■ 釈迦が肯定する信仰



1.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(1)

 わめさん、おはこんばんちは。

 にっし〜さんのところで予定外にがんばってしまいましたので、
もうほとんど時間を使い果たしてしまいました。しかし、少しだけ
コメントしておきます。

> 釈尊は、「当時の諸宗教に対する人々の信仰態度」を否定し、そ
> のような信仰態度で仏教に臨むことをも否定されたと解釈するの
> が妥当なのではないでしょうか。

 「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈を確認さ
れてください。この文句は『パーリ律蔵』「大品」にでてくるもの
としてとても有名です。『律蔵』「大品」の和訳はさがせば入手で
きるはずですから、どうか、文脈をご確認ください。

 佐倉さんが引用されているのはスッタニパータ第1146でしょう。
この句が埋め込まれている文脈を簡単に確認してみましょう。さい
わいなことに、全文がアップされています。

  第五 彼岸に至る道の章
  http://www006.upp.so-net.ne.jp/fransoie/zuian/kotoba05.htm

Posted by Libra at 2006年08月07日 14:45

 
2.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(2)

 中村先生は、第1146をシャカの発言であるかのように訳されてい
ますが、これは誤訳でしょう。この句はあきらかにヴァッカリ自身
の言葉です。なぜなら、シャカはその場にいないからです。

 この場面は、ピンギヤがヴァッカリのところに戻ってきて、ヴァ
ッカリとやりとりしている場面です。「ピンギヤよ。」とあります
ので、ピンギヤの発言ではありえません。したがって、ヴァッカリ
の発言であることはまちがいありません。

 シャカがその場にいないことは、ピンギヤの以下の発言から明ら
かでしょう。

  「わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わ
   が身はかしこにおもむくことはできません。しかし想いを 馳
   せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心 は、
   かれと結びついているのです。」(第1144)

 ピンギヤのこの発言は、シャカの言葉でいえば、「法を見る者は、
われを見る」ということです。

  「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄) 
  http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

 法華経のような大乗経典であれば、シャカはいくらでも時空を超
えてやってきてくれるわけですが、スッタニパータのシャカにそれ
をさせてしまうような解釈というのはやはり無理な解釈というべき
でしょう。

 中村先生は、第1146の表現が、よく知られているシャカの言葉と
同じであったため、はやとちりされたのでしょう。

Posted by Libra at 2006年08月07日 14:49


3.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(3)

 ヴァッカリはピンギヤからシャカの教説を伝え聞いた結果、シャ
カが従来の宗教を否定したこと(第1080)の妥当性を認め、自らも
従来の考えを捨てて、弟子のピンギヤが従来の考えを捨てることを
承認したわけです。それが第1146の意味です。

 第1146には「バドラーヴダが信仰を捨て去ったように」というこ
ともいわれていますが、これは、おそらく、第1102が、「シャカの
教えに聞きにくる人は、シャカの言葉を聞いて、シャカの見解に納
得し、従来の考えを改めて帰っていく」ということを意味する句で
あることを示唆しています。

 ピンギヤは、第1146のヴァッカリの言葉をうけて、「わたくしは
聖者のおことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようにな
りました。」(第1147)といっていますが、ここでいわれている
「聖者」というのはヴァッカリのことでしょう。

 第1147の「心が澄む」の原語はサンスクリットでいうところの
「プラサーダ」ですが、この語は「信仰」と訳しても全く問題がな
いとおもいます。

 ピンギヤは、第1143において「信仰〔中略〕が、わたくしを、ゴ
ータマの教えから離れさせません。」といっていますが、ここで
「信仰」と訳されている原語もおそらく「プラサーダ」でしょう。

 第1147〜第1149のピンギヤの発言を見れば、ピンギヤがシャカを
「信じうやま」(goo辞書の第2義)っている、すなわち「信仰」
しているといっても全くおかしくはないとわたしはおもいます。

 そもそも第1146はシャカの言葉ですらないし、ましてや、わめさ
んのおっしゃるような意味で発せられたものではないということは
明らかだとわたしはおもいます。

 シャカ自身の「信仰を捨て去れ」という言葉については、『律蔵』
「大品」を読まれて判断されてください。

Posted by Libra at 2006年08月07日 14:51


4.仏教徒が「信」といっている態度の性質に関する議論

 「信仰を捨て去れ」という文句の解釈の問題とは切り離して、仏
教徒が「信」といっている態度の性質をあきらかにし、それが、仏
教に無知な現代日本人が「信仰」という語に接した時に最初に抱く
イメージ(goo辞書の第1義)とは異質であるという議論をされた
いのであれば、されてもよいとおもいます。しかし、それは、日本
語の問題でしょう。シャカ自身の「信仰を捨て去れ」という文句と
は関係がありません。上記の異質性を強調するために、「信仰を捨
て去れ」という文句を持ち出すのはあきらかに誤りだとおもいます。

 「思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否定」する仏
教の「信」の性質をあきらかにするためには、「信仰を捨て去れ」
という文句ではなく、以下の資料で引用されているシャカの言葉を
引用されるべきだろうとおもいます。

  ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

 日蓮の言葉でいうなら、「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨
てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御
返事」、全集、pp.1055 -1056)などが対応するのではないでしょ
うか。また、日蓮の場合には、理証と現証が信仰の条件となってい
ます。

5.前回の議論を再読されてください

 上記のことをふまえたうえで、前回の議論を読み直されることを
お勧めいたします。わたしがそこで何を語っていたかがご理解いた
だけるだろうとおもいます。それでも腑に落ちないようでしたら、
また次回ということで。


                          以上

Posted by Libra at 2006年08月07日 15:00


6.補足

 ひとつ言い忘れていました。以下は、「思想(宗教)の再選択
(当時の諸宗教から仏教へ)を宣揚する言葉」だとおもいます。

  「たとえば鳥が疎(まばら)な林を捨てて果実豊かな林に住
   みつくように、そのようにわたくしもまた見ることの少な
   い人々を捨てて、白鳥のように大海に到達しました。」
  (第1134)

                      本当に以上

Posted by Libra at 2006年08月07日 15:04


 わめさん、おはこんばんちは。

 『パーリ律蔵』「大品」を読まれて、ご自分の頭でじっくりとお
考えください。

 さきに提示した、スッタニパータ第1146についてのわたしの解釈
が正しいとすれば、佐倉さんは、スッタニパータ第1146を文脈を読
まずに(理解できずに)引用していることになります。

  ブッダと大川隆法
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul01.html

  仏教における「魂」と「神」
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul01.html

  「わたしの『法華経』概論」
  http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html

 「梵天勧請」の「信仰を捨てよ」を佐倉さんのように解釈するの
も同様に誤りだと思います(『パーリ律蔵』「大品」参照)。

 他はいちいち確認しませんが、文脈を無視して引用している可能
性がないとはいえなさそうだという印象を持ちます。

 もっとも、「思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否
定」する仏教の「信」の性質をあきらかにするために、「マッジマ・
ニカーヤ22」を引用するのは妥当でしょう。

 では、がんばってください。

Posted by Libra at 2006年08月07日 20:35


 みなさん、おはこんばんちは。

 ゆっくりと議論する時間はありません。詳細については、以前の
議論を参照していただければさいわいです(以下に書くことは、以
前の議論の焼き直しにすぎません)。

 わめさんがこだわっておられる問題のうち、多くの部分は言葉の
問題でしょう。すなわち、仏教に無知な現代日本人が「信仰」とい
う語に接した時に最初に抱くイメージと仏教徒がいうところの「信」
とは異質であるということでしょう。これはシャカの思想の問題で
はなく、言葉(現代日本語)の問題だとおもいます。

 仏教徒が仏教に無知な現代日本人にあわせて「信仰」という用語
を使うのをやめたりする必要はないとおもいます(仏教徒がいうと
ころの「信」の性質について説明すれば足りるとおもいます)。そ
んなことをすれば、経典の文句やこれまでの仏教徒の発言が正しく
理解されなくなるおそれがあるとおもいます。

 シャカの思想の問題についてはすでに議論はつくされたとおもい
ますが、以下に補足しておきます。

1.第1143の「信仰」(中村訳)の原語は「サッダー」

 パーリの原文で確認しましたところ、第1143の「信仰」(中村訳)
の原語は「サッダー」でした。

Posted by Libra at 2006年08月16日 15:59


2.第1146の発言者は誰か?

 第1146には「アーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように」
とあります。「アーラヴィ」とは地名です[*01]。シャカが自らの
名前に地名を冠して上のように言ったというのは考えにくいとおも
います。

  [*01] 中村元訳『ブッダのことば』〔岩波文庫〕、岩波書 店、
      1984年、p. 293。

3.「信仰を捨て去れ」(「大品」など)

 「信仰を捨て去れ」という有名な文句を佐倉さんのように解釈で
きると考えている学者はまずいないでしょう。この句が埋め込まれ
ている文脈はかなりはっきりしています。

 中村先生も「ヴェーダ以来の祭祀・教学に対する信仰を捨てよ、
というのである」[*02]とか「恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗
教の教条(ドグマ)に対する信仰を捨てよ、という意味なのであろ
う」[*03]と解釈され、実際、「(おのが)信仰を捨てよ」と訳され
ています[*04]。

 佐倉さんがよく引用されている増谷文雄先生の訳でも「ふるき信
を去れ」[*05]となっています。

 シャカは「縁起説は誰にでも理解できる」などとは考えていませ
んでした。これは説法躊躇と梵天勧請の話を読めば明らかです。

 最初にシャカの考えを理解したのはコーンダンニャだといわれて
いますが、コーンダンニャがシャカの考えを理解したときのシャカ
の喜びよう[*06]を見ても、シャカが「縁起説は誰にでも理解でき
る」とは考えていなかったことが読み取れます。

  [*02] 前掲中村訳註、p. 294。

  [*03] 同上、p. 431。

  [*04] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha262.html

  [*05] 同上。

  [*06] ブッダの不動の確信は最初の説法に成功した時 に成った(増谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/103.html

Posted by Libra at 2006年08月16日 16:02


4.「サッダー」とは?

 「サッダー」とは「教えに対する信頼を意味する」[*07]言葉で
す。

 中村先生は「最初期の仏教は〈信仰〉〔中略〕なるものを説かな
かった」[*08]といわれます。最初期の仏教は「教えに対する信頼」
を説かなかったというご主張です。その根拠として、仏教には「信
ずべき教義もなかった」[*09]といわれています。

 しかし、「仏教には特定の教義が無い」[*10]という中村説は松
本先生の批判に耐えていないとおもいます。

 そもそも、スッタニパータ第1147〜第1149を読んで「教えに対す
る信頼」が説かれていないなどとどうして言えるのか、わたしには
さっぱり理解できません。

  [*07] 前掲中村訳註、p. 294。

  [*08] 同上、p. 431。

  [*09] 同上。

  [*10] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/082.html

5.批判的態度の前にドグマが先行する

 「無立場の立場」という中村説[*11]に汚染されないように注意
すべきだとおもいます。

 ポパーの「牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出す
る自由」[*12]という発言を思い出してほしいところです、

  ────────────────────────────
  ポパーにとっては、ドグマこそ世界を探求し、新しい創造を お
  こなうための不可欠の手がかり、出発点である。そして、ド グ
  マからの意図的な、あるいは意図せざる逸脱が新しい秩序を も
  たらすのである。
   〔中略〕われわれは足場としてのドグマ──ニュートン理 論
  でさえ、まさにポパーがアインシュタイン革命をつうじて根 底
  から自覚させられたようにドグマにすぎなかった──なしに は
  なにひとつ始めることさえできない。とはいえ、われわれは 自
  らのドグマに対して批判的態度をとることができるのであ り、
  ドグマによって強いられた失敗をつうじて、また果敢な新し い
  試みをつうじてドグマ(理論)を改善していくことができ る。
  いずれにしても批判的態度の前にドグマが先行する。

  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』、講談社、1997 年、
    pp. 37-38。)
   ────────────────────────────

  [*11] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/082.html

  [*12] フレームワークの神話(カール・ポパー)
     http://fallibilism.web.fc2.com/111.htmll

Posted by Libra at 2006年08月16日 16:05


6.「宗教的時間」(松本先生)とは?

 わたしは、松本先生がおっしゃるように、「縁起説は革命的なも
の」であり、「仏教≠ェ主張する無我≠ルど常識に反した奇妙
な考え方もない」とおもっています[*13]。

 「法は確固不変なるものではなく、反対に実に不安定な中ぶらり
んな危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこにもな
い。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ
存在しているのだ」(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、
大蔵出版、1989年、p. 27)という説(無我説)は革命的だとおもい
ます。

 縁起説を表面的に理解するだけでよいのなら、常識に反しないの
かもしれません。しかし、それを「自分の事として腹に落ちて納得」
(曽我さん)するというのは、その人の人生観が根本からひっくり
返るような大事件だとおもいます。「無常=無我=縁起を自分の事と
して腹に落ちて納得」できる時間を、松本先生は「宗教的時間」[*14]
と表現されていますが、そこまでいってはじめて「無明を破る」こ
とになるのだとおもいます。

  ────────────────────────────
  しかし、勿論、ただ合理的理性を突き詰めるだけで理解でき る
  ものでもない。それはちょうど、万人の死が一般的事実とし て
  いかに明白でも、今自分が現に死につつあること〔中略〕を く
  っきりと実感することが難しいのと同じである。合理的理解 に
  加えて、無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得 する。
  そこまでの深みのある理解によってはじめて、無明は破ら れ、
  執着の反応は停止し、苦の生産は止まり、涅槃に生きること が
  可能になる。

  (曽我逸郎「…現時点の私の仏教理解の総括…」、
    http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html
   ────────────────────────────

 縁起説によって人生観を根本からひっくり返されて見事に無明を
破った人が、自らが抱く「縁起説(シャカの教義)に対する信頼」
を「信仰(サッダー)」と表現したとしてもわたしには全く違和感
はありません。そういう意味においては、シャカ自身が縁起説を信
仰していたとおもいます(スッタニパータ第184などを参照)。

  [*13] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗) 
     http://fallibilism.web.fc2.com/082.html
     
  [*14] 学問と礼節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的 時間(松本史朗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/068.html
  
7.『法華経』における縁起と空

 『法華経』で言われる「信」というのも「無我説に対する信頼」
だとおもいます。

  『法華経』における縁起と空
  http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

                        以上

Posted by Libra at 2006年08月16日 16:09


みなさん、おはこんばんちは。

 曽我さんがいわれている「無常=無我=縁起を自分の事として腹に
落ちて納得」というのは、いわゆる「変性意識体験」とは正反対の
現象でしょう。これは、曽我さんのサイトで「変性意識体験」で検
索をかけてみればお分かりになるでしょう。松本先生がいわれてい
る「宗教的時間」も同様です(松本先生のご説明から明らかでしょ
う)。

 今回わめさんが引用されたブッダゴーサの解釈は、わたし自身が
以前の議論で引用しました。もっとも、ブッダゴーサがシャカの教
義を信頼(信仰)していることは明らかだとおもいますが。

  ────────────────────────────
   仏教的信仰とは、ブッダゴーサの言葉を借りれば、「自分 の
  確かめたことだけを信ずる」[*9]ということなのだろう とわた
  しはおもいます。すなわち、シャカの教えを自分で確かめて み
  て(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないものとして説」 [*10]
  かれているとしか思えない時に生じるのが、仏教的信仰なの だ
  ろうとわたしはおもいます。だからこそ、仏教においては、
  《教えは「反駁し得ないものとして説」かれなければならな い》
  などということが強調されているのではないでしょうか。

   もし仏教的信仰が上のようなものであるとすれば、それ は、
  牧口常三郎の考え[*11]にもつながるし、三証 [*12]を強調する
  日蓮の立場ともつながるとおもいます。

  (93 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:01:15、
    http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html
  ───────────────────────────

 もし本当に「縁起説は誰にでも理解できる」のであれば、インド
における仏教の敗北というのは一体何だったのかということになり
ませんか?

 あとは同じところをぐるぐる回りそうなので、このへんでおしま

いにします。 Posted by Libra at 2006年08月16日 22:55


わめさん、おはこんばんちは。

 ブッダゴーサは「ブッダはいかなる意味においても信頼を否定し
ている」などとはいっていないでしょう。「自分の確かめたことだ
けを信ずる」というわけですから。この「信ずる」は「信頼する」
ということでしょう?

 たしかに、第853はある種の「信頼」の態様を否定しているわけ
です。そこで否定されているのは「権威者への服従」という形態で
の「信頼」であるというのがブッダゴーサの解釈でしょう。

  ────────────────────────────
  肯定すべき「信」について述べているところでも、否定すべ き
  「信」について述べているところでも、初期経典では同じ 「サ
  ッダー」という言葉がつかわれているということをわたしは 示
  しました。

  (102 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 05:25:04、
    http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html
   ────────────────────────────

   ────────────────────────────
   初期経典において、ちがう意味の信仰を、同じ「サッ ダー」
  という言葉で表現しているのは、「サッダー」と言う言葉 が、
  意味の違うそれぞれの信仰を含みうるより広い意味の言葉だ か
  らでしょう。

   初期経典は、シャカの言葉をすべてもれなく記録したもの で
  はありません。実際に話されたさいには、どちらの意味で 「サ
  ッダー」と言う言葉を使っているのかが文脈から明らかでな い
  場合には、とうぜん説明されたでしょうし、文脈から明らか な
  場合には説明はなかったでしょう。

  (117 名前: Libra 投稿日: 2006/02/01(水) 04:02:51、
    http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html
   ────────────────────────────

 シャカが「思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否定」
しているというのは正しいでしょう。

 しかし、《シャカは「教えに対する信頼」をあらゆる意味におい
て否定している》というのは正しくありません。むしろ、シャカは、
盲信的でない信仰態度を肯定しています。

 中村先生は『ダンマパダ』第333に付された註において、以下の
ようにいわれています。

  ────────────────────────────
   信仰――saddhA. 漢訳『法句経』に「信レ正」とあるように、
  正しいことを信ずるのである。これが仏教における「信」の 特
  質である。

  (中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、
     岩波書店、1978年、p.133)
   ────────────────────────────

 このような仏教における「信」の性質をあきらかにするためには、
「信仰を捨て去れ」という文句などではなく、以下の資料で引用さ
れているシャカの言葉を引用すべきだとおもいます。

  ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

 文脈を無視した切り文を用いて、《シャカは「教えに対する信頼
(信仰)」をあらゆる意味において否定している》などと宣伝され
るのはシャカにとっても迷惑な話でしょう。

 仏教徒でないわめさんはご存知ないのでしょうが、仏教徒は、
「盲信的でない信仰態度」を「サッダー(信頼、信仰)」といって
きたし、いまもいっているのです。

 もっとも、過去のわめさんは、「盲信的信仰態度」を仏教の「信」
と勘違いしておられたようですが、それはもともと仏教の「信」な
どではなかったのです。わめさんは、過去も仏教徒ではなかったし、
現在もそうではないのです。

 わめさんはこれからもぐるぐると同じところを回られるのかもし
れませんが、少なくともわたしはもうおつきあいしかねます(汗)。
わたしはもう十分おつきあいしたとおもいます。

 わめさんとごいっしょにぐるぐると同じところを回られたい方ば
かりではないとおもいますので、そのような方のために、以下のU
RLを提示しておきたいとおもいます。

  日蓮考察(No.91〜)
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html

Posted by Libra at 2006年08月17日 15:43

2006.08.20

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