客観的事実の意味 (Libra) | 2005-09-24 21:33:49 |
挙げられた具体例から推測すると、わめさんが言われる「客観的事実」
とい うのは、《いまのところ反証の試みが底をついており、暫定的に受け容れられ ている理論》[*1]ということなのかなと思いました。ちがってたらご指摘くだ さい。 「客観的事実」という表現からは、もう一つ、「真である言明」というよう な意味も思い浮かびます。「真である言明」(まぎらわしいので、以下、「真 理」と書きます)というのは、「実在と一致(対応)する言明」というような 意味です。ある言明が真であるか否か(実在と一致するか否か)を有限の手続 きで判定することはできません。そういう意味では、われわれは真理を所有す ることはできません。しかし、われわれは、真理を推測することができます。 推測に含まれる誤りを除去していくことによって、真理に接近することが可能 です[*2]。 [*1] ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一) http://fallibilism.web.fc2.com/114.html [*2] 「仏教の源流から」スレッド 主な発言 その1〜8、付録1〜3 http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog2_001.html |
言葉の持つ神秘性? (Libra) | 2005-09-25 05:09:00 |
1.「実在と一致(対応)する言明」(Libra)について まず、「実在と一致(対応)する言明」ということについて補足説明してお きたいと思います。 「実在と一致(対応)する言明」が「真である言明」であるという考えは 「対応説」とよばれています。わたしはこの説を支持しています。 ここでいう「実在」というのは、言明が記述しようとしている対象のことで、 いってみれば、わたしたちが住んでいる現実のこの世界のことです。 要するに、《ある言明が現実の世界と対応するとき、その言明は真である》 と考えるのが対応説です(ものすごく素朴な考えかたです)。たとえば、今、 ある言明Aがあるとします。もし、わたしたちが住んでいるこの現実の世界が、 無数にありえる可能世界のうち、たまたま、言明Aに対応するものであったと きには、言明Aは真となります。逆に、この現実の世界が言明Aに対応するも のでないときには言明Aは偽となります。このように考えると、この現実の世 界が、無数にありえる可能世界のうちのある特定のただ一つのものである限り、 言明の真偽は客観的にきまるといえます。 しかしながら、「言明の真偽は客観的にきまる」ということと「言明の真偽 を判定しうる」ということは異なります。わたしたちは、ある言明が与えられ たときに、その言明が真であるか否かを有限の手続きで確かめることはできま せん。われわれは、われわれが所有するいかなる言明についても、それがたし かに「実在と一致する言明」であると確認する手段をもっていません。われわ れは真理を所有することはできないのです。 わたしたちにできるのは、批判的検討の結果、批判に耐えているとして、真 理であるかもしれないものとして、暫定的に言明を受け容れる(あるいはその 逆)という営みです。批判に耐えることのできた命題が当面生き残っていきま すが、それもまた、新しい批判によって淘汰されていきます。 2.「言葉の持つ神秘性」(わめさん)について わたしは、「合理性とは、自分の信念を批判的に論じ、ほかの人との批判的 討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができていること」[*1]だと考えて います。「自分の信念を批判的に論じ」るためには言葉が必要です。 わめさんは「言葉の持つ神秘性」をあやぶまれているようですが、わたしは 正反対の考えを持っています。言葉を軽んじる「体験主義」[*2]の「知的な反 省や議論に対してそれをあまり重んじないという傾向」[*3]がいろんな問題を ひきおこしているように思います。 [*1] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー) http://fallibilism.web.fc2.com/112.html [*2] 「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭) http://fallibilism.web.fc2.com/003.html [*3] 「自立」を抑制する要素(島薗進) http://fallibilism.web.fc2.com/043.html |
「合理性の放棄」の問題 (Libra) | 2005-09-25 18:24:22 |
1.「客観的事実」(わめさん)の2つの意味 わめさんが言われる「客観的事実」の意味がまたわかんなくなってきちゃっ たので、もう一度、話を整理したいとおもいます。 これまでの議論からわたしが思い浮かべる「客観的事実」の意味は、いまの ところ、以下の2つです。 A.批判に耐えているとして、暫定的に受け容れられている言明。 B.客観的に真である言明(実在と対応する言明)。真理。 AとBは異なります。われわれは、Bは所有できませんが、Aは所有できま す。 AがBであると確かめられることは永遠にありません。いかに批判に耐えて いようとも《AがBではない可能性》はいつまでも残ります。「われわれの知 識は永遠に可謬的」[*1]なのです。 ちなみに、よくいわれる「学会員の対話能力の欠落」の原因は、《自らの理 論の可謬性に絶望的に無自覚である》ということにあるとわたしは思っていま す[*2]。 2.「言葉の持つ神秘性」(わめさん)について わめさんは Libra のような人間は稀だといわれますが、わたしはそんなこ とは決してないとおもうのです。すでに時代は「信仰的模倣時代から理性の時 代」[*3]へ移っているとおもいます。 わめさんが「言葉の持つ神秘性」という表現を使って問題にされようとして いる事というのは、言葉じたいに内在する問題というよりは、むしろ、言葉を 使ったり受けとめたりする側の問題なのかなという印象をもちます。すなわち、 「合理性の放棄」の問題なのかなと。 たとえば、我説は、アートマンは「差異の体系である言葉によっては表すこ とはできない」[*4]というようなことをいいます。言葉によって表すことがで きないということは、すなわち、《批判をうけつけない》ということです。こ れは、さきに書いた意味での「合理性」の放棄です。このような「思想的態度 表明を神秘主義と呼ぶ」[*5]という袴谷先生の主張をわたしは支持します。 このような神秘主義とは反対に、仏教では、言葉を重視します[*6]。 ポパーは「誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とす る(また彼らはわれわれを必要とする)ということ、とりわけ、異なった環境 のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されね ばならない」[*7]といいます。ポパーのこの発言は、釈尊が「善き仲間のなか にあるということが、聖なる道のすべてである」[*8]というのとかなり通じる ところがあるとおもいます。 以上で、書いておくべきことはわたしなりにだいたい書いたつもりです。 さて、わたしは、明日からまたふだんの生活にもどって別のことに集中しな ければなりません。残念ですが、ここにお邪魔するのは今日の深夜までにさせ て頂きたいとおもっています。その時点で一応の区切りがつくかどうか(汗)。 [*1] ポパーの倫理思想(小河原誠) http://fallibilism.web.fc2.com/083.html [*2] 「学会員の対話能力 」スレッド http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog2_002.html [*3] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎) http://fallibilism.web.fc2.com/024.html [*4] …現時点の私の仏教理解の総括…(曽我逸郎) http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html [*5] ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭) http://fallibilism.web.fc2.com/049.html [*6] 釈尊と龍樹はそれぞれ以下のように言っています。 ─────────────────────────────── ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱 心であれ。このわたくしの口から出る声を聞いて、自己のやすらぎを 学べ。 (スッタニパータ 1062〔中村元訳〕) ─────────────────────────────── ─────────────────────────────── 二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の 説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理 (世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。 (龍樹『根本中論偈』第二四章第八偈、三枝充悳訳『中論(下)』 〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 639) ─────────────────────────────── ─────────────────────────────── およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びと も、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。 (同上第九偈、同上、p. 639) ─────────────────────────────── ─────────────────────────────── 〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されな い。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得さ れない。 (同上第十偈、同上、p. 641) ─────────────────────────────── [*7] ポパーの倫理思想(小河原誠) http://fallibilism.web.fc2.com/083.html [*8] 「われを善き友として」(増谷文雄) http://fallibilism.web.fc2.com/012.html |
「合理性の放棄」(Libra)と「盲信」(わめさ ん) (Libra) | 2005-09-25 23:40:29 |
まず、「合理性の放棄」ということの意味について補足説明しておきた
いと 思います。 繰り返しになりますが、わたしは、「合理性とは、自分の信念を批判的に論 じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができてい ること」だと考えています。ですから、わたしがいうところの「合理性の放棄」 とは、《批判的討論に照らして自分の信念を訂正することの拒否》という程の 意味です。 おそらく、わめさんがいわれている「盲信」というのは、わたしがいうとこ ろの「合理性の放棄」とほとんど同じことをさしているのではないでしょうか。 ちがってたらご指摘ください。 「盲信」とか「合理性の放棄」というのは、言明じたいの性質についての話 ではなく、言明を受け入れている側の態度の問題だろうとおもいます。将来的 には訂正される可能性があるものとして暫定的に言明を受け入れているのか、 それとも、訂正される可能性がまったくないもの(=真理)として受け入れて いるのか、その態度の違いによって、「盲信」かそうでないかが分かれるので はないでしょうか。 たとえば、ある言明を受け入れている人が2人いたとします。ひとりは、そ の言明を暫定的に(将来的には訂正される可能性があるものとして)受け入れ ており(この人をAさんとします)、もうひとりは真理として受け入れている としましょう(この人をBさんとします)。この場合、「盲信」しているのは Bさんだけということになるでしょう。全くおなじ言明を受け入れているにも かかわらず、Aさんの態度は「盲信」ではないでしょう。わたしが、「言明じ たいの性質についての話ではなく、言明を受け入れている側の態度の問題だ」 というのはそういう意味です。 つまり、ある人が盲信者であるか否かというのは、その人が《何を》信じて いるかによって決まるのではなくて、《どのように》信じているかによって決 まるものであるとわたしはおもいます。 わたしの友人である Leo さんも、かつては学会教学を信じておられました。 では、学会教学を信じておられた時には、Leo さんは盲信者だったのかという とそうではありません。学会教学を信じておられたその時に、「批判的討論に 照らして自分の信念を訂正」されたわけですから、Leo さんは一貫して盲信者 ではなかったということです。 あと、「合理性を自ら積極的に放棄する人の意識を改革する手立て」につい てですが、もしそのような手立てがあるのなら、わたしのほうが教えてほしい です(笑)。 対話がもたらすものについて過度に楽観的な期待をすると、裏切られること がほとんどでしょう。ポパーのように、「問題をほんのわずか明晰にすること ですら──自分自身の立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けて なされたほんの些細な貢献ですら──大きな成功」であり、対話の結果、「わ れわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、真理に 少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分」だと考えておくのがよ いとおもいます。 ───────────────────────────────── 真剣で批判的な討論というのはいつにあっても困難なものである。…合理 的な、つまり批判的な討論の参加者の多くがとくに困難に感じるのは、本 能が命じているように見えること、(そして、論争的な社会ではどこでも 結果的に教えられること)つまり勝利することを忘れねばならないという ことである。学ばねばならないことは、論争における勝利にはなんの価値 もなく、他方、問題をほんのわずか明晰にすることですら──自分自身の 立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けてなされたほんの些 細な貢献ですら──大きな成功だということである。ある討論において勝 利を得ても、みずからの精神が変化したり明晰になったりすることがどう みてもほとんどないのであれば、その討論はまったくの無駄とみなすべき なのである。まさにこの理由のゆえに、みずからの立場の変更は内密にな されてはならず、その変更がつねに強調され、その帰結が探求されるべき なのである。 この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、 われわれはそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗など を目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものであ る。われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったと か、真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのであ る。 (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編 『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究 会訳〕、未來社、1998年、pp. 88-89) ───────────────────────────────── 追伸 わたし自身は参加できないとおもいますが、これまでの議論を掲示板に 転載して、みなさんで議論して頂ければ幸いです。 |
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