■ 対話と議論



 しばらくネットに復帰できそうなのでお邪魔してみます。

 言葉の定義について争ってみてもしかたがありませんが、少なくとも、わた
しとわめさんとでは、「対話」という言葉についての理解が異なるようです。

 少なくともわたしにとっては、わめさんがいわれているようなものは「説得」
あるいは「説教」であって「対話」ではないと感じます。

 わたしは、わめさんとはちがって、「対話」というのは、「合理的な相互批
判」[*1]だとおもっています。

 ちなみに、創価学会では、「対話」について、以下のような説明がされてい
ます。

  ─────────────────────────────────
  本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言 葉」。リングは万
  人普遍の「理性」。権威をもちこむのは「反則」。なれあい は「八百長」。
  沈黙は「敗北」。論証もなく「私は、こう思うんだ」では、 観客から笑わ
  れるだけだ。

  (『聖教新聞』の「羅針盤」、2000年11月12日の8 面)
   ─────────────────────────────────

 「対話」とは上のようなものであるといい、自らを「対話主義者」であると
いいながら、実際には「説得」あるいは「説教」しかしていないという方がも
しおられるのだとすれば、それはまさに「無限に喜劇的である」[*2]としかい
いようがないわけですが、だからといって、「対話とは説得である」というこ
とにはならないでしょう。

 上記のように「無限に喜劇的」なケースで問題とされるべきなのは、言って
いることとやっていることが齟齬しているということでしょう。

 言っていることとやっていることが齟齬しているからといって、言っている
ことが正しくないということには必ずしもなりません。正しいことを言っては
いるが、それと矛盾する正しくないことをやっているということは十分にあり
えます。

 わたしは、「対話主義」は、理念としては正しいとおもいます。


  [*1] 対話主義と可謬主義(Libra)
     http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html

  [*2] 「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
     http://fallibilism.web.fc2.com/095.html

Posted by Libra at 2006年07月03日 01:41

 
 みなさん、おはこんばんちは。

 みれいさん、引用ありがとうございました。

 あちらでは、URLがはれなかったようなので、ここにも投稿しておこうと
おもいます。「わめさんのところバージョン」ということで、付録もつけてみ
ました。

Posted by Libra at 2006年07月06日 00:33


【「五重の相対」の問題について(1/5)】

(1) この問題でまず最初に確認しておかないといけないのは、「日蓮が依
拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今ではもう通用しな
いものが少なからずあ」るという「ことを素直に認めることができない人がも
しいるとすれば、そのような方は『狂人』であるといわざるをえない」[*1]と
いう点です。

    本当なら、このようなことは、いちいち確認するまでもないことだと
おもうのですが、このことをあえて確認しなければならないという悲しい状況
に今はまだあるとおもいます。

(2) 「選択」と「相対」のちがい
    次に、確認すべきなのは、「選択」と「相対」とのちがいです。

    まず、「選択」のほうですが、「選択というのは、真実の仏教と真実
でない仏教を振り分ける」ことであり、「仏教に二種類あるとか、三種類ある
というのは選択ではな」く、「これが本物で、あとは偽物だと、そのことをは
っきり見極め」て、「長い歴史の中で同じ仏教という範疇に包括されていても、
これは仏教で、これは非仏教と言い切ることができる確信、たしかな原点を持
つ、それが選択ということ」[*2]だと思います。

    一方、「相対」というのは、「釈尊の最も中心的な思想は何であるか、
またその中心的な思想と相違する、はなはだしい場合には矛盾対立する思想は
何故に説かれなければならなかったのか、というような諸問題に答える思想的
な営み」[*3]と理解しておけばよいのではないでしょうか。

(3) 日蓮の「選択」と「相対」
    上の定義は、日蓮の「内外相対」には直接あてはめることができませ
んが、「相対」的というよりは、むしろ「選択」的だろうとおもいます。残り
の4つについては、基本的には「相対」といってよいとおもいます。もっとも、
「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」といいますから[*4]、その中の「捨てて」
という点に重きをおいて解釈すれば、「選択」的な側面もあるといえます。

Posted by Libra at 2006年07月06日 00:35


【「五重の相対」の問題について(2/5)】

(4) 「選択」すべきか「相対」すべきか
    わたし自身は、対比の対象となりうる思想がいくつかあるというよう
な場面では、自らがとるべき態度として、「相対」ではなく、できるだけ「選
択」をしていきたいと考えています。それは、「そもそも『知性(intellect)』
とは、物ごとを区別してそれらの『間(inter)から選びとる(lego)』ことを
意味する」[*5]とおもうからです。もちろん、いったん、ある時点でどれかを
「選択」したとしても、後にその「選択」が誤りだったとわかれば、その時点
でまた「再選択」するということが前提です(わたしは「狂人」ではありませ
んので)。よって、自己の「選択」は、積極的に他者からの批判にさらしてい
くべきであり、そのためにも、自己の「選択」は明確に表明していきたいと考
えています。

    また、初期の仏弟子たちがとっていた態度は、「選択」だったという
こともできるとおもいます[*6]。一方、「相対」のほうは、その後の仏教史に
おける「歴史的事実」からの「当然のなりゆき」[*7]として形成されたもので
すから、もともと釈迦の弟子たちがそういう態度をとっていたということでは
ありません。
 
    少なくとも「思想評価の方法」という点だけからみれば、今のわたし
としては、日蓮よりも法然や親鸞のほうをむしろ評価すべきなのかもしれませ
ん。「選択」を徹底したという点においてです。もっとも、セレクトされた思
想の内容面についていえば、わたしははっきりと法然よりも日蓮のほうを支持
します(親鸞の思想についてはあまりにも無知なので、現時点では評価する力
をもちません)。

    そもそも、日蓮は、上で述べたような《「歴史的事実」からの「当然
のなりゆき」》の真っ只中に生きていたわけですから、両者が埋め込まれてい
る時代状況を考慮すれば、思想構築のやりかたとしては、むしろ日蓮のほうに
合理性があるようにもおもいます。もし、わたしが日蓮と同時代に生きていた
とすれば、「思想評価の方法」をも含めて、日蓮の主張ほうに説得力を感じた
のではないかと推測します。

Posted by Libra at 2006年07月06日 00:37


【「五重の相対」の問題について(3/5)】

(5) 日蓮の「相対」とはどのようなものだったか
    この点につきましては、日蓮宗のご僧侶であられる川蝉さんの以下の
ご発言が理解に資するとおもいます。あわせて、参考になりそうな遺文も引用
してみます。

    ───────────────────────────────
    法華経の教判は、全仏経典を、法華経を頂点・中心とし た一大体系と
    見て、法華経を根本・中心にして行く事だと思います。
     たしかに、「一偈をも受けざれ」とも「正直捨方便」 ともあるので、
    「完全否定」とも思われ勝ちな点もありますね。

    しかし、「嘱累品」に「信受せざらん者には、当に如来 の余の深法の
    中に於いて示教利喜すべし」ともあるし、御書の引証は 長くなるので
    挙げませんが、宗祖の立場を達意的に云うと、仏種は法 華経・妙法五
    字に限る(下種結縁は法華経に限る)が、余経は養分に 成る。法華経
    と云う塔を建てたり修理するときには足場に譬えられる 諸経は必要で
    ある。人を善導する世間流布の善論は法華経の支流に譬 えられる。法
    華経には成仏という大綱を説き、細目は諸経に説いてあ る。等と云う
    お考えがあるので、「完全否定」形だと解釈しては行き 過ぎの点があ
    りましょう。

    (川蝉さんのご発言、00/07/30 Sun 14:12:23、
      http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_301_400.html
     ───────────────────────────────

    ───────────────────────────────
    総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは承り候はね ども再び仏教
    を勘えたるに如来の金言の中にも大小権実顕密なんど申 す事経文より
    事起りて候、〔中略〕詮を取つて申さば釈尊の五十余年 の諸教の中に
    先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし、仏自ら無 量義経に「四
    十余年未だ真実を顕さず」と申す経文まのあたり説かせ 給へる故なり、
    法華経に於ては仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨て て但だ無上道
    を説く」と定めさせ給いぬ

    (「月水御書」、全集、p. 2000)
     ───────────────────────────────

    ───────────────────────────────
    法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得 ること莫きな
    り

    (「一代聖教大意」、全集、p. 397)
     ───────────────────────────────

Posted by Libra at 2006年07月06日 00:39


【「五重の相対」の問題について(4/5)】

(6) 日蓮の「中心主義」に対するわたしの現時点での評価
    わたしは、以前、日蓮の上のような思想的態度を「中心主義」と説明
し[*8]、肯定的にのみ評価していたようにおもいます。しかし、現在のわたし
は、場面によっては、たしかにこのような「中心主義」を肯定的に評価しうる
場合があるとしても、明確に矛盾するような思想に出会った場合には、両者の
相違を曖昧にしてうやむやにしてしまうのではなく、できるかぎり、はっきり
と「選択」するべきだと考えています。もっとも、「選択」するためには、そ
の前提として、対象を理解する必要がありますし、それはいつでも簡単にでき
るというものではありません。実際、わたしは、親鸞の思想については全く理
解していません。このような場合には、勉強などをして理解したと思えるまで
は、「選択」は保留するしかありませんし、それまでの間は自らの「無知」を
深く自覚することしかできません。

(7) 日蓮の思想を批判的に継承するのがわれわれ弟子の最大の課題
    日蓮が生きたのとはまったく正反対の歴史的状況[*9]の中にあるわれ
われとしては、思想構築のやりかたとして、「選択主義」のほうが合理的だと
おもいます。また、上述しましたように、仏弟子たちがもともととっていたの
も「選択主義」ですから、そのほうが仏教徒として自然な態度だろうとおもい
ます。

    このような「選択主義」の立場から、現代においてもきちんと通用す
ることに依拠つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想と
して重要な視点を再選択する作業」[*10]が、日蓮の弟子として現代に生きる
われわれに与えられている最も大きな課題であろうとわたしは考えます[*11]。

Posted by Libra at 2006年07月06日 00:40


【「五重の相対」の問題について(5/5)】

 註

  [* 1]  「日蓮考察」、No. 84
      http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html

  [* 2]  「選択」とは(小川一乗)
      http://fallibilism.web.fc2.com/090.html

  [* 3]  中国における教判の形成の必然性(菅野博史)
      http://fallibilism.web.fc2.com/021.html

  [* 4]  日蓮は広略を捨てて肝要を好む(Libra)
      http://fallibilism.web.fc2.com/z002.html

  [* 5]  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
      http://fallibilism.web.fc2.com/003.html

  [* 6]  〈典拠への参照〉(『大パリニッバーナ経』)
      http://fallibilism.web.fc2.com/004.html

  [* 7]  [* 3]と同じ。

  [* 8]  [* 4]と同じ。

  [* 9]  [* 3]の引用者註1を参照。
      
  [*10]  日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松 戸行雄)
      http://fallibilism.web.fc2.com/119.html

  [*11]  [* 1]と同じ。

Posted by Libra at 2006年07月06日 00:42


【「五重の相対」の問題について(付録)】

 5つの「相対」についてわたしがどのように考えているのかを示す拙文を、
以下に厳選してあげておきたいとおもいます。

1.内外相対
 一つだけあげろといわれれば、以下をあげたいとおもいます。もっとも、こ
の拙文は、いってみれば「仏教内部での内外相対」、すなわち、「本来の仏教
とは何か?」というテーマについての仏教徒どうしでの論争に関するものです
が。

  「無我」と「非我」は違うか? 
  http://fallibilism.web.fc2.com/z011.html


2.大小相対
 日蓮の時代において、「小乗仏教」というと、要するに「有部」のことだ
ったでしょうから(三枝充悳『ブッダとサンガ─〈初期仏教〉の原像─』、
法蔵館、1999年、p. 116、http://fallibilism.web.fc2.com/029.html)、 以下の
2つをあげておきます。

(1) ■ 自性・無自性について
    http://fallibilism.web.fc2.com/bloglog3_001.html
    「2005年12月25日 01:32」、
    「1.龍樹はアビダルマ論師たちのいう「自性」の意味 を正確に理解していた」

(2) 『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』における大乗仏教批判の貧困
    http://fallibilism.web.fc2.com/note017.html


3.権実相対・本迹相対・種脱相対(教観相対)
 一つあげるとすれば以下をあげます。

  法華経について
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html

Posted by Libra at 2006年07月06日 00:44


 以下、Leo さんへのレスです。

> 日蓮聖人の指導は完全無欠でそのまま現代に通用すると思っている人は気の
> 狂った人ということですね。

 まず、大前提として、わたしは、「狂人でない人」すなわち「健全な人」と
いうのは、「自分の信条を訂正する準備ができて」おり、「出来事の圧力のも
とで、ほかの人が支持する意見の圧力のもとで、批判的討論の圧力のもとで自
分の見解を訂正する準備ができている」[*1]人をいうと理解しています。

 で、そうでないような人は「狂人」だと理解しています。

 《日蓮が依拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今では
もう通用しないものが少なからずある》ということを素直に認めることができ
ない方がもしおられるとすれば、そういう方は、上の考えにあてはめれば「狂
人」ということになるのではないでしょうか。

> 「沈黙は「敗北」」

 「論争における勝利にはなんの価値もな」いという観点[*2]からいえば、べ
つに「敗北」したって全然かまわないわけですが、自らを「対話主義者」とい
っている人が「沈黙」するということは、それは「敗北」というよりもむしろ
「逃亡」ということになるのではないでしょうか[*3]。

 「格闘技」の例でいいますと、正々堂々と戦い、自ら磨き上げた技を出し尽
くして、それでも「敗北」した者を観客が笑ったりするでしょうか。おそらく
はしないでしょう。それなのに、「逃亡」する人というのは、なぜ逃亡するの
でしょう。自ら技を磨きもせずにリングにあがってしまったことがバレるのが
恥ずかしいからなのでしょうか。そもそも、そういう人は、いったい何のため
にリングにあがるのでしょう。


  [*1] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
     http://fallibilism.web.fc2.com/112.html
  
  [*2] 論争における勝利にはなんの価値もない(カー ル・ポパー)
     http://fallibilism.web.fc2.com/110.html

  [*3] 議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎな い(小河原誠) 
     http://fallibilism.web.fc2.com/017.html

Posted by Libra at 2006年07月06日 02:01


 上でいうような意味での「狂人」というのは、そうそう実在するものではな
いと思います。

 Leo さんは、「私は現役時代は気の狂った人だったように思います」とおっ
しゃられていますが、わたしはそうはおもいません。

  ─────────────────────────────────
   繰り返しになりますが、わたしは、「合理性とは、自分の 信念を批判的
  に論じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂 正する準備が
  できていること」だと考えています。ですから、わたしがい うところの
  「合理性の放棄」とは、《批判的討論に照らして自分の信念 を訂正するこ
  との拒否》という程の意味です。

   おそらく、わめさんがいわれている「盲信」というのは、 わたしがいう
  ところの「合理性の放棄」とほとんど同じことをさしている のではないで
  しょうか。ちがってたらご指摘ください。

   〔中略〕

   わたしの友人である Leo さんも、かつては学会教学を信じておられま
  した。では、学会教学を信じておられた時には、Leo さんは盲信者だった
  のかというとそうではありません。学会教学を信じておられ たその時に、
  「批判的討論に照らして自分の信念を訂正」されたわけです から、Leo さ
  んは一貫して盲信者ではなかったということです。

  (■ 客観的事実と信仰03、2005-09-25 23:40:29、
     http://fallibilism.web.fc2.com/bloglog3_002.html
   ─────────────────────────────────

 みれいさんが「かなりの狂人だった」というのも、わたしにはとても信じら
れないことです。

Posted by Libra at 2006年07月06日 22:44


 みれいさん、おはこんばんちは。

 創価学会でも「縁起」という言葉は使われていますが、その内容は「宇宙生
命論」の場合が多く、本来の「縁起」とは異なるとおもいます[*1]。しかし、
友岡さんの本[*2]を読まれている方などは正確に理解されているとおもいます。

 梅原猛さんのお考えは「宇宙生命論」に近いとおもいます。

  ─────────────────────────────────
  私が強調したいことは、根源≠フ思想〔中略〕「如来蔵思 想」というも
  のが洋の東西をとわず古代社会の最古(?)の段階に共通に 認められると
  いうことだ。それは、何故か。万物は一から生じ一へ帰 る≠ニ考えるほ
  ど、古代人にとって単純で分りやすい思想はなかったから だ。この様に考
  えると、誤解を招くことを承知の上で、次の様に言うべきか と思う。つま
  り、如来蔵思想〔中略〕とは、土着思想≠フ哲学化であ り、民俗宗教
  の思想化であったと。ミレトス派の一元論哲学は、生命をも つ始源が万物
  に展開するという点で、アニミズム(物活論)と呼ばれるそ うだが、如来
  蔵思想とアニミズムの関係にも注意しなければならない。 「山川草木悉皆
  成仏」を人は仏教の極致というが、これがアニミズムでない 保証がどこに
  あろう。ところで、現代ほどアニミズムが讃美されている時 代はない。た
  とえば、ある学会で、「日本人の宗教意識の基層はアニミズ ムであり祖
  先崇拝≠ナある」といえば、この言葉は殆んど無限定な真理 というひびき
  をもつだろう。これに、「仏教は、日本人の古来からの不変 の宗教的心性
  に何らの影響を及ぼしていない」という主張を付加すれば、 私はこれを
  民俗仏教論≠ニ呼ぶ。この民俗仏教論と如来蔵思想は、決 して無縁では
  ない。両者は土着思想の思想化であって、私はこの両者の典 型的結合を、
  梅原猛氏の日本学≠フ中に認める。氏の日本学ほど、如来 蔵思想と民俗
  仏教論(または民俗宗教論)を見事に結合したものは、他に 類がない。氏
  は仏教を説いているのではなく、如来蔵思想を説いている。 そして氏が、
  如来蔵思想と日本民俗宗教を同時に唱導することに、何らの 矛盾もない。
  むしろ論理的一貫性があるのだ。如来蔵思想とは、土着思想 の哲学化であ
  るし、それ自身、全く融和的世界観だからだ。梅原氏が、 「山川草木悉皆
  成仏」と「和を以って貴しと為す」とに如来蔵思想の典型を 見出している
  ことに、全然誤りはない。仏教が日本に入ったとき、実際に 混乱が生じた
  が、如来蔵思想ならば、その心配もないという訳だ。なお最 後に一言して
  おきたいが、私が土着思想≠フ語を用いたのを教理学 者≠フ差別意識
  や無知を示すものと考えないで頂きたい。辞書を引いてもら えば分るが、
  土着=inative)という語自身に、何ら差別的意味 はない。

  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、 1989年、79-81、
    http://fallibilism.web.fc2.com/071.html
   ─────────────────────────────────

  [*1] 宇宙生命論は仏教ではない(Libra)
     http://fallibilism.web.fc2.com/z001.html

  [*2] ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
     http://fallibilism.web.fc2.com/080.html

Posted by Libra at 2006年07月08日 09:09


 Leo さん、おはこんばんちは。

 拙文【「五重の相対」の問題について】は、「批判」というよりは、むしろ、
「再構築」だとおもいます。現代でも通用する根拠にもとづいて「五重の相対」
の結論を擁護したといっても過言ではないでしょう。

 そういう観点からすれば、むしろ、学会員さんから肯定的な反応があっても
よさそうにおもいますが、実際には「学会員さんの反応がない」わけですね。
その理由は、おそらく、たくさんあるのでしょう。わたしが思い付く限りで、
以下にあげてみることにします。

1.文章に魅力がない

 ひとつは、単純に、「文章に魅力がない」のではないでしょうか。文献の引
用が多いというのもおそらくその原因のひとつなのでしょう。

 反応するためには、まず拙文を読む必要があるわけですが、学会員さんにか
ぎらず、魅力のない拙文をあえて読もうと努力する人は、そうはおられないの
ではないでしょうか。

2.伝統的な大石寺教学のままで問題がないと思っている学会員さんが多い

 もうひとつは、「伝統的な大石寺教学の齟齬が至るところで露見」している
という認識をもたれている学会員さんが、実際はそう多くないということがあ
るのではないでしょうか。

 たとえば、魯の人さんのように、「新しい日蓮教学の確立が強く模索されて
いる」とか、「より説得力のある、普遍的な教義体系を確立していく必要があ
る」とか、そういった問題意識をもっておられる学会員さんは、まだそれほど
多くはないという現実があるのではないでしょうか。

  ─────────────────────────────────
   ところで現在、伝統的な大石寺教学の齟齬が至るところで 露見していま
  す。もちろん、それで私たちの信仰がいささかたりとも揺ら ぐことはあり
  ませんでした。むしろ信心の面から言うならば、ますます意 気軒昂ではあ
  ります。なぜならば、日蓮大聖人直結、御本尊直結、御書直 結の姿勢があ
  る限り、何ら恐れることが無いからです。

   しかし、広宣流布という運動をさらに広く、深く進めてい くためには、
  新しい日蓮教学の確立が強く模索されていることは事実で しょう。より開
  かれた、より説得力のある、普遍的な教義体系を確立してい く必要がある
  と思います。それはとてつもない大事業であるとも思いま す。

  (魯の人「「法華経の智慧」を学ぼう」、2001 年2月、
    http://www.ginpa.com/column/20010227.html
   ─────────────────────────────────

3.「Libraは放置プレイでOK」という共通認識が存在!?

 「あの Libra がどこで何を書こうとも、そんなものは観念の遊戯にすぎない
わけだし、そんなことで創価学会はまったくビクともしないのだから、あんな
のを真面目に相手にするのは馬鹿らしいし時間の無駄である」という、ある意
味、常識的ともいえる共通認識が形成されているということも、もしかしたら
あるのかもしれません。しかし、これは過大評価でしょう。そこまで意識され
ているとすれば、それはそれで大したものだとおもいますので。

Posted by Libra at 2006年07月11日 00:38


 Leo さん、おはこんばんちは。

1.板曼荼羅の作者なんてどうでもよいのでは?
 「板曼荼羅は誰が作ったのか?」というようなことに、わたしは全く感心が
ありません。というのも、そもそも、《曼荼羅に優劣がある》というような考
えじたいをナンセンスだとわたしはおもうからです[*1]。

2.二箇相承の作者なんてどうでもよいのでは?
 「二箇相承は誰が作ったのか?」というようなことにも、わたしは全く興味
がありません。そもそも、《何らかの権威によって自己の立場や主張を正当化
することができる》というような考えじたいをナンセンスだとおもうからです。

3.自己批判的な態度は「信仰次元」においてこそ必要なのでは?
 自己批判的な態度というのは、「学問次元」だけではなく、むしろ「信仰次
元」においてこそ必要だとわたしはおもいます[*2]。
  
  [*1]  スレッド「ご本尊って紙でしょ?」より
      http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html
      
  [*2]  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲 昭)
      http://fallibilism.web.fc2.com/003.html

Posted by Libra at 2006年07月12日 00:37


 みれいさん、おはこんばんちは。

 みれいさんが指摘された「4・よくわからない。」というのがまさにピタリ
賞なのかもしれませんね。

 わたしの発言に対して「わけわかめ」というリアクションをとる人というの
は、少なくとも、わたしの発言を理解しようと努力した人だということでしょ
う。理解しようと努力したにもかかわらず、理解できなかったということは、
わたしの説明に足りないところがあったということだとおもいます。

Posted by Libra at 2006年07月12日 01:11


 みれいさん、おはこんばんちは。

1.検索機能について
 以前は、検索機能もあったのですが、今のサーバーでは無理だとおもいます。
おそらく、cgi を置くことができないからです。本格的にネットに復帰する際
には別サーバにて導入できるよう努力したいとおもいます。

2.三徳について
 日蓮は自らを三徳者だといいます。これは、要するに、《日蓮は「法華経を
心得る者」である》という確信をえたということです。日蓮は「法華経を心得
る者」であるから、三徳者である釈尊と斉等であるというわけです。

  ─────────────────────────────────
  経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と 斉等なりと申
  す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の 身なり誰か是
  を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師 子王の子は師
  子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経の行者は其 中衆生悉是吾
  子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とな らん事難かる
  べからず

  (「日妙聖人御書」、全集、p. 1216)
   ─────────────────────────────────

 日蓮の主張に従えば、「法華経を心得る者」はみんな三徳をそなえるという
ことになります。

Posted by Libra at 2006年07月12日 22:27



 ナウシカさん、おはこんばんちは。

 「Release Heart」を拝見いたしました。

 シャカは「善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」[*]
といっています。ナウシカさんのような方は、この言葉の意味を深く理解され
ているのだろうなと感じました。

 またいろいろと教えてください。これからもよろしくお願いします。


  [*]  「われを善き友として」(増谷文雄) 
     http://fallibilism.web.fc2.com/012.html

Posted by Libra at 2006年07月12日 22:50


 みれいさん、おはこんばんちは。

 「仏教とは縁起説である」というテーゼが正しいとすれば、仏教が「絶対者」
という意味での「神」の存在を認めるということはないはずです。「神」は縁
起的存在ではないでしょうから。

 しかし、実際には、みれいさんがおっしゃるような「一神教的な仏教」なる
ものが発生してしまいました。たとえば、「タントラ仏教」[*]などです。創
価学会の「宇宙生命論」も構造的には同じだとおもいます。

  [*] タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子) 
    http://fallibilism.web.fc2.com/022.html

Posted by Libra at 2006年07月14日 01:09


 Leo さん、おはこんばんちは。

> 1) 日蓮聖人は〔中略〕天台宗の見解を出発点として法華経を広めようとされた。

 日蓮の出発点は、まずは「仏説」だとおもいます。

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  本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずい づれも仏説に
  証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等にはよ るべからず専
  ら経文を詮とせん、又法門によりては設い王のせめなりとも はばかるべか
  らず何に況や其の已下の人をや、父母師兄等の教訓なりとも 用ゆべからず、
  人の信不信はしらずありのままに申すべしと誓状を立てしゆ へに

  (「破良観等御書」、全集、p. 1293)
   ─────────────────────────────────

 そして、「仏説」を検討した結果、チギの評価を概ね妥当であると判断した
のだとおもいます。「天台宗」というと、チギの思想と矛盾するチギ以降のい
ろいろな思想まで含まれることがありますので注意が必要だとおもいます。

> 2) 法華経は〔中略〕本来の仏教の精神をよく伝えている。

 わたしはそのようにおもいますが、くまりんさんのように、わたしとは正反
対の評価をされる方ももちろんおられます。

> 3) 現代は〔中略〕天台宗の見解(特に五時八教)は妥当とみなされない。

 思想の中身の評価としては、チギの評価はおおむね妥当なのではないでしょ
うか。

> 4) 〔中略〕現代で可能な限り釈迦の仏教(本来の仏教)を学ぶ必要がある。

 現代においては、まず、《出発点とすべき「仏説」をどのように選択するか》
という問題[*1]からはじめる必要があるとおもいます。ちなみに、あの「寸鉄」
も、「釈尊に還れ」[*2]と書いています。

> 5) 日蓮聖人を完全な絶対者のようにみなすのは〔中略〕日蓮聖人の精神を
> ないがしろにしている。

 「人間・日蓮」を忘れたら、「仏教の堕落であり、権威化」ではないでしょう
か。この点では、池田名誉会長の以下のお考えは全く正しいとおもいます。
 
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  名誉会長 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き 方」から離れ
   てしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏 教の堕落であ
   り、権威化です。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、 1998年、p. 49)
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  斉藤 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大 日如来を崇め
   る真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母 として、どの
   ような国に出現して大日経をお説きになったのか」(御書 一三五五n、
   趣意)と破折されています。

  (同上、pp. 68-69)
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 註

  [*1]  仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
      http://fallibilism.web.fc2.com/082.html

  [*2]  大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄) 
      http://fallibilism.web.fc2.com/067.html
      
Posted by Libra at 2006年07月14日 02:09

2006.09.03

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