■ 自性・無自性について



 ますます盛り上がっているようですね。本格的に参加できないのがほんとう
に残念です。

1.仏教は輪廻転生を説く教えか否か

 「仏教は輪廻転生を説く教えか否か」については、すでにいいたいことのほ
とんどをわたしは述べたつもりです。龍樹が『因縁心論』でいうように、「輪
廻の輪は誤った分別の習気によって生じさせられたものである」[*1]とわたし
はおもいます。梶山先生は、「輪廻は夢のようなものです。夢はない、とはい
えません。悪夢に苦しんでいる人にとっては、これほど深刻な事実はないでし
ょう。しかし夢から覚めたときに、人はそれが現実でなかったことをはじめて
知るのです。それと同じように、私たちが迷いの生存を生きているかぎり、輪
廻は事実です。しかし、さとったときにはじめて、私たちは輪廻が存在しなか
ったことを知るのです」[*2]といわれていますが、わたしもそのようにおもい
ます。


2.「自性」という語の多義性について

 くまりんさんは「自性」という語を龍樹とは異なる意味で使われているよう
におもいます。例えば、自性A・自性Bとかいうように、これらを区別して論
じないと議論が混乱するようにおもいます。ちなみに、『岩波仏教辞典』では
以下のようにも解説されています。

  「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/088.html

 くまりんさんがいわれる意味での「自性」(自性A)というのは、わたしが
前にいった「概念」[*4]に相当するのかな、とちらっとおもいました。

 龍樹が「自性」という語をどのような意味でつかっているかについては、以
下の資料を参照されてください(わたしは松本先生の議論を正しいとおもうの
で、自性Bはさらに自性B1と自性B2に区別して論じたほうがよいとおもい
ます)。

  「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html
  

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html


3.「空(無自性)」という語の多義性について

 「自性」という語を異なる意味でつかわれていますので、くまりんさんと龍
樹とでは「空(無自性)」の意味も異なっているとおもいます。「ものが他に
よって存在することが空性の意味である、とわれわれはいう」[*3]というのが
龍樹の立場です。すなわち、他によって存在しないもの(=自性B)などはな
い(=無自性B)、すべては他によって存在するものである(=縁起説)とい
うのが龍樹の思想です。龍樹の空思想については、以下の資料も参照されてく
ださい。

  龍樹の空思想(新田雅章)
  http://fallibilism.web.fc2.com/123.html


4.龍樹は批判対象を正確に理解していたか?

 わたしは龍樹の空思想を支持しますが、龍樹が批判対象を正確に理解してい
たかどうかまでは追跡していません。もしかしたら、龍樹は批判対象を正確に
は理解しておらず、それゆえ、龍樹が批判対象とした思想などは実はどこにも
なかった(ただ龍樹の頭の中だけにあった)という可能性もないわけではない
でしょう。その場合には、《龍樹が批判対象とした思想》と《龍樹自身の思想》
は、客観的には(龍樹の自己解釈に反して)矛盾しないということもありえる
でしょう(だとすれば、わたしは《龍樹が批判対象とした思想》を肯定するか
もしれません)。

 そして、「龍樹を批判対象とする人の龍樹理解は正確か?」というのも全く
同じ問題だとおもいます。


  [*1] 梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、p. 191。

  [*2] 同上、p. 196。

  [*3] 『廻諍論』第二二詩節、梶山前掲書、pp. 138-139。
  
  [*4] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33

Posted by Libra at 2005年12月21日 02:22

三九郎さん、こんばんは。こちらこそ、よろしくおねがいします。

 拙文「対話主義と可謬主義」を読まれて、三九郎さんが「これや〜」とおも
われたとすれば、それはすべてポパーの議論の説得力によるのだろうとおもい
ます。

Posted by Libra at 2005年12月24日 23:53


Leo さん、こんばんは。

1.龍樹はアビダルマ論師たちのいう「自性」の意味を正確に理解していた

 わたしは (b) を読んでいませんので、 (b) の主張内容が龍樹の主張内容と
どのような関係にあるのかはわかりません。お気づきの点がありましたらぜひ
ご教示ください。

 わたし自身は「龍樹が批判対象を正確に理解していたかどうかまでは追跡し
ていません」が、わめさんが尊敬されている佐倉さんの追跡[*1]をわたしなり
に追いかけてみたかぎりでは、龍樹は批判対象を正確に理解していたといえる
ようにおもいます。佐倉さんは、『阿毘達磨大毘婆沙論』を追跡されて、以下
のように結論されていますが、わたしは、この佐倉さんの議論を支持します。

  ─────────────────────────────────
  アビダルマ論師たちによれば、存在を構成している諸々のダルマには必ず
  自性があり、〔中略〕自性は、原因もなく無条件的にダルマに存在し、未
  来・現在・過去を通して存在する恒常的かつ不変的な何かです。ここには、
  まさに、ナーガールジュナが批判する自性の恒常性、不変性、不滅性、自
  立自存性などの性質が明らかに認められます。

  (佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
    http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
  ─────────────────────────────────

 佐倉さんの議論にあらわれた『阿毘達磨大毘婆沙論』のポイントとなるであ
ろう文を以下に抜き出しておきます(和訳は佐倉さんのものをそのまま引用さ
せていただきます)。

  ─────────────────────────────────
  (ダルマが)自性を含むのは、時間と原因を待たずに含むこと意味してお
  り、それは究極の意味における「含む」ことである。「時間を待たずに」
  とは、諸々のダルマが、時には自性を持たないということがないことをい
  う。ダルマは一瞬たりとも自体(自性)を捨てないからである。「原因を
  待たずに」とは、諸々のダルマは原因なしに自性を含んでいることを言う。
  原因や条件を待たずに自体(自性)が有るからである。

  攝自性者。不待時因而有攝義。是究竟攝。不待時者。諸法無時不攝自性。
  以彼一切時不捨自體故。不待因者。諸法無因而攝自性。以不待因縁而有自
  體故。

  (『阿毘達磨大毘婆沙論』卷第五十九、大正蔵第27巻、p. 307a)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  問う。なぜ「諸々のダルマはそれぞれ自性を含む」と(アビダルマ経典に)
  書いてあるのか。答える。〔中略〕自性はそれ自身、過去に存在しないと
  いうことも、現在に存在しないということも、未来に存在しないというこ
  ともあり得ず、常に存在するのであるから、「(ダルマは)自性を含む」
  説いているのである。自性はそれ自身、増加もせず、減少もしないから、
  「(ダルマは)自性を含む」説いているのである。諸々のダルマが自性を
  含むというのは、〔中略〕(ダルマは)それぞれの自体(自性)を執持し、
  決して散壊させることがないので、「(ダルマは)自性を含む」と説いて
  いるのである。

  問云何諸法各攝自性。答〔中略〕自性於自性非不巳有非不今有非不當有故
  名爲攝。自性於自性非増非減故名爲攝。諸法自性攝自性時。然彼各各執持
  自體令不散壞故名爲攝。

  (『阿毘達磨大毘婆沙論』卷第五十九、大正蔵第27巻、p. 308a)
  ─────────────────────────────────


2.言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は説き示されない

 龍樹は「〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示され
ない」[*2]といっています。「言語慣習」というのは、「概念の体系」を前提
とするものだとおもいますので、龍樹も「概念の体系」に依拠して自らの思想
を語っています(あたりまえですが)。もっとも、龍樹の場合には、《「概念」
もまた自性Bを欠くものである》と考えていたでしょうから、「概念の体系」
は plastic であるという視点[*3]をもっていたのではないかとわたしは推測
しています。


3.ゆきつくところは同じか?

 龍樹のいっていることと釈尊のいっていることは同じであるとわたしは理解
しています。しかしながら、いまのわたしには、アビダルマ論師たちのいって
いることと釈尊のいっていることが同じだとはおもえません。

 田村先生は「諸経・諸宗の底に共通したものが流れており、ゆきつくところ
は同じだということはあくまで前提であって、検討した結果そうなったという
のではない。そこにこの考えかたの限界があり、事実また、経典や宗派の間に
根本的に相容れないものがおこり、対立をおこしている例もある。とすれば、
後者の考えかたを結局はとらざるをえないことになる。すなわち、これこそ深
い思想であり、シャカの真意であるとして討論し、ときに対決しあうしかない
ということである」[*4]といわれていますが、わたしもそのようにおもいます。


  [*1] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

  [*2] 龍樹『根本中論偈』第二四章第十偈、三枝充悳訳『中論(下)』
     〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 641。

  [*3] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33

  [*4] 最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/007.html

Posted by Libra at 2005年12月25日 01:32


くまりんさん、こんにちは。ご丁寧なコメントをありがとうございました。

 わたしの考えについて補足しておく必要があると感じた点につき、以下にコ
メントさせていただきます。

1.わたしの考えは最新の仏教学の批判には耐えていないのかもしれません

 わたしは、今現在、仏教を学問的に研究できる身分にはありません。仏教学
関係の資料も、現在はほとんど所持していません。わたしの現在の仏教学的知
識は、数年前のそれと比べて一歩も進歩しておらず、むしろ退歩しているだろ
うとおもいます。読者の方には、このことを念頭におかれたうえで、拙文を読
んでいただけたらとおもいます。

 アルブレヒト・デューラーは、「しかし、わたしよりも有能な者が真実を推
察し、その仕事の中でわたしの間違いを証明して、論破できるようにするため
に、わたしが学んだ僅かばかりのものを世に出そうと思います。ここにおいて、
自分がその真実の明らかにされるに至る手段になったということに、わたしは
喜びを感じます」[*1]といっていますが、わたしもこのような気持ちでいろい
ろと書いているのだとご理解ください。


2.初期経典に矛盾があるという仏教学者の説は「たわごと」か?

 「わたしはこのことを尊師からまのあたりに直接に聞いた。まのあたりうけ
たまわった。〔中略〕これが師の教えである」というようなことが初期経典と
いう形で現在に伝わっているとしても、「それらの文句を、(ひとつずつ)経
典にひき合せ、〔中略〕経典(の文句)にも合致〔中略〕しないときには」
「これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この修行僧の誤解したことで
ある」という「結論に到達すべき」である[*2]とわたしはおもっているわけで
す。初期経典を編集した人たちの〈典拠への参照〉が完璧だったとすると、初
期経典に矛盾はないということになるのでしょうが、わたしにはそうはおもえ
ません[*3]。初期経典の編集者が意図的にシャカの「ことば」に操作を加えた
などとはわたしもおもっていません。ただ、シャカの言葉を誤解した修行僧も
いただろうとおもうし、編集者の参照吟味も完璧ではなかっただろうとおもう
のです。


3.佐倉説と松本説

 わたしの「この佐倉さんの議論を支持します」という発言は、佐倉さんの
「第一章 自性論」に限定していったものだとご理解ください。この部分につ
いては松本説と矛盾しないとおもいます。

 1996年7月11日発表の佐倉さんの「序章」[*4]については、松本先生
の『縁起と空─如来蔵思想批判─』(大蔵出版、1989年)や小川先生の『大乗
仏教の根本思想』(法蔵館、1995年)に触れていない点を不思議におもいます。

 佐倉さんの「第二章」[*5]については、支持しない部分のほうが多いかもし
れません。たとえば、「有」と「無」についての解釈は、小川先生の解釈を支
持します。


  [*1] カール・R・ポパー『確定性の世界』(田島裕訳、信山社、1998年)
     の 88 ページから孫引き。

  [*2] 〈典拠への参照〉(『大パリニッバーナ経』)
     http://fallibilism.web.fc2.com/004.html

  [*3] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/239

  [*4] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 序章 方法論」
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku00.html

  [*5] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第二章 縁起論」
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html

Posted by Libra at 2005年12月25日 14:44


わめさん、こんにちは。

 「ダルマ」というのはいろんな意味でつかわれる言葉なので、わめさんが混
乱されるのも無理はないとおもいます。

 今の議論では、佐倉さんのように、「「もの」あるいは「事物」」[*]という
理解でよいのではないでしょうか。

  [*] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

Posted by Libra at 2005年12月25日 15:07


わめさん、こんばんは。

 《「現実のこの世界に自性あるものはない」と主張するのが仏教である》と
いうのがわたしの見解です。

 わめさんのご発言の後半部分(「ただ自性ということについて…」)は意味
がよくわかりませんでした。

 だいたい議論は尽きたとおもいますので、EnjoyLife系にこれまで投稿した
記事を書写のほうにそろそろ記録しなければいけないなと考えています(めん
どくさいけど)。

 では、よいお年を。

Posted by Libra at 2005年12月31日 00:02

2006.01.07

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