら、このようなことは、いちいち確認するまでもないことだとおもうのですが、このことをあえて確認しなければならないという悲しい状況に今はまだ あるとおもいます。

(2)「選択」と「相対」のちがい
 次に、確認すべきなのは、「選択」と「相対」とのちがいです。
 まず、「選択」のほうですが、「選択というのは、真実の仏教と真実でない仏教を振り分ける」ことであり、「仏教に二種類あるとか、三種類あるというのは 選択ではな」く、「これが本物で、あとは偽物だと、そのことをはっきり見極め」て、「長い歴史の中で同じ仏教という範疇に包括されていても、これは仏教で、これは非仏教と言い切ることができる確信、たしかな原点 を持つ、それが選択ということ」[*2]だと思います。
  一方、「相対」というのは、「釈尊の最も中心的な思想は何であるか、またその中心的な思想と相違する、はなはだしい場合には矛盾対立する思想は何故に説かれなければならなかったのか、 というような諸問題に答える思想的な営み」[*3] と理解しておけばよいのではないでしょうか。

(3)日蓮の「選択」と「相対」
  上の定義は、日蓮の「内外相対」には直接あてはめることができませんが、「相対」的というよりは、むしろ「選択」的だろうとおもいます。
残りの4つについては、基本的には「相対」といってよいとおもいます。もっとも、「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」といいますから[*4]、その中の「捨 てて」という点に重きをおいて解釈すれば、「選択」的な側面もあるといえます。
    
(4)「選択」すべきか「相対」すべきか
 わたし自身は、対比の対象となりうる思想がいくつかあるというような場面では、自らがとるべき態度として、「相対」ではなく、できるだけ「選択」をして いきたいと考えています。それは、「そもそも『知性 (intellect)』とは、物ごとを区別してそれらの『間(inter)から選びとる(lego)』ことを意味する」[*5] とおもうからです。もちろん、いったん、ある時点でどれか を「選択」したとしても、後にその「選択」が誤りだったとわかれば、その時点でまた「再選択」するということが前提です(わたしは 「狂人」ではありませんので)。よって、自己の「選択」は、積極的に他者からの批判にさらしていくべきであり、そのためにも、自己の「選択」は明確に表明 していきたいと考えています。

  また、初期の仏弟子たちがとっていた態度は、「選択」だったということもできるとおもいます[*6]。一方、「相対」のほうは、その後の仏教史におけ る「歴史的事実」からの「当然のなりゆき」[*7]として形成されたものですから、もともと釈迦の弟子たちがそういう態度をとっていたということではあり ません。
 
 少なくとも「思想評価の方法」という点だけからみれば、今のわたし
としては、日蓮よりも法然や親鸞のほうをむしろ評価すべきなのかもしれません。「選択」を徹底したという点においてです。もっとも、セレクトされた思想の 内容面についていえば、わたしははっきりと法然よりも日蓮のほうを支持します(親鸞の思想についてはあまりにも無知なので、現時点では評価する力をもちま せん)。

 そもそも、日蓮は、上で述べたような《「歴史的事実」からの「当然のなりゆき」》の真っ只中に生きていたわけですから、両者が埋め込まれている時代状況 を考慮すれば、思想構築のやりかたとしては、むしろ日蓮のほうに合理性があるようにもおもいます。もし、わたしが日蓮と同時代に生きていたとすれば、「思 想評価の方法」をも含めて、日蓮の主張ほうに説得力を感じたのではないかと推測します。

(5)日蓮の「相対」とはどのようなものだったか
この点につきましては、日蓮宗のご僧侶であられる川蝉さんの以下のご発言が理解に資するとおもいます。あわせて、参考になりそうな遺文も引用してみます。
───────────────────────────────
 法華経の教 判は、全仏経典を、法華経を頂点・中心とした 一大体系と見て、法華経を根本・中心にして行く事だと思います。たしかに、「一偈をも受けざれ」とも「正直捨方便」ともあるの で、 「完全否定」とも思われ勝ちな点もありますね。
しかし、「嘱累品」に「信受せざらん者には、 当に如来の余の深法の中に於いて示教利喜すべし」ともあるし、御書の引証は長くなるので挙げませんが、宗祖の 立場を達意的に云うと、仏種は法華 経・妙法五字に限る(下 種結縁は法華経に限る)が、余経は養分に成る。法華経と云う塔を建てたり修理するときには足場に譬えられる諸経は必要である。人を 善導する世間流布の善論は法華経の支流に譬えられる。法華経には成仏という大綱を説き、細目は諸経に説いてある。等と云うお考えがあるので、「完全否定」 形だと解釈しては行き過ぎの点がありましょう。
 (川蝉さんのご発言、 00/07/30 Sun 14:12:23
───────────────────────────────
───────────────────────────────
 総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは 承り候はねども再び仏教を勘えたるに如来の金言の中にも大小権実顕密なんど申す事経文より事起りて候、〔中 略〕詮を取つて申さば釈尊の五十余年の諸教の中に先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし、仏自ら無量義経に「四十余年未だ真実を顕さず」と申す経文ま のあたり説かせ給へる故なり、法華経に於ては仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」と定めさせ給いぬ
  (「月水御書」、全集、p. 2000)
 ───────────────────────────────
 ───────────────────────────────
 法華経の習 としては前の諸経を習わずしては永く心を得る こと莫きなり
(「一代聖教大意」、全集、p. 397)
───────────────────────────────

(6)日蓮の「中心主義」に対するわたしの現時点での評価
わたしは、以前、日蓮の上のような思想的態度を「中心主義」と説明し[*8]、肯定的にのみ評価していたようにおもいます。しかし、現在のわたしは、場面 によっては、たしかにこのような「中心主義」を肯定的に評価しうる場合があるとしても、明確に矛盾するような思想に出会った場合には、両者の相違を曖昧に してうやむやにしてしまうのではなく、できるかぎり、はっきりと「選択」するべきだと考えています。もっとも、「選択」するためには、その前提として、対 象を理解する必要がありますし、それはいつでも簡単にできるというものではありません。実際、わたしは、親鸞の思想については全く理解していません。この ような場合には、勉強などをして理解したと思えるまでは、「選択」は保留するしかありませんし、それまでの間は自らの「無知」を深く自覚することしかでき ません。

(7) 日蓮の思想を批判的に継承するのがわれわれ弟子の最大の課題
 日蓮が生きたのとはまったく正反対の歴史的状況[*9]の中にあるわれわれとしては、思想構築のやりかたとして、「選択主義」のほうが合理的だとおもい ます。また、上述しましたように、仏弟子たちがもともととっていたのも「選択主義」ですから、そのほうが仏教徒として自然な態度だろうとおもいます。

 このような「選択主義」の立場から、現代においてもきちんと通用することに依拠つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点 を再選択する作業」[*10]が、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最も大きな課題であろうとわたしは考えま す[*11]。

 註(参照サイト)

 [* 1]  〔 「日 蓮考察」、No. 84 〕
 [* 2]  〔 「選択」とは(小川一乗) 〕
 [* 3]  〔中国における教判の形成の必然性(菅 野博史) 〕
 [* 4]  〔 日蓮は広略を捨てて肝要を好む (Libra) 〕
 [* 5]  〔「無知」をはっきり知ることは難し い(袴谷憲昭)
 [* 6]  〔典拠への参照『大パリニッバーナ 経』〕
 [* 7]  [* 3]と同じ。
 [* 8]  [* 4]と同じ。
 [* 9]  [* 3]の引用者註1を参照。
 [*10]  〔日蓮における釈尊観と霊 山浄土観の諸相(松戸行雄) 〕
 [*11]  [* 1]と同じ。


【「五重の相対」の問題について(付録)】

 5つの「相対」についてわたしがどのように考えているのかを示す拙文を、
以下に厳選してあげておきたいとおもいます。

1.内外相対
 一つだけあげろといわれれば、以下をあげたいとおもいます。もっとも、こ
の拙文は、いってみれば「仏教内部での内外相対」、すなわち、「本来の仏教
とは何か?」というテーマについての仏教徒どうしでの論争に関するものです
が。

 〔「無我」と「非我」は違うか?〕 
  
2.大小相対
 日蓮の時代において、「小乗仏教」というと、要するに「有部」のことだったでしょうから(三枝充悳『ブッダとサンガ─〈初期仏教〉の原像─』、法蔵館、 1999年、p. 116、)、以下の
2つをあげておきます。

(1) 〔■ 自性・ 無自性について
    、
    「2005年12月25日 01:32」、
「1.龍樹はアビダルマ論師たちのいう「自 性」の意味を正確に理解していた」

(2) 〔『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』における大乗仏教批判の貧困
    
3.権実相対・本迹相対・種脱相対(教観相対)
 一つあげるとすれば以下をあげます。

  〔法華経について



ご感想拝読いたしました (Libra 2006-07-14 02:50:13
 歩さん、おはこんばんちは。

 貴重なご感想、ありがとうございました。

 まず、「五重の相対という分母が分からない中で論破も批判反証もありませ
ん」というご感想は実にごもっともだとおもいます。

 上の拙文は、いわゆる「五重の相対」について、みれいさんからご質問を頂
戴いたしまして、それに対するわたしなりの回答として書いたものです。した
がいまして、わたしとしても、「五重の相対という分母が分からない」方とい
うのは読者として全く想定いたしておりませんでした。

 「一連の文章には他を寄せ付けない壁を感じました」というご感想もごくご
くふつうの感覚だろうとおもいます。拙文に対するリアクションとしては、も
っともよく見られるものです。

 「反証を求めているようで反証されにくいレトリックのオブラートでくるま
れているよう」にお感じになられたという点は、わたしの自己評価とは異なり
ます。拙文のどこを読まれて、そのようにお感じになられたのかを具体的に示
して頂ければ、反省して、改めることができるかもしれません。

 「何を選択されているのかが、〔中略〕理解推察できない」という点ですが、
わたしとしては、「付録」でそのアウトラインを示したつもりでいました。も
っとも、これは、わたしの自己解釈にすぎません。もしかしたら、歩さんの嗅
覚の方が正しいのかもしれません(わたしは、わたしの「選択」のアウトライ
ンを示すのに失敗しているのかもしれません)。

 あと、親鸞については、興味があり、時間とお金さえあれば研究してみたい
とおもうものの、そうはいかない現実を生きています。道元についても同様で
す。


たしかに「デジアナ」ってのはどうかとおもいます が (Libra 2006-07-15 02:40:12
 歩さん、おはこんばんちは。

 わたしが「無我と非我は同一の事態を別様に表現したものにすぎない」とい
うときに、わたしが「我」をどのようなものとしてとらえているのかを以下に
説明してみます。

 わたしは、「我(アートマン)」を「恒常不変な形而上学的な実体」[註1]
ととらえています。無我説というのは、そのような「我」などは実在しないと
いう説であると理解しています。すなわち、「私たちは、仮としての存在であ
り、確かなものとして存在していない」[註2]というのが仏教の無我説だと考
えます。
 
 この「無我」というわが身の事実を深く納得できれば、「涅槃」というプロ
セスに入ることができるとおもいます。「涅槃」というプロセスに入ることが、
いわゆる「成仏」だとわたしは考えます。「涅槃」についてのわたしの考えは、
以下のとおりです。

  ─────────────────────────────────
  2.涅槃(ニルヴァーナ)について

   涅槃とは「たえざる否定と二重否定との うちに、どこまでも上昇し、あ
  るいは深化する」「一種の立体的な螺旋」 のプロセスに入ることであると
  いう三枝先生の説明[*1]をわたしは支 持します。友岡さんの表現だと、
  「常に自らを相対化し、自らの立場を突破 しつづける」[*2]プロセスに入
  ることだとおもいます。

   涅槃とは「「何か」と言う言葉で表され る実体的、固定的なもの“を”
  知」[*3]ることではないとおもいま す。「「何か」という固定的、実体的
  なものは「悟るべき対象」ではなく、そこ から「離れるべき呪縛」「目覚
  めるべき夢」」[*4]だとおもいます。

    [*1] 生き続ける「形のない釈 尊」(三枝充悳)
       http://fallibilism.web.fc2.com/020.html
  
    [*2] 『ブッダは歩む ブッダは 語る』(友岡雅弥)
       http://fallibilism.web.fc2.com/016.html
  
    [*3] 同上
  
    [*4] 同上

  (法華経について、No. 130、2005/10/15(土) 15:04:52、
    http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html
   ─────────────────────────────────


  註1 原始仏教における生命観(高橋審 也)
     http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

  註2 小川一乗『大乗仏教の根本思想』、 法蔵館、 1995年、pp. 144-145。


L-Styleでごめんなさい (Libra 2006-07-15 20:40:22
 歩さん、おはこんばんちは。

 ご質問に答えてみます。

> 1.我(アートマン)を恒常不変な形而上学的な実体」と定義されてい
> ますが、小学2年生の子にはどう説明されますか。

 「わたしに説明できるとはとうてい思えない」というのが正直なところです。
大人にも満足に説明できないこのわたしが、小学2年生の子に説明できるはず
がないとおもいます。

 また、小学2年生のときのわたしにアートマンが理解できたともおもえませ
ん。アートマンなんかに興味をもってしまう小学2年生の子というのはちょっ
とこわい気がします。

> 2.仏教の無我説として「私たちは、仮としての存在であり、確かなも
> のとして存在していない」と考えておられますが、それではLibraさん
> はどのように存在していますか。

 「法は確固不変なるものではなく、反対に実に不安定な中ぶらりんな危機的
存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこにもない。我々はこの不安定
な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ存在しているのだ」(松本史朗
『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 27)という松本先生
のご説明をおかりして、わたしの回答に代えさせて頂きたいとおもいます。こ
れ以上の説明をひねり出すことは、少なくとも、今のわたしには困難です。

> 3.あなたは誰ですか?に、どのように答えられますか。

 最も単純には「Libra です」と答えるとおもいます。そして、その問いの発
せられた状況に応じて、適当に修飾語を追加したり、わたしがどういうことを
やってきたか、今やっているか、これからやりたいとおもっているかを補足す
るだろうとおもいます。

> 4.中学1年の子どもに何故人を殺してはいけないかをどのように説明しま
> すか。

 その子どもがどう考えているのかをまず聞くとおもいます。そして、わたし
自身が「人を殺してはいけない」とおもい、他人にもそうおもってほしいと願
望している理由を考えてみて、それを素直に話してみたいとおもいます。

 わたしが他人に「人を殺してはいけない」とおもっていてほしい最大の理由
は、おそらく、自分自身が他人に殺されたくないからであり、自分にとって大
切な人が他人に殺されてしまうのがイヤだからなのだろうとおもいます。立場
を置き換えて考えてみれば、他人もまた、わたしに「人を殺してはいけない」
とおもっていてほしいだろうと想像します。

 わたし自身が他人の期待を裏切って「人を殺してもよい」とおもうとすれば、
わたしは、他人に「人を殺してはいけない」とおもっていてほしいと希望する
ことはできないだろうとおもいます。

 自分自身や自分にとって大切な人が他人に殺されてしまうのがイヤな人は、
「人を殺してもよい」とおもうことは出来ないとおもいます。結局、ほとんど
すべての人は、「人を殺してもよい」とおもうことはできないとおもいます。

 以上の説明で中学1年の子どもが納得するとも思えませんが、わたしとして
は、これ以上の説明はおもいつきません。歩さんならどのようにご説明されま
すでしょうか。

 「人を殺してはいけない」という原則についての上記の説明に、奇跡的に、
中学1年の子どもが納得したとしても、そこで話を終了すべきではないだろう
とおもいます。「動物だったら殺してもいいのか?」とか、「いかなる場合に
も(例外なく)人は人を殺してはいけないのか?」とか、そういうことについ
ても話をしてみるべきだとおもいます。

 その際には、「いかなる場合にも人は人を殺してはいけない」のかどうか、
実はわたしにもよくわからないということをまず告白したいとおもいます。そ
して、死刑制度の是非についてその子どもといっしょに考えてみたいとおもい
ます。「人は変われる」という仏教の理念を厳密に貫くなら、死刑制度は否定
すべきだとおもいますが、万人が仏教徒であるわけでもないといったことをい
っしょに考えてみたいとおもいます。


あじあじファンです (Libra 2006-07-18 02:13:22
 歩さん、グッモナイヘロ。

 ご丁寧なコメントありがとうございました。

 小学2年生の子にアートマンという概念を理解してもらうというのは非常に
難しいだろうとおもいます。だから、概念として説明するのではなくて、そう
いう雰囲気を味わってもらえるような物語を教えてあげるとか、そういうやり
方がいいのかもしれないなとおもいます。わたしなら、『ぼのぼの』の劇場版
の第一作(1993年)を見せるだろうとおもいます。

 拙文は読者にある程度の読解力と前提知識を要求するものであるという点は
おっしゃるとおりだとおもいます。

 わたしがこの10年間やってきたことというのは、現在の学問の最高水準を
ふまえた上で、自分自身を心の底から納得させることができる見解を見出すと
いう作業が中心だったのかもしれません(L-Style はその産物なのでしょう)。
そして、さいわいなことに、満足できる見解を見出すことができました。

 これからの10年は、これまでに到達した見解を、よりわかりやすい形で表
現していくという作業が中心になっていくのかもしれません。アルブレヒト・
デューラーの以下の言葉を今はかみしめています。

  ─────────────────────────────────
  しかし、わたしよりも有能な者が真実を推 察し、その仕事の中でわたしの
  間違いを証明して、論破できるようにする ために、わたしが学んだ僅かば
  かりのものを世に出そうと思います。ここ において、自分がその真実の明
  らかにされるに至る手段になったというこ とに、わたしは喜びを感じます。

  (カール・R・ポパー『確定性の世界』 〔田島裕訳、信山社、1998年〕の
    88ページから孫引き。)
   ─────────────────────────────────

 最後に趣味の話。わたしも将棋がけっこう好きです。指すほうは全くダメで
すが、NHKのテレビ将棋は、好きな棋士が対局してたり、解説してたりする
時はよくみます。安食総子さんが読み上げの時は特に(笑)。好きな棋士は、
谷川九段です。先崎八段もかなり好きです。昔、学生の時に、A級順位戦最終
日の大盤解説を関西将棋会館に観にいって、終電の時間を無視してずーっと観
てしまったことがあります。お金も持っていなかったので、始発の時間まです
っごく暇でしたが、今となってはいい思い出です。


2006.08.20


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